人文地理学と社会形態学 - osaka city...

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-39人文地理学と社会形態学 Ratzel Durkheim 論争についての覚国 1 はじめに 「人聞についての地理学一一人文地理学は, Vidal delaBlache とその 同僚達によって精密な検討をうけ,他の フランスの学者遥, とりわけ Emile Durkheim によって指導された社会学者達の攻撃に,有効に立ち向かった。 人類地理学と政治地理学についての Ratzel の業績は, 1890 1900 年代の地 理学年報の誌上で厳しい批判的分析をうけた。歴史家や社会学者遥が乙の批 判に参加 し,人文地理学と ,人類史への 地理学的凸(物珂的としての)影 響の役割に関する , Ratzel の慨念の,野心に富んだ主張と 合 みに, とりわ け元気 B :E盛氏反論した。 Ratzel は地理学者だけではなく ,一般の社会科学 )として用いられた。 Vidaldela Blache と彼の r 8J僚達は , Ratzel の『地理学的環境論 3 から 『地底!学的可 能論』 と呼ばれ始めたものを発展させた。 VidaldelaBlache によって系 統だてて述へられた人文地理学の分野は, Strasbourg 大学の歴史の教授 LucienFebvreの, 1922 年・フランスで出版された著明な作品において,存タ J l乙論議され, その限界を指摘された 0 ・この書物は人文地;即学についての Vidal 派の概念に関する信頼のできる 批判的感惣であり ,地盟学長:における 一つの重要な業績である。新しい地盟学か社会学者と膝史家の両方の厳しい 分析 と判断をうけた(う け続けている )という乙と は, 並みはずれた怠義を もっ事柄である 。 J l 乙渇げたのは, 手近かな Dickinson の地 酒!学史の t 作物から .j I し、た一節 であるが, 乙れは一般に広 く受け入れられている 見解か伊う。本稿で取り上 げるのは,その LucienFebvre が, r 大地と入額の進化」の最初の部分の大 半を貸して存分に論議した問題,すなわち Ratzel の人類地別学と Durk- heim派の社会形態学の問の論争に|刻する問題である 。 ζ乙での筆者の目 的は, ( 771)

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  • - 39一

    人文地理学と社会形態学

    Ratzel・Durkheim論争についての覚国

    山 野 正 彦

    1 はじめに「人聞についての地理学一一人文地理学は, Vidal de la Blacheとその

    同僚達によって精密な検討をうけ,他のフランスの学者遥,とりわけ Emile

    Durkheim によって指導された社会学者達の攻撃に,有効に立ち向かった。

    人類地理学と政治地理学についての Ratzelの業績は,1890, 1900年代の地

    理学年報の誌上で厳しい批判的分析をうけた。歴史家や社会学者遥が乙の批

    判に参加し,人文地理学と ,人類史への 地理学的凸(物珂的としての)影

    響の役割に関する, Ratzelの慨念の,野心に富んだ主張と合みに,とりわ

    け元気B:E盛氏反論した。 Ratzelは地理学者だけではなく ,一般の社会科学

    者の忠考における跳躍板 (~pringboard)として用いられた。 Vidalde la

    Blacheと彼のr8J僚達は, Ratzelの 『地理学的環境論 3 から 『地底!学的可

    能論』と呼ばれ始めたものを発展させた。 Vidalde la Blache によって系

    統だてて述へられた人文地理学の分野は, Strasbourg大学の歴史の教授

    Lucien Febvreの,1922年・フランスで出版された著明な作品において,存タJ

    l乙論議され, その限界を指摘された 0 ・・・・・・この書物は人文地;即学についての

    Vidal派の概念に関する信頼のできる批判的感惣であり ,地盟学長:における

    一つの重要な業績である。新しい地盟学か社会学者と膝史家の両方の厳しい

    分析と判断をうけた(う け続けている )という乙と は, 並みはずれた怠義を

    もっ事柄である。J上l乙渇げたのは, 手近かな Dickinsonの地酒!学史の t作物から .jIし、た一節

    であるが, 乙れは一般に広 く受け入れられている見解か伊う。本稿で取り上

    げるのは,その LucienFebvreが, r大地と入額の進化」の最初の部分の大半を貸して存分に論議した問題,すなわち Ratzel の人類地別学と Durk-

    heim派の社会形態学の問の論争に|刻する問題である。ζ乙での筆者の目的は,

    • ( 771 )

  • - 40一

    Febvreが乙の論争について下した裁定のfi}倹討と .論争lの|中心問題であっ

    た,社会集団とその空間形態との関係についての,地理学の立場からの 一

    応の見通しを得ょうとする ζ と{乙ある '0 ~l1者は,乙の問題は地理学の本質11r かかわる,軍裂な問題でありながら,未だ十分{乙解き明かされてはL、ず.し

    かも今円,一段と重要1fiiをもらつつある問題のよう!乙思うのである。しかしながら.今回の考察は,将来の,何らかの明確な結論を導き出し戸

    るであろう ,本格的考察の前段階として.上記の問題lζ関する筆者|の研究ノ

    ートの域にとどまるであろう。なぜなら.乙の考察{ζは,問題の性質上、おー刊

    ただしい数の文献の綿筏な検討と,十分な思索とが要求せられるからであ

    る。

    さて今,似りに人文地:ER学の課題が,地縁的人間集団とその主活空間のあ

    る種の~解を目ぎすと考える昨, 必然的民社会学の研究領域との抵触が問題

    となる。 R山 el-Duはheim論争は ζ の点i乙関わる重要な学兵上の出 ---e

    あったが,近年それについての新しい見方を含む 2, 3の論縞が現われでい

    る。それらは Febvreの見解l乙沿コて従来繰り返されてきずこと乙ろの,

    Ratzelの決定論非難と Vidalde la Blache以下のフランス地誌学派の業ー

    の評価によって, Durkheimの社会形態学の主張の形骸化且をはかる解釈と

    は異なり, Ratzel と Durkhelmの関心と課題の親縁性告示し.また

    論者としての Ratzelではな く,彼の空間論的視点を見直そうとする観点を

    含むもののように見受けられる。 Febvre.は地理学者{乙代わり , ¥. Z地理内

    と社会形態学の問i乙苦心してあえて一線を画したけれど,雫たしてその見解

    は当を得ていたであろうか。彼は Ratz討を厳しえ批判jし, ¥fidal を擁詐ま

    したが, Ratzelと Vidalの江脚点はそんなに隔たりのあるものだろうか。

    また Durkheimの社会形態学のその後の発展は ?今 ζ ζ でそのす¥てを|明

    らかにできないとはし、え,険村すべき問題点は乞い。

    筆者は以前より Ratze)の i\~l地別!学J,特(乙,Eの第 2 :ときに盛られた内

    科は, Durkheimのいう社会形態学の内'内 と類似しぐいる乙と .両者とも

    社会の分化について考察し℃いることなど, 2人のy:!?唱の課題は必ずしも

    たってはいないとの与えを抱いどいる。 ¥'id al {Jt¥と Durkheitn;i'氏。雨

    は,個別的,地域的研究 vb'i:fi町内, 一般的研究, 115観をも ;ttJ',j辺i.s的手jjLvs厳湾なぬ限的}J).~など,万法論_l -oの本質的対立を合 6 ものであるカ\Ratzel と Durkheim の 1論争には,むしろ同織の~i'f題(と対する 7 プローチの

    巡いーーもちろんそ ζ には支袈な対むぷ

    ( 772 )

  • 人文地理学と社会形態学 - 41一

    な性質がある 。乙のような点で Febvreの提出した裁定は,今日必ずしも適

    切なものとはいえない。以下,先ず 1890-1910年吋時の人文地原学と社会

    学の動向をr11心に,吋時の諸科学の状況を年表によ って概観し,次いで Fe-

    bvreの議論の巾の問題点を明らかにする乙とから始めよう。

    2 1890・1900年代の地理学と社会学

    j忍怨史家 H S Hughes ;i,1890年代を忠怨の転換期 とし.'i災1.iE主義

    への反逆の時代 と表現した。吋時の折学を rt心とした思想が,Jメ杯史主

    義,Jj:介即.主義, i前観 のm祝な どに傾斜 しつつあ ったからである 。乙のような傾向の進展から,まもなく Windelband,Rickert ら尚南a ドイツ学派

    哲学が勢ノJをのばし,やがて MaxWebcrのそそ場となるわけである 。地朗

    学でこの間の似組、の影響が顕将なのは,乙vt:lt紀l乙人ってから活断!の大きかった A. Hett附 r(1859-1941}'らであろうが,1890年代の地lt[J.'、戸汝ひ(f 1-会学

    では, _,fとた191ft紀初頭以来の許極的,'C!抗的傾向か残り , Hughesのいう

    ような 「災証主義への反逆」はストレー トなかたちでは,見;;11しねない。

    年表(次点)を参照しながら、竹時の主な人々の動向を見てお乙う。 Rlcht-

    hofen ( 1833 -1905)の後任として1869年{ζLeipzig大学教疫に就いた Ratze)

    (1841-1904)ii,すでに f入額地国学J第 l巻や 一民政学」全 3巻を佐川

    送り ,1891"{:には {人類地理学」第 2巻を公刊した。彼は Leipziε てのrr iJ

    僚の心JIH学者 Wundt や歴史学手~. Lamprecht らと r~û様 , 歴史, 民族予,生物予などの~J~fの議博な知識をも ち , 普遍的,包活的な世界肥梶を~1ざして

    いた。しかし彼はまたこのr~o僚遥と共通だが, 論E型的,分析的思考l乙禿でて

    いたとはいえない。

    -/j1885-b年にかけての、判利均, Lelpzlg などドイ ツへ遊学した後の

    Durkheim (1858 .1917)は, 1887年から Boldeau大学で社会学の講義を担

    、~する。 1893年比は 「社会分業論」 の出版, 1896年比はフ ランス最初の社会 、学のti持悼のf初白とともに, Boldeau大学正教綬の地位に就き, 1898年から

    は,維I誌 「社会学年報i)の刊行l乙努力する 。Vidal de la Bl川 e(1845 -1918)は高等師範学校教授を経三, 1898年(こ

    はソルボンヌ大学教授となり,乙の問1891年には 「地理学年報Jの創刊を成

    し遂げる。

    さらに GeorgSimmel (1858 .1918)また1890年の「社会分化論J以来,

    独自の形式社会学の樹立に努めていた。彼は単民社会学i乙とどまらず,折

    ( 773 )

  • ..

    - 42-

    年号

    1890

    年表 (1890-1910年)

    地用 学 社会ザ:

    ジンメル f社会分化論j

    その他

    ヒスマルク首相辞任 (独)

    プレーサー 『金校篇J (初版)

    1891 Iラ ノツェルr人類地理学j第 2巻|ラフノー 「地理学における人間|露仏同盟成立

    1892

    H.ワクナー fF.ラ ノツェルの|的要素 (ラ ノツェルの人領地理 |ラ ンフレヒト fトイツ史j人類地男学或は人聞の地姥的分|学の要約)J (A.G.) I第 l巻

    布Jフラー/ユ. J也理学年報

    ( A . G . ) ( fl、)創刊j

    ジンメル [歴史留学の諸問題JIリ・:力一 卜 f認識の対象j

    1893 Iラ ノツェル 'アメリカ合衆国JIテュルケーム f社会分業論j地理学雑誌 (英)創刊

    エス ピナス, ソルボノヌ大学教

    授となる

    1894 Iラソツェル「地理的位置につい|テュルケーム 「社会学的方法の|ウイ ンテルノ、ント 「肢史と向然、

    てJ I諸規準J I科学j

    1895 Iへノ トナー ,地理学雑誌 (独 ) Iアメリカ社会学雑誌の創刊。IJ干IJマイツェン f西ゲルマン,東ゲルマ ン, ケルト,ロ.ーマ, フィ

    ン, スラプ諸族の集孫と農法jハ ノサート「エスキモーの民政

    移動j

    1896 I 7ラーンユ 「一般地理学原理JIデユルケーム,ボルト一大学社|ランフレヒト『文化史とは何かj会学教授となる

    リリエンフェルト f社会病理学j

    間 7Iラ ノツエル 「政治地理学J Iキテイ ンクス「社会学原理j M. ウェーハー.ハイ テルヘルク大学教授となる(初版)

    1898 Iンンハ-rft貨物地理学J Iテュルケーム,社会学年報 米西戦争

    1899

    シュ リュー ター 「ラ ソツェルの I(A.S.)の創刊 フロベニウス「アフリカ文化の政治I也煙学の法本思想J Iジンメル 「社会的諸形式はいか|起源j

    l ブラーシュ「ラ ソツェルの政治|にして持続されるかJ(A.S.) I也f聖学J (A.G.) (仏語)

    フラーシュ.ソルボンヌ大学教|ラノツェンホーファ一 社会学

    J受となる

    ラノツェル 人頬地f理学j

    第 l巻 (第 2版)

    ヘノトナー,ハイテルへルク大

    学教授となる

    的認識論j

    テ・ュルケーム「ラノツェルの政

    治地理学についての番必J(A.S.)

    テュルケーム 「社会形態学J(A.S.)

    南阿戦争

    リ・::力一ト.文化科学と自然、科

    学j

    へケル『宇宙の謎j

    スペンサー.ギレン{中央オー

    ストラリアの原{主諸部族j

    ランフレヒト f近代ドイツの地用.的基礎j

    問00Iラ ンツェル『民族発展の源泉と|デユルケーム「ラ ノソエルの人|ウ‘ント「民族心理学j

    しての海洋J I煩地珂学第l巻の再評J( A . S .) I ( 1900 -20 ) ラメツェル「土地.社会.[対家J

    (A.S.)(仏語)

    ジンメル,ヘルリン大'下H外教 17 ・J サール f論理学研究J2巻

    筏となる lフロイト f夢判断j

    ( 774 )

  • ー人文地理学と社会形態学 - 43 -

    qi勾・ I. Jtl! ~õ 学190.1 Iラッ ノzル F 人地と生物J2巻

    ラ・リ ツL ル r ~ 1~r~mHIJ J ウ1 イコフ「人!tfの大J也に及ば

    J-彫物J (A G.)

    U: / ... ιι さ芥 σ〉 他

    1902 デュルケーム.ソルボンヌ大学|ジェイムズ f以敏悦験の開制1J

    教段 |ポアンカレ『科学と fti税j

    デュルケーム「トーテミスムに

    ついてJ(A.S.)

    1903 ラ・γ/rル 『政治地RtEFj

    (都2版)

    デみルケーム モース f分矧の|スペンサ一役

    桁干の米mJ形態についてJブラーシ-'.フランス地~Il概観j (八.S . ) ブラーシ ニL r人文地層!学ーそJl Iジン ノル rtI :会的形式の;~Rl)的と生物J也Jllt学との!制係J I投彬J

    1904 Iラッツェル没

    1905 Iリヒトホーウムン没

    ドマンジョン 『ピ カルディーと

    腕彼地蛾j

    ルクリュウ f人矧と :I:J也j

    *=fL、t6/,i碕成立

    ヘッケル r~lミ命の不思::IJM ウふーパー 『ブロテスタン

    テイズム.l) f両~.と 資本主殺の粕

    神j

    クレ メンツ r~I~悠ザ:の6Jf究法j1906 シュリューター f北京チューリ

    ンゲンの.UH・刈モース .ビューシャ fエスキモlソシュール『一位百t語学説殺j一社会の事節的変化に|則する獄 I(1906-11)

    シ ι リ ι ーター「人~[ÍJ也埋学. 品J (A.S.) I英22協商成立1 ~fに F ラッ Y ふルの学説の桁| シェフ レ 『社会学綱要j

    ~n~~観点J

    ヒュ ッケル「ラ ・γツェルによる

    よ岨勺J也~n J (A. G .)

    1907 Iシュリューター rI ~ I 然と人!日間|プーグレ rlL会学とはfiiJかj関係についてJヴアロー rfl~ブルターニュ..人文I也思!学的研究j ,

    間 8Iリヒトホーフェン (シ ュリュー|ジンメル 『社会学j

    ター嗣) r一般.m子高交通地理.学挑戦j

    1909 シオン f東ノルマンディーの景|ドイツ社会学会創設l観J Iデュルケーム「社会学と社会科

    ペルグソン f創造的進化j

    ポアンカレ f科学と方法』フレーザー.リパプール大学社

    会人顕学教授となる

    A.ウふーパ-r:C雛立地鎗jウ方ーミング f純物生態学jユクスキュル『動物のf¥lJ.克と内

    的世界j . --" J9JO Iプリュンヌ 『人文地理学j レヴィープリュール『未聞社会|カ ッシ ラ-r災体概念と聞

    の忠倣J I念j

    (注) A. G..……Annales de Geographie A. S.……L!Annee SOciologique

    ( 775 )

  • - 44ー

    学,芸術論など,幅広い領域に関心をもっ知識人で‘あった。

    と乙ろで,年表で特に注意すべきは,1890年代末期比,地理学と社会学の

    間で,人間集団と土地の問題に関して,意見のやりとりがみられたことであ

    る。論争は創刊されて問もない,i社会学年報 jや 「地理学年報」誌上で活

    発に行なわれた。乙とに前者の雑誌など,Durkheimとその一派のみならず,

    広く他の諸科学者にも開放され,Ra tzelや Simmelも論文を寄稿している。

    やがて20世紀の進行とともに, Husserl, M. Weber, Bergson, Uexkull

    など,新しい思想の持ち主が現われはじめ,地理学でも Richthofenや Ratzel

    が没して, Hettnerや Schluter(1872 -1959) らの時代に入って行く。 乙

    うしてみると,19世紀末の地理学や社会学は,丁度各学科の基礎固め,領域

    画定の時期にあたっていたと思われる。 一方は Humboldt,Ritterの精神に

    のっと った,新しい人文地理学分野の確立,他方は Comte,Spencer以来

    の実証主義に従った,より明確な研究領域の画定など,新しい課題の達成がは

    かられていた。それゆえ,そ乙に各学科の境界領域,さらには各学科の本質

    論にかかわる論争が起乙ったのも当然、の乙とであった。

    3 Febvreの見解とその問題点

    Lucien Febvreの 「大地と人類の進化」は,内外において,地理学省をは

    じめ,社会科学方面の人々によく読まれた書物である。そしてそ乙にノ示され

    された れbvreの説得力に富んだ見解は3 広く多くの人々に支持された。

    Dickinson も言 うように確かに乙の書物は意義多いきの,すでに一定の歴史

    的役割をはたしたものだといえよう。ただ筆者がこ乙で問題にしたいのは,

    Febvreの Ratzelについての評価であって,そ乙にはやや頭ごなしの,時

    によると感情的とも思えるような批判が存在する乙とである。

    ともあれまずは Febvreの書物から, Durkheim派の主張と ,それに対

    する Febvreの見解を要約する乙とからはじめよう 。

    まず Durkheim の第 1の批判点はく人類地理学は,土地が社会生活全般

    の上に及ぼすあ らゆる影響の研究に従事しようとするが,乙れは野心的す

    ぎ,単一科学では無理な課題である ,乙の課題はせいぜい社会形態学とし

    て,社会の物質的基体すなわち各社会が地 U乙定着する にあたって借びる形

    状, それらの人口の容積,密度,その分布状態な らびに集団生活の土台とし

    て役立つ事物の総体を,単に記載するためでな く,説明するための研究にと

    どまるべきだ>とするものである。

    ( 776 ) •

  • 人文地理学と社会形態学 - 45一

    確かに乙の指摘にはもっともなと乙ろがある。ちなみに,後年 Hettner

    の地理学がやはり自然と関係ある因果関係の探索に向わんとした事実に対し

    でも,同様の批判が当てはまるといえよう。 Humboldt以来の地理学の困

    難さを示すものである。

    次いで Durkheim派は主張するがく地理学者は往々にしてあらゆる集団

    が土地的根底を持つと言うが,オーストラリアのトーテム集団をはじめ,土

    地的根底をもたない集団は多い,すべての集団が土地と結びついて考察され

    るべきだとする Ratzelの主張は行き過ぎである>。

    しかし Durkheim 自身, Iある社会集団がそれが占居している土地に対し

    て,どんな形においてもつながりをもっていず,全然それの印影を構びてい

    ないというのはありえなしむ)とも述べたりしていて,少し混乱している。も

    っとも乙れは無理からぬと乙ろであって ,社会形態学も,結局,地域的基底

    を有する人間集団を対象とするのである。しかし社会形態学は,人間集団が

    自己の特有の領域とみなしている上地の断片を,彼らの地上への投影,すな

    わち彼らの形態そのものだとして,固有の研究対象とする。

    乙乙で Febvreは と述べたが,その際

    彼はもちろん Vidalde la Blacheの 「場所の科学」を念頭に置いていた。

    Ratzelのように集団と土地(空間)を抜きがたく結びついたものとして把

    える時,社会形態学のアプローチと抵触するが,Vidal de la Blacheゃ,あ

    るいは Richthofenなどのように,場所一一地表の一片の科学としての地理

    学は,社会形態学とは別に成立しうるとみられる。

    Febvreは Ratzel'e対し,次のような批判を浴びせる。「純然たる空間,われわれが一般に空間とは不可分のものと信じているも

    ろもろの地域的特性とは無関係に,それ自体として取り上げられた空間なる 、

    ものが,卓抜な役割を演ずる乙と 〔が論じられているJo・・・・・・しかしもし

    Ratzelが乙の理論を築き上げたとすれば,それは彼がある政治的な理念に

    誘導されたからであり ,伝統的な見解にとらわれていたからであり,地球上

    l乙散花するあらゆる国家を一瞥のうちに包括して,多様な,豊富な,変化lζ

    富んだ生活を,単一で,一様な表現に遷元したからで、あわ)すなわち領土的

    拡大の願望,希望,永遠の渇望だけに還元したからである。」

    それゆえ Febvreはもっと着実で控え目な地理学,国家ではなくして,上•

    ( 777 )

  • - 46一

    地l乙対象を求める地域地理学を望む。 「諸集団の物質的構造およびその諸要

    素の空聞に分布している様式」に関しては社会形態学にまかせ,複合体のあ

    るがままの記述と分析に向かう Vidalde la Blache以下の人々の立場を応

    援する。

    以上のようなれbvreの見解は,いわゆる環境決定論批判には大いに有用

    で、あったし,また飯塚浩二の論稿たどを通じて,我固にも影響の大きかっ た

    考えである。しかし人類集団と空間との関係についての Febvreの見解は,

    ドイツの領土拡張主義に対する,やや感情的反対以外には,あいまいであ

    る。後述するように,実は Ratzelや Durkheimの研究の源には,社会と

    その空間形態,社会や空間の分化への関心が横たわっていたのであり,地理

    学を人間と自然の関係の学として把えようとしたれbvreや飯塚は,

    Ratzelの意義を十分評価する乙とが出来なかったきらいがある。 Ratzelの

    人類地理学思想、の中に含まれる空間論的意義は,今日ようやく評価されつつ

    ある。と乙ろで今 Febvreの乙の書物のプランを眺めてみると,彼が Vidalde

    la Blache以下のフランス学派の地誌的地理学に著しく好意を寄せている乙

    とに気がつく。 Febvreが特に賛同したのは,フランス学派の地理学の,性急

    な一般化を行なわない,個別的地域研究を積み重ねる姿勢にあったと思われ

    る。 一方乙れに対し, Hettnerの Febvreの書物への評は興味深い。

    Hettnerは個性記述的地誌学を推進する彼自身の立場も手伝って, Febvre

    の歴史叙述に対応しての,個性記述的研究の賞讃には賛成しつつも,彼が類

    型的把握を否定した乙とを論難する。また今日いかなる地理学者といえど

    も,人聞に対する個々の自然現象の強制的影響を信じないし, Ratzel とそ

    の一派の人々がそのような感じを抱かせる面をもっとしても,それは研究の

    過程でたまたま必要となった乙とにすぎず,自然の人間への影響は,動機と

    して働き,民族や人種が異なれば,同じ動機に対しでも,違った反応を示す

    とする見解が示されていると述べる。そして究極に Febvreの乙の書物は,

    実りなき,不快な作品であると酷評する。

    Febvreの書物も, Hettnerの書評も,いずれも 1920年代になってからの

    ものだが,今日からみると,その内容にいささか感情的な意見がみられる点

    に注目させられる。 19世紀後半から20世紀前半にかけての, ドイツとフラン

    スの政治的,思想的対立が,何らかの影響を及ぼしていたのであろうか。

    ( 778 )

  • 人文地理学と社会形態学 - 47一

    4 Buttimerの見解

    Anne Buttimerは そのフランス学派の社会と環境の把握について要領

    よくまとめた書物の中'e,I人類地理学と社会形態学」なる一章を設け,Ratzelの人類地理学と Durkheimの社会形態学の近接性と相違点について

    論述している。

    先ず彼女は, IRatz山 Durkheimの ? 件 共 通 の 関 心,一 人類

    の社会分化をいかに研究するか ーーを有する」と述べる。乙の着服は鋭く ,

    従来に無かった観点である。

    IRatzel が空間的,歴史的見通しをもって,経験的に,世界社会のハター

    ンを眺めたのに対し, Durkheimは,研究者が哲学的に引き出された規範

    の脈絡の内で,それらを分析し,解釈できるであろうと乙ろの,幅広い概念

    の枠組みを設計する乙とに努めながら,世界社会のノマターンを,存在論的目 J

    考察した。 Ratzel,Durkneim の両者共,社会を有機体説の観点から論じた。」

    次いで Buttimerは, Ratzelの著作の内容に 「民族学」の乙ろから ,次

    第に人間的要素の重要視,人間の白然からの自律性の配慮が見られるように

    なった乙とを指摘すぶ)そして人類地理学は,社会と環境の相互関係を研究

    するための柊蒙的な案内状であり,それは後世の批判の論じるがごとき,教

    義的公式などではないとする。 Buttimerの乙のような Ratzel観には,

    Steinmetzlerや Dickinsonの書物の影響がみられるようである。

    「人類地珂学と社会形態学の両者は,社会の形式的 (空間的)ノマターンあ

    るいは 『形態』を地図化する乙とから始まった。しかしこれらのバターンの

    説明の際に,一万はまず,自然環境の内部で暮らす集問に焦点をあてたし,

    他方は集団構造 (制度的枠組み)と集合意識に集中した。 Ratzelが社会一

    環境関係における社会的変異のための説明主宇った一方, Durkheimは原

    因の要素として,生活型や行動型を熟視した。J「乙れらの 2つの道標,すなわちlJ

  • - 48-

    Durkheimを同一平面で論じた着想がすぐれているし, Vidal de la Blache

    への Ratzelの影響が大きかった乙とにも触れられている。 Ratzel:地理学

    に対する冷静な評価も,従来の偏見から抜け出している。本稿の試みも,

    Buttimerの論稿の延長上にあるといってよいかも知れない。

    と乙ろで Ratzelと Durkheimの課題の近接性についての暗示は Butti-

    merの親しんで、し!?:M Somの著書の中にも見出される。

    「社会的基体はどう定義されるのであろうか。それはまず外的形態によっ

    て,つぎにその内容によって,定義される。社会的基体の外部形態とは,い

    いかえれば大きさ,位置,境界などであって,乙の点については Ratzel,乙

    従うのである。社会基休の内容とは,その人口数および領域内の人口分布状

    態であって,われわれ地理学者が農村集落 habitat rural と都市集落

    ha bitat urbainと呼んでいるものである。最後に土地利用 utili5ationdu 501

    の様式がある。 -

    以上の物的諸形態が記述されると,社会学者はつぎにはそれらを説明す

    る。 『たとえば社会学者はつぎのような乙とを問題にするであろう。諸社会

    集団が,その到達している発展段階に応じて周辺的位置よりも中心的位置の

    方を好むのはなぜか,諸国家の生命にとって領上が果す役割はどんなもの

    か, • • • ~ 乙れ以上引用はしない。要するにこれらの諸影響はすべて運動に帰

    着するのであるJ

    Sorreは幅広い見識の持主であり,人文科学の一体性なる原則に心をひか

    れている。諸科学はすべて同じ所与を対象とするが,所与の取り扱い方が違

    う。人類集団の定義,構造などについては,地理学は社会学と研究を分けあ

    うとして,著書の題名の如く,地理学と社会学の接点を探っている。

    以上の Sorreの論述からみても社会形態学の内容と, Ratzelの人類地理

    学のそれと似たと乙ろがある乙とは明らかである。それゆえ孜々は,次に

    Durkheimと Ratzelの両者の学問の中味へと考察を進めなければならない

    であろう。

    5 . Durkheimの社会形態学

    Durkheimは,いみじくも次のように言う。

    「社会組織は空間的組織の標本で,後者は前者の写しのようなもので、ぁね

    Durkheimの思考の特徴は,その著しい社会学主義である。社会的事実

    は,個人心理や人種的特徴や環境などから説明され得ない。それに先立つ社

    ( 780 )

  • 人文地理学と社会形態学 - 49

    会的七%によ ってのみ説明され似る 一ーとする彼は,」;:地と民族や国家の関

    係の巧'然l乙rr.'Jかう Ratzeltc反論する 。 Durkheimは, 11会集団の変化のjZ(凶は,気候や地形など,土地の彬縛で、は断じでなく , 社会~Etlの山的変化

    のJf:QC求められるとする。 Durkhelmか Rat??!の符作あい〉ごろから知

    るようになったのかは必ずしも切らかではないか, 1899{l三ごろから, Ral/el

    の1i:作l乙対する i直接的批評か公にされてくる。 Durkheimの社会形態学の

    ~lIf\は,すでに1893年の 「社会分業論 | の rI:t ,乙読みとれるが, 1899年の社会

    学年報第 2 巻~f 1の論文の中で,明椛なj彩て:t5長され仁。「社会4127Rは _.定の大きさと j杉をもっ法体の I二l乙仏ヲている。そして,

    この法体を権成しているのは,什会を構成する諸個人の集合,それらが池上

    に配的されている儀式,および集介的関係に;;診鰐ぞ与える ところのあらゆる

    祁矧のす i物の.~I:質や形状である。すなわ久人 I 1の多少, i的支, : ffl5 1{ Tへの~H:I , Efl ~への分散,郎djや1l:J,Tfの防Jlえ卒業A丸 t1 -会によって [~J められている'空間の)1:さ ・境界,および通信手段などによ って,社会的基体は梨なろ。ところか

    他fj,乙のj15体の構造は, I直接であれIl:¥j岐てあれ, 一切の社会現象lζ影響を

    与える。それは,一切の心則的1}l象か出版rI'¥j接l乙5項目訴の状態と関係している

    のと同じである。ゆえに,そ乙 l乙は,明 らかに社会学と利得関係告もっと乙

    ろの,ま たそれはまったく巾ー・の|バjじ対象氏関係しているから,ま ったく単

    ー・の科学に所属すべきと乙ろの, 一昨の問題がある今??。乙の科学乙そ,わ

    れわれがれ会形態学と呼ぶ乙と~1Al策するものである 。Jこうして Durkheimは,在来の地即予, 1候史学,人, :]学の研究分野ぞ,

    一つの[I (内のドに統合し,社会形態学なる新しい学科を設ける乙とを促iiiiiす

    る。そして Ratzelの「政治地四!学」の紹介に先立って,さらに次のように

    述べる。

    「読者は以下,地理学の一学派が,今日,政治地原学なる名称の下l乙ヲ類

    似の統合金試みているのを知るであろう。しかし我々は,乙の表現がある極

    の混乱をFRIll:11するかも知れぬことを恐れる 。笑際と乙の新しい分野は,土地

    の形態ではなく ,社会が彼自身を地上に底礎づける際,社会l乙影響を及ぼす

    形態を研究するであろう。そしてそれは全く異なる問題である。河流や山脈

    波ひ[lu様のものが,社会的基体の情成要ぷである乙とは疑いないが,しかル

    それらは決して唯一の構成要素であったり,最も本質的要素であったりはし

    ない」

    とのように Durkheimは, Ra tzeiの環境論を非難する ζ とによって,

    ( 781 )

  • - 50-

    向己の社会形態学の有意、性を主張する。

    と乙ろで Durkheimが,社会集団の外的形態l乙注意、を向けるのは,彼が

    人口や人口密度のうちに,社会における分業の進展を説明するカギがあると

    みたからである。次に彼の 「社会分業論 jから,特l乙社会今会業の進展ない

    しは社会進化について説明していると乙ろを要約してみよう 。

    Durkheimはまず,分業の増大は,社会的環節がその個性を失ない,諸環

    節のあいだを隔てていた障壁がさらに透過しやすくなるとの事実によるとす

    る。乙の障壁の消滅から,今まで切り離されていた諸個人民の接触が増 し,

    分業はし、よいよ進む。乙の諸個人間の接近 とそ乙から生ずる積極的な交換

    (乙れは動的あるいは道徳的密度 rdensite dynamique ou morale とよば

    れる )は,諸個人間の現実の距離が縮まる乙とにより高まる 。従って社会の

    密度,凝集度の高い乙とが, 分化を促し,機械的連常のお乙なわれる環節社

    会から,有機的連帯によ って結ばれる有機的社会への進化がみられる 。歴史

    の発展過程において,社会がしだいに凝集度を高めてゆ くやり方には,次の

    3種がある。すなわち,人口集中,都市の形成と発達,および交通とコミュ

    ニケイ ションの手段や速度の発達。密度の増加のほか,社会の容積の増加

    も,その社会l乙含まれる諸個人の数が多くなり,ひいては相互接触の機会が

    増すから,分業に影響を及ぼす。要約するに, i分業は諸社会の容積と密度

    に正比例して変化する。また,分業が社会の発展過程に即して継続的に進歩

    するとすれば,それは社会が規則正しく密度を大にしてゆくからであり,一

    般にその容積を増すからである Jという乙とである。

    つづいて Durkheimは Spencerの次の文を引用して,気候や地理的条件

    と分化の関係について考えを述べる。

    『あるコミュニティーの人口が非常に大きくなって,国中の大半の地域に

    散らばり,やがてそ乙に定着するようになると,その成員たちが,それぞれ

    の地域で生まれかつ死ぬようになるので,乙のコミュニティーは,異なった

    物理的環境にある多様な区域をもつようになり,それぞれの区域ではその生

    業からして類似のままではすまなくなる。散らばって生活する乙れらの区域

    は,狩猟をしたり,大地を耕やしたり,海辺の区域では水産業に従事したり

    する。おそらくその位置が中央部にあると乙ろから,定期的な集会場として

    選ばれた地域の住民たちは小売商人となり,都市が創設される.• • • .。風土の

    違いは,その国の各地方における農村の住民たちに,部分的に導門化した生

    業につかしめ,彼らが生産するのも,牛,羊,小麦といったように,違いが

    ( 782 )

  • 人文地理学と社会形態学 - 51一

    でてくるJDurkheimは, 乙のような外在的差異は,分業を可能にするものではあ って

    も,それを必然化するものではなし" Spencerは,進化がお乙るとすれば,

    それはと、んな儀式で‘生ずるだろうかという点については十分説明してくれ

    る,たか彼は,進化を生み出す原動えjが何であるかについては, 語ってくれ

    ない,とする。

    そして Durkheimは Darwin説に依拠して次のように言う。

    「社会が代償と街!交を増すにつれて労働がさらにいっそう分割さ れるの

    は,その外イピ的状況かさらに多傑化するからではない。生仔競争がいっそう

    蛾烈になるからである。」

    iDarwinはζ う述べている。 『狭い地域でも移住の自由なと乙ろでは,し

    たがってまた,例対側の闘争が蛾烈をきわめるに違いないと乙ろでは,注意

    してみると ,そ乙 l乙住tr揮には非常に多様性があるのがつねである 0 ・・・.. . ~

    • • • • .人ftりもまた,friJーの法則に従う。同じ都市で,さまざまの職業は違った

    目的を呼号するのだから,たがいに芹しあう乙とを余儀なくされずとも共存

    はできる。J「それゆえに,分業は生存競争の ー帰結なのである。だが,分業はまた,

    乙の競争を緩和した結末でもある。じっさい競争者たちがたがいに排除しあ

    う必引与く ,手をたずさえて共存しうるのは,分業のゆえをもってで、ある。.• • • • • J

    以と,多くの引用を重ねる乙とにより, Durkheimの分業論の要点が次

    第に明らかになってきたであろう。彼は Darwinの生存闘争の考えを評価

    するととく,生態学的な視-点をもち,社会の内的接触,凝集など,いわば種

    社会内部の交渉に分化の原因を求めている。 Ratzelな ら Spencerと同じ

    ような考えを抱いたであろうし,事実述べても いる (後述)0 Ratzelの考

    えは生物(人類)をまず何よりも常民運動するものとしてみる乙と,そして 、

    M. Wagnerの隔離論に従い,移動した生物の地理的隔離によ って,新しい

    形態が生じると考える点に特徴がある。両者の考えのちがいは,r種の起源」摘についての見解のちがし、とみる乙ともできる。しかし大局的には両者と

    ふ とE物学 (生態学)的観点が警富で,またもとより有機体説に拠っている,あるし、は Spencerの影響や Darwin説の引用など,思考方法に似たと

    ζ ろがある。 Durkheimが人間集団ではなく ,地域の解明に向かう Vidal

    de la 81acheの地理学より ,人類集団を考察の対象とし,社会や空間分化

    • ( 783 )

  • - 52-

    の説明 l乙~ご達する Ra tze l 地理学l乙鋭く敵対したのには , 理由がある。換

    言すれば次のような事情ではなかろうか。

    Ratzelは 「人類地理学J 1, II において,それまでの地理学とは異なり ,

    人類集団の地表上における分布形態,人類の歴史上の移動と土地 (持p,肢節の出入り ,広さ ,位置等)との関連などの一般的考察を展開した。一方,

    社会の分化の過程と原因を探ろうとする Durkheim も同様の課題をもって

    いた。しかし彼は,社会的事実を何より重視したから,土地自然、が社会形態

    に与える影響を云々する乙とには,}}(服できなかった 。そのゆえ彼は

    Ratzel地理学の課題のうち,人類集団の地表上民宿びている形態の研究の

    みをとり出し,乙れを社会形態学と名付け,社会学の一部門として考察され

    るべき乙とを主張した。

    さて, Durkheim以後,乙の社会形態学の提唱はどのように進展して行

    ったか。弟子の MarcelMauss によるエヘ三モーの社会生活(乙関する研究

    は, Durkheimの課題を見事に示しはした。エスキモ一社会においては,

    季節的に社会集団の形態がかわり ,それが変化するに対応して,宗教や法律

    や道徳が変化する。そこでは社会の物質的基体とその社会の地理的環境との

    関係が見事に説明されている。しかし乙の Maussの試み以降, Durkheim

    の言うような社会形態学的研究が組織的に行なわれた形跡はない。むしろ

    L_ Schnoreが説くよう♂ )その課題は、ン カゴ学派の人間生態学の中で探究

    されているように思われる。

    本章の冒頭に掲げた Durkheimの社会的事実の先行を説く文とはうらは

    らに, Durkheim生誕100年にあたる 1958年,その Durkheim,乙捧げた註

    物において, Lev i -Str a ussは次のように述べている。

    「まだ誰も , 集~J1の空間的形状と , 集問の社会生活の他の側面に由来する

    形式的特性のあいだにどんな相関関係がありうるかについて,まともに研究

    してみた者はし、ないのである。Ji私は村、維の空間的な形状が,鏡のようにつねに社会組織を反映するとも ,社会組織の全体を反映するともいおうとは思

    わない。乙のような断定は,大多数の社会について根拠をもたないだろう。J

    6 Ratzelの分化論

    Ratzelの代表的著作である, i人類地理学:第 l巻,第 2巻, i政治地理

    学Jは, Durkheimの視点から言えば,社会形態学に含まれる内容を符す

    る。と りわけ民族の地表上における分布について論じた 「人類地理学」 第 2

    ( 784) •

  • 人文地理学と社会形態学 - 53-

    巻の内容は,とりもなおさず社会形態学的研究といいかえられる乙とができ

    る。 Ratzelは乙の書物で,エ クメーネとその発展,限界, 人口,人口密

    度,人口移動,人間の居住地,都市,交通路などを扱っている。乙れと

    1899年に出された 「人類地理学」第 1巻第 2版にみる歴史的運動と位置や

    空間など空間の形式原理を合わせて眺めてみれば, Ratzelの 「分化Jt乙対

    する考え方が明らかになってくる。

    Ratzelの 「分化」については,すでに野間三郎の簡要な論稿がある 。野

    間は主として 「政治地理学」の第 5章によりながら,i中心と周辺」の概念

    を軸に, Ratzelの 「分化」について総括的に述べ, M. Wagnerの理論

    の Ratzelへの影響の大きいととを強調する。我々も乙の野間の観点lζ沿っ

    て,さらに考察を進めて行く乙とが有益であろう。

    Ratzel と Durkheimの 「分化」論の最も大きなちがし、は, Ra tzelのそ

    れが 「運動Jする人間集団という観点に立っている乙とである。人類史に関

    心深い Ratzel は,現在の分布を 歴史的移動の所産として把握する。

    Durkheimが社会の成長,膨張,密度の高まりなど,社会内部の構造変化に

    重きをおくのに対し, Ratzelは 「運動」の結果,分化が生ずるとする。し

    かし彼もともかくは民族の分化に 2種類あることを区別している。第 1は,

    民族の部分間の相互干渉によってお乙る内的分化,第 2は, 広い空間に拡が

    る民族の当面する異なった生活条件から生ずる外的分化であよ)前者比重点

    をおいた Durkheim'C対し, Ratzelが説明の力点をおいたのは後者である。

    Ratzel による 「分化Jの説明をとり出してみよう。 「政治地理学Jの第 5

    章,分化と政治的価値中の国家有機体における分化の本質なる項の一節であ

    る。

    「社会 (Gesellschaft) における分業は,常に究極には,地理的分裂とい

    う結果をもたらす。植民地つまり未だ若い国家の成立と生長をあとづけてみ 、

    るなら,我々は,空間,位置,地味,地下資源,港紙などの,移住を制約し

    たり,大いに促進したりする ζ とによって,その地方への移住者が配置され

    る様を見る。植民地の最初の段階は,新来の民族のその土地への順応と適応

    である。一部分は海岸付近に居っき,そ ζl乙落ち着いて,統治の核と .工

    業,商業,航海等に従事する住民の部分を形成したし,別の一部は,内障へ

    と進み,森林の動物を狩猟し,森林地を伐り透かし,耕地を形成し;プレー

    リー,パンパの牧畜,山地の鉱業へと駆り立て,あるいは流れに従って川の

    ( 785 )

  • - 54-

    近くで漁師や水車屋として居住する 。それとともに,まもなく大小の移住

    地,都市,村落,城下町,農場が生じ,市民や農民,商工業経営者,猟師,

    船員,漁師,鉱夫などの集問が,内陸部や境界地域の住民を形成する 。今や

    分業がさらに進むなら,彼らはなるほど常にその士地との密接な結合をもら

    はしないけれど,我々の時代における進展した分業の作り出した500の職業

    のうちにとどまり,しかも地理的基礎と密接に結びついてきたものが,最も

    政治的に重要である乙とにはかわりない。とりわけ空間条件 (Raumbe-

    ingungen)は,社会や国家の成長に常に作用しており ,そこで今や,社会

    的,政治的帰結として,モ切らに及び密集して居住されたも しくは非居住の

    領域の多様な段階が生ずる J

    乙の 「分化Jの説明は前章にあった Spencerの説明と類似している 。し

    かし Ratzelは人間の土地自然、による規定というより,むしろ, 土地条件の

    多様性によって分業が生ずる乙とを示唆している。そしてその場合,人々の

    従来の資質が影響すると 言う。「人類地理学」第 1巻 (第 2版)では次のよ

    うに言 う。

    「乙の分化は単なる自然の相違への諸民族の受動的な順応ではない。むし

    ろまず第 1に,諸民族のあいだの臼由意志による分業によって,居住地が決

    まる。乙の場合の居住地とは民族の性質に影響するものではなく,民族の活

    動を規定するものである。ある民族の拡大に際し,それゆえ居住地は,どこ

    へ,どれくらい遠くへかを決定する。まっ先にある地万へと移動する民族

    は,自らの状態に最も適した地域を選ぶ。類似の乙とが続く。フェニキア人

    は海岸,C,オランダ人は島々に,ロシア人は内陸の地l乙住みついた。狩猟民

    は森に,遊牧民はステ yプや砂漠に依存し,農耕民は平坦な農士特,征服的

    な民族は堅固な地を所有し,商業民は港や河口や渡船場を占める。j

    Ratzel における 「分化Jは,上記の引用文の章の題日が示すとおり ,r移動による分化」であり ,新しい居住地は,移動者の資質 (ノ亡来の居住地によ

    る規定)と移動先の地方の土地状況との関係によって決まる。

    乙乙で孜々 は Ratzelの著しく生物学的な見方を注目していいであろう。

    Ratzelは丁度,値物が新しい七地に拡大してゆくとき ,自己の元来の生活

    型に適した地域を目ざすのと同様の視点から,民族の移動 と定着を考えてい

    る。さきに述べたよう に Durkheim もま た, 有機体説にもとづき ,生物学

    とのアナ ロジーを も用いている 乙と など, Ratzel と似た点も ある が,彼が

    自然科学的方法によったといわれる時, それは主として社会的事実を ものと

    ( 786 )

  • 人文地理学と社会形態学 一 55一

    してみるとする立場を主張し,また時l乙機械論的用語を用いる 乙とから,そ

    のように称されるのであり ,晩年に至って大地と生物の統一的把握を志した

    Ratzelのように,人類を生物のーとして眺める見方と は次元が違っている。

    ただそれゆえ乙乙で Febvreのように, Ratzelは自然環境が人間活動を

    決定するとの立場氏立つ,地理学は自然と人間の関係を把える学である,と解

    することは誤りであろう。 Ratzelは上掲の引用文などからも大体わかるよ

    うに,地表における民族や国家の分布形態を説明する乙とに関心を注いでい

    る。そして彼の著者においては, I位置」と 「空間Jが人類の歴史一一運動

    の歴史に対しでも っている意義が詳細に論じられている。

    Schluterが Ratzelの 「分化」について解説している箇所は,乙のような

    Ratzelの観点をよく要約しているとみられる。

    「宅聞の考察にと っての基礎に横たわる事実は,地球の,とりわけ陸上生

    物の住む部分の取るにたらぬ大きさという乙とである。すなわちそれは生命

    の充満に比べて取るにたりないという乙とである。それゆえ生物は直ちに自

    由に活動できる空間の限界に達し,そこから繰り返し投げ返され,絶えず、改

    めて持ち合わせのと地へと指示される乙とになる。従って乙乙において空間

    闘争が起乙り,その結果それによって有機体に内在する発展の傾向からは,

    単なる排除や密集の状態は生じ得ず,有機体はむしろ生活の分化へ,有機的

    分業の意味における空間の分割へと向かわねばな らない。生活のために広い

    空聞を必要とする生物と並んで,とく小さな範囲で十分なものもあるが,異

    なる有機体も,再三再四,土地l乙内在する食糧源泉を利用し尽くそうと試み

    る。そしてそのすべては,それでとどのつまりには,重なり合って層をな

    す。人間の場合,空間闘争の乙の分化作用はすべての物と同じように,単に

    社会の領域においてのみあらわれてくる。そしてそ乙では乙の分化作用は,

    分業や新しい職業部門の成立を,一語で言うなら ,社会 (Gesellschaft) の

    進歩的組織を導 く。しかし乙の際,次の乙とを考慮にとどめておく べきであ

    る。すなわち乙の分化作用は,空間がもはやある程度の数で充たされてお

    り,拡大の可能性が限られている時,はじめて行なわれる?

    Ratzelの 「分化」は社会の分業について語る場合でも ,常に 「空間」と

    関連づけて考えられている。 Ratze1-Durkheim論争の根本には,社会 と

    空間の問題一一空間が社会形態を規定するのか,社会が空間形態を規定する

    のか,という対立点がある。 Febvreは乙の場合の空間をn然環境と解したり, ドイツの領土拡張の野望を示すものとしたりして,公正に理解しなかっ

    ( 787 )

  • - 56一

    た。 Ratzelにそのような面がないというわけにはいかないにしろ,彼の

    「空間J概念は Febvreのように簡単に片付けてしまえるようなものではな

    それはそれとして Ratzelの 「空間」や 「位置」は,時にその合台内容と

    切り 離された抽象的形式として扱われている場合もあるが, 一方では民族や

    国家との抜き難い結合性を示すものとして土地 (Boden)と類似の意味でも

    使われている。生物の場合の生息地 habitatや生活空間 Lebensraumの意

    味で登場する乙ともe多い。そして乙れは乙れで一つの明確なと張として,現

    在まで曲がりなりにも地理学で陰に陽に継承されてきている 立場ともいえ

    る。 Ratzelの 「人類地理学」第 2巻は上述のように, Durkheim の社会

    形態学の内容と重なるのであるが, Ratzelは次のように述べて,自らの立

    場を明確にしている。

    「通常,その人口数にもとづく居住地の統計的分類の一方で,地理学者に

    とって特徴ある標識は,空間の大きさ (Raumgro(3e) と形(Gestalt)に存す

    る。」

    乙のあと彼は, Haus, Hof. Langhaus, Weiler, Dorf. Stadtなど,集

    落の形態の分類に進んだ後,さらに集落のフィジィオグノミーの考察に至

    る。それらは Richthofenや Schluterの集落地理研究の基点となるもので

    あったし,またそ乙 l乙地理的空間の主張が含まれていると見られ得るもので

    もあった。すなわち地理学は社会集団のかたちではなしそれプラス空間の

    かたちに関心を寄せるのである。

    7 Vidal de la 81acheの位置づけ

    すでに述べたように, Ratzelと Durkheimの時代は大きな転換期であ

    った。 20世紀に入ると前世紀後半から勢力をもたげつつあった新カント派哲

    学によった,自然科学と文化諸科学の方法論の相違が強調されるようになっ

    た。また諸科学とも自己の対象と方法を整え,窓意、的でない,厳密な論理的

    手続きに従つての考察,分析が重んじられるζ ととなる。乙のような状況の

    中で, Ratzelや Durkheimのような,一種の普遍的,総合的な観点は必

    ずしも歓迎さ れない。 Ratzel,Durkheimの両者とも直接の弟子がさほど

    多くないのは, あるいは ζのような事情が影響しているのかも知れない。彼

    らの学問は直接にではなく ,広く 散在して,次の世代の多くの人に,放射的

    に受容されていったといえる。

    ( 788 ) •

  • 人文地理学と社会形態学 - 57-

    さて Ratzelの後継者としては, l直接的には Hassertや Semple らの名

    前が挙げられ得ょうが,より重要な人物として, Vidal de la Blacheの名

    を逸してはならない。しかも乙の Vidalde la Blacheまた, Durkheim派

    社会学の科学的立場に対立する,フランス学派の地理学の旗手たる人物であ

    った。

    Vidal de la Blacheへの Ratzelの影響は思いのほか大きい。特に彼が

    1903年に発表した 「人文地理学一一それと生物地理学との関係」なる論文

    にそれが著しい。例えば次の如くである 。

    「…ーある国上の位置というものは,単にそれの物理的な数学的な諸条件

    においてのみでなく,人類の人口の流れに対する関係において評価さるべき

    であるという乙とになる。インドがたどらされた宿命は,部分的には,それ

    が北方に向って,門戸を聞き,中央アジアから移住民が来るのを迎えるよう

    な形になっている乙とのためである。イラン,小アジア,東ヨーロッノマのご

    ときはさまざまの侵入ルートの終点にあたっている。パレスチナやエジプ卜

    はア ジア,アフリカおよび地中海の世界にたいする往来の四つ辻にあたって

    いる。乙れに反してかような動きの影も認められないような,またごくまれ

    な機会にしか動きが波及して来ないような国々がある 。乙う いう不均等性に

    よって諸人口の構成に地理的な相異が生ずる。ある場合には,繰り返し侵略

    を乙うむったために先住の諸集団は,アフリカの奥地においてみられるよう

    に,その圧力下に粉砕された。ある場合には撃退され,またある場合には・・・

    • • .彼らは新来のものと結合して混成的な人種を形成した。乙れらのさま芯ま

    な結合関係において,国々の地勢や仁地の起伏はそれぞれに役割を演じた。

    平野,山岳,島唄,半島えよど特種各様l乙作用した。そして結局において乙う

    した各国土の地勢あるいは起伏を反映しながら,独特の人口学的型式が形成

    される乙とになったわけであった。しかしながら乙れらの諸変化を支配して

    いたものは移動の原理であって,乙れらの変化は人類による空間の征服が進 、

    行過程にある事実であるために生ずる。

    生物の移動によって起る諸結果についての Darwinの理論は,人文地理

    学にたいしては乙のように当てはめられる。それは MoritzWagner によっ

    て方式化されたような形では,次のように要約できる。すなわち,新しい変

    揮の形成は単に移住する諸生物が闘わねばならぬ環境の諸々の差異の総計に

    依存するのみでなく ,かつて;ゑ同族にたいして彼らが孤立隔絶している程度

    し、かんに依存するものである。J

    (789 )

  • - 58一

    我々は乙の Vidalde la Blacheの叙述の中tcRatzelの乙だまを聞く思

    いがすよ)しかし次のような叙述もある。

    「人類の分布状況はおのおのの国土の価値をも ってしては説明され得ない

    としづ結論に達する。気候と土壌とに精通した者の観点で,人類居住の程度

    をそ乙から演鐸しようと試みる者があれば,彼は幾多の誤算におらいる乙と

    になるであろう。農夫が耕地の品質に準じて収穫の予測を行うような真似

    は,地理学者には通用しない。人類の現実の分布は, つねに動いている複合

    的な諸原因から派坐した一時的な事実であるという乙とをわれわれに警告し

    てくれる変則的実例は無数にある。JRatzelのように大所高所から断定的に述べるのではな く,こういう一歩

    退いた,複合体的,個別的取扱いを暗示させるような態度が, Vidal de la

    Blacheをは じめとするフラ ンス学派の地理学の中にはある。

    Durkheimを念頭においた反論的見解のみられる筒所もある。

    「乙れらの集団 (非定住的集団〕は,し、かなる生活様式をとっているにし

    ても,ある特定の空間部分と一定の関係におかれているものである。根のな

    い民族,すなわちその活動の地盤となり,その生存を確保し,維持すると乙

    ろの一つの領域を持たない民族というものは,理屈からも経験上にも,認め

    られない 0 ・・・・・・最も微々たるオーストラリア人の集団でも,彼らが狩猟し,

    天産物を蒐集し,水や木材の需要を充たすに足るだけの内容を有する空聞

    を,石とえ;あるいはそれとかわる目印をもって規定しておく習慣をもってい

    たという 。J

    乙の種の見解は Febvre も表明していると乙ろであって, Durkheim派

    の社会形態学の偏りを指摘するものであろう。 Durkheim派の系譜をひく

    社会学者 A_Cuvill町も ζの指摘を是としているつ)

    とζ ろで Vidalde la Blacheと Durkheim派との論争の問題も我々の関

    心をひく問題ではあるが,乙の考察は別の機会にゆずる。なおこれについて

    l帯近 V_ Be白川ayの現代的問題意識に立って照明をあてた興味深い論文がある。そ乙では Vidalianと Durkheimの認識論の違いが指摘され,

    両者とも新カント派哲学の影響をうけたが,前者のアプローチは後者のそれ

    に比べて,機械論的,還元主義的立場から自由であり,人間の創造性を生かし

    ているとしている。乙の結論が当を得ているかどうかはおくとしても,

    Vidaト Durkheim論争は,前述のように一方の個別的,地誌的研究と,他

    方の演律的,理論的研究との,科学の方法l乙関するものであり, Ratzel-

    (790 )

  • 人文地理学と社会形態学 - 59一

    Durkheim論争のように,同一の関心に対する見方の相進という局面とは状

    況を異にするように思われる。 Febvreらの見解とはうらはらに, 笑のと乙

    ろは, Vida 1 de la Blacheの方が Ratzelより自然地珂的基礎の考察につ

    いては忠実であったし, Ratzelの人類集['I1の分布と形成の研究のえjが,

    Durkheimの社会形態学の目標に近いといえるのである。 Vidalは,人間

    の活動によ って多かれ少なかれ変形されてはし、るものの,自然的な枠によ っ

    て画定された場所の相観の記述を主要な課題としたが, Ratzel か主題と し

    たのは,民族や国家の空間的分布とその形成過程てあ ったのだから 。

    8 Simmelから

    Durkheimの追求した,社会の分化の問題を考察した人lC,ドイ ツの社会

    学者 GeorgSimmel がし、る。 Simmelはすでに1890年, Durkheim lC先立

    って,社会の分化についての考察を発表していた。 Durkheimが formを

    社会の物的諸形態の意味で用いたのに対し, Simmelが Formを個人間の

    相互関係の形式とする抽象的な意味で用いた乙とには興味を抱かされるが,

    しかし今乙乙で,彼の形式社会学についての解説や,彼と Durkheimとの

    相違について触れるいとまはなLti '彼の主著 「社会学」の第9m,空間と社会の空間秩序から,その空間についての考えをとり出すにとどめる。

    「歴史の一つの解釈が空間契機を次のような点l乙重きをおいてみるなら,

    すなわちそれが国家の大小,人口の?密集あるいは分散,集卜Hの運動性と静止

    等を,空間から放射主れた全歴史的生活の契機として用解しようとするなら

    ば,乙乙であらゆる乙の情勢の必然的な空間的把鐸が,積極的i乙影響する原

    因ととり違えられる危険におちいる。空間かそれに形式 (Form) を賦与す

    る乙となしに,国家はもちろん何かある作積をもら得ず,人間はお五いに,

    近かったり ,離れていたりし得ない。それは時間の力に帰せられている経過

    が,時間の外で進行し得ないと同様である。しかし乙の形式の内筏は,なお

    ただ別な内科を通してのみ,その運命の特殊性を経験するのであり,笠間は

    常にそれ自体は,作用なき形式にとどまる。そして其の活力は,その形パの

    変作において現われるのではあるが,それは言語か思考過程むを表現する仕方

    が,言的ζよってではなく,恐らく I識のドJ:l で推移するか~n くである。何千平方マイルもの地限的容積か大きな国家を形づくるのではなく, ζのような

    領域の住民を,支配の巾心から政治的に総指すると乙ろの心別的力が,それ

    をなす。空間的近接性や距離の形式が,近隣性や疎:i毒性の特徴ある現象をつ

    ( 791 )

  • - 60 -

    くり出すレノごはない,たとえそれが担み難く思われるにしてもJSimmelの空間概念は,形式と内界とを分離して観念する Kantの空間概

    念にもとづいている。 Kantは空聞をItt観形式として理解し,客観的,物

    質的空聞を否定した。 Simmelの考えでは,集団にとっての空間は,集団

    に形式を与える。丁度,絵画における枠の如きものである。枠は周囲の世界

    からその作品を開んで閉じた空聞を作り,その内部の統一性をもたらす。集

    団は空聞によって内面的連関を強められ, 一万,明縫l乙境界づけられた形状

    を現わす。このように Simmelは空聞を社会に形態を弓える形式としたが,

    社会集団が一定の空聞に基盤をおく乙と,空間的定着が社会の安定,その

    他,政治的支配等民有益な乙となど,集[、月が上地l乙根づくことの意義につい

    ても考察している。しかし孜々にとって,彼の空間観念は,その論文の標題

    の示すように,正に 「社会形態 (形式)の空間的投影 として受け取らぎる

    を得ず,いささかな じみのない観点だと 言わさ。るを得ない。

    と乙ろで Simmelの万法にならって地理学を形式的に定義してみるとど

    うであろうか。 Simmelは社会の内経と切り離した,上位と下位,競争,

    反抗,分業などの形式を社会学の考察の対象とした。地理学でもこれと同様

    に,多種多様な地域の諸現象そのものではなく,それらが空間的に相互に存

    在しあっている形式,(分子tJ,配列, ¥1..地の形式)をとり出す試みは可能で、

    あろう。それは図形的表現をもつであろうから,出来,地図使用と深いつな

    がりのある地用学に適していよう。乙のように考えるなら確かに一つの研究

    分野が可能なようにみえる。事実それはすでに Ratzel地理学の一部に見ら

    れたし,近 くは W. Bungeの 「理論地理学1)をはじめ,いわゆる NewGeographyの研究が,それに相当しよう。

    9 おわりに

    Ratzelや Durkheim以降,社会集i、nとその基盤となる空間の関連の問題は,本格的l乙考察されてはいない。一万では個人と'ゼfiりの双方を共通した一

    つの視点から把握しようとする, Schluter以来の宗観論の中に埋没してし

    まい,他万では M.Maussの 「エスキモ一社会の季節的変化」を扱ったエ

    ポックメイキングな論文以降,民族学の巾に継承されたかのようにみえるも

    のの,明確な見解はノJミされていない。わずかに,1930年代以降のドイツを中

    心とした Geopolitikの巾にいささかゆがんだかたちでとり入れられたが,

    その結末は周知の通りである。社会形態学のその後の展開もはかばかしいよ

    (792 )

  • 人文地理学と社会形態学 - 61 -

    うにはみえない。例えばフランスの社会科学者 M. Duvergerは 「社会形態

    学とは 社会的事実をその物的基体において研究するとと 、という Cuvilli-

    erの定義をrjlし、た後,実際上は社会形態学は人文地理学および人口統計学

    をさす乙とになる jと述べている。また Durkheimの社会取等学の内容は,

    シカゴ学派の人間生態学の内界l乙収赦したものといわれるが,それが現代の

    地開学にとって何益な暗ノRを与えてく れているであろうか。さて今日の地用学において,一方では内容を離れた空間的形式 (図形)へ

    と向かう傾向がみられ,他方では,内容の充満した景観への客観的及び主観的

    アプローチがみられる。空間の概念も多義的にならざるを得ない一万で,大

    局的にみれば,空聞についての関心が地理学者の間で、共通してみられるとい

    う乙とでもある。 ζのあたりで,地理学における空間概念について熟慮して

    みる必要があるのではないだろうか。本稿で取りあげた Ratzel-Durkheim

    論争は,その最も基本的論点を合むものである。近代地理学は A. V.

    Humboldt以来,生物地理的方法と密接に関係し,その立場は Ratzeltcよ

    って,民族や国家の研究一一人類集団の研究に拡げられた。そしてそれは

    Vidal de la Blacheや Schluter などのように,当初からある向然的に枠づ

    けられた地域 (場所,景観)を研究対象とするものではなく ,第一義的には

    人類集卜Rの空間的分布(形態)を研究するものであった。従って,そもそも

    集問の宅問形態の問題で、は社会学の問題で、あると同時に,地理学の問題であ

    る乙とは吋然なのである。今日に至るまでの人文地理学がその絞心部分とし

    て集務地用学の領域を有し,一部から悪評を放たれながらも,人類集団の地

    上に借びた形としての集落の外的形態の記述と分類を続けてきたのには,根

    拠がある 。 H. Bobekが「社会的および景観的に刻印づけられた生活形態

    集聞が社会を情成しているのである。生活形態集団は,地理学的な意味にお

    ける社会の安宅宍ある。社会を生活形態集団に分割するのが社会地理学的分

    析の課題である」'などと述べるとき,彼は,景観論の伝統の末高としてのそ 、

    の立場から,伝統的問題である,社会集悶と空間の問題にアプローチしてい

    るのである。

    本稿ははじめにも断ったように,筆者の乙の問題についての覚書であり,

    当然の乙とながら,ある種の帰結を引き出すことはできない。従って目下の

    と乙ろ次のような一節を繰り返さぎるを得ない。

    「たしかに社会構造は時として地理的条件の反映で、ある。しかし逆に,地

    理的形態は社会構造に即応して形づくられている」

    (793 )

  • - 62一

    社会集団と空間形態の関係を解明することは難しい課題であるといわざる

    を得ない。しかし今後も折りに触れて考察を続けていかなければならない問

    題である乙とにはかわりない。

    1) Dickinson, R. E.: The makers of modern geography, London, 1969, pp.

    192 -193.

    2) Febvre, L.: La terre et l' evolution humaine, Pa ri~ . 1922. 英訳 ~i A geogra phica I

    introduction to history, London, 1932.邦訳は (飯塚浩二訳 )大地と人類の進

    化,上,下.岩波文庫,1971--72 (下巻は田辺給訳)

    3) Buttimer, A.: Society and milieu in the French geogra phic tradition, Chicago,

    1971. 水津一朗:地理学と社会学との接点, 地理22巻 1号, 1977. など。なお

    ぶ津一朗 「社会地理学の基本問題」大明堂,1964 の序説が,早く地児学と社会

    学のあいだの論争に焦点をあてていた乙とを想起されたい。

    4)最近のBerdoulay,V.: The Vidal-Durkheim debate, Ley, D. and Samuel~, M.

    S. (ed.): Humanistic geography, London, 1978, pp. 70 -90所収は乙の事情を

    取り扱っている。

    5) Hughes, H. S.. (生松敬三,荒川幾男訳):意識と社会,みすず書房, 1965.pp.

    24 -46

    6) Hettnerは 1899年以来 Heidelberg 大学教授となった。 ζζ での同僚には,

    Windelband, Rickert, A. Weber, M. Weber, らがし、fこ。

    7) Ratzelの伝記としては,Wa出lyn,H.: Friedrich Ratzel, Cambridge, 1961及び

    Buttman, G.: Friedrich Ratzel, Stuttgart, 1977 を参照した。

    8) L' Annee Sociologique. 9) Annales de Geographie.

    10) Febvre, L. (飯塚訳):前掲書(上) pp. 77 80. なおヒ記英訳本をも参照した。

    11)同上, pp. 8587.

    12)向上, pp. 88 89.

    13)同上, pp. 92 93.

    14)向上, pp.120-121.

    15)飯塚浩二 :地理学批判, 帝国書院,1947,同:人文地理学説史, 日本評論社,

    1949.

    16)水津一朗:近代地理学の開拓者た ら,地人書房,1974.

    拙稿: F. Ratzelの再評価lζ関する一つの試み, 人文地理, 24巻 3号,1972.

    ( 794 ) •

  • 人文地理学と 社会形態ザ ー 63-

    針!詰j三郎: r r:l'心とja辺J--Rat7elにおける'宅問分化の研究とその発展,地学雑誌,84巻2ワ,1975.

    1 7) Hettner, -.. ....・

    69 -70.

    Bucherbesprechungen, (;~oKraρ11I .\che Zeit¥'chnft, Bd. 29, 1923,

    18) らなみに Hettnerは,自分は Rat7elより自然的法礎l乙東きをirtL1たと述懐 して

    いる。 P刊le刊we亡, E. (仏h児e

    kizzen, Heidelberger geographi、ιheArbetten, Heft 6, 1960, S. 34.

    19) Buttimer, A.: Ibid. ~ p. 27

    20) Ibid., p. d , ーー.

    21) Ibid., p. 29.

    22) Stei nmet 7.ler ~ J .: O1e Anthropo俳句raphte Friedrich Ratzel、und ihre tdeenge-

    schi chtlichen Wurzeln,動nn, 195(1.

    23) Butti rneI! A..: Ibid.! p. :33.

    24) Ibid., p. 39.

    25) Ibid.. p. 40..

    26) Buttime仁 • '.・ cial space in interdt....ctplinary perspecttve, The (;eographual Re-

    . vol 'VIe'l.V , 59. 1969.

    27)おrre, M (松任!伝説。 :地烈学と社会学の接点,大明!な, 1968, p. 30.

    28) Durkheim, t.(占野消人訳):宗教生活の原初形態 l上),岩波文litI, 1975, p.

    29) Buttinlerは住3)の性物1:1:1において (P.30), Durkheimは1895 961ドの卜イツ印有:

    r:t:t ,c. Ratzelの著作を知 ったとしているが, 乙れは;恐らく絞りであろう 。

    臥Jfkheimが Leipzig大学のfWundtのと 乙ろに遊学したのは,1885'"r.::から塑86

    &:1:にかけての半年!日jである。さらに Rat/elが Leipligの教侵とな ったのは1886

    年度からであるから, Durkheimと R川 zelが l乙の時, lfI接;;l:i会ったとは考えに

    くL。30) L'Annee soeiologique 2 (1897-98L pp. 520 -21. 英 I沢 Note on 川町 ial mor-

    phology, 'Tre1ugott, M. (民1.):ErTItle Durkheim on institutionalanalyslh

    hicago~ 1978" pp. 88._ 91. なお乙の tl; 物には社会学の体系の ~ 11ての,tl:会形態学の占める位院についての解説会介入だ, 1909.1:r:の論文, Souology and the

    Socilll Sciencesが収められている 。また小JFU恥;!?:社会学 と地Jf.H学との境界領域

    における若 c ~I二の問題,桃山学院大学社会学論集,第 2 巻第 1 ,'}, 1969, pp.

    1ぅ 5にも, [)urkheirnと Ma凶 S の社会形態学についてのt洋しL噺!説がある 。乙

    ( 795 )

  • - 64-

    れは上記190ω9年の論文の要約を合んでで、いる。

    31) T

    32) Du汀rk凶he凶1児悶e凸im.E. (田原汗和訳)ト.社会分業論, (現代社会学大系 2)ん, 青木書応,

    1971, pp. 248 273.

    33) Ibid., p. 253.

    34) Ibid., p. 254.

    35) Ibid., p. 257.

    36) Ibid., p. 261.

    37) Steinmetzler. J.: Ebenda.

    38) 小寺廉占:前掲論文による。なお Maussの生涯と業績については,次の論文を

    参照。 Leacock, S.: The ethnological theory of Marcel Mauss, American

    Anthroρologist, vol. 56, 1954. pp. 58 73,またDurkheimの後継者達につい

    ては,Lowie, R. H.: The history of ethnological theory, New York, _ 1937, pp.

    196 229を参照せよ。

    39) Schnore, L. F.:おcial morphology and human ecology, American journal 01

    'ociology, vol. 63, 1958, pp. 620 -643.

    40) Levi-Strauss, C. (荒川他訳):構造人類学,みすず書房, 1972. pp. 318 320.

    またLévi-Straus~ は1960年の講演の中で,河時の社会学が, 歴史,心E理学,言

    語学,経済学,法学および民族誌学からの出費によって早急に作りとげられた,

    略奪による産物----Jなどと形存している。地用学もその仲間に入る権利を持っ

    ていそうである。 Lμeれv引iト-S臼trauss.C. (仲沢紀雄訳)ド:今口のト一テミスム,みすず

    書fJ民F五~, 1970, pp. 180 -181.

    41 ) ー人類地坪.学J第 2巻の日次

    序説 ホ ロ ゲ イ ツ シ ュ (hologaisch) な地球観における一般生物地理学の基礎づ

    第 l章 人類の地用的像の輪廓

    l 人間の地球もしくはエクメーネ

    2 エクメーネの発展

    3 歴史的視界,地球及ひ人類

    4 エクメーネの境界領域

    5 エクメーネにおける明閑地

    第 2軍人類の統計像

    6 地球の人~1

    ( 796 ) .

  • 7 人口密度

    8 人口密度と文化水準の聞の関係

    9 人口の移動

    人文地理学の社会形態学 - 65ー

    10 文化接触による文化の貧困な民族の衰退

    11 文化の貧困な民族の自壊

    第 3章 地表への人間の痕跡と所産

    12 人間の居住地

    13 都市の位置と交通

    14 歴史の中心点としての都市

    15 廃嘘

    16 道路

    17 地名

    第 4章民族指標、の地理的分布

    18 民族誌的指標の人類地理学的価値について

    19 民族誌的指標の分布

    20 分布領域の位置,形態,大きさ

    れ民族誌、的類似の源

    22 人類地理学的分類と地図

    42) 人類地理学Jの1882年に出た第 1巻の初版と1899年発行の第 2版の関には著し

    い内容の相違がある。前者はそのほとんど全体にわたって,特定の地表形態が人

    聞に及ぼす影響について論じられているが,後者には,その部分が多く割愛さ

    れ,かわって,歴史的運動の章が新しく加わり ,位置や空間についての考察が重

    要性を借びてきている 0・

    43)野間三郎: r中心と周辺J--Ratzel における空間分化の研究とその発展,地

    学雑誌,第84巻 2号, 1975, pp. 17 29.

    44) Ratzel, F.: Anthropogpogruphie 1 (2 AuA. ) Stuttgart, 1899, S. 123.

    45) Ratzel, F.: Politischegeographie (3 Aufl. ) Munchen u. Berlin, 1923, S. 76.

    46) Ratzel, F.: Anthropogeographie 1, S. 123.

    47) Schl凸ter,0.: 臥e leitenden Gesichtspunkte der Anthropogeogra phie, insbesondere

    der Lehre Friedrich Ratzels, Archiv戸rSoziaLwissenschaft u. SoziaLpolitik. IV,

    1906, SS. 610 -611.

    48) Ratzelの・位置Jや「空間」概念について詳細は,前掲の拙稿ぞ参照していただ

    きたい。

    ( 797 )

  • - 66-

    49) Ratzel, F.: Anthropogeographie 11, Stuttgart, 1912, S. 264.

    50) Vida 1 de la Blache (飯塚治二訳):人文地用学原理, (下 ),岩波文庫,1970,所収

    の論文, pp.269 270.

    51) Buttimer, A.: 1bid., p. 45参照。

    52) Vida 1 de la Blache, (飯塚治二訳):人文地理学原理(上),岩波文庫, 1970,pp.

    71 -72.

    53)川上, p. 89.

    54) Cuvillier, A. (清水訳):前掲書, p. 162.

    55) 注 4)参照。

    50) 手近かな参考文献として,阿閉 I守男:ジンメル社会学の方法,御茶の水書房,

    1979カ5ある 。

    57) Simmel, G.: Soziologie, Unter~uchungen uber die Formen der Vergesellschaftung

    Leipzig, 1908, S S. 614 -615.

    5 8 ) S i m n e l , G : U be r r 詰加umlic比ch恥1児e Pわro句jektωtUiO Ozi♂alωωおωsenschafβt,V1, SS. 287一302,1903.なお乙れは上記 Soziologie,乙所収。

    59) Bunge, W. (西村嘉助訳):理論地理学,大明堂,1970.

    60)臥lverger,M. (深瀬,樋口訳):社会科学の諸方法,動車書房, 1968, p. 42.

    61) Schnore, L. F. : Ibid.

    62) Bobek, H.: Stellung und Bedeutung der Sozialgeographie, Erdkunde, Bd. 2,

    1948. (薮内芳彦訳による )

    * r追記〕

    本稿執筆の動機になったのは,昨秋の野沢秀樹氏 (九州大 ・文) との討論である。

    Ir~氏は , 本橋と類似の主題で, すでに論文をまとめられつつあったので, かねがねζ

    の問題に関心をもっていた筆者に対し多くの御教示を与えて下さり ,また一部の文

    献のコピーをお送りいただし、た。野沢氏に深く感謝するとともに,九州大学文学部の

    紀要に掲載される同氏の論文を,合わせて参照していただきたいと思う。

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