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Title 國民所得の測定に就て(上)
Author(s) 豊崎, 稔
Citation 經濟論叢 (1948), 62(5): 259-270
Issue Date 1948-11
URL https://doi.org/10.14989/132159
Right
Type Departmental Bulletin Paper
Textversion publisher
Kyoto University
経済論叢第六十二巻第五競
間民所得の胡IJ定に就て(上〕…・……目….....・…・豊 崎 稔
家計調査の諸問題(上) ・・・….......・・・…・...・・山 本 E 治
スミス圏宮論に於ける「運送貿易」の概念日H ・H ・-…佐波宮平
カール・ V ヴヰツト f____ツクス・ウェーノ《【とカ F ル・マルクス」 ・・・・・・田 中 庭 晴
京都戸大事経済亭 曾
圃民所得の測定に就て
(上)
豊
崎
稔
自〆
攻
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じ
泡f
き
従来町国民所得測定措主その目的(以上本腕
k載)
園家珊占費本主義段陪の闘員所得測定訟の目的(以下次回)
固
科事的国民所得測定棋の構想
•
は
し
が
き
図民所得。測定品目に就ては昭和十八年頃多少論評したことがある。官時D自分。考方は最近森下氏が手際よ〈纏
情重人数佼白も白がある。(一橋詰叢)
めあげ
ιれている。(創元世、細済革研究E)然し国時自分。考方に封ずる諸批評のうち意識的に答へ左かったものに都
己れは確か私が生産所得と分配所得と消費所得が同一に蹄すると呂田う一般論
は承認し難いと言う主張をしたことに射して積極的理由をあきらかにせよ企言う鮪であった。
とうした質問は宗藤
数段か
ιも提議された。
困民所得の測揮に就て
(統計皐曾報告)官時私白考方は静的均衡欣態が測定白封象陀なる白ではないと一言う白であ
第六十三巻
五ブL
第五披
岡民所得の測定に就て
第六十ニ巻
ヌ〈O
第五瞳
ー
った。
Eの賄はもっと詳細に分析する必要があったが、モ白暇が一なかった。
第二の重要なる批評は高野岩三郎博士(統計事官質疑)大内兵衛教授(統計晶骨質疑)から提出せられたものであった。
高野博士は私白園民所得D測定陀就ての従来白諸方法白批評を容認せ色れるが、それ以上に更に現段階で園局所得
を測定する積極的方法を提示する必要はないと一言うのであった。大内教授は私の積極的方法が生涯教量的方式をも
とる白に封してそれは資本主義では不可能である、資本主義では慣格測定しかなし得ないと言う鋭い論評であった。
高野博士と大内教授との論評は私の積極的方法O内容構想に就
τ新なる反省白機となった。尤も営時白大内教授。
反謝に拘はら宇生産数量的方式をも仰せとるDでなけれぽ闘民所得にあらはれる費本主義の矛盾をはっ切りとはつ
かめない)生産の絡調的数字を世脅網資本の現貫的蓄積過程に於て完全に捉へる己とは勿論不可能であるが、それ
は何等かの開係数でっかまえ得ない課ではない
k考へていた。然し重要たのは積極的方法の構想内容がそ白測定目
的が安本主義の矛盾のうちで生産的大衆白利益の貸現にあり乍色も、
その園民所得白測定方法がフ
7LVスト岡家
ω
方法であり、
一部の非生産的階級白利益に一致する内容を持っているのではないかとの反省であった。
高野博士。
批判は直接にとん念表現をとちれなかったが、官時D私にはEんなに響いたりである。
それ以来(昭和十八年九月燕)と白問題を私は棚上げしていた。然るに昨年かち大蔵省理財局調査部は私達に闘民所
得の測定法に蹴て白批判を要請した。
ノ身議の雑事と被雑なる艇梼情勢白分折に必要なる基本的方法の勉皐とのためにまとまった整理が出来ないでいる
ρ
それを機曾に従来の考方を多少とも整理する必要を来たした韓である。然し
であるが、寧ろ今未完成のま丸紅漫表して多くの人の批評主受げて更に考究を重ねるのが、
遁嘗なるように考へら
れるので敢て雑然たる論文を公表する弐第である。
ーー従来の園民所得測定訟とその目的
園民所得の測定に就て己与で闘民所得巴概念を検討する必要がある。然しとの概念に就て唯抽象的に資本主義枇
合自本質は流遁世舎である、流組枇令に図民主る経梼主慨は存在しない¥従うて岡民所得たる所得は存在しない〔H
イフマ
Y)
と言うよう左方式で困民所得概念を検討する己とは差控へ反ぃ。
ELでは寧ろ従来粧梼曲学的に測定せら
れた園民所得測定訟の内容かち検討して見ょう。我々が己ih
で園民所得概念を検討する目的は「園民所得統計』なる
魂買に行はれている測定法の目的とするととろを把握するととにあるからである。
在来の園民所得の統計的乃至粧祷陶学的研究方法を見ると、
それは近代資本主義の成立以後三つの護展民階を持9
ていると言い得る。
/
年々白一純生産舗である'r一考へられている。(スミス)
て常時行はれた課では設い。然しと白測定法は枇曾的生産D資本主義的方法の護展が岡宮増進に重要なる妓旧制主も
っととの詮織として利用されている。然しと白測定法一℃は重商主義段階に於ける如く営該枇曾金隈白生産物の綿計
が問題になっ
τい左い。即ち生産物でなく年々の生産物(純生産物)が問題であり.枇脅全憾でな〈個人賞りの生産械が
そむ最初は園民所得を以
τ嘗該資本主義枇曾一の経掛主憾白個々《就て平均計算した蛍該枇台。
勿論との種の困民所得の測定方法は常該段階の岡家機闘によっ
問題になっている賠で重商主義段階白も白と根本的差遣が容するのである。
A柳
、
本主義白生長の見透しのない重商主義段般と見透し白ついた段階止の本質的差異白反映である。
古道
主う左差遣は英吉
英利吉区利於資け木る主近義代が、資
世界白工場化する以前白段階では絶射主義と結ぶ商人資本は貨幣金曲者城主必要とし、
を蓄へて外にはそ白買力に土って所謂重商主義的貿易政策古賀施しなければならなかった。 そ
の震には内に於て凶防力
従って闘家機闘が賀施
園民所得の測定陀就て
第六十=巻
ヌ〈
第五現
図民所得目測定に就
τb
第六十二巻
ノ、
第五騨
同
する必要。ある統計は「闘家白顕著たる事項」の調査であった。それは闘防力主重商主義闘出来が把趨ずる必要にも
とづいていた。そしてそ白結果綴著なる事項としての結構諸力白一つである園民所得は一方では年必白純生産物℃
なく資本財の測定をも必要・とした。換言すれ
J図民所得の測定は同時に図民財産白測定
E不可分離に必要とした。
然じ英吉利に於ける産業資本による生産力白展開によって、一方「世界の工場」たる地位の確保白見透しがつくと
ともに、産業脊本にとって直接間接に過充負携になる園防費は不生産的なも白とされたし、そとでは産業資本の自由
なる護展による蓄官が第一義的のも白となった。従づ
τ産業資本による生産性の増大を誇示するこ左が問題となっ
た。叉岡家は警察園家の機能をもつことで十分であって、国防よりも産業資本の自由なお資本増殖に必要なる諸憐
件を充せる枇冶附環境を地均しすると一一言明う消極的左仕事を第一義とした。従って労働の生産怯の増大を表示する己
とが第一義であって、純生産物の綿計乃至園民財産の測定は全然無視した白ではないが、第二義的なもD与なった。
従って産業資本KBRつては所得白増大は宮の噌大白原因であるばかりでなく、「宮」その・ものであったDであるロそ
して所得を「労働の生産性」で測定した。何故なら労働の生産性の上昇は利潤率の上昇であり、利潤輩の上昇は産
業資本の資本総額が誠小せざる限り産業資本白所得分(利潤分)の特犬在意味する今らである。然し重商主義段階に
於ける商業資本とは建って産業費本はそ白所得を車なる貨幣所得でなく労働
ω生産物で以て測定し主うとした
、
流
通行程に於ける詐傑行僑に土る貨幣所得でなく、生産行程に於けける剰傑慣値を源泉とする所得を考へた。
それは
産業資本の段階が毛の前段階に比較して枇曾的生産力の増大に直接関心をもっでいるとと、
換言すれば枇品目的に進
歩的で
bる己とを窯味ずる。
けれどもとの段階の閥民所得白測定法は個人嘗りの生産所得白増大が同時に歯該枇曾全憾の側々人の所得の均衡
,
的な増大主意味するもの冒とした。換言すれぽ産業資本白利潤所得の増大は労働者の賃銀所得の増大を意味すること
その貼に己白測定法白もワている科皐的意義の枇曾的歴史的制約がある。快うに近代
安本主義の生成は前資木主義的都営主食識するとL」による資本主義的経営の展開を内容とするが、とれは一方労働
の生産怜在高揚し乍ら、他方労働大衆の生活をも引きあげた。(そこに費木主義の役酬があった)然し安本主義の確立後r
は労働の生産性の殻展によって一方剰飴侭侃卒は上昇し従って利潤所持を増大したが他方労働大衆の生活水準は押
し下げ色れた。一八
00年代の前AT刊紀の英古口利者本主義は明確にこのととを罷明している。費本主義経梼皐の完成
者であるリカアドウで苫へ迭に機械の採川(そかは剃品開聞慌の帯大手段目最重要なるもの)の結果に蹴て悲観論を附した0
マルクスはとれを更に科周学的に説明した。そしてとの時期かち資木主義的生産方法はその法則に反封ずる帯保件を
作って労働の生産性の高官が同時に叉高度資木主義闘では労働賃銀を引きあげたが、同時に然し植民地闘を相針的
を前提せねばなちなかった。
陀食附化したo
従って労働生産性の高揚は一鹿本闘では富白増大の指標になったが、それは植民地図が政治的に背
P
反する珠洲指様であるか
ι、その指標によっ℃資本主義の進歩相をよ吋以上主張するとEt
は出来なくなった管であ
るu
己れでとの園民所得測定法は最早刑合的に歴史的にそ白役割を終ったのである。
闘民所得の測定は勿論不必要になった需ではない。産業資本の殻展段階が潤占資本の生長の段階になって植民地一
枚取誠一午のための闘防力が必要になって来た。然しそれと共に資本主義白調占化的展開に封ずる批判として闘民所
得の附級的分布量測定するととが問題になったo
そし℃己目方法では貨幣的に表示された所得が階級的に如何に分
布しているかが検討された。克もとhで階級別と言ってもそれは地主、資本家及び努働者の経務的階級によって貨幣
所得。平均的大きが測定されたのではない。貨幣所得白大苫によってその所得を受ける度数分布の集積欣態を測定
v
、
岡民所得の測定に就て
第六十ニ巻
』
~. ノ、
第五披
五
図民所得の測定に就て
第六十ニ審
プミ四
第五掛
プミ
したのである。勿論経済的階級別に資木所得と労賃所得止。背反欣態を測定する試みも資本主義を批判する立場れ
ら全然なされていたい諦ではない。然し-般忙知
ιれている閥民所得の測定方法は前者であった
φ
勿論との種の測定
方法も貸宮の懸隔を示している。然し貧富の懸隔が何に某き叉資本主義の護展を如何に規定するるかに就て十分創刊ド
皐的論擦を示すものではない。例へば濁逸に於ける事例では多くは猫占者本の生長による前資本主義的経管D破綻も
が貧富の懸隔止してあちわれた。担問逸岡家はとの場AAn
貧官D懸隔を枇合政策によって救うとした。前資本主義的経
岨官の破綻が資本D運動法則。必然の結果である限り、勿論調逸園出来はそり目的を達成し得左かった。英吉利回例で
は貧官の懸隔が努費関係にもとづく己とが一般的に理解されてゐた。然し近代的英官利では努資聞の所得D分配は
それに感じて介配きれている限りそO場合貧官。
従つ
τ営時英吉利では限界生産力ー
それぞれ白生産要素の限界生産力に肱じてなされるべきであり、
懸隔があってもそれは枇合的生産力白護惑を害ずるも白ではないと理解された。
によって牧徒が均等に分配苫れることを妨害する不完全競争や濁占白弊害を除去する己とが官時四闘家機閥の任務?
その結果貧富白懸隔の測定は必十しも懸隔を絶射的にな〈するととを目的とするDでは
である左湾へ色れていた。
-なくて、懸隔を若干調整するととにあった。
勿論闘家機関は現貨に経過的には調整する仕事をなし遂げたが、限界
生産力に主る牧谷均等白法則は決して賃現
?bれなかった。寧ろ獅占者本の脅展と共に貧富D懸隔は増大した。
かくして園民所得の分間論的測定は資本主義の矛盾を表明するにとピまった。
否限界政益均等の法則の認識によ
って寧ろ貧官の懸隔が資本蓄積を高揚するととを霞明ずる科料に使附された。それでなくても貧富の騒附白調整体
結局出来なかった。こうして岡家枇合主義的経桝政策はその無意義である己とが詮明された。然し分配的同民所得の
測定に土つ
τ・従来意識し在かった労働大衆が費ホ主義白矛粛をはっきりと数最的に把揖したととは否定
m来ないq
、
会
従って己の洲定法がもっ資本主義批判と善一同う枇曾的役割を果した乙とも事責であるが、限界牧径均等D法則による-
貧富白懸隔が批合的資本の蓄積を惹起する己とを謹明するためには単に困民所得を分配的側面からのみ測定するの
では不充分であった。蓋し生産なくし
τ分配はあり得ないのであるから、費本蓄積を結果的に一示すためには生産的
所得。測定が必要であった。然るに凋占資本旧愛展段階に於ける園民所得の測定は阪に見た土うに分配的闘民所得
の測定であった。然し獅占資本白護展によって惹起した貧富の懸隔は一部の厚生経掛皐者をじて生産がよし衰へて
も労働階級への分配に重賄を治く刊きであるとの、王張をなさしめたが、現買に猫占安本が綿資本的に果した仕事はい
そしてそのなか宅個々の狗占資本の意聞すると己ろは
インフ
νイシヨン政策陀上る原傭増大政策白賀施であった、
批合的生産力白増大主りも滞貨の一掃による利潤白賀現であった。
己白事態は困民所得白測定法にも反映せざるを得なかった。即ち園民所得を直接消費、と間接消費と白一腕角から測
定する方法が重要視されるに至ったDがモれである。卸ち闘民所得測定法の歴史か
ι言うと第三に稜展したも白で
ある。惟うにとの測定法は分配された園民所得が如何に使用されるか(従って再生産的に幾何使用されるか)に着目した
方法である。
そして己白使用方法の如何によって生産が規定されると考へているのである。モの際測定の単位とな
ったものは貨幣所得であった。
そして特に貨幣所得のうち幾何が投資されるかに測定四重鮪がやかれ、貨幣所得が
如何に直接消費に使用苫れるか白方は寧ろ輯視された。
そとにとの測定法の性格がうかがはれるDである。即ち己
• の測定法では岡民所得白形成は投資行程によっ
τ一義的に決定されると言う前提的考方が存在する
Dである。惟う
に生産も資本主義に於ては貨幣資本白調達かち始るのであるから、この貨幣資本の投資行程在数量的に測定するζ
Fに上って図民所得の形成量を知り得ると考へられているのである。
ぞとに己の測定法の観念論的性格が露出され
闘員所得の測定に就て
第六十ニ巷
一六五
第五揖
七
園民所得目測定に就て
第五披
必要量の貨幣資本が調達されてもそれに誼臆する量白生産資本が獲得され得るか、更に幾何D
第六十ニ巻
山ノ、占ノ、
f、
ている自であって、
商品資本が形成されるかは早に貨幣資本白調建景のみでは初出足し得ないのである。
何故なら必要な労働力があっ
τ
• もモの労働力D把持者である勢働者が企業での資本家圭の階級的劉立かち働かない場合もあ呂得るるかちである。
縫っ
τどの測定法は闘民所得をその形成過慌に於て測定し止うとする意味に於ては従来注意されていなかった鮪を
捕へ
τいるのであるが、生産の枇曾闘係を無視している結果岡民所得形成白金過程を未だ充分に測定し得ない結果
陀陥ちいっている白である。然しそれは澗占資本の着限貼からして営然の結果であった。蓋し狽占資本にとっ
τは
岡山地機闘によるイYフ
V
イシヨン政策医よって直接には滞貨を賀現するととが必要な課題であって、労働白生産性~
の高揚は第二義的意義しか持つ亡いなかったからである。
か〈て図民所得の測定方法はその最初白方法の不すが如き資本主義による枇合的生産力D
設展D可能性を表示す
るよりは、一滴占資本の滞貨一崎市白ための政策貿施白必要を一般に理解せしめる震の武器左化したのである。或は将
来週るべき滞貨一掃のための綬持政策費施のため白武器と化したのである。然しそうした閤民所得の測定方法に封
しては内外かち種デなる反封が起った。一つの反釣は獅占資本に針抗する立場からする反針であって、園民所得の
測定は生産行棋に於て測定する方法をとるべきであると言うのである。その所論は園民所得は終梼循環の如何なる
関民所得の測定単位なる債値は生産行程に於て決定せ
ιれ
行程に於て測定し
τも本来同一に蹄Fるもので、あるが、
Zのであるか色、生産的関局所得を測定するりが最も合理的であると言うのである。
の闘民経梼に於
τ総計的に測定じようとする考方が合まれている。蓋し閲兵所得が総務循環白如何なる行棋に於℃
己白考方には閤民所得を一つ
も同一貴に闘すべき判質のものであると白考方は純計計算でなければ考へ得在いと冒とであるからである。
然し乙
D
測定法はその反獅占資本的態度を生産的関民所得白測定に示し乍らも、
っているのである。蓋し園民所得を生産行程に於て把損しようとする考方は狗占査本主義の枇合的厩史的役割を慣
との鮪呪未だその態度に不成熟なものを持
〆
そし
τ己の測定法はこD事賀から澗
-
或は滴占奇本主義が悠々繁栄し得ると結論し得る
若しそうした結論E導き出し得ると一百うなれば、純計法による生産的園民所得測定訟が主張する澗占
安本主義批判白立場なるも白は虚俄であるととになるであろう。蓋し猟占脊本主義に於てはよし生産物から見た闘
その考方が投資行程忙於て測定じようとする従来の考方に比較し
ap
て進歩的であり、それは澗占資本
ω玄場では従来とり符ない立場であった。然し生産的関民所得を純計的に算出す
るととによって果してと自闘民所得。ー測定法は如何なる意味をもち得るのであるか。
或はE自岡氏所得の測定法主推栴するものは唯園民所得白客観的事貨を一不す白が、と白科皐的目的であると言う
であろう。然しED測定法士寅際に凶民所得を測定すれば恐九一〈好景気階梯かち恐慌階梯へ田移行活程を別にすれ
ば澗占資木の殻展段階に於ても岡民所得白総計は絶謝的に増加するであろう。
占資本主義が産業資本主義よりも主り進歩的な存在であるとか、
値生産力に於
τ測定しようとするのであるから、
〆
であろうかロ
民既得は絶封量に於て増加していても、その生産関係か
ιする階級閥白分配閥係を妹介として億々不安定化しつih
あるから手ある。かくて総計法による生産的闘民所得測定訟はその表而上主張されている立場に拘はら宇結果に於
そしてそれは又濁占資本目立場かちも徴迎せられなかった。蓋しその測定
訟が生産的岡氏所得測定法すあり、従って純計法に止らない時には猟占資本主義に於ける枇命的生産力後展の相鈎
て反動的役割しか演じ得ないのである。
f
的な減退を露出するととになーるからである。
4
〆
酔
湖占資本の費展段階に於ける分配的闘民所得測定法に反到する第二目立場があるノその測定法は園民所得を経梼
園民所得の測定に就て
第六十二巻
一六七
第王鶴
:iL
園高所得の測定に就て
銀
六
十
ニ
省
第
五
披
主張白根擦は図民所得は生産行程で測定したものも、分配行程
一六八
O
循環
ω綿過程に於て測定し立うとする主張である。
晶、
で測定したも白も、
消費行程で測定したものも、
債値観に於
τは同一に闘すべき性質Dものであるが、
その測定
をそれぞれD行程で債値観で行って総合する(平坪Lて総所得金額E測定する方法)方法が技術的により正確な閥民所得
を測定し得ると一言うのである。即ち各行稗に於げる測定上白技術的課謬を総合することによって調整しようとす
然しとの測定法は債格車位でする綿計法であるととに着眼にせねば
ZEC
己ろにその理論的根擦がある課である。
友
ι向。
失に結果として算出された園民所得額は生産的園民所得でもなければ、分配的図民所得でもなければ、消
費(間接的消費を合む)的園民所得でもないととに注意せねぽならぬ。そして線計法が持つ鰍鮪は先に述べた如くであ
るが、己白各所得繍の総計白平均値θ算出によって園民所得街があいまいた数値になるのである。換言すれば狗肖
費本主義に於ける図民所得。捷訪の良貨の相主計算によって一般大衆に理解せしめ得なくする由であ品。
測定訟は猟占資本主義に於
τ生産的園民所得と分間的閥民所得止消費的園民所得とが本来同一であるとD理論的根
擦に立っているか
ι右に述べた結果を諌測し亡いない。然レそうした理論的根擦で以て闘民所得を測定する己と同
時が就に己の測定訟が立脚する理論的立場が如何なるものであるかを露呈するのである。即ち先づ園局所得。測定
勿論山この
を行う場合‘困民所得を生産行程に於℃把握する時鮪と・分配行程で把握する時鮪と消費行程で測定する時鮪とでは
本質上相檎起する時鮪でなけれぽなちない。勿論同一時賄に生産的図民所得、分配的関民所得、消費的園民所得を
匂
測定するととも不可能では&ぃ。然しそれは異なった起鮪の経梼循環過程で形成される所得であっ℃論者白理論的
根抜からしても本来同一憤値量に蹄着すべき性質Ddb白ではない。従ハ
Jτ前越の相継起する時鮪で生産的所得、分間
的所得、一消費所得14を測定する場合、異った時黙を合む期間は護展又は費動を内包すると考へねばなちぬ。蓋じ園田内
ヘ.0_' も
所得は理論的に俄構した均衡状態で把揮すべきもDではな〈て、現買の費動過税で測定苫るべき附質のものであるz
からである。従って生産行程の所得摘は消費行程でも同一師酬が消費されるとは限らない。何故夜色その縛形過程
K
於て慣値の費動及び数量の鐙動があるかちだ事る。即ち粧晴樹循環過棋は無時間的訟もので友〈、一時間的経過に於て
あちは料るも白であり、時間はそれ自身費動を合むのである。査し資本主義はその生産関係と生産方との矛盾かち
必然的に恐慌に至
ZOであるから生産、分配、消費が長期間に五って同一一償値量で均衡するととはあり得ないか色白
である。勿論恐慌階梯では債償法則が強行的に寅現されるか色、その階楠では生産、分配て消費が均衡するととが
芳へ
ιれるが、然しそ白場合にも債依量が同一になる詩ではない。か〈考へて見ると経済循環の各行棋は本来同一
儒値景で均衡するペパぎ性質のものではない。それを同一債償還に鶴一しようと見るのは禰占資本主義を「組織資本
換言すれば資本の集中集積に恭礎を置く猫占組織によって費本主義の無政府性
が揚棄されたと見る立場に相通宇る白である。印ちとの賄か
ιしてとの闘民所得の線計的測定法は湖占者本主義の
岡家白財政機閥に大衆課税を課する場合白口賢主興へるにとピまるのである。何故なら己の測定訟で算出される闘
主義論」的に考へ土うとする立場、
民所得は生産所得でもなければ、分配所得でもなく、又消費所得でもない。
ある。その大さを基準にして滴占園家は自ら必要とする歳入を課税するからである。
とk
で閥民所得測定白緒方法の批判概念的を打ち切り度ぃ。
それだけ閤民所得の大さはアイマイで
そして以上白批判的分析か
b闘民所得に就てのそれ
ぞれの測定法が意識的にか無意識的にか何等かの枇曾的役割を果していたこと、換言すればそれぞれの閤民所得。
測定法がそれぞれその護展白歴史的批脅的背景から特有白目的配持っているととが理解されるであろう。モし亡従
来白方法が最早困家濁占資本主義の現段階に於て枇合的生産力の護展に寄興ずるものに非ることは明瞭であろう。
園民所得の測定に就て
第六十ニ巻
一六九
第五醜•
園民所得の測定に就て
第六十ニ巻
第宜披
二七
O
然らぽ園民所得白測定は最早枇合的に無古且義なのであるうか。換言すれば猫占資本に自己満足に寄興Tる以上
ωR
的を持ち得ないも白であるか。然し濁占資本の自己満足もとの園民所得の測定法は裏切るであろう。何故なら乙の
濁占資本主義を支配する法則閥係主析出し得るもの
胤,
測定法は先にも示した如く獅占丸木白主慨的意闘を一示し℃も、
ではないからである。(つ立〈〉