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Title 『走れメロス』とディオニュシオス伝説 Author(s) 五之治, 昌比呂 Citation 西洋古典論集 (1999), 16: 39-59 Issue Date 1999-08-31 URL http://hdl.handle.net/2433/68656 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

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Title 『走れメロス』とディオニュシオス伝説

Author(s) 五之治, 昌比呂

Citation 西洋古典論集 (1999), 16: 39-59

Issue Date 1999-08-31

URL http://hdl.handle.net/2433/68656

Right

Type Departmental Bulletin Paper

Textversion publisher

Kyoto University

『走れメロス』とデイオニユシオス伝説

五 之 治 昌 比 呂

Ⅰ序

太宰治が 1940年に発表した短編 『走れメロス』は,日本人なら知らぬ者が

ないほど有名な作品であるが,二十年先立つ 1910年に鈴木三重吉が 『赤い鳥』

に寄せた童話 『デイモンとどシアス』は,それほど知られているとは言えない.

後者はシチリア島の借主デイオニユシオスにまつわる逸話を複数集めたもので

あり,表題にもなっているデイモンとどシアスの物語は特に念入りに語られて

いて,作品の半分を占めている.一読すれば分かるとおり,このデイモンとど

シアスの物語は 『走れメロス』とほとんど同じ筋である.しかし,誰もが素朴

な疑問を抱くであろう。鈴木三重吉ではデイモンとどシアスとなっている主人

公の名が,なぜ太宰ではメロスとセリヌンティウスになっているのか.

太宰の作品があまりに名高いため日本人は「メロス」の名前しか知らないが,

西欧では事情が全く異なる.少し大きな語学辞書や百科事典などを引いてみれ

ば,-DamonandPy也ia8-という項目を見つけることができ,これが古代ギリ

シア ・ローマの伝承に由来するものであり,固い友情で結ばれた親友を意味す

る慣用句として使われていることが分かる。逆に,辞典の中にメロスの名を兄

いだすことはできない。つまり,西欧においては三重吉の主人公の名前の方が

正統なのであって, 太宰の方はほとんど知られていない名前らしいのである.

したがって今度は,なぜ太宰はメロスとセリヌンティウスなどという名前を

採用したのか,と問い直さぬばならなくなる.実は,その直接的な原因は太宰

の研究者によってすでに明らかにされているのだが,このあたりの説明は後回

しにしたい。先に古代におけるこの伝承の背景について簡単にまとめておく必

要がある.名前が二通りになった原因の一部は,古代伝承における少々複雑な

事情にあるからだ.また,鈴木三重吉の童話にはデイオニユシオスにまつわる

複数の逸話が収められているが,これらの典拠と物語の異同を最初にまとめて

おきたい.『走れメロス』の典拠に関してはすでにいくつかの研究があるが,

三重吉の方はほとんど取 り上げられることがないようであるし,この童話には

デイオニユシオス伝説のうち比較的よく知られたものが収録されているので,

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メロス伝説とあわせてこれらも紹介しておく価値があると考えるからである.

論の後半はメロス伝説を古代から太宰まで跡づける.そして,主人公の名前の

問題のみならず,伝承全体を視野に置くことによって見えてくる,『走れメロ

ス』という作品の独自性について私の所見を述べてみたい.

ⅠⅠ鈴木≡重吉のデイオニユシオス伝説

鈴木三重吉の童話 『デイモンとどシアス』は,シチリア島の借主デイオニユ

シオス一世にまつわる逸話を集めたものである.デイオニユシオス一世は前5

世紀未にシラクサイ市の有力な将軍となり,ついには独裁者となった人物であ

る.彼は,軍事力を強化してカルタゴ人と度々戦争を行ったり,南イタリアに

勢力を伸張したりと,野心的な借主であった.彼の死後,息子のデイオニユシ

オス二世が父の座を継いでやはり借主として権力を振るう.しかし,最後には

追放されてコリントスで余生を送ることとなった.この両デイオニユシオスに

まつわる逸話はかなりの数にのぼるが,どちらのデイオニユシオスに属するも

のか判然としないものも多い。

『デイモンとどシアス』の冒頭にはデイオニユシオス一世i羊関する歴史的背

景が説明されている.そして,この独裁者が残忍な性格の持ち主であり,市民

たちは憎みつつも彼に恐れをなしていたこと,デイオニユシオスの方も市民た

ちの心の内を察知しており,暗殺を恐れてあらゆる人間を疑わないではおれな

かったことが語られる.このあと数々の逸話が列挙される形になっている.こ

こでは便宜上全体を七つの逸話として分割し,以下にそれぞれの典拠と異同を

示すことにする.なお,三重吉は固有名詞を英語の発音で表記しているが,混

乱を避けるために古典語の読みに統一する.

[1]牢屋の後ろの岩を下から掘り開けて部屋を作る.囚人たちの声が聞こえ

る仕掛けを作って,囚人の話を盗み聞きする.

この岩の牢獄は,「デイオニユシオスの耳」と呼ばれる,切り立った岩山に

ぽっかりと空いた洞嶺のことである.この洞窟の正面の開口は,天井に向かう

ほど狭くなる細長い三角形のような形になっていて,この三角形がS字のカー

ブを描きながら入口から奥に至る.最奥の壁のてっぺんには小さな穴が開いて

おり,穴の向こう側は細い通路になっていて,階段を経て崖の上に出られる構

-40-

造になっている.この穴の向こう側の通路にいると,洞窟内のどこで発せられ

た音であろうと聞き取ることができるという.このきわめて特異な反響構造が

「司」と呼ばれる所以である(1).

現在では観光名所にもなっているほど有名な 「デイオニユシオスの耳」であ

るが,デイオニユシオスがこれを囚人の会話を盗聴するために作ったなどとい

う伝承は,実は古代には存在しない.Sabineによれば,「耳」という呼び名と,

デイオニュシオスが盗聴のために作ったという伝承は 16世紀以来のものであ

るという.さらに彼は,洞窟とデイオニユシオスを結びつける直接的な証拠は

古代にはないと述べている (2).

しかし,デイオニユシオスが石切場の洞窟を牢獄として用いていたという証

言は舌代にも存在する.キケロ (『ウェッレス弾劾』5,27,68)は,岩の牢獄を

作ったのはデイオニユシオスであり,歴代の王や借主がこれを利用してきたと

述べているし,アイリアノス (『ギリシア奇談集』12,44)ち,デイオニユシオ

スが牢獄として用いたこと,現在では住居として利用している人々がいること

を伝えている.ただし,反響構造を利用した盗聴の話や,「耳」という呼び名

はどこにも見あたらない.洞窟内の音を聞くことのできる穴や通路が古代にす

でに存在したのかどうかも分からないが,盗聴の逸話は Sabineの言うように

おそらく後代の人々が付け加えたものであり,三重吉の粉本もこの話を古代の

出典から直接取材したのではないと思われる.

[2]寝室の周りに堀をめそらし,取り外しのできる橋で部屋に出入りした.

これはキケロの 『トウスクルム荘対談集』5,59が典拠である.ワレリウス ・

マクシムス (『著名言行録』9,13(ext),4)とアンミアヌス・マルケッリヌス (『歴

史』16,8,10)もキケロに依拠してこの話を伝えている.

[3]おかかえの理髪人が 「俺は暴君の喉へ毎朝剃刀をあてているのだ」と自

慢していたことを耳にし,理髪人を処刑する.それからは自分の娘たちに髭を

剃らせていた.のちには娘たちも信用できず,焼いた栗の殻で髭を焼かせた.

これは比較的有名な話であったらしく,何人かの作家が言及している (3).

ただし,舌代には理髪人を処刑したという話はない.また,娘を理髪人の代わ

りにしたこと,木の実 (栗とは特定していない)の殻で髭を焼かせたことを伝

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えるのはキケロのみであり,プルタルコスは 「炭火で」,デイオドロスは単に

「焼き焦がした」と記している.

[4]アンティボンという男に,美鈴はどこから採れるものが一番いいかと尋

ねる.彼が,暴君ペイシストラトスを暗殺したハルモデイオスとアリストゲイ

トンの鋳像のが一番上等だと答えたので,この男を処刑してしまう.

この話はよく知られたものではないし,そもそもデイオニユシオス伝説に属

するものでもない.出典はデイオゲネス ・ラエルテイオス 『ギリシア哲学者列

伝』6,2,50であるが,これは犬儒派の哲学者デイオゲネスの逸話である.彼は

「ある独裁者」から尋ねられてこう答えたと述べられている.どうやら三重吉

のアンティボンというのは架空の人物らしい.また,当然ながらデイオゲネス

が処刑されたなどという話もない.ハルモデイオスとアリストゲイトンの二人

は,借主ヒッピアス (ベイシストラトスではない)の暗殺を企てたが捕まって

処刑された人物である.二人は借主政解体後に 「解放者」として称えられ,広

場に像が立てられた.つまりデイオゲネスがその 「独裁者」に嫌みを言ったと

いうだけの話であり,真偽はともかくいかにもこの哲学者にふさわしい逸話で

ある.

この逸話が三重吉の童話 (あるいはその粉本)に紛れ込んだのは,そのあと

に次のような話が続いているからである.すなわち,「デイオニユシオスは友

人をどのように扱っているのか」と尋ねられたデイオゲネスは,「財布のよう

にだ,中身の詰まったのはつり下げているが,空っぽなのは放り出している」

と答えたという.こうした逸話の順序のために,直前の 「ある独裁者」もデイ

オニユシオスと見なされてしまったのであろう.

[5]友人のダモクレス (童話ではドモクレス)が一日でいいからデイオニユ

シオスのような身分になってみたいと言っていたことを耳にする.そこでダモ

クレスを招いて賛沢なもてなしをする.ダモクレスは書んだが,自分の頭上に

鋭い大きな剣が一本の馬の尾の毛でつり下げられているのに気づいて青くなる.

デイオニユシオスは,自分の境遇はこの通りだということを示すためにこれを

仕組んだのだった.

これは非常に有名な逸話であり,複数の古代作家が言及している.最も記述

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が詳しく,後の伝承の源ともなったのはキケロ 『トウスクルム』5,61である.

ここでは,ダモクレスはデイオニユシオスの追従者であり,彼の面前で王の生

活を羨やむ発言をしたことになっている.また剣は,賓を尽くした饗応の最中

に王自らがつるすように命じたと語られている.この 「ダモクレスの剣」は古

代より現代に至るまで諺として好んで用いられてきた.1961年にケネディ大

統領が国連総会で演説を行った際,偶発核戦争の危機を 「ダモクレスの剣」に

なぞらえたのはそのよい例である(4).

[6]ピロクセノス (童話ではフイロセヌス)という学者がデイオニユシオス

の作った詩をけなしたのに腹を立て,彼を牢屋に入れる.新しい自信作ができ

たので,王はピロクセノスを牢屋から出してその詩を見せる.今度はピロクセ

ノスは何も言わず,自分から牢に入った。王は笑って彼を解放した.

このエピソードはデイオドロス 『世界史』15,6,1-5が詳しく伝えているもの

である.阜こでは,ピロクセノスが王の新しい自信作の感想を求められたのは,

友人の取りなしで釈放されてしばらくの後ということになっている.またデイ

オドロスはさらにエピソー ドを続けている.大目に見たとはいえ,デイオニユ

シオスは不適切なときに率直な態度をとることを控えるようピロクセノスに求

めた.彼は真実も尊重するし,王の好意も保持するつもりだと言う.あるとき

痛ましい内容の詩を作った王は彼に感想を訊ねた.彼は 「哀れだ」とだけ答え

る.王は自分の詩が哀れを誘うという褒め言葉ととったが,ほかの人々はピロ

クセノスの真意を見抜いて,詩の出来が哀れだという意味に解釈したという.

私が調べた限りこの話はデイオドロスにしか見られない.ただし,詩人ピロ

クセノスが [1]の逸話で述べた岩の牢獄に閉じこめられていたことを,アイ

リアノスが伝えている (『ギリシア奇談集』12,44).彼は牢中で詩作を続けた

が,後世それにちなんで最も美しい洞窟には彼の名が付けられたという.なお,

この逸話が示すとおりデイオニュシオスは文化的な一面も持っていて,『ヘク

トルの身代金』という自作の悲劇がアテナイで一等賞を得たこともある (ただ

し政治的な配慮によるらしい).

鈴木三重吉の作品は童話としてはかなりユニークなものである.まず,ただ

逸話だけを語るのではなく,デイオニユシオスという歴史上の人物に関するか

なり詳しい伝記的説明までも付け加えている.また,作品には髭を焼く話や「ダ

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モクレスの剣」といったよく知られた話だけでなく,それほど有名でない逸話

や,銅像の話のように誤ってデイオニユシオス伝説に紛れ込んだものまで含ま

れている.これほど多彩な逸話を集めているのは珍しい例であろう.

もちろんユニークなのは三重吉の用いた種本の方なのかもしれない.三重吉

は自分の童話の出典を示すこともあるが,『デイモンとヒシアス』に関しては

全く記述がなく,残念ながら何を種本に使ったのかは知ることができない.あ

るとしての話だが,当然この種本の種本をたどることも不可能である.ただひ

とつ言えることは,大元のソースを書いた者は一般常識以上の古典の知識を持

っていた人物であるということだ.これだけゐ材料を集めるためには,少なく

ともキケロ,デイオドロス,デイオゲネス ・ラエルテイオスを読んでいなけれ

ばならない.おそらくそのソースは童話ではなく,デイオニユシオスの伝記や

彼にまつわる逸話をかなり包括的にまとめた歴史書の類ではないだろうか.

ⅠⅠⅠ ダモンとビンティアス

三重吉が童話全体の半分をさいている 「デイモンとどシアス」の物語は,数

あるデイオニユシオス伝説の中でも最も有名なものである.この章では古代に

おけるこの物語の出典と異同を簡単にまとめ,後代の文学作品化,また同じモ

チーフを含む民話などについても述べることにする.なお,主人公の名は

DamonとPhinthiasが正しく,PythiaSは後代に誤り伝わった名前である.

以下は特に理由のない限り古典語の「ダモンとピンティアス」の読みを用いる.

[1]古代における伝承

この物語の最も古い形を伝えるのは,イアングリコス (後 250-325年頃)

が自著 『ピュタゴラス伝』233・237の中で引いているアリストクセノス (前4

世紀)作 『ビュタゴラス伝』の一節である.アリストクセノスはこの話を,零

落してコリントスで文字を教えていたデイオニユシオス二世自身から聞いたと

書いている.つまり実話ということだ.そのあらましは次のとおりである.

デイオニユシオスの取り巻きの中にピュタゴラス学派の人々を中傷する者た

ちがいた.連中の見せかけの立派さなど,恐ろしい目に遭わせてやれば消し飛

んでしまうだろうというのだ.しかしこれに反論する者もいて,お互いに論争

を始めた.そこで壬は冷酷な実験を思いつく.ピュタゴラス派の学徒ピンティ

アスに陰謀の共犯の濡れ衣を着せ,彼に死刑を宣告したのである.ビンティア

ー44-

スはこの決定を受け入れるが,身辺のことや友人ダモンのことを片づけるため

にその日の残りの時間を与えてくれるよう嘆願する.また, 一時釈放の保証と

して友人のダモンを人質に立てるという.

デイオニユシオスが驚いて,死の担保になるような人間がいるのかと訊ねる

と,ピンティアスはダモンを呼び出す.事情を聞いたダモンは人質となってビ

ンティアスの帰りを待つことを引き受ける.学派を中傷していた人々は,見捨

てられるに決まっていると言ってダモンを噸った.しかし日が沈むころピンテ

ィアスが戻ってきたために,皆は驚樗することとなった.デイオニユシオスは

二人を抱いて接吻し,自分を三人目の友に加えてくれるよう懇願したが,二人

はそれを固辞した.

ダモン・ピンティアス伝説について言及している古典作家は,デイオドロス,

キケロ,ワレリウス ・マクシムス,ヒュギヌス,アルクルコス,ポリュアイノ

ス,ポルビュリオス,コンスタンティノス七世らであるが (5),ヒュギヌスと

ポリュアイノス以外は,どの作家も基本的にこのアリストクセノスのバージョ

ンと大きく異なることはない.ただしこの逸話をデイオニユシオス二世のもの

とする作家はなく,キケロは一世のものであると明言している.以下に,ヒュ

ギヌスとポリュアイノス以外の作家間の異同を五点にしぼってまとめておく.

(1)どちらが人質になったか

キケロとそれを参照したワレリウスでは,どちらが死刑を宣告され,どち

らが人質になったかが記されていない。

(2)ピンティアス.bS死刑を宣告された理由

デイオドロスとコンスタンティノス七世は,ピンティアスが実際にデイオ

ニユシオスに陰謀を企てたとしている.キケロとワレリウスは原因を述べて

ない

(3)一時釈放を求める理由

デイオドロス,ワレリウス,コンスタンティノス七世では身辺の整理のた

め,キケロ 『義務について』では家族を人に委ねるため,となっている.

(4)帰還までの期日

デイオドロス,ワレリウス,コンスタンティノス七世には記述がない.キ

ケロ 『義務について』では,二人のうちの一方が 「数日間」の釈放を求めた

と書かれている.

(5)どの作家も,デイオニユシオスが二人に自分を三人目の友に加えてくれる

-45-

よう懇願したと書いているが,断られたとは書いていない.

『走れメロス』の章でも述べるが,帰還の期限については特に注目する必要

がある.アリストクセノスでは,ピンティアスはその日のうちに戻ることにな

っている.恐らく彼の住まいはシラクサイ市の中にあったのであり,往復にそ

れほど時間を要しなかったのであろう.本当に戻ってくるかどうかだけが問題

だったのだ.そのような条件ならば,この話が実話であったとしてもあながち

不思議ではないように思われる.

[2]鈴木三重吉のバージョン

鈴木三重吉 (あるいはその粉本)ではこの逸話はどのように扱われているか.

まず目に付くのは,話の冒頭でダモンとピンティアスの二人がピタゴラス学派

の学徒であることが述べられ,自制の重視,輪廻の思想といったこの学派の特

徴について若干の説明をしていることである.古代の作家たちも二人がピュタ

ゴラス学派に属していたことは述べているが,学派そのものに関する説明はこ

とさら付け加えていない.この点からも粉本の作者がある程度の古典の知識を

有していたことが推察される.

さて,先ほどの五点について見ていけば次のようになる.

(1)ビンティアスの方が死刑を宣告され,ダモンが人質となる.

(2)ピンティアスは 「いつもデイオニユシオスに反抗しているように呪まれ」

たために逮捕された.

(3)ギリシアに土地を持っており,身内の者もいる.一度帰ってすべてのこと

を片づけたい,という理由.

(4)はっきりと数字は挙げていないが,当日中でないことは確か.

(5)デイオニユシオスは二人の友人として迎えてもらえるよう懇願するが,断

られたという記述はない.

これらの点から考えると,三重吉のバージョンはデイオドロスに基づいてい

るようだ.ただし,ピンティアスがギリシア本土に帰るという要素は新しいも

のである.

さて,三重吉の 『デイモンとどシアス』に語られている数々の逸話は,総じ

てデイオニユシオスの人間不信と残虐性に関する物語であると言えるだろう.

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そして,最後のデイモンとどシアスの物語に至り,二人の信頼関係に感動した

王が,あたかもそれまでの所行を反省して,改心することを予想させるように

童話全体が組み立てられているのである.

[3]ヒュギヌスとポリュアイノス

全く同じ筋でありながら,これまで見てきたバージョンと大きく異なるのが

ヒュギヌスとポリュアイノスである.このうちポリュアイノスの方はほとんど

知られていないが,ヒュギヌスの方はシラーのバラードの素材となったことに

よって比較的有名である.

ヒュギヌス 『神話伝説集』の 257番のセクションは 「友情によって結ばれ

た者たち」と題されており,最初に神話 ・歴史上親友として高名なペアの名前

が列挙され,それに続いてモエルスとセリヌンティウスの物語,ハルモデイオ

スとアリストゲイトンの物語の二つが長く詳しく語られるという形式になって

いる。このヒュギヌスのバージョンはこれまで日本で紹介されることがほとん

どなかったようであるから,問題の箇所だけここに訳出することにする。

シチリアの借主デイオニユシオスは極めて残忍であり,市民を拷問にかけ

て殺していたので,モエルスは王を殺そうと思った.彼は武器を持っている

ところを衛兵に捕まり,王のところへ引き出された.彼は尋問されて,王を

殺そうと思ったのだと答えた.王は彼に碇の刑を命じた.モエルスは自分の

妹を嫁がせるために三日間の猶予を与えてくれるよう王に頼んだ.三日目に

戻ってくる保証として,同輩の友人セリヌンティウスを王に差し出した.王

は彼に妹を嫁がせるための猶予を与え,セリヌンティウスに,もし期日まで

にモエルスが戻ってこなかったら,お前が同じ罰を受けモエルスは釈放する

と言った.

モエルスが妹を嫁がせ戻ろうとしたとき,突然嵐と大雨が起こり,川が増

水して,船で渡ることも泳いで渡ることもできなくなった.モエルスは川岸

に座り込み,友が自分の身代わりに死んでしまうと言って泣き出した.一方,

もう三日目の第六時になったというのに彼がやって来ないので,バラリス(6)

がセリヌンティウスを十字架にかけるよう命じると,セリヌンティウスは王

に日はまだ過ぎていないと主張した.第九時になったとき,王はセリヌンテ

ィウスを十字架に連れていくよう命じた.彼が引かれていくあいだに,モエ

ルスはやっとのことで川を渡り,死刑執行人に追いつこうとし,遠くから「待

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て,執行人,張本人の私はここにいるぞ」と叫んだ.事態が王に報じられた.

王は二人を自分のところに連れてくるよう命じ,モエルスの命を助け,自分

も友情に加えてくれるよう二人に懇願した.

先ほどと同じ五つの観点を列挙してみると次のようになる.

(1)一時釈放されるのがモエルス,人質になるのがセリヌンティウスという名

前になっている.二人がピュタゴラス学派であるという記述はない.

(2)モエルスはデイオニユシオスの残虐性に怒 り,実際に殺そうとして逮捕さ

れる.

(3)釈放を求める理由は,「妹を嫁がせるため」である.

(4)猶予期間が 「三日間」とはっきり示されている.

(5)王が二人の友情に自分も加えてくれるよう懇願する.断られたという記述

はない.

主人公の名前も(3)(4)も他には見られぬ要素であるが,何より注目すべきは,

モエルスの帰還の際に増水した川が障害となって立ちはだかるという道具立て

が付加されていることである.上に挙げた古典作品の多くは,ピンティアスが

期限ぎりぎりになって帰ってきたと記している∴ヒュギヌスにおいてもそれは

同じであるが,増水した川という要素が加わることで物語にさらになる緊迫感

が加わっている.

さらにひとつ奇妙なことがある.実は,ヒュギヌスは別の箇所でダモンとピ

ンティアス (原文ではピンティア)について言及しているのである.それは第

254番の 「親孝行な者たち」と題されたセクションで,「シチリアのアエトナ

山が初めて噴火したとき,ダモンは母を火から助け出し,同様にビンティアは

父を助け出した」と述べられている。二人の名がベアになっているのに話は全

く別のものである.なお,モエルス,ピンティアスという人物は古典文学の中

でヒュギヌス以外には言及がないということを付け加えておく.

ポリュアイノス 『戦術書』に語られている物語も基本的には他の伝承と同じ

であるが,いくつかの点では大きく異なっている.まず,これまでと同じ五つ

の点についてまとめてみる.

-48_

(1)死刑を宣告されるのがエウエペノス,人質になるのがエウクリトスという

名前になっている.この名前も他には登場しない名前である.

(2)デイオニユシオスはイタリアの諸都市と友好条約の交渉を行おうとしてい

たが,エウエペノスが各都市のビュタゴラス派の人々に借主の話を信じないよ

う忠告した.これに腹を立てた王はエウエペノスを捕らえて告訴する.明言さ

れてはいないが,エウエペノスもどュタゴラス派の人物であることは確実であ

る.

(3)釈放を願い出る理由は,バリオンに住んでいる妹を嫁がせるためである.

(4)釈放の期限は半年となっている.ただし,この期限は人質になるエウクリ

トスが申し出るのであり,デイオニユシオスが決めるのではない.また,期限

内に戻らなければ人質を処刑するなどということはことさら書いてない。

(5)他の伝承と同じく,感心した王が三番目の友人にしてくれるよう懇願する.

加えて,王は二人にシチリアに留まってくれるよう頼むが,二人はこれを断る.

デイオニユシオスは二人の希望を聞き入れ, 以後人々から信頼されるようにな

ったという.

また,このバージョンに特徴的なのは地名が具体的であることだ.デイオニ

ユシオスがエウエペノスを捕らえるのは,後者が南イタリアの 「メタポンチイ

オンからレギオン」一に向かう途上であるし,嫁がせるべき妹は 「バリオン」に

住んでいる.バリオンは小アジアの町であり,シチリアから往復することを考

えると 「半年」という保釈期間は妥当なものかもしれない.しかしこの半年と

いう長い期間のために物語は緊迫感の欠けたものとなっており,この点はヒュ

ギヌスと対照的である.

ダモン・ピンティアス伝説になぜいくつものバージョンが存在するのか,そ

の謎を解くための手がかりは, 残念ながら全く残されていない.伝説に異同は

付き物とはいえ,主人公の名前だけで三種類もあるというのはひじように奇妙

である.また,ヒュギヌスとポリュアイノスのバージョンは 「妹を嫁がせる」

というモチーフが共通であり,両者になんらかの共通のソースが存在すること

が推測されるが,その他の点ではまるで異なっているから,それ以上推理を進

めることもできない.

[4]後代の文学作品化

-491

古典期以降,ダモンとピンティアスの伝説が文学作品の中で取り上げられる

のは,14世紀になってからである.ロンパルデイアの修道士,ヤコブス ・デ ・

ケツソリス (JacobusdeCessolis)は,チェスの駒の特性や競技のルールに

なぞらえて,現実社会における道徳を説く説教を行った.その説教には古典や

聖書からの様々なエピソードが盛り込まれたが,ダモンとピンティアスの物語

もそのひとつだったのである.この説教は韻文にも改編され,14世紀初頭に

そのラテン語による全文が公けにされた.この書物はかなりの人気を博したら

しく,14世紀半ばにフランス語に翻訳され,イギリスでは 15世紀後半にカク

ストンの英語バージョン (●■TheGameofChess一一)が出版された.さらにドイ

ツではコンラート・フォン・アメンハウゼンらがこれを模倣し,多くの 「チェ

スの本」が書かれることとなった.このうち,マイスター・シュテファンの 「チ

ェスの本」ではピンティアスの名がPhysiusになっているとのことである(7).

イギリスではカクストンによる 「チェスの本」の翻訳ののち,トマス ・エリ

オットが 『為政者論』(1531年)2,11にダモンの話を引いている.さらに.,

リチャード・エドワーズが 『デイモンとどシアス』("DamonandPithias-r)

という劇を発表する (1571年と1582年に出版).ここではダモンがスパイと

して逮捕され,ビンティアスが人質になることを申し出る.ダモンは身辺整理

のために一時の釈放を乞い,二ケ月の猶予が許される.この劇はシェイクスピ

アの 『ヴェローナの二紳士』の素材ともなった.

これより時代が下ると,シラー以外にはめぼしい文学作品化は見あたらなく

なる.ただし,この説話が子供向けに書かれた童話集などに収録されていたこ

とは,鈴木三重吉の作品などからも明らかである.そのような童話集,説話集

で古いものを見つけることはできなかったが,ジェイムズ ・ボールドウインと

いう作家が 『五十の名高い物語』(1896年)に 「ダモンとピンティアス」「ダ

モクレスの剣」の二つのデイオニユシオス伝説を収めている.

単に言及しているだけの作品まで拾うとなると,おそらく相当な数にのぼる

であろう.最も有名なのは,シェイクスピアの 『ハムレット』(1602年)第三

幕第二場で,ハムレットがホレイシオに 「親友デイモン」と呼びかける場面で

ある.もっと古いものでは,ゼバステイアン・プラント『阿呆船』(1494年)

10,13にalsDemadesundPythiasという一行がある.近代ではスティーブン

スンの 『ジキル博士とハイド氏』(1886年)が有名か.また,フォークナ-の

初期の作品に,『際限のないデイモンとどシアス』(1925年)という奇妙な友

情関係をテーマにしたスケッチがある.

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[5]類話

ダモン。ピンティアス伝説の主な類話も紹介しておく(8). まず,13-14世

紀に成立したと考えられる説話集 『ゲスタ・ローマ-ノールム』の第 108話.

ここでは二人の友人は二人組の盗賊になっている.片方が独りで盗みを働いて

捕まり死刑を宣せられるが,相棒が人質を買って出るという設定になっている.

これは明らかにダモン・ピンティアスの伝説をふまえて作られている.

『アラビアンナイト』第 396-397夜,「オマル ・ブヌル ・ハッタ-プと蕃

い牧人との話」.ある老人を殺してしまった若者が,その息子たちから報復を

受ける刑に処せられる.若者は財産を弟に渡すため三日間の猶予を願う.この

物語では,若者がその場に居合わせた見ず知らずの人物を保証人として指名す

ることになっている.指名された男も快くこれを引き受け,若者が戻らないと

きは自分の命を差し出そうと言う.若者は約束どおり戻ってきて,これに感銘

を受けた息子たちは復讐を放棄する.

「友人の身代わりになって自分の命を差し出す」というタイプの説話にまで

範囲を広げると多すぎて本稿で扱える範囲を超えてしまう.ひとつだけ挙げる

なら,キリスト教に改宗したスペイン系ユダヤ人,ぺトルス ・アルフォンシが

12世紀初頭に著した 『知恵の教え』の中の-話がよい.「蟻と雄鶏と犬につい

て」と遺された説話に付された例話,「非の打ちどころのない友だち」という

のがそれである.落ちぶれたエジプトの商人が殺人を目撃するが,自棄になっ

ている彼は自分がやったとうそをついて罪をかぶってしまう.商人が死刑を言

い渡されて礁台に連行されるところを,以前にこの商人から大きな恩を受けた

ことのある友人が目撃する.彼は恩返しのために,殺したのは自分だと言い立

てて身代わりになろうとする.ところが,この顛末を見ていた真犯人が自責の

念から自首して出る.結局三人とも王から罪を許される,という話である。

ⅠⅤ シラーの 『人質』

数ある文学作品化の中でも,シラーがヒュギヌスを題材に創作したバラー ド

『人質』(一一DieBiirgschaftn)は最も名高い.この作品の成立事情は少々複雑

であり,冒頭に紹介した 『走れメロス』の謎も直接にはこれに起因する.以下

にその事情を順を追って説明しよう.

おそらくシラーは 『人質』を創作する前から,ヒュギヌスについては幾分か

-51-

の知識を持っていたと思われる.彼は1797年 12月15目付けのゲーテに宛て

た手紙の中で,詩の素材が不足しているので思うように創作できないことを嘆

いており,ヒュギヌスがそうした素材を提供してくれるのではないかと述べて

いる.これを受けてゲーテは次の日にヒュギヌスの刊本を手紙とともに送って

いる.

シラーがヒュギヌスを材料に 『人質』を書くのは翌年の8月 27日から 30

日にかけてである.28日の手紙の中では,ゲーテにヒュギヌスを通読したこ

とを報告しており,この作品を読む書びについて述べ,詩的な創作意欲を刺激

されると書いている.さらに,ヒュギヌスを現代人の想像力が要求するものに

合わせて作り直し,ギリシア神話 ・伝説のハンドブックを作ることは意味のあ

る仕事だとも述べている.

9月4日,彼は手紙といっしょに 『人質』の手書き原稿をゲーテに送った.

その手紙の中では,この詩がヒュギヌスに基づくものであることを示し,自分

がヒュギヌスの物語 (つまりはモエルスの物語)の中にある主要なモチーフを

すべて兄いだし得たのかどうか気がかりだと言っている.ちなみに,ゲーテは

翌日送った手紙の中で,川を泳ぎ渡って服の濡れている主人公がのどの渇きで

倒れるのは不自然だという趣旨の感想を書いている.

しかし,こののち 『人質』には変更の手が加えられる.1803年に詩集の豪

華版を出す計画が持ち上がり,そこでは従来の詩集をそのまま収録するのでは

なく,全体を新たに編集し直すことになったのである.この編集作業は 1804

年の未に行われたが,次の年の5月にシラーは他界してしまう.そのあと少々

複雑な事情があって,結局この豪華版は出版されなかった.この豪華版用の原

稿は,1904年の 「百年版シラー全集」に収められてようやく読者の目に触れ

ることとなる.シラーはこの豪華版用原稿において,題名の"DieBtlrgschaft川

を●lDamonundPythias■一に変更し,詩の二行目の M6rosという名を Dam on

に書き換えてしまった.このようにして,題名と一単語のみの違いではあるが,

問題のバラー ドには二つのバージョンが残されることになったのである.

シラーがなぜこのような変更を加えたのかは判然としない.おそらく,彼は

もともとダモンとピンティアスの伝説を知らなかったのではないか.ヒュギヌ

スのバージョンによって初めてこの伝説に触れたものと思われる.その後 『人

質』を完成させてから,なんらかの折りにDamonとPythiasの名前の方が人

口に胎灸していることを知ったのであろう.マイナーなヒュギヌスの人物名で

はなく,一般的に知られた名前の方がよいと判断しての変更ではなかろうか.

-52-

この 『人質』という作品は,基本的にはヒュギヌスの伝承に素直に従ってい

る.したがって,「妹を嫁がせるため」「三日という期限」「増水した川に帰路

を阻まれる」といったヒュギヌス特有のモチーフはそのまま取り入れられてい

る.ただし,この作品独自の要素も見受けられる.まず,ビュタゴラス学派に

関する言及がないのはヒュギヌスと同じであるが,詩はいきなりモエルスがデ

イオニュシオスを殺そうと近づく場面から始まる.逮捕されて理由を問われる

と,モエルスが 「町を暴君から救うため」と答える順序になっている.

また,セリヌンティウスの名前はどこにも出てこない.「友人」などと言及

されるのみである.モエルスの名はそのままドイツ語で M6rosと表記されて

いるが,二行目に一度現れるのみである.一方,詩の後半でフイロストラトス

というモエルスの召使いが登場する.これは古代の伝承には全く存在しない人

物であり,シラーの創作と思われるが,そのような人物にわざわざ名前が与え

られているのは少々奇異である.なお,この詩の韻律はイアンボスとアナバイ

ストスの混合である.セリヌンティウスという名前は,長いものではあっても

この韻律にのせることは可能であり,韻律が名前の言及されない理由とは考え

られない.

激流の障害を乗り越えるというモチーフはヒュギヌスによるものであるが,

シラーは盗賊に襲われるという第二の障害を加えている.さらに,主人公が疲

労のために動けなくなるが湧き水で元気を取り戻すという場面を,自らの想像

力によって作り出している.こうした帰還途上の障害と克服の場面,特に増水

した川に行く手を阻まれる場面が詩のかなりの部分を占めていることが,『人

質』という作品の大きな特徴である.ヒュギヌスのバージョンも他の古代の伝

承に比べると劇的であるが,シラーはこれをさらに劇的なものにしていると言

える.

V 太宰治の 『走れメロス』

ここまでの経過を見てくれは,太宰が 『走れメロス』において主人公の名を

「メロス」とした理由は明らかであろう.彼は作品の末尾に 「古伝説と,シル

レルの詩から」と付記して自作の出典を明らかにしているが,「古伝説」とは

ヒュギヌスのことであり,「シルレルの詩」とはシラーの 『人質』,それも改定

前の 『人質』を指している.つまり詩の二行目にある M6rosをカタカナで表

記すれば 「メロス」となるわけである.しかしセリヌンティウスの方は納得が

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いかない.シラーの詩には彼の名は一度も出てこないし,太宰がヒュギヌスを

直接読んだということもあり得ないからだ.この謎を解く上で重要な点は,太

宰はシラーを原文で読んだわけではないということである.彼はシラーの詩集

を翻訳で読んだのだ.

彼が読んだ訳書は特定できる.それは 1937年に改造文庫の一冊として出版

された,小栗孝則訳の 『新編シラー詩抄』である.太宰が当時読むことのでき

た訳書は,はかにこの小栗訳の旧版しかなく,こちらには 『人質』の詩は収鐘

されていない.この小栗訳はシラーの改訂前のテキストに基づいており,当然

題名は 『人質』,二行目も 「メロスは」で始まっている.さらに訳者は巻末に

注解を付けており,この詩がイタリアの伝説に題材をとっていること,メロス

の友人の名がセリヌンティウスであることなどを記している.太宰がセリヌン

ティウスの名を作品に登場させ,文末に 「古伝説と」と付記したのはこの注解

によっているのだ.つまり,この小栗訳とその注解を読めば,『走れメロス』

という作品を書くための材料は全部揃うのであり,実際太宰はこれだけを材料

に作品を書いたのである(9).

以上が 「メロス」という名前の謎に対する解答である.太宰の死後,『走れ

メロス』の題材について興味を持ち,これを明らかにしようとする人々が何人

か現れたが,この人たちが今述べたような事情を知ることは,実は容易ではな

かった.なぜなら,『走れメロス』以後に出版された 『人質』の翻訳はすべて

改定後の版,つまり豪華版用原稿に基づく版を底本としており,二行目は 「ダ

モンは」となっていたからである.改造文庫の小栗訳はもはや入手が困難であ

ったから,この小栗訳を見たことのない人々にとっては,メロスとセリヌンテ

ィウスの名は全くの謎に思えたわけである.

それでは最後に,ここまで概観してきた事柄を考慮に入れることによって見

えてくる,『走れメロス』の独創性というものを考えてみたい.シラーの 『人

質』を読めば明らかなように,『走れメロス』はほとんどこのバラードの翻案

である.例えば,ついに身動きできぬはど走り疲れたメロスが,湧き出る清水

によって活力を取り戻す美しい場面も,シラーの発案をそのまま受け継いだも

のだ.しかし太宰は 『人質』に多くのものを付け加えた.細かな点まで挙げて

いけばきりがないから,ここでは最も独創的と思われる点だけを取り上げるこ

とにしたい.

この伝説を伝える古代作家はみな,ダモンとピンティアスがピュタゴラス学

派に属する人物であったということを明記している.この伝説自体ピュタゴラ

ー54-

ス学派にまつわる逸話のひとつとして伝わったものであるから,これは当然の

こととも言える.特に,アリストクセノスとデイオドロスは,二人の友情を学

派の相互扶助精神の一端を示すものとして善いてる.この伝説をピュタゴラス

学派と結び付けていない唯一の作家がヒュギヌスである.ヒュギヌスに素直に

従ったシラーも,当然ながらこの学派のことには触れていない.両者の作品を

読んでみれば分かるとおり,主人公の二人がどのような人物であったのかとい

う点に関してはなんの言及もないのだ.『人質』におけるメロスの導入は全く

唐突と言ってもよい.太宰が 『人質』の小説化を思い立ったとき,彼はシラー

のようにメロスの人物像をあいまいにしたままではおけなかった。太宰はメロ

スを 「村の牧夫」として造形する道を選ぶ.この 「村の牧夫メロス」という設

定こそ 『走れメロス』の最も大きな特徴と言えるのではないか.

アリストクセノスのバージョンでは,ピンティアス (メロス)がシラクサイ

の市内に住んでいるという/設定になっているらしく,帰還の期限はその日のう

ちということになっている事実はすでに述べた.その他の古代の伝承には期限

が示されていないDヒュギヌスだけが 「三日間」という数字を明記している。

シラーもヒュギヌスにしたがって, メロスが自ら 「三日間」という期限を申し

班 , これを許されるという設定にしている.しかし両者ともメロスの郷里につ

いては多くを語っておらず, 三日の期限のうちに妹を嫁がせて帰ってきたこと

しか述べていないこ

太宰はこのシラーの背景設定を前にしてどのような想像力を働かせたのか.

まず,主人公がシラクサイ市から三日で往復するのに適当な場所とはどこであ

るかと考えたはずだ.彼は市から遠く離れた農村に帰るという設定を選んだ.

小説の冒頭で,メロスは妹の婚礼の準備のために未明に 「村」を出発し「野を

越え山越え,十里離れた」シラクサイの都にやってくる.そして買い物を済ま

せて親友のセリヌンティウスを訪ねようと歩いていたときには,「もう既に日

も落ちて」いたと書かれている.村から町までは 「十里」というかなりの道の

りながら,夜明けから日没までの間に十分たどり着ける距離であることがここ

で示されているのだ.太宰は距離と時間に関しては明らかにこだわっている.

王から釈放されたメロスは,夜に市を出て 「一睡もせず十里の路を急ぎに急い

で」,翌日の午前中に到着したことが語られている.やはり,急げば半日以内

でたどり着ける道のりであることが示されているわけだ.この距離と時間が市

への帰路を急ぐメロスにとって重大な意味を持つことになる.二日目に妹の婚

礼を済ませ,問題の三日日の薄明に目を覚ましたメロスは,「これからすぐに

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出発すれば,約束の刻限までには充分間に合う」と心にゆとりがある.急げば

半日もかからぬ道のりなのだから当然である.しかし,豪雨で増水した川,山

賊,激しい疲労といった障害のためそのようなゆとりはなくなり,日没までに

間に合うかどうかの瀬戸際になってようやく到着するわけである(10).

太宰は単に主人公の郷里を明示しただけでは満足しない.「三日間」という

期限だけが問題なのであれば,十里離れた別の市を郷里に選んでもよかったは

ずである.彼は主人公を 「村の牧夫」 とした.これは単にそういう設定になっ

ているというだけではなく,主人公の性格造形に大きく関わる問題なのだ.太

宰はかなり入念にメロスの人物像を描出している.直接的には,メロスは 「の

んき」であり 「単純な男」であると述べられている.「内気な」妹,「律儀な」

妹の婚約者といった道具立ても,メロスの性質,ひいてはメロスの所属する村

の純朴な世界を映し出すものである.

メロスの性格は小説冒頭の一句にすでに表れているとも言える.「メロスは

激怒した」.「激怒していた」のではない.彼はシラクサイの都で暴政が行われ

ていたことなど,それまでは露とも知らなかったのだ.とある老人から市が暗

くすさんでいる理由を聞き出して,突然壬の暗殺を決意するのである.おまけ

に 「買い物を,背負ったままで,のそのそ王城にはいって」行くほどの愚直さ

である.シラーの 『人質』の冒頭は唐突であり,メロスが暗殺に至る経緯の説

明などは-切ない.太宰はそのような唐突さをそのまま小説に持ち込む気には

ならなかった.彼は暗殺の理由をメロスの純朴さ,愚直なまでの正義感に帰し

たのである.また,メロスの純朴なキャラクターはセリヌンティウスとの固い

信頼関係とも適合するものであり,これらの点からも 「村の牧夫」という設定

は実に好都合なものであったと言うことができる.

妹の婚礼で陽気に額や村人たちに囲まれて,メロスは 「この住い人たちと生

涯暮らしていきたい」と思う.そして妹を花婿の手に委ねると,「宴席から立

ち去り,羊小屋にも(・り込んで,死んだように深く眠った」.安楽な牧歌的農

村の世界と,いつ殺されるとも分からない緊張感に満ちた都シラクサイとの対

照が意図されている.しかしメロスは平和な農村の世界に留まっていることは

できない.彼を待つセリヌンティウスのためにシラクサイに急がねばならない

のだ.この市への道程において,メロスの純朴な人間像は驚くべき変容を見せ

る.

激流を渡り,山賊を蹴散らしたメロスも,激しい疲労のためついに倒れ込み,

動くこともかなわなくなる.彼は最初,持ち前の純粋な正義感にふさわしく自

-56-

分を責めるが,そのうち 「もう,どうでもいいという,勇者に不似合いな不貞

腐された根性が,心の隅に」巣喰う.心の中で言い訳を繰り返し,セリヌンテ

ィウスが死ぬなら自分も死ぬと決意を固めるが,それもつかの間,最後には自

噸的になり,正義だの真実だのという価値観は放り出して,悪徳者として生き

延びてやろうかなどと言い出す始末である.このような心の中での複雑な葛藤

は,純朴で愚直なメロスの性格とはそぐわない.むしろこれは,作者太宰がメ

ロスの立場に置かれたら示すような思考なのではないか.

自棄になって眠り込もうとするところに,湧き水の音が聞こえる.清水を口

にして精力と希望を取り戻したメロスは,さらなる変貌を遂げる.行く手にふ

さがるものを跳ね飛ばし,「黒い風のように」超人的なスピードで駆け抜けて

いく.いつのまにか彼は全裸の姿になってしまった.走るのを止めるよう説く

セリヌンティウスの召使いには,「信じられているから走るのだ」と答えつつ

も,「私は,なんだか,もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ」と

言い出す.最後のカをふりしぼって走る彼の頭はもはや 「からっほ」で 「何一

つ考えて」おらず,「ただ,わけのわからぬ大きな力にひきずられて」走るの

だ.ここに至って,メロスは原始的,神話的な存在にまで超越してしまう.し

かし,再会した友と殴り合い,抱き合い,王から罪を赦された彼は,ひとりの

少女から緋のマントを差し出され,初めて自分が全裸であることに気づき,「ひ

どく赤面」する.最後には元の純朴な 「村の牧夫」に戻ったことが示唆されて,

物語は閉じられるのである.

伝説の最も古い形であるアリストクセノスのバージョンにおいては,ピンテ

ィアスは都市の住人であり,保釈の期限は当日中であった.ここではピンティ

アスが約束どおり戻ってくるかどうかだけが問題だったのであり,それはそれ

で理に適った設定である.しかしなぜかこの設定は後代の作家に引き継がれな

かった.特にヒュギヌスのバージョンは,保釈期限を含めいくつかの点でアリ

ストクセノスから大きく隔たっている.上で見たように,太宰が主人公を 「村

の牧夫」として造形したのは,元をたどればヒュギヌスが 「三日間」という猶

予期限を明記していたからである.もしヒュギヌスがアリストクセノスに近い

話を伝えていたら,『走れメロス』はどのような作品になっていたであろう.

ひょっとするとメロスは走らなかったかもしれない.いや,そもそもヒュギヌ

スによるドラマティックなバージョンが存在しなかったら,シラーもこれを作

品化しようとは思い立たなかったし,『走れメロス』も生まれなかったのでは

ないか.

-57-

(1) 「デイオニユシオスの耳」に関しては,Sabine,W.C.,CollectedPapers

onAcoustics,Cambridge,1922,273・276を参照.

(2)残念ながらSabineはその 16世紀の出典を挙げていない.ヨハン・ペ

ックマン(『西洋事物起原Ⅰ』,特許庁内技術史研究会訳,ダイヤモンド社,1980

(原著 1780・1805),266・267)は,「耳」がビュタゴラス学派のアルクマイオ

ンによって最初に指摘されたと述べているが,そのような記述を見つけること

はできなかった.

(3) シチリアのデイオドロス 『世界史』22,63,3,キケロ 『トウスクルム』

5,58,『義務について』2,25,ワレリウス・マクシムス『著名言行録』9,13(exO,4,

アンミアヌス ・マルケッリヌス 『歴史』16,8,10,プルタルコス 『デイオン伝』

9.

(4) この逸話を物語の形で伝えるのはキケロのほかに,アンミアヌス ・マ

ルケッリヌス 『歴史』29,2,4,マクロビウス 『「スキビオの夢」注解』1,10,

エウセビオス 『福音の準備』8,14,31などである.また,ホラティウス 『歌章』

3,1,17,ベルシウス 『風刺詩』3,40,ボェティウス 『哲学の慰め』3,5などは

ダモクレスの名を出さない暗示的表現であり,この逸話が当時すでに周知のも

のであったことが分かる.後代においては,例えばジョージ・エリオットが『ミ

ドルマーチ』第51章で言及している.

(5) デイオドロス 『世界史』10,4,1,キケロ 『義務について』3,45,『善悪

の究極について』2,79,『トウスクルム』5,63,ワレリウス ・マクシムス 『著

名言行録』4,7(exり,1,ヒュギヌス 『袖話伝説集』275,プルタルコス 『友人を

多く持つことについて』93E(言及のみ),ポリュアイノス 『戦術書』5,2,22,

ポルビュリオス 『ビュタゴラス伝』60(アリストクセノスの再話),コンスタ

ンティノス七世 『美徳と悪徳について』1,222.

(6)パラリスはアグリゲントウムの借主であり,なぜここがデイオニユシ

オスでないのかは全くの謎である.

(7) 後代の文学作品化については,詳しくはRaschen,J.F.L.,Earlierand

laterversionsofthe免・iendship・themeI,-■Dam onandPythias,一一Modern

Philology17,1919,49153,Frenzel,E.,StoffederWeltliteratur,Stuttgart,

19887,137-139を参照.なお,ハンス ・ザックスの 『謝肉祭劇』第47番に 「暴

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君デイオニシウスとダーモンの幸福論」(1553年)という作品があるが,これ

は名前がダモンに変わっただけで,内容は 「ダモクレスの剣」である.

(8)類話については,ぺ トルス ・アルフォンシ,『知恵の教え』,西村正身

釈,採水社,1994,265・266と 『ゲスタ ロマノールム』,伊藤正義訳,篠崎

書林,1988,417・421の注解を参照.

(9) こうした事情を完全に明らかにしたのは,角田旅人,「「走れメロス」

材源考」,『日本文学研究資料叢書 太宰治 ⅠⅠ』所収,有精堂出版,1985,

171・182である.また,小野正文,「「走れメロス」の素材について」,『太宰治

研究Ⅰ』所収,筑摩書房,1978,292・303は,もうひとつ別の素材が存在す

ることを指摘している.それは高等小学校の国語の教科書に収録されていた「真

の知己」という教材であり,太宰が少年時代に読んだはずのものである.この

教材では,主人公の名前は 「ダモンとどチウス」であり,ピチウスは 「老父母

の顔が見たくて」猶予を願い出る.保釈の期限は明記されていない.確かに素

材となった可能性はあるが,一見したところ 『走れメロス』との直接的な影響

関係はないように思われる.

(10) ちなみに,古代は含み算であるから,「三日間」といえばメロスが逮

捕された日を含めて三日ということになるはずだ.太宰においては逮捕された

日を除いて三日である.

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