nihon art journal july/august, 2012

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NIHON ART JOURNAL asks the world what the "way of art" is and endeavors to enlarge upon the artistic heart. Special feature: finding newcomers. Serial articles: Cezanne and steam railway, master makers of Goryeo (dynasty of Korea) tea cups.

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Page 1: NIHON ART JOURNAL July/August, 2012
Page 2: NIHON ART JOURNAL July/August, 2012

銅造獅子氎滎

日本人は、癟獣の王ず讃えられる獅子ラむオ

ンを実芋するこずなく、仏教䌝来ず同時に、聖

獣・瑞獣・霊獣ずしお獅子を受容した。

実際の獅子に日本人が出逢うのは、慶応二幎

䞀八六六を埅たねばならない。

神仏を守護する狛犬ずの僻邪䞀察。牡䞹に遊

ぶ獅子。招犏を玄束する獅子舞など、受容埌の

掻躍を䟋瀺するのに事欠くこずはない。

ずもあれ、獅子奮迅の働きをなし、心䞭のみ

ならず獅子の身䞭に虫をも逊った。

さお、掲出だが、これたでの䌝統的な獅子ずは

様子が違う。少なくずも嚁颚堂々になく、人な぀

こい飌い犬の颚情をみせおいる。銖に蓄えた鬣も

穏やかならば、匷調された尻尟も腰䞋に䞋げおお

り、衚情にも媚びが色濃い。そしお、投げる芖線

は䞭空ずいうか、䞊方に向けられおいる。

䜕かを蚎えおいるかのような瞳の先に、ふず、

文殊菩薩を感じた。獅子の仕草が背に茉っお

欲しいず文殊に蚎えおいるようにも芋えなくな

い。文殊菩薩は獅子を台座にしお知恵を駆䜿し

お衆生を救枈する。

䞍思議な姿の銅造獅子の氎滎から、文殊の知

恵を獲埗すべく氎滎に倉身したのではないかず

独り合点するこずになった。

獅子の口先から吐き出される氎は、文殊菩薩

から授かる知恵の氎なのだ。獅子氎滎でなく、

知恵の氎滎ず呌んでみようか。䜜期には宀町を

想定しおいるが、確蚌はない。

䞻筆・森川最䞀

﹇衚玙﹈

䞃月の花

すすき真に癟合請の立華

花材  矢筈すすき・桔梗・笹癟合・鳎子癟合・薊・倏はぜ・

しゃが・杉

花噚  銅造広口䞭蕪立華瓶高さ二䞀㎝、巟䞉䞀・四㎝

すすき数本を真ずしお甚い、正真に桔梗、請に笹癟合、

控に鳎子癟合を取り合わせお、党䜓を草く

さ

物もの

がちに調えた立

華。広口の噚に氎をなみなみず匵っお梅雚の終りごろの季

節感をかもしおいる。

草物を真に甚いる堎合、草物のみを取り合わせる「草く

さ

䞀いっ

色しき

」の立華にもできるが、存圚感のある花噚ずの調和を考

え合わせお、力匷さの出せる朚き

物もの

の倏はぜを䞭段や䞋段に

甚いおいる。草の真に朚を取り合わせる心埗ずしお、叀い

花䌝曞には「倏山の草葉のたけぞしられけり。去幎みし小

束ひずしなければ」の歌が匕甚されおいる。

すすきの真は、「葉付き面癜きを芋立お、もしはたらき

なき時は、二本合わせお䞀本に芋ゆるように现工しお挿す

べし」ずか「薄す

すき、

穂に出るずきは䞀本におも心し

ん

にすべき」

などずされる花材で、穂のない倏のすすきは葉のなびきを

効果的に働かせお扱うず芋映えがする。真のほか、副や請

やあしらいにも葉のなびきを生かしお甚いられる。

倏は立華にふさわしい草物が倚数あり、花を぀ける花材

も倚様倚圩である。たずえば、葊あ

し

、荻お

ぎ

、黍き

び

、唐も

ろこし黍

、すすき、

ふずい、蒲が

た

、鶏頭、射ひ

おうぎ干

、萱草、山癟合、鉄砲癟合、鹿の

子癟合、笹癟合、透かし癟合、姫癟合、鳎子癟合、杜若、

花菖蒲、蓮、立葵、薊、桔梗、撫子、しゃがの葉、玫菀の

葉、擬ぎ

宝がう

珠し

の葉等々。これらを適材適所に取り合わせ、草

䞀色や朚物もたじえた草物がちの立華に拵えるず、やわら

いだ颚情や華やいだ趣が出しやすく、朚物䞻䜓の立華ずは

䞀味違う立華になる。

華瓶・䞞壺 

オヌクションハりス叀裂會提䟛68回・9月開催出品

モノの心・圢の心

日本矎術随想

銅造獅子氎滎 10×4×7.5cmオヌクションハりス叀裂會提䟛68回・9月開催出品

3

Page 3: NIHON ART JOURNAL July/August, 2012

﹇裏衚玙﹈

八月の花

茶碗蓮の眮生け

花材  茶碗蓮・瞞ふずい・藺い

草ぐさ

花噚  李朝癜磁䞞壺高さ䞀䞃㎝、巟䞀九㎝

ずおも小さな茶碗蓮を䞀花䞀葉に甚い、瞞ふずいず藺草を

取り合わせた眮生け。それぞれの花材は壺の底に仕蟌んであ

る剣山に挿し留めおすっきりした立ち姿に仕䞊げおある。

茶碗蓮は小圢の園芞品皮でふ぀うは花の盎埄が䞀二㎝

前埌、草䞈は五〇㎝前埌、長い葉柄の頂に぀く葉は二〇〜

二五㎝になる。䜜品に䜿甚したのは早咲きさせたものでふ

぀うサむズの半分にも満たないが、䞀花䞀葉が壺の䞭から

立ち䌞びおいるかのように扱うこずで気品のある蓮らしい

姿になっおいる。曎に氎み

ず

物もの

のふずいや藺草を添えるこずで

氎蟺の颚情たでも思い起こさせる䜜品である。なお、氎物

ずはいけばな花材を分類する甚語の䞀぀で、蓮や河骚、葊、

ふずいなど沌や池に生育するものの総称。これに察し、陞

䞊に生育するものを陞お

か

物もの

ずいう。

䜜品のように、数少ない花材を芏矩に瞛られるこずなく、

しかも気品の高い花圢に仕䞊げるいけばなは、叀くから茶

人に奜たれ、江戞時代の初期には、「抛なげ

入いれ

花はな

」ず呌ばれお

いた。文字通り、噚に花材を投げ入れるのが本来なのだが、

噚の瞁にもたせかけたくないずきは花留めによっお枝や茎

をゆるやかに留めるこずもある。たずえば、深鉢圢の広口

の噚に氎を匵り、蓮や河骚を䞀花䞀葉から数葉、茎が氎䞭

から䌞び出るように留めお入れるず、氎際が匕き立ち、印

象深い䞀瓶になる。ずころで抛入花には茶人奜みのものの

ほか、芪しみやすい䞀茪挿しのようなものや、立華の圹枝

を意識しお぀くられたものもあり、さたざたな人によっお

䌝えられ、倉化もしおいった。

花 

・岩井 

陜子

文 

・山根  

緑

写真・西村 

浩䞀

﹇衚玙﹈

䞃月の花

すすき真に癟合請の立華

花材  矢筈すすき・桔梗・笹癟合・鳎子癟合・薊・倏はぜ・

しゃが・杉

花噚  銅造広口䞭蕪立華瓶高さ二䞀㎝、巟䞉䞀・四㎝

すすき数本を真ずしお甚い、正真に桔梗、請に笹癟合、

控に鳎子癟合を取り合わせお、党䜓を草く

さ

物もの

がちに調えた立

華。広口の噚に氎をなみなみず匵っお梅雚の終りごろの季

節感をかもしおいる。

草物を真に甚いる堎合、草物のみを取り合わせる「草く

さ

䞀いっ

色しき

」の立華にもできるが、存圚感のある花噚ずの調和を考

え合わせお、力匷さの出せる朚き

物もの

の倏はぜを䞭段や䞋段に

甚いおいる。草の真に朚を取り合わせる心埗ずしお、叀い

花䌝曞には「倏山の草葉のたけぞしられけり。去幎みし小

束ひずしなければ」の歌が匕甚されおいる。

すすきの真は、「葉付き面癜きを芋立お、もしはたらき

なき時は、二本合わせお䞀本に芋ゆるように现工しお挿す

べし」ずか「薄す

すき、穂に出るずきは䞀本におも心し

ん

にすべき」

などずされる花材で、穂のない倏のすすきは葉のなびきを

効果的に働かせお扱うず芋映えがする。真のほか、副や請

やあしらいにも葉のなびきを生かしお甚いられる。

倏は立華にふさわしい草物が倚数あり、花を぀ける花材

も倚様倚圩である。たずえば、葊あ

し

、荻お

ぎ

、黍き

び

、唐も

ろこし黍

、すすき、

ふずい、蒲が

た

、鶏頭、射ひ

おうぎ干

、萱草、山癟合、鉄砲癟合、鹿の

子癟合、笹癟合、透かし癟合、姫癟合、鳎子癟合、杜若、

花菖蒲、蓮、立葵、薊、桔梗、撫子、しゃがの葉、玫菀の

葉、擬ぎ

宝がう

珠し

の葉等々。これらを適材適所に取り合わせ、草

䞀色や朚物もたじえた草物がちの立華に拵えるず、やわら

いだ颚情や華やいだ趣が出しやすく、朚物䞻䜓の立華ずは

䞀味違う立華になる。

華瓶・䞞壺 

オヌクションハりス叀裂會提䟛68回・9月開催出品

朚むくげ槿の䞀茪生け

花材  朚槿

花噚  銅造遊環耳付花入

花入 

オヌクションハりス叀裂會提䟛68回・9月開催出品

撮圱日平成二十四二〇䞀二幎五月二〇日

花座敷

│京郜・町家

2

Page 4: NIHON ART JOURNAL July/August, 2012

釉肌、それにやはり䌊矅保特有のべべらや石はぜだろう。

䌝来する名品で倧正名噚鑑に所茉されおいるものに、名物の「秋の山」、銬越家䌝来の

「䌊矅保」釘圫怀圢ず、「釘圫」䌊矅保怀圢があり、ほかに「苔枅氎」、「橘」、「䞡圊」、

「垃匕」、「釘圫」藀田矎術通蔵、「垞盀」、「地蔵院」がある。

③

䌊矅保片身替

䌊矅保片身替は、䌊矅保釉ず井戞颚の釉の掛け分けで、芋蟌の井戞颚の釉偎に癜く

䞀刷毛あり、叀䌊矅保の䜜颚を基調ずするものが倚く芋受けられる。䌊矅保片身替の芋所

は、盌圢ず、掛け分けられた釉の釉調、䌊矅保釉ず井戞颚の釉の重なった郚分の釉調の

倉化、芋蟌の䞀刷毛、口瞁の切回し、倧き目の竹節高台、それにやはり砂亀じりの粗土

から生じるべべらや石はぜだろう。

䌝来する名品で倧正名噚鑑に所茉されおいるものに、

䞭興名物で平瀬家䌝来の「千皮」䌊矅保、名物で束平家

䌝来の「千皮」䌊矅保、「池氎」、「倏山」、「若草」、

山川家䌝来の「片身替」、「薬替」があり、ほかに

「初雁」、「山の井」、「䞡囜」、「片身替」藀田矎術通蔵、

「虹」がある。

④

黄䌊矅保

黄䌊矅保は、党䜓に黄色く焌けおいるからこの名が

ある。盌圢は、口が倧きく開いた感じで、口瞁が暋口で

少し端反り、叀䌊矅保や釘圫䌊矅保ず比べお繊现で、

やや小振りで女性的である。

黄䌊矅保の芋所は、繊现でやや女性的な造圢ず肌の

黄味、竹節高台ずその呚蟺の釉の焊げ、口瞁の暋口ず

どべ筋、それにやはりべべらず石はぜだろう。指あずも

景色の䞀぀ずしお芋逃せない。

䌝来する名品で、倧正名噚鑑に所茉されおいるものに

「柞は

はそ」、「黄䌊矅保」静嘉堂文庫矎術通蔵、束岡家䌝来

の「黄䌊矅保」、戞田家䌝来の「黄䌊矅保」、坂䞊家

䌝来の「黄䌊矅保」があり、ほかに「岩波」、「立鶎」、

「女お

みなえし

郎花」、「秋の野」、「小男鹿」、「橘」、「ずこは」がある。

䟘びの筆頭、柿の蔕

「䟘び物䞉盌」の䞭でももっずも䟘びたもので、名は党䜓が柿の蔕を䌏せた圢や、

高台の䜜りが柿の蔕に䌌おいるからずか、胎土が赀味を垯びた黒耐色で、柿の色に䌌お

いるずころからずもいわれる。党䜓にごく薄い氎釉がかかり、切立ちはゆるく腰で段を

付け、口は開きかげんで芋蟌が広い。

柿の蔕の芋所は、枯淡な倧寂びの趣きであろう。ねっずりした鉄分の倚い砂亀じりの

土が䜿われ、釉が薄いため、肌は黒耐色や枯れ葉色など倉化に富み、釉をかけ残した

火間が景をなしおいる。

䌝来する名品で、倧正名噚鑑に所茉されおいるものに、「韍田」、现川家䌝来の「柿の蔕」、

「背尟」、「倧接」、堀田家䌝来の「柿の蔕」、「韍川」、「京極」があり、このほかに、重芁

文化財の「毘沙門堂」、「早川」、「癜雚」がある。

高台脇の瞮緬皺が矎しい斗々屋

「䟘び物䞉盌」の䞀぀で魚ずず

屋や

ずも曞く。堺の魚商の

元締であった玍屋衆ゆかりのもので、利䌑に䌝わっお

この名が付いた。普通、朝顔圢に口の広がった平茶盌圢

が倚く、窯火によっお色調が矎しく倉化するねっずり

した土が甚いられ、ろくろ目がいく筋も際立っお、

高台は竹節高台で内は兜ず

巟きん

、高台脇ず高台内に瞮緬皺

が出おいる。

斗々屋の芋所は、ねっずりした土で焌かれた肌が

青錠色や玫がかった赀色に倉化する火色であろう。

高台内の兜巟や瞮緬皺も魅力である。

䌝来する名品で、倧正名噚鑑に所茉されおいるもの

に倧名物の「利䌑ずボや」藀田矎術通蔵、䞭興名物で

江戞高麗や江戞斗々屋ずも呌ばれる「東高麗」、䞭興

名物「江戞魚屋」、秋草ずも呌ばれる「垂原」、「広島」、

「春霞」、「峰雪」、「唐織」、「蛍」、名物「韍田」、「小鷹」、

「葉鶏頭」があり、ほかに「綵さ

い

雲うん

」、「隌」、「奈良」、「霞」

がある。぀づく

工芞評論家・青山枅

図版十雚 柿の蔕

5

Page 5: NIHON ART JOURNAL July/August, 2012

●連茉

│高麗茶

の名手

森田統・十雚の茶1

本誌の創刊号から䞉号たでの䞉回にわたっお「矎術業界の行方」に぀いお曞かせおも

らった。はじめは読者の局が掎めなくお随分うろうろした。だからあたり面癜くもなかっ

ただろうず思っおいた。ずころが意倖にも䜕人かの人から電話や手玙をもらった。

これは曞き手にずっおたこずにうれしいこずである。それにこれらの人の䜕人かから高麗

茶盌の名手ずしお知られた森田統・十雚先生の人ず茶盌に぀いお曞けずすすめられた。

私が十雚先生の顕地事業を手掛けおいるこずを知っおのこずだろう。図にのるわけでも

ないが、぀いうれしくなっお曞くこずにした。十雚先生のこずなら、曞きたいこずや

聞いお欲しい話は山ほどある。茶盌のこずずなればそれこそ曞き切れないほどだ。

ここに䞀盌の茶盌がある。十雚先生の柿の蔕である。この茶盌は、私の晩幎の生き様

を倉えた茶盌である。凄い茶盌である。この茶盌の写真をのせさせおもらったが、写真

ではわかっおもらえないだろうず思うず、たこずに残念である。ずにかく十雚先生の茶盌

の話ずなれば気持が隒ぐ。

そんなこずは、ずもかくずしお、ここは䞀番、正気にもどっお、順序よく、十雚先生の

人ず茶盌に぀いお曞くたえに、たずはじめに、高麗茶盌のあらたし、ずりわけ高麗茶盌

の粋ずされる「䟘び物䞉盌」に぀いお述べるこずにしよう。

高麗茶

の粋﹁䟘び物䞉

﹂

わが囜では叀くから茶の湯に甚いる茶盌を倧別しお、䞭囜、朝鮮のものを唐物、わが囜

のものを和物、東南アゞアのものを島物、欧州のものを玅オ

ランダ毛ず、四぀に分類しおきた。

唐物がもっずも重く甚いられおきたが、茶がわが囜にもたらされ、喫茶の颚習が䞊流

階玚に広たった圓初は、唐物の䞭でも䞭囜より枡来したものが䞻流をなしおいたが、

唐から

様よう

の茶から䟘び茶ぞ、曞院から草庵の茶ぞず、茶の湯が掚移するに぀れお、同じ唐物

の䞭でも高麗茶盌ず呌ばれた朝鮮のものが䞻流をなすようになった。

朝鮮のものが高麗茶盌ず呌ばれたのは、高麗時代のものだからではない。わが囜では

朝鮮が李朝時代に入っおも高麗ず呌び続けおいたからである。勿論、高麗時代にわが囜

に枡来したものもあるが、ほずんどは李朝時代にもたらされたものである。

䞭囜の芏栌的な倩目や青瓷の茶盌よりも、自由闊達にのびのびず䜜られた個性的で

倉化のある高麗茶盌の方が、草庵の䟘び茶には、よりふさわしかったのであろう。

高麗茶盌の代衚的なものには、倧井戞、青井戞、小井戞、小貫入、井戞脇、熊こも

川がい

、䞉島、

圫䞉島、刷毛目、粉匕、堅手、雚挏、玉子手、斗々屋、柿の蔕、䌊矅保、呉噚、割高台、

狂蚀袎、金海、埡所䞞、埡本などがある。

これらの䞭で高麗茶盌の粋ずされおきたのが䌊矅保、柿の蔕、斗々屋の「䟘び物䞉盌」

である。十雚が生涯をかけお远い求め䜜り続けおきたのが、この「䟘び物䞉盌」である。

﹁䟘び物䞉

﹂の雄、䌊矅保

䌊矅保には、①叀䌊矅保、②釘圫䌊矅保、③䌊矅保片身替、④黄䌊矅保がある。

䌊矅保は、いずれも玠地に耐色で砂たじりの粗土を䜿うため、肌がいらいらず荒い

ずころから、その名が぀いたもので、党䜓に特有の䌊矅保釉が高台たでかかる土芋ずで、

胎に挜き目のどべ筋が芋られ、口は倧きく開いた感じで、口瞁の切れたのを土で補っお

盎したべべらや、胎の石はぜ、口瞁の切回しなどの芋どころがあり、釘圫䌊矅保を陀く

他の高台は、やや倧き目の竹節高台である。

①

叀䌊矅保

叀䌊矅保は、本手䌊矅保ずもいわれ、党䜓に力匷くどっしりずしお芋所あるものを

いい、内に䞀刷毛あるものもある。

叀䌊矅保の芋所は、高台脇から腰にかけおやや䞞く広がったどっしりした盌圢ず、

口瞁の切回し、倧き目の竹節高台、砂亀じりの粗土から生じるべべらや石はぜだろう。

䌝来する名品で倧正名噚鑑に所茉されおいるものに、名物の「對銬䌊矅保」ず、同じく

名物の「沖䌊矅保」があり、ほかに「嵯峚」ず「巎」がある。ただし倧正名噚鑑では

「對銬」、「沖」ずもに䌊矅保の倉物ず分類しおいる。

たた、平瀬家䌝来の片身替の「千皮」ず、束平家䌝来の片身替の「千皮」䌊矅保を、

叀䌊矅保ずする説もあり、片身替を叀䌊矅保に入れる分類説もある。

②

釘圫䌊矅保

釘圫䌊矅保は、高台が撥圢になっおいお高台の䞭を釘様のもので枊状に削っおいる

ずころから、この名がある。

党䜓に力匷く、䌊矅保きっおの颚栌があり、釉肌は、黄味がかった䌊矅保釉のかせた

もの、ねっずりした土で茶耐色のもの、暗くやや青味を垯びたものず倉化がある。

釘圫䌊矅保の芋所は、造圢の力匷さである。倧胆に削りだされた撥高台ず高台内の枊状

の釘圫、裟から高台脇の倧胆な二段あるいは䞉段の切り回し、党䜓に釉がうすくかかった

4

Page 6: NIHON ART JOURNAL July/August, 2012

藀井雅䞀黄皚 《蓮》 玙本 氎墚 2006幎 95×65cm

7

Page 7: NIHON ART JOURNAL July/August, 2012

藀井雅䞀黄皚―倩に加護された矎の創造

䞭囜の重厚で濃密な矎ず、日本の軜劙で排脱な矎

│䞭囜ず日本の

二぀の母囜を持぀画家・藀井雅䞀黄皚は、この本来は正反察な二぀

の矎意識を昇華させようず詊みる。

しかし、それは決しお口で蚀うほど簡単なこずではない。既に確立

された成功䟋があり、そこを目指しさえすればい぀かは必ず到着が玄

束されおいる安易な道皋ではないのだ。

誰も助けおはくれない。党おが手探りの未知の䞖界。䞀人孀独に、

ただ誰も足を螏み入れたこずのない新たな地平に立ち、藀井の絵筆は、

時に圷埚い、呻吟する。

「それでも、真面目に努力しおいれば、たた倩が助けおくれる気がす

る。自分の意図を超えお、墚が独りでに圢を成しおいくように思える

瞬間があるんだ」ず、藀井は語る。

これは、芞術だけの話だろうか 

Heaven helps those w

ho help

themselves.

倩は自ら助くる者を助く。確かに、時に人生には、誰にも

甘えず最善の努力を尜くした時にだけ、人智を超えた眩しい光が差し

蟌む瞬間がある。私達は、それを奇跡ず呌ぶ。

藀井雅䞀

ふじい

たさかず黄皚

ホワン・ツィヌ

 略歎

䞀九六四昭和䞉九幎

江蘇省啓東垂出生

䞀九八四昭和五九幎

蘇州倧孊矎術孊院卒業

䞀九八五昭和六〇幎

北京服装孊院講垫・同孊院校章デザむン採甚

䞀九八八昭和六䞉幎

䞖界青幎ファッションショヌスむス入遞により研修招埅

䞀九九二平成四幎

来日

䞀九九䞉平成五幎

京郜垂立芞術倧孊倧孊院矎術研究科に研究留孊

䞀九九四平成六幎

藀井䌞恵ず結婚

䞀九九五平成䞃幎

京郜で和装・掋装の意匠図案䜜画に埓事

二〇〇䞃平成䞀九幎

「墚の力

│日䞭・墚人亀流展」京郜垂矎術通出展

二〇〇八平成二〇幎

䞀䌑寺《虎》衝立䜜画

二〇䞀〇平成二二幎

高台寺円埳院《蓮独鯉》襖絵䜜画

二〇䞀二平成二四幎

『藀井雅䞀・黄皚画集 

韍虎』日本矎術新聞瀟近日刊行予定

6

Page 8: NIHON ART JOURNAL July/August, 2012

図1ポヌル・セザンヌ 《サント・ノィクトワヌル山ず倧束》 1887幎頃

図5ポヌル・セザンヌ《ロヌノから芋たサント・ノィクトワヌル山》 1904-06幎

図6筆者撮圱図1の珟堎写真 2006幎8月24日

図3ポヌル・セザンヌ 《サント・ノィクトワヌル山》 1902-06幎

図4ポヌル・セザンヌ《ノァルクロ街道から芋たサント・ノィクトワヌル山》 1878-79幎

図2図1の拡倧郚分

蚻1 G

yorgy Kepes, Language of Vision , C

hicago, 1944; New

York, 1995, p. 171.

ギオルギヌ・ケ

ペッシュ『芖芚蚀語』グラフィック瀟線集郚蚳、グラフィック瀟、䞀九䞃䞉幎、䞀五䞀頁。

蚻2 W

olfgang Schivelbusch, Geschichte der Eisenbahnreise: Zur Industrialisierung von Raum

und Zeit im

19. Jahrhundert , MÃŒnchen, 1977; Frankfurt am

Main, 2004, p. 61.

ノォル

フガング・シノェルブシュ『鉄道旅行の歎史

│䞀九䞖玀における空間ず時間の工業

化』加藀二郎蚳、法政倧孊出版局、䞀九八二幎、八〇頁。

蚻3 Paul C

ézanne, Correspondance , recueillie, annotée et préfacée par John R

ewald, Paris,

1937; nouvelle édition révisée et augmentée, Paris, 1978, p. 165.

『セザンヌの手玙』

ゞョン・リりォルド線、池䞊忠治蚳、矎術公論瀟、䞀九八二幎、䞀二二│

䞀二䞉頁。

蚻4

実際のアルク枓谷の鉄道橋通過時の車窓颚景に぀いおは、二〇〇六幎八月二六日に筆

者が撮圱した次の動画を参照。http://w

ww.youtube.com

/watch?v=BAAAuO

oEKPI



 

ポヌル・セザンヌの䞭心点に぀いおは、次の拙皿を参照。秋䞞知貎「ポヌル・セザンヌ

の䞭心点

│自筆曞簡ず実䜜品を手掛りに」『圢の科孊䌚誌』第二六巻第䞀号、圢の科孊䌚、

二〇䞀䞀幎、䞀䞀│

二二頁。

 

本連茉蚘事は、二〇䞀䞀幎床に京郜造圢芞術倧孊倧孊院に受理された筆者の博士孊䜍論文

『ポヌル・セザンヌず蒞気鉄道

│近代技術による芖芚の倉容』の芁玄である。

 

たた、本連茉蚘事は、筆者が連携研究員ずしお研究代衚を務めた、二〇䞀〇幎床〜二〇䞀䞀

幎床京郜倧孊こころの未来研究センタヌ連携研究プロゞェクト「近代技術的環境における心性

の倉容の図像解釈孊的研究」の研究成果の䞀郚である。同研究プロゞェクトの抂芁に぀いおは、

次の拙皿を参照。秋䞞知貎「近代技術的環境における心性の倉容の図像解釈孊的研究」『ここ

ろの未来』第五号、京郜倧孊こころの未来研究センタヌ、二〇䞀〇幎、䞀四│

䞀五頁。http://

kokoro.kyoto-u.ac.jp/jp/kokoronomirai/pdf/vol5/K

okoro_no_mirai_5_02_02.pdf



9

Page 9: NIHON ART JOURNAL July/August, 2012

前䞉回で、私達は、ポヌルセザンヌPaul C

ézanne:

䞀八䞉九〜䞀九〇六が、印象掟の

画家の䞭で最も早く鉄道機構の倖芳を画題化し、最も早く列車内から眺めた鉄道乗車芖芚

を造圢化しおいるこずを確認した。

今回は、より具䜓的に、蒞気鉄道による芖芚の倉容がセザンヌの造圢衚珟にどのように

反映しおいるかを芋おいこう。

たず、疟走する汜車の車窓から眺めた颚景の特城を考察しおおこう。

この問題に぀いお、ギオルギヌ・ケペッシュは『芖芚蚀語』䞀九四四幎で次のように

説明しおいる。「走っおいる列車から芋れば、物は近くにあるほど速く動くように芋える。

遠く離れた物はゆっくり動き、極めお遠く離れた物は静止しお芋える蚻1」。

぀たり、車窓颚景では、物は遠景にあるほど動きが遅く、近景にあるほど高速で氎平方

向に過ぎ去っお芋える。

たた、ノォルフガング・シノェルブシュは『鉄道旅行の歎史』䞀九䞃䞃幎で次のよう

に解説しおいる。「工業化以前の知芚における奥行は、速力により近くにある物が飛び去

るこずで、蒞気鉄道では党く文字通り倱われる。これは、工業化以前の旅行の本質的経隓

を構成しおいた空間領域である、前﹅

景﹅

の終焉を意味する。〔 〕蒞気鉄道の速力は、乗客を、

埓来は自分もその䞀郚であった空間から分離する。乗客が空間から抜け出すに぀れお、そ

の空間は乗客には、絵タ

ブロヌ画

たたは、速力が芖点を絶えず倉化させるので、連続画像あるいは連

続堎面になる蚻2」。

すなわち、車窓颚景では、最も近くにある物は高速床のために消えおしたい、前景党䜓

が倱われるように感じられる。その結果、埓来身䜓の連続的延長ずしお颚景ずの距離感を

把握しおいた旅行者は、颚景から疎倖されるず共に、奥行が枛退しスペクタクルず化した

画面を気楜な気晎らしずしお鑑賞するこずになる。

こうした車窓颚景の芖芚的特城ず特に呌応するセザンヌ絵画の䞀぀が、《サント・ノィ

クトワヌル山ず倧束》䞀八八䞃幎頃図1である。

興味深いこずに、この䜜品には、最遠景のサント・ノィクトワヌル山の䞭倮に䞭心点が

描かれおいる図2。そしお、この䞭心点から近景の束の枝葉に近付くに぀れお、埐々

に筆觊が暪方向に反埩し、粗くなる傟向を瀺しおいる。このこずから、セザンヌはこの䞭

心点を、遠景から近景に近付くに぀れお次第に物が高速で氎平方向に飛び去っおいく鉄道

乗車芖芚を想起するための手掛かりずしお甚いた可胜性を指摘できる。

たた、近景巊の束の幹は異様に现いたた画面䞋に消えおいるので、画面から䞋の空間把

握を困難にしおいる。少なくずも、遠景の山から䞭景の平原に広がる地平ず、この束が同

䞀平面䞊に存圚しおいないこずは確かである。そのため、鑑賞者は、たるで空䞭に浮かん

でこの颚景を眺めおいるように芋える。

これに関連しお、サント・ノィクトワヌル山ずその䞊に懞かる束の枝葉の間には、小さ

な癜い筆觊が描き入れられおいる。そのため、山ず枝葉の前埌関係は非垞に曖昧になっお

いる。たた、近景右の䞉本の枝葉同士ず山の皜線も重ならず、特に䞀番䞋の枝葉は山に圱

を萜ずしおいるように芋え、さらに近景巊の枝葉も画面に平行しおいるように芋えるの

で、遠近感の曖昧化は䞀局匷化されおいる。

こうした鉄道乗車芖芚ず察応するセザンヌの造圢的特城は、「筆臎の近粗化」「運筆の氎

平化」「前景の消倱化」「画像の平面化」ず定矩できる「

│性」ではなく「

│化」ずする

こずには重芁な含意があるが、玙数の郜合䞊ここでは省略する。そしお、これらの諞特城は、

他の耇数䜜品ず比范分析した堎合にさらに明瞭になる。

䟋えば、《サント・ノィクトワヌル山》䞀九〇二│〇六幎図3、《ノァルクロ街道から

芋たサント・ノィクトワヌル山》䞀八䞃八│䞃九幎図4、《ロヌノから芋たサント・ノィ

クトワヌル山》䞀九〇四│

〇六幎図5等を察照すれば、遠景から近景に近付くに぀れ

お挞次筆觊が暪方向に反埩されお粗くなり、最近景ではほずんど暪長の色垯ず化し、前景

が消倱しおいるように芋える。そのため、鑑賞者ず颚景の連続的䞀䜓性が匱たり、やはり

鑑賞者は空䞭から颚景を眺めおいるように感じられ、さらに地面の皜線が局を成しお高く

積み䞊げられおいるので、画面党䜓は平板化しお芋える。

既に第䞀章で述べた通り、図1の画面右䞭倮に描き蟌たれた陞橋は鉄道橋であり図6、

セザンヌがこ﹅

の﹅

鉄﹅

道﹅

橋﹅

通﹅

過﹅

時﹅

に﹅

ç–Ÿï¹…

走﹅

す﹅

る﹅

汜﹅

車﹅

か﹅

ら﹅

眺﹅

め﹅

た﹅

サ﹅

ン﹅

ト﹅

・ノ﹅

ィ﹅

ク﹅

ト﹅

ワ﹅

ヌ﹅

ル﹅

山﹅

を、

䞀八䞃八幎四月䞀四日付曞簡で「䜕ず矎しいモティヌフだろう蚻3」ず賛矎しおいる

こずは歎史的事実である。そうである以䞊、意識的にしろ無意識的にしろ、そうした蒞気

鉄道による芖芚の倉容がセザンヌの造圢衚珟に反映しおいる可胜性は、決しお誰にも吊定

するこずができないだろう蚻4。぀づく

矎術史家・秋䞞知貎

●連茉

─矎術ぞの新芖点

セザンヌず蒞気鉄道4

8

Page 10: NIHON ART JOURNAL July/August, 2012

New Viewpoint on Art Cézanne and Steam Railway (4)

In the last three chapters, we saw that Paul Cézanne (1839–1906) was the first Impressionist painter to topicalize the appearance of the railway

system and represent the visual transformation influenced by the perception of the moving scenery induced by a moving train. We will now discuss

more concretely the influence of the transformed visual perception induced by the passing sceneries seen from a moving train on Cézanne’s painted

representations.

First, let’s review the features of scenery when viewed from a moving train.

Gyorgy Kepes writes about this in his Language of Vision (1944) that, “From a moving train, the closer the object the faster it seems to move. A far-

away object moves slowly and one very remote appears to be stationary.” (1)

Thus, from a train window, objects at a distance appear to move slowly while those that are near appear to move quickly and horizontally.

Moreover, Wolfgang Schivelbusch explains in his Railway Journey (1977) that “there the depth perception of pre-industrial consciousness was, literally,

lost: velocity blurs all foreground objects, which means that there no longer is a foreground—exactly the range in which most of the experience of pre-

industrial travel was located...[T]he train’s speed separated the traveler from the space that he had previously been a part of. As the traveler stepped out of

that space, it became a stage setting, or a series of such pictures or scenes created by the continuously changing perspective.” (2)

In short, from a train window, the nearest elements of the scenery pass at such high speeds that they seem to disappear, which is experienced as a loss

of the whole foreground. Thus, any traveler who has grasped a sense of distance with scenery as a continuous extension of his body will be alienated from

the landscape and will appreciate a screen that has turned this loss of depth into a spectacle as a comfortable form of leisure.

One of Cézanne’s works that duplicate the visual features of train window scenery in a particularly striking manner is The Mont Sainte-Victoire and

Big Pine, (c. 1887) (Fig. 1).

Interestingly, in this painting, a central point is drawn on the center of the Mont Sainte-Victoire (Fig. 2). From this central point to the nearby pine

branches, the brush strokes tend to be repeated in the transverse direction and gradually become coarse. We may therefore suppose that Cézanne used

this central point to depict the manner in which nearby objects fly away quickly in the horizontal direction when perceived from a moving train.

Moreover, since the trunk of the nearby pine on the left disappears under the canvas while it remains strangely thin, it is difficult to perceive the

lower space under the screen. We certainly cannot assume that this pine exists on the same ground level that spreads from the mountain to the plain. The

observer thus seems to be looking at this landscape from above.

In relation to this, the small white brushstroke drawn between the Mont Sainte-Victoire and the branch of pine on it renders the spatial relationship

between the mountain and the branch very ambiguous.

Moreover, the ambiguity of the depth perception is intensified by the fact that the branches on the near right and ridgeline of the mountain do not

overlap (even the bottom branch seems to cast a shadow over the mountain) and the branches on the near left seem to be parallel to the screen.

These expressions replicating the view from a moving train can be defined as a “nearer-roughening of touch,” “side-repeating of stroke,” “disappearing

of foreground,” and “flattening of picture” (although using the progressive form has important connotations, it is omitted here because of space

limitations). These characteristics become even clearer through comparison with Cézanne’s other works.

For example, comparing The Mont Sainte-Victoire (1902–06) (Fig. 3), The Mont Sainte-Victoire Seen from the Chemin de Valcros (1878–79) (Fig. 4),

and The Mont Sainte-Victoire Seen from Les Lauves (1904–06) (Fig. 5), we notice that the brushstrokes are gradually repeated in the transverse direction

and the images of the closer objects appear rougher. In the nearest view, they turn into an almost oblong color belt, and the whole foreground seems lost.

Thus, the continuity between the observer and the scenery weakens, and the observer seems to look at these landscapes while hovering in the air.

Furthermore, because the ridgelines of the ground form high layers, the whole screen appears to lose depth.

We saw in chapter 1 that the bridge drawn in the center right of Fig. 1 is a railway bridge (Fig. 6) and that Cézanne praised the Mont Sainte-Victoire

while viewing it from a train passing over this bridge, saying in a letter dated April 14, 1878, “What a beautiful motif.” (3)

Therefore, the possibility that the transformation of visual perception induced by the steam railway is reflected in Cézanne’s painted representations is

undeniable. (4)

(AKIMARU Tomoki / Art Historian)

(1) Gyorgy Kepes, Language of Vision, Chicago, 1944; New York, 1995, p. 171. (2) Wolfgang Schivelbusch, The Railway Journey: The Industrialization of Time and Space in the 19th Century, Berkeley and Los Angeles: The University of California Press, 1986,

pp. 63-64. (3) Paul Cézanne, Correspondance, recueillie, annotée et préfacée par John Rewald, Paris, 1937; nouvelle édition révisée et augmentée, Paris, 1978, p. 165. (English edition, New

York, 1995, pp. 158-159.)(4) See the Mont Sainte-Victoire, which can be seen from the train when it runs through the railway bridge at the Arc valley, filmed by the author on August 26, 2006. (http://

www.youtube.com/watch?v=BAAAuOoEKPI)

11

Page 11: NIHON ART JOURNAL July/August, 2012

Fig. 3 Paul Cézanne, The Mont Sainte-Victoire, 1902–06 Fig. 2 The expansion part of Fig. 1

Fig. 4 Paul Cézanne, The Mont Sainte-VictoireSeen from the Chemin de Valcros, 1878-79

Fig. 5 Paul Cézanne, The Mont Sainte-VictoireSeen from Les Lauves, 1904-06

Fig. 6 A photograph of the scene in Fig. 1, taken by the author on August 24, 2006

Fig. 1 Paul Cézanne, The Mont Sainte-Victoire and Big Pine, c. 1887

10

Page 12: NIHON ART JOURNAL July/August, 2012

慮されねばならない。たた、日本矎術を実

物で玹介する囜際的な文化亀流の拠点が海

倖にあるこずも非垞に望たしいこずであ

る。しかし、それでもなお、本来は圓初か

ら日本の䌝統矎術は日本人自身こそが手厚

く保護すべきだったのではないかずいう問

題は垞に再考されおも良いだろう。

日本絵画

│組み合わせの矎展

二〇䞀二幎四月䞀四日から六月䞉日にか

けお、滋賀県立近代矎術通で「日本絵画

│組み合わせの矎」展が開催された。所

蔵品だけで構成された、展瀺玄二五点の小

芏暡展であったが、出品䜜は優品や䜳䜜が

倚く、ナニヌクな展芧䌚だったのでぜひ玹

介したい。

叀来、日本絵画は、掛軞・絵巻物・屏颚・

襖絵・衝立など倚皮倚様な圢匏を持っおい

る。その䞊で、それらは「䞀双」「䞀察」「揃

い」等、耇数の点数の組み合わせずしお鑑

賞されるこずが倚い。本展は、こうした組

み合わせには、䞀぀の画面で完結する䜜品

ずは異なる創意工倫があるずし、その芳点

から䞉郚構成で日本絵画の魅力に迫ろうず

するものであった。

第䞀郚「連続する画面

│パノラマの矎」

では、六曲䞀双ずいう屏颚の圢匏を生かし、

暪長の倧画面に迫力ある眺望を描いた䜜品

が玹介されおいた。䟋えば、塩川文麟《近

江八景図》、庄田鶎友《耶銬枓の朝》、山元

春挙《雪束図》、池田遥邚《湖畔残春》、岞

竹堂《保接峡図》は、鑑賞者を取り囲むこ

ずで県前に迫るような臚堎感を醞し出しお

いた。たた、幞野楳嶺《矀魚図》や倧林千

萬暹の《街道》は、屏颚の屈曲が角床によっ

お芋え方を倉化させるこずで䞍思議な奥行

感を挔出しおいた。

第二郚「競い合う構図ず色

│察比の矎」

では、䞀双の屏颚や双幅の掛軞等で、巊右

の画面が察比的に描かれた䜜品が陳列され

的に広く玹介したいず考えおいた。

明治二十䞉䞀八九〇幎に、フェノロサ

ずビゲロヌが収集した倧量の日本矎術がボ

ストン矎術通に寄蚗される。これを受けお、

同通に日本矎術郚が成立し、フェノロサ

が初代郚長に任呜され、翌幎にはビゲロヌ

が理事に加わる。明治二十九䞀八九六

幎のフェノロサの蟞任埌、明治䞉十䞃

䞀九〇四幎からは倩心が䜜品敎理に携わ

り、倩心は明治四十䞉䞀九䞀〇幎からは

䞭囜・日本矎術郚長ずしお収蔵品の拡充に

努めた。こうしおボストン矎術通には、「西

掋人の理解のために日本矎術の歎史を瀺

す」倩心こずを目的ずする、䜓系的で網

矅的な䞀倧日本矎術コレクションが圢成さ

れたのである。

本展の芋所は、囜宝玚の仏画や、長谷川

等䌯、尟圢光琳の屏颚、䌊藀若冲の掛軞な

ど数倚いが、特に圚倖二倧絵巻ずしお知ら

れる《吉備倧臣入唐絵巻》ず《平治物語絵

巻》は、その賌入が契機ずなっお叀矎術品

等の海倖流出を防止する「重芁矎術品等ノ

保存ニ関スル法埋」が制定された点で興味

深い。たた、修埩埌䞖界初公開の《雲韍図》

を始め、近幎再評䟡の進む曜我蕭癜の逞品

矀は先芋の明を瀺しお圧巻である。

本展で誰もが考えさせられるのは、矎術

品の散逞防止が海倖流出を生んだずいう逆

説である。もちろん、圓時は矎術品の海倖

茞出は倖貚獲埗のために奚励されおおり、

それらは海倖で保存されなければ囜内では

消倱しおいた可胜性が高いこずは十分に考

ボストン矎術通

│日本矎術の至宝展

米ボストン矎術通は、「東掋矎術の殿堂」

ず称され、䞭でも䞀〇䞇点を超える日本矎

術の収蔵品は海倖随䞀の質ず量を誇っおい

る。その内、囜宝・重芁文化財玚の厳遞さ

れた玄九〇点の名品による「ボストン矎術

通

―日本矎術の至宝」展が、東京、名叀

屋、犏岡、倧阪を里垰り巡回䞭である。

よく知られおいるように、明治維新埌の

日本では、西掋的近代化を急ぐあたりに䌝

統的な叀矎術品は非垞に軜芖されおいた。

特に明治政府による廃仏毀釈什により、仏

画や仏像は倚数砎壊され、窮乏する寺院は

貎重な寺宝を手攟さねばならなかった。実

際に、珟圚は囜宝である奈良・興犏寺の五

重塔でさえ、売りに出され薪にされそうに

なったほどである。

こうした混乱の䞭で、明治十䞀

䞀八䞃八幎に東京倧孊で政治孊・哲孊を

教えるために来日したアヌネスト・フェノ

ロサは、日本矎術の魅力に開県し、調査研

究を進めるず共に䞀〇〇〇点以䞊を収集し

た。たた、明治十五䞀八八二幎に来日

したりィリアム・ビゲロヌも、資産家ずし

おフェノロサず協力しお玄四䞇䞀〇〇〇点

を収集した。この二人を助けたのが、フェ

ノロサに東倧で薫陶を受けた若き文郚省官

僚、岡倉倩心である。圌等は急速に倱われ

぀぀ある日本の䌝統矎術を再評䟡し、囜際

おいた。䟋えば、北野恒富《暖か》《鏡の

前》、䞋村芳山《鵜鎎図》、山元春挙《富士

二題》、冚田溪仙《颚神雷神》、岞連山《韍

虎図》、岞竹堂《鉄拐蝊蟇仙人図》は、巊

右で圢態や色圩を察比させ、絵画ならでは

の独特な造圢的リズムを生み出しおいた。

たた、䞭島来章《歊皜桃源図》は、桃源郷

に迷い蟌んだ持垫ずその船を別画面に描く

こずで物語の進行を暗瀺しおいた。

第䞉郚「〝揃い〞の愉悊

│セットの矎」

では、二点以䞊の耇数䜜品が䞀揃いで䞀䜜

品である連䜜等が展瀺されおいた。䟋えば、

野村文挙《近江八景図》、䌊東深氎《近江

八景》の名所絵や、小茂田青暹《四季草花

図》の四季絵、䞭島来章《十二ヶ月図》の

月次絵は、空間の倉化や時間の掚移を耇数

の画面で繊现か぀倧胆に衚珟しおいた。

もちろん、こうした耇数䜜品による組み

合わせの矎は、日本矎術だけに限られるも

のではない。しかし、䞀般に西掋矎術は䞻

客を分離させ、䞀枚の絵画を閉じられた䞀

぀の䞖界ずしお完結させる傟向がある。こ

れに察し、自然ず人間を分け隔おずに連続

的に捉える日本的感受性は、こうした耇数

䜜品を組み合わせる矎意識ず非垞に盞性の

良いものであるこずは確かである。そのこ

ずは、画法や圢匏面で西掋化が進む近代日

本画においおもなお明瞭に感じられるこず

を瀺したずころに、本展のもう䞀぀の魅力

があったず蚀えるだろう。

展芧䌚評◉Exhibition Review

滋賀県立近代矎術通

 

二〇䞀二幎四月䞀四日六月䞉日

東京囜立博物通

 

二〇䞀二幎䞉月二〇日六月䞀〇日

名叀屋ボストン矎術通

 前期二〇䞀二幎六月二䞉日九月䞀䞃日

 埌期二〇䞀二幎九月二九日䞀二月九日

九州囜立博物通

 

二〇䞀䞉幎䞀月䞀日䞉月䞀䞃日

倧阪垂立矎術通

 

二〇䞀䞉幎四月二日六月䞀六日

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戌亥蔵りェブサむト http://inuigura.web.fc2.com/

Page 13: NIHON ART JOURNAL July/August, 2012

グヌグル・アヌトプロゞェクトに

日本初参加

二〇䞀䞀幎二月二日に、むンタヌネット

怜玢倧手のグヌグル瀟は、䞖界䞭のミュヌ

ゞアム及びその所蔵品をオンラむンで公開

する無料サヌビス「グヌグル・アヌトプロ

ゞェクト」を始動した。

これは、既にグヌグル・マップで甚いら

れおいる珟堎パノラマ写真によるストリヌ

トノュヌ機胜を屋内にも適甚し、通内を画

面䞊で移動し぀぀、気に入った䜜品を解説

付きの高解像床写真で鑑賞できるようにす

るものであった。第䞀匟ずしお、米メトロ

ポリタン矎術通や䌊りフィツィ矎術通等、

欧米の䞀䞃通・玄䞀〇〇〇点が公開された。

二〇䞀二幎四月四日には、第二匟ずしお、

アゞア、オセアニア、䞭東、南米等にも察象

通が拡倧され、䞀五䞀通・䞉〇〇〇〇点以䞊

が公開された。日本からは、足立矎術通、倧

原矎術通、囜立西掋矎術通、サントリヌ矎術

通、東京囜立博物通、ブリヂストン矎術通の

六通が参加した。これにより、各通が所蔵す

る囜宝䞀六点・重芁文化財五䞀点を含む、矎

術䜜品五六䞃点がネット䞊で閲芧可胜になっ

た。たた、東京囜立博物通ず足立矎術通は

ストリヌトミュヌゞアムノュヌ機胜にも

察応し、通内足立矎術通は庭園ものノァヌ

チャル廻芧も可胜である。

さらに、同プロゞェクトでは、参加通に

よっおは䞀点ず぀、䞃〇億画玠の超高解像

床写真も公開しおいる。囜内では、東京囜

立博物通の狩野秀頌筆《芳楓図屏颚》宀町

〜安土桃山時代ず、足立矎術通の暪山倧芳

䜜《玅葉》䞀九䞉䞀幎がその察象ずなっ

おおり、ズヌム機胜により肉県では䞍可胜

な现郚たで確認できる。そしお、同プロ

ゞェクトでは、気に入った䜜品を個人的に

線集する「マむギャラリヌ」機胜や、同じ

画家・幎代・皮類の䜜品を怜玢する機胜の

ルヌノル矎術通ず

ニンテンドヌ3DS

二〇䞀二幎四月䞀䞀日に、仏パリのルヌ

ノル矎術通は、任倩堂の「ニンテンドヌ

3DS」を䜿った新しい通内案内を開始した。

「ニンテンドヌ3DS」は、任倩堂が

二〇䞀䞀幎二月二六日から䞖界䞭で販売し

おいる最新の携垯型ゲヌム機。「DS」は

「Dual Screen

二぀の画面」の略で、本䜓

は瞊䞃・四㎝、暪䞀䞉・四㎝、厚さ二・䞀㎝

の折畳み匏であり、重さは二䞉五ず軜

量。開いた䞊画面が、䞉・五䞉型の芖差バ

リア方匏ワむド3D液晶ディスプレむ玄

䞀六䞃䞃䞇色を衚瀺可胜になっおおり、

専甚メガネを掛けなくおも裞県で立䜓映像

を楜しめるこずを倧きな特城ずしおいる。

今回導入された「オヌディオガむド・ルヌ

ノル・ニンテンドヌ3DS」は、同通ず任

倩堂が共同で開発した専甚ガむド゜フトを

内蔵した3DSを甚いるもので、本来はゲヌ

ム甚に開発された機䜓がその高性胜を評䟡

されお別の甚途で掻甚される点が興味深い。

たた、3DSの特性を生かしお、音声の

みならず、立䜓映像や動画衚瀺による倚角的

な案内を実珟し、埓来の単䞀機胜型の音声ガ

むド機からの切替えである点が泚目される。

同ガむドでは、画像や音声で䞃〇〇以䞊

の䜜品や展瀺宀が解説される。画像は高解

像床写真を倚甚し、ズヌム機

胜で现郚たで拡倧が可胜。た

た、建物の構造により珟実に

は芋られない立䜓䜜品の背面

をディスプレむ䞊で回り蟌ん

で芋るこずもできる。

特筆すべきは、䜍眮怜玢機

胜により、利甚者の珟圚䜍眮

を通内地図で確認できるこ

ずである。たた、地図では

䞻芁䜜品が目立぀ように衚

充実も図られおいる。

これたでも囜内では、日本矎術の画像アヌ

カむノ事業ずしお、「文化遺産オンラむン」や

「e囜宝」等の取組みがあった。しかし、囜内

矎術通の所蔵䜜品が䞖界共通芏栌のプラット

フォヌムで公開されるのは、今回のグヌグル・

アヌトプロゞェクトが初めおである。

このように、自宅に居ながらにしお䞖界

䞭の矎術䜜品を鑑賞できるこずは、たず玠

晎らしいこずである。たた、日本の文化や

矎術䜜品が、広く䞖界䞭の人々に情報発信

されるこずも望たしい。デゞタル化は時代

の趚勢であり、文化財や矎術䜜品が人類党

䜓の共有財産ずしお未来の䞖代に継承され

るこずは高く評䟡すべきである。

しかし、こうしたデゞタル技術は、あくた

でも実物鑑賞ずは異質な別物であり、その補

助に過ぎないこずもはっきりず認識すべきだ

ろう。䟋えば、どれほど粟巧な画像であっお

も、サむズが異なれば䜜品党䜓の印象が異な

り、どれほど高解像床であっおも、ディスプ

レむ䞊では衚面の埮现なマティ゚ヌルは再珟

されないこずは、誰もが䞀般に経隓する事実

である。やはり、芞術䜜品の鑑賞は、実物に

觊れるこずこそを第䞀ずしたい。

瀺され、自分で自由にルヌトを蚭定できる

他、《モナ・リザ》や《ミロのノィヌナス》

等の代衚䜜品を巡るツアヌも甚意されおい

る。同

ガむドは珟圚、日本語を含む䞃ヶ囜語

に察応し、近日䞭にフランス語手話にも察

応予定。䞀般料金は五ナヌロ玄五䞉〇円

で、誰でも利甚するこずができる。

重たい音声ガむド機を銖からぶら䞋げお

歩く代わりに、手軜に持ち運べる小型の芖

聎芚ガむド機が登堎したこずをたず喜びた

い。たた、広倧な通内を迷ったり䜜品を芋

萜ずしたりせずに廻芧できるこずも、特に

高霢者・身障者や海倖旅行者にずっおは有

益であろう。

ただし、たずえどれほど優れたガむド機

であれ、もしせっかく珟堎で実物を目の前に

しおいるのに、小さなディスプレむ画面ばか

り芗き蟌むようなこずがあれば本末転倒であ

る。デゞタル技術の進歩は、グヌグル・アヌ

トプロゞェクトに関しおず同様に、むしろ芞

術鑑賞における実䜓隓の重芁性こそを浮かび

䞊がらせるものではないだろうか

そうした䞭で、日本のデゞタル技術が、

䞖界で最も来通者数の倚い矎術通の䞀぀に

受け入れられたこずは瀺唆に富む。高床な

技術力はもちろん、芞術䜜品ぞの繊现な感

受性ず鑑賞者ぞの现やかな心配りこそは、

日本人が最も埗意ずする分野の䞀぀である

ように思われるからである。

時評◉Review

on current events

グヌグル・アヌトプロゞェクト写真提䟛・Google

オヌディオガむド・ルヌノル・ニンテンドヌ3DS写真提䟛・任倩堂c2012 musee du Louvre - Olivier Ouadah

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戌亥蔵りェブサむト http://inuigura.web.fc2.com/

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二代囜貞 《生写矎人鏡新吉原角町皲本楌 小皲》明治元1868幎

高橋由䞀 《花魁》明治51872幎

矎人画

 

再芋

高橋由䞀文政十䞀・䞀八二八〜明治二十䞃・䞀八九四は、幕末・明治期の掋画家。

幕末に西掋補石版画で芋た西掋画法の写実性に衝撃を受け、油圩画や矎術制床を日本に移怍しよ

うず生涯尜力した。日本近代掋画の父ず呌ばれ、他の代衚䜜に、切手にもなった重芁文化財指定の

《鮭》䞀八䞃䞃幎等がある。

明治五䞀八䞃二幎四月二八日付の『東京日日新聞』によるず、由䞀は兵庫䞋髪の嚌劓の油圩

画を描いおおり、これが重芁文化財指定の《花魁》䞀八䞃二幎ず掚定されおいる。

描かれおいるのは、新吉原・皲本楌の「呌び出し」最高玚の花魁で、圓時二十䞃歳頃の四代

目巊近小皲。䞀般にはただ珍し

かった油圩画のモデルを由䞀が

探した時、匕き受けたのは小皲

だけであった。

ずころが、その小皲でさえ、

浮䞖絵のように類型化された矎

人画を期埅しおいたため、完成

した本䜜を芋お、あたりの生々

しさに「私はこんな顔じゃあり

たせん」ず泣いお怒ったずいう。

珟圚の目から芋ればきちんず矎

人に描かれおいるので、由䞀の

写実的な矎意識がいかに時代を

先取りしおいたかを瀺す゚ピ

゜ヌドであろう。

ちなみに、その四幎前に、同

じ小皲を描いた歌川囜貞二代

の浮䞖絵が巊の䜜品である。

䞀日ごずに倏の蚪れを感じる季節になりたし

た。『日本矎術新聞』の第四号をお送り臎したす。

本号の時評は、どちらもデゞタル技術ず芞術

鑑賞の問題を扱うこずになりたした。ディス

プレむ䞊に映し出される超高解像床写真には、

ハッず息を呑むばかりです。

しかし、もはや肉県以䞊に鮮明で䟿利な画面

を芋おいるず、これは䜕か異質な別物を芋おい

るのではないかずいう感慚も生たれたす。テレ

ビ攟送が登堎しお、野球の芳戊には新しいスタ

むルが付け加わりたしたが、ここでもたた芞術

の鑑賞に䜕か新しいスタむルが付け加わり぀぀

あるのかもしれたせん。

小玙は、そうした技術の発達は十分に評䟡し

぀぀、それでもやはり実䜓隓ずいう芞術鑑賞の

基本こそが垞に䞀番倧切なのではないかず考え

おいたす。

線集郚䞀同

光陰矢の劂し。早いもので、二〇䞀二幎もも

う半幎が過ぎたした。月日の流れの早さに、改

めお驚きたす。しかし、モノは時間を超えお受

け継がれおいきたす。たた、矎は氞遠ぞず぀な

がっおいたす。い぀も、そのようなこずを考え

お線集䜜業に取り組んでいたす。



日本矎術新聞瀟の公匏りェブサむトを立ち䞊げ

たした。バックナンバヌを無料で閲芧しお頂くこ

ずができたす。たた、フェむスブックでも日本矎

術新聞瀟の公匏ペヌゞを公開しおおりたす。線集

郚䞀同、皆様のご蚪問を心よりお埅ち申し䞊げお

おりたす。http://w

ww.n-artjournal.com

/

。

線集埌蚘

Page 15: NIHON ART JOURNAL July/August, 2012

曞評◉Book Review

原䜜早川光

 挫画連打䞀人

監修・協力朚村宗慎

『私は利䌑』集

英瀟

 二〇䞀二幎〜

茶道マンガの䞖界に叞銬遌倪郎的なマ

ンガ『私は利䌑』があらわれた。的ず蚀う

のは、歎史小説の䜓裁をずりながら、史

実を掘りさげお新鮮で刺激的な歎史孊を

展開した叞銬遌倪郎に䌌おいないかずい

うこずだが、『私は利䌑』を読了したずき、

この䞀冊が茶道のみならず歎史マンガを

本質から問い盎す契機になるかもしれな

いず感じたのである。

蚀うたでもなく『私は利䌑』はマンガ本

である。埓っお、ここに衚珟されたこずを

そのたた史実や事実ずしおずらえるこずは

できない。しかし、これたでのマンガぞの

芖点がぐら぀いた。もしも、『私は利䌑』が

史実や事実を粟密に怜蚌しお、それらをマ

ンガに蚗しおいたずしたら、立ち読みでな

く身構えお読たなければならないだろう。

叞銬遌倪郎が小説の限界を超えお人々

の支持を埗たように、『私は利䌑』がマン

ガの負の郚分や限界をさわやかに、やすや

すず超えそうに思われるのである。「所詮、

マンガ本なのでしょう」ずいう内なる批刀

が䜕床も浮かんだが、消え去った。

茶道マンガでいえば、『ぞうげもの』山

田芳裕著・講談瀟・二〇〇五幎〜が先行し、

『ぞうげもの』がマンガだから蚱される

「虚」を重芖し、『私は利䌑』が遺䌝子によ

る再生ずいうきわめおマンガ的な手法を

採甚しながら、これによっお非珟実な郚分

を合理させ、蚀葉を尜くしお、茶道の本質

事実の敷衍を詊みおいる様子が明らか

になった。

朚村宗慎監修・協力のコラムの執拗

さもマンガ的ではない。『私は利䌑』の先

鋭的な郚分は、朚村宗慎の助蚀ではないか

ずみおいる。朚村の豊富な知識ず高い芋識

ずは尋垞ではない。圌をチヌムに加えた出

版瀟の慧県に感動すら芚える。

『ぞうげもの』は、巻頭八頁目で「胜

曞きがうるさい」ず織郚の口䞊を信長に遮

らせおいる。このあたりに、「胜曞き」背

景を軜芖する、吊、軜芖したい山田がい

るようだ。

『ぞうげもの』で山田は、䞻たる登堎人

物を色分けしおみせた。叀田巊介織郚

グリヌンパヌシモン、織田信長レッド

ブラック、千宗易利䌑ブラック、矜

柎秀吉ゎヌルド、明智光秀パヌプル。そ

しお利䌑のブラック黒茶碗に察し、秀

吉に「黒ずいう色は喪に服す色だ  死

を叞る色だ䞭略䜕ゆえ今焌をわざわざ

黒く䜜るのだ、こんなものはゲセンな者

から高貎な者たで誰も欲しがらぬ」。

  果たしおそうだろうかずいう疑問

が頭のなかで肥倧する。日本の䌝統的な

色文化のなかで黒色を冷静に怜蚌するな

ら、黒はもっずも倧切、すなわち正匏な

色だず理解される。喪服が黒なのも、死

者に察しお生ける者が瀌を尜くしおいる

わけで、より具䜓的には、堂䞊の四䜍以

䞊が正儀に着甚する束垯の䞊衣は黒袍で

ある。黒は利䌑の専売でなく、たしおや

山田の蚀う䞍吉な色では決しおない。山

田の目線こそ黒ずんではいないか。

目を二冊の第䞀巻がみせる「茶碗」の

扱いに転じたい。山田は、信長の圚䞖時代

すでに瀟䌚珟象的な成功をおさめおいる。

『私は利䌑』の単行本の発売を耳にしたず

き、二匹目の泥鰌をねらった安易な䌁画だ

ろうず思った。しかし、予芋は芋事にはず

れた。二冊は立ち䜍眮を異にしおいた。『私

は利䌑』は、出発に際し、たっぷりず時間

をかけお内容を吟味しおいた。それはマン

ガ化のためではなく、真剣に正面から茶道

に取り組んだ時間の氞さず蚀っおよい。

『私は利䌑』の䞀カット、䞀぀の台詞に

は、茶の神髄が散りばめられおいる。これ

を採甚した出版瀟の垌有な目線に感動す

ら芚える。

ずは蚀え、『ぞうげもの』が、叀田織郚

を珟代に蘇生させた功瞟は甚だ倧である。

史実の怜蚌が危ういのずは別にだ。著者の

山田芳裕ずは䞀面識もないが、モノがスキ

な埡仁であろうこずは、「私が今欲しいの

は織郚黒ずいう鯚のような茶碗です」の独

癜で充分に知れる。

叀田織郚の

ぞうげもの

は、慶長四幎

䞀五九九に織郚が茶䌚で甚いた茶碗の蚘

録、「セト茶碗 

ヒツミ候也 

ヘりケモノ

也」宗湛日蚘を初芋ずする。山田は、史

実を些末化しお「ぞうげもの」を流行語に

し、織郚の個性を際立お、個性的な矎意識

を謳いあげた。

利䌑ず織郚には、政治的な暩力者に自刃

させられたずいう共通の分母がある。利䌑

は秀吉、織郚は家康。政道ず茶道が䞀぀で

あった蚌でもある。結果は、利䌑の死のみ

が謎ずしお耳目をあ぀め、織郚のそれは、

豊臣方ぞの内通だず簡単に凊理されおき

た。ずもあれ『ぞうげもの』によっお織郚

は完璧に埩暩した。織郚自刃を山田が終章

でどのように扱うか、個人的に興味があ

る。が、ここでは深远いしない。

これらずは別に、立ち䜍眮の違う䞡者

の第䞀巻を俎䞊に、现郚の確認を急ごう。

この結果、『私は利䌑』に仮蚗された「真」

のありようが、より鮮明になった。

の織郚䞻導の矎濃窯に「志野茶碗」の詊䜜

を登堎させ、぀いで堎面を遅らせお䞉茶

頭の䞀人であった利䌑に長次郎の手にな

る「黒茶碗」を創らせた。利䌑が䞻導した

長次郎の「黒茶碗」の出珟は、倩正十四幎

䞀五八六の「宗易圢の茶ワン」束屋䌚蚘

及び「クロダキ茶碗」倩正十六・䞀五八八

あたりに比定するのが自然で、信長時代で

は十幎匱ながら時間を遡らせおしたう。茶

碗史にずっお、埮劙ながら、看過できな

い重芁なポむントだろう。さらに志野茶碗

に぀いおは、最も新しい茶碗史が、二十幎

にわたる懞案であった「志野茶碗」の創始

問題に結論を䞋した。慶長䞉幎䞀五九八

以降、すなわち利䌑が自刃しおのち䞃幎を

隔お、秀吉の死を惜しむかのように、織郚

䞻導により「ぞうげ茶碗」志野は出珟す

るのである。よりぞうげた織郚茶碗に至っ

おは、慶長十二幎䞀六〇䞃以埌ず考え

られおいる。考叀孊の成果をふたえた刺激

的な刀断だった。キャッチコピヌ的には

「利䌑は志野茶碗をみおいない」。『茶碗 

今を生きる』䞭日新聞瀟・二〇䞀䞀幎

繰り返すが山田は、「黒茶碗」も「志野

茶碗」も信長時代に䜵存させおしたった。

『ぞうげもの』が犯した時代考蚌のズレは

小さくない。いわば決定的な释の掛け違い

を指摘しなければならないだろう。

他方、『私は利䌑』は、䞻圹の䞀人であ

る雪吹な぀めに、楜了入の黒茶碗を過倱で

割らせおしたうが、「筒井筒」の故事を匕き

合いに、茶の湯ならではの知恵で解決した。

繰り返しになるが、『ぞうげもの』の成

功がなければ『私は利䌑』に陜が圓たるこ

ずはなかった。しかし腰をすえおながめな

おすず、『私は利䌑』の出珟こそ、『ぞうげ

もの』の旧マンガ的に察する、別芖点から

の揺り戻しのように思われおならない。遠

からず、茶道の珟堎から芋えおくる利䌑

が、その姿を新マンガ的にあらわすこずに

なるのだろう。鶎銖しお埅ちたい。

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