『演出研究』 (1963~68年)...2013/11/01  · 108 november 2013...

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108 NOVEMBER 2013 『演出研究』 (1963 ~ 68 年) ~ドキュメンタリードラマをめぐる議論を中心に~ メディア研究部 東山一郎 今回は,1960年代のNHK部内誌『演出研 究』について,第 7 号(65 年前期)の「ドキュメ ンタリードラマの可能性―「遭難」をめぐって―」 という小特集を中心に紹介する。 『演出研究』とは 文 研 資 料 室には,『演出 研 究 』の1 〜 14 号 (1963 〜 68 年)が保管されている。それらを 見ると,『演出研究 』が当時の芸能局の編集に よる部内誌であること,そして報道や編成,文 研など他の部局からの編集委員を構成し,幅 広く番組制作の探求を試みようとしていたこと, その前身として 56 年に発 刊し 80 号を数えた研 究誌『テレビワーク』という存在があったことが わかる。『テレビワーク』は,テレビ放送が始まっ て 3 年というところで,それぞれが経験したテ レビの仕事を整理し,体系化していこうという 意図から始まった部内誌であったが,『演出研 究 』はそこから一歩踏み出そうとする姿勢が感 じられる。第 5 号(64 年前期)以後の『演出研 究 』には,編集部による次に示すメッセージが 記されている。 「この「演出研究」誌はラジオ テレビを問 わず 演出と技術を含めた番組制作関係者全 員の 討論と話し合いの場でありたい」 テレビ制作の経験と情報の共有の場から, 番組制作の議論の場に,部内誌の意図が変化 したことからは,テレビ放送開始から10 年を 経て,テレビ制作現場がひとつ違う段階に移 行しただろうことがうかがえる。『演出研究 』が 取り上げたテーマは多岐にわたるが,ここでは ドキュメンタリードラマをめぐって誌上で展開さ れた議論の一端を紹介していく。 ドキュメンタリードラマ『遭難』 65 年 3月に放 送された『遭 難 』は,63 年に 北アルプスの薬師岳を目指した愛知大学山岳 部のパーティが猛吹雪の中で登頂を断念,下 山途中に全員が遭難死した事件の遺族を描い たもので,遺体が発見されない息子を探して独 力で捜索を続けたひとりの父親の姿を再現した ものである 注) 。その最大の特徴は,捜索する 父親や山岳ガイドなどの人物を,それぞれ本人 が演じている点である。『演出研究 』第 7 号で は,この『遭難 』をめぐって,演出を担当した 岡崎栄氏による「雑記」とドキュメンタリー制作 者 2 人の小論を掲載している。 まず,岡崎氏は企画に際し,「これは,その ままでもじゅうぶんに感動的なドラマとなり得 る。しかし,それをより感動的なものとするた めには,そこにある種の企画意図を加えなけれ ばならない」と感じ,「捜索の経過を克明に追っ た長期取材の作品」にするとともに,登場人物 は「すべて実在の人物でなければならない」と 考えた,そして,これをドキュメンタリードラマ と呼ぼうと考えたと記している。また,「虚構 が虚構だけに終わっている」ドラマと,「素材の

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Page 1: 『演出研究』 (1963~68年)...2013/11/01  · 108 NOVEMBER 2013 『演出研究』(1963~68年) ~ドキュメンタリードラマをめぐる議論を中心に~

108  NOVEMBER 2013

『演出研究』(1963 ~ 68 年)~ドキュメンタリードラマをめぐる議論を中心に~

メディア研究部 東山一郎

今回は,1960年代のNHK部内誌『演出研究』について,第7号(65年前期)の「ドキュメンタリードラマの可能性―「遭難」をめぐって―」という小特集を中心に紹介する。

『演出研究』とは文研資料室には,『演出研究』の1 〜 14号

(1963 〜 68年)が保管されている。それらを見ると,『演出研究』が当時の芸能局の編集による部内誌であること,そして報道や編成,文研など他の部局からの編集委員を構成し,幅広く番組制作の探求を試みようとしていたこと,その前身として56年に発刊し80号を数えた研究誌『テレビワーク』という存在があったことがわかる。『テレビワーク』は,テレビ放送が始まって3年というところで,それぞれが経験したテレビの仕事を整理し,体系化していこうという意図から始まった部内誌であったが,『演出研究』はそこから一歩踏み出そうとする姿勢が感じられる。第5号(64年前期)以後の『演出研究』には,編集部による次に示すメッセージが記されている。

「この「演出研究」誌はラジオ テレビを問わず 演出と技術を含めた番組制作関係者全員の 討論と話し合いの場でありたい」

テレビ制作の経験と情報の共有の場から,番組制作の議論の場に,部内誌の意図が変化したことからは,テレビ放送開始から10年を経て,テレビ制作現場がひとつ違う段階に移行しただろうことがうかがえる。『演出研究』が取り上げたテーマは多岐にわたるが,ここではドキュメンタリードラマをめぐって誌上で展開された議論の一端を紹介していく。

ドキュメンタリードラマ『遭難』65年3月に放送された『遭難』は,63年に

北アルプスの薬師岳を目指した愛知大学山岳部のパーティが猛吹雪の中で登頂を断念,下山途中に全員が遭難死した事件の遺族を描いたもので,遺体が発見されない息子を探して独力で捜索を続けたひとりの父親の姿を再現したものである注)。その最大の特徴は,捜索する父親や山岳ガイドなどの人物を,それぞれ本人が演じている点である。『演出研究』第7号では,この『遭難』をめぐって,演出を担当した岡崎栄氏による「雑記」とドキュメンタリー制作者2人の小論を掲載している。

まず,岡崎氏は企画に際し,「これは,そのままでもじゅうぶんに感動的なドラマとなり得る。しかし,それをより感動的なものとするためには,そこにある種の企画意図を加えなければならない」と感じ,「捜索の経過を克明に追った長期取材の作品」にするとともに,登場人物は「すべて実在の人物でなければならない」と考えた,そして,これをドキュメンタリードラマと呼ぼうと考えたと記している。また,「虚構が虚構だけに終わっている」ドラマと,「素材の

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強さによりかかって,その素材を越えて真実を再生産するという積極さに欠けている」ドキュメンタリーという2つの現実から,ドキュメンタリードラマは生まれて来たとも綴っている。

『遭難』をめぐる議論『遭難』を見たドキュメンタリスト2人の論評

は厳しい。上野満氏(教養部)は,「ドキュメンタリーとドラマには相反する要素が多い」,「一方は「作りもの」でないという迫力を追うものであり,一方は「作りもの」としての芸術である」,そして事実がいかにドラマ的でも,本人が再現した場合,その相反する要素を「主演者本人が両肩に背負わなければならない矛盾した結果を招く」と指摘している。その上で,ドキュメンタリーが素材に寄りかかり,おろそかにしてきた構成の中にドラマを組み立てる事が可能ではないか,「それは「作りもの」ではなく現実の記録の中から作者の創造力によって構成されるドラマである」と,ドキュメンタリーの側からドキュメンタリードラマの可能性を論じている。

瀬川昌昭氏(社会番組部)は,『遭難』をドキュメンタリードラマとするならば,その「意義や価値を認めたいとは思いません。一言で言って,面白くないからです」とし,その理由に,次に何が起こるか,物語がどう展開するかという興味なくしてドラマは成立しない,『遭難』では「遺骨は発見されるに決まっているし」,「意外性や物語り性が期待できないこと」がわかってしまっていることを挙げている。また,「しろうとに演技させる限界」から「リアリティー,アクチュアリティーのどちらも,期待することが困難」であると指摘している。そして,「ドキュメンタリーとドラマを粘土のように結合させた分野は想像」がつかないが,ドキュメンタリー

もドラマも「創造ということに帰一するもの」で,「創造は表現であり,表現とは自己の発現,思想の表現」である。「めいめいが語るべき思想を持ち,その表現方法の発展と発見を目指すならば,土俵がドラマであれ,ドキュメンタリーであれかまわない」と思うとまとめている。

以上の議論からは,テレビの方法論を模索していた時代の「温度」や,「議論の場」としての部内誌の意義が感じ取れると思う。

ドキュメンタリードラマの可能性岡崎氏が,2人の論を踏まえて書いたのか

否かはわからないが,「雑記」ではドキュメンタリードラマについて,「異質な二つの形式の接点として,ひとつのジャンルとして確立されるためには,当然,そこには豊かな可能性がなければなりませんが,しかし,僕は,今,その可能性にまったく絶望しています」としている。しかし,岡崎氏はその後もドキュメンタリードラマを作り続けた。2005年放送の『NHKスペシャル 望郷』もその一つである。『遭難』が全て再現ドラマであるのに対し,『望郷』は前後の短いドキュメンタリーで役者によるドラマを挟みこむ形で構成されている。『遭難』と『望郷』は直線的につながるものではないが,その「間」にあるだろう思索の過程がどのようなものだったのか,とても興味深く感じられた。

ドキュメンタリードラマについては,岡崎氏だけでなく多様な試みがなされてきた。以上のような『演出研究』誌上の議論は,そうした展開の出発点であると同時に,ドキュメンタリーとは,ドラマとは何かについて改めて考える上でも示唆に富む資料である。(ひがしやま いちろう)

注) 「NHK アーカイブス にっぽん くらしの記憶」http://www.nhk.or.jp/archives/kurashi/library/

NOVEMBER 2013