非法則的一元論と心の国果性(1) - osaka city...

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-43 - 人文研究 大阪市立大学文学部紀要 47 1 分冊 1995 43 貢~61 非法則的一元論と心の国果性(1) デ イ ヴ ィ ドソ ソは, い わ ゆ る心 身 問題 に関 連 して 「非 法 則 的 一 元 論 a noma lousmonism」 とい う立場をとっているが (Davidson,1970;1974 etc.) ,これに対 して この立場 は随伴現象説 epiphenomenalism に陥る (よ り正確には心的現象は, しかるべき本来の意味では,他のいかなる現象の原 田にも結果 にもな らない とい う帰結 に至 る) とい う趣 旨の批判 が提 出 されて いる (e.g.Honderich,1982;・Sosa,1984;Stoutland,1985;Ki n, 1984b;1989etc.) 。本稿 は, デイ ヴィ ドソソと他 の論者 との間での この よ うな論争 について,次の順序で考察を行 う まず非法則的一元論 とはどのような立場であるのかを簡単に再確認 した後 , 問題 のデイ ヴィ ドソソ批判 の要点 を私 な りに整理す る。次 に, この よ うなデ イヴィ ドソソ批判 に対 して提 出 されてい る,い くつかの反論 を検討 し,論駁 す る。 さらに,では非法則的一元論 を批判か ら救 う,何 らかの手立てがある かどうか,有力な手立て とみなされ るものをい くつか取 り上げ検討 を加 える 最後に,以上の検討に基づいていわゆる心身問題に関 してどのような展望が 得 られ るのか,手短 に考察す る。 1. デイ ヴィ ドソソの言 う非法則的一元論 とは次の よ うな主張 と理解 され る (cf.Davidson,1970,pp.208-209)(2) 0 (AM)すべての心的現象は何 らかの物理的現象 と同一であるが,心的 現 象 をそ の心的記述 の もとで 「厳 密 な法則 strictlaLWS」の もとに包 摂す ることによって説明す ることは不可能である (AM) は, しか し,一つ の 「パ ラ ドックス」 を解決す るための鍵 と して等 (43)

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人文研究 大阪市立大学文学部紀要

第47巻 第 1分冊 1995年43貢~61貢

非法則的一元論と心の国果性(1)

美 濃 正

デイヴィドソソは,いわゆる心身問題に関連 して 「非法則的一元論

anomalousmonism」という立場をとっているが (Davidson,1970;1974

etc.),これに対 してこの立場は随伴現象説epiphenomenalismに陥る (よ

り正確には心的現象は, しかるべき本来の意味では,他のいかなる現象の原

田にも結果にもならないという帰結に至る)という趣旨の批判が提出されて

いる (e.g.Honderich,1982;・Sosa,1984;Stoutland,1985;Kin,

1984b;1989etc.)。本稿は,デイヴィドソソと他の論者との間でのこのよ

うな論争について,次の順序で考察を行 う。

まず非法則的一元論とはどのような立場であるのかを簡単に再確認 した後,

問題のデイヴィドソソ批判の要点を私なりに整理する。次に,このようなデ

イヴィドソソ批判に対して提出されている,いくつかの反論を検討 し,論駁

する。さらに,では非法則的一元論を批判から救う,何らかの手立てがある

かどうか,有力な手立てとみなされるものをいくつか取 り上げ検討を加える。

最後に,以上の検討に基づいていわゆる心身問題に関してどのような展望が

得られるのか,手短に考察する。

1. デイヴィドソソの言う非法則的一元論とは次のような主張と理解される

(cf.Davidson,1970,pp.208-209)(2)0

(AM)すべての心的現象は何らかの物理的現象と同一であるが,心的

現象をその心的記述のもとで 「厳密な法則 strictlaLWS」のもとに包

摂することによって説明することは不可能である。

(AM)は,しかし,一つの 「パラドックス」を解決するための鍵として等

(43)

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人されている(cf.ibid.)。その 「パラドックス」は次の三つの命題から構

成される。

(AMP)①いくつかの心的現象は物理的現象と困果的に相互作用 しあう

(心身相互作用の原理)0

②原因である現象と結果である現象とは厳密な法則によって関係づけ

ちれていなければならない (因果性の法則論的性格の原理)0

③厳密な心理一物理的法則は存在しない (非還元主義の原理)0

これら三命題は,一つ一つをとれば真らしいが,すべてを受け入れるならば

矛盾を生 じるように思われる。 しかしデイヴィドソソによれば,(AM)に

よってこれら三命題を同時に成り立たせることが可能であり,したがってパ

ラドックスは見掛けだけのものなのである。 「パラドックス」解消の鍵は,

心的現象は 「心的現象主上ヱではなく,物理的現象と土工」他の物理的現象

との因果関係に立つ,というアイデアにあると一見して見受けられる。 とも

あれ,デイヴィドソソは明らかにこれらの前提にもコミットしているのであ

るから,本稿では原則的に,非法則的一元論とは上の (AM)と (AMP)

との連言から構成されるものと理解することにする(3)0

非法則的一元論は,いわゆる非還元的唯物論 nonreductivematerialism

の一つの代表的な形態である。 このことは (AMP)③に明らかである。一

般に一つの理論の別の理論への還元は,後者の諸法則から前者の諸法則を導

出することによって行われると考えられている。そして,このような導出が

可能であるためには,二つの理論の基礎的語嚢をつなぐ 「橋渡し原理」の存

在が必要である。 しかし (AMP)③は,このような 「橋渡 し原理」の存在

を否定することにより, (物理的語嚢による心理的語柔の 「定義」の不可能

性を前提として)心理学的理論の物理理論への還元の可能性を退けるのであ

る。

このように心的領域の物理的領域への還元を否定することによって,非法

則的一元論は,心的領域の 「自律的autonomous」な存立を一方で認めつつ,

他方では,世界全体の在り方が物理的レヴェルにおいて決定されるという一

元論的物理主義を貫 くことが可能だと主張するo Lかし,このようにいわば

「ロあたりのよい」,したがって物理主義者にとって都合のよい唯物論は,

本当に可能なのであろうか。つぎに,非法則的一元論に対する批判について

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非法則的一元論と心の因果性 -45-

考察するが,これは部分的には非還元的唯物論一般に対する批判ともなって

いると考えられる。

2.本節では,キムやホソダリックなど最初に触れた諸論者が非法則的一元

論に対して提出している批判のポイソトを示す適切な形の議論を構成 し,こ

の批判がデイヴィドソソ説に対する的を射た批判であることを論 じることに

する。まず,この批判は次のような原理を前捷 していると考えられる。すな

わち,

(EP)任意の事象(4)C,Eについて,CがEの原因であるならば,Cの

ある一般的性質Fが存在 し,CはFによって becauseof(のゆえに

invirtueof)Eを引き起こす(5).

原理 (EP)を採用すべき根拠は次のようなものである。 たとえば,ある台

風 (その襲来は火曜日の 『タイムズ』紙上で報 じられたのであるが)が甚大

な災害をもたらしたとする。 この台風という出来事が甚大な災害という結果

を引き起こしたのは,まさにそれの 〈台風である (強い風雨を伴う特殊な種

類の気象状況である)〉という一般的性質のゆえにであって,決してそれの

(火曜日の 『タイムズ』で報 じられる)という性質のゆえにではない (cf.

Davidson,1963,p.17)。一般に,同じ一つの事象は様々の一般的性質をも

つと考えられるが,その事象と他の事象との間の因果関係には,それらの性

質のすべてが関与する,あるいは逆にどれも関与しないというのではなく,

特定の性質だけが関与するのである (各々の因果関係に関与する原因事象の

一般的性質を,以下,「(その因果関係に関 して)因果的効力 causal

e仇cacyをもつ性質」と言うことにする)。さもなければ,ある個別的事象

の認識に基づいて他の個別的事象を予測したり説明したりすることが殆ど不

可能になってしまうことであろう。これは,われわれによる予測や説明の実

践という事実に反するばかりでなく,因果という概念そのものを殆ど無意味

にしてしまうと考えられる。

しかし問題は,デイヴィドソソが原理 (EP)を受け入れるべきかどうか,

ということである。 現実に彼がこれを認めるかどうかは別として,彼がこの

ような原理を受け入れるべき根拠は十分にある。第-に,デイヴィドソソは

明らかに,すべての心的事象が同時に何らかの物理的事象でもあることを主

(45)

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張している。これは言い換えれば,同じ一つの事象が心的性質をも物理的性

質をももちうる (あるいは,このような言い方が気に入らなければ,心的記

述をも物理的記述をも許す)ことを認めているということである。 第二に,

先ほど見た 「台風」の例に明らかであるように,同じ一つの事象がもつ様々

の性質のうちに,その事象が立つ各々の因果関係の成立に_関連する性質とそ

うでない性質との区別があることを,彼は実質的に認めていると言うことが

できる。 最後に,(EP)のような原理を退けるためにデイヴィドソソが提出

している唯一の議論は国果関係の 「外延性」の主張に訴えるものであるが

(cf.Davidson,1993,p.13;1967),この議論は成功していない。その理

由は要するに,因果的予測や説明のコソテクストにおいて因果関係に立つ個

別的事象の一般的性質が本質的に関与するという (EP)の主張と,因果関

係に立つのはあくまでも個別的事象そのものであって,特定の性質によって

記述されるかぎりでの事象ではないという 「外延性」の主張とは,互いに独

立の主張であって十分に両立可能なのである (cf.McLaughlin,1993,

pp.30-35)0

しかしさらに,(EP)が事象の一般的性質に関する量化を含んでいること,

つまり性質をいわば物象化してそれに 「因果的効力」を帰属させていること

に 「いかがわしさ」を感じる人々がいるかもしれない。そのような人々に対

しては,(EP)のかわりに,次の原理を推奨したい(6)。

(EP')任意の事象C,Eについて,CがEの原因であるならば,Cのあ

る記述Dが存在 し,文 「C(記述Dのもとで)がEを引き起こした」

は一つの因果的説明を構成するO

(EP')の眼目は,冨うまでもなく,結果事象の因果的説明に現れうるのは

原因事象の任意の記述ではなく,特定の記述だけだということである。たと

えば, 「その台風が大災害を引き起こした」は一つの田果的説明とみなすこ

とができるが, 「火曜日の 『タイムズ』で報 じられた出来事が大災害を引き

起こした」をそのようにみなすことはできない.これは,因果的塾型や内包

性という,つとに指摘されてきた論点にほぼ等しいと考えられる (cf.e.g.

Fbllesdal,1971).そして,以下に指摘するデイヴィドソソ説の難点は,辛

象の一般的性質ないしはその因果的効力に言及せずとも,原理 (EP')に基

づいて指摘可能である (事象の心的塾 勤ま,物理的重畳とは異なり因果曜

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非法則的一元論と心の因果性 -47一

里ををもちえない,という形で)。それゆえ今後とも, 「事象の一般的性質」

そして 「その因果的効力」という語り方を継続することにする。

さて,特に議論はしないが,(EP)に関する上の考察から,次の原理が明

らかに成立すると考えられる。

(EP+)任意の事象C,Eおよび任意の性質Fについて,CがFのゆえに

Eを引き起こしたならば,反事実的条件文 「他の条件が同じなら,C

がFをもたなかったならば,CはEを引き起こさなかったであろう」

が成立する。

そして,非法則的一元論が,事象のいかなる心的性質も他のいかなる事象に

関しても因果的効力をもちえない(7)という帰結を伴 うことは,(EP')に基

づく次のような議論によって示されると考えられる。

(1)ある心的事象M (たとえばある意図)が他のある事象P (たとえばある

身体運動)の原田であるとする。

(2)(AMP)②によりMとPとはある厳密な法則Lのもとに包摂されなけ

ればならないが,(AM)によりLは純粋に物理的な法則でなければなら

ない。つまり,Lが言及するMの物理的性質pにより, (与えられた条件

のもとで)Pの生起は決定されている。

(3)(AMP)③により,Mの心的性質mは,Lが言及するその物理的性質

pと厳密に法則的に共起することができない。言い換えれば,他の条件は

同じままで,いわばラソダムにMがmを欠くこと,あるいはm以外の任意

の心的性質をもつことがつねに可能でなければならない。しかもその場合

にも,(2)によりMはPを引き起こすであろう(8)0

(4)したがって, 「他の条件が同じならは,事象Mが性質mをもたなかった

なら,Mは事象Pを引き起こさなかったであろう」という反事実的条件文

は成立 しえない。

(5)(EP+)により,mがPに関して因果的効力を有するならこの反事実的

条件文が成立する。

(6)ゆえに,(4),(5)より,mはPに関して困巣的効力をもちえない。

(7)M,mは任意の心的事象およびその性質,Pは任意の事象であるから,

一般に,事象のいかなる心的性質も他のいかなる事象に関しても因果的効

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力をもちえないことになる(9).

要は,キムの指摘するように (Kin,1989,p.269),非法則的一元論に

おいては,諸事象の物理的性質が固定されているかぎり,様々の心的性質が

これらの物理的事象の上にどのような仕方で分配されようとも (そして非法

則的一元論によれば,心理一物理的法則を成立させるような-様な分配を除

いて,任意の分配が許されるわけであるが),諸事象間の因果連関にはいか

なる変化も生 じないということである。 したがって,ある事象がいかなる心

的性質を有するかがその事象と他の事象との因果関係に差異を生じるという

こと,つまり,その事象の心的性質が他の何らかの事象に関して因果的効力

を有するということは,当然,ありえないことになる。

つまり非法則的一元論に従うならば,心的領域は,他のいかなる事象とも

因果的に (原田という観点からも,結果という観点からも)有意な関連をも

ちえないような, したがって事象がなぜその性質をもつのか説明不可能な諸

性質の集合であることになる. このような性質に_対 して実在性を認めること

ができるのかどうか,きわめて疑わしい。 したがって非法則的一元論は,一

方では,消去的唯物論への傾きをもつ (cf.Kin,1989,p.270)。他方,心

的性質の実在性にあくまでも固執するならば,それは 「一元論」の名に背く

ことになるであろう。なぜなら,この場合には,世界のすべての事象の完全

な物理的記述が得られたとしても,各事象がどのような心的性質をもつのか

は何ら確定されないがゆえに,世界の全貌が示されたことにはならないから

である。このように非法則的一元論はきわめて 「すわりの悪い」存在論と言

わなければならない(10)0

3.以上のようなデイヴィドソソ批判に対 して,次のような反論を私は受け

たことがある。いずれの反論も成立しないと考えられるので,各々に対する

論駁を以下に簡単に述べることにする。

(1)「[(EP)に関する]問題はいかがわしい概念 「因果的効力をもつ」である。

ところで心的出来事Cが物的出来事Eを引き起こすゆえんのその性質F,と

言われているものは何か。非法則的一元論 (AM)からすれば,出来事は何

らかの性質の故に別の出来事を引き起こすのではない。それゆえAMが理

解しうる唯一の意味は,Cの何らかの物理的ミクロ構造KがEを引き起こし,

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非法則的一元論と心の因果性 -49-

Kは心的と呼ばれる性質Fをもつ,ということに他ならない。 したがってC

はKの故に,つまりFであるKの故にMを引き起こす。それ故 「Cはその心

的性質FのゆえにEを引き起こす」というのは,そのミスリーディソグな表

現にすぎない。同様にKの物的性質Gを考えるなら,それと同じ事態は 「CはGであるKの故にEを引き起こす」,つまり「Cは物的性質Gの故にEを

引き起こす」という因果言明によって表されるoつまり心的性質も物的性質

も,困果関係においては同じように 「因果的効力」をもつか,同じようにも

たないかのいずれかであって,ここには批判者たちの言うような問題は何も

ない。AM から見れば,因果関係において批判者たちの言うような 「効力」

をもつのは,最終的には物理的なミクロ構造である。 しかし脳内の物理的ミ

クロ構造は一人称的なアクセスにおいては内観的な心的性質を通 して捉えら

れ,三人称的な解剖学的アクセスにおいては神経生理学的な性質を通 して捉

えられる. それゆえその内観的なある心的性質 (その怒り)の故に手を上げ

たと言うとき..,ある時点の脳内の物理的ミクロ構造が次の時点の身体の

ミクロ構造を引き起こしたのである。これは 「その怒 りのせいで手を上げた」

という記述によって同定される国果関係と同一である。 AM と行為の因果説

の整合性を問題にする批判者たちは,AM の トークソ同一説を額面通 りに受

け入れていないと思われる。」 (柴田正長,1994b,p.1)

この 「反論」は,上述の原理 (EP)に関する,そして結局はデイヴィド

ソソの 「トークソ同一説」に関する誤解と混乱に基づく議論としか私紅は思

えない。非法則的一元論の 「トークソ同一説を額面通 りに受け入れていない」

のはむしろ反論書のほうであると思われる。言うまでもなくトークソ同一説

とは,任意の個別的な心的出来事は何らかの物理的出来事と同-の出来事で

あるという考え方,つまり同じ一つの個別的出来事が心的側面 (あるいは性

質)も,物理的 (ミクロレグェルであれ,マクロレグェルであれ)側面をも

もつ (あるいはお好みならば,心的記述をも物理的記述をも許す)という考

え方である。したがって.反論著の言う「Cの何らかの物理的ミクロ構造K」

とはまさに出来事Cのミクロの物理的性質にはかならず, 「KがEを引き起

こ」すことを認めることは,まさに出来事Cがその 「何らかの性質の故に別

の出来事 [E]を引き起こす」ことを 「ミスリーディソグな」仕方で諾める

ことにはかならない (なぜならデイヴィドソソによれば,別の出来事を引き

起こすのは出来事そのものであって,その構造ではないから)。すでに2.節

(49)

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において論 じたように,(EP)の定式化は,デイヴィドソソ的 トークソ同一

説を前提としており,当然それにぴったりと一致している。 そして反論者は

これら両者について誤解 しているのである。

無論,非法則的一元論によれば,KがEに関して因果的効力をもつ (因果

的に有意に関連する)ことは明らかである。 KはCとEを包摂する厳密な法

則によって言及される性質であろうからである。 しかしだからと言って,Cの心的性質FもまたEに関して因果的効力をもつことになるとはかざらない。

なぜなら非法則的一元論においては,性質FはCのミクロの物理的性質Kと

古越担 性質だからであるo LたがってFがEに関して因果的効力を有するか

どうかは別途調べる必要がある。そのための一つの有効な手段は, 「CがF

なる心的出来事でなければ (心的性質Fをもたなければ),他の条件が等 し

旦旦逆それはEを引き起こさないであろう」という反事実的条件文の真偽を

調べることであろう。 そして2.節における議論が正しければ,このような形

の反事実的条件文は,非法則的一元論のもとでは,どの心的性質につL.、ても,

またどの結果事象に関しても偽とならざるをえない,つまり,事象のいかな

る心的性質も他のいかなる出来事に関しても因果的効力をもちえないのであ

る。 それゆえ,反論者の言うように, 「ここには批判者たちの言うような問

題は何もない」どころではない。非法則的一元論にとって致命的になりかね

ないような問題があると考えられるのである。

(2)「‥ .美濃らの批判の要点は‥ .デイヴィドソソの図式によれば理由

としての理由は行為としての行為と因果法則的に結合し得ないのだから,...

「心理的なものとしての心理的なものは因果的効九 .をまったく持たない」.

.ということである。しかしここには,困黒的説明に関する不当に強い要求

があると思われる。 ある種の単称困果言明は,その因果関係を支配する法則

の 「存在」に関する何の手がかりもなくとも因果的説明と見なされるのであ

り,ここに働 く因果の概念は,厳密な法則..へと洗練されることとはとり

あえず無関係な...現象レベルでの出来事の反復的操作可能性に関わるよ

うな日常的概念である。 . ‥ 」 (柴田正良,1994a,p.1.)

この 「反論」が,非法則的一元論に対する批判としての上述の批判への有

効な反論ではありえないことは明白である。なぜなら,非法則的一元論はそ

の不可欠の構成要素として 「因果性の法則論的性格の原理」 ((AMP)②)

(50)

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非法則的一元論と心の困果性 -51-

を含んでいる。 したがってこの立場においては,出来事Cが出来事Eの原田

であるためには,二つの出来事を包摂する厳密な法則が存在 しなければなら

ない。これに対して,反論書の言う 「現象レベルでの出来事の反復的操作可

能性に関わるような日常的概念」としての因果概念は,このような強い要求

をもたない概念と理解されていることは明らかであるからである (この概念

によれば,たとえば,Cなる種塀の現象を人為的に引き起こすことによって,

eなる種塀の現象を相伴って生じさせる手続きがかなりの頻度をもって成功

するならば,二つの種塀の現象の間に厳密な法則的連関が存在するか否かに

かかわらず,両者の間に因果関係を認めることが可能であろう)。 したがっ

て,この反論(2)が非法則的一元論をそれに対する批判から擁護するという役

割を果たしえないことは言うまでもないことである。 なるほど反論書の示唆

するように,デイヴィドソソ自身,このような 「日常的概念」としての因果

概念を採用するようになったのかも知れない (このことは,しかし,デイヴィ

ドソソ解釈上,少なくとも何ら明白なことではない)。たとえそうだとして

ち,それが意味するのは,デイヴィドソソがかつて主張 した非法則的一元論

から,その立場を変えたということにすぎず,非法則的一元論そのものの内

容が変化 したということではありえないO (4.節の(2)を参照。)

(3)「...[非法則的一元論に対する,2.節におけるような批判をなす者は,

心的性質に関してばかりではなく]同様に,砂糖が水に溶けるのは砂糖と水

のある種の分子構造の故なのだから 「水溶性」という性質は因果的に無力だ,

と言わねばならないであろう..。 批判者たちにとってこれは本意ではなか

ろう。 しかし 「水溶性」が因果的に無力でないなら, 「怒り」も同じ理由に

よって因果的に無力ではないのである。」 (柴田正長.1994b,pp.1-2.)

まず第一に指摘すべきことは,非法則的一元論が厳密な心理一物理的法則

の存在を排除し,したがって心的性質の物理的性質への還元可能性を否定 し

ているが, 「水溶性」のようなマクロレヴェルの物理的性質のミクロレヴェ

ルの物理的性質-の還元可能性を否定してはいないということである。 した

がって,非法則的一元論のもとでの因果的効力の有無を問題にするとき,

「水溶性」のような性質の場合と 「怒り」のような心的性質の場合とを同様

に取り扱 うことはできないOさらに,心的性質の場合とは別の議論によって,

「水溶性」のようなマクロの物理的性質もまた,非法則的一元論においては

(51)

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国果的に無力になると結論されたとしても, 「批判者たちにとって‥ 本意

ではな」いどころではない。それは,非法則的一元論が別の新たな問題点を

抱えていることが判明したということにしかすぎないであろう。

(4)「d.ある日の朝日新聞の朝刊の一貫に掲載された出来事のゆえに,翌日

の毎日新聞の夕刊の二頁に掲載された出来事が生じた。

[この]言明はなぜ,因果的説明を行っているのではないように思われるの

だろうか。‥ .(d)では出来事への指示が,出来事のタイプの個体化とは別

の原理によって行われているからである。」 (同上,p.3.)

反論書がここで述べていることの意味は必ずしも明確ではない。しかし,

その意図を推測するならば,反論者は,出来事がもつ諸性質 (より正確には

諸述語)杏,因果的説明に現れうる,いわば 「まとも」な性質と,本質的に

説明力をもちえない変則的な性質とに区分することを企てているように思わ

れる。 確かに くある日の朝刊の一貫に掲載される)というような性質は,出

来事の性質として 「まとも」には見えないかもしれない。しかし,台風の到

来という出来事のもっこの性質は,たとえば隣国における救援準備活動に関

して因果的説明力をもつかもしれない。また,ある誘拐事件は,悲劇的なこ

とに,このような性質のゆえに人質の殺害を引き起こすことになるかもしれ

ない。逆に出来事の 「まとも」な性質が何ら因果的説明力をもたないケース

も十分に考えうる。たとえば射撃に伴う音響は,射殺された人の死という出

来事に関して因果的説明力を有するとはとても考えられない (cf.Sosa,

1984,pp.277-278)(ll)。このように,反論者が意図していると思われる企

て,すなわち出来事の性質を困巣的説明力をもちうるものとそうでないもの

とに区分 し,しかるべき基準によって出来事の心的性質を前者の部頬に属さ

せることによって非法則的一元論を擁護しようとする企ては,その当初から

あまり見込みがあるものとは考えられないのである。

(5)「...行為の場合も,その理由によって当の行為がひき起こされたこと

をわれわれは観察によらずに知る (つまり直知する)と言うことができるだ

ろう。 因果的説明力の源泉が因果法則-の洗練可能性とは別のところにも存

在するということは,心的語桑による説明の自律性を強 く示唆するものであ

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非法則的一元論と心の田果佐 一53-

り,非法則的一元論の立場にとってはむしろ歓迎すべきものであると思われ

る。」 (柏端達也,1994,p.12)

この一節に含まれている反論を私のタームで整理 し直すならば次のように

なる。 われわれは少なくとも意図的行為に際して,われわれ自身の行為理由

(意図等)が当の行為を引き起こすことを観察によらず直知しうる。 したがっ

てこのような場合に,行為理由は行為の原因である。行為理由は一種の心的

事象であるから,それゆえ,ある種の心的性質は明らかに因果的説明力ある

いは因果的効力を有することになる。 (以上の事実は,非法則的一元論をと

ろうと他の立場をとろうと,真なる事実であることにかわりはない?)

この反論に関してまず注意すべきことは (再び),私 (および他のいく人

かの論者)は非法則的一元論に対する一つの批判を提出しているのであり,

この批判に対して反論 しようとする人は,したがって,非法則的一元論を批

判から何らかの仕方で擁護 しなければならない,という当然の事柄である。

なるほど行為理由と行為との個別的因果連関が行為者当人によって 「直知さ

れうる」ということは,おそらく事実であろう。 しかし,単にこの事実を指

摘するだけでは,勿論,非法則的一元論の擁護にはならない。問題は,この

ような事実がこの立場を支持する証拠となるか否か,あるいは少なくとも,

この立場がこのような事実を整合的に許容することが明白に示されるか否か

である。

非法則的一元論はあくまでも一つの存在論であり,ある種の因果連関をわ

れわれがどのようにして知るかという認識論的問題には直接関わってはいな

い。しかし非法則的一元論によれば,二つの事象の個別的困果連関の成立に

は両者を結びつける厳密な法則の存在が必要であり,このような法則はミク

ロレグェルの物理的法則である。他方,私のある行為理由が私のある行為の

原田であることを直知するとき,両者がどのようなミクロレヴェルの物理法

則によって結びつけられているのかを私は明らかに知らないし,おそらく,

そのような法則が存在するのかどうかさえも知らない。 したがって,このよ

うな法則の存在さえ知らないのに,どうして私がこの理由と行為との因果連

関を直知することができるのかは,非法則的一元論にとっては一つの謎であ

ると言うほかはないOつまり,理由と行為との個別的因果連関の直知可能性

という事実は,非法則的一元論にとって,むしろ一つの不利なデータなので

あり,したがって反論(5)は成功しているとは言い難いのである。

(53)

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4. 2.において考察したように,非法則的一元論は,よく言っても (上の註

(9)を参照),心的性質が因果的に無力であるという可能性を排除できないよ

うな立場であった。言い換えれば,それは任意の種塀の物理的事象が任意の

心的性質をもつことを基本的に許容するがゆえに, (消去主義に走らないか

ぎりは)物理一元論というそれ自身の根本的主張に反 しかねない危険を伴う

立場であった。このような非法則的一元論の弱点を修正し適切な形の非還元

的唯物論に至るためには, したがって,心的性質と物理的性質との関係に関

するしかるべき制約,あるいは心的性質が物理的事象の上に分配される仕方

に関するしかるべき制約をあらたに導入する必要があるであろう。ここで

「しかるべき制約」とは,より詳しく言えば,事象の物理的性質がその心的

性質を 「決定」する程度に十分強いが,後者の前者への 「還元」は可能にな

らない程度に十分弱い制約ということである。このような 「しかるべき制約」

が見出されてはじめて,非法則的一元論のもとで心的性質の因果的効力が保

証されると同時に,それが正真正銘の非還元的な物理一元論であることが確

立されることになるであろう。 しかし,このような制約条件は,はたして存

在するのであろうか。最近の論文 (Davidson,1993)において,デイヴィ

ドソソ自身がこの点に関して二つのアイデアを捷案 している。一つは 「スー

パーヴイーニエソス (付随関係)」というアイデアであり,今一つは 「厳密

でない法則」による結合関係というアイデアである。

(1)「スーパーヴィーニエソス」

デイヴィドソソによるスーパーヴィ一二エソスの定義は次のとおりである

(Davidson,1993,p.4)。

(DSV)述語pが述語集合Sにスーパーヴィ- ソするのは,pがSによっ

て区別しえないいかなる事象をも区別しない場合,かつその場合にか

ざる。

スーパーヴィ-ニエソスについて詳 しい研究を行ってきたキムによれば,チ

イヴィドソソのスーパーヴイーニエソス概念は,キムの分析では,次に示す

「弱いスーパーヴィ-ニエソス」に該当する(12)(cf.Kin,1984a,pp.57ff.)0

(WSV)性質集合Aが性質集合Bに弱い意味でスーパーヴィ-ソするの

(54)

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非法則的一元論と心の因果佐 一55-

は,必然的に,任意のⅩとyについて,ⅩとyがBに関して区別しえ

ないならば両者はAに関しても区別しえない場合,かつその場合にか

ざる。

弱いスーパーヴィ-ニエソスの眼目は,心理一物理間のケースに即 して述

べるならば,同一の可能世界の内部においては,二つの事象が同じ (ミクロ

レヴェルの)物理的性質を共有するならば,両者は同じJb的性質をも共有し

なければならない,という制約をそれが課する点にある. しかし異世界間に

おいてはこの制約は働かない。別々の可能世界に属する二つの事象が,同じ

物理的性質を共有 しっつまったく異なる心的性質をもつことを, (WSV)

は許容する (各々の世界の内部において物理的に区別されないすべての事象

に同じ心的性質が分配されていさえすればよい)。それゆえに,ある心的事

負 (M)が別の事象 (P)を引き起こす場合,その心的性質 (m)の因果的

効力は (WSV)のもとにおいても保証されない (cf.Kin,1989,p.270,

m.8)。なぜなら (WSV)のもとにおいても,他の点では現実世界とまった

く同様であるのに,Mがmを欠くような,あるいはm以外の任意の心的性質

をもつような可能世界の存在が許されており, したがって 「事象Mが性質m

をもたなかったなら,MはPを引き起こさなかったであろう」という反事実

的条件文の真理は確立されないからである (2.節参照)(13)0

このように非法則的一元論虹弱いスーパーヴィーニエソスというあらたな

制約を付け加えても,もとの場合と同じ問題が再び生じる。 したがって,よ

り強い制約が必要であることになる。 キムは十分に強い制約として次のもの

を提案 している (「強いスーパーヴィ-ニエソス」(Kin,1987,p.81;

cf.Kin,1984a)。

(SSV)AがBに強い意味でスーパーヴイーソするのは次の場合,かつ

次の場合にかざる。 すなわち,任意の二つの世界WJとW.について,

また任意の二つの事象Ⅹとyについて, yがWkにおいてもつのと同

じB-性質をⅩがWJにおいてもつならば,ⅩはWjにおいてyがWk

においてもつのと同じA一性質をもつ 。

しかしながらキムの診断によれば,強いスーパーヴィ-ニエソスは,心的な

ものの物理的なものへの,ある形の還元を可能にするほど強い制約である

(55)

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(Kin,1989,p.283)。つまり非法則的一元論にとっては強すぎる制約なの

である。この点についてこれ以上の検討はもはや行えないが,非還元的唯物

論としての非法則的一元論にとって都合のよいスーパーヴィーニエソスの概

念はまだ見出されていないと,キムとともに言うべきであると考えられるO

そして,もし2.節で示した議論が正しければ,そのような概念が見出される

可能性はないのである。

(2)厳密でない法則

デイヴィドソソは,心的事象同士,あるいは心的事象と物理的事象との間

に一定の規則的生起の関係が存在 し,これに基づいて一定の経験的一般化

(キムに従って 「厳密でない法則non-strictlaw」と呼ぶことにする)が

成り立つことを認める。 そして,心的事象のこれらの厳密でない法則のもと

-の包摂がその因果的効力を立証すると考えているふしが見受けられる

(cf.Davidson,1993,pp.9-ll;1970,pp.218-9)0

しかし,因果関係の成立基準を厳密でない法則のもとへの包摂に求めるこ

の考え方は,いずれにせよデイヴィドソソの本意にそわない帰結を生じると

考えられる。 (マクロレヴェルの記述のもとで)ある厳密でない法則のもと

に包摂される二つの事象 (心的事象同士あるいは心的事象と物理的事象)が

あるとする。 デイヴィドソソの新 しい基準に従えば,これらの事象は因果関

係に立つと言ってよい。ところで,これらの事象を (ミクロレヴェルの記述

のもとで)包摂する厳密な法則が存在するかしないかのいずれかである。前

者の場合にはいわゆる過剰決定overdetemination(または二重因果 double

causation)の問題が生じるであろう。 つまり,この場合には原因事象のミ

クロの物理的性質によって結果事象の生起が決定されているのだから,前者

の心的性質がこの因果関係の成立に関与する余地は残されていないであろう。

あるいは同じ事を逆に言うならば,もしこの因果関係の成立に原田事象の心

的性質が実際に関与しているのならば,それのミクロの物理的性質は結果事

象を生じさせるのに十分な条件ではなかったことになり,したがって世界が

厳密な物理法則のもとで閉じているというデイヴィドソソの基本主張に反す

ることになるであろう。他方,問題の二つの事象を結びつける厳密な法則が

存在しない場合には,明らかに 「因果関係があるところには必ず厳密な法則

がある」という因果性の法則論的原理 ((AMP)②)に対する違反が生じる

ことになる。つまりこの場合には,非法則的一元論は本質的に修正される

(56)

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非法則的一元論と心の因果性 一57-

(もっとはっきり言えば,放棄される)ことになってしまうのである。 (こ

の項での議論については,3.節の反論(2)に関する議論を参照。)

5.本稿で論 じてきたデイヴィドソソ批判の要点は,一言で言えば,非法則

的一元論は整合的ではあるが,心身の相互作用に対する信念 ((AMP)①)

をわれわれが通常理解 しているような意味において保存することはできない,

あるいは少なくともできない疑いが濃厚である,ということである。 われわ

れは通常,心的事象がまさに心的事象として身体的事象と因果的に作用 し合

うと考えているのに対 して,非法則的一元論においては単にミクロの物理的

事象としてしかこのような相互作用の関係に立つことができないのではない

か,という疑いは消し去り難いものである。

そうであるとしたら,これに対してどのような対応をとるべきであろうか.

論理的には三つの可能性がある。 まず第-には,非法則的一元論にそのまま

固執する,すなわち心的事象としての心的事象は他のいかなる事象とも因果

的関連をもたないことを容認するという対応の仕方がある。 しかし,心的事

象はまさに心的事象として身体的事象と因果的に作用 し合うというわれわれ

の常識的信念は非常に強固なものである。手を上げようという意図はまさに

そのようなものとして手の上昇を引き起こし,痛みはまさに痛みとしてたと

えば指の傷によって引き起こされるとわれわれは強 く信 じている。 したがっ

て,このような常識的信念を覆すに足る,よほど強力な議論なしには,この

第-の対応策は採用されるべきではないと考えられる。

第二の対応の仕方は,問題の板を非違元主義の原理 ((AMP)③)に求め

ることである。心的事象と特に脳神経系の事象との一定の範囲における規則

的相伴関係というデイヴィドソソ自身が認める事実を見るとき,これはある

意味できわめて自然な対応策である。 たしかに最近では非還元的唯物論が英

語圏の哲学界の一種の流行であった。 しかし,すでにキムやホソダリックが

ある程度その方向での努力を行っているように (♂.Kin,1993b;Hbnderich,

1988),従来批判を受けてきた形のものに代わる,より洗練された還元主義

的唯物論の可能性の追求が今後さらに真剣になされるべきである.

しか し第三の対応の仕方として,問題の板を,因果性の法則論的原理

((AMP)(参)の方に求めることも可能である。 この場合には,因果性を法

則性なしに理解する,さらには世界の厳密な法則による支配ということ自体

をも否定するといった道が探られることになるであろう。 このような試みは,

(57)

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当然,心身問題に関してだけにとどまらず存在論の広汎な部分に関する措き

直しを伴うことになり,現在の私にはそれがどのような説得的議論によって

支えられうるのか推測することさえできない。しかし,これを見込みのない

試みとしてただちに断定しうる根拠があるとも思えない。したがって,心身

関係についての正 しい理解に至るためには,このような方向の試みを追求す

ることも必要になるであろう。 ともあれ,非法則的一元論についての批判的

検討は,心身問題に関わる以上のような課題の存在を教えてくれるのである。

(註)

(1)本稿は,日本科学哲学会第27回大会 (1994年11月,於北海道大学)におけるワーク

ショップ 「行為と出来事の存在論」で拒題発表した際の原稿に加筆修正 したものであ

る。同時に,本稿の3.節は,このワークショップでのディスカッショソにおいて私が

受けた反論に対して私なりにはっきりとした解答をすることを目的として啓かれてい

る。そのために,やや慣習には反するであろうが,未公刊の学会資料からかなりの畳

の引用を行っている。興味をもたれた方は,私まで資料を訴求していただきたい。

(2)このようにデイヴィドソソの渚姶文への参照は Davidson,1993を除いてすべて

Davidson,1980の貢付けに,同様にキムの諸論文への参照はKim,1993aを別とし

てKim,1993bのそれに従って行う。

(3)さらに,デイヴィドソソの議論を支える重要な前提の一つとして,すべての物理的

事象が厳密な物理法則による完全な支配のもとにあるという前軽があることを忘れて

はならない (cf.e.g.,Davidson,1970,p.219;pp.223-4)。

(4)「事象」を, 「出来事」「状態」などをカケァ-するより一般的な語として用いる

ことにする。

(5)結果事象の一般的性質についても同様の原理が成り立つが,簡単のため省略する。

(6)事象の性質とは対応する記述ないし述語の意味論的値 (指示対象)に他ならないと

考えるならば (そして私は実際そのように考えるが),性質について語ろうと記述に

ついて語ろうと大差がないことは.明白であると思われる。正直のところ,なぜ人々

が事象の性質やその因果的効力について語ることにそれほど 「いかがわしさ」を感 じ

るのか,私にはよく分からない。

(7)非法則的一元論が,逆に,心的性質は結果事象における困果的に有意な性質でもあ

りえないという帰結を伴うことも,同様の宗論によって示されると考えられる。

(8)議論のステップ(3)以下での述べ方は,事象の名前 (「MJ「P」)が貫可能世界的に

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非法則的一元論と心の因果性 -59-

その指示を変えないこと (いわゆる指示の固走性rigidity)を前提としている。この

前提が認められないならば,たとえば 「Mがmをもたなかったなら...」といった

語り方はできない。mをもたない事象はもはやMではないことになるであろうからで

ある (cf.Honderich,1982,pp.61-62;Davidson,1993,p.17)。 しかしその場

合には代わりに,たとえば 「mをもたないこと以外はMと同じ性質をもつ事象が生 じ

たとしても,それは因果的関連を有する性質に関してはPと同様であるいかなる事負

も引き起こしはしなかったであろう」と語ればよい。この反事実的条件文の其偽に応

じて,性質mの事象Pに関する因果的効力の有無が判定 され うるであろう (cf.

Honderich,ibid.;Sosa,1993)。ついでに言えば,原理 (EP')もまた,事象名の

指示の固定性を前提 した述べ方になっている。

(9)このような談論に対 しては異論がある。マクロ- リソによれば (McLaughlin,

1993,p.35;1989),非法則的一元論は心的性質が田具的効力を欠 くことを全量する

わけではなく,単にそのこと哩 室する (それと重畳艶である)にすぎない。この異

論についての詳しい検討は別の機会に承 りたい。 しかしいずれにせよキムの言 うよう

に (Kin,1993,pp.20-21),非法則的一元論が心的性質の田黒的効力を立証する

積極的論拠を何らもちあわせていないことは明白である。 したがって,それを立証 し

かつ非法則的一元論と整合的な,しかし後者と与嘩巨重や論拠が示されないかぎり,非

法則的一元論が一種のエビフェノメナリズムに陥るのではないかという疑惑は払拭さ

れないのである (以下の4.節を参照)。

ao)「非法則的一元論は,すべての出来事は物理的であると主張する一方で,すべての

出来事が心的であるわけではないことを許容するという点においてのち,存在論的偏

りを示す」 (Davidson,1970,p.214)というデイヴィドソソの言葉から察するなら

ば,非法則的一元論は消去的唯物論から明確に区別されるべきものであることになろ

う。心的性質に対してデイヴイドソソがどのような意味での実在性を認めるのであれ,

それは彼が物理的性質に対 して認める実在性と同等のものであるはずだからである。

したがって,彼は物理的性質の 「実在性」に固執するのと同 じ程度に,心的性質の

「実在性」に固執するものと考えられる。

(lDこの例に関するデイヴィドソソの議論についてはDavidson,1993,pp.16-17を

参照。彼の議論は証(8)におけるような考察によって反駁可能であると考えられる。

0分キムはスーパーヴィ-ニエソスを性質集合間の関係と考えている。

03にの段落の問題に関連してデイヴィドソソは次のように述べる。 「私の定義したスー

パーヴィ一二エソスは,..もし二つの出来事が心的性質において異なれば,物理的

性質 (これは因果的効力を有するとわれわれは収定しているわけだが)においても異

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なるということを合意する。 したがって,もしスーパーヴィ-ニエソスが成 り立つの

なら,心的性質は出来事の同乗関係に差異を生じさせるmakeadifferenceことにな

る。なぜなら,心的性質は物理的性質に影響し,後者は困果関係に影響するからであ

る。」 (Davidson,1993,p.14;cf.ibid.,p.8.)なるほどデイヴィドソソのスーパー

ヴィーニエソス概念 (「弱いスーパーヴィーニエソス」)のもとでも,現実世界の内部

では,同じ物理的性質をもつ事象はつねに同じ心的性質をもつことになるであろう。

しかし,これは単なる偶然的共起にしかすぎないかもしれない。弱いスーパーヴィ一

二エソスは,その物理的性質が別の心的性質と (つねに)共起するような可能世界を

許容するからである。その場合には, 「問題の事象がその心的性質をもたなかったら,

それは問題の因果関係に立たなかったであろう」という反事実的条件文は成立せず,

それゆえ心的性質が問題の事象の因果関係の成立に関与する (因果的効力を有する)

とは言えないであろう。 「因果関係に差異を生 じさせる」というデイヴィドソソの言

い回しの正確な意味は,必ず しも明らかではない。しかし,それが 「因果関係の成立

に関与する (因果的効力を有する)」ということを意味するのであれば,彼は明らか

に誤っている。

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