a magazine without advertisements as the reflection of

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論文 Article 『暮しの手垖』がめざしたもの 花森安治の矎孊ず広告のない誌面 雪野 たり “Kurashino Techo” and The Editor’s Philosophy: A Magazine without Advertisements as the Reflection of Yasuji Hanamori’s Aesthetics Mari Yukino 1948 幎に創刊された生掻雑誌『暮しの手垖』は広告に䟝存しない雑誌䜜り を行っおきたこずで知られおいる広告のない誌面は自埋的ゞャヌナリズム 志向の蚌ずみなされ創刊の契機もしばしば政治的な信念に求められおきた だが線集長花森安治が远求したこずは商品の矎孊であり同時に雑誌の矎 孊であった本皿では広告のない誌面はその結果ずしお生み出されたこずを 第䞀䞖玀『暮しの手垖』の内容分析により明らかにする “Kurashino Techo” is the well-known life-style magazine that has been published without any advertisement from the first issue in 1948. It has been regarded as the reflection of its chief editor Yasuji Hanamori’ s political position that the magazine has been published without any advertisement. This study will show that Hanamori’s editing policy had a strong relation with his aesthetics of the magazine as medium, rather than with his political position. キヌワヌド :『暮しの手垖』花森安治広告のない誌面矎孊商品

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論文

Article

『暮しの手垖』がめざしたもの花森安治の矎孊ず広告のない誌面

雪野 たり

“Kurashino Techo” and The Editor’s Philosophy:A Magazine without Advertisements as the Reflection of Yasuji Hanamori’s Aesthetics

Mari Yukino

 1948 幎に創刊された生掻雑誌『暮しの手垖』は広告に䟝存しない雑誌䜜りを行っおきたこずで知られおいる広告のない誌面は自埋的ゞャヌナリズム志向の蚌ずみなされ創刊の契機もしばしば政治的な信念に求められおきただが線集長花森安治が远求したこずは商品の矎孊であり同時に雑誌の矎孊であった本皿では広告のない誌面はその結果ずしお生み出されたこずを第䞀䞖玀『暮しの手垖』の内容分析により明らかにする

“Kurashino Techo” is the well-known life-style magazine that has been published without any advertisement from the first issue in 1948. It has been regarded as the reflection of its chief editor Yasuji Hanamori’s political position that the magazine has been published without any advertisement. This study will show that Hanamori’s editing policy had a strong relation with his aesthetics of the magazine as medium, rather than with his political position.

キヌワヌド :『暮しの手垖』花森安治広告のない誌面矎孊商品

ᅵᅵ   出版研究 38  2007

はじめに

本皿の目的は『暮しの手垖』によっお花森安治が実珟しようずしたこずは䜕であったのかを第 1 䞖玀『暮しの手垖』の誌面構成およびその線集埌蚘である「線集者の手垖」ただし第 26 号たでは「あずがき」の分析により考察するこずにある『暮しの手垖』は 1948 幎 9 月に創刊された生掻雑誌であるが自埋的な

ゞャヌナリズム掻動を展開しおきた雑誌ずしお知られおいるその代衚的な䌁画である「商品テスト」では䌁業名をあげお「よりよい商品生産のため」の商品批刀を行いたた第 96 号を「戊争䞭の暮しの蚘録」特集号ずしお刊行しお以降第 2 䞖玀前半にかけお「みよ僕ら䞀銭五厘の旗」2 䞖玀第8 号あるいは「囜を守るずいうこず」2 䞖玀第 2 号などの゚ッセむを掲茉し䌁業批刀囜家批刀をその誌面で展開しおいる『暮しの手垖』あるいはその線集長であった花森安治に぀いおの先行

研究は芋圓たらないしかしゞャヌナリズムにおいおはしばしば取り䞊げられおおりそこでは『暮しの手垖』の創刊の契機あるいはその線集理念を支えおきたものを花森安治の戊䞭䜓隓その吊定ずしおの戊埌民䞻䞻矩の擁護ずいった政治的な理念に求める芋解が倚くみられる 1 その根拠ずされるのは「商品テスト」やこうした䞀連の゚ッセむである

その線集長であった花森安治は戊争䞭倧政翌賛䌚に所属しポスタヌや暙語の䜜成など様々なプロパガンダ掻動に埓事しおいた1941 幎 7 月結成埌間もない倧政翌賛䌚に入り1945 幎 6 月に倧政翌賛䌚が解散されるたで勀務し解散の前幎の 1944 幎 7 月にはその文化郚副郚長に就任しおいる『暮しの手垖』の創刊に携わったこずがしばしば戊䞭期の掻動に察する深い反省に根ざしたものずしお語られおきたのはこの経歎ゆえである

しかし『暮しの手垖』創刊の契機は倧橋鎮子がお金持ちになっお 母 芪 を 幞 せ に し た い そ の た め に 女 性 の 圹 に 立 ぀ 雑 誌 を 出 し たい ず い う 思 い に あ り『 暮 し の 手 åž– 』 創 刊 期 に お け る 花 森 安 æ²» の 圹割は倧橋鎮子のプランを誌面に具䜓化しおいくこずにあった 2 

花森安治ず『暮しの手垖』ずのかかわりはたず雑誌ずいうメディア䜜りか

『暮しの手垖』がめざしたもの   ᅵᅵ

ら始たったのであるその圢匏を䜜り䞊げおいたのは花森安治が戊前からもっおいた雑誌䜜りの

矎孊であり雑誌論であったそれが広告のない雑誌ずいう䞖界でも皀有な存圚を生み出しさらに独自の誌面構成をも぀雑誌を䜜り䞊げるこずになる

第 38 号「線集者の手垖」で花森安治は広告に頌らず雑誌の売り䞊げだけでたかなっおいくためには「それでも私はほしい」ず思う䞭身をもった雑誌を぀くらなければならないず曞いおいる 3

しかし花森安治の矎孊は雑誌䜜りや翌賛䌚での広報掻動にのみ展開されおいた蚳ではなく日垞の道具身の回りの小さな道具や衣裳にも匷い矎意識を有しおいた花森安治は東京垝囜倧孊文孊郚矎孊矎術史孊科の卒業であるがその卒業論文は『衣粧の矎孊的考察』ず題するものであった 4たた『暮しの手垖』の前身である『スタむル・ブック』『衣裳』では䞀貫しお服食研究家あるいは服食評論家ずしおその服食論を展開しおいる

創刊期の『暮しの手垖』にも線集者ずしおの花森安治の名前は芋出すこずはできないその「あずがき」などには「服食の読本」あるいは「続・服食の読本」などを執筆する服食研究家「花森安治先生」ずしお玹介されおいる日本出版協䌚線日本出版事業郚刊の『1951 幎版昭和 26 幎 3 月珟圚出版瀟・䞀芧 執筆者附雑誌名称䞊に発行所総芧』でも花森安治の肩曞きは「衣裳研究」ずなっおおりたた䞉枝䜐枝子も花森安治が自分の数ある肩曞のうち第䞀にあげたいものは衣裳研究家であるず語っおいたこずを玹介しおいる 5花森安治の戊埌の掻動は「衣裳研究」から始たったのであった

こうした雑誌や衣裳も含めた「もの」の矎孊―ここでいう「矎孊」ずは孊問ずしお成立しおいる矎的珟象䞀般の本質の解明ずいった狭矩の「矎孊」ではなく日垞の暮しのありように察する矎しさに぀いおの感芚あるいは矎意識ずいった広い意味での「矎孊」であるがその実珟こそが『暮しの手垖』の䞭で花森安治が远求したものであるがこれもたた花森安治が戊前からもっおいた矎孊であった

第 100 号 の「 ç·š 集 者 の 手 åž– 」 に 花 森 安 æ²» が 曞 い お い る よ う に 6 

『暮しの手垖』の自埋的なゞャヌナリズム掻動を可胜にしたのは『暮しの手

ᅵᅵ   出版研究 38  2007

垖』がその誌面に広告を掲茉しない぀たり広告料に頌らないで発行されおいるずいうこずにあるがそれはこの矎孊の远求によっお぀くりだされ維持されおきたものなのである

以䞋の章においおはたず花森安治がその雑誌䜜りの䞭で远求したこずは雑誌の矎孊であったこずをその線集埌蚘によっお明らかにしその矎孊が広告のない誌面を䜜り䞊げたこずを瀺す぀いで誌面の内容分析によっお花森安治が『暮しの手垖』によっお远求したこずは商品の矎孊の実珟にあり「商品テスト」ずはそのための䌁画であったこずを明らかにするその䞊で「商品テスト」のための広告料に䟝存しない雑誌䜜りを可胜にしたたその困難さにもかかわらず維持されおいくこずになったのは「商品の矎孊」の実珟にたいする匷い意欲にあったこずを瀺す

なおここで分析の察象を 1 侖简 7぀たり創刊号から第 100 号たでの100 冊に限定しおいるのは䞀぀は花森安治自身が第 100 号をもっお䞀぀の区切りずしおいるこずたたこの第 1 䞖玀に『暮しの手垖』を特城づける誌面構成や線集理念あるいは発行回数などが確立しおいるためである第 2 䞖玀以降の誌面構成やその構成割合は第 1 䞖玀ず倧きく倉わるこずはなかった衚 1第 1 䞖玀ず第 2 䞖玀以降の『暮しの手垖』にみられる最も倧きな倉化はその刀型や玙質の倉曎ずいう雑誌の圢匏にあった

衚 第1䞖玀ず第2䞖玀第1号および第3䞖玀第1号の芋出しず蚘事掲茉量の比范

芋出し 第䞀䞖玀 94-98 号1968 幎平均

第 2 侖简 1 号 第 3 侖简 1 号

暮し   10.20%   17.10%   14.20%人間・䞖間2 侖简 23 号から 項目なし 項目なし   5.30%すたい・工䜜   6.00%   12.40%   8.40%料理・食べもの   9.90%   11.40%   14.20%服食   3.80%   3.80%   4.20%商品テスト・買物買物案内   21.90%   14.30%   15.80%こども   1.30% 項目なし   3.20%健康   4.90%   9.00%   8.40%あれこれ   38.70%   30.50%   24.70%総ペヌゞ数 227.2 ペヌゞ 214 ペヌゞ 194 ペヌゞ

『暮しの手垖』がめざしたもの   ᅵᅵ

1 雑誌䜜りの矎孊ず広告のない誌面

1 1 花森安治の雑誌䜜りの矎孊媒䜓ずしおの雑誌ぞのこだわり぀たり雑誌䜜りの矎孊は花森安治がそ

の線集掻動を開始した旧制束江高等孊校時代からすでにみられるものであったそれを䞀蚀で蚀えばその芖芚的芁玠の重芖である『暮しの手垖 保存版 花森安治』に玹介されおいる旧制束江高校校友䌚雑誌の「線集埌蚘」によれば誀字・脱字・乱䞁・萜䞁は蚀うに及ばず内容に即したデザむンや配色印刷技法䜿甚される掻字甚玙の質や刀型にたでに及ぶものであった 8

たた雑誌で衚珟するのは文章ず写真だが写真は文章より倧切な時があるずいうのが花森安治の持論であったずされおいるが 9写真ずいう芖芚的衚珟手段ぞの関心も旧制高校時代からのものでその「線集埌蚘」に「本號の新しい詊みずしお寫眞印畫を募集したが䞀枚も集らなか぀た 誰か束江の印象でもモンタアゞュしお芋せおくれるひずはゐないものか」ず曞いおいるこずも玹介されおいる

䞀方校友䌚雑誌に掲茉される原皿に぀いおはその線集埌蚘に「だから質に぀いおは知らぬ」ず曞き花森安治は自らの関心がその䜓裁に぀いおのみあるこずを衚明しおいる 10

こうした雑誌の芖芚的觊芚的芁玠ぞのこだわりはただ自己の矎的感芚によったずいうものではなく雑誌が芖芚に蚎えかけたた読むために手で觊れるものであるずいうそのメディアの特性ぞの着目から生じたものであるず考えられる

同時にレむアりトの工倫による資材の効率的な利甚ずいうこずぞの目配りもそこには存圚しおいる

先に玹介した校友䌚雑誌の刀型はほが真四角であるがそのこずに぀いお「線集埌蚘」で花森安治は次のように説明しおいる

本號の䜓裁に぀いお―敢えおこの刀をえらんだのはあながち僕の衒぀た趣味によるものではなくお䞀行の字敞を枛じ行敞を增やしお詩

ï¿œ0   出版研究 38  2007

の節玄を埗るず共に讀みやすさを考ぞたからである頁敞が增えたのはこのためでは決しおない     

䞀定の制玄の䞭でいかにその特性にもずづいた自らの矎孊を満足させる雑誌を぀くるかずいうこずこれが花森安治にずっおの課題でありたた線集者ずしおの自己実珟でもあったず考えられる

こうした雑誌䜜りの矎孊は『暮しの手垖』の誌面づくりにおいお再び远求されおいくこずになる

1 2 『暮しの手垖』の誌面䜜りに芋る花森安治の矎孊『暮しの手垖』が目指す雑誌に぀いおそしおそれにかける花森安治を

始めずした『暮しの手垖』線集郚のスタッフの意気蟌みに぀いお花森安治は 1 䞖玀第 40 号の「線集者の手垖」に次のように曞いおいる 11

「暮しの手垖」もそうだが「雑誌」ずいうずきの「雑」ずいうのはもずもず「いろいろのこず」ずいう意味だろうず思う ずころがこの「雑」ずいう蚀葉は他の堎合では 「粗雑」「乱雑」ずいう意味で䜿われ 「雑誌」に぀いおの考え方をゆがめ 「雑誌は粗雑なもの」ずいう考え方が䞖間䞀般に染みずおっおいるようである がくたちはこの『暮しの手垖』に党生涯を賭けおいるそれ

だけに内容はもちろんのこずだが印刷や補本に぀いおもたずえ䞖間の考え方はどうであろうず「粗雑」なものは䞀冊でも䜜りたくないず思う なるたけ「気安くらくに」読めるものを䜜りたいずいうのががくたちのい぀もおもうこずであるしかしそれず『粗雑』なずいうこずはハッキリちがうはずである

それにもかかわらず「じっさいに出来䞊がったものは がくたち印刷する人補本する人みんなをふくめおただただみんなのおもうようなものでは」なくそれどころか「萜䞁や乱䞁もたれではあるが芋぀かる事も」あり「がくたちずしおもこんなに苊劎しお䜜ったものが䞀冊でも

『暮しの手垖』がめざしたもの   ᅵᅵ

二冊でもそんな圢で䞖の䞭ぞ出おゆくのは身を切られるように口惜しい」こずで「しかしもう少し時間をくださいきっずこんなこずでご迷惑を䜕十䞇の䞭のただのひずりにもおかけしないように必ずする぀もりです」ず結んでいる

こうした雑誌䜜りに察するひたむきな姿勢は創刊号の「あずがき」にもみるこずができる倧橋鎮子は「ふりかえっおみるずこんなにたのしい思いで本を䜜ったこずはありたせんでしたいく晩もみんなで倜明かしをしたしたし 忙しい日が讀きたしたけれど䞀頁ず぀䞀頁ず぀出䟆䞊がっおゆくうれしさにすこしも぀らいず思ったこずもありたせんでした」ず雑誌䜜りの喜びを曞き蚘しおいる 12

第 2 号のあずがきにも「この号を぀くるために幟晩も培倜にちかい倜が続き」「これも駄目ずプランを䜜りかえ寫眞を撮りなおしたった䞀枚の寫眞のためにたるでケンカみたいな議論を䜕時間もするこずさえ」あったこずそしお「も぀ずいいものを少しでもいいものをずしょ぀ちゅう考えお仕事をしおいるこずは苊しいなあず思いたすけれどそれはたのしい苊しみほんずうに愉しい苊しみだずも思぀おいたす」ず掲茉する写真䞀枚にもこだわる線集姿勢ずそこから埗られる喜びが曞き蚘されおいる『暮しの手垖』創刊の契機ずなったのは倧橋鎮子の「お金持ちになっお

母芪を幞せにしたい」ずいう思いであったがここに芋られるのは経枈性を床倖芖した自己実珟ずしおの雑誌䜜りである

か぀おは花森安治の矎孊ずしおあったものが『暮しの手垖』創刊期にはすでに暮しの手垖瀟の前身である衣裳研究所 13の矎孊ずしおそのスタッフに共有されおおり花森安治の雑誌論は衣裳研究所さらに暮しの手垖瀟の雑誌論ずしおその雑誌䜜りに反映されおいくこずになる『暮しの手垖』各号の巻末に掲茉されおいる「線集者の手垖」䜆し26 号

たでは「あずがき」にはこうした様々な資材ぞのこだわりやその実珟ための具䜓的な取組みが折に觊れお報告されおいるそこからは雑誌の芖芚的な芁玠の重芖はその誌面のレむアりトや䜿甚する写真ぞのこだわりだけではなくか぀おの校友䌚雑誌同様甚玙の質や版型掻字などの印刷資材党般におよんでいるこずがわかる

ᅵᅵ   出版研究 38  2007

花森安治は写真による衚珟を非垞に重芖したこずは先に玹介したが『暮しの手垖』においおも経営的に困難な状況にあった創刊期から積極的に写真のペヌゞを導入しおいる図 1たた圓時の婊人雑誌には珍しい B5 刀を創刊号から採甚しおいるがこれも誌面の芖芚化を意図したものであったず考えられる 14

印刷甚玙に぀いおみれば30 号から本誌郚分が曎玙から䞊質玙に倉曎されおいるこれは独自に印刷甚玙の開発を補玙工堎に䟝頌したものであるこずたた 30 号から 35 号たで毎号改良を加え35 号で䞀応の完成をみたこずが「線集者の手垖」で報告されおいる

それでもただ満足できない郚分があったようでそれ以降もしばしば印刷甚玙ず䜿甚するむンクは倉曎されおいる甚玙の改良に着手した第 30 号から第 79 号たでは『暮しの手垖』衚玙裏に皮類別に䜿甚した玙ずむンクが印刷所ずずもに掲茉されおいる

1 3 雑誌䜜りの矎孊ず広告のない誌面『暮しの手垖』が創刊号から広告を掲茉しおいなかったのは広告をずる

人手がなかったこずによるが 15その埌も広告のない誌面が維持されおいったのは『暮しの手垖』線集郚の自己実珟ずしおの雑誌䜜り぀たり雑誌䜜りの矎孊の远求によるものであった

図 1 創刊期の総ペヌゞ数ず写真ペヌゞ数の掚移

『暮しの手垖』がめざしたもの   ᅵᅵ

第 31 号で広告䞍掲茉が「商品テスト」ずの関係で衚明されるたではそれは誌面の枅朔感の維持ずいった線集技術䞊の問題から説明されおいた

第 9 号の「あずがき」には「せめおこのような雑誌䞀冊隅から隅たで掻字䞀本たで私たちの心ゆくたで䜜り䞊げたい」ので「廣告を茉せれば 經費のおぎないになるこずはいくらこの道に日の淺い私たちでももちろん想像の぀くこずでございたす」が「せめおものこの枅朔な感じをい぀たでも倱いたくないず考えおいるからでこれはたずえ䜕癟䞇円の広告費をいただけるずしおもそれずひきかえにしたくないずいうのが私たちみんなの必死の気持ちでございたす」ず曞かれおいる 16

たた第 18 号の「あずがき」にも広告をのせおほしいずいう申し蟌みもたくさんいただいおいるがこれも圓分お断り申し䞊げるより仕方がないわがたたで䟝怙地なようだがなにずぞお芋逃しいただきたいず曞いおいる 17

どの時期から広告掲茉が誌面づくりずの関係で意識されるようになったのかは䞍明であるしかし広告もずれない状況から出発せざるをえなかったこずが『暮しの手垖』の雑誌ずしおの完成床の高さ぀たり先に花森安治が述べおいるような雑誌ずしおの完璧さの远求に向かわせたそしおその過皋で花森安治を始めずした『暮しの手垖』の線集者達の䞭に広告のない誌面に察する愛着ず広告料に䟝存しない雑誌䜜りぞの自信が圢成されそれが9 号や 18 号での発蚀ずなっお衚れおいるのだず芋るべきであろう「商品テスト」のための広告のない誌面はこうしお維持されおきたものであった

2 誌面構成の倉化からみた第 1 䞖玀『暮しの手垖』の時期区分ずそのテヌマ

2 1 誌面構成の倉化からみた『暮しの手垖』の時期区分に぀いお『暮しの手垖』は珟圚では幎 6 回発行されおいるが創刊号から第 14 号

たでは幎 4 回第 15 号から第 92 号たでは幎 5 回の発行であったため第 1䞖玀は 1948 幎 9 月から 1969 幎 4 月たでの玄 20 幎間に亘っおいる

ᅵᅵ   出版研究 38  2007

この 20 幎間は戊埌の日本経枈が埩興から高床成長を遂げるたでの時期にあたりその過皋で耐久消費財の普及など「暮し」を取り巻く環境も倧きな倉貌を遂げるこずになる『暮しの手垖』の誌面構成にもそれに察応した倉化がみずめられる

その倉化から第 1 䞖玀『暮しの手垖』の時期区分を行えば次の 3 ぀の時期1創刊期創刊号から 19 号たで2確立期20 号から 38 号たで

3完成期39 号から 100 号たでに分けるこずができる発行幎でいえば創刊期は 1948 幎から 1952 幎たで確立期は 1953 幎か

ら 1956 幎たで完成期は 1957 幎から 1969 幎たでずなる 18

2 2 創刊期の誌面構成の特城1948 幎から 1952 幎たでの創刊期は戊前・戊䞭的な誌面構成ずテヌマに

よりながら戊埌的なテヌマや雑誌の方向性に぀いおの暡玢をおこなっおいたず考えられる時期である

創刊期『暮しの手垖』の誌面構成には読者参加による誌面づくりなど独自の䌁画もあるが党䜓ずしおはその内容・圢匏ずもに花森安治が戊前・戊䞭期に線集しおいたずされる生掻瀟刊『婊人の生掻』の誌面構成が継承されおいる 19『婊人の生掻』は衣・䜏の「暮しの工倫」を䞭心的なテヌマずしお1941

幎から 1944 幎にかけお発行されたものである 20創刊期の『暮しの手垖』が䞻に取り䞊げたテヌマも衣・䜏を䞭心ずした「暮しの工倫」であった

創刊期は日本経枈が埩興から自立ぞず向かう時期にあたり倧橋鎮子の回想によれば䜕も無い時代だったので「倢ただの倢ではなく手の届きそうな倢」を雑誌のテヌマずし本文には「食べるものも無く着る物もない」䞭で著名人たちが実行しおいる暮しの工倫や暮しをめぐる随筆などを写真色刷りのペヌゞには暮しに倢を持たせるちょっずした工倫を掲茉しおいったずいう 21

たた図 2 および図 3 は生掻瀟刊『婊人の生掻』第 1 号の目次ず本文の䞀郚図 4 は『暮しの手垖』創刊号の目次図 5 は『暮しの手垖』第 17 号の本文の䞀郚である

『暮しの手垖』がめざしたもの   ᅵᅵ

『暮しの手垖』の本文は䞉段組ずいう盞異はあるが目次のタむトルの配眮がペヌゞ順であるこずなど目次本文ずもそのレむアりトには共通性が認められる

この時期のもう䞀぀の特城は先に述べたように読者参加による誌面䜜りであるが読者からの投皿原皿あるいは投皿写真の募集の他その内容や䜓裁あるいは䟡栌などその線集方針にかかわる事項に぀いおもしばしば「あずがき」で読者に意芋を求めおいる

       

図 2 『婊人の生掻第1号』 目次 図 3 同 本文の䞀郚

      

図 4『暮しの手垖』第1号 目次 図 5 同 第 17号 本文の䞀郚

ᅵᅵ   出版研究 38  2007

創刊期は読者ずの共同䜜業がもっずも掻発に行われた時期であるが確立期に次第に明確になっおくる戊埌的なテヌマや雑誌の方向性などはこの読者参加による誌面づくりの䞭で次第に固められおいったず考えられる

2 3 確立期の誌面構成の特城1953 幎 6 月に発行された第 20 号から始たる確立期は新しい線集䜓制

぀たり線集長花森安治の䜓制が確立されその誌面構成に぀いお詊行錯誀を行いながら戊埌的な『暮しの手垖』ぞの倉換を図っおいった時期であったず考えられるレむアりトも完成期の『暮しの手垖』に近いものに倉わっおいる

花森安治は創刊以来の線集長ずされおいるが線集者の欄にその名前が加えられたのはこの確立期埌半の1955 幎 12 月に発行された第 32 号からであるしかし花森安治はその盎前の第 31 号で「なぜ広告をのせないか」を眲名入りで執筆しこの時期最埌の号である第 38 号には「雑誌ず広告料に぀いお」「広告に䟝存しない雑誌䜜り」を『暮しの手垖』の線集理念ずするこずなどを衚明しおいるこうしたこずからこの時期に次第に線集䜓制が確立されその䞭で珟圚たで継承されるこずになる誌面構成や線集理念が確立されおいったものず考えられる

誌面における具䜓的な倉化ずしおは目次やペヌゞレむアりトの他に「工倫」から「商品」ぞのテヌマの倉化具䜓的には「商品テスト」の登堎などがあげられる

確立期は日本経枈が埩興から高床経枈成長ぞず転換する時期にあたる1953 幎は消費氎準が戊前氎準をはじめお䞊回り自動車時蚈電気・ガス噚具冷蔵庫などの高玚消費財の茞入や賌入が急激に増加しはじめた幎であった 22「工倫」から「商品」ぞのテヌマの倉化はこうした生掻の商品化に察応したものであったず考えられる

2 4 完成期の誌面構成の特城珟圚たで継承されるこずになる『暮しの手垖』の誌面構成の原型が完成し

たのは1957 幎 5 月に発行された第 39 号においおである確立期に準備さ

『暮しの手垖』がめざしたもの   ᅵᅵ

れ第 39 号から始たる完成期の誌面を構成するテヌマはその目次に採甚されおいる芋出しによれば「暮し」・「あれこれ」・「すたい・台所」・「料理・たべもの」・「服食」・「買い物」・「こども」・「健康」の八項目であるこのうち「暮し」および「あれこれ」は教逊蚘事をそれ以倖の項目は実甚蚘事を䞻ずしおいる

教逊蚘事を䞻ずする「暮し」および「あれこれ」を暮し・あれこれずしおたずめたた実甚蚘事を䞻ずする項目のうち「すたい・台所」・「料理・たべもの」・「服食」に含たれる蚘事を衣食䜏「商品」・「買い物」に含たれる蚘事を商品「こども」および「健康」に含たれる蚘事を健康・教育・育児ずしおたずめその幎間平均掲茉頁数の割合の倉化を調べた結果は図 6のずおりである

実甚的な蚘事分類の䞭でその占める割合が最も倚いのは衣食䜏ずいう生掻技術に関する蚘事である完成期の䞻芁なテヌマである商品に分類される蚘事の割合は少ない幎では 15%皋床倚い幎でも 25%皋床を占めおいるに過ぎない

花森安治は第 31 号の「線集者の手垖」に「 われわれの暮しは商品に支えられおいるその商品がも぀ずよくな぀おくれるこずはわれわれの暮しをよくする䞀぀であるそのためには批評やもしいいものがあれば玹介するこずはこうした「暮し」を䞻題ずする雑誌のどうしおもしな

図 6 項目別幎間掲茉頁数の割合の倉化

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ければならない仕事である」ず曞きその誌面で「商品」を取り䞊げるこずの意矩を説いおいるが同時に暮しに必芁なものだけをテストの察象ずしお遞ぶためには「商品テスト」を売り物にしない぀たり「商品」にしないこずが必芁であるずしおいる 23「商品」を䞭心的なテヌマずしながらも商品蚘事だけの雑誌ずはせず

その誌面に倚様性を持たせおいるのはそのためである 24もう䞀぀の誌面構成の量的な特城は教逊蚘事の占める割合の倚さである

各幎の平均掲茉割合は 1957 幎から 1963 幎たでは 30%台で掚移しおいるが1964 幎以降はその割合がさらに増加し1967 幎からは誌面の玄半分を占めおいる

これは『暮しの手垖』が「い぀かあなたの暮し方を倉えおしたう」こず぀たり花森安治の衚珟によれば「雑誌の圢匏」による「真生掻運動」を目的ずしおいるためず考えられる

花森安治は 1956 幎 3 月 11 日号の『週刊朝日』の誌面で『暮しの手垖』は実甚雑誌であるずした䞊で実甚には二皮類あるず次のように語っおいる

それは「すぐ今日の圹に立぀こず぀たり障子の修繕でいえばきりばりず暮し方を倉える障子のはりかえの二぀」であり「ペチカやオンドルの蚘事を䜜るのも今すぐの圹にはたたぬが気枩ず䜏宅ずの関係を知っおおくこずが倧切だず思うからであるそしおい぀か暮し方を倉えおゆくようにしおもらいたいず思っおいる“きりばり”だけでは進歩はないのである」ずいうものである 25

この実甚芳が衚明されたのは完成期盎前であるが『暮しの手垖』の衚玙裏には創刊以来「この䞭のどれか䞀぀二぀はすぐ今日あなたの暮しに圹立ちせめおどれかもう䞀぀二぀はすぐには圹に立たないように芋えおもやがおこころの底ふかく沈んでい぀かあなたの暮し方を倉えおしたう」雑誌であるずいう䞀文が掲茉されおいる「真

0

生掻運動」ずしおの雑誌ずいうこずは『暮しの手垖』の創刊時から意図されおいたこずであったず考えられる

たた『暮しの手垖』は「婊人家庭雑誌に新しい圢匏を䜜り出した」ずしお

『暮しの手垖』がめざしたもの   ᅵᅵ

第 4 回菊池寛賞1956 幎 3 月を受賞しおいるが今回行った誌面構成の分析の結果からはその新しさずは䞀぀はこの「真生掻運動」のための二皮類の実甚蚘事から構成された誌面構成もう䞀぀は「暮し」ず「商品」ずの関係を䞭心的なテヌマに据えたこずの二点であったず考えるこずができる

埌者に぀いお蚀えばそれたでの婊人雑誌は䞻婊圹割を䞭心的なテヌマずしおおりその重芁な圹割の䞀぀「家蚈管理」のための家蚈簿は婊人雑誌の新幎号の附録ずしお欠かせないものであったしかし『暮しの手垖』は創刊以来その内容に「家蚈管理」を含たずたた「家蚈簿」の附録もない雑誌であった

3 第 1 䞖玀『暮しの手垖』にみる花森安治の「商品」の矎孊

3 1 「よい暮し」ず「商品」の関係確立期以降すすめられたこの「工倫」から「商品」ぞずいう誌面のテヌ

マの倉化は高床経枈成長を背景ずした消費革呜の到来を芖野にいれたものであるず考えられるがそれはたんなる商品情報ではなく花森安治が「真

0

生掻運動」26ず衚珟したようにその独自の矎孊にもずづいた「暮し」を実珟するための「商品」の远求であった先に芋た婊人雑誌ずしおの新しさを構成しおいる二぀の芁玠は実は衚裏䞀䜓の関係にあるものなのである

花森安治にずっお「よい暮し」ずは「目立たないたずえば栓ぬきのような小さい道具にきちんず性胜のよいものを持っおいる」27ずいうこずであり埓っお花森安治にずっおはよい「暮し」ためには「商品」の矎孊の远求が䞍可欠ずなるのである「商品テスト」はその䞀぀の取組みであった『暮しの手垖』が「商品」を取り䞊げる理由は先に芋たずおりであるが

それに続けお「そのためには䞖間の垞識を砎っおでもほめるものは名前入りでほめよくないこずは名前をあげおよくないずいわなければならない」「そのためには䜕癟䞇やるずいわれおもよくないずいうものをいいず蚀うわけにはゆかないし䞀銭ももらわなくおもいいものはいいず蚀わねばならない」ずいう劥協のない商品远求であり「これがこの雑誌を䜜っおゆく気構えの䞀぀である」ずも曞いおいる

ï¿œ0   出版研究 38  2007

商品テストのために広告に頌らない雑誌䜜りはこの気構えを貫いおいくために必芁ずされたのである 28

3 2 花森安治の「商品」の矎孊1968 幎 6 月発行の第 95 号に掲茉された「矎しいものを」ずいう゚ッセむ

の䞭で花森安治は「日本人の䞭でがくはずりわけ千利䌑の矎孊を高く評䟡しおいる」ず千利䌑の矎孊を匕き合いに出しお自らの矎孊を説明したた「必芁なものは矎しい」ずいう衚珟を䜿甚しおいるこうした衚珟から花森安治が「商品」にもずめた矎孊ずは䞍芁な装食を排した合目的的な機胜矎にあったず掚枬されるその矎孊の䞀端は先に玹介した『婊人の生掻』や『暮しの手垖』の目次や誌面のレむアりトなどにもみるこずができるものである

この「商品」の矎孊は花森安治が戊前から持っおいたもので「必芁なものは矎しい」ずいう衚珟はすでに『婊人の生掻』第䞀冊の序でも䜿われおいる

そこでは「必芁は真実の矎」であるず衚珟されおいるがその「あずがき」にはすでに「商品テスト」の萌芜ずもいうべき商品芳も衚明されおおり

「䜿うものがすきじゃない品物が䜜られるずいうこずは䞖の䞭のムダでこれたでは補造者の勝手なお金儲けの創䜜だったのを女の偎から泚文しお決定さすべき」こずが読者に呌びかけられおいる『婊人の生掻』シリヌズの䞭ではそれが盎接のテヌマずしおずりあげら

れるこずはなかったが「商品」の矎孊の実珟ずいうこずは花森安治が戊前から远及しおいたテヌマでありそれが 1955 幎以降の「商品の時代」の埩興の䞭で再び远求されるこずになったのである

第 95 号に掲茉された「矎しいものを」ずいう゚ッセむの䞭で花森安治は『暮しの手垖』が目指す「ハりスキヌピング」぀たり「家事」に぀いおその「矎しさ」を芋分けられる感芚であり暮しに必芁な機械や道具を芋極めるこずができる感芚そしお䞀芋暮しに必芁ではないように芋えお実は暮しに欠かせないモノや空間に぀いおの感芚を持぀こずであるずも曞いおいるこれこそが『暮しの手垖』がその誌面で実珟しようずした「真生掻運

『暮しの手垖』がめざしたもの   ᅵᅵ

動」の目的であったず考えられる

おわりに ―「商品テスト」ず広告のない誌面

『暮しの手垖』が広告のない雑誌ずしお出発したのは創刊時は広告をずる人手もなかったためであったがそれは「せめおこのような雑誌䞀冊隅から隅たで掻字䞀本たで私たちの心ゆくたで䜜り䞊げたい」ずいう「矎しい雑誌づくり」ぞの愛着を生み出すこずにもなった

その愛着は「䜕癟䞇円の広告費をいただけるずしおもそれずひきかえにしたくない」ほどであった

䞀方花森安治の䞭には戊前からあったものずはいえ「商品テスト」は確立期においお登堎した䌁画で埓っお「商品テスト」ずいう䌁画を可胜にしたのはその愛着により維持されおきた広告のない誌面にあったず考えるべきであろう

しかし「商品テスト」は『暮しの手垖』がたたたた広告料に䟝存しない雑誌であったこずから着想された䌁画ではなくすでにみたように「商品」をずりあげるこずは「暮し」をテヌマずする雑誌の圹割であるずいう認識から出発したものであったそれは「䜕癟䞇やるず蚀われおもよくないものをいいず蚀うわけにはゆかないし䞀銭ももらわなくおもいいものはいいずいわねばならない」ずいうものでそしお「これがこの雑誌を぀くっおゆく気構えの䞀぀である」ず花森安治は同じ 31 号の「線集者の手垖」に曞いおいた

この気構えずはたた「䜕癟䞇円の広告費をいただけるずしおもそれずひきかえにしたくない」ずいう雑誌の圢匏ぞのこだわりず共通するものである

぀たり『暮しの手垖』における「商品テスト」ずいう内容ずそのために䞍可欠な「広告のない誌面」ずいう圢匏の䞀臎はたんなる偶然の䞀臎ずいうこずではなく圢匏においおもその内容においおも「劥協しない」雑誌䜜り぀たり䞀貫した「矎孊」の远求がそれを可胜にし雑誌の持぀圢匏はその内容ず䞍可分のものずなるこずにより珟圚たで維持されるこずに

ᅵᅵ   出版研究 38  2007

もなったのである歎史的に芋れば先行しおいた雑誌䜜りの矎孊は「商品テスト」の登堎に

より぀たりその圢匏ず内容が䞍可分のものになった段階で二次的なものずしお䜍眮づけられるこずになるそれはそのこずによっお広告を排陀するずいう線集方針が線集者の自己満足ずいったものではなく雑誌にずっおの䞍可欠の芁件ずしおいわば「垂民暩」を獲埗するこずになったためであるず考えられる

二次的なものずしお䜍眮づけられおはいるがしかし花森安治の雑誌䜜りの矎孊は第䞀䞖玀の線集を通しお䞀貫しお远求されたた第 100 号の「線集者の手垖」で次の号である第 2 䞖玀第 1 号にふれお「雑誌も倧きくし玙もよくし印刷もきれいに」「぀たりもっずよい雑誌にしたい」29

ず曞いおいるように第 2 䞖玀においおもさらに積極的に远求されおいく雑誌もたた䞀぀の商品であり花森安治の雑誌䜜りの矎孊ずは『暮し

の手垖』の誌面で远求された商品の矎孊の䞀郚を構成するものであるそれゆえ自らの雑誌䜜りにおいおも暮しに必芁な矎しいものたるべくその矎孊が実践されおいくこずになったのではないだろうか

泚

 1  たずえば1978 幎 1 月 14 日の朝日新聞毎日新聞読売新聞日本経枈新聞の各倕刊に掲茉された花森安治の远悌蚘事ではいずれも花森安治の戊埌の掻動を戊䞭䜓隓ずのかかわりで取り䞊げおいる

 2  池田恵矎子『出版女性史―出版ゞャヌナリズムに生きる女性たち―』䞖界思想瀟2001幎p.101

 3  『暮しの手垖』第 1 侖简 38 号1957 幎 2 月p.223   4  暮しの手垖瀟線『暮しの手垖 保存版 花森安治』暮しの手垖瀟2004 幎p.54 5  䞉枝䜐枝子「特集 倉革の枊䞭を生き抜く志士十人―花森安治―暮し民䞻䞻矩の守本

尊」『䞭倮公論』1973 幎 5 月号p.158 6  花森安治「線集者の手垖」『暮しの手垖』100 号1969 幎 4 月p.228 7  『暮しの手垖』は100 冊を 1 䞖玀ずし次の号はたた新しい䞖玀の 1 号ずするずいう

独自の発行圢匏をずっおいるがそれは「そのどの号もい぀も新しい颚をはらんでぞんぜんずはためくものがなくおはならない」そのためには日付や月の数え方に区切りがあるように雑誌は100 号が䞀぀の区切りずしお次は再び初心に戻っお始めなけれ

『暮しの手垖』がめざしたもの   ᅵᅵ

ばならないず蚀う花森安治の雑誌論によるものである぀たり 100 冊ごずにリニュヌアルするずいう発想である このため創刊号から第 100 号たでが第 1 䞖玀通算 101 号目は第 2 侖简 1 号通算201 号目は第 3 侖简 1 号ずなり2007 幎 8 月に発行された第 4 侖简 29 号は通算 329 号にあたる

 8  暮しの手垖瀟線『暮しの手垖 保存版 花森安治』暮しの手垖瀟2004 幎pp.46-49  9  第 2 䞖玀『暮しの手垖』53 号1978 幎 4 月10  暮しの手垖瀟線『暮しの手垖 保存版Ⅲ 花森安治』2004 幎pp.48-4911  花森安治「線集者の手垖」『暮しの手垖』第 1 侖简 40 号1957 幎 7 月p. 223 12  倧橋鎮子「あずがき」『暮しの手垖』第 1 侖简 1 号1948 幎 9 月p.96 13  衣装研究所の蚭立は 1946 幎暮しの手垖瀟ぞの瀟名倉曎は 1951 幎である14  『䞻婊の友』が1956 幎 3 月号から刀型を B5 刀ぞず切り替えたのは本栌的な雑誌の

グラフィック化のためであったこれを契機に他の婊人雑誌の B5 刀化が進行した䞻婊の友瀟線『䞻婊の友瀟の六十幎』1976 幎p.52

15  酒井寛『花森安治の仕事』朝日新聞瀟1988 幎p.14516  倧橋鎮子「あずがき」『暮しの手垖』第 1 侖简 9 号1950 幎 10 月p.144 17  倧橋鎮子「あずがき」『暮しの手垖』第 1 侖简 18 号1952 幎 12 月p.192 18  号数ずの察応で蚀えば創刊期は 1948 幎 9 月から 1953 幎 3 月たで確立期は 1953 幎

6 月から 1957 幎 2 月たで完成期は 1957 幎 5 月から 1969 幎 4 月たでずなるがその発行幎月を持っお時期区分ずするこずには積極的な意味はないず考えその期間に発行された最も倚く含たれるような暊幎の区切りを時代区分ずしお採甚した

19  執筆者にも共通性がみられたずえば兌垞枅䜐今和次郎小堀杏奎森田たた䞭村敏郎田䞭千代等が挙げられるたた写真はいずれも束本政利が担圓しおいる

20  『婊人の生掻』はその第䞀冊の「あずがき」によれば党十冊の刊行が予定されおいるが今回の調査で確認できたのは文献欄に資料ずしおあげた五冊のみである

21  池田恵矎子『出版女性史―出版ゞャヌナリズムに生きる女性たち―』䞖界思想瀟2001幎p.101

22  土志田埁䞀線『経枈癜曞で読む戊埌日本経枈の歩み』有斐閣2001 幎pp.42-4323  花森安治「商品テスト入門」 『暮しの手垖』第 1 䞖玀第 100 号1969 幎 4 月p.10724  ただし「商品」以倖の実甚蚘事でも衣服は圓然のこずずしお料理であれば調理噚具

䜏たいであれば掃陀道具「健康」では医薬品などそれぞれの項目にかかわりのある「商品」が倚く取り䞊げられおいる

25  「私たちの雑誌評『暮しの手垖』論」『週刊朝日』1956 幎 3 月 11 日号pp.9-1026  同䞊p.927  『暮しの手垖』第 1 䞖玀第 90 号1967 幎 7 月p.13428  花森安治「線集者の手垖」『暮しの手垖』第 1 侖简 31 号1955 幎 9 月p.20729  花森安治「線集者の手垖」『暮しの手垖』第 1 侖简 100 号1969 幎 4 月p.229  

ᅵᅵ   出版研究 38  2007

䞻芁参考文献

原資料今田謹吟線『婊人の生掻 第二冊 みだしなみずくほん』生掻瀟1941 幎今田謹吟線『婊人の生掻 第䞀冊』生掻瀟1941 幎今田謹吟線『くらしの工倫』生掻瀟1942 幎今田謹吟線『すたひずいふく』生掻瀟1942 幎小山勝倪郎線『切きれの工倫』築地曞店1944 幎花森安治『STYLE  BOOK 1946 倏』衣裳研究所1946 幎 5 月花森安治『STYLE  BOOK 1946 秋』衣裳研究所1946 幎 9 月花森安治『STYLE  BOOK 眞倏 和服地を䜿぀たデザむン』衣裳研究所1947 幎 6 月花森安治『STYLE  BOOK 1947 冬』衣裳研究所1947 幎発行月のデヌタなし

『矎しい暮しの手垖』1 号 10 号衣裳研究所1948 幎 9 月 1950 幎 12 月『矎しい暮しの手垖』11 号 21 号暮しの手垖瀟1951 幎 2 月 1953 幎 9 月『暮しの手垖』22 号 100 号暮しの手垖瀟1953 幎 12 月 1969 幎 4 月『暮しの手垖』第 2 侖简 1 号 100 号暮しの手垖瀟1967 幎 7 月 1986 幎 2 月『暮しの手垖』第 3 侖简 1 号 100 号暮しの手垖瀟1986 幎 4 月 2002 幎 10 月参考資料

「おめでずう「暮しの手垖」線集郚のみなさん」『週刊朝日』 1956 幎 3 月 11 日号朝日新聞瀟1956 幎

「特集 花森安治における䞀銭五厘の粟神」『週刊朝日』 昭和 46 幎 11 月 19 日号vol.76朝日新聞瀟1971 幎 11 月

「花森安治逝去远悌蚘事」読売新聞毎日新聞日本経枈新聞朝日新聞1978 幎 1 月 18 日号 「女の男装・男の女装―花森安治の思想ず生掻」『サンデヌ毎日』1954 幎 7 月 25 日号毎日

新聞瀟1954 幎「総力特集―創刊号は䌁画の宝庫 1『暮しの手垖』」『線集䌚議』2004 幎 5 月号宣䌝䌚議

2004 幎『暮しの手垖保存版 Ⅲ「花森安治」』暮しの手垖瀟2004 幎参考文献池田恵矎子線著『出版女性史』䞖界思想瀟2001 幎石川匘矩『欲望の戊埌史』倪平出版瀟1981 幎江䞊フゞ「賢明な消費者を育おる花森安治」『婊人公論』1965 幎 7 月号䞭倮公論瀟1965 幎唐柀平吉『花森安治の線集宀』晶文瀟1997 幎小泉和子『掋裁の時代』蟲文協2004 幎䞉枝䜐枝子「花森安治―暮しの民䞻䞻矩の守本尊」『䞭倮公論』1973 幎 5 月号䞭倮公論瀟

1973 幎酒井寛『花森安治の仕事堎』朝日新聞瀟1988 幎櫻井秀勲『戊埌名線集者列䌝』線曞房2003 幎

『暮しの手垖』がめざしたもの   ᅵᅵ

塩柀実信「塩柀実信の 歎史に残る名線集長 3 花森安治」『線集䌚議』2004 幎 8 月号宣䌝䌚議2004 幎

塩柀実信「暮しの手垖瀟―花森村塟の倢」『出版瀟倧党』論創瀟2003 幎塩柀実信『雑誌を぀くった線集者たち』広束曞店1982 幎塩柀実信『創刊号に賭けた十人の線集者』流動出版1981 幎杉森久英「花森安治の青春ず戊争」『䞭倮公論』1978 幎 6 月号䞭倮公論瀟1978 幎杉森久英『倧政翌賛䌚前埌』文芞春秋瀟1988 幎接野海倪郎「『暮しの手垖』で婊人雑誌を革新した䌝説の名線集者」寺田博線『時代を創っ

た線集者 101』新曞通2003 幎鶎芋俊茔「花森安治氏のこず」朝日新聞 昭和 53 幎 1 月 18 日号朝日新聞瀟埳川倢声・花森安治談埳川倢声察談「問答無甚」第癟十䞀回週刊朝日 昭和 28 幎 5 月

10 日号朝日新聞瀟1953 幎 5 月難波功士『撃ちおし止たむ』講談瀟1998 幎瀟団法人 日本家政孊䌚線『日本人の生掻―50 幎の軌跡ず 21 䞖玀ぞの展望』建垛瀟1998 幎花森安治談「薄れゆく戊争䜓隓」新期日報 昭和 43 幎 8 月 12 日号新期日報瀟1968 幎 8

月 12 日花森安治「わが思玢わが颚土」『朝日新聞 昭和 47 幎 6 月 17 日号』朝日新聞瀟1973 幎花森安治「僕らにずっお 8 月 15 日ずは䜕であったか」『䞀億人の昭和史』第 4 巻毎日新聞瀟

1975 幎花森安治『䞀銭五厘の旗』暮しの手垖瀟1971 幎藀原房子「『暮しの手垖』の果たしおきた圹割」『ゞュリスト総合特集「消費者問題」』有斐閣

1979 幎堀堎枅子「女の戊埌史 『暮しの手垖』」『朝日ゞャヌナル』昭和 58 幎 7 月 1 日号25 å·» 28 号

朝日新聞瀟1978 幎 1 月『女たち 創造者たち』未来瀟1986 幎に再録