逆さめがね実験の古典解読...george malcolm stratton は,1896年と1897年,...

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George Malcolm Stratton は,1896 年と 1897 年, 自ら逆さめがねを着用する実験を通して得られた 知見を,Psychological Review 誌に掲載した。英 文で書かれたこれらの論文は,たとえ英語のネイ ティブ・スピーカーでも,逆さめがね着用経験と 逆さめがね実験に関するかなりの知識をもち合わ せていなければ,理解することが難しい。一方で, これら 2 論文は,当該領域の時代を画する論文と して,逆さめがね実験に興味をもつ者にとっては 目を通しておくべき重要な文献である。そこで本 稿では,これら 2 論文のおもな記述を,理解を容 易にすることを目標に邦訳した。現在から見て些 末な記述は省略するが,その代わり,理解に役立 つ記述を補った(吉村による補足は,脚註や文末 註とせず,本文中に[ ]を施し補記した)。 Stratton は,自らの逆さめがね着用経験を一人称 的視点から論考した。それに対し,本稿は訳出で はあるが,Stratton の記述を三人称的視点から理 解することを心がけた。 なお,以下に訳出する Stratton の 2 論文は,す でにパブリック・ドメインとなっており,論文を 掲載した Psychological Review 誌(アメリカ心理 学会)の著作権は消失していることを確認してい る。本稿での訳出作業に先立ち,吉村(1998a)と 吉村(1998b)において,Stratton の逆さめがね 研究に関する業績内容と研究歴の解説を行ってい るので,理解を深めるにはそれらも合わせてお読 み頂きたい。 I. Stratton, G.M. (1896). Some preliminary experiments on vision without inversion of the retinal image. Psychological Review, 3, 611-617 正立視には網膜像が倒立していることが不可欠 だという考え方を支持する有力な学説が 2 つある。 投射説(projection theory)と呼ばれる 1 つ目の 説は,空間内の対象をわれわれは網膜上に落ちる 光線を空間内に投射して位置づけている点を重視 する。光線は目の中に入るとき交差するので,正 立視を得るためには網膜像は倒立していなければ ならないとする。2 つ目の説は,眼球運動説(eye movement theory)と呼ばれるもので,目の運動 とその運動方向の知覚が,視野内での対象の空間 関係を判定する手段となると考える。“より上(よ り下)”とは,鮮明な像を中心視するために目をよ り上(またはより下)へ動かすことを意味する。 目の上方向への運動は,中心窩より下にある像の 中心視をもたらすことから,正立した空間関係の 知覚には網膜像の倒立が欠かせないとする。 ここに報告する予備的実験の目的は,これらの 説が正しいならば,それを裏づけることである。 網膜像の逆転は,はたして正立視にとって必要な のか。この問いへアプローチする方法は,正常視 のときの網膜逆転像を[逆さめがねを着けること によって]正立像に変え,その結果をみることで 69 逆さめがね実験の古典解読 ― 19 世紀末の Stratton の 2 つの論文 ― 1 吉 村 浩 一 本研究は,平成 20 年度科学研究費補助金基盤研究(C)「逆さめがね実験で捉える感覚様相間の空間関係の解 明」(研究代表者:吉村浩一,課題番号:20530668)の補助を受け実施された。

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Page 1: 逆さめがね実験の古典解読...George Malcolm Stratton は,1896年と1897年, 自ら逆さめがねを着用する実験を通して得られた 知見を,Psychological

George Malcolm Strattonは,1896年と1897年,

自ら逆さめがねを着用する実験を通して得られた

知見を,Psychological Review誌に掲載した。英

文で書かれたこれらの論文は,たとえ英語のネイ

ティブ・スピーカーでも,逆さめがね着用経験と

逆さめがね実験に関するかなりの知識をもち合わ

せていなければ,理解することが難しい。一方で,

これら2論文は,当該領域の時代を画する論文と

して,逆さめがね実験に興味をもつ者にとっては

目を通しておくべき重要な文献である。そこで本

稿では,これら2論文のおもな記述を,理解を容

易にすることを目標に邦訳した。現在から見て些

末な記述は省略するが,その代わり,理解に役立

つ記述を補った(吉村による補足は,脚註や文末

註とせず,本文中に[ ]を施し補記した)。

Strattonは,自らの逆さめがね着用経験を一人称

的視点から論考した。それに対し,本稿は訳出で

はあるが,Strattonの記述を三人称的視点から理

解することを心がけた。

なお,以下に訳出する Strattonの2論文は,す

でにパブリック・ドメインとなっており,論文を

掲載したPsychological Review誌(アメリカ心理

学会)の著作権は消失していることを確認してい

る。本稿での訳出作業に先立ち,吉村(1998a)と

吉村(1998b)において,Strattonの逆さめがね

研究に関する業績内容と研究歴の解説を行ってい

るので,理解を深めるにはそれらも合わせてお読

み頂きたい。

I. Stratton, G.M. (1896). Some preliminaryexperiments on vision without inversion ofthe retinal image. Psychological Review, 3,611-617

正立視には網膜像が倒立していることが不可欠

だという考え方を支持する有力な学説が2つある。

投射説(projection theory)と呼ばれる1つ目の

説は,空間内の対象をわれわれは網膜上に落ちる

光線を空間内に投射して位置づけている点を重視

する。光線は目の中に入るとき交差するので,正

立視を得るためには網膜像は倒立していなければ

ならないとする。2つ目の説は,眼球運動説(eye

movement theory)と呼ばれるもので,目の運動

とその運動方向の知覚が,視野内での対象の空間

関係を判定する手段となると考える。“より上(よ

り下)”とは,鮮明な像を中心視するために目をよ

り上(またはより下)へ動かすことを意味する。

目の上方向への運動は,中心窩より下にある像の

中心視をもたらすことから,正立した空間関係の

知覚には網膜像の倒立が欠かせないとする。

ここに報告する予備的実験の目的は,これらの

説が正しいならば,それを裏づけることである。

網膜像の逆転は,はたして正立視にとって必要な

のか。この問いへアプローチする方法は,正常視

のときの網膜逆転像を[逆さめがねを着けること

によって]正立像に変え,その結果をみることで

69

逆さめがね実験の古典解読

― 19世紀末のStrattonの 2つの論文 ― 1

吉 村 浩 一

1 本研究は,平成20年度科学研究費補助金基盤研究(C)「逆さめがね実験で捉える感覚様相間の空間関係の解明」(研究代表者:吉村浩一,課題番号:20530668)の補助を受け実施された。

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ある。そのための装置を,2枚の等屈折率の凸レ

ンズを両焦点距離分だけ離して円筒状の固定具に

設置することにより作成した[これにより正常な

視野が上下も左右も逆さ,換言すれば正常な視野

像を180°回転させた視野像を得ることができる]。

このレンズを通して見える以外の[脇からの]光

は,顔にぴったり沿った黒い裏張りとパッドで遮

断した。もし,ほかから光が入れば,正立像と逆

転像の両方を見ることになり,このたびの実験の

純粋さが損なわれることになる。

視野の広さの確保には,かなり注意を払った。

広視野を得るには,分厚い大直径レンズを用いれ

ばよいが,そうすると長い実験に耐えられない重

さになる。上述したように,光軸を一致させて設

置した両凸レンズを使うのがベストなのである。

それぞれの目の前に,短い筒を当て,その両端に

等焦点距離の一組の高品位レンズを設置する。こ

うして作成した逆さめがねにより得られた視野は,

直径 45°であった[この視野サイズについては,

のちにこれほどの広さは構造的に無理との批判も

ある]。

当初は,両眼用めがねとして使用するつもりで

あったが,輻輳が困難なため,単眼用とした。そ

のため,左眼用レンズ系は,黒い無反射の紙でふ

さいだが,それにより,左目を絆創膏などで遮蔽

することなく目をあけたまま実験に臨めた。

この予備実験では,逆さめがねを自分自身で着

用した。着用期間は 3日間で,第 1日目が午後 3

時から10時まで,2日目が午前9時半から午後10

時まで,そして3日目が午前10時から正午までで,

合計21.5時間であった。めがね着用時以外はアイ

マスクを着けた。めがね着用中,ほとんどを室内

にいて,通りを眺めたり手足を動かしてそれらを

見つめたりして過ごした。

3日間は,われわれが生まれてこのかたどっぷ

りつかっている視覚習慣からの解放を期待するに

はあまりに短かったが,それでもこの実験をもう

少し続けたなら,かなり興味深い結果が得られる

ことを示唆するものであった。逆さめがね着用中

の経過は,次のようであった。

はじめ,すべての像は逆さに見えた。その際,

見るものの現実感の基準は,正常視のときの記憶

像であった。自分自身の身体も,[逆さめがねを通

して見えているところや形ではなく]めがねを外

したときに見えるであろうとおりにあるように感

じた。そのため,この時点では身体のあらゆる動

きが不確かで,驚きに満ちていた。手足は,出そ

うと思うのとは反対のところ[反対の手足]から

出る。手の近くにあるものをつかもうとしてその

手を動かしたつもりなのに,反対の手が動く。身

体移動に際しては,目からの情報より触感覚で確

認することをついつい期待することになった。

しばらく経験を重ねると,視覚像がそれほど奇

妙に思えなくなってきた。視覚像は,当たり前の

ガイドや予測手段になり始めた。そこにあると視

知覚が知らせるところに,手足があるように感じ

始めた。触覚と視覚の新しい生き生きした関係が,

正常視のときに積み上げられていた圧倒的な定位

の力を弱め始めている。見えている像が,正常視

のときと同じように,リアルに見えるようになっ

てきた。あくまでときどきだが,見えている手が,

[頭の上にではなく]頭と新しい足[見える足]の

あいだにあるように感じることもあった。しかし,

[逆さめがねを通して]見えない肩や頭は,正常視

のときの古い定位のまま残った。

着け始めの頃は,視野外の対象物は正常視状況

で見えるはずのところに表象されていた。今まで

見えていた対象物が視野から外れるやいなや,[育

ちつつあった]新しい関係は,以前の古い関係に

取って代わられ,視野内に見えているものと調和

しなくなる。しかし,後には,視野外の対象物も

視野内に見えるものと調和する状態に到達した。3

日目ともなると,対象物は常に変化する視野内で

接ぎ合わさり,全体として整合した関係を形成す

るようになった。

自分自身と視野像との関係は,最後まで逆さの

ままだった。しかし,ときどき妙な感覚に襲われ

た。注意を,自分の内側へ向けると,自身と視野

内の対象物は逆さのままだったが,注意を外に向

けると,対象物は正常に思え,自分の方が異常

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[な姿勢のよう]に感じた。頭だけが逆さになって

いて,まるで股覗きで見ている感じがした。ある

ときは,逆さになっているのは自分の顔や目だけ

のようにも感じた。

3日間の着用を終え逆さめがねを外したとき,

目の前の世界はすべて正常に見えた。

本実験の主要な問いである,[投射説や眼球運動

説が主張するように]正立視には網膜像の逆転が

必要か,との問いに対しては,本実験結果から,

「ノー」と言える。なぜなら,もしそれが必要なら,

たとえ一瞬たりとも,網膜像が逆転していない状

態[逆さめがね着用状態]で正立感は得られない

はずだからである。上述したように,逆さめがね

を通して見たものが何度も正常な関係,すなわち

正立視しているように見えたのである。

逆さめがねを通して決して見ることのできない

頭や肩は,風景と異常な関係にあるように思えた。

こうした身体部位が,新しい表象との調和に至ら

ないことは,容易に説明できる。与えられる視覚

情報だけが正常な視覚経験であって,新しい視覚

状況下で矛盾した視覚経験を繰り返し与えられ,

そうした矛盾が取り除かれる可能性がない限り,

いつまでも調和のないまま留まるからである。し

かし,視野に捉えられる身体部分の新しい現れ方

や定位が,古い定位を引きつけていくことも可能

なはずである。なぜなら,視覚による新しい定位

は,筋感覚や触覚と完全に安定した[一貫性ある]

関係を与え続けるからである。疑いなく,見えな

い身体部位と見える部位との触覚経験の関係性は,

見えない部位に関する新しい間接的視覚表象を生

み出し,古い表象を正常な視覚へと近寄せるはず

である。経験全体の安定した組織化が,こうした

結果を生み出すことになる。もちろん,容易に視

野に捉えられる身体部位に比べるとずっと長い時

間を要することにはなるが。

[逆さめがねを通して見える]正立網膜像から

視対象の正立感を得ることの難しさは,[生まれて

この方]長期間に作り上げていた過去経験の抵抗

によると思われる。[逆さめがね状況という]新し

い状況そのものに固有の難しさがあるとは考えに

くい。もし[生まれたときから逆さめがね状態と

いうように]新しい知覚に拮抗するような過去経

験がなければ,[逆さめがね状況下で]見るものが

逆さに見えると考えることはばかげているだろう。

見えている部分同士の関係が触覚や筋運動の関係

と常に対応しているわけだから,それが「正立」

感をわれわれに与えるはずである。網膜像が正立

していようが逆転していようが,あるいはその中

間の角度をなしていたとしても同じことが言える。

セットをなす関係や知覚が基準を作り上げた後で

は,この作り上げられた全体基準に照らして正常

でないものが現れると,たとえば「逆さだ」と知

覚されることになる。もしはじめからこのたびの

実験のような人工的に作られた視覚をもっている

人がいるとすれば,その人は決して,目の前の世

界を逆さまとは知覚しないであろう。

II. Stratton, G.M. (1897). Vision without inver-sion of the retinal image. PsychologicalReview, 4, 341-360, 463-481.

本誌の11月号に掲載した[上の]論文の中で,

私は網膜像を逆さにしない状況での見え方に関す

る予備的実験を報告した。その実験は短いもので

あったが,めがね着用をもっと続けていれば,よ

り明確な結果に到達しうることを示唆する結果で

あった。もっと長く逆さめがねを着け続け詳細な

記録をとれば,公刊された先の論文に対し,ティ

チナー教授やミュンスターバーク教授が示してく

れた所見をよりはっきり検討できるに違いない。

ティチナー教授は,この実験が正立視の問題以上

の広がりをもつことを示唆した。ミュンスターバ

ーク教授は,フラフラするめまいのような症状や

音源定位の問題をもっと注意深く観察せよと提案

してくれた。今回は,よく考えて行う行動や観念

と,何気なくサッと行うそれらとを区別して取り

出す方法を工夫する必要がある。

今回の実験も,以前の実験とほぼ同じ状況で実

施した。私自身が観察者となり,逆さめがねも次

の点を除いて,以前と同じものを用いた。異なる

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点は,目のまわりに石膏を貼り付けた点である。

少量の接着性のない材質のもので両目を覆うよう

にし,目の回りのカーブに合わせたギブスを作っ

た。それにより目の回りへの圧迫感を分散させた。

右目の前には,ギブスに丸い穴を開け,そこに4

枚構成のレンズ系の筒を挿入した。この筒状の光

学系は,焦点がぴったり合わされていて,目から

の距離も正確に設定されていたので,直径45°の

クリアーな視野が確保された。ギブスはテープで

頭に固定され,真鍮でできた円筒より重いものを

着けたとしても,顔の表面全体を均等に押しつけ

るようになっていたので,快適であった。このよ

うな構造により,レンズ以外の脇からの光の進入

は完全に防げた。

前回のように,室内だけで過ごすのではなく,

必要なときには介助者をつけて昼間のみならず月

明かりのもとでも郊外を散歩した。今回の逆さめ

がね着用は,第1日目の正午から8日目の正午ま

で,(目隠ししている時間を除き)正味87時間で

あった。めがねを着けていないときは,目隠しで

覆った。今回は,経過を毎日注意深くノートに記

録した。

見え方について報告するに際して,何を基準と

する見え方かをはっきりさせるよう心がけた。逆

さめがね着用前の正常なときの見え方を基準とす

る記述には,“古い”“正常な”“実験前の”という

言葉を用いた。逆に,逆さめがねを通して見える

見え方を基準にするときは,“新しい”“最近の”

という表現を用いた。

第1日

視野全体が,上下逆さまに見える[同時に生じ

ているはずの左右逆さには言及していない]。頭や

身体を動かすと,自分だけが動いているとは見え

ず,視野の方も動いている。身体を動かした方向

と視野像の動く方向とは同じで,後者の方が速い

[これは,“視野の動揺”と名づけられる現象の最

初の記述]。動作をするのに骨が折れ,困惑する。

[サッと]直感的に行動すると誤ってしまい,正し

く行うための修正が必要となる。食卓についてい

るとき,自分の分をサーブするというきわめて簡

単なはずの動作が,注意を集中しなければできな

い。脇にあるものを取ろうとすると,いつも誤っ

た方の手を出してしまう。ミルクをグラスに注ぐ

とき,試行錯誤を繰り返しながら,ミルクの表面

をピッチャーの口のところにもってきて,グラス

の中のミルクの表面がグラスの縁から一定の距離

を保っていることを視覚的に確かめながら慎重に

行わなければならない。

[誤った]視覚に頼らないよう,視覚を無視し

て行動しようとするのだが,どうしても視覚に注

意が向いてしまう。紙の上にメモを書くとき,ど

の位置に書くかのガイドとして視覚を利用し,書

字自体は自動化された筋運動で行っている。

目の前に見えるものを“正常な”見え方に沿っ

て再構成することはできるが,その変換[翻訳]

の労力は,予備実験のときほどではない。今では,

見えているものは自分の目の前に存在しているも

のと受け入れることができる。「現実感」があると

言える。ただし,個々の視対象は孤立して見えて

いる。

視野内の対象と視野外の対象の関係は,次のよ

うであった。いま,視野から外れたばかりの対象

は,いままで見ていたとおり[の位置]に表象さ

れることもときどきあるが,全般的には“正常視”

のときの状態に戻ってしまう。身体の運動表象に

ついても同様だが,ときおり「対象とその鏡像」

という具合に,“正常”と“最近”の運動表象が心

の中に自発的に浮かんでくる[身体部位の“ダブ

ル・イメージ”に関する言及と考えてよい]。身体

部分に関しては,視野内に見えていても“実験前

の”表象がしばしば割り込んでくる。視野内の対

象物でも,触ったり音を立てたりすると,「二重定

位」が生じる[見える場所と聞こえてくる場所に

ともにあるように感じる“ダブル・イメージ”]。

視対象に対しては,その対象に近づくと,視覚か

ら予測される結果を予測してしまう。たとえば,

天井からぶら下がっているランプに近づくと,あ

ごや首がそれにあたりそうに感じる。

神経症状として,軽い吐き気をもよおした。ほ

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とんどすべてのことを視覚に頼って行っているせ

いか,あるいは上で述べた“視野の動揺(the

swinging of the scene)”のせいで,中程度の吐き

気に似た,上腹部の気持ち悪さを主症状とする神

経症状が認められた。しかし,そうした症状は,

夕方に向かうにつれて弱まり,午後7時半には感

じられなくなった。

第2日

上記の神経不快感が,この日の午前,再び襲っ

てきた。行動自体は,第1日より少ない労力でで

きるようになった。[視野外にあって]見えない対

象物を,意志の力で視野内の対象物と調和させる

ことが,第1日より容易になった。しかし,自己

身体については,やはり御しがたい。できること

は,せいぜい手や足を適切なところに表象するこ

とで,それも努力してやっとであった。

事物の正立感については,全般的に次のようで

あった。見えている部屋は逆転しており,自身の

身体は“実験前”の基準から正立していると感じ

る。しかし,状況によれば,必ずしもそうならな

いこともあった。たとえば,ひらけた風景を見た

とき,感じられる身体位置と,眼前に広がる風景

の関係は不自然ではあるが,第1日のように,ど

ちらが基準かはっきりしなくなっている。

夕方,散歩したとき,見慣れたものであるにも

かかわらず,回りにあるものが何であるかを再認

できなかった。再認とは,位置と方向の明確な関

係に強く依存するものであるが,それが損なわれ

てしまっているので,奇妙なものに見えてしまう

のだろう。夜に目隠しに変えたとたん,“古い”事

物の視覚化が自動的に再来した。“最近の”見え方

に合致する表象ができたのは,ほんのわずかなと

きだけだった。

第3日

神経障害[気持ち悪さ]の兆候はなかった。時

間が経つのが,前2日に比べて速く感じた。家具

などのあいだの狭い空間を通るのに,これまでの

ように強い注意を要さない。それほどためらわず

に,文字を書く自分の手を見ることができた。し

かし,ものを取ろうとすると,なお誤った方向に

手を出してしまう。

頭を動かすと,まだわずかではあるが視野の動

揺を伴う。しかし,その程度は,第1日と比べる

と,明らかに減少している。[視野像の]動きは,

自分自身の動きによるものだと捉えられるように

なった。

身体と風景の位置関係に関しては,「変に感じる」

という以上のことは言えなくなり,前日同様,ど

ちらが基準かはっきりしない。しかし,視野内に

見える対象が,“正常な”ときと同じように経験さ

れないことは,明白に意識できる。

暖炉の前に立ち火を見ていると,その火を自分

の頭の後ろ側から見ているという奇妙な感じがし

た。歩いているときに触れる対象は,やはり予測

される位置とは異なって感じられるが,その予測

が実際経験と調和する方向に変わりつつあること

に気づく。身体像の生き生きした表象と結びつい

たとき,この予測は,触れるものを実際にどこに

感じるかに影響を与える。生き生きしたイメージ

を描く余裕がなく不意に棚にあたったときなどは

だめであるが。

視野内に映る自分の影の位置も,無意識のうち

に身体の“新しい”表象を強めている。視野内に

見える直線に沿って歩くことは容易になった。自

分のいる部屋以外の部屋も,いま実際に見えてい

る部屋の配置[の延長上にそれ]と調和した関係

で表象される。このような表象を得るには,多少

とも「意志的努力」を必要とする。言い換えれば,

[努力をせず]自発的に浮かぶ映像は,“実験前”

のときのままである。しかし,いま初めて,自発

的な状況でも,[視野外の]身体部分を,見えてい

る部分の知覚と整合する関係を保ちつつ生き生き

表象することができた。それは,自分の手や足を

視野に入れると,より容易にできる。

しかしながら,自発的な表象は“古い”方の表

象であり,それは間違いなく常に背景的表象をな

している。胴体は,手足のないトルソーのような

“古い”表象であったが,手足に関しては,たとえ

逆さめがね実験の古典解読 73

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努力しても“古い”表象が生じることはなくなっ

てきた。手足で音を立てて“古い”表象を強めた

ときにだけ,トルソーに手や足が付け加わった。

音は“実験前”の関係で定位されるが,それはぼ

んやりと“古い”定位で視覚化されるものであっ

た。

“新しい”経験がだんだん安定してきており,

そのことは,目を閉じたり,夜,めがねを外して

アイマスクに変えたときにも,“新しい”視覚的関

係で風景が勝手によみがえってくることからわか

る。

第4日

身体の不調はまったく感じず,着用開始以来初

めて,夜の 9時にめがねを外すときになっても,

もう少し着けていたい気持ちになった。昼間,“新

しい”見え方に適った行動を,やり直しなしにで

きることがしばしばあった。それは,実験前半の

ように,“新しい”関係系に“古い”やり方で反応

するというようなものではなく,“古い”関係系に

“新しい”やり方で反応するものであった[見えて

いるとおりに素直に行動してうまくいくことを意

味する]。

奇妙なことに,適切に足を出す方が,適切に手

を出すより容易であった[これは,上下だけが逆

さになった上下反転視ではなく,上下も左右も反

転する 180 °回転視であることの特徴と考えられ

る。足の方が手より見える自己と感じられる自己

のボディ・イメージの対応がつけやすいという]。

視野内の対象物は,ほぼ視覚に基づく空間関係に

調和するように表象された。自分のいる部屋で足

もとを見たとき,他の部屋の位置関係まで,“新し

い”視覚に沿って表象された。とは言っても,先

に自分のいる部屋を表象せずに,いきなり他の部

屋の配置を思い浮かべると,自発的に現れるイメ

ージは,“実験前”のものとなりがちだった。しか

し,目を閉じたときの自発的表象は,決して“古

い”見え方に戻ることはなかった。たとえば,暗

い部屋を歩いているとき,部屋の配置は“今の”

見え方に従うものであった。朝,逆さめがねを着

け始める前でさえ,“古い”見え方に“新しい”見

え方が混入するようになった。

身体像の表象様式は,環境や回りの対象物の場

合とはずいぶん趣を異にした。暗い部屋に入るや

いなや,手足の動きは,意志的努力なしでも“新

しい”見え方に沿ってイメージされた。この現れ

方がうまくいっているとき,“古い”見え方は覆い

隠されている[“変更”ではなく“抑制”されたと

いうニュアンス]。[視野内で]身体の一部にもの

が触れると,[身体位置を]“新しい”見え方で表

象する助けになった。

これまでは,左右方向の正しい枠組みは,後か

ら考えて再構成していた。すなわち,まず誤った

定位があり,それが否定される。しかし,今は,

誤った定位は一応生じるが,正しい定位より先に

生じることはなく,正しい定位の従属物になって

いる。

それ以外のときは,“古い”枠組みが示唆された。

たとえば,異なった形のものを左右それぞれの手

で握り,それらを見えるところにもってくると,

[手の位置感覚は]期待される視覚的位置とは反対

になっている。そのとき,触感覚は誤った視覚に

より定位されている[こうした紛らわしい状況は,

順応を促進ではなく後退させるようだ]。

視野外のものが発する音は,“古い”方向に定位

される。例外的に,生き生きとした“新しい”定

位で表象されることもある。そのようなとき,音

源定位は安定せず,音源である対象物が視覚化さ

れるところから聞こえるようにも感じる[たとえ

ば,視野外の左方から音が聞こえるとき,そちら

に向こうとするとうまく左を向けることがある。

しかし,本人は,右方向から音が聞こえると捉え

ており,頭を右に向けたつもりでいる]。対象物が

視野に入っていると,音はそれが見えているとこ

ろから聞こえるように思える[視野内では完全に

“視覚の優位”が成り立つ]。

自分の正立・逆転感は,身体の視覚的表象の強

さと性質次第で違ってくる。自分の手や足を見つ

めたり,努力して注意を“新しい”視覚表象に向

けると,見るものは逆転ではなく正立しているよ

文学部紀要 第 57号74

吉村.qx 08.9.24 6:46 ページ74

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うに思える。しかし,身体から目をそらしたり注

意を“実験前”のイメージに集中すると,見える

ものすべてが逆転して見える。具体的に言うと,

身体を活動的に動かしているとき,たとえば活発

に歩いているときやあまりなじみのない構造のも

のと格闘していると,身体を動かさずじっとして

いるときよりも,目の前の風景の正立感がずっと

生き生きする。そうした作業に活動的に取り組ん

でいると,ものの見え方の不一致感は驚くほどな

くなる。夕方散歩したとき,視野外の自己身体を

“古い”視覚的位置に思い浮かべてしまった。そう

すると,位置の上下逆さ感がよみがえってしまっ

た。

身体を動かしているときの“視野の動揺”は,

自分の動きをどのように表象しているかにより,

大きくもなり小さくもなる。“新しい”視覚経験に

則してその動きを見れば,世界は安定して見える。

“古い”様式で運動を視覚化すると,視野全体が目

の前でずれていくように見える。

第5日

朝,めがねを着けるとき,“新しい”観念(idea)

による見え方が生じた。手を伸ばすなどの行動な

ら,方向の誤りをほとんど犯さない。歩行に際し

ても,手探りしたり,考えて行う必要がなくなっ

た。

左右に関して質問されると,言葉で答えること

はやっかいである。しかし,適切な方の手が,視

野内で直接,適切な方向へと,考えることなく伸

びる。これまでなら,その手は“古い”様式では

反対側だと考えて行う必要があった。

ロッキングチェアに座って,前下方向へ身体を

動かすと,実際に見えている床の側へ[身体の方

が]動いていると自発的に感じることが多くなっ

た。同様に,後ろ方向や上方向への動きも,現実

の視覚経験に一致するようになった。ロッキング

チェアでの規則的な身体の動きをしているときも,

視野の動揺や運動の不自然感は生じず,自分の動

きに伴う自然な見え方と捉えられる。その他の場

合でも,ものの位置がおかしいとは,すぐに感じ

なくなった。しかし考え込むと,“実験前”と逆方

向に視野像が流れていると気づく。

全般的に言って,能動的に何かの作業をしてい

ると,見えている位置と触っている位置が調和す

る。自分では何もせず,受動的に眺めていると,

頭・肩・あごが“実験前”の様式で表象されるこ

とが避けられない。しかし,意志的努力をすれば,

身体全体のボディ・イメージを,見えている部分

を基準に,“新しい”定位に位置づけることができ

る。努力をゆるめると,“古い”定位が勝手によみ

がえってくる。

音源定位は,さまざまな様相を呈するが,視覚

と一致しないことが多い。しかし,今晩,逆さめ

がねを外して目隠しをしたとき,“新しい”見え方

に従う空間把握が昨晩より生き生きしていた。

第6日

朝,目隠しした状態で少し歩いたとき,“古い”

見え方に基づく空間定位が支配していた[昨晩に

比べ,順応の後退と考えられる]。

身体や頭の運動に伴う視野像の動きは,身体や

頭の動きに連動しているように思えた。すなわち,

身体や頭が動く方向は,“実験前”のときと同様,

視野に新しく入ってくる対象物の方へ動いている

ように感じた。そして,目を閉じてロッキングチ

ェアで身体を動かしているときも,表象される視

野の動きは,目を開けて動かしているときと同じ

方向への規則的動きであった[吉村(1997)によ

り「閉眼時イメージ」と呼ばれるものである]。想

像する[目を閉じているので想像することしかで

きない]対象物の動きをそれとは反対の動きにさ

せようとすると(それは身体の動きに伴う“古い”

視覚に従う動き方である),それに従う弱い示唆が

得られたものの,その努力をやめるとすぐに,“新

しい”視覚経験に沿う動きに取って代わった。

何もしないで受動的に座っていると,意志的努

力で“古い”定位にでも“新しい”定位にでもも

っていくことができる。“古い”表象が強まってい

るときには,風景は倒立して見える。しかし,自

己身体の“新しい”表象が強調されているときに

逆さめがね実験の古典解読 75

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は,風景は正立していると感じられる[ここに

“正立感の再獲得”が明示されている]。視環境に

対して能動的に働きかけているときには,身体の

“古い”定位は,(意志的努力でそちらをとろうと

しない限り)弱まり,ときには完全に薄れてしま

う。

視覚と触覚の関係は,バラエティに富んでいた。

足は,視野に入っている限り,見えているところ

にあると感じ,視野外であっても,視覚的に表象

されるところにあると生き生きと感じた。手で膝

をたたくと,それが見えているところなら,接触

は見えているところで起こっているように感じる。

しかし,見えないところでたたくと,接触位置は

[古い位置と新しい位置の]両様になりえた。しか

し,おそらく“古い”様式の方が優勢のようだ。

両手の人差し指を目の前で左右対称に伸ばして

視野に入れ,膝の上の紙板の上に置く。右手人差

し指は,“正常”だった見えのときには左手人差し

指が占めていたところにある。左手人差し指もま

たしかりである。もちろん,指が指している方向

も,“古い”見え方のときとは似ても似つかない。

介添え者に鉛筆か何かでどちらかの指に触れても

らうと,意志次第で,どちらが触られているよう

にも感じ,ときには両方の指に同時に接触を感じ

ることもある。実際に,両方の指に同時に触られ

ると(たとえば,一方の指を鉛筆で,他方の指を

介助者の指で),どちらの指が鉛筆で触れられてい

るかは意志次第でどちらにも入れ替えることが簡

単にできる。そうした状況で,2種類の接触を質

的に区別することは容易なのだが,にもかかわら

ず,2種類の接触が同時に同じ指に生じているよ

うに自然に感じてしまう。一方の指をじっとさせ

ておき,他方の指をわずかに曲げたり伸ばしたり

すると,2本の指のあいだにはっきりした違いが,

視覚的にも触覚的にも生じる。そして,このよう

な指の動きは,2種類の接触感の任意な対応づけ

をできなくし,その動きは視覚的に動いている方

で起こっているとしか知覚できなくなる。

音源が見えている状況での音源定位は,意識的

に“古い”定位を呼び起こさない限り,見えてい

るところから聞こえると感じる。その場合,視野

の広がりは45°どまりなので,この記述があては

まる音源の広さも,せいぜい45°ということにな

る。視野外での音源定位は,たとえば歩いている

とき,足が見えている床にあたって音を発してい

ると知覚できるときには,見えている床の方から

聞こえることになる。ということは,音源位置の

移動が180°の広がりをもったことになる。それに

対し,[視野外で]感じられる足のところで音がし

ていると知覚されているときは,音もまたそちら

から聞こえる[この場合,音源定位は“古い”定

位のまま]。夕方めがねを外した後の空間定位は,

“実験前”の見え方に支配された。

第7日

朝,逆さめがねを着ける前の様子は,昨夕と同

じ様子であった。しかし,[目隠しをしたまま]入

浴中,実験が始まってから頻繁に視野にさらされ

る身体部分が,決して視野に入らない部分に比べ

て揺らぎ始め,色あせ,かすかな感じになってき

た。

逆さめがねを着けたときの感じは前日までと同

じであったが,部屋の中を動き回ると,昨日まで

より慣れ親しんだ感じになっていた。このすばら

しい調和感は足を視野内かその近くにおいておく

限り続いた。視野内に捉えた対象物が,視野に捉

えていない対象物の観念をどれほど“新しい”視

覚的位置に調和させることに貢献しているかを示

すよい例がある。寝室に入ってベッドの脚を見た

とき,自然に,ベッドの位置を基準に[視野に捉

えていない]窓の位置を適切に表象できた。その

他の部屋の大まかな配置も,その線に沿って表象

されたが,細部については,正常と言うにはほど

遠かった。

身体運動に関しては,手や足を動かす方向はほ

とんど誤らなくなったが,運動の大きさは不適切

であった。両手の指を空中で合わせる動作は,閉

眼して行う方がましなくらいであった。右手でア

イロンをもって視野の左の方へ動かし,視野ぎり

ぎりのあたりまでもってくると,[左手に触れてし

文学部紀要 第 57号76

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まわないかという恐怖感のため]急に“古い”見

え方に戻り,そこには左手があると思い,反射的

に左手を引っ込めてしまった。左手も視野に入れ

て行うと,危険でないことがわかるのだが。

暖炉の前に座り,たまたまうつむいて両手で頭

を支えるようにして休んでいた。そのとき,熱は

頭頂に直接当たっていたのだが,目を閉じている

と,火のイメージを,“新しい”知覚に合致する位

置に感じた。しかしすぐに,その火を“実験前”

の位置に表象していることに気づいた。そして,

この感覚の変化は,頭頂に熱を感じることによっ

て生じ始めたのだとわかった。頭の上部は,逆さ

めがねを通して決して見ることがないので,“古い”

定位のまま感じ続けた。そして火の位置は,頭頂

部分の“古い”定位とのみ整合するものである。

それに対し,目を開けて,目の前で手を上下に動

かし頭頂部分に触れることを繰り返していると,

“新しい”視知覚と調和するように,頭頂部の位置

を生き生きと表象することは難しくない。この変

化に伴って,火の“古い”定位は抑制された。

夕方歩いているとき,逆さめがね着用開始以来

初めて,夕方の景色の美しさを楽しむことができ

た。めがねを外すと,今夜も“古い”形式に戻っ

たが,“新しい”定位も割り込んできた。

第8日

めがねを着ける前には,“古い”表象がなお支配

的であった。めがねを着けてからも,身体の見え

ない部分の左右に関しては,“古い”定位であった。

ときには反対の視覚に基づく右や左を感じること

もあったが,そこに触覚を感じることはなかった。

それに対し,見える部分は,不安定に基準が交

代することはあったものの,まったく事情が違っ

ていた。実際に触られている手とは反対の手が触

られているとの錯覚が,過去2日間と同じように

生じた。視野内の対象物をつかもうとしたとき,

どちらの手を出すべきかためらい,最初反対の手

を出し修正することがしばしばある。今にも触れ

られそうなことが視覚的にわかる身体部位に注意

を向けそこへの接触を期待すると,その“新しい”

視覚的な位置に接触を感じ,基準の変化は起こら

ず安定する。その直後,一種の触覚的残効のよう

なものが,他方の視覚的位置に生じる。最初の接

触が予想しない状況で起こるときには,視覚像と

触覚的定位が同時に,古い基準と新しい基準に基

づく位置に起こる。

音源定位に関しては,音源が見える場合と見え

ない場合で,また見えない場合にはその音源方向

や注意の方向によって事情が異なる。たとえば,

暖炉の火は,見えているところでぱちぱち音を立

てている。イスのアームの上で鉛筆をとんとんつ

つくと,何の疑いもなく,その音は[見えている]

鉛筆から聞こえる。視野外にある横の壁をとんと

んたたくときでさえ,目の前で腕や鉛筆をそちら

側に動かしたのが見えていれば,鉛筆が壁に当た

っている様子を視覚的に想像することで,(完全に

安定しているとまでは言えないまでも)“新しい”

視覚的方向から聞こえると感じる。“新しい”視覚

の側に鉛筆があるとの努力を怠れば,反対側から

も音が聞こえるとの強力な誘惑が生じてしまう。

反復動作を目の前で行うことの効果は,視野に

入っていない身体部分の定位に際してはっきりと

現れる。特に注意せずに額や髪の毛の位置を自発

的に思い浮かべると“実験前”の定位のままだが,

目の前で手を額や髪のところに繰り返しもってい

き,かつ手の動きの到達点を注意を凝らして視覚

的に思い浮かべると,接触感が“新しい”方向か

ら生じる。しかし,唇の接触感は,“古い”位置か

らなかなか抜け出せない。食卓についているとき

の手の動きから,唇は視線と足のあいだにある感

じであった。しかし,実際の唇の接触感は,どう

しても視線に対し,足とは反対側にあるとしか感

じられない。そのようなわけで,実際の接触位置

と[視覚が]示唆する接触位置は,強く競合する。

しかし,示唆される唇の接触位置に自分の唇があ

ることをがんばって視覚化すれば,実際の接触位

置は,“新しい”位置で起こっているように感じる。

こうした意図的視覚化や注意の維持がなければ,

実際の接触は不随意的に,“新しい”唇の位置とは

反対側に戻ってしまう。たとえ,額や髪の毛が

逆さめがね実験の古典解読 77

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“新しい”上側にあると感じられるときですら,口

もそれと同じ側にあると感じてしまう。しかし,

額や頭部の“新しい”定位は,口の位置を“古い”

定位から追い払う方向にあることは間違いない。

というのは,頭頂部の表象が“新しい”定位にな

っている状態なら,唇の接触を“新しい”位置に

感じるのに注意や視覚化の努力が少なくすむこと

を実感できるからである。口と頭頂部を視線に対

して同じ側に定位することを妨げようとする感覚

があることは事実である。そのため,どちらか一

方を視線の反対側にもってこようとする再定位が

行われる傾向がある。

ロッキングチェアに座ってイスを動かしながら,

自分の腕を,視野内をまたいで“古い”経験に基

づく肩があるとおぼしき視覚領域に動かした。そ

の領域に進んでいるにもかかわらず,手の動きに

抵抗を感じない感覚を繰り返し味わうと,自分の

肩や背中の“古い”表象を放棄し,“新しい”視覚

経験に調和する位置に[肩や背中を]定位する傾

向が強まる。その際には,自分の頭がほとんど耳

のあたりまで肩にめり込んでいるように思えるこ

とになるのだが。

視覚環境下において何かを能動的にやっている

と,“新しい”視覚経験と,しつこく残る“古い”

定位の抑制による調和が明確である。このことは,

過去数日間,述べてきたとおりである。受動的に

座っているときには,見えない身体部位は,[古い

定位に]戻ってしまう。しかし,ロッキングチェ

アに座ってイスを動かし始めると,肩や背中以外

の身体部位には“新しい”定位が進行する。歩い

ていると,手や足はリズミカルに視野に入り,背

中付近にぼんやりとした不調和感はあるものの,

意志や注意を必要とすることなく,“古い”定位が

完全に排除される。見えている身体部位について

は,“古い”経験と調和するように表象しようとし

ても,もはやできない。

自分の身体の“新しい”定位が生き生きしてい

る限り,経験全体は調和し,すべてのものは正立

している。しかし,すでに述べたように何らかの

理由で“古い”記憶への不随意的回帰が起これば,

あるいは意図的に“古い”形式を呼び起こせば,

“実験前”の身体定位が呼び覚まされ,否応なく目

の前の風景が定位の基準となり,自分の身体がそ

れらと調和しないと感じる。その際,私はひっく

り返った身体から[正立した]風景を見ているよ

うに思える。

*********************************************

残効

実験のおわり,すなわち逆さめがねを外すときが

やってきた。[いきなりすっかり外してしまうので

はなく]これまで慣れ親しんできた視野サイズに

できるだけ近い視野を保つことが最良と考えた。

そうすることで,観測されるすべての結果を,視

野の突然の広がりではなく,視対象の逆転に帰す

ことが明確にできるからである。そこで,顔から

石膏を取り除かずに,目を閉じているあいだに,

助手にレンズの入った真鍮の筒を抜いてもらい,

そこに視野サイズがほぼ同じになるように黒い紙

の筒を差し込んでもらった。

目を開けると,風景には奇妙な親近感があった。

視覚配置は,実験前のときの古い配置だとすぐに

わかった。しかし,この一週間に慣れ親しんでき

たのとはすべてが逆転した配置であることが,風

景に驚きを与え,とまどいが数時間続いた。しか

し,事物が逆さであると感じることはなかった。

身体や頭を回転させると,まるで風景が突然動

き出すかのように,目の前を通り過ぎていくよう

に思えた。逆さめがねを着け始めた第1日目に観

測された“視野の動揺”が,再び生き生きと戻っ

てきた。しかし,その動きは急速に弱まり,1時

間もすれば,ほとんど目立たなくなった。それで

も,その日中,あるいは翌朝になっても,気づく

程度には残った。

逆さめがね着用中には視覚配列に対して的確だ

った動きが,視覚配列が逆になった今,何度も繰

り返し行わなければならない状態に戻った。歩い

ているとき,障害物を避けようとすると,それに

あたってしまう。あるいは,どちらに進めばよい

か,非常な努力を要し,それでもどうすればよい

文学部紀要 第 57号78

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のかためらってしまう。ドアのノブをつかもうと

すると,手を出す方向を間違える。横に並んだ2

枚のドアを前に,間違った方のドアを開こうとす

る。階段に近づき上ろうとすると,ずっと遠くに

足を出してしまう。ノートに字を書いているとき,

ペン先を視野の真ん中に捉えようとしているのに,

頭が逆方向へ勝手に動いてしまう。頭を下に向け

るべきところで上に向けてしまい,右に向けるべ

きところで左に向けてしまうこともあった。逆さ

めがねの着け始めと同様,歩いているとき,めま

いがし,おなかのあたりが気持ち悪くなった。床

などの揺れも加わり,歩行中は気分がわるく,統

制がとれなかった。

身体部位の定位は,顕著な間違いを犯さなかっ

た。しかし,自分の手が“古い”下側から視野に

入ってくることには,一度ならず驚いた。

10ないし 12フィートほど離れたところにある

室内の事物が,“昔”の位置を失い,逆さめがね着

用中や着用前のときよりずっと上の方にあると思

えた。床はもはや水平を保っているようには思え

ず,自分の方に5°ほどせり上がるか,逆に遠くに

向かってせり上がっているかのように思えた。窓

など目につくものが,ずっと高い位置にあるよう

に思える。高さに関するこうした奇妙な感覚は,

(視野の動揺,気分の悪さ,不的確な動作などとと

もに)顔に着けられたギブスを外し,通常の視野

の広さに戻った後も続いた。翌朝,薄暗い明かり

のとき,床のせり上がり感や窓の位置の異様感が

再び意識された。

*********************************************

長々と時間をかけた適応過程を経て,調和がや

っと生まれた。“古い”見え方が変化したと捉える

より,“抑制”されたと見なすのが適切である。調

和が簡単に進行しなかったのは,対象物の位置が,

直接的な視知覚のみと結びついているのではない

ことを示している。“古い”触方向が力を持ち続け

ているがゆえに“古い”視方向がしつこく持続す

るのだということは,視方向は触方向に依存する

ものであると言わない限り,十分な答えは得られ

ない。目下のところ,もし依存関係があるとすれ

ば,視が第一義的と見なす証拠の方が有力である。

本実験では,正確に言えば,不一致は,触方向

と視方向のあいだにあるのではなく,触覚により

示唆される視方向と実際の視覚像から与えられる

視方向とのあいだにあると言える。そこで,真の

問題は,次のように定式化できる:触知覚は,何

ゆえこれほどまでしつこく,実際の風景と違う位

置や方向の視覚像を指し示し続けるのか?

その答えは,よく知られた,「触覚と視覚のロー

カル・サインの原理」にあるように思う。さらに

言えば,一対一対応が,一方の感覚からのサイン

が,もう一方の感覚における[別位置の]特定サ

インと結びつくようになると仮定できる。

[視覚と触覚の結びつきのような]構造化され

た経験に関しては,1つの感覚様相内での知覚は,

感覚系自身のローカル・サイン特性をもつだけで

はなく,そのローカル・サインを通じて他の感覚

系に対して,先の感覚系のローカル・サインに密

接に結びついたローカル・サインを指し示すこと

になる。このような考えに立てば,視覚のローカ

ル・サインは,触覚のローカル・サインと一対一

対応していることになる。ここで,一対一対応と

いうのは,両感覚のサイン間に,何らかの空間

的・質的同一性が存在するとか,両サインがよく

似たものであると言うのでなく,両サインが同じ

事象を意味するようになっていることを言ってい

るのである。2つの感覚様相間の知覚は,こうし

て同一のものとなり,異なった感覚様相間での異

なるローカル・サインは,ある1つの対象を知覚

するとき同時に起こることによって,同一の空間

的意味を持つようになる。ローカル・サイン同士

の対応が,異なる感覚様相の場において同一のも

のを知覚する重要要件であることに疑いはない。

ローカル・サイン同士の対応の強さこそが,実験

中,触知覚が長らく実際の視覚経験と矛盾し続け

たことを説明できる。[正常視状況での]視覚と触

覚のローカル・サインは,長い時間をかけて強固

に結びついており,視覚が変換されると,不一致

間がしつこく続くことになる。

逆さめがね実験の古典解読 79

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触覚と視覚の“再調和”の過程は,二重の作業

からなっている:(1)視対象・視覚観念は最初孤

立しているが,触覚系の部分として,ないしは古

い視覚系の部分として,系を構成するようになら

なければならない。(2)視覚から触覚,それと同

時に触覚から視覚への変換過程が完全に再構成さ

れなければならない。この再構成が完結するまで,

それぞれの感覚様相はお互い,矛盾に満ちた経験

を示唆することになる。

両者間の調和の再獲得は,決して触覚の側が視

覚の位置に変化することでもなく,その逆でもな

い。また,両感覚様相の相対的位置関係の変化で

もない。視覚と触覚の新しい関係の構築なのであ

る。触知覚は決してその位置を変えるのではなく,

新しい視覚変換を受けるのである。

古い触―視関係に基づく触覚からの視覚的示唆

の持続が,古い身体表象がしつこく残ることの主

要な理由である。その場合,触覚は常に存在して

おり,そのうえ身体はごく一部しか見えていない。

頭・首・肩・胴体上部は直接見ることができない。

影や反射像などは,これらの身体部位の新しい視

覚位置を育てるのにある程度影響力をもつが,あ

くまで間接的であり,持続的知覚の力となる直接

性はない。そのため,新しい対応関係が育つ可能

性は,ほとんど手や足に限られる。そのため,身

体全体が新しい定位になることはなかなか難しい。

身体の上下よりも左右の方が,古い表象がしつ

こく残った。この[異方性の]理由は,身体にお

ける触覚と視覚のずれは,身体の左右より,上や

下に通り過ぎるという高さの違いの方が強烈で印

象的だったためと考えられる。左右のずれは,上

下のずれより曖昧である。触覚経験を通して,視

覚像が古い左右関係によって呼び起こされたとし

ても,そのイメージは,上下方向での誤りの場合

ほどは新しい視覚経験とのあいだに決定的不一致

感を生まない。右の腕や脚の映像は,左の腕や脚

の代わりに,役目をうまく果たすからである。そ

して現実の視覚経験においても,同じものが右に

見えることも左に見えることもありうるので,あ

る特定の視覚像を特定の視覚の側(右か左か)と

固定的に結びつけることを妨げる。

身体の左右方向に関して古い定位がしつこく持

続することは,音源定位が古いまま,かなり長く

続くことの主な原因である可能性が高い。という

のは,垂直方向には,音源定位が広い角度にわた

って容易に順応的変化を遂げたのに対し,水平方

向ではそうならなかった。水平方向では,強い意

志の努力や意図的視覚化に頼ってやっと,新しい

方向での音源定位が可能であった。

能動的に行動することで調和が促進されるとの

見解は,一貫していた。歩いているとき,あるい

は見上げたり見下ろしたりしたとき,さらにはロ

ッキングチェアに座って自らイスを動かしている

ときは,自分自身の動きを新しい視覚的位置に見

立てることで,視野の動きと自分の動きは調和す

る。こうした行動を通して,経験全体が,受動的

で静止しているときには決して到達できないとこ

ろにまで到達し,不一致感解消が実現した。

逆さめがねを外した後,窓などの目立つ視対象

が高いところにあるように見えた現象は,逆さめ

がね除去後,からめがねを通して見たときより逆

さめがねを通して見たときの方が対象物が下に見

えたという事実に思い至るまでは不可解であった。

どうやらレンズを入れた筒の軸が,視軸と一致し

ていなかったようである。実験終了後数日間,こ

のことに気づかなかったため断定的なことは言え

ないが,視対象が上の方に見えてしまうという残

効は,光学的なずれに起因すると考えるのが適切

なようである[逆さめがね除去後のこうした上傾

残効は,他の研究者による実験でも認められてい

る]。

視覚と触覚の調和にとって,網膜像が外界像を

逆さに映し出していることは直接関係しない。し

たがって,「投射説」の主要な論拠は,よりどころ

を失う。また,[眼球運動説の主張に関して]頭や

目の運動方向は,(視覚それ自体に随伴する変化と

は独立に)純粋に筋感覚のみから判定されるので

はないという事実が多く見られた。逆に,目の動

きは,まもなく視野内に対象が入ってくる対象物

の運動方向とは逆方向に動くと感じるようになっ

文学部紀要 第 57号80

吉村.qx 08.9.24 6:46 ページ80

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た。たとえば,本当は目が足もと方向に向かって

動いたにもかかわらず,空の方に向かって動いた

と感じることがしばしばあった。それゆえ,知覚

される運動方向は,視対象の運動方向により決定

されるのであり,筋運動の絶対的方向感は決定子

とはならない。したがって,眼球運動説もまた,

有効とは言えない。

“調和”とは,種々の感覚様相中のある様相に

よって示唆される観念が,その様相による知覚と

一致することである。「触覚と視覚が一致する」と

言うとき,それは,視知覚が,触覚によって生み

出される視覚的示唆と空間的に一致することであ

り,また逆に,触覚が,視覚によって生み出され

る触覚的示唆と空間的に一致することを意味する。

ローカル・サインの対応という教義こそが,その

ような調和がいかにして獲得されるかを理解する

助けとなる。それと同時に,網膜上のどこを占め

ていようと,触覚と視覚の再調和の実現を理解す

ることも,ローカル・サインの教義は容易にして

くれるのである。

おわりに

19世紀終盤,30歳代のはじめに変換視研究に関

わる実験を集中的に行った Strattonは,その後20

世紀に入り,学的関心を心理学全般,さらには教

育実践に拡げることになった。1932年には来日し,

鶴見総持寺にある恩師 Ludd碑の墓参と法要に参

列する機会も得ている。京都大学教育学部図書館

にある著書(Stratton, 1903)には,自筆のサイン

が残されている(筆跡が本人のものであることを,

Tolman, 1961 で確認できた)。来日時に京都帝国

大学でも講演していることから,おそらくその機

会に自著にサインをしたのではないかと推察して

いる(Strattonの来日については,杉崎, 1941の

記載を参照)。

参考文献

杉崎 (1941).ジョージ・ストラットン著『児童心

意の開発』(古今書院)の付録「恩師のおもかげ」

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吉村浩一(1997).3つの逆さめがね[改訂版]─変

換された見えの世界への冒険─ ナカニシヤ出版

吉村浩一(1998a).ストラットンの問題 牧野達郎(編) 知覚の可塑性と行動適応 ブレーン出版

pp.17-36.吉村浩一(1998b).ストラットンとコーラー:逆さまの世界を探求した2人の心理学者 金沢大学文

学部論集行動科学哲学篇, 18, 1-12.

逆さめがね実験の古典解読 81

吉村.qx 08.9.24 6:46 ページ81

Page 14: 逆さめがね実験の古典解読...George Malcolm Stratton は,1896年と1897年, 自ら逆さめがねを着用する実験を通して得られた 知見を,Psychological

文学部紀要 第 57号82

A Japanese Translation of Stratton’s Two Epoch-Making Articles on Visual Transposition Experiments

YOSHIMURA Hirokazu

Stratton’s two classic articles, though they are important to understand essential features

concerning the visual transposition experiments, have a lot of descriptions difficult to under-

stand, especially for Japanese readers. In this paper, I realize the translation of their main parts

into Japanese, aiming at stimulating interests toward this field among Japanese researchers.

吉村.qx 08.9.24 21:33 ページ82