第5章 農業奉公人制度の衰退過程 - so-net50 第5章 農業奉公人制度の衰退過程...

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50 第5章 農業奉公人制度の衰退過程 第1節 循環的変化 第1項 結婚の季節性 農業奉公人制度は1450~1900年にかけて2つの長期波動を経験している。15世紀には 広範に奉公が展開していたが、17世紀中頃まで後退が続く。17世紀後半から18世紀中頃 まで再び隆盛を迎え、18世紀後半から消滅過程へ移る 143 こうした循環的動向は、結婚の季節性という指標から窺うことができる。結婚の季節性 から農業奉公人制度の消長が判るのは、農業奉公人は年季契約の間結婚できないので慣習 的な仕事納め日が来ると堰を切ったように結婚するからである。 農業奉公人の結婚の季節性をさらに詳しく見ると「危険性」の問題が出てくる。例えば 穀作地帯の農業家は収穫期になると労働者をかき集めるため高い賃金を払う。その結果労 働者が収穫期の賃金を逃すことは大きな機会所得損失となる。繁忙期と高賃金の関係は牧 畜農業でも同様である。奉公人は賃金を元手に結婚し世帯を築かなければならないので機 会所得損失は大きな痛手と なる。もし恋人たちが農作 業と危険性に関して合理的 判断を下すなら、繁忙期の 高賃金を得た後に結婚する はずである 144 。実際には 全ての新郎新婦が合理的判 断を下したわけではない。 年季明け直後の結婚という 慣習的に従えば事足りるか らである。 一方日雇い労働者は年季 契約に拘束されないので結 婚の時期を比較的自由に選 べる。そのため目立った季 節性は現われない。これを 利用すれば農業奉公人制度 図5.1秋の結婚数と春夏の結婚数の比較 出典:Kussmaul [ 10] pp.26

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Page 1: 第5章 農業奉公人制度の衰退過程 - So-net50 第5章 農業奉公人制度の衰退過程 第1節 循環的変化 第1項 結婚の季節性 農業奉公人制度は1450~1900年にかけて2つの長期波動を経験している。15世紀には

50

第5章 農業奉公人制度の衰退過程

第1節 循環的変化

第1項 結婚の季節性

 農業奉公人制度は 1450~1900 年にかけて2つの長期波動を経験している。15 世紀には

広範に奉公が展開していたが、17世紀中頃まで後退が続く。17世紀後半から18世紀中頃

まで再び隆盛を迎え、18世紀後半から消滅過程へ移る143。

 こうした循環的動向は、結婚の季節性という指標から窺うことができる。結婚の季節性

から農業奉公人制度の消長が判るのは、農業奉公人は年季契約の間結婚できないので慣習

的な仕事納め日が来ると堰を切ったように結婚するからである。

 農業奉公人の結婚の季節性をさらに詳しく見ると「危険性」の問題が出てくる。例えば

穀作地帯の農業家は収穫期になると労働者をかき集めるため高い賃金を払う。その結果労

働者が収穫期の賃金を逃すことは大きな機会所得損失となる。繁忙期と高賃金の関係は牧

畜農業でも同様である。奉公人は賃金を元手に結婚し世帯を築かなければならないので機

会所得損失は大きな痛手と

なる。もし恋人たちが農作

業と危険性に関して合理的

判断を下すなら、繁忙期の

高賃金を得た後に結婚する

はずである 144。実際には

全ての新郎新婦が合理的判

断を下したわけではない。

年季明け直後の結婚という

慣習的に従えば事足りるか

らである。

 一方日雇い労働者は年季

契約に拘束されないので結

婚の時期を比較的自由に選

べる。そのため目立った季

節性は現われない。これを

利用すれば農業奉公人制度

        図5.1 秋の結婚数と春夏の結婚数の比較

  出典:Kussmaul [10] pp.26

Page 2: 第5章 農業奉公人制度の衰退過程 - So-net50 第5章 農業奉公人制度の衰退過程 第1節 循環的変化 第1項 結婚の季節性 農業奉公人制度は1450~1900年にかけて2つの長期波動を経験している。15世紀には

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の歴史的消長を追跡できる。というのも農業奉公人と日雇い労働者は労働市場で代替関係

にあったからである145。

 結婚の季節性は歴史的に変化する。図5.1はオーウェル(厳格な閉鎖村落)、アルバーベ

リ(森林に覆われた牧畜教区)、ロックデイル(ランカシャー中心部の工業教区)の資料であ

る。季節性は直線的ではなく循環的に変化している。

 しかし弱点もある。結婚は宗教行事なので、もろもろの祭日から偏向を受けるのである

146。例えば教会法が四旬節と降臨節の間の結婚を禁止していたせいで、近世では3月と12

月の結婚が少ない。3月に結婚できなければ4月以降の結婚が増えるだろう 147。ただ図

5.2を見ると、1640年以降結婚の時期に対する宗教の影響は縮小したらしい。

第2項 奉公と人口変動

 ここでは結婚の季節性のうち「10 月の結婚」を検討する。これは穀作地帯で収穫が終

わった後の10~11月に行なわれる結婚の便宜的名称である。

 図 5.3 は 1546~1841 年の資料で、農業奉公人制度の長期波動の前半部分に注目してい

る。1653年に結婚数が激減しているのはハードウィック婚姻法による攪乱である。図5.3

によると17世紀半ばまではミカエル祭後の結婚は減少している。しかし1656~1741年に

なると増加に転じ、1741年以降再び急減する。

 図5.2 1538~1560年から1801~1840年までの月ごと結婚数の地理別分布

出典:Kussmaul [10] pp.39

Page 3: 第5章 農業奉公人制度の衰退過程 - So-net50 第5章 農業奉公人制度の衰退過程 第1節 循環的変化 第1項 結婚の季節性 農業奉公人制度は1450~1900年にかけて2つの長期波動を経験している。15世紀には

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 結婚の季節性を左右する要

素は3つある。人口増加、生

活費、穀物と畜産の相対価格

である。我々はこの点につい

てさらに追究を続ける。

 農業奉公人制度の循環的動

向を左右するものとして、第

一に人口増加が挙げられる。

近世イングランドの人口は、

17 世紀までは増加、1656~

1741年までの「長い17世紀」

は停滞、1741 年以降は再び

人口爆発に転じる。

 人口増加は農業奉公人制度

に負の影響を与える。イング

ランドの家族構造(単純世帯

制度)、相続慣習、土

地保有の下では農村の

人口余剰は簡単には吸

収できない。人口圧力

の上昇は、土地のない

成人と無産労働者の増

加をもたらす。その結

果農業家は奉公人を必

要としなくなる。特に

穀作地帯の場合、農閑

期の雇用維持義務がな

い日雇い労働者に比重

が移る。16 世紀後半

~17 世紀前半の奉公

人減少が生じたのはこ

うした理由からである。

 しかし 1656 年~

1741 年の「長い 17 世

紀」には一転して奉公

図5.3 10月の結婚の比率(実線はイングランド南東部の    農業教区、点線はイングランド全体)

出典:Kussmaul [9] pp.98

  図5.4 労働力編成別の20歳以上未婚者人口の比率

出典:Kussmaul [9] pp.115

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人が増加する。この時期の人口減少は原則的に出生力減少が原因なので、人口全体に占め

る若者の数も減少する。農業家は労働力を確保するため、年季契約で若者を拘束し農場に

留める羽目に陥る。また若者も季節的失業のない農業奉公人を好んだので、大部分は奉公

人となった。その結果図5.3に示されるようにミカエル祭後の結婚が増加する148。

 さらに農業奉公人制度と人口増加は相互に作用しあう。図5.4の横軸は農業労働者に占

める奉公人の割合で、縦軸は未婚者比率である。グラフは正の相関を示している。つまり

農業奉公人の数が増えれば増えるほど未婚者比率は上昇するのである。一般に高い未婚率

は西欧型結婚類型の特徴なので、図5.4は農業奉公人制度と晩婚構造を結びつける証拠と

言えるだろう。

 西欧型結婚類型の結果は既に述べてある。結婚年齢が上昇すると生殖可能期間が短縮さ

れ、さらに妊娠可能な女性の世代間隔が延長されるので人口は強力に抑制される。人口減

少は農業奉公人の需要を増大させ結婚年齢を引き上げるので、人口はさらに抑制される149。

 けれどもこの循環論法では人口の長期波動を説明できない。一度減少に転じた人口がな

ぜ増加するかは人口学だけでは解けないのである。我々は生活費との関連を見ることで、

さらに説明的な領域へ踏み込んでいく。

第3項 現物支給と貨幣賃金

 農業家は奉公人を扶養する義務があるので 150、生活費が上昇すると奉公人雇用を減ら

す。生活費が低ければ現物支給を大幅に増やせる奉公人を選好する 151。図 5.5 は生活費

の長期変動を示している。これを 10 月の結婚に関する図 5.3 と併せて解釈すると次のよ

うな結論が得られる。

 16~17 世紀前半生活費は急上昇している。この時期 10 月の結婚は傾向として低下して

いる。生活費の上昇は17世紀中頃にいったん終わり、18世紀中頃まで安定的に推移する。

これは10月の結婚が盛んな時期と一致する。しかし19世紀初頭、ナポレオン戦争による

ハイパーインフレーションに入ると激減する152。

 ただし「労働の即用性」という攪乱要素には注意が必要である。16~17 世紀前半に生

活費が上昇した際、確かに 10 月の結婚は減ったものの水準自体は高位置にある。これは

農業家が労働の即用性を重視したためである。

 生活費の変動は実質賃金にも影響を及ぼすだろう。図 5.6 はリグリーの研究した 1541

~1881年の実質賃金変動である。

 実質賃金上昇には2つの側面がある。1つは奉公人供給の抑制である。農業奉公人制度

には費用のかかる子供をよそへ預けるという側面があるが、実質賃金が上昇するとその誘

因がなくなるのである。若者にしても新たに独立した世帯を築く負担が減るのであくせく

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奉公する必要はなく

なる。

 しかしそれ以上に

重要なのが実質賃金

上昇による日雇い労

働者の供給不安定化

である。実質賃金が

上昇局面に入ると日

雇い労働者の供給は

信頼できなくなる。

これは前工業化期の

労働者が慣習的な生

活水準に満足し、そ

の水準を維持するの

に必要なだけしか働

かないことから発現

する余暇選好性のた

めである 153。農業家が土

地、資本、収穫への危険性

を避けるには、年季契約で

奉公人を拘束するしかない

154。

 余暇選好性は 17 世紀後

半~18 世紀中葉にかけて

強力に発現した 155。この

時期は農業奉公人制度が伸

長した時期なので、実質賃

金上昇による奉公人供給の

抑制は余暇選好性の前に無

力だったことになる。農業

奉公人制度の背景にある、

思春期の反抗や農業技術習

得への欲求が実質賃金とは

無関係であることも前者の

要因に逆らって働く。

          図5.5 生活費の変動(1541~1841年)

 出典:Kussmaul [9] pp.102

   図5.6 実質賃金の変動(1541~1881年イングランド)

  出典:Kussmaul [9] pp.112

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 派生的な議論として生活費上昇による人口増加がある。これは貨幣賃金の変動が生活費

より安定しているため、農業家はインフレ局面に入ると貨幣払いの多い日雇い労働者の比

重を高めることに起因する。農業奉公人制度が後退すると予防的制限も弱まり人口は増加

する156。

第4項 農業奉公人制度の物価依存性

 我々はここまでもっぱら 10 月の結婚にのみ注目してきた。しかしその他の月の結婚数

を見ることで新たな展望が得られる。図5.7は、ミカエル祭後の結婚が減少した分その他

の月の結婚が増加することを示している。興味深いのは、10 月の結婚の減少分は多くが

4~6月の結婚によって補償されている点である。一方図5.8を見ると、イングランド西

部の牧畜地域では17世紀以前4~6月の結婚が減少した分10月の結婚が増えている。

 10 月の結婚と4~6月の結婚には相補性が存在するのである。そこで 10 月の結婚、す

なわちミカエル祭後の結婚が支配的な型を穀作類型、4~6月の結婚が支配的な型を牧畜

類型と大別する。穀作類型と牧畜類型はイングランドの南部・東部-北部・西部という大

局的な地理区分に合致すると同時に、歴史的にも勢力を変化させている。我々が注目する

のは歴史的変化である。

 穀作と牧畜の相補性

は全ての地域で成立す

るわけではない。農業

は物理的条件に制約さ

れるからである。しか

しミッドランド地方に

はそうした制約が存在

しない。そのため農業

家は現時点での製造費

用、政府の政策、天気

の傾向など短期的要因

をもとに穀作か牧畜か

決定する 157。ここで

は意思決定の指標とし

て穀物価格と畜産価格

の比率に注目する。

 穀物価格は 16 世紀

      図5.7 イングランド南部、東部の結婚の季節性

    出典:Kussmaul [9] pp.106

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中頃まで急上昇するが、

1630 年まで漸増、1650

年代初頭まで再び急上昇

し、その後 1740 年代ま

で下落、それから再びイ

ンフレーション期に入り、

ナポレオン戦争期の価格

抑制を迎える。図5.9に

示した価格比の長期波動

を支配しているのは明ら

かに穀物価格である158。

そのため農業家は穀物価

格を見て穀作か牧畜か決

定すれば良い。17 世紀

中頃に牧畜への移行が促

進され、1740 年代以降

穀作への転換が進展した

のはこうした事情による。

 この長期波動は農業奉

公人制度にも影

響を及ぼす。穀

作は農閑期があ

るので通年雇用

の奉公人を増や

すと不経済にな

る。しかし牧畜

には拘束労働力

が必要なので奉

公人需要が増加

する。

 奉公人の増減

は結婚の季節性

に変化をもたら

す。図 5.7 で

1650 年まで 10

    図5.8 1539~1839年イングランド西部の結婚の季節性

    出典:Kussmaul [9] pp.109

          図5.9 小麦対畜肉の価格比(1500~1820年)

    出典:Kussmaul [9] pp.104

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月の結婚が減少しているのは、若い日雇い労働者が増加した結果である。

 ただし日雇い労働者の増加が結婚の季節性を低下させない場合もある。農業家は日雇い

労働者が払底すると奉公人雇用を強いられたからである。また17世紀第4四半期までに、

小麦価格抑制は新しい混合農業の採用を促す方向に変化する。新農法は季節労働が多いの

で、奉公人を選好しない傾向が強い。

 以上をまとめると次のようになるだろう。既知の事実として 19 世紀以前の物価は貨幣

供給より実物市場、特に穀物市場に規定されている。そのためインフレ期には穀作が有利

になるので、季節労働力需要が増大し日雇い労働者が選好される。一方デフレ期には畜産

価格の相対的安定性から牧畜が選択されるので、通年雇用が増加し奉公人が選好される159。

 ただし物価にもとづく農業奉公人制度の循環的変動が該当するのは18世紀までである。

それ以降、農業奉公人制度は衰退の一途をたどる。

第2節 救貧法と定住法

第1項 貧民の意識

 農業奉公人制度の崩壊は年季契約が切り崩されるところから始まる。雇用契約の多様化

は、救貧法と定住法への反応から生じたものである。

 救貧法については社会福祉の原始形態か搾取の手段かという議論があるがここでは深入

りしない。ただ単純世帯地域の貧しい独居者(特に老人)、非家族世帯に属する人々は、結

合世帯地域のように家族、世帯、親族による保護や援助を期待できないので公的扶助に頼

らざるをえなかったことは間違いない 160。イングランドで親族の支援が期待できなくな

ったのは 17 世紀頃らしい。1540~1640 年にかけて、庶民の家族に対する地域共同体の支

配が部分的に強化される一方、親族の役割が後退したのである161。

 地域共同体の支配が強化された一因は、救貧法が教区単位で施行されたためである。教

区救貧の対象は教区民だけなので、救貧扶助の希望者は定住権を確保して地域共同体の正

式な成員とならなければいけない。定住権を得る方法には「出生」「夫婦、親子による派

生的取得」「世帯主になること」「一定期間雇用関係にあること」があるが 162、最も一般

的なのは1年間雇用を継続する方法であった。

 教区救貧制度に対する被救恤民の態度は、現代の生活保護申請者と大分違っている。彼

らは教区扶助の請求に必要な定住権を家族の法定相続動産として扱い、定住証明書を父か

ら子へ相続していたのである。また定住法は貧民の移動を制限するが、そうした抑圧は教

区救貧を受けるための担保であり、扶助を受けることで補償可能とされた。貧民は救貧法

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を目の敵にするどころか庇護を見出し、ひいては「貧民の奇妙な特権」扱いしていたので

ある163。

第2項 農業家の懸念

 アダム・スミスは定住法が貧民を不当に抑圧していると激しく糾弾した。しかし定住法

を目の敵にしたのはむしろ農業家である。教区救貧を所得再分配という視点で捉えれば、

救貧法は富裕層の所得を吸い上げ貧民にばらまく施策に他ならないからである。

 それでも 17 世紀後半~18 世紀前半までは農業家も救貧税負担を甘受していたらしい。

けれども18世紀後半に入ると集団的、地域的エゴを剥き出しにしてくる164。

 地主、農業家層の態度が変わった理由は貧民の激増である。土地から切り離された貧民

は雪崩をうって開放耕地に流入し、教区の重荷となったのである。教区利己主義が台頭し

たのは、貧民の大群から教区の財産を守るためである。

 扶助の支払総額は 1770 年以前から上昇しており、物価の高い年に極みに達し、その後

      図5.10 救貧支出の増加(実線はアルドレイ、破線はセント・オシス)

    出典:Snell [20] pp.89

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同じ比率で上昇を続けた。コルネイスとカールフォード(サフォーク)のハンドレッドでは

1780年代初頭から、イートン・ソコン、ペーヴナム、ロクストン(ベドフォードシャー)、

アンティンガム(ノーフォーク)では 1790 年代から上昇している 165。図 5.10 はアルドレ

イ(実線)とセント・オシス(破線)の救貧支出を図示したものである。上の線は年間の救貧

支出総額、下の線は人口と小麦価格で調整した1人当たり救貧支出である。

 貧民への扶助が増えれば救貧税負担は重くなる。それでも救貧扶助を続ければますます

多くの貧民を引きつける。教区は失業者であふれかえり教区救貧制度は破綻する。こうし

た懸念に対し農業家は2つの反応を示した166。

 1つは農業奉公人を既婚労働者で置き換えてしまうことである。奉公人の生活費は全額

農業家の負担だが、労働者は違う。彼らはスピーナムランド制度の救貧扶助を受ける分低

賃金で雇用できる。しかも救貧税は教区内の全居住者が担税能力に応じて負担するので、

これらの人々が納付する分農業家は得をするのである。ついでに失業した若者を教区外へ

追い出せばよその教区の重荷になるので一石二鳥である。

 もう1つは「予防的制限」である。農業家どうしで男性の奉公人を雇わない盟約を結ん

だり、教区の民生委員と協力して奉公人の定住を妨げるのである。定住に際し農業家が科

料を課す事例もしばしば見られる167。

 しかし定住を阻止する決定打となったのは、年季契約形態の放棄である。

第3項 51週間の雇用契約

 教区救貧を受けるには定住権を確保しなくてはならない。農業奉公人制度が盛んだった

頃は、雇用を1年間継続し協定賃金を受け取れば定住権を得られた168。

 教区利己主義の台頭は、教区の紳士を年季契約形態の破棄に駆り立てた。19 世紀に入

ると、農業家は奉公人を雇う際契約期間を1年未満に抑え込み、それが無理なら1年を経

過する前に教区から追い出す算段をつけるようになった。

 全雇用に占める1年未満の雇用の割合は18世紀中頃から継続的に増加している。表5.1

を見ると、特に「51 週間の雇用契約」が目立って伸びている。これが定住を阻止するた

めの年季雇用契

約であることは

明白である 169。

そのほかにも契

約期間を3、6、

9、11 カ月に

設定する例や、

              表5.1 年季契約の衰退(単位%)

1741~1750 1801~1810 1811~1820 1831~18401年未満の雇用 1 11 - 25

51週間の雇用 - - 3 23

通年雇用 - - 87 66   出所:Kussmaul [9] pp.125を編集

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通年雇用だが契約は月極という形態も現われる。通年雇用を努力目標とした週給制もある。

雇用契約は制度の末期になると非常に多様化する。それも全て定住阻止をもくろむ農業家

の執拗な努力の賜物であった170。

 1年を数日残して奉公人を解雇する方法も採られた。ケントでは雇用の締め日であるミ

カエル祭から3日経つまで雇わなかったが、これも同様である。1年365日に1日でも欠

けると定住権は獲得できないので、農業家にとっては効果的な方法だったのである。しか

し貧民からははなはだ嫌われた。定住を目前で阻止されるからである。定住調査官も「1

年に数日欠ける雇用」には否定的だったが、農業家の強硬姿勢の前には無力であった171。

 言いがかりをつけて無理矢理奉公人を追い出すことも増えた。1782 年エドワード・フ

ッジ(Edward Fudge)が解雇されたのは「犁の引き縄を壊したから」である。アン・プリー

ス(Ann Preece)は 18 世紀初頭「1年に数日欠ける雇用」に遭い定住調査官に不服を申し

立てたが、主人は聞き入れず賃金を全額払って解雇した(通常はかなり高い賃率で減額さ

れる) 19 世紀バークシャーのある奉公人はミカエル祭の3週間前に解雇された。という

のも何夜か無断外出していたからである(昔は全く非難されなかった)

 奉公人も必死に抵抗したが、1834 年救貧法改訂法が施行されると雇用による定住権獲

得はもはや不可能となった。それどころか新しい救貧法はごく普通の農場や工場での労働

が魅力的に見えるくらい救貧院での生活を不快にすることを狙っていた。救貧院での試練

の効果は絶大だった 172。19 世紀になると最後の通年雇用から定住調査までの期間が非常

に長期化し、4年から9~12年通年雇用されないのが常態化したのである173。

 奉公=通年雇用の図式は崩壊した。

第3節 消滅

第 1項 インフレーションと賄手当付賃金

 雇用契約の短期化に続き、奉公から「住み込み」の要素がなくなる。18世紀中頃から、

人口増加、生活費の上昇、穀物価格の天文学的上昇、救貧法改訂法によって農業奉公人制

度の循環的下降が始まる。イングランド南部と東部では囲い込みと耕地整理、大規模な穀

物生産への転化が進み、農業家は日雇い労働者への移行を強めた。奉公人を雇用するのは

小規模で非効率的な農場だけになった。

 1790 年以降、ハイパーインフレーションはイングランド全土で穀作類型の勢力を伸長

させ、奉公人制度を後退させた。さらに混合農業(新農法)は労働の季節性が大きいので、

なおさら通年雇用にそぐわなかった。労働力は日雇い労働者化した。

 物価上昇の煽りを受け、農業家は奉公人の生活費を深刻視するようになった。1790 年

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代~1810年頃の間に日雇い労働者の賃率は3%上昇した。一方農業奉公人は1.1%の賃率

上昇に留まっているものの生活費は 79%も上昇している。農業家は生活費の乱高下を敬

遠し、もはや労働の即用性など問題にしなかったのである174。

 W.コベット(Cobbett)は次のように述べている。

「なぜ今では農業家が労働者に食事をさせたり下宿させたりしないのか。なぜなら以前の

ようなかくも安い賃金では雇っておけないからだ」「多くの人々が同じ小屋で賄いを受け

る方が別々に住むよりも安上がりだった」「農業家が以前使わせていたもの全て(農業家の

家にある奉公人のための調度品)を今では使わせず賃金を切り詰めることによって、労働

者に食事をさせるよりもそれだけ利得を得るのである」175

 奉公人の側も当初は「住み込み」の撤廃を歓迎した 176。住み込みの代わりに「賄手当

付賃金」を受け取れば、雇用主の家父長的監督からいち早く逃れられるからである。アー

サー・ヤングは1770年ウォーターデンでそうした変化があったと記している。

「農業奉公人に対し賄手当付賃金を認めることに関しては、家で食事をさせる古い方法の

代わりになっている……。彼らは主人の目を逃れ、お楽しみのために一緒に眠り、教会

にはほとんど顔を出さない。最も有害な慣習である」177

 住み込みの消滅過程は次のように表わせる。賃金に賄手当が付加される。それによって

奉公人が自分でやりくりできると期待する。その後農業家が住み込みの慣習を忘れる。や

がて労働者と奉公人の区別がなくなる。

 しかし現実は厳しかった。労働者は現金払いを受けることでインフレーションに直撃さ

れたのである。

「労働者はコテージと呼ばれるあばら屋を引き払った。賄いや下宿の代わりに、彼らは金

を得た。だがワインを飲めるほどではない」178

第2項 人口増加、失業、日雇い労働者

 18 世紀後半、人口爆発が一巡する頃には労働力の構造そのものが変わっていく。日雇

い労働者が信頼可能になるからである。

 この時期、人口は持続的に増加している。労働供給も拡大の一途をたどる。にもかかわ

らず労働需要は自然的成長に追いつかなかった。結果は失業の増加である。実質賃金は低

下し、労働者の余暇選好性発現の機会は失われ、短期の労働供給も増加傾向に転じた179。

Page 13: 第5章 農業奉公人制度の衰退過程 - So-net50 第5章 農業奉公人制度の衰退過程 第1節 循環的変化 第1項 結婚の季節性 農業奉公人制度は1450~1900年にかけて2つの長期波動を経験している。15世紀には

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 日雇い労働者が死に物狂いで働くようになって初めて、農業家は労働の即用性に悩まな

くなったのである。エセックス州フェアステッドのジョン・コックス師(John Cox)は 1847

年「私は奉公人を1年単位で雇うことはないだろう。週単位で働く労働者を潤沢に得られ

るから」と述べている 180。農業収入はインフレより断続的な不況に脅かされたので、彼

らは固定労働力として最低限の奉公人もしくは専門労働者を置き、残りは必要に応じて臨

時労働者を雇用することで費用を切り詰めた181。

 新しい労働力編成は特に新農法で有効であった。新農法は伝統的な農業と異なり、多く

の土地が生産に組み入れられ、集約的な土地利用法と新しい輪作体系が採用され、年間を

通じて労働時間が延長される。しかも農閑期と繁忙期が1年に何度も繰り返される。奉公

人を使う従来の粗放経営は、労働集約型経営に置き換えられていった182。

 グラスゴー近辺の250エーカーの大農場ではそれが極端化された183。

1. 常雇いの人員は3~4人の犁夫と2人の女性の奉公人

2. 冬期の補助的労働者がごく少数

3. 4月の馬鈴薯植え付けに20~24人の女性

4. 5月末の馬鈴薯の除草は30~40人の女性

5. 5月末~6月の蕪の中耕も30~40人の女性

6. 10月の蕪掘りには60~70人の女性

 この農場には通年雇用の労働者が5~6人しかいない。残りは全て季節労働者である。

加えてアイルランド移民の利用は労働需要の構造を一変させた。

 物価依存の雇用動機という考え方がある。18 世紀末~19 世紀の物価の推移と失業者増

加を所与とするなら、全ての変化は経済合理的なのである。しかしかつての慣習とは相反

する変化であった 184。多くの若者は安定した通年雇用と十分な食事を求め奉公人になろ

うとしたが、農業家は合理的な短期契約と賄手当付賃金で遇したのである。労働者の窮乏

ぶりはひどかった。1777 年、W.マーシャル(Marshall)に雇われた労働者はササゲを満足

気に食べている185。

第3項 農業恐慌

 スネルは農業奉公人制度や通年雇用を支持する要素として、低物価・農業好況・混合農

業・畜産・多数の家畜・穀物生産の余剰を列挙している。

 19 世紀初頭のイングランド南部、東部にはその片鱗すらない 186。カスモールは奉公人

を不要にし労働者を貧窮させる循環過程を描いている187。

 救貧税が高いと、生活費を全額負担してまで奉公人を雇う魅力が薄れる。労働需要は既

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婚の日雇い労働者に移り、奉公人として雇用される若者が減少する。日雇い労働者は貨幣

賃金を受け取るので常にインフレの危機にさらされる。季節的失業と循環的不況が追い打

ちをかける。救貧制度に頼る者が増加し、救貧税が上昇する。

 実際、奉公人の数と救貧支出の間には逆相関関係が成立する。日雇い労働者の比率の高

い地域では救貧支出も多いのである。

 もちろん奉公の衰退と失業者の増加は地域によって異なる。イングランド北部と西部で

は 19 世紀に入ってなお農業奉公人制度が大きな力を持っていた。28 万人の奉公人を対象

とした調査によると、74%がドーセット、ウィルトシャー、ノーサンプトンシャー、ケン

ブリッジシャー、ノーフォークを結ぶ線の北側に住んでいる 188。イングランド北部では

囲い込み、耕地整理、農業の大規模化が貫徹されず、南部からの労働移動も乏しかったか

らである。加えて工業化は農業部門に労働者不足を生じさせ、農業家に奉公人雇用を強い

た。人口稀薄地帯

でも、労働市場と

の接触が制限され

たので農業奉公人

制度が存続した。

 しかしイングラ

ンド南部と東部で

は農業奉公人制度

の崩壊は留めよう

もなかった。1851

~1871 年、穀物

法廃止により畜産

価格に優位が生じ

たが、18 世紀以

前のような循環的

変動は生じなかっ

た。貧民を貧民監

督官として雇用す

る慣習を救貧法改

訂法で廃止しても、

農業家の定住懸念

はなくならなかっ

た。

 1830 年代まで

  図5.11 1851年イングランドの農業奉公人1人当たり労働者数       (20歳以上の男性)

  出典:Kussmaul [9] pp.131

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に、イングランド南東部の若者の多くは経済的独立を望めなくなっていた。農業奉公人は

結婚後も日雇い労働者として他人に使役されるしかなかったからである。図 5.11 を見る

と、1851 年には既に奉公人雇用そのものがなくなっている。貧民の若者の大半は日雇い

労働者としての生涯を運命づけられた189。

「私は彼らを通年雇用しない。……なぜなら週極労働者を潤沢に得られるようになって

以来、そうする必要がなくなったからである」190

 エセックスのある農業家は 1847 年末にそう公言した。ここでは労働者 440 人につき奉

公人1人きりであった。

第4節 ヨーロッパ北西部の世帯経済

 イングランドのライフサイクル奉公人制度の代表である農業奉公人制度は、近世を通じ

て若年人口の圧倒的大部分を支配してきた。人口全体で見ればせいぜい10%だが、15~24

歳人口では 30~60%が奉公していたのである。近世イングランド農業は雇用労働力の2

分の1~3分の1を農業奉公人制度に依存していた。もちろん農業奉公人への依存は地域

によって差がある。一般に牧畜が盛んな地域では拘束労働力の需要が大きいので奉公人需

要が増大する。そのようなわけで特にイングランド北部、西部で盛んであった。

 子供は平均 14.5 歳で奉公に出ると、年ごとの雇用市などを利用しながら転々と雇用主

を替えていった。これは奉公が終了するまで続く。奉公を辞める決断は、土地が入手可能

になるか 191、住宅や将来収入の見込みがたつか 192、さもなければ求婚欲求度が臨界点を

超えた時点で下される。

 単純世帯制度では家族外労働力が決定的に重要で、奉公人がいなければ農業経営の正常

な続行は不可能であった。特に家族ライフサイクルでいうと、子供が小さいうちは扶養負

担が大きいので奉公人需要が生じる。一方奉公人を供給したのは農村のほぼ全ての階級に

渡る。これは他人に子供を養わせる魅力が強かったためである。

 奉公人の賃金は性や年齢で差別化されていた。一般に男性、青年は女性、児童より高賃

金である。現物給与の多さも特徴で賃金全体の 20~42%を構成していた。これら全てを

合計すると奉公人雇用は決して安上がりではないが、労働の即用性という機会費用の問題

が重視された。

 しかし経済事情の変化とともに奉公人を使う必要性が減ずる。表5.2は住み込み労働者

を雇用しない理由を尋ねた 1834 年の調査の結果である。上位に挙がっている「定住を懸

念」「余剰労働力」「費用削減」はいずれも経済事情と関係している。

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 農業家が定住を懸念し奉公人を雇わなかったの

は、定住法の規定がある。それによれば1年間雇

用が継続し協定賃金を全額支払われれば、教区の

定住権と救貧扶助の受給資格を得ることができる。

ところが貧しい奉公人が教区に流入すると救貧税

負担が富裕層にのしかかる。それを嫌った農業家

は 51 週間の雇用契約に代表される様々な短期契

約を用いるようになり、奉公人は日雇い労働者化

していった。

 余剰労働力を生み出したのは人口増加である。

イングランドで 1750 年以降に始まった人口増加

は労働供給を潤沢にした。そのため日雇い労働者でも労働の即用性上支障がなくなったの

である。ただし人口圧力の上昇は農業労働者の生活水準に負の作用をもたらした。

 逆に 1650~1750 年の人口停滞期、人口圧力が低かったため農業奉公人は高い生活水準

を享受できた。農業家がこのような高負担を許容したのは、拘束労働力を確保しておかな

ければ万が一の際自分自身の資本、労働、収入に危険が及んだからである。しかし 1815

年以後農業不況が断続的に発生するようになると、費用削減努力を徹底しなければ農業か

ら利潤を得ることすら難しくなった。

 農業奉公人制度を衰退させたのは以上のような経済環境の変化であった。しかし農業奉

公人制度は慣習にも強く支配されていた。例えば 18 世紀後半の農業改良家は事業の合理

化に消極的な農業家や、新しい犁耕法を受け入れない犁夫に悩まされている 193。「慣習へ

の奇妙な愛着」は頑強に生き残ったのである 194。それを明らかにすべく、第6章では近

世イングランドの慣習と心性史に言及する。

表5.2 住み込み労働者を雇用しない    理由(1834年救貧法報告)

% 人数定住を懸念 28 67余剰労働力 21 50費用削減 20 47農業家の洗練 10 25労働者の態度 7 16早婚化 2 5その他 12 29

合計 100 239      出典:Kussmaul [9] pp.128