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181 Fruits of the Kyoto Seminar for Instrumentation in Japanese Operant Studies TETSUMI MORIYAMA (Chair) Tokiwa University MASATO ITO Osaka City University KEN'ICHI FUJI Ritsumeikan University SADAHIKO NAKAJIMA Kwansei Gakuin University 座談会 日本のオペラント研究の発展における実験装置の意義 ――京都セミナーの成果―― 常磐大学 森山哲美(司会) 大阪市立大学 伊藤正人 立命館大学 健一 関西学院大学 中島定彦 去る 2016 3 28 日(月)に、立命館大学で、伊藤正人、藤健一、中島定彦の 3 人の先生方と私と の間で「京都セミナーの総括と日本の行動分析家への警鐘」と題して座談会を開きました。ここに掲載 されたものは、そのとき話し合われた事柄を読みやすい形に改編したものです。京都セミナーの詳しい内 容については、ご承知の通り、本機関誌の 30 巻の 1 号と 2 号、そして 31 巻の 1 号に解説論文として掲 載されています。セミナーでは行動分析学と実験装置の歴史的発展がテーマとして取り上げられていた ので、私は、セミナーが行動分析学の温故知新になると思いました。それについて確認するために、セ ミナー企画者であった伊藤先生と藤先生、そして編集委員長の中島先生を交えた座談会を開催しました。 座談会では、したがって、行動分析学の歴史と実験装置の発展の経緯を振り返ることで、行動を科学す ることは可能であり、行動について正確な知識があれば、行動を予測して正しい方法で行動を制御すること ができる、という行動分析学の基本的な考えを再確認しました。そして、今後の行動分析学の発展に関連 して、行動分析学、特に日本の行動分析学は学会や社会に何が提言できるのかについても話し合いました。 実際に話し合ってみると、話題は多岐にわたって展開し、場合によって収拾がつかなくなってしまう のではないかと危惧することもありました。しかし、この座談会によって、京都セミナーがどのような 目的で行われたのかを再確認することができました。さらに、日本の行動分析学の今後の発展にどのよ うな提言ができるのかについても話し合うことができたと思います。 読者の皆様におかれましては、ここに語られている事柄を通して行動分析学という学問はどのように 発展してきたのか、そして何を志向している学問であるのかについて、再認識していただけるものと確 信しております。京都セミナーがきっかけとなって、わが国の行動分析学の研究と実践がさらに発展す ることになれば、それは私どもにとってこの上ない喜びです。 (森山哲美) Japanese Journal of Behavior Analysis 2017, Vol. 31, No. 2, 181–200 ROUND-TABLE DISCUSSION

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Fruits of the Kyoto Seminar for Instrumentation in Japanese Operant Studies

TETSUMI MORIYAMA (Chair)

Tokiwa University

MASATO ITO

Osaka City University

KEN'ICHI FUJI

Ritsumeikan University

SADAHIKO NAKAJIMA

Kwansei Gakuin University

座談会

日本のオペラント研究の発展における実験装置の意義――京都セミナーの成果――

常磐大学 森山哲美(司会)大阪市立大学 伊藤正人立命館大学 藤 健一関西学院大学 中島定彦

去る 2016年 3月 28日(月)に、立命館大学で、伊藤正人、藤健一、中島定彦の 3人の先生方と私との間で「京都セミナーの総括と日本の行動分析家への警鐘」と題して座談会を開きました。ここに掲載されたものは、そのとき話し合われた事柄を読みやすい形に改編したものです。京都セミナーの詳しい内容については、ご承知の通り、本機関誌の 30巻の 1号と 2号、そして 31巻の 1号に解説論文として掲載されています。セミナーでは行動分析学と実験装置の歴史的発展がテーマとして取り上げられていたので、私は、セミナーが行動分析学の温故知新になると思いました。それについて確認するために、セミナー企画者であった伊藤先生と藤先生、そして編集委員長の中島先生を交えた座談会を開催しました。座談会では、したがって、行動分析学の歴史と実験装置の発展の経緯を振り返ることで、行動を科学す

ることは可能であり、行動について正確な知識があれば、行動を予測して正しい方法で行動を制御することができる、という行動分析学の基本的な考えを再確認しました。そして、今後の行動分析学の発展に関連して、行動分析学、特に日本の行動分析学は学会や社会に何が提言できるのかについても話し合いました。実際に話し合ってみると、話題は多岐にわたって展開し、場合によって収拾がつかなくなってしまうのではないかと危惧することもありました。しかし、この座談会によって、京都セミナーがどのような目的で行われたのかを再確認することができました。さらに、日本の行動分析学の今後の発展にどのような提言ができるのかについても話し合うことができたと思います。読者の皆様におかれましては、ここに語られている事柄を通して行動分析学という学問はどのように発展してきたのか、そして何を志向している学問であるのかについて、再認識していただけるものと確信しております。京都セミナーがきっかけとなって、わが国の行動分析学の研究と実践がさらに発展することになれば、それは私どもにとってこの上ない喜びです。

(森山哲美)

Japanese Journal of Behavior Analysis 2017, Vol. 31, No. 2, 181–200 ROUND-TABLE DISCUSSION

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行動分析学研究 第 31巻 第 2号

森山 今日はお集まりいただきましてどうもありがとうございます。私が機関誌『行動分析学研究』の編集委員長だったとき、伊藤先生と藤先生が中心になって何回か京都セミナーが開催されました。それに私も一度だけ参加させていただき、セミナーのすばらしさに感銘しました。そして、セミナーで議論されたことをぜひ文書にして、多くの方々にその企画と趣旨をご理解いただき、セミナーで語られたことが日本の行動分析学の来し方行く末を考えるきっかけになればよい、と思いました。解説論文にしてセミナーの内容をご紹介いただけないだろうかとお二人の先生に相談したところ、先生方からはご快諾いただきました。そこで『行動分析学研究』の 30巻第 1号、30巻第2号、続けて 31巻第 1号のそれぞれに京都セミナーの内容を解説論文として掲載していただくことになりました。そして最後に、今日行われているこの座談会の内容も機関誌に紹介することを考えました。中島先生に編集委員長が代わりましたので、中島先生にもぜひご協力いただいて、京都セミナーがきっかけとなって日本の行動分析学の今後の発展について考えられるような座談会になればと思います。京都セミナーの解説論文は、第 1回目が「実験空間を構築する」「変動性を実現する」、第 2回が「強化子呈示を自動化する」「行動パターンを記録する」、第 3回が「成人を対象とした実験のインスツルメンテーション」「子どもを対象とした実験のインスツルメンテーション」というテーマになっています。今日の座談会では、最初の 30分くらいを再確認フェーズという形にして、伊藤先生と藤先生からセミナー開催の目的について、そしてセミナーの内容を解説論文として出すことをどのように受け止めておられるのかについて、お話していただければと思います。そのあとフリートーキングにしたいと思います。ただし、私ども動物を使ってオペラント実験を行ってきた者からすると、現在の日本の行動分析学のあり方にちょっと問題を感じるところがあります。それは何か、またその問題をどのように解決していけるのか、それらについて話し合えればと考えます。つまり、京都セミナーが日本の行動

分析学の温故知新のきっかけになることを望んでおります。そして最後に今日のこの座談の締めくくりをしたいと思っています。インタビューではありませんので自由にお話していただければと思います。まず伊藤先生からよろしくお願いします。伊藤 今回の京都セミナー全 6回を企画した経緯ですけど、私たちが実験的な研究を行う場合、その研究テーマに必要な道具、つまり実験装置をそろえて、データを取ることになります。実は実験を実施するという行為そのものが行動をどう捉えるかということと密接な関係があるのです。実験装置を様々に工夫することは、単に技術的な問題を解決するというよりも、むしろ「行動とは何か」という、いわば「行動の思想」を反映していると考えられるのです。きっかけは浅野先生[浅野俊夫:愛知大学名誉教授]が日本における累積記録器導入の経緯について、Journal of the Experimental Analysis of

Behaviorに載せた論文です。それを機会に、日本の行動分析学の歴史もすでに 50、60年という時間を経ていますので、その経緯を掘り下げることによって、実験装置の開発と研究の進展が、不即不離の関係にあることをもう一度確認できればと考えたのです。高知で学会があったときに、浅野先生にこういうのをやってみたらどうでしょうという話を持ちかけたら、浅野先生も乗り気でやってみようかということで、藤先生にもお話をして、開催することになったのです。高知での学会は確か 9月でしたよね。藤 そうです。伊藤 そのあと、すぐに 6回分のセミナーのテーマを考えて、その年の 12月の初めに第 1回セミナーを開催しました。セミナーを年 2回開催としたのは、皆さんお年なので、1年に 1回開催だと6年もかかって、先行き不安なこともありましたので、短期間のうちに済ませてしまおうということでした。京都で開催するので、京都の秋と春を楽しめる時期に設定してみたということです。森山 ありがとうございました。それでは藤先生お願いします。藤 私が伊藤先生をはじめとしたこの京都セミ

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森山・伊藤・藤・中島:日本のオペラント研究の発展における実験装置の意義

ナーに関わった経緯を、私自身のバックグラウンドと合わせてお話してみたいと思います。私自身は最初から行動分析の教育を受けていたわけではなく、もともとはヒトを対象とした知覚の研究をしておりました。どのような共通項があったかといいますと、ともかく実験装置を作らなければいけない、という点でした。いわゆるインスツルメンテーションの問題で、ともかくこの問題を解決しないと実験ができない、という事情がありました。私が学生だった 1960年代末から 1970年代初頭の頃の立命館大学は現在とは違いまして、実験設備、施設、いずれもが非常に貧弱でした。伊藤先生や森山先生も、私とほぼ同世代なのでおわかりと思いますが、学園紛争の影響がまだ残っている時代でした。ですから、私が助手で着任した1975年の春でも、5 Vの直流電源もなかったような状況でした。そのような背景があり、ともかくインスツルメンテーションをきちんとしないと、実験も研究も先に進めない、という私自身の状況がありました。それから、伊藤先生がこの間のニューズレター

[2015年秋号 No. 80]にもお書きになってましたが、犬山市にある京都大学霊長類研究所の共同利用で、私は伊藤先生と時期的に重なる時がありました。そこで当時研究所心理部門の助手だった浅野先生から、集積回路、論理回路の設計を教わりました。そうすることによって、いろいろなインスツルメンテーションにおける設計の自由度が、非常に広がりました。あわせて、いろいろな装置を組むのに必要な機械要素やら何やら、いろいろと勉強したり身につけたりして進んできたわけです。こういった経緯があって、共同利用にも何回か採用していただいて、ニホンザルの動物精神物理学的実験もすることができました。このような背景があったところに、2010年頃に、立教大学の長田先生[長田佳久:立教大学名誉教授]が代表者となった日本における古典的な実験装置の保存に関わる科学研究費による研究班に参加する機会をいただき、日本の大学に残っているそういった古い装置を調査する機会がありました。ですから今度はインスツルメンテーションという、行動分析学で使用した基本的な実験装置

のルーツというような、装置として完成するに至った経緯にも関心が向いてきました。このようなタイミングで京都セミナーを伊藤先生が企画されましたので、これはぜひ私もと参加したという経緯がありました。自身の後から付けた理屈としては、自分自身の研究行動の三項随伴性といったことも考えられなくもないのですが、主観的にはモノを作ったりあるいは分解したり、あるいは少し大げさに言えば、その装置が科学史的にいってどういう由来で考え出されたのか、発明されたの

IC 回路を用いたインターバルジェネレータ(1975 年、藤 健一製作)第 4回実験的行動分析京都セミナー (2014.3.29立命館大学)当日の展示風景(撮影:恒松伸)

1974~1975 年に製作した ICを用いたインターバルジェネレータの回路図(藤 健一)第 4回実験的行動分析京都セミナー(2014.3.29立命館大学)当日展示

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行動分析学研究 第 31巻 第 2号

かというところに関心がありました。これが、このセミナーに私が大変親近感を覚える理由ではないかと思います。森山 お二人の先生のお話で共通する部分は、やはり実験的な研究を実施するうえでの道具と道具作りの必要性ということですね。その道具作りがどのようになっているのかということですね。道具によって我々人類が発展したというのであれば、道具と道具作りの歴史を知ることで人間を理解することができる、ということになるのだろうと思います。そのあたりがお二人の先生の共通する問題だったのだろうと思います。共通点はあるものの、一方が実験的行動分析の研究、もう一方は知覚研究、心理物理学の研究だったということですね。そのようなことでセミナーを企画なさったということはわかりましたが、セミナーのサブテーマである「実験空間を構築する」とか「変動性を実現する」、「強化子呈示を自動化する」、「行動パターンを記録する」、「成人あるいは子供を対象にした実験のインスツルメンテーション」といったように、セミナー全体を構築していく、あるいは展開していくときの要因についてはどのようにお考えになったのでしょうか。行動分析学の視点からすれば、なんとなくそうなるというのはわかるんですが。伊藤 行動分析では、反応率という極めて特徴的な従属変数を考案したわけです。反応率をどう記録したらいいのかというときに出てきたのが累積記録器です。そもそもオペラント条件づけ研究というのは、実験の自動化と切っても切れない関係があります。実験を自動化するという発想がなかったら、現在のオペラント条件づけ研究の装置類は、生まれなかったのではないでしょうか。実験の自動化が契機となって、動物の行動を、それまでの研究のように、試行という単位に区切って研究するというスタイルから、行動を試行という単位で区切らずに研究するフリーオペラントというスタイルに転換したわけですね。研究パラダイムが大きく変わったと言えますね。実験の自動化の重要な側面は、一つは反応の自動記録、もう一つは様々な刺激の自動呈示です。反応の記

録のほうは累積記録器になりますし、強化子呈示のほうは、自動給餌器になります。そこには強化スケジュール(間欠強化)の問題も含まれます。実験を実施するためには特別な空間を作ることが必要ですよね。それが実験空間の構築です。そして、実験空間とは、ヒトや動物が日常場面で接している環境を抽象化し、単純化して実現することですね。それが実験箱です。実験箱は、先に述べたように、行動の思想を具現化したものです。そういうふうに考えれば、「累積記録器」、「自動給餌器」、「強化子呈示の間欠性」、「実験箱」という 4つの要素は、それぞれ独立した一つのテーマになります。これらは、動物実験を中心とした研究の中で確立したものですけども、そのあとにヒトを対象とした研究も行われるようになっている。これも成人を対象とした場合と子供を対象とした場合に分けられるので、都合 6回のテーマは、すぐに思いつきました。森山 わかりました。道具は思想の具現化、それを意識なさって 6回のテーマについて着想なさったということですね。そして、それぞれのテーマについてお話していただける方がいたということも着想の背景にあったということですね。伊藤 ええ。そうですね森山 人選ということですが、古い世代の方だけではなく、結構若い世代の方でもそのような問題について語ることができることに私は驚きました。藤先生は、古い装置を再現するということを若い世代の吉岡さん[吉岡昌子:愛知大学准教授]と一緒にやっておられるんですね。それは、伊藤先生がおっしゃった「思想の具現化としての装置作り」という考えの一つのバリアントと思います。温故知新を問題にするとき、昔を懐かしむという感じで古い話を持ち出す年寄りの集まりを私は連想しますが、若い方々にセミナーで話をしていただいている。その人選について、伊藤先生はどのようにお考えになったのか教えてください。そして藤先生には、スキナーがオペラント実験箱や累積記録といった実験装置についてのケースヒストリーを語っているのをご自身が確認していく過程で、なぜご自分もそのような装置を作ろうと思われたのか、その理由についてお話してい

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森山・伊藤・藤・中島:日本のオペラント研究の発展における実験装置の意義

ただければと思います。伊藤 このセミナーは、オペラント条件づけ研究の足跡をたどることによって、オペラント条件づけ研究の本質的なものは何かということを、もう一回私たち自身が振り返ってみる必要があるのではないかという趣旨でした。私自身もずっとオペラント条件づけ研究をやってきたわけですけど、今、研究を行っている若い皆さんもそれぞれのテーマについて悪戦苦闘しているわけですよね。ですから皆さん自身の経験をこういうセミナーを機会にもう一度オペラント条件づけ研究という枠組みの中に置いて考えてみるという機会を作ったのではないかと思います。どうしても研究者は目の前のテーマのために一生懸命悪戦苦闘することになる。その悪戦苦闘していることが、研究の歴史の中でどう位置づけられるのかということは、なかなか思い至ることが少ないと思うんですよ。私自身もその通りで、無我夢中で目の前のあるテーマを一生懸命やってきて、自分の研究の歴史的位置づけをその都度改めて考えてみるという時間はあまりなかったのです。森山 目の前の弁別刺激と強化刺激だけじゃなくて、過去の行動履歴によって僕らの行動は影響を受けているはずなのにっていうことですね。伊藤 そうです。ですからこういう機会にもう一度、若い皆さんも交えて自分たちの行っていることをオペラント条件づけ研究という枠組の中で見直してみるという機会が作れたのではと思っています。森山 そういう意味で若い方を発掘したっていうことですね。ただ仕方がないのかもしれませんが、企画者である伊藤先生や藤先生のお弟子さん関係の方、関西の方々がちょっと多いかなって思いました。もちろん坂上先生[坂上貴之:慶應義塾大学教授]、丹野さん[丹野貴行:明星大学助教]、井垣さん[井垣竹晴:流通経済大学教授]も入ってはいますけど。伊藤 このセミナーを京都で開催しましたが、なぜ京都なのかというと、私自身が京都に住まいを移したということがあって、京都セミナーという名前をつけたのですけどね。そうすると、お金も

ありませんので、関西近辺の方々をお呼びすることになったのです。お金があれば全国からお呼びしたい方はたくさんいらしたのですけども、行動分析学会と基礎心理学会の研究活動助成金だけでは限界がありました。両学会からの研究助成金は各年度合計で 8万円でした。それを年 2回開催なので、1回あたり 4万円という制約の中で考えると、どうしても関西以外のところから人を呼ぶことが出来なかったのです。そうした金銭的制約があって、関西中心の人たちに声をかけたということになりましたね。森山 でも京都は良いかもしれないですね。最近はあまり言われなくなりましたが、かつてノーベル賞受賞者が京大出身の方が多かった頃、京都の町の狭さが理由の一つにあるのかもしれない、と言われたことがあります。藤先生もおっしゃってましたが、京都は意外と小さくてちょっとした飲み屋さんに入っても何人かの知り合いがいて、そこでいろいろな議論ができる。京都はそのような議論ができる場なのかなって思います。セミナーをするうえで京都はむしろ良かったのかもしれませんね。藤 伊藤先生はあまり強調なさってませんけれど、このセミナーの特徴は、モノを仲立ちとしているという点だと思っています。例えば、累積記録器、あるいは ICで組んだ回路、あるいはディスペンサー、こういうモノを取り上げた企画は、この京都セミナーが初めてではないでしょうか、これは、モノを仲立ちとして空間的な広がりを追及する、あるいは時間的に遡って 50年前、60年前まで遡るという作業を非常に容易にする設定だと思うのです。なぜ私自身が動作模型を製作したかと申します

森山哲美

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行動分析学研究 第 31巻 第 2号

と、作っているととても楽しくて、非常に強化的で飽きることもないんですけれども、理由は 2つあります。一つは、文献や写真、あるいは説明文からこういう装置を作ったとか使ったとかいうことがわかっても、その装置が本当にどのように機能したのか、動いたのか。普通はこういったことは論文には書かれていない。現に、スキナーの下降式累積記録器、傾斜箱のあの実験装置の説明図は有名です。その説明文を読むとなんとなくわかるのですけれど、本当に動くのか。そもそも、この疑問は当時立命館大学の PD

だった吉岡昌子さんがそういうことを言い出したので、私は多分こんなように動くのではないのかと説明したのですが、どうもなんか私自身が判然としないのです。そこで、模型を作ってみようということになって、工作室にあったベニヤ板やあり合わせの材料で簡単な工作をして、その模型を作ってみたのです。そしたら確かにきちんと動く。かったん、かったんとフィーダーの円板が間欠回転をする。この模型を使って説明すると、スキナーの下降式累積記録器の動作が非常にわかりやすく理解できるようになった。こうして動作模型を作ってみると、先行研究で使われている実験装置の構造がよくわかるようになり、その実験で研究者が何を重視したかが、大体わかってきました。私はこういった動作模型を一度徹底的に作ってやろうと考えて、Gerbrandsやスキナーのオペラント研究の初期の装置を中心に順次作ってみました。こうして製作した動作模型については、関西心理学会をはじめとしていろいろな学会で発表しては半ば呆れられ、またかというような顔しながらも発表を聞いてくださってますが、発表する側はとても楽しいので、そのような周りの評価に全然関係なく研究や発表ができるのは、幸せだと思っております。森山 オペラントの実験的研究では、被験体あるいは参加者の行動はオペラントの強化随伴性にさらされて高度な変容を遂げる。その変化を我々は見ることができますが、道具を作る場合には、道具を製作する者の行動がまさに短期間にそしてリアルタイムに強化随伴性にさらされて変容する。

道具作りにはそのような行動変容があるんだと思います。プログラミングをするときも実験装置を作るときも、製作者の行動はプログラムや実験装置の動作によって強化される。だから藤先生がおっしゃるように、装置を作ることは楽しいっていうことはすごくわかる。オリジナルな装置を作成した者の行動随伴性と同じような随伴性を、その装置の模型を作っている者の行動が受ける。そのような強化随伴性の共有によって、模型製作者は、オリジナル装置製作者の意図を理解するようになる、ということなんでしょうね。藤先生は、道具をお作りになる場合、作業の流れとして設計図をちゃんと作ってからなさるんですか。藤 そもそも、その論文に装置の記述があったとしても、図面も描かれていることは、まずありません。あったとしても、あまり鮮明ではない写真です。それを見ながら、ああだろうか、こうだろうかと考えながらスケッチをし直します。そうすると、構造的にこれは無理だというプランは却下していって、こういう構造ではないかというプランのうちで最も単純な構造のプランをスケッチに仕上げます。作る模型はスケールモデルではなく、装置の機能を再現するのが私の第 1の目的ですので、構造の見かけの形は違っていても同じように働くように簡素化します。それで、動作模型の構造は、一応こうであろうと決まったら、今度は図面を方眼紙に原寸大に起こしていって、それで部品を手配して組み立てていくという手順です。森山 そうすると、装置作りという行動そのものがルール支配行動でもあるし随伴性形成行動でもある。そのような意味で装置を作ってる者自身の行動が装置作製のための強化随伴性に直接的に触れていることになりますね。これがやはり物を作ることの面白さと関係するのかもしれませんね。装置製作者は、何かの意図のもとに装置を製作しているわけですから、伊藤先生が繰り返しおっしゃっているように、装置を製作することで、行動についての考え、行動についての思想を理解できるのかもしれません。そのように考えると、行動を理解するうえで装置作りは絶対に必要である

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森山・伊藤・藤・中島:日本のオペラント研究の発展における実験装置の意義

と言えるのかもしれませんね。装置を作るという行動と人間がものを考えるという行動は互いに関連しあっているのだと思いますね。

解説特集連載の意味

森山 ここで私がセミナーの内容を解説論文にして機関誌に投稿していただくことをセミナー関係者にお願いした理由について述べたいと思います。物議を醸すことになる事柄もあるかもしれませんが、お許しください。私が編集委員長だったとき、投稿された論文を読むと、行動分析を本当に考えて論文をお書きになっているのだろうか、と思うことが何度かありました。行動って何なんだろう、行動を科学するってどういうことなんだろう。そのようなことを本当に考えて研究して論文をお書きになったのかな、と思うような論文がありました。社会のいろいろなニーズがあって、それに応えるべく、たまたま行動分析的な技法でやってみた。そうしたらそれらの問題が解決した。そこで論文にした。つまり行動変容のための技法っていうのが公式化されていて、それを使って行動を変容させる。うまくいったので論文を書く。そのような経緯で論文をお書きになったのではないか。そのように思えることがたびたびありました。それはそれでもちろん重要な意味があると思います。しかし、行動とは何か、行動を科学するということはどういうことなのか、そのようなことを考えて研究することが重要なのではないかと考えました。研究法は重要ではありますが、そのような方法がどのような背景で生まれてきたのか、なぜその方法で効果があると言えるのか、それを考えながら研究する必要があるのでは、と考えたのです。行動分析学が発展していくためには、行動を科学する、そのためにどのような方法を開発するのか、その歴史的な経緯が理解される必要がある、と考えています。そのように考えていたら、伊藤先生と藤先生が京都セミナーをなさっていた。これは絶対にセミナーで終わらせないで文章化して、多くの人の目にとおしていただこう、後代の人にも伝えていこうと思ったわけです。これがセミナーの内容を解説論文にしていただいた理由で

す。先生方はそのような私の提案についてどのように思われましたでしょうか。伊藤 この京都セミナーを始めたときからセミナーとして終わらせるのはもったいないと思っていました。これだけの中身があるから、やはり何か文章化してきちんと論文として残していく必要があるのではないかということは、第 1回目のときから議論していたんです。その時に、森山先生のほうから、解説論文という形で掲載してはどうかというご提案をいただき、それは私たちが思っていたことでしたから、大変ありがたいし、意義があることではないかと思って、もろ手を挙げて賛成したのです。森山 ありがとうございます。藤先生はいかがですか。藤 私も、解説論文という形で記録にとどめるというご提案をいただいたとき、これはやはり行動分析学会からもいろいろと支援をいただいていたわけですから、会員に対する還元という意味があるのではないか。当時の森山編集長のこのご提案は、セミナーに関わった者の一人として大変ありがたく思っている次第です。森山 セミナーの解説論文は、行動分析家にとって行動分析を再認識するきっかけにはなればと思っています。これが行動分析家にどのようなインパクトを与えているのか、どんな弁別刺激として機能しているのか、そこらへんが問題ではないかと思うんですが、中島先生はどのように思われますか。解説論文という形で機関誌にシリーズ掲載されていますけれど、読者へのインパクトについてはどう思われますか? 編集委員長としてのお立場からどうでしょうか。例えば、ただページ数が増えて印刷代がかかるっていうようなことはないと思いますが、どうでしょうか。中島 森山先生がこのシリーズを機関誌に掲載されるというご決断をされました。編集長交代で、私が担当させていただいているのですが、機関誌編集の立場からすると、冊子の厚みも増しますし、その意味では非常にありがたいと思っています。また、行動分析学会では最近、基礎的な発表が少なくなっているように感じますので、機関誌にこのシリーズが掲載されることの意義は大きい

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行動分析学研究 第 31巻 第 2号

と考えています。基礎研究者は国際誌に投稿しがちですから、こうした形で機関誌に基礎研究の話題が掲載されると、会員にも基礎研究の重要性と歴史的な深みが伝わるでしょう。

世代間のギャップ

中島 私は先生方から十数年下の世代になります。我々の世代でも装置は自作していましたが、私が今指導している世代だと、装置を自分で作ることはあまりありません。そのため、かつてこういうことをしていたのだという記録としての意義もこのシリーズにはあると考えています。このシリーズにはいろんな世代の方が関わっています。例えば、若いところでは丹野さんや吉岡さんがいますね。このシリーズの企画・実施に際して、世代間のギャップを感じられたことはありますか?伊藤 おそらく私が大学院生の頃と吉岡さんや丹野さんが大学院生であった状況を考えると、ずいぶん違っていますよね。私が大学院に入った頃は、オペラント条件づけについて、わかっているような、わかっていないような混沌とした時期だったと思うのです。今から見れば、かなり違うやり方で実験を行っていたり、理解が不十分な状態で暗中模索的な形で研究を行っていたというのが私の大学院生時代の感じなのですけども。丹野さんや吉岡さんの世代の人たちは、そういう暗中模索というのはなくて、かなりカッチリとした研究枠組みができていて、その中で仕事をし

ている。そういう明らかな違いがあると思うのですね。それがそれぞれの研究にどう影響するのかは、また興味ある問題ですが、私たちは少なくともそういう暗中模索しているような状況からいかにして研究をしてきたのかという、その一端を京都セミナーの形で振り返ってみたということなのではないでしょうか。丹野さんたちの世代の人に、これから 30年後、

40年後に同じようなことをもう一度振り返ってやってもらえたらと思います。また、私たちが残したものと、そのあとの 30年、40年後の人たちが残したものとを摺合せてみれば、科学史、心理学史、オペラント条件づけ研究史などの一つの記録として、何かが明らかになってくるのではないかと思いますね。やはりそれぞれが置かれた環境が違えば、そこで経験することも違うわけですし、それはそれぞれ違っていて当然なのですけどね。でもその中にやはり何か共通項もあるのではないかという気はするのです。藤 世代についてギャップを感ずるかについてですが、行動分析とかあるいはオペラント条件づけとか、そういうことについては私はそれほど感じていません。一番大きく違うかもしれないと思うのは、行動分析学なり、学習心理学でもいいと思いますが、それを理解しようとするときに、本人がすでに身につけているか、あるいはこれから身につけようとしている他の学問領域のバックグラウンドが非常に狭まっているような印象を受けるのです。これは別に調査をしたわけでもありませんが、例えば動物学とか、あるいは生物学とか、あるいは進化とかあるいは地質というような、広い意味での自然科学や、社会、文化、そういう環境についての学問研究は非常に多様で多くの蓄積がありますが、そういった学問領域についての下地といいますか背景が、なんとなく細くなって薄くなってしまったように思われるのです。一方でテクニカルな知識については若い時からかなり身につけるような、そういう印象を私は持っています。しかし、一体自分の関心は将来どちらへ発展していくのかわからない、というのが若い時の一番大切なことだと思うのです。そもそも、その拠っ伊藤正人

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森山・伊藤・藤・中島:日本のオペラント研究の発展における実験装置の意義

て立つ基盤を整理してしまって、非常に限られたものにしていくと、進む方向を設定する自由度が非常に低下してしまうように、私には感ぜられるんです。そういう意味で、世代といいますか、時代の違い、これは広い意味で言えば、心理学の学部あるいは大学院教育に深く関わると思います。私の考えでは、行動分析を念頭においた人間だけがしようとしても達成できることではなくて、やはり心理学に関わる人間全体の知恵をそろえないと、細くなってしまうのではないかという気がします。ご存じだと思うのですが、国家資格の公認心理師制度が実際に動き出せば、学部と大学院、特に大学院だと思いますが、そのカリキュラム編成は、非常に大きな影響を受けるのではないでしょうか。そういったことが、同時に進行するだろうと考えてみますと、バラ色の未来というのを想像することは、今のところ私としてはいささか難しいような気がします。森山 世代のギャップは私も感じています。伊藤先生、おそらく藤先生もそうだと思いますが、私が初めてコンピュータを使ってオペラント実験の制御を行ったとき、UP8というミニコンピュータを使いました。それまではリレー回路で実験を制御していました。ロジックモジュールっていうのがあって、自分で配線をします。基本的に自分たちで何かを実験するというとき、リレー回路でやっていました。それが UP8でかなり実験の自由度が増して感動しました。紙テープでプログラムを読んだり、イベントレコーダーで反応を記録したりしました。そのとき電磁ソレノイドを使ったりしました。それが ICや LSI、そしてコンピュータへと発展することによって自動制御がどんどんやれるようになった。その過程を私たちは見ているわけです。そのような過程を見てきた者と、すでにそういうものができあがっているのを見ている人とでは、インスツルメンテーションへのアクセスビリティが違うのではないでしょうか。最近 Arduino

というのをやり始めましたけども、そのありがたさを満喫できるのは、インスツルメンテーションのヒストリーを知っている者だと思います。

私は学生たちにリレーの説明とか電源の説明とか、そういう指導を昔はしてたんですけど、最近はやらなくなりました。毎回、同じことを繰り返していることにうんざりしたからです。それでラタル先生[Andy Lattal:ウェスト・バージニア大学教授]に、どのようにしてインスツルメンテーションの世代間教育を行ってるのか、と尋ねたことがあります。学生が卒業したら、その学生が使っていた装置はそれでおしまいとなるケースがあったからです。研究室の文化としてインスツルメンテーションの教育がどのように行われているのか、ラタル先生に伺いました。彼は、一人の学生を指導して、その学生が他の学生を指導していると気軽に答えてたんで、ああそうですか、で終わってしまいました。

行動分析家の育成

森山 先ほど藤先生がおっしゃったインスツルメンテーションの教育の件ですが、今日の日本の大学の心理学科でそのような教育は行われていないのではないかと思います。また、エレクトロニクスの勉強だけでなく、行動生物学や行動生態学の勉強も行われていないのではないでしょうか?伊藤先生は、ハトの採餌行動の研究をなさって

おられましたよね。そのように行動についての幅広い知識を学ぶ機会がないのではと思います。生物学の知識も必要だと思います。つまり行動分析家としてスペシャリストでありながらジェネラリスト的な視点で行動を見ることができる。そのような行動分析家の育成が必要ではないかと思います。行動を理解するための多様な視点を学ぶ。そのような教育が必要ではないかと思うんですけど。私も藤先生と同じ考えですが、日本の行動分析については悲観的です。行動分析の限界っていうのかな、他分野から理解されにくい点の一つに言葉による行動の制御の問題があるように思います。言葉があるがゆえに行動が理解されにくい部分があるのではないでしょうか。人類が今抱えてる世界的な問題は行動の問題ですよね。テロや国際紛争、そして原爆の問題など。いずれも大きな問題ですけれど、それらが人間の行動の問題であるということがわかっている

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のであれば、行動を制御するという問題を行動分析家は本気で考えなければいけないと思います。そのとき私たちは、行動の制御を随伴性による制御ではなく、言葉による制御でなんとかなるのではないかと思うようです。でも、言葉による制御には限界があるように思います。本来であれば、そのような視点を行動分析学は他の分野に語れるはずなのに、他の分野からなかなかそのような考えが理解されにくい。その問題は、人が言語に頼りすぎることで起こっているのではないかと思います。言語で行動の問題を解決しようとする限り、行動分析は理解されない。その意味で行動分析の将来に悲観的になってしまいます。公認心理師のカリキュラム案が出ていますが、行動分析学は学部教育の選択科目となっている。大学教育で行動分析学が重要視されない状況で、どうして行動についての幅広い視野を持つ行動分析家が育つのでしょうか。議論を思わぬ方向に展開させてしまってすみません。伊藤 今のお話に関連して大事なことがあると思います。私たちは心理学という学問領域のなかで研究しているわけですね。私自身の体験を振り返ってみても、行動分析学という学問を勉強する以外に、周辺の心理学の他の分野を勉強してきたことが自分の行動分析学の中のテーマを取り上げるときに役に立っているわけです。例えば、知覚分野の心理物理学の勉強をしましたけどね。自分の書いた行動研究の論文の中には、心理物理学の発想がちゃんとあるのです。森山 ステッビンス[W. C. Stebbins:ミシガン大学名誉教授、故人]とかですね。伊藤 そうですね。主観的等価点を測って、そこから議論するのは、心理物理学の根本のところです。行動分析学だから行動分析学の勉強だけをすればいいのかというとそうではなくて、幅広く心理学の様々な分野を勉強することがこれからも必要なのではないかということと、もう一つは、心理学以外の生物学とか、あるいは数学とか、他の学問分野のことにも関心を向けて、そこから様々なことを学ぶ必要があると思います。両方必要だと思うのですよ。そのことによって行動分析学の研究も変わっていくと思います。

森山 スキナー自身も物理学と文化人類学の学びの必要性を主張しました。伊藤 だから、僕自身はそんなに悲観的には思っていないのですけども。そういう教育をそれぞれの大学、教育機関がやっていかないと、それこそ狭い分野のことしか知らないということになってしまいます。それでは、行動分析学の発展もないと思うのですよ。やはり周辺の分野を幅広く勉強するような仕組み、カリキュラムを考えていく。そして、大学院生のレベルになったら自分自身でも勉強していかないといけないのではないかと思いますけどね。

基礎と実践

森山 私が大学院生の頃、心理学、特に実験系ではそのような教育が行われていたと思います。今の学生の関心は実践家への志向が強いように思えます。実践家と研究者の関係について、スキナーはシュバイツアーについてコメントしています。シュバイツアーは医者としての実践活動よりも熱帯医学の研究をすべきあった、と。それによって多くの人々を救うことはできたはずだ、と。もし彼の提案を行動分析に当てはめて考えた場合、行動分析の実践をしている人は、行動分析学の研究(おそらく基礎的な研究)をすべきだ、ということになります。スキナーの主張は極端のように思いますが、でも大切な考えではないかと私は思います。つまり実践家として仕事をしながらも基礎的な研究を行うことは大切ではないかと考えます。そのことは、今問題にしている幅広いバックグラウンドを持つ行動分析家ということだろうと思います。そのようなサイエンティスト・プラティクショナー・モデルのケースは、例えば、Behavior

Analysis in Practiceのような雑誌に掲載されている論文を読むと見つかります。行動分析の実践家の人たちに行動分析学の基礎研究の知見をできる限りわかりやすく解説している論文が結構多く掲載されています。そのような試みは日本でも必要だと思います。Behavior Analysis in Practiceのある巻にチーフエディターが、「実践活動をしながらも、実践家は、論文を読み、学会に参加し、学

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会で研究発表し、論文を書くべきだ」と記しています。けれど多忙な実践活動をしながらそのような研究活動を行うことは難しいのではないでしょうか。だからこそ、行動についての幅広い視点の教育は必要だと思います。日本の行動分析の実践家の方たちに、行動についての幅広いバックグラウンドを持っていただく方法はあるのだろうかと思いますが、先生方はどう思いますか。中島 実践家で基礎研究者といえば、ナイチンゲールがそうですね。ナイチンゲールは夜通し患者さんのところを回ったという逸話だけが伝記で取りあげられることが多いですが、彼女は優秀な統計学者でもあって、不十分な看護で多くの傷病兵が死んでいるという統計データをもとに国に訴えて、それでずいぶんたくさんの人の命を救ったようですね。スキナーはナイチンゲールみたいなことをシュバイツアーに要求していたのでしょうか?森山 私は、ナイチンゲールの「看護ノート」をちょっと読んだことがありますが、彼女の看護実践に対する視点は、看護環境を重視しているという点で行動分析的ですね。伊藤先生はどう思われますか。伊藤 今のお話で言えば、特に私たちは基礎の研究を中心にやってきましたので、それは強いです。そういう基礎研究の上に応用的なものが成り立っているということを、私たちとしては当たり前のように思っていますけども、現実にはそうではないということですね。それは、大学教育の中で基礎研究の部分は一定程度きちっとトレーニングをする、そういうカリキュラムを作ることが必要ではないかと思うのですよ。森山 なるほど。でも、基礎をやった方が大学で指導することになれば、そのような主張はできると思いますが、基礎的な研究をまったくなさっていない方が大学で指導することになると、基礎のウエイトは弱められるというようなことはないでしょうか。伊藤 それはあまりよろしくない。実践家になるにしても、大学としては、実践家養成と言ったら専門学校と同じになるので、大学とは何ぞやという原点に立ち返れば、やはり大学で学ぶのは、サ

イエンスの枠組みで物事をちゃんと考えますということだと思うのですよ。単なるテクニカルなことを学ぶのではなくて、それだけだったら専門学校でいいわけですからね。大学で学ぶことの意味はそうではないということを大学教育に携わる人はもう一度考えてみる必要があると思います。森山 藤先生はいかがですか。藤 伊藤先生は、大学教育のデザインについて、かなり危惧をお持ちだろうと思います。私も大学のカリキュラムの編成については、その時々の、あるいはそれぞれの大学のいろいろな事情で左右されることが非常に多く、不確定な要素が多いと思っています。もし、日本行動分析学会がこれに関わるとしたら、学会の機能の一つとして、伊藤先生が指摘されたようなことを、学会のいわゆるワークショップやセミナーなどの、フットワークの軽い企画を年に複数回、しかもそれも東京や大阪だけではなくて、参加者がそれほど見込めなくてもいいですから、日本のあちこちで行うような機会を提供することが、学会の重要な機能の一つだと思っています。例えば、それを 10年間程続ければ、実践家として活躍されてる方々のある部分に、違う視点とか、あるいは考え、あるいは行動分析学が非常に大切と考えていることを再認識する機会を提供できるのではないかと思います。森山 「冬の学校」もそのような取り組みの一つのだと思いますね。若い人だけでなく、基礎的な研究についてのトレーニングを受けておられない、いろいろな世代の方にも、そのような機会は

藤 健一

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必要だと思います。インスツルメンテーションの話に戻りますが、この前、吉岡さんが中心になって Arduinoの講習会を開きましたね。あのようなインスツルメンテーションの講習会は初めてではないでしょうか。基礎の研究で一番やりやすい部分はインスツルメンテーションだと思います。先に申し上げたように、モノを作るという研究者の行動は、直接的な強化随伴性を受けやすいと思います。私たちの世代は、基本的に自分たちでインスツルメンテーションの勉強をしましたが、そのような教育がいろいろな研修で実践されるのは必要なのではと思います。この実現可能性についてはどのようにお考えですか。中島 基礎心理学会もそういうふうに若手に向けて非常に支援しています。多くの学会が若手を支援していくことは好ましいことだと思うのですが、その反面、そこまでしてあげる必要はあるのだろうかという印象も持っています。森山先生もおっしゃったように、先生方の世代は、そうした制度的な研修がなくても行動を自発していたわけですよね。個人的な話ですが、私は大学院時代、徹夜で

300箇所くらいはんだづけした回路基板を、先輩に見せに行ったら、一瞬のうちにソルダーアシスト[はんだ工作で電子部品を抑えたり外したりする棒状工具]ではんだ箇所をピピピッてすべて外されたことがあります。きちんとやったつもりだったのですが、全部、不十分な「芋はんだ」になってたんですね。そのときは衝撃で体が固まってしまいました。その後、「はんだづけしたら引っ張って外れないことを確認する」ということを何度も繰り返していたら、正しいはんだづけ技術を身につけることができました。随伴性形成行動です。しかし、もし今、学生が自作基板を私に見せに来たとして、私がすべてピピピってやったら、これはかなりの罰になってしまうと思います。森山 やめてしまうでしょうね。中島 かつてはそういう直接経験で技術を身につけいたわけですが、現在では非常に体系化されて、親切で丁寧な研修があって、学会が金銭的補助もするという形ですね。伊藤 経験が重要だというのは非常に強く思うの

です。自ら様々なことを経験することによって、それをもとに自分で何かをしていく、自分で試行錯誤して、もがいていくうちになにか身につけていくのか、あるいはもうすでにお膳立てされているところでやるのかという話ですよね。でも、それは時代が変わればそういう体制みたいなものも変わっていくので、それは仕方がないかなという気もする。中島 やはり学ぶことが多くて時間がないからでしょうか。昔みたいに時間がたっぷりあるわけではないので、はんだづけだけで何日も苦しむなんてことはできないということでしょうか?伊藤 コンピュータが身近でない時代に実験を行うとしたら、自ら集積回路、論理素子のことを勉強して、自分で回路設計して、はんだごて持って論理素子を実装した基板を作らなかったら、実験できないわけですね。それは、先のニューズレターのインタビュー記事にも書きましたけども、「必要は発明の母」で、そういう必然性があったら得意だとか得意でないとか言っていられないわけです。今では、コンピュータのプログラミングの知識があれば、ある程度自分の研究ができるわけです。その時代時代によって何が必要とされるかは、少しずつ変わってくるわけですね。それをどうやって学ぶかっていうことなのだけれども、今はいくらでもテキストがあり、書店に行けばプログラミングの本がいっぱいあるわけだから、あとは自分で選んでやるだけですね。

オペラント条件づけ

伊藤 この京都セミナーを通じて言えることは、あの時代にあそこでこういうことをやったことが結果的には自分の研究者としての道筋を作ったのだと改めて思います。今から 40年以上前の霊長類研究所心理部門という場所が、私にとってはすごく大きな転機というか、あそこで浅野先生から集積回路のノウハウや、オペラント条件づけの考え方を学んだこと、また、そこでファンティノ教授[E. Fantino:カリフォルニア大学教授、故人]やレイノルズ教授[G. S. Reynolds:カリフォルニア大学教授、故人]と出会ったことが、その

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後、様々な形で自分の研究の中に生きているわけです。これは余談ですけど、時々、霊長類研究所の夢を見るのです。最近見た夢は霊長研が「恐竜研」になっているという夢でね。それはすごく怖い夢ですよ、恐竜がいるのですから。森山 恐竜の行動実験ですか?伊藤 恐竜研ですもの。オペラント条件づけを用いて実験を行うわけだけど、ニホンザルを相手にするときには恐怖感はないですが、恐竜を相手にしたときはすごい恐怖感でね。股間が縮まるぐらいの夢でしたけどね。これは夢だ、夢だと思って目が覚めました(苦笑い)。中島 伊藤先生、それは『ジュラシック・ワールド』では? クリッカーを使っていましたね。強化子としてではなかったですが。伊藤 あの映画を見たときに、恐竜をオペラント条件づけで調教するようになったのだという感慨がありました。霊長研の心理部門にいたことは私にとって非常に大きな経験だったのですが、それは今の若い人だって、自分の経験の中で誰かと知り合ったということが大きな影響を与えるということがあるでしょう。森山 伊藤先生がちょうど霊長研におられたとき、私は、渡辺茂先生[慶應義塾大学名誉教授]と小美野先生[小美野喬:明星大学名誉教授]とで車で東京から出かけました。萩原先生[萩原滋:慶應義塾大学名誉教授]がドライバーになって。霊長研で伊藤先生が、サルに向かって「行けっ!」って言われたとき、そのサルが飼育ケージからオペラント実験箱にきちんと入るんですね。伊藤先生の言い方はとても冷たかったけれど。あのときのことはよく覚えています。伊藤先生、そして立教の堀先生[堀耕治:立教大学教授]が、慶應の医学部の生理学教室で時間知覚の研究をした後に、私は刻印づけと突然変異マウスの学習実験を生理学教室で行いました。生理の先生たちは、伊藤先生のことをめちゃくちゃ褒めていました。私が行ったとき、伊藤先生はおられなかったけれど、実験のインスツルメンテーションのことで生理学教室の高坂先生[高坂新一:国立精神・神経医療研究センター神経研究所・名

誉所長]が伊藤先生のことをめちゃくちゃ褒めていました。後輩である私には、それがすごくプレッシャーでした。心理の人が生理学教室で研究して、生理学の人にまでもインパクトを与えることができた。行動の神経生理的機序が研究されていたのだから当然だとは思いますが、それは、やはり行動分析学の力だと思います。研究課題がいわゆるレスポンデント的な課題であったら、生理学の方々にそれほどの感銘を与えなかったのではないでしょうか。オペラントの研究だったから、そして、インスツルメンテーションをきちんとやればオペラント行動をきちんと理解できる、それを伊藤先生が生理学の先生に示されたから、彼らが大きな影響を受けたのだろうと思いますね。だから、そのような先生や先輩の影響を、教え子や後輩は受けるのだと思います。それは今でもそうだと思います。今回、京都セミナーの内容を解説論文にしていただいたのは、そのような理由があるからです。原点に返って行動を生で理解する。それは、まさに研究環境の随伴性に研究者の行動がさらされるわけです。レディメイドのオペラント実験箱で実験する世代と、自分でそれを作って実験した世代とでは、やはり研究行動の随伴性は違うはずです。どちらも意味はあるのでしょうが、やはり実験装置の作成に関わる直接的な随伴性の影響は必要だと思います。しかし、今の若い人たちに、自分でオペラント実験箱を作ったり、フィーダーを作ったりすることを勧めても、彼らがそれに同意してくれるでしょうか。おそらく中島先生もそれを問題にされているのではないでしょうか。レディメイドのオペラント実験の代表格であるSniffy[ラットのレバー押し実習シミュレーションソフトウェア]に私がそれほど感銘を受けなかったのも同じような理由からだと思います。伊藤 Sniffyは私も条件づけできません。森山 バージョン 2でね、やってみましたたけれど。まあ、そういうことです。伊藤 大きな欠点がありますね。あの仮想空間上のネズミは絶対に飽和しないということ。現実のネズミは飽和していくわけですよ。100強化もしたらおなか一杯になってきて、ネズミはちゃんと

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やらなくなる。仮想空間上のネズミは飽和しないわけだから、全然やり方が違うわけです。私が今までオペラントコンディショナーとして、ハトやカラス、ネズミ、それにニホンザル、アカゲザルの反応形成を行ってきた技術・経験をもってしても条件づけできない。何回やっても。森山 浅野先生が、研究における随伴性の重要性について書いておられます。サルの自動給餌装置のところだったか正確には覚えていないですが、ルールに基づいて、ここはこうやってこうやるといった研究ではなくて、やっぱり随伴性にさらされなきゃいけない、と。学生が、教科書に基づいてオペラント実験箱を使ってこのような強化スケジュールで実験をやると、このようになりますよって言われた。そのルールにしたがって研究した学生は、本当に行動の研究を面白いと思うのでしょうか。しかし、中島先生が言われたように、はんだづけを徹夜でやったけれど、全部「芋はんだ」だったといった経験に、今の人が耐えられるのだろうかと思いますが、藤先生、いかがでしょうか。藤 立命館大学の心理学のカリキュラムには動物を扱った実習科目もあります。人数はもちろん限られますけれども、ハトを一羽一羽渡して、キーつつきの訓練、それから体重測定とか、毎日の世話、それも全部させるという実習科目があるのですが、それは半期単位で比較的長期に実習ができます。ですから、その実習では、まずオペラント条件づけの基本的な概念の説明などをしますが、

その後は学生にハトを渡して、ハトをケージからどうやって出すかというところから始めて、体重を計って健康状態をチェックして、というようなことをずっとさせます。そのうちに実際のオペラントの訓練に入りますが、最初のうちは彼らも要領がわからなくってなんとなく頼りないのですが、ハトに対する関わり方が徐々に変わってくることと、ハトのほうが実験室でのキャリアが長いので、学生よりもハトのほうが経験積んでいて、学生の下手な扱いは全然受け付けなくて、学生たちはつっつかれたり、羽でたたかれたりしてるんですが、だんだん学生たちもハトの扱いに慣れてくるのに同期して、ハトのほうの振る舞いも変わってくる。そうすると、学生にとってはやはりそれは非常に強化的です。それで実際のキーつつきの訓練に入れば、ハトの反応も徐々に変わってきます。そうすると学生自身の行動が変わってきて、つまり、行動をコントロールするということは、環境をきちんと理解することだと、そのくらいはレポートに書くようになります。今の状況では残念ながら一斉に 20人も 30人も実習することはできない。しかしながら、実習した学生がそのような随伴性にさらされて、行動を理解するということはどういうことなのかを、半年くらいかけて理解を深めて行ったように思いました。ですから、この点は私は悲観的ではありません。中島 私は最初、Sniffyが苦手だったんですが上手になりました。私の勤務する関西学院大学の総合心理学科では、2年生全員に Sniffyをやらせています。あれは攻略法のあるゲームなんですね。私は、Sniffyは心理学専攻生に動物を使った学習心理学研究や行動分析学的研究を知ってもらうための道具に過ぎないと考えています。だから、Sniffyで上手にラットシェイピングできても実際にはうまくいかない。ゼミの学生でも、動物実験で卒論やるときに「やっぱり全然違いますね」っていうことが多いですね。「Sniffyのほうが楽でした」っていう学生と、「Sniffyよりも簡単でした」っていう学生がいます。ラットには個体差があるので、すぐにレバーを押すラットにたまたま恵まれるかどうかということもありますが、それだけではなく、随伴性が違うのだろうと思います。

ラットのレバー押し訓練シミュレーションソフトSniffy開発者 Tom Allowayトロント大学名誉教授の許諾を得て下記サイトから掲載http://www.erin.utoronto.ca/~w3peel/sniffy/exer2.htm

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Sniffyの場合にはコツを掴むと、極端な話、行動をあまり見なくても反応形成できるけれども、実際のラットの場合は行動をじっくり見ながらやらないといけない。これは違うスキルです。ただ、Sniffy自体は私も必ずしも悪いことではないと思っていて、全員が実際の動物を使って実験できるわけではない。先ほど藤先生がおっしゃっていた通りです。心理学専攻生で行動分析学以外の専門領域に進む人も、あるいは一般社会人になる学生にも、Sniffyで実習することで、こういう研究分野もあるんだ、こういうふうにシェイピングしていくのだということを知ってもらう道具として私は役に立つな思っています。森山 実際に動物で実験をやる場合も Sniffyでやる場合も、どちらも結局やってる者の行動がそれらによって制御される、その点ですごく重要ですね。動物実験の倫理的な問題を考慮すると、Sniffyの利用価値はあるでしょうね。藤先生がおっしゃったように、何十人もの学生にオペラント条件づけを理解してもらうには、Sniffyの役割はあると思います。しかし、今回の京都セミナーの主眼というのでしょうか、行動の理解には、やはり装置を使って生の行動を調べる実験が必要だと思います。エプスタイン[R. Epstein:スキナーの晩年の弟子]がコロンバンシミュレーションプロジェクトで語ってるように、人工知能の研究も意味があるかもしれないけれど、地球上の生命の長い歴史の中で培われてきた行動を理解するには、有機体を使ったシミュレーション実験には特別な意味があると思います。エプスタインが提言した問題と同じ問題が、Sniffyを使った実験と、実際のハトやネズミを使った実験との間にはあるのではないでしょうか。実践家の方たちには、この問題はどのように受け止められているのでしょう。言い方は悪いけど、基礎的な研究をしている人たちが動物実験をやったり、実験装置を自作したりしているのは、趣味で面白いからやってるのでは、と思われているのではないでしょうか。実践現場では、そのような悠長なことはやっていられない、と。実際、実践家の方たちにとって、動物実験やインスツルメンテーションの問題はどのような意味を持つの

でしょうか。それについて先生方はどのようにお考えですか。

インスツルメンテーション

藤 私の考えでは、実際の臨床とか実践の現場においても行動を考えるうえにおいて、環境上のいろいろな制約とか問題とか、それらは必ずあると思います。ただ、それが何が問題なのかということが、わかりづらいかも知れません。ですから何がわかりづらいのかということを見つけ出す一つの枠というのは、もし行動分析学の考え方に則るのであれば、それは三項強化随伴性、環境を考えるという形で見ていくことになると思う。それが一つ。もう一つは、では今度は具体的問題点がわかったとして、今度はそれを解決する方法はいろいろあると思うのです。工学的に解決する場合もあれば、組織を改善するとか、いろいろ方法があると思いますが、この第 2の段階において含まれている問題は、今回この座談会で取り上げられた京都セミナーが言及しているような、インスツルメンテーションの問題の中のある部分を間違いなく含むと、私は思います。言い換えれば、古いインスツルメンテーション、装置であろうが、最新式のものであろうが、やはり環境との関わりの中で、そこにそれがどうしても必要であるという、それによって実際に実践の場にいる方が直面している問題のすべてではないにせよ、ある部分は解決できるのではないか、という気がします。しかし、何が問題なのかを見抜く過程と、問題点に対して実際に介入するという過程とは、別のことだと思います。つまり、この 2段階があるうち、インスツルメンテーションは後者の過程に相当すると思っています。伊藤 今回の京都セミナーの内容を解説論文という形で出したのは、具体的にはディスペンサーをどう工夫したかという話ですけども、それをもっと一般化して読者のほうは受け取ってもらったら、藤先生がおっしゃったように、各人が直面している問題を解決する時の手掛かりにきっとなるはずだと思います。森山 それはまさにそうですね。伊藤 一般化して受け取っていただきたいと思う

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のですよね。森山 それは大事なことですね。それがないと、なんのためのインスツルメンテーションなのかわからなくなってしまう可能性がありますね。世代が違ったり、立場が違ったりするとなおさらです。せっかく先生方がインスツルメンテーションの解説論文をお書きになっても、読者からすれば、これは昔の装置の話だね、と簡単に片づけられてしまう可能性がありますね。伊藤 そうではないということです。この中には、研究していくときに直面する問題を、どういうふうに解決していったらいいかという普遍的な問題が含まれていて、それを歴史的にもう一回振り返ってみる。そのことによって今の現場にいる人たちにも、基礎研究をやっている人たちにも、同じような共通の問題として理解できる。このように解説論文を読んでいただければ、京都セミナーを開催し、そしてこういう形で文章化したことの意味はあるのではないかと思いますね。森山 行動に随伴する結果の中には直接的なものもあればリモートフルなものもある。私たちは、とかく今現場ですぐ役立つ結果、すぐ行動の問題が改善できる結果にどうしても目が向きがちになると思います。行動に及ぼす行動の結果を理解するには、やはりインスツルメンテーションは重要だと思います。何のためのインスツルメンテーションか、と言われたなら、伊藤先生がおっしゃった通りだと思います。私たちが、行動の即時的な結果だけに目を向けるのではなく、リモートフルな結果、もっと一般化できるような結果に目を向けるようにするためにインスツルメンテーションがあるのだ、と。インスツルメンテーションによって行動を観察測定記録して、そして行動と環境のファンクショナル・リレーションシップを理解する。そのような研究行動のリモートフルな随伴性にも目を向けていく、そのためのインスツルメンテーションであるということを理解する必要があると思います。しかし、私たちは、とかく今この瞬間の随伴性が気になってしまう。今が良ければそれでいいという。今問題にしている行動を見るには、古いインスツルメンテーションでは役に立たないと思ってしまう。時代の変遷とと

もに開発されてきたインスツルメンテーションが何を見て何を問題にしてきたのか、それを理解することが大事だと思います。インスツルメンテーションの発展によって、私たちの行動も変わる。その関係を見る必要がありますね。中島 森山先生のご懸念通り、インスツルメンテーションの成果だけ見てたらそうですね。ただ今回の解説シリーズについては、行動分析学会の会員であれば一般化することができると思うんですよ。それはむしろ臨床とか現場の方のほうができるかもしれないなと思っています。スキナーがスキナーボックスを考案した経過を記した論文“A Case History in Scientific Method”は、まさしく事例報告(ケースヒストリー)ですよね。臨床の方は事例報告を読むときに、自分のケースとは違ってるけど何かヒントがあるんじゃないかなと思って読んでいるんだと思うんですね。ですから、「あ、これ動物の話だ」とか、「機械装置の話だ」っていうことで読むのを拒否せずに、発想の転換だとか、ちょっとしたコツといったところに目が行くと、そこから自分が現在困っていること、例えば学校とかコミュニティーでの問題解決にも役立てることができるのではないかと思います。スキナーのこの論文は American Psychologist

に掲載されているんですよね。つまり読者の大部分は実験的行動分析以外の人です。今はもうほとん ど が そ う で す け ど 当 時 で も American

Psychologistを読んでる読者の半分以上は、多分現場の人が多いと思うんです。そういうジャーナルに掲載されたのは、そういう人たちにもメッセージがある程度伝わるからだと思うんですね。

中島定彦

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現在の行動分析学会は現場の方が非常に多いので、機関誌にインスツルメンテーションの解説特集が組まれていると、最初は「あれ、なんだろう」と思うかもしれません。しかし、3回も 4回もシリーズ掲載されているので、その意味はメッセージとして伝わるのではないかと期待しています。森山 そうですね。行動分析は、他の心理学と違って行動のヒストリーをかなり重視しているわけですから。日本行動分析学会設立の 10周年、20周年、30周年のそれぞれのときに藤先生は学会の活動を必ずまとめておられるのもケースヒストリーですね。そうであれば、インスツルメンテーションのヒストリーの問題は、『行動分析学研究』を読んでおられる方、とくに応用の方にはきっと受け入れられるものだと思います。森山 行動分析のヒストリーをあまりご存じでない方に今回のセミナー解説論文を読んでいただいて、どのように思われたのか知りたいですね。出した側が「解説論文出ました、それでおしまい」では、京都セミナーを企画された伊藤先生や藤先生の意図は理解されないのではないでしょうか。伊藤 こういう解説論文を、例えば、大学のゼミで教材として取り上げてもらうというのが一つの解説論文の使い方じゃないかと思います。会員の方に読んでいただくのがそもそも学会雑誌ですけども、それをゼミの教材として使うことによって、ここに書かれたことの理解がより深まる可能性があると思うんですよ。学会の大会のシンポジウムで、これをさらにまた解説するような企画というのも必要なのではないかな。ここに載せたからそれでもう終わりというのではなくて、これを土台にしてまた繰り返し解説していくという機会を学会自身が作っていくことが、解説論文に書かれた中身をほんとに理解してもらうためには必要ではないかという気がしますね。

行動分析学の今後

森山 最後に先生方にお聞きしたいことは、行動分析学の今後の発展の問題です。これからの行動分析学を考えると、行動に対してこれまでとは異

なる見方が出てもおかしくないだろうし、専門用語を違うものにしてみるとかすることも必要でしょう。それも行動分析学が果たすべき役割だろうと思います。しかし、行動分析学に対する偏見と誤解はなんとか解決していかなければならないと思います。よく言われるのが、行動分析学が明らかにした「行動の原理」に対する世間のとらえ方です。「そんなの当たり前だよね」というとらえ方です。また、基礎的な研究、特に動物を対象にした研究に対しては、「そのような研究をして何になるの」といまだに言われます。学問の発展において「無用の学問の用」つまり、use of

useless studiesというのがあると思うのですが。動物の研究の場合、医学、薬学系でしたら世間の方たちはその必要性を理解してくださるとは思いますが、心理学で、しかも行動分析学でとなると、そうではない。「そういう研究やって何になるの」と言われる場合がいまだに多い。話が戻るかもしれませんがそのへんはどうでしょう。今回の解説論文が果たす役割はそこにもあると思いますが。伊藤 一般の人はまずこういうものを目にすることがないわけで、解説論文の内容が一般の人の認識にどこまで、届くかわからないですけども。今、「心」というものについて人々が持っている考え方は、長い歴史のなかでデカルトの「心身二元論」を受け継いだ考え方だと思います。だからそういう考え方をどう乗り越えていくかということです。そのことは行動分析学を学ぶ人たちにも考えてもらわないといけない問題だし、哲学の世界でも、今さら「心身二元論」はもういいのではないかという議論もあるわけですけど、それが一般社会の中には聞こえてこないですよね。でもそれぞれの分野でデカルトの「心身二元論」を乗り越える様々な試みを行っていかなくてはならないし、それは心理学の世界でもそうだと思うのです。森山 哲学についてよく知らないのですが、デカルト以来の西洋哲学の限界は、すでに西洋社会において指摘されているのではないでしょうか。デカルト先生は解析幾何学を確立させたという点で素晴らしいけれど、心の見方という点では、悪し

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き影響、メンタリズムの根源と言えるような見方を提供しているように思います。私が先生方に相談したいことは、日本の行動分析家は世間とどのように関わればよいのか、ということです。応用行動分析といっても、今のところ日本では発達に障害のある方たちへの支援に限られているように思います。最近は認知症の問題にも取り組んでおられますが。アメリカの行動分析学会のように、世界全体のサステナビリティーを考えるレベルにまで日本の行動分析学研究は達しているようには思えません。テロの問題や政治の問題、あるいは心の問題に世間の人は敏感です。そのような人に日本の行動分析学がどう応えていったらよいのか。特に心の問題への行動分析学の取り組みにはやはり世間からの反発があるわけです。世間の人はメンタリズムの言葉に慣れ親しんでいます。そのような言葉で行動分析家が世間の人に行動を説明していかないと、世間から行動分析学は受け入れられないということがあると思います。行動分析家が行動分析のタームで行動を説明しても、世間の人からは拒絶されて、その説明が理解されることはむずかしい。行動分析家であっても、世間で使われている言葉、心理主義的な言葉で語らなければならない場合があるわけですよね。そうすると、語ってる本人がだんだんメンタリズムに傾いていってしまう可能性がある。そこの微妙なバランスをどう行動分析家は保ったらよいのかという問題があるのではないでしょうか。私が先ほど日本の行動分析学の将来に悲観的であると語ったのは、日本の行動分析家が言葉で人間の行動の問題を解決していかざるをえない現状に直面しているからです。言葉は構成概念であって、概念は、概念を語ることはできても、概念で語られている事柄が実際に存在しているかのごとくにしてしまう機能を持っています。そのような問題に日本の行動分析家は考えを巡らせる必要があるのではないでしょうか。私は、日本の歴史的風土には、日本人が実用主義的な考え方に慣れ親しむ土壌があるのではないかと思います。そうであれば、行動分析家がメンタリズムのタームを使ったとしても、その実用的な意味は西洋人と比

べて日本人のほうが素直に受け入れてくれるのではないかと思います。そのような意味でも日本の行動分析家は世間と関わる必要があると考えます。問題は、そのときにどういう言葉を使うかということになるかと思います。伊藤 表面的には心的用語であっても、それをきちんと行動的に定義しながら使うことが必要でしょう。森山 その問題です。伊藤 それは常道的なやり方ですよね。森山 世間の人は行動分析家の言い方を強化してくれるかどうかということです。行動分析による行動の説明だと、説明が長くなってしまう。それで、かえってわかりづらいって言われることになるのではないでしょうか。「責任」とは何かと世間の人に尋ねると、辞書的な説明か、あるいは責任があるとかないとかなんて、なんとなくわかるじゃないか、といった回答がありそうです。行動分析家が「責任」を説明する場合、どういう場面の、人のどういう行動に対して責任があるとかないとか私たちが語るのか、それを分析すると主張するでしょう。その場合、いろいろな場面で使われている「責任」と呼ばれる行動をやはり抽象化して一般的な言い方にするかもしれません。その時点で、世間の人は、自分たちが普段言ってる責任と同じ説明ではないか、と言われるかもしれません。なんでわざわざそんな回りくどい説明をしなければならないのだ、と言われるのではないでしょうか。伊藤 スキナーが、あえて日常的な言葉を使わないで、わざわざ「強化随伴性」という言葉を使ったのは、日常言語の中にあるメンタリズム的なものをできるだけ排除したいという考え方ですよね。新しい用語を使って具体的な問題を解決することに、これだけ効果的ですよということを示していくことによって、その新しい言葉が定着してくる。そういうプロセスもあると思うんです。森山 なるほど、オペラントとかレスポンデントという言葉も、もともと英語の辞書になかったのが、今はありますからね。伊藤 だからそれは両方のアプローチがあるということですよ。メンタリズム派と違う用語を使っ

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て、この現象をこんなふうに解釈できますということを示したら、その言葉が新しい言葉として定着していくでしょう。逆に、さっき言ったように、同じ心的用語を使いながら、きちんと行動的に定義して使っていくと、その言葉が定着するでしょう。森山 そうすると、行動を説明する用語を作るというのも、ある意味でインスツルメンテーションになりますね。つまり、インスツルメンテーションというのはなにも装置作りということだけでなく、用語作りということも含むということになりますね。伊藤 それはそうですよ。森山 言葉を作るということ、それも大事なことかもしれない。森山 そろそろまとめをしたいと思います。今日のこの座談を開始する前に、伊藤先生が、「これをテープ起こしして文字にした時点でまたいろいろなことを言いたくなるかもしれない」とおっしゃっていました。我々には、この座談会で語られた私たちの言語行動のみを京都セミナー最後の解説論文にする責任があるかと思います。しかし、テープ起こしして文字にして、これはやっぱりこう語りたいなと思うところがあるかもしれません。そのような追記を読者の皆さんは認めてくれるはずであると考えて、お話していただければと思います。それぞれの先生には、今日の座談のまとめというか、感想でも結構ですのでお話しください。伊藤先生からよろしくお願いします。伊藤 振り返ってみれば、日本のオペラント条件づけ研究もかれこれ 50年以上の時間が経っているわけです。その過程を振り返ってみると、私たちは日本のオペラント条件づけ研究の黎明期にいたのだと改めて思うわけです。現在、学会組織も会員が 1,000人を超えようとしているわけで、発展しているわけですね。それは喜ばしいことではないかと思います。問題は、今後の 50年間に私たちがこれまで経験してきた様々なものの蓄積がどう受け継がれていくのかということですが、これは、私個人にとっても興味深い問題です。これからの 50年間は、今の若い人が作っていくものですから、ぜひその若い人た

ちに悪戦苦闘しながら新しいものを積み上げていってほしいと願っています。藤 私は京都セミナーを解説論文という形で記録にとどめるきっかけを与えてくださった森山前編集長にお礼を申し上げたいと思います。今回、4

回にわたって連載されるこの記録論文が一体どういう価値を持つのか、意味を持つのかについては、今はわからないと思います。良かったと思ってもらえるかどうかわかりませんけれども、しかしおそらく時代の洗礼を受けて自ずとその評価は決まってくると思います。もっとも、我々の命のあるうちかどうかわかりませんけれども。行動分析学会は記録を非常に重要視しており、おそらくこれはある判断を加えるにあたっての材料になることは間違いないと思います。伊藤先生もおっしゃいましたけど 40年、50年前のことでも本当にわからなくなってしまいます。記録に残しておくその重要性を痛感しています。それが 1点です。もう 1点は、装置、インスツルメンテーションというモノを仲立ちして行う研究行動、実践行動というものは、行動分析学の領域の如何に関わらず、共通してそれを取り上げることのできるテーマだろうと思います。ややもすれば学会あるいは学問が発展していく過程において、その主たる関心が分かれてくる。そういう傾向はどうしても起こるわけですけども、いわば学会と学問の空中分解を防ぐ役割を、インスツルメンテーション研究は果たすのではないでしょうか。さっきも申しましたが、今直面している問題は何か、ではそれを行動の問題としてもし解決しようとしたらどうすればいいのかということを考えるということは、これは実験系であれ、応用系であれ、臨床系であれ、実践系であれ、全く事情は同じであると。そういったことを、会員や読者の皆さんに、是非ともお伝えしたいと思います。中島 森山先生の先ほどのお話のなかにも「行動を生で理解する」という言葉が出てきましたけど、今回のシリーズ特集では、その部分が非常に良く出ていると思います。行動分析学というのは、例えば Journal of the Experimental Analysis of

Behaviorの投稿規程にもあるように、基本的には個体行動についての研究です。『行動分析学研究』

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行動分析学研究 第 31巻 第 2号

もそうで、個体データ、個人データを重視します。そういう考え方と、生のデータや装置、直接的な随伴性が大事だというメッセージは、この解説シリーズで伝わるのではないかという気がします。高度に抽象化し、複雑なデータ処理をして、最終的な作品、つまり論文だけを出す、というのではなく、その途中の過程が見えるというのが大事だと思います。そうでないと、途中の過程で、場合によっては不正があるかもしれないし、あるいは研究者自身の思い込みがあるかもしれない。スキナーボックスはブラックボックスだと言われることもありますが、そうした誤解を解き、可視化するという役割もこの解説シリーズは果たしているのではないでしょうか。森山 ここで、もう一度、京都セミナーの内容を解説論文にしていただいた理由を確認したいと思います。行動分析によって行動を理解する、その点でインスツルメンテーションは重要である、それを再認識する、それが理由の一つです。もう一つ重要な理由は、歴史ということです。伊藤先生と藤先生は、京都セミナーで行動分析学におけるインスツルメンテーションの歴史を問題にしてくださった、ということです。人の行動が歴史を作り、また歴史が人の行動を作る。人の行動と歴史は単独では成り立たず、双方に関わりがあるわけです。その歴史の問題をインスツルメンテーションという問題に絡めて、伊藤先生と藤先生が中心になってまとめてくださった。それが京都セミナーであったと私は思います。単に行動研究にお

けるインスツルメンテーションの紹介だけではなく、行動研究の歴史を学ぶ機会を京都セミナーは私たちに与えてくださったのだと思います。その意味で、伊藤先生と藤先生、そしてセミナーに関連した方々に本当に感謝申し上げます。それとは別に先生方にはさらにご検討いただきたい事柄があります。インスツルメンテーションの歴史ではなく、一人の行動分析家の歴史について語る、ということです。スキナーは自叙伝を記しています。それと同様のものは日本でも出てほしいなと思います。いろいろな行動分析家のです。伝記は、一人の人間が、どのような境遇で、どのような行動をして、どのような人生を送ったのか、を記しています。これはある意味で行動分析の記録となるはずです。行動分析家の伝記となると、ある行動分析家が、その生活環境で、どのような行動をどのように変容して、行動分析家として生きたのか、その歴史を知る、ということになります。行動分析学のフィールドにおける行動分析家のヒストリーを知る、それも行動分析学の発展につながるのではないかと思います。今回、インスツルメンテーションのヒストリーを先生方がまとめてくだったことがきっかけとなって、いろんな意味での行動分析のヒストリーが語られればいいなと思います。それによって行動分析学の温故知新は達成できるのではないかと思います。座談会をはじめてから 2時間 15分が経ちました。先生方、今日は本当に長い間どうもありがとうございました。