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Title 徳川時代の夫役に就て Author(s) 堀江, 保藏 Citation 經濟論叢 (1937), 44(6): 1258-1272 Issue Date 1937-06-01 URL https://doi.org/10.14989/130966 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

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  • Title 徳川時代の夫役に就て

    Author(s) 堀江, 保藏

    Citation 經濟論叢 (1937), 44(6): 1258-1272

    Issue Date 1937-06-01

    URL https://doi.org/10.14989/130966

    Right

    Type Departmental Bulletin Paper

    Textversion publisher

    Kyoto University

  • 六百四年六月二十

    -H郊一z司菊川四羽品川司「博内】同一

    huJH百ず

    干す哩聖日一月六年・二二十和昭

    11

    晶岡川

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    回国・目幽

    現寛利子の問題:・

    現下の土地問題と農地法案・

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    四日

    轍入統制に仲ふ『割営利得』の問題

    徳川時代の允役に抗日」

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    ル!テル経済観の特質:

    大都市交通の特性

    ロオゼV

    シユタイン・ロダシ「一般的

    貨幣論ムニ般的債格論との同格化」

    資本組織の有機的格化土平均利山容

    との閥係

    部情皐士に答ふ・

    シユラムの比較生産相日必

    キヤレル氏保護関税と就業

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    《・市町,

    新着外岡経済雑誌主要論題

    本誌第四十四巻抽出目録 叢

    (筆

    載、J

    文革博士高田保馬

    紹一車博士八木芳之助

    訓説明市博士谷

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  • 徳川時代田夫役に就て

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    正長

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    夫役とは人夫役の義であって、政治的被支配者のその支配者に到する界的給付に外ならない。夫役たる名稀が

    何時頃生じたか明らかでないが、既に「吾妻鋭」文際二年の僚に、京下御物を法るべき人夫教をむめ、之に夫役な

    る名稀が用ひられて居れ円、「太卒記」にも夫役の裕が見えてゐる。中世に於ては之を時都せやして人夫役とも稿せ

    しが如く、例へば「大乗院寺枇雑事記UKは『長職三年七月八日、

    一五ケ所訟削旅券一す、人夫役事白筒井方懸之、

    無沙汰とて了仕戸上勝手を使に付了』云k

    、或は『文明五年七月十一日、

    一法花寺奥参巾新免削堤事、来十七日よ

    り可築之云身、十六町回数に一段別人夫一人宛可罷出云々、百六十人也』井一見え、「庫融簡集」にも人夫役左る語が

    存ずる。

    併し乍ら政治的支配者に封する持働給付は、近代資本主義枇舎に至るまでは、あらゆる時代に於て、田租及び

    古事類苑、政治部四、 546頁同上、 547頁2)

  • 士ち

    hら

    雑税と共に、人民の負指せし一三大給付の一つであって、既に上古に於ても租及び御調と共に役があり、令制に

    於て租・調と並び存せし席は、

    この狩働給付又はその物品による代納であった。即ち令制によれば、人民のうち

    正了は一年に十日間(次丁は五日間)人夫として京師に於て園事に持役すべき義務あり、之を歳役叉は正役と稽した

    が、彼等は更に阿川役と稿してそれ以上数円間労働給付を注し、別に図司の命に従って地方に於で労務を提供し‘

    之を雑係と呼んだ。有の蔵役は、朝時口は憾で之を負捨ずべき義務があ

    οたが、政府が之を必要とせざる場合、

    は人民が之に服するを伸明せざる場注には、その代償として府布・脂綿等の物品を上納したのである。

    ギ安例に入りて粧闘が受注したが、荘園の住民も亦年貢及公事(雑税)の外に夫役中」負捺した。ザ批関内の荒地の

    ~

    時々の靴役にはこの夫役がだてられたものである。

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    弔ヰ品川

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    貢が私的闘係に基く貢租であうたと同様に、夫役も亦前代の府とは若干その性質を異にした。がそれが農民の負

    携に属せし駄に於ては何等異りはない。

    鎌合時代に入り荘閣を基礎として封建制度が成立し、封建制度は徳川時代に至って完成した。封建制度とは、

    土地を媒介として上下相結ぶ政治的・枇合的組織であって、それは土地を革製友る生産子段とする時代に特有の

    一枇合形態である。誌に於℃は、君臣主従の身分関係が、封土なる物的関係を媒介として結ぼれてゐた。印ち君

    主は臣従に針して土地領有権を興へ、臣従は更にその封土の一部を自己の家来に分輿し、かくて土地領有者聞に

    上下幾階居の身分的支配闘係が成立した。此事はその字面忙於て、

    一因の土地人民に封ずる主権の分割を意味す

    る。印ち土地は之に閑却する人民と共に封興せられたのであって、人民はその領主に封していはピ私的関係に立ち‘

    徳川時代の夫役に就て

    第四十四谷

    一一一五九

    第六銃

    五王王

  • 徳川時代田夫役に就て

    ノ、O

    第四十四巻

    第六観

    主六

    十数にも一種の主従闘係が結ぼれた。右の如き上下主従の闘係に基いて、下級の領主は上級領主に針し、人岡山は制

    主一般に劃して封建的義務を負捨したが、之を分設すれば左の如〈である。

    先づ君臣関係に基くものを見るに、臣下の君主に針する義務の最も主要たるは軍役でるった。軍役とは賄軍又

    は諸候が、臨地下の諸候又は家臣に課したる役、印ち兵士を提供すべき負捨であっ

    τ、負推する側より見れば、所

    常知行を許されたる代償、換言すれば御恩に到する奉公の最も一良市宜なるものである。鎌倉時代御家人の封建的給

    付は-Zを御家人役といひ、軍役中ぜその立たるものとし、公事と糾する財政的負捨+んに次いだ。一申伎には平時の格

    役と非常時の軍役とがあり、呑役の、主たるものは、京都大蒋役と鎌倉番役とでるって、夫K

    京都及鎌倉の警衡に

    任じた。室町時代諸大名が領地を維持するには、家臣をその一部に封じて知行人とたし、知行高に舷じで知行役

    を負捨せしむるを常としたが、知行役は軍役と臨時役とであって、軍役は正役とせられ

    h。軍役の制度が最も完

    備し売のは徳川時代であって、大名・旗本には定まりたる軍役あ

    p、戦時には持軍の統帥の干に金武士階級が一

    個の軍国に編成さるぺき仕組にたってゐた。徳川時代の大名は、

    この軍役の外に鎌倉時代の呑役に相官ナる義務

    を負ひ、江戸・駿河・京都等の警衡に任じたが、更に御手停と格して、幕府の命に膝じて禁裡・江戸城等の修築、

    大何の普請等を姶賞した。また旗本も非役のものは小菅読金と稿して一定の普請費用を負捨した。

    封建枇舎に於ける武士階級の此等の負携は、康義に解すれば夫役の一種でるるが、夫役として此等よりも葺要

    友るは人民、主として農民の負指せしととるのものである。上越の如き封建的闘係よりすれば、封建枇舎に於け

    る年貢の上納は夫役闘係に基くものと見るととが出来る。蓋し土地は領主のものであり、その耕作権は寧ろ耕作

    牧博士、日本法制史概論、 190,239, 285頁等3)

  • の義務と見らるぺきものであり、従って耕作して得たる牧穫の一部を領主に上納し、残部を作徳と稿して、自己

    の生活のために奥へらるh

    が如き欣態であったからである。約言すれば耕作する事それ自身が夫役の履行に外注

    ら友いが如き翻があったのである。併し之に就ては言及を避け、間有の意味に於ける夫役に就て見るに、鎌倉・

    室町時代人夫役或は夫役と絹して荷物の運搬、堤防の修築等に農民が使役せられし事前認の加〈であり、或は百

    姓役・陣夫・倖阿町役等と開閉して卒時並に戦時に、主として臨時的に入夫が課徴せられた。江戸時代には此等の夫役

    は如何なる欣態であったか。以下項を改め

    τその種類及性質を窺ふとともゐしよう。

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    徳川時代の夫役として先づ皐ぐべきは、幕府が諸闘に課したる聞役である。悶役とは河川の修理、外岡入来聴

    の際の道中入用、共他臨時の入用のため陀課徴したところのものである。「大日本租税士山」慶長十年の僚に『参河

    園矢作川水利のため米津村忙堀を作り、共闘の役として、諸士は百石に二人、農民は一人を課すぺし』とあり、

    同十二年には駿府城改築のため、畿内五ケ図及び伊勢・近江・美議・丹波・備中の十ヶ闘に五百石営り一人宛の人夫

    を課した事が見えてゐる@此等は原則として寅際に勢役を課徴した例であるが、共後次第に貨幣代納の制忙改め

    られ、享保九年には川普請のための図役の制度が確立した。之によれば修理費用が所定の金高以上に達する揚合

    に、御料に於ては費用の十分の一を官費、残りを聞役とし、私領にるっては、先づ村高百石に付金拾雨を出さし

    め、不足額の十分の一を官費、残りを闘役とし、沿岸及び闘係の諸図上り、天領・私領・祉寺領の別段〈、

    一般の

    徳川時代の夫役に就て

    策四十四巻

    第六貌

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    頁必下

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    9章、

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    m四訂

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    滞、篇

    後料後

    、史、

    志油開志

    積極稜

    租政租

    本財本

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    大日大

  • 徳川時代の夫役に就て

    第四寸四巻

    ー』

    ノ、

    第六披

    五人

    石高に割蛍てLA

    村々より徴収するのであって、同時忙園役普請とたすべき諸川、之がために聞役を負携すべき諸

    園、及び闘役品目請とたすべき普請費財の最低限度等が掲げられてゐる。但し二十高石以上の領主はその領内の川

    普請を自ら行ふが放に(之を自普請、といふ)、その領内には園役を賦課せざる定めであった。図役の課徴は上漣の如

    く臨時的に行はれたものであるが、山品時にるっては殆どト何年に亙って各地に水害起りしため、殆ど勾年の如一くに

    課せらるミ有椋であった。

    問郷役も右と阿川怖に、府間岬附氾の州川村より、下八例・私恨の川ud〈市山制限ん日山叩山人出の一小川にそ仙川ふ目的を以て一緋徽

    せられた夫役でるる。尤も之に封しでは若干の賃銭が支給せられたが、

    それは名目に過空中、営時に於ける葬務

    負捨の最大のものと考へられてゐた。

    同じく幕府が課したるものに三役がある。三役とは五街道の問屋・本陣等に州制する給米共他宿隣の費用に充て

    るための偉民宿入用、幕府の興一J或は庖厨に使役する人夫等の給料に充てるための六尺給米、及び浅草米原の諸

    費用に充てるための減前入用の総純である。此等の課徴物の起原については必やしも明かでたいが、六尺給米に

    関しては、最初は輿丁等の人夫を村々より賞際に徴敬したものである事が明かにされてゐる。他の二者に就ても

    同じ事がいひ得られるのでは友からうか.

    右の三役は天領にのみ存し、私領には存し左かったが、私領には之に代って夫米・夫金・夫銀・夫銭・夫永等と稀

    するものがあった。此等が人夫としての勢働給付の代納制である事は、その字義よりして明かであるが寸氷上郡

    誌」には之を説明して『出陣の時夫役を課せしに始まり、太平の世となりても一種の税目として町村に賦課せり.

  • その米を以てするを夫米.銀を以てするを夫銀とい此」とあり、更に「加越能三州議租枕誌」にては夫米・夫銀に

    闘して左の如〈見えてゐる。

    『コ一州に於て、夫米の名稽を付し納品しむる茶滅を尋ぬるに(中略)、前同一本に於て牧納成規も未だ完結ならざる殿、議士に於

    て随怠に米幾子似或は諸色(大豆等或は苧の類)を納付せしめ、又軍役より馴致して蛍ヶ月に幾度自主へ呼立て、米品

    -M除・

    3

    卸等の雑事に使役ナ。然るに守神決の時に至P、地一視と陸夫と申分起D、市ず諭背怖を止じ、絡に愁訴。場合に至ること属々之

    れる

    p、之れに依

    p地頭と長夫と直接膳針を禁止し、都て農夫より

    m願付届は十村を絞出し、改作奉行へ申出"つべき事に順序

    を定品、収納物は米に限目、雑物を牧納ずるを一一切停止す。畑地多〈し旧地本き所は現鎚廷鋭梯米の義を攻作一敢行に一請願し、

    燕術(枚納米を預かる者)の米穿を買受け、以て現米同様に定例する容と相成P、月に幾度。使役に代り、一五和元年より央銀・

    夫米と名義を旬L、定納米百石に付五石LC

    情定局、米直段は古石代銀成拾ぺ匁岡リや一以て、春秋両度に斑能地域へ納付せしhu。

    之引いを夫飢LG-kb一五々。

    同時代に小役と稀せしものも亦一種の夫役であった。

    例へば仙長訴に於ては、

    一貫文の高(上々一同より下々同士

    で平均すれば約八段克畝となる)

    に針して、十人の積りを以て人夫或は代銭を徴し、之を小役と呼んだ(仙譲滞には小

    役と並んで、水下人足及御雇人足なる夫役あり、高一質文に付夫々六人及四人宛使役せられた)。小役には仕事によって種々

    あり、吐一晴天・夫馬・垣結・入草を四色小役と稿し、

    糠・藁・一銭懸の一一一穏を加へて七色小役と呼んだ。

    更に同藩にて

    は小役人足を二種に分ち、滅入地邸ち藩主直轄地より出役する人夫を御殿入小役、給餌即ち藩士の知行地より出

    役するを給人小役といひ、使役するに前者を後にし後者を去にした。査し人足に使ひ残りるる揚合には代銭を取

    立てしにより蔵入地より之を取立てる方が便利であったからであ私。小役の貨幣代納を小役銀と稿せし地方もあ

    る。秋田藩の如きそれであるが、私領より天領に穆された美濃闘不破郡にも小役銀があった。「地方凡例録」に回

    徳川時代の夫役に就て

    第四十四巻

    第六競

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  • 徳川時代の夫役に就て

    第四十四谷

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    ノ、四

    第六披

    〈『同郡先年私釘の制・小役金四十附三分L」、氷五十四文五分、七色役と名付納売る由、共口問は木銭・夫銭・京夫・江

    戸夫・隼の木ム怯捕前"境銀、此七色之役銀、局面石に銀百目宛取玄来わ(中略)営時御料に成ては布の七色役を小役銀

    と喝、高割に相納む。依之三役弁外高掛り物は免除に相成』云々と。夫役のことを差役といひ、之を銭を以て代

    納ずるを船役と叫併せし地方もあった。「耕作併用書」に「差役とは村より人夫を出し役を勤るをいム。雇役とは人

    夫を山内す称りに銭を山内し、此銭を以地閣にて人夫を雇ひ遺ふ事を云ふ。是百姓外の稼のなき所杯には銭を出す事

    た 'i~gる?恭也す』る

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    hfmして其川悦在勤める事勝るととH

    右の夫役・夫米・夫銀又は小役の如き綿括的名税を用ひしもの以外にも、種K

    の夫役があった。

    その著例は足役

    である。之は雨脚を努するより出た言葉であって、例へば山口藩では井出川除夫・米療に出る時の内夫・道橋取結

    夫等をすべて足役と稀した。彦根藩に於ても農民を山林見巡役に任じた揚合、知県給料而も足役・門役御売たどの

    こくやく

    この足役に出る代りに米銀を納むるを石役といふ。石役は又足前とも栴した。「農政本論」に「或説

    記録がある。

    に、首園大石削除岸より出羽岡置賜郡米津の城下迄は三日路程あり、然るに米津領分の百姓等、村役にて城詰の

    堕を翠迭するに、人夫馬牛の失墜彩しく掛り、農業の妨げにたるに就て、共時代の足役の永納を願ひ、四一高六

    十二石五斗より毎日永一文づえ

    一年三百六十文を上納せしといふ。其足役の代りに納る役永たるが故に、足前

    と名けたるにや』とるる。之は米津港の例であるが、山口藩に於ける足米も、足役を米を以て代納せし制度たる

    が如くである。即ち同落にては‘租米を地方の倉庫より津減若くは萩の御殿まで運送する費用に充てるため、租

    古事類苑、政治部四、 439頁近世地方程済史料、第六巻、 411頁

    10)

  • 米にこの足米を附加して徴牧したのである。

    共外松江蒋の水夫米、和歌山務の加子米、松山・宇和島・西傑諸藩の水主役等は、何れも水夫を徴裂し若くはそ

    の代りに米金を徴収せしものであった。

    以上の外に、村役と四惜して、谷村に於ける道路・橋梁・堤防等の修築の際に、村高に際じて人夫並に修築の材料

    を農民に諜せしものがあった。之は自治的とh

    ふよりも事る代官が命じたところであって、従って幕府は、村役

    人足は高百石に付五十人、

    それ以上を使役する時は之に扶持米を給し、その限度を五十人と定めてゐる。村役に

    は更に、

    年賀等を認織するために丸山咽ごり札し嵯ム口も存せしこと、

    k尚「琵政本論」に見ゆるが如くである。

    以上は専ら震対に認せられた夫役であるが、此外一般町人消〈は判定の峨人に課したものもあった。ザ山林府が江

    戸府内に課したる公役の如きは前者の著例である。部ち之は武家地・枇寺地・拝領地及び岡役(後遺)ある町h

    を除

    き、地子の代償として一般町民に課したものであって、享保頃までは一ヶ年凡そ鶴町を使役すぺしとの制限左〈、

    大抵間口五・六間より十六・七聞を一人役とし、毎年凡そ二十二・三人を出役せしめたが、享保七年に至。之を銀

    納と定め、

    一定標準に従って人夫賃bL上納せしむること与したa

    後者の著例は同じく江戸府内に於て、諸職人の

    集住ずる町々より上納せし圏役である。之も夫役なるが放に、一応来は人を徴せしものであるが、後には銀納を併

    用し、或は全然銀納に改められし場合もあっゎ。諸藩に存せし大工役・役大子大工運上等の制も棉て同類のもの

    ?あらう。尤もた工役と稽するものどっちには輩なる職人役と見るべからざるものも存した。例へば五畿内及近

    江闘には大工高又は大鋸高等と稽して、大工又は木慢の所持する高諸国畑があったが、幕府は此等の高持大工又

    徳川時代の夫役に就て

    第四十四巻

    一二六五

    第六競

    プマ

    拙稿、足役(日本経済史僻典、 '9頁)小常山緩介、江戸町の銀役(法制論纂所Jjl()?~,照

    12) 13)

  • は木挽に謝しては、

    六一一

    同租のみを課して六日ハ給米等を兎じ、その代りに臨時に御用の大工役を命じた。従ってとの

    徳川時代の夫役に就て

    第四十四巻

    一一一'ハ六

    第六競

    大工役は農民に封ずる夫役とその性質を同ビ〈し、地子発除の代僚として課せられた公役、

    一般職人に課せられ

    た日営業特権料的左同役たどth

    梢とその性質を異にし売。

    然らば主として長氏を割象とせる夫役の性質如何。その第一一は、夫殺の各務類に就て述べたるが如〈、本来人

    夫役なりしものが究第に貨幣又は米殺によって代納せらるLに去りしことでるる。夫役の代納は殺で徳川時代に

    は限ら放い。

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    、--43〉川内

    F4th佐山」r

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    止刊日守出恥

    wi--賢際の叫mp役よhuもMJん郷土の物作一に上る代納の方が原点官一蹴せら計六

    事は姑く措くとするも、鎌倉時代既に貨幣による代納が行はれた。「太平記」に『相模入選会弟の四郎左近大夫入

    道に十宙開徐騎を指添て、京都へ上せ、畿内西闘の飢bf銭むぺしとて、吠減・上野人玄房・上線・常陸・下野六ケ闘の勢

    をぞ催されける。共丘(腹の震にとて、近図の庄園、臨時の夫役をかけられける。中にも新悶庄世良悶には、有徳

    の者多しとて、問雲介親連・黒山川彦四郎入道を使にて」ハ貫目を五日が内に沙汰すべしと堅〈下知せられければ、

    使先彼所にのぞみて、大勢を庄家に放ち入て、詰責するとと法に過たhh』とあるのはその一例である。

    併し徳川時代に入りでは、夫役はその大部分が米叉は貨幣を以て代納せらるL

    事とたった。此時代の初期には未

    r勢働給付が原別であったものも、吠第に金納又は物納に改められしこと、例へぽ同役に於けるが如くである。

    夫役が米納せられしことは、徳川時代幕府及諸藩の財政が米穀を基礎とせし結果であり、金納せられしととは貨

    幣粧品何が殻達せし営然の結同市である。何れにしても夫役の物納叉一は金納は、農民の身分的・人格的束縛よわの解

    放であり、地位の向上でる旬、また農民の生産力の褒遼を一不すものであった。

    江頭恒f官、大工高(日本経阿武附典、 963頁J市事類苑、政治部四、 547頁

    '4) '5)

  • 併し此事は必47しも農民の負拾の軽減を一不すものではなかった。蓋し従来臨時的友りし夫役が経常化したから

    である。認に第二の性質がある。勿論線てが経常化したわけでは及く、幕府の課徴ぜし闘役・助郷役の如きは臨

    時的性質のものであった。併しそれが制度化せられたといふ事は、経常化ぜるととL相去る事選きものでは泣か

    った。況んやそれ等が事寅上は頗る頻繁に課せられしに於ては、それが経常的夫役と何等臭るところたきを一不す

    ものであった。更に犬役が経常化したこ左は、経常的夫役に加ふるに臨時的夫役を課徴せしむる徐地の生

    bたこ

    とを示すものである。「地方治法L

    に「夫役は陣屋日掃除人足、雪かき人足、或は臨時の水夫に呼遺ふ。又域内多分

    の曲目清ある時は、尚百行に付何十人と極め呼造ふ。共員数定り友し。家々の仕来りを用ひ、右醐闘の夫役は夫米・夫

    金制る村方も司

    臨時のル仰は山崎ふ市引なり。

    1f米ゆ犬金納る付方、川除問水且刊誌削等に人火司法ふは格別

    問地所あるぺき事たり』とあるのがそれであって、

    JI)r 耳目-.1'--ペri1::

    人足呼浩ふは、

    かL

    る時は農民は、

    夫役に闘し二重課税を蒙る

    結果とたったのである。

    要するに徳川時代の夫役は、前時代の夫役に比して著しく租税的性質を加へたやうに考へられる。それは農民

    の肉醐閥的労務よりの解放であり、従って人格楼の束縛からの解放を意味したが、農民の負携は必やしも之に作り

    て軽減したと稿する事を得一なかった。之に関聯して次に夫役の財政的性質を見ょう。

    央役の財政的性質

    之に閲して先づ遁ぶべきは、夫役の課徴方法に就てである。

    徳川時代の夫役に就で

    六一ニ

    第四十四巻

    一二六七

    第六競

    ~iJ L'.、549頁16)

  • 徳川時代の夫役に就て

    第四十四巻

    一一一六八

    第六披

    六四

    夫役は現賓の第働給付たると、代納たるとを問はナ、概ね村高を標準として賦課せられた。所謂三役が或は高

    懸り一二役とも稽せられしととは、此間の消息を如賓に一示すものでるる。此外私領に於て三役に相営する夫米・夫

    令一・小役・糠薬代ゃ、各村に於て道路・防堤等の修築のために課する村役や、線村の諸雑費支排のため忙課する小

    入則夫鋳等、

    皆尚州日り物であり

    F

    た。

    細川じて徳川時代高怒り物或は高役といへば、

    その内容は殆ど綿て夫役的性質

    のものであったと児て走支へなを程である。

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    〉自己ヘ、二一一三

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    仙の小物山川一・洋役などと諮った州品川を持。てゐた

    (+んも小物成

    中にも夫役的性質のもりが存せしととを知る)。町ち小物成は、山林・原野・河海など土地に劃して課するものと、商工

    業・漁業共他の生業に封して課するものとに大別することが出来るが、何れにしてもそれは土地叉は生業より生

    やる農民の利盆に着目して課せられたものであった。勿論山年貢・林年貢たどの如〈、

    土地の段別を標準として

    賦課するに至れば、小物成は閏租とその性質に於て相異らざるものL如〈考へられる。併し同じく土地であって

    も、それが高語地でるる場合と然らぎる揚合とでは、そこに非常な相違があった。

    いふ迄も左〈高請地とは、検

    地の上土地の等級を定め、石盛卸ち牧穫率を決定して村高に編入せられた土地であって、田畑の大部分は之に属

    した。而しで幕府は高請地を耕作以外に用ふるととを原則として許さ

    rりしのみなら宇、之に栽培する作物にも

    制限を附した。況んや高請地を無高地に蝿変更するが如き事は到底許され宇、種K

    の事情によって耕作不可能とた

    った揚合にも、その部分を村高より誠宇るととた〈、高内引と稀してその部分の貢租のみを減免したのであった。

    蓋し幕府従って諸藩は、高請田畑の年貢即ち所謂本途物成を租税の根幹としたからである。

  • 従つで高諸問畑の耕作は幕府及諸濯の最も意を用ひたところであって、営時の農民の之に封ずる闘係は‘耕作

    権を有したといふよりも準み耕作の義務を負捨したものでるるとも見ることが出来る。勿論之は、封建制度の慕

    本的闘係に旋回した版児一的意味に於てピあって、農民の土地に封ずる関係が次第に私有様的性質を帯び、同時に

    幕府及諸侯の領土に劃する闘係が、次第に所有様的性質を失ひ、支配徳的えは租枕徴収機的性質のものに溌じっ

    Lありしことは否定するを得友い。が併し、山林・原野等に針する権利叉は利径聞係と頗る異る貼が存したので

    ある。かas

    る重姿性を有せし高請地のす同を襟準

    4して諜せられし夫役は、その性質に於て寧る田租と挟を一にし

    売。印ち小物成の名の干に綿伺せらるa-A

    雑税よりも、

    土り多く封建的性質を布したのである。従って徳川時代の

    間税醐唯一治は、

    刀温を士ム」{'l

    工夫役中一従とし、i7

    んが〕怖ふものJして雑税が諜吃られたと見るぺきであらうり

    斯〈の如く夫役は、田租と共通の性質を有したが、併し雨者の聞には賦課の地理的範聞に於て異るととるがあ

    った。詳言すれば、諸漆が課した夫役は勿論その領内に限られたが、幕府の夫役には諸侯の領土代も及ぶものが

    存した。闘役・助郷役の如きそれである。而して勿論此等は諸侯の領内に固有の夫役の存するととには頓着なし

    に課せられたものであった。

    との賠に於て、

    田租が賦課の地理的範闘を明確に劃せると茜に趣きを異にし、従つ

    て夫役は軍課となるを売れ得ない必然性を持ってゐた。

    更に夫役には、それが重課となるべき今一つの一性質があったらそれは、同じく村高を課税標準とするも、田租

    は土地の牧楼税で-bって、その徴牧には五公立民、六公四民などの限界あり、殊に凶作の揚合には検見によって

    租額を減じ以て租税と作徳との均衡が闘られたが、夫役に於ては斯くの如き考慮が友され得なかったといふ事で

    徳川時代の夫役に就て

    第四十四巻

    一二六九

    第六貌

    六五

  • 徳川時代の夫役に就て

    第四十四巻

    六六

    七O

    第六競

    める。即ち夫役は高論地の現賓の牧穫に頓靖宏〈、村高そのものがひとへに課税標準と在ったとと、収穫に直接

    関係・泣きにより、自ら課率の昂騰そ発れ得たかった事、

    の二黙に於て、問租に比しより重課せらるべき性質を持

    ったのである。勿論例へば岡役金一高雨に達するときは、之を課する諸国の三役宇一発やるとか、或は凶作にて回

    作五分以上県毛の場合、或は幼郷役又は村役を課せられた揚A口に三役を売やるとかの規定があった。併し以上の

    如唱を性質上・夫役け日租以止に買を負拾であると感ぜられ1ゐ売やろである。之につき「世事凡開紘」Jり一節左

    掲ぐれば左の如くである。

    『其上殊に難儀なるは凶役・侍馬役・人足なりといふ。岡役杯は人ゆにでも叉荒地有でも村高程に納る事なり。是も背はなかりし

    が五十年来の謀役なりといふ。又博馬役・人足役の事、彼惑は日光道中・奥羽の匙中・例幣使街道な

    H

    と往来多の場所ゆゑ、何れh

    宿騨助郷在勤むるに、RE又村高へ割付する事にて、百姓十人二十人ならではなき所へ一ニ十人も四十人も位P、馬五回なら亡は

    なき所へ十疋も十五疋も門的る故、無掠宿騨場へ賃銀を出し雇ひ上て役を勤るといふ。会模街々人馬町入用も古来よりも倍加古い

    たし踊噌難儀の重なるゆゑ、堪へかねて段々離散し荒地潰家出来るとい・占。尤もの事なも『』

    要する忙夫役は、徳川時代の租税酬閥系上、田租に次ぐ重要性を持ち、田租と同一の封建的性質を帯び、加ふる

    に田租以上に貫課せらるべき諸性質を備へてゐた。

    乙の事は前項に述べしととろと相候って、夫役が農民に頗る

    重き負擦とたった所以でるる。

    以上極めて雑駁友がら、徳川時代の夫役に就て概説した。夫役は普遁一般に課役なる諸によって総括せられ、

    世事見聞録(改:益支庫本)、 72買17)

  • 「経済事鯨典」「日本経済史辞典」等には、之に闘する綿括的乃至個別的説明が奥へられてゐるョ然るにも抱らや本

    稿を草した所以は、而して特に夫役友る語を用ひた所以は、徳川時代の所謂謀役に、人夫役を本械的形態とせる

    もの頗る多きを見たからであり、従ってとの夫役を吟味することによって、農民の性質を窺ふペき一手段が興へ

    られ、更に之に閲する鰐系的研究の殆戸一存せざる中世の夫役を知るべき一つの手懸りが興へられんととを期待し

    たからであった。

    然るにも拘らや期待は草なる矧待に拍拾った。が併し一底上に蓮ぺた占己九を要約して、先壊の叱正を乞ふとと

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    したい。

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    世の夫役に比して臨時的性質を著し〈除却し、その物納・金納への殻展と相倹って、徐税租税的性質bq」州市ぶるに

    至った。併し乍ら同租と共に依然封建的性質は之を脱するを得ψ

    広かった。説、に封建的租税とは、封建枇合の主要

    なる結合開係でるる身分的主従関係に基く租税の意である。

    この主従闘係が土地を媒介とせるものたる以上、夫

    役も亦土地関係を基礎とせざるを得たかったのでるる。

    との貼に於て夫役の封建制は、田租のそれよりも更に濃

    厚でるったといへょう。蓋し夫役は、政治的勢力によって重課せらるべき諸性質を、岡山聞に比してより多く有し

    てゐたからでるる。

    徳川時代の農民は、持仰の全徐刑判を段取せられたこと、土地の完全た私有権を有せ宇、目っその土地が一家の

    弊働力を輩純再生産し得る程度の大きさに過ぎなかったとと、居住移轄の自由並に職業の自由を認められてゐた

    徳川時代の夫役に就て

    第開十削忠世

    -i.;

    第六腕

    ノ、

  • 徳川時代のふへ役に就て

    -b

    静六競

    a

    、、J

    瞳炉問十凶巻

    かったこと警の諸制に着目して、

    一種の農奴であったと設明せられてゐる。との肱を上述の如き性質の夫役の観

    掛からすれば

    Eうであらうか。夫役が、特定のものを除き、殆ど総て貨幣又は穀物を以て代納せられ、

    日つ経常

    的性質のもの井一たれば、従って租税的性質を帯び来れば、農民は人格穫の束縛より飴稜解放せられた段階に上つ

    たものと見たければ反らたい。従って、徳川時代の農民を自由農民であったとする事は勿論出来たいが、農奴で

    bったにして払抗K解放過杭にあったとlr

    はざるを利ない。此古叩は農民のJ

    」地に到する制係のいれに化から払説明し

    得るが、夫役の性質の耕一化よりしてよりよく説明する事が出来ると忠ふ。封建的経松からの形式的た解放は、明

    ム山一初年の土地私有権の確認、夫役的性質の租殺の撤廃、並に身分的諸制限の撤廃によって行はれたのである。

    併し乍ら身分的解放の逃展は、同時に負擦の軽減を意味したわけではたかった。事情は引やろ逝であった。之れ

    土地経怖と貨幣経済との矛盾の必然的所産であり、同時に夫役に内在する特性の常然の蹄結でもあった。夫役に

    よる農民の困窮は、偲ひ「世事見附録」の記するととらの如くではなかったとするも、問租の重謀に劣らぎる苦痛

    を血ハへたであらうことは、容易に之を窺ふことが出来る。

    例へば土屋喬雄、近世日本農村純情史論、 30}'{18)