title 初期イスラーム時代のエジプトにおける土地所有...

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Title <論説>初期イスラーム時代のエジプトにおける土地所有 について Author(s) 森本, 公誠 Citation 史林 (1971), 54(1): 43-96 Issue Date 1971-01-01 URL https://doi.org/10.14989/shirin_54_43 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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  • Title 初期イスラーム時代のエジプトにおける土地所有について

    Author(s) 森本, 公誠

    Citation 史林 (1971), 54(1): 43-96

    Issue Date 1971-01-01

    URL https://doi.org/10.14989/shirin_54_43

    Right

    Type Journal Article

    Textversion publisher

    Kyoto University

  • 初期イスラーム時代のエジプトにおける

    土地所有について

    初期イスラーム隠代のエジプトにおける土地所有について(森本)

    【要約】 初期イスラーム史における土地制度が論じられる場合、それは概して地域や時代の変化を無視して、いわゆるイスラーム

    法学者のいう土地制度のことが志向されることが多い。実は「イスラームの土地制度」そのものも、イスラーム法における他の分

    野の法理論と同様、一つの歴史的な産物であって、そこに至るまでの過程が把握されなければ意味をなさない。しかもその過程は

    西アジアの諸地域で当然異なっていたはずである。それはアラブが、ササソ朝やビザソツのそれぞれ異なる土地制度をもつ支配地

    域を受け継いだからである。本稿ではこの点に留意しながら、地域をエジプトに限り、アラブ征服期からアッパース朝にかけての

    土地制度の展開を検討したい。                           史林五四巻一号 一九七【年一月

    は じ め に

     初期イスラーム時代、すなわち、イスラームの成立から

    アッバース朝国家が崩壊する一〇世紀半ばまでの西アジア

    の土地制度に関して、現在のところ、まだ本格的な研究が

    なされたといえるような状態にないようである。それは地

    域や時代の変化を無視したものであったり、いわゆるイス

    ラーム法上の土地制度論の段階をあまり出ていないもので

    あったり、また部分的に論じられたものにすぎなかったり

    して、そこに、系統的かつ体系的な土地制度論を見ようと

                    ①

    期待することはとうてい無理である。現在の研究段階がこ

    のような状態にあるわけは、一つには方法論上の問題と、

    また一つには資料上の制約とが原因しているといえるであ

    ろう。しかし後者でいえば、実際は我女の手にしている資

    43 (43)

  • 料も十分に生かされていないのが実状である、また前者に

    関連していえば、この時代の土地制度を論ずるに当たって

    の前提条件として、次のようなことが指摘されねばならな

    いであろう。

     その第一は、土地制度をアラブ当局側の観点から眺める

    ということである。周知のように一初期イスラームの大帝

    国はアラブームスリム軍の大征服によって成立したもので

    ある。しかもアラブは、最初土地に対する認識に乏しく、

    征服の過程や支配権の強化の過程において、問題の起こる

    たびごとに解決策を講じてきた。要するにアラブ当局は、

    土地に対して終始一貫した態度を取ってきたわけではなく、

    したがって固定的な土地所有形態といったものを予想して

    も意味をなさないということである。それよりもむしろ、

    アラブ当局が取ってきた政策のプμセスを把握することこ

    そ意味があるように思われる。

     第二は、ササソ朝なりビザソツなり、それぞれ異なった

    性格をもつイスラーム以前の土地制度を、アラブ当局はど

    のようにして継承し、あるいは継承しなかったか、あるい

    はまたいかなる形態に変容したかという点であって、これ

    には当然農民側の反応の仕方もあわせ考慮されねばならな

    い。 

    次に第三は、アラブ帝国内の地域差による土地制度の違

    いを、アラブ当局は統一化しようとする意図を持っていた

    かどうかという点である。これはさらに進めていえば、土

    地制度のどこまでを統一化し、どの部分を地方的特色とし

    て温存したかということである。実はこの点を考慮しなけ

    れば、いわゆる「イスラームの土地制度」なるものは導き

    出すことはできない。

     以上のような諸点を踏まえたうえでの土地制度史の研究

    ということで、本稿ではエジプトの場合をとりあげたい。

    それは、筆者が土地制度と不可分の関係にある当時のエジ

    プトの税制について、ここしばらく研究を続けてきたとい

    う事情にもよるが、むしろ資料の点で、エジプトが他の地

    域に較べて豊富であるというにすぎない。この点は、いま

    述べた第三の前提条件に関連して重要な示唆をもたらすも

    のと考えられるのである。なおこれから取りあげる問題の

    性質上、資料などの点について、筆者がこれまで発表して

    きた諸論と一部重複するところがあるが、論旨を明確にす

    44 (44 ))

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     さて、アラブームスリム軍の大征服からウマルニ世.(在

    位七 七-七二〇年)に至るまでの主要な土地問題として、

    全般的に一その実はイラークを中心とするものであるが

                           ②

    一いわれているところを綜合すると次のようになる。

     一、征服が始まった当初、アラブ戦士たちは、征服地の

      土地および農民を動産と同じように戦利品ファイとみ

      なして、その五分の四を彼らのあいだで分配したこと。

     二、ヒジュラ暦二〇年(六四〇)カリフーウマル一世(在位

      六三四一六四四年)が従来の方針を変更して、征服軍に

      よる土地の分配を中止し、土地は原住民の手にそのま

     まとどめて、その代わりにほぼ前代通りの租税を徴収

     し、その一部をアラブ戦士たちに支給するという政策

     を打ち出したこと。

    三、すでに分配されていた土地の回収は、ウマル一世自

     身によるものも考えられるが、実際的には、ウマイヤ

     朝のムアームイヤ}世(在位六六一一六八○年)による強

     力な回収があった。ただし、この圃臨地がカリフの私

     有地に組み入れられたのか、それとも国有地に入れら

     れたのかについては不明な点がある。

    四、第三と同様、第二のウマル一世の決定に関連するも.

     ので、原住民が租税を納めている土地1のちに「バ

     ラージュ地」と称される一のアラブームスリムによ

     る所有の禁止。

    五、やはリウマル一世の決定により、もとのササン朝の

     王領地や政府高官らの私有地、および征服のさい所有

     者が逃亡または死亡してしまった無主地を没収してサ

     ワ;フィー郭タ.91ゆを形成し、カリフはこの土地の一

     部をカティーアゆ㊤嘗、ρとして功臣などに譲渡したこと。

    六、ウマルニ世による国家的土地所有理論の成立で、こ

    46 (46)

  • 初期イスラーーム時代のエジプトにおける土地所有について(森本)

      れば改宗ムスリムの所有地に対する租税徴収を正当化

      しょうとするもの。ただし、この理論が完成するのは

      アッパ!ス朝になってからである。

     ここでまず考えられるのは、以上のような諸点が果たし

    てエジプトの場合にも当てはまるかどうかということであ

    る。そこでムスリム側の史書や被征服民のキリスト教徒側

    の史書などによってこれを検討してみると、エジプト征服

    はちょうどウマル一世の政策転換、すなわちヒジュラ暦二

               ③

    ○年前後に行なわれており、したがってまず第一の点では、

    征服軍のあいだに土地分配の要求はあったが、分配は認め

    られなかったことが伝えられている(督冨ヨ零鐸。。・、あ料、。。刈-

    ④。。

    B。)。事実、年代的にはもっとも近い史料で、しかも被征服

    民の側から書かれているヨハネスの年代記では、アラブ軍

    が動産を戦利品として分配したことは見えても、土地につ

                   ⑥

    いては語られていない(}Oげ口 目oo亦⊃、 一QQGQ)。

     要するにエジプトでは、第二点のウマル一世の政策転換

    以後の方針が当初から守られたわけで、原住民による土地

    保有そのものは、征服のさいに結ばれた征服軍とエジプト

                         ⑥

    の各共同体とのあいだの和約によって保証された。したが

    ワて当然.第三の概分配地の回収はエジプトでは問題にな

    っていない。アラブはもっぱらフスタートやアレクサンド

    リアのような軍事都市ヨ尻目に住み、農村地帯に住むこと

    はほとんどなかった。マムルーク朝時代の歴史家一、クリー

    ズィーはその著書のなかで、次のようなことを述べている。

    すなわちエジプト征服の当時、マホメヅトの教友だちや次

    の世代の人々はフスタートやアレクサンドリアに定住し、

    農村地帯帥7二野に住むことはほとんどなく、 エジプト全

    土の村々は南も北もコプト人やローマ人で満たされていた。

    エジプトの諸村にイスラーム教徒が広がるようになったの

    は、ヒジュラ暦一世紀後のことである(¢膏二H』畢・。8。

     これはアラブ当局による征服地の統治政策の一つ、すな

    わち、ムスリム戦士としてのアラブ遊牧民を軍事都市に集

    中居住させることによって政府の統制下に置くと同時に、

    彼らを原住罠から隔離し、原住民の安全を保障するという

     ⑦

    政策がエジプトでも強力に推進されたことを物語っている。

    事実アラブ戦士たちが農村地帯へ出かけることができるの

    は、春に軍馬を放牧するときだけであった。

     『エジ。フト征服史』を書いたイブン聾アブドゥルーーバカ

    47 (47)

  • ムはこのことをかなり詳しく伝えている。彼によると、征

    服軍の将軍で初代総督のアムル.》三目げ・巴㌧》。・はフスタ

    ートに居住しているアラブ軍に対し、春に農村地帯に出か

    けて軍馬を放牧し、夏近くなれば戻ってフスタートでまた

    生活することを許可した。そのさい、むろん原住民である

    コプト人とは紛争を起こさないよう命じた。それ以後春に

    なると、アラブの各部族に農村地帯へ出かけるよう通達が

    出された。彼らが出かけた主な下々はマヌーフ鼠ρ昌{、デ

    ィスパンディスU勝ぴp鵠α富(いずれもデルタ南部)、アフナー

    ス》げ裁ω(中エジプト)、 タハ一月菩帥(上エジプト)である

    という。そしてアラブの各部族が放牧に出かけた付近の町

    や村の名前を列記していて、それはほぼエジプト全土にわ

                       ⑧

    たっている(朝㊤冨ヨお?置ω”。h.督貯ρ二囲層ま。山曾)。

     ここに記されている部族名およ町村名に多少の異同の可

    能性はあろうが、毎春彼らが農村地帯へ放牧に出かけると

    いうことはかなり習慣化したものと思われる。イブソーア

    ブドゥルーバカムは「これらの諸部族のうち、時として春

    になっても農村地帯へ出かけないものもあったが、このよ

    うなことを知らないものは誰もなく、大部分の部族はすで

    に述べたような地方へ出かけた」と述べている。もっとも、

    この習慣が一体いつごろまで続いたかは不明で、なかには

    長く続かなかった部族もあるようである。

     こうして征服軍当局者によるアラブ軍の統制はかなりき

    びしいものであったが、イブソ畦アブドゥル睡バカムには、

    これと平行してウマル一世が、アラブ軍隊に対して農耕の

    禁止を命じたことが伝えられている。それは.諺びαと団ロ

    げ.頃自び㊤鴇ρ↓ゆ麟吋同げ㌧》臼門↓掴p団ミρげ・ω癖ρ団ザ↓

    H喜≦鋳び↓一》997罎9】騨び●鼠霧智欝餌の伝承系譜に

    よるもので、内容はカリフーウマルが伝令官に「軍隊の総

    督たちのところへ出かけて、総督が臣下に対し、彼らの俸

    給.ρ萄.は安定し、家族の現物給付H詳ρは滞ることなく

    支給されているから、農耕をしたり(    N9目ρ9)、農地を小

    作させたり(N碧ρ、ρ)しないよう命令するように」と命じ

    た、 というものである(綴生内p西目①・。…9偲冨叶HH層b。$)。、諺σα

    と賦げび●国賃げρ胃帥は伝承家で、生披年はヒジュラ暦四〇

        ⑨

    一一二六年、ゆρξげ㌧》薄目は生残年は不明だが、 カリ

    フーマソスール(在位七五四-七七五年)時代にフスタートの

              ⑩        く

    壬スクの導師をした人物。掴ρ層≦ρσ・ω貰ρ砧骨の残年は一

    48 (48)

  • 初期イスラーム時代のエジプトにおける土地所有について(森本)

               ⑪

    五八年遅、有名な法理論家。目げ月華跨ぴは有名な学者で伝

                     ⑫

    承家、生残年は一二五…一九七年である。この伝承系譜に

    はさほど問題はないように思われる。

     この伝承にも現われているように、ウマル一世が創設し

    たディーワーソ制度の主旨からいっても、アラブの農地へ

    の定着化の禁止は当然の結果で、それは単に農耕の禁止に

    とどまらず、小作させることを目的とした農地所有の禁止

             ⑬

    をも含むものであった。この点はさきに掲げた第四の事項

    にまったく一致する。しかもこの禁止は、他の地域ではか

    なり早くから破られたようであるが、エジプトでは割合忠

    実に守られたらしく、このことはあとで述べるパピルス文

    書などによっても判明するのである。

     そこで、アラブによる土地所有の問題とも関連する第五

    のサワーフィーの形成についてであるが、 この点U陰ρ

    ∪①旨①ヰは、ビザソツ時代の帝領地や税吏不入の私領地は、

    ウマル一世がイラークについて行なったと同じように没収

    され、のち封土はこの土地から与えられた、と述べている

    (七三頁)。しかし彼はこれについてなんらの根拠も示してお

    らず、ただρ口璽切。鼻茸の行なった類推をそのまま錯襲

    珍しているにすぎない。実は史書によるかぎり、これらの土

     地を没収してサワーフィーとしたという資料は見当らない

        ⑭

     のである。それならば、前代の帝領地や貴族の私領地はど

     うなったか、という疑問が起こるが、これについては別の

     面からの考察を要する。

      ムスリム史料では、エジプトにおけるサワー7イー形成

     の事実は見当らないが、カリフが功臣に土地を《イクター

     したpρ冨ゴ》という記事はきわめてわずかながら存在する。

     たとえば、ウマル一世はHσ口ω伊昌創巴という老に一〇〇〇

     フェッダーソの土地をイクターし、ウマル一世としては、

     このHσPGQρ⇔α巴以外の誰にも、エジプトの土地をイクタ

     一しなかったとされている。なおこの土地は、 のちHげ昌

     ω窪α鉱の相続人たちから総督.》げα巴㌧諺§Nぴ。鼠胃芝箇臥

                              ⑮

     (在位六八五1七〇五年)の息子のρブ雰σ轟が買ったという。

     しかもこのことを伝えているイブソ朋アブドゥル翻バカム

     は「エジプトにはこれより古く、またきわだったρρ篭ρは

     ない」という重要な言葉をつけ加えている(綴ρ冨ヨおご。h・

     輯凶冨暦H魑り①)。

      また総督.dρげρぴ■.〉導導(在位六六五一六六七年)がム

    49 (49)

  • アーウィや一世に約五六フェッダーソ相当の土地の譲渡を

    求めたところ、カリフはこれを許したという伝承がある

                 ⑯

    (朝ゆ冨ヨ。。?。。ρ。囲・偲冨二刀卜。o。。b逡)。 もっとも、 ここでいう

    「譲渡」にはρρqρの派生語は用いられていない。 いず

    れにせよ、このように土地の一部を譲渡するというのは、

    エジプトの場合きわめて特殊な例であったようで、やはり

    イブソ阻アブドゥルー-バカムには次のような話も伝わって

    いる。

      ムア…ウィや一世が〔息子の〕ヤズィード畷ρ臥鳥(のちのウ

      マイや朝第二代カリフ)に即甲司毛蚕日の村々のうちの{村を

      譲渡した(8冨.ρ)ところ、人々はこれを重くみて論議した。

      このことがムアーウィヤの耳に入ると、彼は人々の言葉に嫌

      気をさして、この村を巴-σ鷲卿ひ謡に戻し、ムスリム〔全体〕

      に属するもののごとくにした(頃餌一内ρ5口 HOH)。

    《巴む舘轟に戻す》というのは、のちに「ハラージュ地」

    という概念ができるが、そのハラージュ地に組み入,れられ

    たということで、ムスリム全体、すなわち国家の所有に返

    されたわけである。ファイユーム地方は、エジプトではも

    っとも早く征服された地域で、ムアーウィや一世が譲渡し

    ようとした土地は、もともとカリフの自由にできないアラ

    ブームスリムのための国有地であったものと思われる。

     こうした事例からしても、エジプトでは農地のカティー

    アー都市における居住区としてのカティーアは多く存在

    する一はきわめてまれであることは明らかであり、した

    .がって、原住民からの購買によるにしろ、カティーアによ

    るにしろ、土地所有者としてのアラブの存在は、無視して

    差しつかえない。すると、少なくともムスリム史料による

    かぎり、エジプトの土地のほとんど全土は、さきほどの第

    二点の通りに、原住民にそのまま保有することを許し、ア

    ラブ政府は彼らから租税を徴収することで満足したことに

    なる。

     それでは、この原住民にそのまま保有することを認めた

    土地というのは、いかなる形態のもとに置かれていたであ

    ろうか。次に検討を要する問題である。幸いこの点につい

    てきわめて重要な示唆を与えてくれる伝承がイブソーアブ

    ドゥル“バカムに記載されている(綴巴幽pヨ戸総占曾9¢鐸騨廿

    .H渇刈)。それは征服事業が一段落したとき、総督のアムルは、

    50 (50)

  • 初期イスラーム時代のエジプトにおける土地所有について(森本)

    コプト人たちがビザソツの徴税方式にしたがって自主的に

    徴収することを認めたとして、その徴税法を説明しており、

    征服期の税制を知るうえで貴重な資料となったものである。

    この伝承については、別稿ですでに詳しく紹介したことが

       ⑰

    あるので、ここでは土地所有に関連する部分のみを概略的

    に記すことにする。

    ω 各村の負損すべき納税額について、村長・書記・村民代表

     者からなる村会議と、村の上級官庁である県の担当者と諸村

     の代表者とからなる合同会議とによって、各村の割当額が決

     まると、村当局はこの割当額と、村民および耕地に現金税と

     して法的に課せられる村の税額とが一致するよう調整し、こ

     の額を細分して、各村民に負担させる。

    ② ただし土地のうち、教会・公衆浴場・舟の費用に充てられ

     ている土地は、非課税地として除外し、その地積数(単位

     貯&壁)を総面積数より差し引く。またムスリム軍の款待・

     政府役人の滞在費のための土地もその面積を差し引く。

    ③ 村内の非農民にそれぞれの負担能力に応じて割り当てたの

     ち、残額の現金税を地積数に応じて畏民に割り当てる。ただ

     し割当は耕作能力に応じて耕作希望老に対して行なわれる。

    ω 耕作する能力のない者の土地は、その人に代わって、その

     割当税額を負担する能力があり、またそうした割当の増加を

    希望する者に割り当てる、もし苦情が出れば、その希望者の

    人数に応じて割り当てる。その方法は、 一ディナールニ四

    ゆ躍鐸の割りで土地を分割し、税額を割り当てる。

     この伝承の内容からすれば、土地の所有について二つの

    解釈が可能である。すなわちその第一は、土地は村落共同

    体の共有地であり、その内部は農民が占有権を持っている

    土地と、教会や公衆浴場・政府役人の接待費等、いわば公

    費を捻出するための公有地とに分けられる、とする場合で

    ある。村落共同体の共有地という概念が出てくるのは、単

    に村落共同体の存在そのものによってではなく、納税責任

    を共同体が全体として負うという点から出てくる。したが

    って自己の占有地を耕作する能力がなく、割当税額を負担

    できない農民は、共同体から占有権を奪われ、他の希望者

    に与えられるわけである。

     第二の解釈は、教会・公衆浴場等のための公有地、もし

    くは村有地を除いて、土地の大部分は農民の保有地である

    とする場合である。そこでは当然農民による保有地面積の

    違いが存在する。土地を保有していても、これを耕作し、

    その税を負担する能力のない者については、村落共同体が、

    51 (51)

  • 同時に納税共同体として、行政上の責任においてその老の

    土地の耕作権を他の希望者に割り当て管理する。この二つ

    の解釈のうち、.いずれがより妥当であるかは、この資料で

    は、農民の占有もしくは耕作権の世襲の問題が明らかでな

    いので、判定できない。しかしいずれにしても、村落共同

    体という枠組が、農民にとってかなり支配的であったこと

    は間違いないところである。

     ところで、当面の土地所有問題に限らず、他の分野につ

    いても、ムスリム史料の不足を補う一連の資料が存在する。

    エジプトで大量に発見されたパピルス文書がそれで、とり

    わけ、現在のアッスユートの南にあったアフロディト》マ

    鐸。α詳○(丙αヨ譲ρp≦)からの文書は我々に鮮明なイメージ

    を与える。このアフロディト文書の大半は、時代的にはや

    や下ってウマイや朝中期に属し、言語の上ではギリシア語、

    アラビア語、コプト語の各文書があるが、数量的にはギリ

    シア語文書が圧倒的に多い。いま我女が取りあげている村

    落共同体内の土地保有関係では、し蒜、ミ叡nと呼ばれる村

    の現金税割当査定簿がもっとも参考になる。第-表と第H

    表はそのサンプルとして選んだものである。この帳簿は最

    小の町税区を形成する村落8e烹ミごとに、村長需《ミ

    や村の有力者塁ミ頴§℃たちが合議で選出した}名ない

    し数名の査定人戸ミ款さ需き。によって作成される(。h・勺・

    冒・色』。同・。㎝①)。そして冒頭にはこの査定人の名前が記され

    る。査定人は全納税者の名前を記載し、富裕度に順じて各

    税種ごとに割り当てるわけである。

     第-表・第豆表ともこの割当査定簿の原文よりやや簡略

    にし、しかも当面必要な前半部分のみ表記した。第-表

    (℃■H、O昌畠■冨。 国劇㈹O層 卜 Hlり00)はアフロディト市の東方にあって、

    市のいわば衛星をなす「第五区」自首難論の勲&8と呼ば

                         ⑱

    れる小村のもので、その年度は第三言象。怠8年(七〇四/

    〇五年ーヒジュラ暦八五/八六年)、帳簿の作成された日付は

    第五貯象。誌。⇒年℃p《当月二四日(七〇六年六月一八日1ーヒ

    ジュラ暦八七年㌶賢σ月一日)である。第五表(勺・冒巳』。

    同§)はアフロディト市の西方にある「第三区」『、鶏n二二

    勲章8小村のもので、その年度は第一=昌象。試。5年(七〇

    三/〇四年ーヒジュラ暦八四/八五年)、帳簿作成日付は第三

    貯巳。註O⇔年℃げ騨日魯○昏月三日(七〇五年二月二七日ーヒジ

                   ⑲

    エラ麻搬入六年噸欝{ρ属門月二七日V で・あ〃勾。

    52 (52)

  • 初期イスラーム時代のエジプトにおける土地所有について(森本)

     第-表・下山表とも書式はほぼ同じである。第一欄は納

    税者名で、第二欄の地所名というのは、各納税者が所有し

    ている土地の所在場所を示しており、納税者によってはそ

    れが一ヵ所だけであったり、数ヵ所に及んでいたりする。

    これらの土地はさきりまたは§勲電(鳳①o①o』野巳)と

    呼ばれる。二重罫線の右欄は、各納税者の所有地にかかる

    土地税と納税老本人にかかる人頭税、それに第豆表であれ

    ば付加税としての官吏維持費がそれぞれ記され、次にそれ

    らの合計が現金税として記入される。単位はω○一気霧(金

    貨)である。最後の欄は所有地にかかる現物の穀物租(小

    麦)が鴛9σ9の単位で記されている。複数の地所を所有

    している者の場合には、各地所ごとの土地税と穀物租が内

    訳として記入される。二重罫線の左欄の数字がそれである。

    いまここで、 《これらの地所を所有している》と述べたが、

    そのようなことがこの割当査定簿に書かれているわけでは

    ない。ただ別の文書(℃噛い。邑.”。ドωω。。しG。ωり)に、この割当査

    定簿のもとになる村落登録簿哲良誌慧良§℃の作成に関連

    し、その記載事項の一つとして、 「各人が土地において所

    有しているもの」というのが指示されており、それで土地

    が、一般的に農民によって保有されていたことがわかるの

    である。なおこれらの地所について、たとえば第五区の最

    初のしd①巨ハ碧というのは、自9霧諺℃9δωがそのすべて

    を所有しているわけではなく、一部だけで、他に切。一Φ障窪

    の別の一部を所有している老もいるわけである。

     さて、第-表の第五区では、列記されている納税者のう

    ち誰が村長であるのか、明確ではないが、愚筆表の第三区

    では、コプト語を含む他の文書(d‘ 旧UO昌α. 昌。 同A㊤膳噛 Hゆ臨月噛  ゆ守り)

    によって、二番目の諺℃ρ閑胃。。。ω曽ヨ煽紐が村長であるこ

    とがわかる。また同じく他の文書によって、第-表81頁の

    下から二入目℃≦9Φ。・げOρ日巳(勺・零巳』。一㎝・。一L績・。)、同学

    82ナの下から十人目の℃ωρ。げ。℃鉢負ヨ簿甑。。。(℃・い。・伽』。

    §・。)は村の有力者または村吏であることが判明する。これ

    らの人物は所有している地所数も、そこに課せられている

    土地税も比較的多いところがら、彼らが村の有力者だった

    ことは十分にうなずかれるのである。このような有力老が

    所有している地所についてさらに詳しく見ていくと地所名

    のあとに人物名が記されている場合がある。たとえば第一

    表の霞。旨。国歌○ω○白δも鐸δωはそうした地所を多く所有

    53 (53)

  • しているが、これはその人物が何らかの理由で村に不在し

    ているかあるいは彼の保護下に入ったために、そうした人

    物に代わって土地の占有権を保持し、納税していることを

    示している。名前が記されている限り、保有権は不在者ま

    たは被護者のために保留されていたのであろうが、年月が

    経つと、嶺然占有する有力者に移管されたものと思われる。

     土地税は文字通り土地にかかるので、その保有者は老若

    男女にかかわりなく、女性や未成年者でも納税者として登

    録される。 「某女の妻」とあるのは、亡夫に代わって、そ

    の妻が納税者となった場合である。戸主が死んで子供たち

    が共同で農地を相続した場合は、その子供たち全体で納税

    責任を負う。またそのような兄弟のうちの一人が代表者と

    なる場合もある。例としてあげた第-表・第H表では見え

    ないが、割当査定簿の納税者の項には、時折「某々の共同

              ㊧

    保有老たち」曵竜ミミ§℃というのが現われる。これは、

    彼らがいずれも人頭税を支払っていない点からすると、お

    そらく零細な農民が集まって、一定の分担割合のもとに共

    同耕作し、そのうちの一人が納税代表者になっているので

    あろう。なかには、人名でなく共同耕作している地所の名

    称で登記されている場合がある(挿冒巳』。ド爵ρN・8F毬伊

    ・。

    �?)。しかし、こうした共同保有者は村の農民全体からす

    れば、きわめてわずかしかいない。

     農民の保有地の世襲については、年代の異なる割当査定

    簿を比較対校すれば明確となる。器皿表がその一例で、こ

    れは第三ぎ黛。註ob年度(七〇四/〇五年目の第五区の割当

    査定簿である℃・い。昌臼⇒。置b。Oと第一一ぎa。鉱○ロ年

    度(七=一/一三年)の同じ第五区の割当査定簿である℃●

    U9益・嶺。H合腿とを対校したものである。もっとも⇔。謀漣

    の文書の保存状態が悪いので、両文書の納税者名と地所名

    の確認できるもののみ列記した。これによると、七〇四年

    から七一二年の八年閾に、変化なく同じ人物が同じ地所を

    耕やしている場合もあれば、世代が変わった場合もある。

    世襲のケースとしては、妻に相続された場合(上から一人目

    と下から二人目)と息子やその兄弟たちに相続された場合

    (上から四人目)、あるいは兄から弟に相続された場合(下か

    ら一人目)がある。また箆皿表以外の例をあげると、第H表

    一四人目の「国払○○げ靖国げの妻と他」とあるのは、戸主の

    国8。買℃嘗σが死んで、その妻と子供たちが納税者になつ

    54 (54)

  • 初期イスラーム時代のエジプトにおける土地所有について(森本)

    たのであるが、℃・U8阜昌。置NbΩN’ω刈によると、四年後

    には戸主の子の}○げ麟謹δのと}oげが納税者になっている。

    これらの事例からすれば、農民の保有地世襲権は確立して

    いたと見て差しつかえないであろう。

     さて、これらの割当査定簿では農民の保有する土地が一

    体どれほどの面積を有するのか明確でないが、実は帳簿の

    うちには面積数を記載しているものがある。第W表はその

    一例で、場所は第二区村、年代は第一一コ象。怠8年度(七

    一三一/三三年ーヒジュラ暦=四/一五年)である。したがっ

    て年代的にはやや下がる。この税務簿の第三欄左側の単位

    鍵。霞9で記されている数字が、各納税者の所有している

    地積数である。しかし、この帳簿では地所名が記載されて

    いないので、こ分ままでは比較にならないが、割当査定簿

    のなかに、第W表に現われる納税者と同一の人物がいない

    かどうか探すと、台帳番号Bの目げ①o侮○臨。ω℃臣δ普①oωが

    ℃●Uo昌α.昌。置b。ρ卜卜。αOに出てくる。 地所名は》σσ僧

    ℃高覧貯で左記のようになっている。

    感嘆〉畷訟館遷.〕

    両者のあいだには、土地税と穀物租とにごくわずかの変化

    が認められるだけなので、第W表に原則的に見られる単位

    面積当りの税額は℃.巨。庭竃⇒。ぱb。Oの割当査定簿でも変

    りないものと思われる。すると、たとえば土地五一ωo-

    洋ご。。を支払っている納税者はほぼ四霧。口舜の土地を所

    有していることになる。いずれにしても農民の保有面積は

    それほど大きなものではない。村落共同体内の農民は村長

    や一部の有力者を除けば、概して自作農としての小土地所

    有者であったと考えられる。

     これらの小土地所有者としての農民が相互にいかなる組

    織を持っていたかを知るには、第一五紗象○江○⇔年度(七

    一六/一七年1ーヒジュラ暦九七/九八年) のアフロディト全県

    の納税簿勺・ピ。匿・⇒。H葭⑩が参考になる。この帳簿は

    保存状態がやや悪いが、干魚百行に及ぶ長大なもので、第

    V表はその内容例として抜甘したものである。この帳簿で

    は、割当査定簿の場合と異なり、納税者名のあとに書かれ

    ている地所名は、すべてその納税者の保有地であるという

    わけではない。たとえば一山○び国80げの場合、土地はそ

    れぞれ右の欄に書かれている人物の保有地であって、した

    55 (55)

  • がって税も保有者自身が支払う。要するに農民たちは、相

    互に納税責任を連学的に負う小さなグループを構成してお

    り、幅跳。げ国ロ。。ザはそのグループの代表者にすぎない。

    またこうした納税代表者は第V表の後半の℃竜⇔暮旺。ωと

    日げΦoやぼ冨の場合のように、保有者のいなくなった土地を

    も管理する義務を負わされていた。

     以上村落共同体内における農民の土地保有情況を検討し

    てきたが、結論的に言えば、少なくとも征服期からウマイ

    や朝中期までは、このような村落共同体がかなり安定した

    社会的基本単位をなしていたと見なすことができる。もっ

    とも、イブソ日アブドゥル“バカムに伝えられた資料に見

    える征服期の村落共三体とウマイや朝中期の村落共同体と

    がまったく岡じ構造を有していたかどうかについては疑問

    が残る。たとえば、イブソ劉アブドゥル釧バカムに見えて

    いた村の公有地、すなわち利益を教会・政府役人接待費等

    の公費に充てる土地の存在、あるいはその共同耕作のよう

    な例は、ウマイや朝中期のパピルス文書では見当らない。

    また征服期における村落内での共同体的規制、その実は村

    の支配者層による強制であろうが、そうした規制もウマイ

    や朝中期に至るまでかなり.の変容を蒙ったものと推測され

    る。すなわち、総督ρ貫毒σ●ω霞欝(在位七〇九1七一四

    年)からアフロディト県の長官切9ωま。ωへの書簡のうちに

    は、村民に対する村長の圧制をその村民が総督に訴え、総督

    がその事件を究明するよう県の長官に指示しているものが

                ⑳

    ある(℃oQ園昌。 回一旧℃跨司μo 昏σ)。これはコプト農民がやはり

    コプト人の県の長官を飛び越えて、直接アラブ当局に訴願

    でき、それによって村当局の宿守が押さえられたことを意

    味する。このような訴願がどこまで制度化されていたかは

    不明であるが、アラブ当局による権力の浸透の一端として、

    従来のコプト人の村落共同体のあり方に何らかの変化が起

    こったであろうことは想定できる。

     しかしいずれにせよ、さきの割当査定簿に見られるよう

    に、地主としてであれ、耕作者としてであれ、村落にはア

    ラブ人はまったく存在せず、村落共同体が、ウマイや朝中

    期においてもなおコプト人、それも未改宗のキリスト教徒

    のみで占められていたことは、改めて注目しておかねばな

    56 (56)

  • 初期イスラーム隠代のエジプトにおける土地所有について(森本)

    らない。

     エジプト征服当初におけるアラブ中央政府の統治方針、

    すなわち、土地は原住農民にそのまま保有させ、アラブに

    は征服軍の戦士として、原住民から収納した租税を一ρ笹、

    (現金給与)とほNρ(現物給与)の形で与えるという原則

    は、少くともρ舞影げ9ω抱扇園の時代までは一貫して守ら

    れており、そのことはまた.ハピルス文書によって証明でき

    る。すなわち、総督ρ霞雷から切霧導。ωへ画せられたギ

    リシア語とアラビア藷による納税督促状や納税命令書には、

    現金道警醸ρ(曾葛q§)の二面が、アラブ軍隊碧邑であ

           ⑫

    るムハージルーソ(ミeミ§へ§”日島轟マO昌の鞭虫)やその家

    族の.ρ翁、(ハ   へ℃ミ袋)のためであり、穀物租仁ρ二びp(伽\も。ミ)

    は同じく彼らの下民ρ(魯こへ薮三H尽ρの音義)のためである

    ことが、再三にわたって強調されているのである(湧局旨。

    ご〉℃国い旨。置。。…》諺喝p。目O…男。巨89ロ。おω伊HO。お.一軍8Hωり距

    註O介置8…9やUoロ阜昌。竃ωω噛=し。僑)。

     ところでエジプトは、いままで述べてきたような農民に

    よる小保有地ばかりで占められていたわけではない。ビザ

    ンツ時代末期には、教会領・修道院領も含めて、各種の私「

    傾地が存在していたが、被征服民の側から書かれた文献と

    して貴重な『セベルスの教会史』によると、そうした前代

    の教会領や修道院領は、アラブ時代になってもそのまま存

    続したことがわかる(ωP毛一「口ω層 勺○. <. ①隔 幽Qo一劇り層 α一・ αQo)。 ただ

    修道院領はともかく、教会領はアラブ当局との最初の約束

                      ⑳

    にもかかわらず、土地税を徴収されている。こうした教会

    領や修道院領の存在はパピルス文書によっても確かめるこ

    とができる。第M表がそれで、これは第V表と同じ第一五

    言象。鉱。昌年度(七一六/ヒジ・ニフ暦九八年)の納税簿勺.ぴ。昌α●

    昌。H無①からの抜葦である。この納税簿は納税老名がアル

    ファベット順に配列されているわけであるが、教会伽、駐や

    心ミ袋はその語頭の①彫二8の項に列記されている。教会

    所有地の地所名は記載されている場合とそうでない場合と

    があるが、いずれにせよその教会の司祭もしくは執事が責

    任者となって税を納める。また地所がいくつかに分かれて

    いる教会では、司祭その他陶その保有権を持つ者がいた。

    たとえば聖一〇}零歳おω教会の場合がそうである。

     第W表の下の二つは修道院で、 やはり修道院装ミ良暑§

    もへ建のヨ旨の項に列記されている。修道院は税法上二つ

    57 (57)

  • の種類に分けられ、教会と同じように正規の税を納めるも

    のと、免税されているものとがあった。なぜそのように分

    類されているのか理由は不明である。数の上では正規税を

    免除されている修道院の方がはるかに多い。次の第二表は

    免除されでいる方のリストで、やはり同じ納税簿からの抜

    葦である。ちょうどこのころ、ウマイや朝中期ごろより、

    アラブ当局による税務行政の強化が次第に進行し、これま

    で免税特権を得ていた修道院でも、納税義務を負わされる

    ようになった。歴史的にはこのあとすぐにウマルニ世によ

    って、教会領・修道院領の土地税免除の勅令が出されたが、

    二年後カリフーヤズィードニ世(在位七二〇…七二四年)はウ

    マルの勅令を廃止している(oワ烈日く一同口ω” ℃○℃ ~」 刈一1“悼)。

     この第W表を見ると、修道院領はきわめて特殊な所有関

    係にあったことがわかる。最初の聖蜜鴛貯修道院では、

    七ヵ所の地所を所有し、そのうちの℃βげ℃島9の二分の

    一は修道院長田βωが責任者となって耕作・納税し、その

    地所の残りの二分の一は、二人の一般人がそれぞれ全体の

    四分の一ずつを小作・納税していたことが示されている。

    ここに書かれている洗張屋や建築屋、金物屋が何を意味す

    るか明確でない。修道院長としては他に剛Φδ○ざという地

    所も保有している。納税者が空欄の場合は、恐らく修道院

    自体が、要するに修道僧たちが共岡で耕作・納税するので

    あろう。あとの男ω鈴℃げ巴器ωゲ○○ρ男同⑩巳3ωはそれぞれ

    一般人が、修道院との小作契約によって保有している土地

    と思われる。正規税が免税であったのは、収益が修道院の

    維持に充てられるためである。このように修道院の土地が、

    修道院自体の保有する土地と、一般人との何らかの契約に

    よる借地とに分かれていたことは、三番目の日鴛8修道

    院の場合に一蓋明らかとなる。すなわちこの修道院では所

    有地は一般人の入植による永代借地契約①8娼ξ審盛δの

    土地と、修道院長が責任者となって管理する土地とからな

    っていたわけである。

     次に征服のさい、地主が逃亡、もしくは死亡したことに

    よって無主地となった土地について検討することにする。

    ヨハネスの年代記によると、征服戦争のあいだに多くの高

    官たちが逃亡したことが伝えられており(匂。ぎ同。。㌣。。bっL。。膳)、

    当然彼らの土地も放棄されたものと思われる。無主地とな

    った理由は明確でないが、伺じく第一五言詮。訟8年度の

    58 (58)

  • 初期イスラーム時代のエジプトにおける土地所有について(森本)

    納税簿℃・ピ。ロ9麟。ドa㊤に「無主地ρα①。。℃9二野①ヨ霧騨」

    という項目がある。第二表はその一部を抽出したものであ

    る。この表からすれば、無主地は恐らく国家に没収されて

    国有地、すなわちイスラーム共同体全体の土地となり、そ

    れが希望者に貸借されたものと思われる。したがってその

    土地税は、借地人が支払うわけである。

     ところでビザソツ時代に多くいた大土地所有者の私領地

    は、村落共同体の土地がほとんどそのまま保有を認められ

    たことからしても、すべて無主地または没収地となったと

    は考えられない。上エジプトの8げ①び鉱α州の州知事や中

    エジプトの》容9仙富州の州知事、あるいは県の長官など

    の高官の地位が、ウマイや朝の末近くまでロ;マ人やコプ

                   ⑳

    ト人に与えられている点からすれば、彼らの私領地も恐ら

    くそのまま保有することを認められていたと見なされる。

    アフロディト文書でこのことを確かめるのはきわめて困難

    であるが、アフロディトからまだ南の、現在のエドブから出

    土したパピルス文書では、大土地所有者としての轄爵。鳶ハ

    の言葉が見える。勺O》》⇔。『①の文書がそれで、これは

    各納税者の入頭税の課税率を記したものであるが、一般の

                  ⑳

    農民が主として六分半一の人頭率を登録されているのに、

    大地主のGQ福部貯げ○ω〉思冨8び三〇ωとその兄弟はそれぞれ六

    倍の一に登録されている。また℃○〉〉罷。戯bQによると、

    この地方、 すなわち}℃9δロ。ω≧δ県の長官℃ρ℃霧は

    私領地の地主で、農民をも所有していた形跡がある。した

    がって少なくとも上エジプトには、まだこうした大土地所

    有者が存在したことは確かである。

     アフロディト文書でも、 アラビア語の私領地仙3、ゴに

    相当するギリシア語。ξ§は各所に散見される。§ミ良は

    そのままアラビア語の≦霧蔓ρ(複数形効≦餌忽) に転乱さ

    れて、セベルスの教会史などでは、教会領を示す意味で用い

    られている。アフロディト文書でもっとも多く出る。ミ§

    は、第V表にも現われる「》ぴσρω負暮。ωの私領地」で、

    これは名前から類推して、もとは修道院の私領地か、そ

    れともも大主教の私領地かと推定される。 しかし、諺σぴ㊤

    ω盲動。ωはこの℃.い9益・口。ド蔭ゆの帳簿のどこにも納税

    代表者として登場しないので、当時では四散してしまった

    ものと懸われる。

     アフロディト文書で、高官の大土地所有に近い毛のを探

    59 (59)

  • すとすれば、県の官吏》づ時①霧の場合であろう。彼は同

    じく第一五置象○ぼ。口年度の納税簿にたびたび登場し(第

    芸表下から三行目参照)、各地に土地を保有していたことが

    わかる。そこで彼に関連する部分のみを綜合すると第双星

    のようになる。これほどの人物であれば、当然納税代表者

    のなかに名前が載るはずであるが、この文書による限り見

    当たらない。文書の保存状態が悪い点も考慮しておかねば

    ならないが、》野薄①霧がアフロディト県以外の他県の官吏

    である可能性もある。ただし、彼の支払う税額からすれば、

    諺昌αお霧は大土地所有者というほどのことはなく、小さな

    土地を各地に保有していたにすぎない。

     以上ウマイや朝中期までのエジプトにおける土地保有形

    態をまとめてみると、土地の大部分は村落共同体を基盤に

    置くコプト農民の保有地からなり、これ以外には教会領や

    修道院領、それにわずかな私領地がビザソツ時代から引き

    続き存在したということになる。

     ところがヒジュラ暦一〇〇年(七一八年)ウマル工世の勅

    令以後、ウマイや朝当局の統治政策の転換から、従来の土

    地保有形態も、アッパ、ース朝初期に至るまでに大きく変容

    を蒙むることになった。これは、アラブ帝国の持つ内的矛

    盾がウマイや朝中期に至ってようやく表面化し、アラブに

    よる異民族支配という、これまでの統治原理をそのままの

    形で続行することが、もはや不可能となったことに端を発

    している。この矛盾がもっとも尖鋭化したのは税務行政で、

    それは従来の支配体制が、原住民の大量改宗やイスラーム

    教徒による土地購買を何ら予定していなかったからである。

    この問題は帝国全般に起こっていたにもかかわらず、最初

    その解決策はそれぞれの地方の総督の手腕に委ねられてい

    たために、混乱は深まるばかりであった。ウマルニ世はこ

    うした状態を解決するために、税制と土地制度の基礎とな

    る新しい概念、すなわち、征服地は神がムスリム全体、言

    いかえれば国家に与えた戦利品フ’,イであるという理論を

       ⑳

    導入した。

     もっとも、ウマルニ世がこの理論をもとに打ち出した政

    策は、新改宗者からの土地没収とファイに属する耕地の売

    買の禁止というきわめて観念的なものであったので、完全

    60 (60)

  • 初期イスラーーム時代のエジプトにおける土地所有について(森本)

    に失敗に終り、次のカリフーヤズィードニ世はこれを廃棄

              ㊧

    して旧に復してしまった。しかしウマル工事のフ一・イ理論

    そのものは損われることなく、その後カリフーヒシャーム

    (在位七二四一七四三年)の全般的な税制改革を経て、アッパ

    ース朝初期に国家的土地所有の理論となって完成するので

     ⑳

    ある。それは、地主としての国家に対して、小作料に当た

    る租税を支払いさえずればよいということで、イスラーム

    教徒による土地所有の公的承認への道を開くものであった。

    この問の推移は、実際の税務行政のうえでも、程度の差こ

    そあれ全国的規模で進行しており、エジプトもその例外で

    はなかったが、この点についてはすでに別稿で論じたので、

    ここでは土地所有に関連する部分のみ触れておきたい。

     ウマイや朝中期からアヅバース朝初期にかけての一連の

    税制改革のあいだに起こった注目すべき事柄は、戸口や地

    積などの税務調査や州知事などの地方高官のアラブ化を通

    じての、アラブ当局による権力の内的浸透と、エジプト農

    村地帯へのアラブ人の入植である。とりわけ後者は、従来

    のコプト村落共同体を基盤とするエジプトの農村社会を根

    底から硬さぶるものであった。アラブ入の入植のきっか耐

    となったのは、カリフーヒシャームの指令を受けて、エジ

    プトの税糊改革に精力的に当たってきた税務長宮.ごσ麸自

    ≧冨プσ・僧7楓ρび冨びによるカイスρ越。。族の招致であ

    る。キソディーやイブン聾アブドゥルーバカムによると、

    、dぴρ旨巴里げはヒジュラ暦一〇九年(七二七年)、カリフー

    ヒシャームに進言し、カイス族をデルタ地帯東部しd臨び曙ω

    付近に入植させ、彼らのアラブームスリムとしての登録を

                             ⑳

    エジプトの島名簿に振り替えた。その数三、○○○人で、

    賭㊤撃》白貫鵠勲ぞ鯛虹詳の巳ρ《ヨの各支族から一〇〇戸

    ずつ、計四〇〇戸を入植させ、農耕を命じ、十分の一税

    ゴ警としての郭αρρ㊤を課した。また彼らはこの農耕のほ

    か、穀物をρ7ρ巳NB(スエズ)に輸送する仕事をして非

    常な利益を得た。カイス族はその後新たな入植も加えて増

    加を続け、やがてヒシャームが死んだとき(七四三年)にせ

    一、五〇〇戸、ウマイや朝最後のカリフーマルワーソニ世

    が死んだとき(七五〇年)には三、○○○戸がゆ=び越ωにい

    たという(H(頚紙同一 ↓⑰1刈刈… 口脚犀僧旨μ 昌らω)。

     こうして、ウマル一世以来採られてきたアラブの軍事都

    市への静定化政策は完全に放棄され、土地保有者としての

    i61 (61)

  • ブラブの存在は事実上承認されることになクたαただデル

    タ東部に入植したアラブが、どのような形態のもとに農耕

    に従事したかは不明である。入植のさいの条件として、こ

    れまでの租税菅舘91⑬を損うことがないこと、 この付近に

    は原住民があまり住んでいないことが挙げられているので、

    最初はコプト人の村落共同体の内都に入るということはな

    かったものと思われる。しかしその後のアラブ人の増加は、

    付近のコプト人の村落形態に何らかの影響を与えたであろ

    うことは想像に難くない。

     このようなアラブの入植は、その後エジプトの各地で進

    行したようである。たとえばマクリーズィーは、上エジプ

    トの巴-q向日。昌ρ唄昌への、とくにウマイや家一族の入植を

    伝えている。彼によると、prd引臼O⇔欝気pの土地には○㊤.賞同

    げ・跨玄月巴8の多くの氏族が、鼠ρω団臼9げ..跨ぴα巴-寓巴涛

    び曜寓震を節昌の一族郎党や.》げαP7寓巴涛σ・寓舘≦韓口の

    臼ρ芝冨を父祖に持つ一》玲貧家一彼ら自身ではウ呵、イや

    家出身であると主張している一とともに入植し、また

    d似日雪の近くのσ鉱管村には軽巴箆ぴ◆磯震置9鎧葺ご

    卿≦蔓僧ぴ●諺玄ω鼠鴇昌の一族郎党が入植した、という(石切暮

       く

    押8り)。O暁騰錠はカリフーアリーの兄で、ヒジュラ暦八年

    .の鼠葺、鐸富遠征で戦死した人物である。したがってこの一

    族はハーシム家に属しているが、他はウマイや系統ばかり

    である。竃霧冨導ρはカリフーアブドゥル醤マリクの子で、

    アラブ軍の総指揮宮として各地の征服事業に活躍したが、

    エジプトには定住していない。残年はヒジュラ暦、一二二年

    である。劇巴三はカリフーヤズィード一世の子で、袈年は

    九〇年である。これらの人物のいかなる子孫が入植したの

    かは不明であるが、この入植の時期はカイス族の入植後ま

    もなくのことと思われる。またマクリーズィーは、q似日ロ⇔

    に近い》蓄ぢ帥の町についても、部族名は記していないが、

    やはりアラブの入植があったことを伝えている(鎚謬p暦H℃NO腿)。

    》3ぢ91はエジプトの日げ①げ巴α州の州政府所在地として重

    要な町で、この地方への入植も同様の時期に行なわれたも

    のであろう。

     上エジプトにおけるウマイや家一族ほか、アラブの入植

    についてきわめて貴重な情報を提供するパピルス文書があ

    る。諺℃団い昌。H鵯の文書がそれで、これは》ザ導冒と

    粥㊤げ臓の両県において、徴税宮.》旨目げ㌧結け欝ωとその徴

    62 (62)

  • 初期イスラーム時代のエジプトにおける土地所有について(森本)

    税吏たちが不当な課税を行なワたという訴願があワたため

    に、県の長官兼公庫長の凶器一αげ「、》げα》=巴同が全県の

    町村長や地方の有力者を召集し、審判の結果、徴税官たち

    に不正はなかったということで、町村長たちが、その旨と

    今後こうした苦情の訴願があった場合には科料の連帯責任

    を負うという宣誓を県の長官あてに行なっているものであ

    る。文書の保存が完全でないので、不明な部分があるが、

    年代はヒジュラ暦一三七一一四〇年(七五四-七五七)で、

    アッバース朝の成立直後に当たっており、コプト語とギリ

    シア語・アラビア語で書かれている。みずから宣誓をして

    いる町村長や主教たちは六八名、うち二名のアラブ人、

    .諺ぴ◎六二げの二人の息子を除いてはすべてコプト人であ

    る。なおこの部分はコプト語で書かれているが、その点か

    らこの二名のアラブ人を改宗コプト人とする可能性もなく

    はない。しかしこれらのコプト人の町村長名は、次のギリ

    シア語の部分で記載されているのに、この二名のアラブ人

    は記載されていないので、やはりアラブ人であることは間

    違いない。

     最後のアラビア語の部分は、主教や町村長たちの宣誓に

    対してこの地方に定住していたアラブ人が、アラブ導車側

    、の証人として証言しているもの.で、二名のウマイや家出身

    者[のほか、 毛留、鎚端紅N留、2㊤甲い斜団喧0帥臼抄佃9毒一91嶺の各

    部族出身者の名前が列記されている。この文書によると、ウ

    マルニ世の、村長はイスラーム教徒でなければならないと

    いう勅令にもかかわらず(躍ロ象⑤o…同法喜註二糟Nω。。)、アッバ

    ース朝の初期でも、少なくとも上エジプトではまだ村長の

    大半はキリスト教徒のコプト人によって占められ、アラブ

    人村長はきわめてまれであった。しかし、これら証言者と

    して登場するアラブは、恐らくこの地方の有力地主として

    の地盤をすでに築きつつあった者たちであろう。これにつ

    いては上エジプトの南端、アスワーソへのアラブの入植に

    関するマクリーズィ:の記述が傍証となる。

      マスウーデイーによると、諺ω毛警回の町はρp暮曽ピ劉齢跨

      び・図賢げ同.P鼠雪曇などの諸部族からなるアラブ人、それに

      ρ癖ρ線族の人々が住んでいる。彼らの多くはρ甲鞍蒜欝か

      ら移住して来た者である。この地方はナツメヤシがよく繁り、

      地味豊かである。……(中略)……また〉。・ぞ雪に住んでいる者

      はヌビア国内にも多くの私領地(貸温.)を持っていて、ヌビ

      ァ王に租税を支払っている。これらの私領地はイスラーム初

    63 (63)

  • 期、ウマイや朝やアヅバース朝の時代にヌビア人から買った

    ものである。……(出一層即梓 H Hり刈一同Φgo)。

    アラビア半島からアスワーソに移住したアラブは、単にこ

    の地方の農地を獲得しただけでなく、国境を越えてヌビア

    の農地も獲得していだわけで、ヌビアの私領地については

    その後ヌビア側とのあいだに紛争が起こったらしく、カリ

    フーマームーソが農民暴動鎮圧のためにエジプトに来たと

    き(ヒジュラ暦二一七年/八三二年)、 ヌビア王が紛争の解決

    を訴えている。いずれにせよ、ウマイや朝からアッバース

    朝にかけてのアラブ地主の発生は、アスワーソに限らず、

    全国的な規模で起こった現象であった。

     現存のパピルス文書を見ると、納税者名簿のような文書

    でも、ほぼアヅバース朝の成立を境に、使用言語はギリシ

    ア語もしくは『フト語からアラビア語に移行するが、それ

    とともに注目に価するのは、ギリシア語文書ではコプト人

    ばかりで占められていた地租納税者が、アラビア語の文書

    になると、コプト人に混じってアラブ名を持つ者が登場す

         ⑭

    ることである。このアラブ名がアラブ人なのか、それとも

    改宗コプト人なのかの判定は圏難であるが、なかにはきわ

    めてまれながら〉℃国い娼。b。巳の巴泊9eσ・巴㌧}σσ留

    ρ甲、跨げげ箇総や》℃国U賢。bOb。bOのHぴ贔ぼ日げ■〔 〕巴-

    畑煽≦ρ属酬同じく旨。鉢。心αの.》認げ■ρ甲畑葛ρ団⇔巴点ヨ笛白

    のように、はっきりアラブとわかる老もあり、逆に》層国ピ

    ロ。b。込。b⊃の冨冨ゆσ・解脱蒜のように、改宗コプト人とみな

    される者もいる。しかし、アッバース朝時代、エジプトでは

    まだそれほど改宗者が出ていなかったことと、コプト名の

    父を持つアラブ名はほとんど見当たらないこと、改宗コプ

    ト人とアラブ人との同一視の観念はまだエジプトの農村部

    まで浸透していないことなどを考えると、アラブ名の納税

    者もしくは地主は、ほぼアラブ人と見なしてよかろう。第

    X表・第X表はこうした帳簿の例として出したもので、そ

    れぞれある地区の地租割当査定簿の断片である。

     さて、これらアッバース朝初期の税務簿によるかぎり、

    エジプトで土地保有者となったアラブは、少なくとも税制

    上では、土着のコプト人土地保有者とのあいだに差別はな

    く、同様の地租を課せられている。この点は灌概工事等の

    64 (64)

  • 初期イスラーム時代のエジプトにおける土地所有について(森本)

    ための特別賦課についても同じであった(第瓢衷)。これはウ

    マルニ世のファイ理論より展開してきた課税の属地主義が

    確立し、保・肩者は自己の宗教にかかわりなく、地租を納め

    ねばならなかったことを意味する。この点に関連して、カ

    リフーラシード(在位七八六-八〇九年)時代に属する重要な

                  ⑯

    文書℃国鳥局u。①N偽が残っている。これは総督.跨げα〉麟瞑げ

    σ・ρ智冨自ωρ唄団ρび(在位七九ご一-七九四年)の団げ口留ω・ρ7

    切㊤げ鵠墨両県の徴税官ω煽な碧げ・ρ霞、ρより国げ鼠ω県

    に住む「イスラーム教徒ならびに息ヨ日ρの民すべて」に

    あてられた書簡で、文中に次のようなことが書かれている。

      総督.諺げα匿扇げげ・ρ7鼠煽都団饗げは汝らに書簡を送り、そ

      のなかで総督はエジプトおよび(すなわち)〔ムスリム全体の〕

      ブァイ(鉱轟.)としてあるところの土地の租税(賢N91団9)に関

      し、カリフのもとで決定された額を我らに命じている。……

    エジプトがファイの土地であることを理由に、ズィソマの

    民であるコプト人はむろんのこと、イスラ1ム教徒にも納

    税義務のあることが布告されているわけで、少なくともラ

    シードの時代までは、国家的土地所有の理論が有効性を持

    っていたことがわかる。この点についてはさきに述べたよ

    うに、ウマル黙止以前における徴税の根拠が、アラブ軍と

    その家族の.簿筍、とはNρとに求められていたのとまった

    く事情を異にしている。

     しかしながら、この国家的土地所有の理論において、土

    地の究極の所有権は国家に属し、土地を耕作もしくは保有

    している者は、単にその占有権もしくは用益権を保持して

    いるにすぎないといっても、勅令に反して耕地の売買が公

    然と行なわれるようになると、こうした理論はしだいに空

    文化せざるをえない。更にこの理論は、いま述べたパピル

    ス文書に見られるように、単に租税徴収の論拠を示すにと

    どまって、実際的な土地所有権には何らの拘束力も持たな

    かったようである。

     アラブームスリムたちが、エジプトにおいていかなる形

    態のもとに土地を所有していたかについて、まず第一に想

    定されるのは、一般のコプト農民と同様、小規模の土地を

    保有して、自作農となる場合である。冒5贔口村(ファイ

    ユーム県)納税者名簿》℃国ピ⇒。b◎Q。も。(九世紀後半)の冨ζ、

    冨臼ヨραげ■鴫留罫磯菩《91σ.畷暁ρoσらは他の『フト人

    たちと岡じように納税額も少ないことから、この種の形態

    65 (65)

  • に入れることができるであろう、しかしより一般的には、第

    X表の筈口唱σ●ρ霞冨や冒昌騨ヨヨ盆ぴ・ρ甲》告凋、第

    細表の言悶廿㊤臼巳9創σ.畑信。。曽団bや蜜蝿畑帥葺臼9α竪N娼貯擁

    のように、他のコプト人に比して広大な地積を有し、した

    がって多額の地租を支払っている者が多く見られる。

     これらのアラブ人は、おそらく地租などの租税負担の苛

    重に耐えられなくなったコプト人の農民から、購買などの

    手段によって土地を獲得し、有力地主として次第に土着化

    していったものと思われる。こうした地主たち、いわば土

    豪地主は、コプト人の有力地主も含めて、自己の保有地を

    すべてみずからの手で耕作できるはずはなく、保有地の一

    部もしくは大半を小作させるのがつねであった。 ヒジュ

    ラ暦一六九年郭{望月(七八五年目/九月)の日付のある

    諺幻N帥窮ゴ契約と呼ばれる一種…の借地契約文書は、 この種

    の小作の模様を物語っている。この文書についてはすでに

    紹介したことがあるので、ここではその要点のみ述べると、

    借地人はその土地の灌瀧・世話・管理・播種・収穫などの

    あらゆる労働の義務を負うことはむろんであるが、眠感、

        ⑰

    型借地契約の場合と異なり、地租(冨H轟)や特別公課(⇔甲

    ≦麟.ヨ)を支払う義務はなく、また配分率は不明だが、 借

    地料は折半による現物納であるなどの条件が明記されてい

    る。 

    このような土豪地主と分益小作人との関係に触れている

    文書は他にもある。その一つは地方の税務局で作成される

    地租受領台帳で、ヒジ訊ラ暦二七一年(八八五)に当たる二

    七〇税年度のファイユ!ム県に関する文書》燭国いロ。b。鷲

    -b。ω㎝が例として挙げられる。この税務簿には、地租の割

    賦支払期の日々1この文書では第三回支払期として臼。-

    9岸(   くコ9日ωM壇)月の五日と六日目↓月三…日一二月一日)の日

    付が記載されている一ごとに、誰から地租をいくら受領

    したかが記帳されているわけであるが、そのなかに

      ρ甲労餌σ団.げ・〔 〕の手によって割当額。。㎝禽ロ習をみずか

      らのためにω慰\。α卑下ひbづ9眠ダ宕9Φ”司祭切戯のために

      μく昌α同⇒習を

    という項がある。これはアラブ人が自己の所有地の地租の

    ほかに、コプト人に代わって、各コプト人の名義になって

    いる土地の地租をも支払っていることを意味する。同種文

    書諺℃国いロ。b。ω㊤ではΩ8H昌σ・無医惇ρ日日ρqという者が、

    66 (66)

  • 初期イスラーム時代のエジプトにおける土地所有について(森本)

    一四人のコプト人に代わウて地租を支払っている(島諺博切け

    ロ。b。爵琶お…諺勺芝ロ。圏)。実際に納税者に交付された地租受

    領証のうちでも、このような急電の関係を認めることので

    きるものがある。二三三年目げ。げ月一三日(八四七年九月一

    〇日)の日付を持つ》勺図Uコ。HG。ドがそれで、内容は次の

    ような文章になっている。

       日ぎ梓面回ω頸 q購醜砲α 碑陣(玉藍附ω<。+<⇔+<貼

       熱隙猷贈賀嫌尊㊦馨菌a詩ぐノ(

      〔  び●〕巴タ貯託帥哺ρゆ藁欝㊦蝋価“野。パ蝉〉㊦汁3π讐

      〔d脇影費回〕母π甕叫ひ誉謹Sゆぷ欝㊦諜麟里山。^’ノぴ

      ω<博+<。・+<旨二陣山冒鍵轡 〔謙認知瞬〕p・ゲタ「a置び・

      <菩団91㍑儀a>廿ヨ巴σ.起巴賦  婁㊦母溜灘猷①き臼伴曝

      i㊦ρ}と伽欝雪塁p漁〉湯ヨ餅”2噸㊦融遍㊦野離噌醤脹.

      叫ひ嘩隷鵡輯巳超ゆ〔σ・ 〕二巴-朝qω蔓コσ・諺ヴ巳蝕㊦

      翻轡4》三舞三三滋㌶魯霧aN。。ω醤騰㊦三三伴Cぺ掛貴。汁。

       牟㊦ゆび田恥㊦汁9“臼興回く匿+く“。。

       .跨げO巴也餌日餌畠σ●巴出9団弧㊦詩&π興卜。<ゆ十く⇔十く幽。。

            (蹴   暴)

    こ.の地租受領証ではうたまたま納税者自身よりも、被代納

    者の保有地税額の方が大きく、したがって両者のあいだに

    それほどの身分差はなかったと思われる。

     いずれにしてもこの種の土地所有形態は、ウマイや朝中

    期の割当査定簿(第1・H表)に見られた麟。旨9さぼ○の○甲

    8℃耳一。。。ほか、不在者もしくは被護者の土地を占有する

    村の有力地主の場合と酷似しており、下限はどこまで降る

    ことができるか判然としないが、少なくともアヅパース朝

    のサーマッラー遷都時代(△三ニー九二年)まで、ビザソツ

    時代から引き続き存続したエジプト固有の一土地制度とみ

    なすことができよう。

     また諸種のパピルス文書によると、いま述べたような上

    下の関係でなく、対等の立場で、一定の土地を共同保有し

    ている場合がある。このような共岡保有は際碁ρ協業と呼

    ばれるが、土地の規模はそれほど大きくなく、共岡保有減

    たちは一種の共同自作農ともみなすべき存在である。共同

    保有者の人数は少なく、二、三名で、数名を上廻るものは

    ないようである。地租を支払う場合は、各自が分担額を持

    ち寄り、代表者の名のもとに納める。このような代表者は

    ρ臼ヨと呼ばれた(〉町触ピ⇒。boQゆ窃)。私見の及ぶところ、一三(9

    による所有形態がもっとも古く現われる文書は、ヒジュラ

    暦二三六年(八五一)ごろのある私書簡で、旬\⇔ド&欝の

    67 (67)

  • 土地(9諏ゴ)を二名が鰹爵9の形で共同保有し、その土

    地をp且巴藤降ρ(協業の土地)と呼んでいる(》勺同いロ。

    N。。。。〉。》勺芝⇔。Hb。(三/九世紀)は、このような鰹降9に

    している土地の地租受領証で、納税額は廿\b・t\。・+<嵩

    α自警となっている。また地租割当査定簿もしくは受領台

    帳と考えられる〉℃妻⇔。b。①では、 アラブ人と思われる

    〔に餌∀詳げ・9憎缶畳叩轟とコプト人℃o⑬○旗σ・〔  〕昌と

    の二名の共同保有者からなる依貯冨の土地ω貯αα弩を税

    率憎\㎞9昌91<hで、黒戸}魯⇔貯の地租を納めている。こ

    のような共同保有形態はフ評,ーティマ朝時代の文書でも散

    見される(〉℃〆ぐ 昌。 ω①” ωO旧蒔O)。

    山IN

     さて、いままで述べたアラブ人の土地所有は、その地積

    が一家族で自作できないにしてもそれほど大規模なもので

    なく、また地租#霞91⑳もコプト人と同様に支払い、しか

    もその土地に住んで、所有地の経営に直接携わるという、

    きわめて在地性の強いものであった。ところがヒジュラ暦

    三世記初頭ごろ、厳擶サーマ.ラー遷都蒋代に入ってから、

    土地制度に急激な変化が起こってきた。それは史書や。ハピ

    ルス文書に、アッバース朝権力の代表者もしくはこれに類

    する人物の私領地α曙帥.(富鴇㊤の複数形)に関する資料

    が多く見られるようになることである。その典型的なもの

    は《曾嵐、ρ劉ρ日躍》、《蜜鷲鉢巴山響財》、《ρ昼巴出ヨ冒》な

    どとして現われる私領地で(》℃国い昌。¢ωレ。。合}℃柔い部。HHH\ρ

    HHH\¢)、これらのρ蓉冒はエジプトの総督もしくは税務長

    官を指している。しかし同じ倉旨冒》の肩書を持つ者でも、

    そのあとに所有者の名前の明記されているものがある。た

    とえば、《禽鴇、p}山臼冒㊤甲切ρ暮旨ρ註立国巳冒斜7鼠煽、密憎

    営⇔》(℃国菊切旨。 圃①蒔)、《α蔓91、巴あ野望四二ヨ魑⑬臼》(弼国閑同鄭。

    δω)などがある。巴出9誓はカリフームタワヅキル(在位八四

    七-八穴一年)の寵臣のトルコ人巴-国斜暮σ.偶箇ρ謬のこと

    で、ヒジュラ暦二四二一二四七年にエジプトの税務長官を

    しており、この文書の日付二四二年ヨ①。艮二月一日(八五

    七年一月二六日)と一致する。彼がエジプトで私領地を持っ

    ていたことは》℃国い出。H詞によっても知ることができ、

    とくにこの文書によると、巴-d似彰冒9葦県にあるρ巴㊤早

    O口郎村が彼の私領地の一部になっている。

    68 (68)

  • :初期イスラー・・ム時代のエジプトにおける土地所有について(森本)

     巴あ巴箇樹}日聖母はエジプトの総督もしくは税務長官

    になったという記録はないが、この文書日付の二年後、ヒ

    ジュラ暦二五五年ごろに、ダマスクスのげ白自として現わ

    れるトルコ将軍である(くρ.ρ山σ一 目押 Φ一G◎)。キソディーによる

    と、 エジプトの総督兼長官になったのはごく短期閾のみ

    で、むしろカリフーラシードの親衛隊長やカリフーマーム

    ーンに忠実な将軍として、アッバース朝の宮廷で活躍した

    国霞蜜ヨ㊤ぴ.》ゼ霞もエジプトに私領地を所有していた

    (峯昌α二・。・・噛に。。ムリ)。またエジプトに着任したわけでもない

    のに、エジプトに私領地を持っているアッバース朝の権臣

    や一族がいる。たとえばカリフームタワッキルのトルコ将

    軍く『ρ誓hやカリフームスタイーソ(在位八六二一八六六年)

    の即位に暗躍したトルコ将軍冒富鉱び■切自σQ帥(網#9骨H嚇boOQQ)、

    カリフームタワッキルの母后やムクタディル(在位九〇八-

    九回二年)の母后などである(冨口一口。胡Pδ。。…亀閃い昌。【回≧。

    これらのほか、所有者の人名は記されているのであるが、

    それが一体どんな地位にある人物なのかはっきりしない私

                      ⑩

    領地の例も、文書にはきわめて多く存在する。

     これらの私領地の地主は、たとえエジプトに住んでいる

    場合であっても、私領地の経営には直接携わらず、代理人

    (零勢露})を使っている点から考えて、不在地主とみなして

    よかろう(Oh■ 〉〕℃遍い コ。 掃刈同暫bΩQQり”bQりbo… >bご勺揖 昌。 目)。この不在地

    主による私領地の所有には、さきの土豪地主による土地所

    有と違って、いくつかの特徴が認められる。その第一は地

    積規模がきわめて大きいことで、一村を越えるものがかな

    りある。たとえば、》℃国ビロ。同。。劇の「総督の私領地価看、

    のうち、ω〔 ∀と呼ばれる村ぬ霞饗」とか跨℃菊り昌。

    頃H\目の「総督の私領地のうちH濠9、全〔村〕と冨四号巳

    〔村〕」とか、同じくづ。H頃\㊤の「総督の私領地の第百養

    に属する一村」などの表現はいずれもこのことを示してい

    る。またρ巴窪α雪という村が㊤一的ρ暮σ・頓卸ρ雪の私