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Title 北宋名人の姻戚關係 : 晏殊と歐陽脩をめぐる人人 Author(s) 淸水, 茂 Citation 東洋史研究 (1961), 20(3): 291-301 Issue Date 1961-12-31 URL https://doi.org/10.14989/148223 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Page 1: Title 北宋名人の姻戚關係 : 晏殊と歐陽脩をめぐる人人 東洋史 ......王明清か、宋史かどちらかが あやまったのであろう。つぎの朱聖予と

Title 北宋名人の姻戚關係 : 晏殊と歐陽脩をめぐる人人

Author(s) 淸水, 茂

Citation 東洋史研究 (1961), 20(3): 291-301

Issue Date 1961-12-31

URL https://doi.org/10.14989/148223

Right

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Kyoto University

Page 2: Title 北宋名人の姻戚關係 : 晏殊と歐陽脩をめぐる人人 東洋史 ......王明清か、宋史かどちらかが あやまったのであろう。つぎの朱聖予と

||曇殊と欧陽情をめぐる人人||

わたしが

王安石(一

O一一一

J一O八六)と曾輩(一

O

一九J一O八二)の散文について、解説を書いたとき

安石と曾輩とのあいだに姻戚閥係があるらしいことに賓が

つき、大出現興味ぶかく感じた。

骨田氏と王氏とのつながり

は、もうすζ

し精密にしらべて見たいと思

っているが、

のまま、うちすてているので

いずれあらためでのととに

ノ'】、。

vLJIドし

けれども、ここでひとことだけいっておきたいζ

とがあ

る。それは

王安石と曾輩との姻戚関係は同時に

王安石

と曾翠の弟曾布(一O三五J一一

O七)との姻戚関係を意

291

味するものであり

王安石が「新法が行われてから、紛紛

として議論があったが、呂悪卿と曾布とだけは、終始かわ

らなかった。あとのものは、

出たりはいったりだ。ι(碗談

集引宋貫録曾文粛公布骨)といったその結合のなかに、姻

- 59ー

戚のつながりという要素がまったくなかったとはいえまい

ということである。

とんなことから、北宋時代のいわゆる

名臣連中のあいだに複雑な姻戚のつながりがあるととが一黒

になり出した。

その第

一は、憂殊(九九

一J一O五五〉である。詞の作

者であるとともに、仁宗皇帝の慶暦年問、桓密使でかつ同

中書門下卒章事となり、

政治の権力をにぎったかれは、女

系のむこに、有力な官僚を次ぎ次ぎと持った。すなわち

南宋の王明清の「簿慶前録」省二に

「憂元獄夫人王氏は、園初の動臣超の女、橿密使徳用の

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292

妹なり。元献の靖は、富鄭公なり。鄭公の堵は、官同文筒、

文簡の孫婿は、

察彦清、

き、倶に執政と震る。

聖予の女は膝子済に適

元献に古硯一あり。

奇甚だし。王氏

朱聖予

の醤物なり。

諸女相援けて

停靖硯と挽す。

今時郎氏に蔵

す。朱の孫女、洪景巌に適き、近ごろ叉二府に登る、亦盛

文古犀常一あり。

事なり。

今亦膝氏に菰

亦元燃の奮物。

す。明清嘗って子慣の子供の慮に於いてとれを見たりよ

といっている。ひとっこれをたどって見ょう。

まず憂元献すなわち憂殊の夫人であるが、それは三人あ

工部侍郎にまでなった李虚己のむす

って

さいしょが

め、二番めが、

屯田員外郎であった孟虚舟のむすめ。三番

めが、この王氏である。父の王超は、園初の動臣ではある

が、太宗皇帝の近衛兵出身の軍人であり、兄の王徳用(九

八七J一O六五)は、仁宗朝に植密使となり、また問中書

門下卒章事にもなった人である航、とれも軍人上がりで、

鍍書植密院事になったとき

「武人で無撃ですから、大任

に首たるほどのものではございませんにとことわったと

いうほどで、家がらは、きっとよくなかったであろう。そ

れが大官になって

その妹含有望な若手官僚の後妻にした

こと陥、女系による勢力の維持が考えられていなかったで

あろうか。

要殊自身の家がらもよくない。その父の要因は、撫州の

つまり一人前の官でない、小役人であった。そ

手力節級、

れを引き立てたのは、さいしょの妻の父である李虚己であ

かれを楊億(九七四J一O二O)に推薦した上、む

すめのいいなずけとしたといわれる。とれを信ずるなら、

って、

息女殊のそもそもの人生のはじめから、妻の力によって官途

につくことになったともいえるのである。

-60一

要殊のむすめむこは、富鄭公すなわち富弼(一

OO四J

一O八三〉

である。富弼は、いうまでもなく、封遼外交に

名をはせ、仁宗朝に宰相となった人である。かれも、家が

らはよくなかったらしい。息女殊にくらべるとすζ

しはまし

「曾大父は内賞の令、議は慮謙。大父は商州馬歩使、

誇は令萄、考は尚書都官員外郎、語は言。」と、蘇載の「富

で鄭公紳道碑」

(東披集省三七)にあり、中級の官僚のよう

に見える。けれども、北宋の都伯温の「部氏聞見録」各八

によれば、

「富韓公(すなわち富弼〉の父、貧甚だしく、

自文穆公(呂蒙正〉の門下に客たりにとあるから

大官

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僚の幕客をしていた貧乏士族であった。との畏殊も王徳用

と同じく、むこえらびについて

気をくばっていたらし

く、沼仲掩にむこを推薦するようにたのんだところ、沼が

ω

とい〉フ

富弼の名左中めげた、

富弼の靖の鴻文筒というのは、恒明京(一

Oこ一

J一O九

四)の

ことである。

蘇拭の「富鄭公神道碑」

によれば

長は保寧軍節度使北京留守鳴京に適き、卒す。

又其の次ぎを以て室を纏ぎ、安化郡夫人に封ぜらる。」と

あるから、長女が結婚後早逝し、次女がその繕室となった

ζ

とがわかる。宮崎京も、一珊宗朝の植密副使でかつ参知政事

であった人である。「碗談集醐存」に宋の貫録から輔載し

た「鴻文筒公京停」によれば、その父祖について、何も記

さない。それは、おそらく父租が卑賎であったととを意味

「女四人、

するであろう。もし父租に有名人がおれば、同じく貫録か

ら採った

「呂正殿公公著停」のように、記録するのがふつ

うであろう。

官時京の父祖については

ただ宋の江少虞の

「皇朝類苑」単位四五に、

その父は、病式といって、左侍禁

であったということがわかるだけである。

この鳴京につい

293

ては、試験をうけたあとで、張亮佐から、外戚の権力で

むりにむとにされかけたが、それをととわったというはな

しがある。むζ

えらびに、みんな一心であったζ

とがわか

る。以上、

王超、曇殊、富弼、宮崎京の四代にわたり、女靖と

いうかたちで朝廷の高い地位が、世世うけつがれ、

そのむ

ζ

たちが

いずれも微賎な出であるらしいことは、注意す

べきととのように思われる。

つぎは、鳴京の孫むすめのむζ

になった察彦清の

ζ

とであるが、これは、どうも察滑のことらしい。察滑の

さて

-61-

停記は、宋史容四七一に見えるが

かれは、姦臣停のはじ

めに載せられている察確の子であり

のちに名を態とあら

ため

とれも姦臣停中の人物察京の引き立てで、同知植密

院事になった。宋史には、その字が見えないが、官同京-の靖

だとあるから

との彦清は、すなわち滑のζ

とであろう。

ただし、

かれが宮崎京のむすめ堵というのとまごむすめの靖

というのと、南説あるのは、

王明清か、宋史かどちらかが

あやまったのであろう。

つぎの朱聖予というのは

銭大析のいうよう

h、朱誇

(一

O六八J一一

O七〉

のことで、宋史容三五一に、

その

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俸が見える。奈京と親しく、徽宗朝、尚書右丞となった。

朱誇が尚書一右丞とな

ったのは、大翻元年(一一

O七)

機すなわち察滑が

宣和六年

知植密院事になったのは、

(二二四)の乙と山、朱誇の方が、察滑よりも先輩のよ

うに見えるから、

王明清のいうようにひとしく孫靖である

方が、

正しいかもしれない。

朱誇のむすめの嫁した勝子済は、勝康(一

O八四J一一

三二)のζ

と、宋史容三七五に俸がある。南宋の高宗朝、

植同知三省福密院事となった。ただし、在藻の「際子演墓

誌銘」(浮模集袋二六、四部叢刊本、すなわち武英殿緊珍版

「元室常氏、贈右諌議大夫安民の女」とあ

本)によれば、

って、朱氏ではない。疑いを存する。

朱の孫女が嫁した洪景巌は、洪遜(一二

一01一一七四)

のこと、洪遣、洪遭とともに、洪氏の三兄弟の仲弟で、宋

史巻三七三に俸があり、孝宗朝、同知橿密院事となった。

嘗面の問題としては、百明京までがいずれも、微賎の家か

ら出て高官となり、

それが、むすめを同じような境遇のも

なお考謹が必要

のに輿えているととである。祷京以下は、

だし、北宋初年とは、すとし事情がかわって来ている可能

性もあるので

かれらが

いかなる人物であるか指

‘-ょ-

ふ/、ずJ

摘するにとどめたい。さて

この女系によって有力な官僚

の地位をたもって行く現象のもつ意義を考えるまえに、使

宜上、今述べたのを系固として書いておく。

-62-

11

膝=女O康|

洪--女遵

とのように女系によって、官僚としての地位をたも

って

行くことは、唐代以前にはすくないようである。六朝以前

はもちろん、唐代でも、なお男系の世家が強かったようで

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あり、名家というものが、本人のいかんを問わず、とうと

したがって、妻もその父がだれである

ばれたようである。

かということより、どこの一門であるかが問題になった。

唐代の名人の夫人は、清河の張氏、清河

・博陵の握氏、幾

陽の鄭氏、沼陽の慮氏のようないわゆる名門出身者のわり

あいが、宋代の名人の夫人よりも多いように感ぜられる。

というようなわけで小説にしても、張鴛の「灘仙窟」は南

陽の張氏と清河の雀氏の態愛であり、取り持ち役に太原の

王氏が出ねばならず、元横の「鷺鴛停」も、張生と、鄭氏

を母に持つ握鴛鴬との轡愛であった。このような名門倉重

むすめをくいものにできる

の風は、斜陽の名門にとって、

機曾ともなった。

唐曾要容八三嫁要の傑に、貞観十六年六月の詔教を引い

て、衣ぎのよちにいう。

「氏族の盛は、貫に冠問先に繋がり、婚姻の遭は、仁義よ

り先なるはなし。有識御を失し、費氏云に亡びてより、市

朝既に遷り、風俗陵替し、燕越の右姓は、多く一衣冠の緒を

295

失し、画韓の奮俗は、或るいは徳義の風に弟く。名は州闇

に著わると雄も、身は未だ貧賎を克れず、自ずから膏梁の

胃と挽すとも、匹敵の儀を敦くせず、問名は惟だ質を嬬む

に在り、結構は必ず富室に闘すe

乃ち新官の輩、盟財の家

有って、その租宗を慕い、競って婚嬉そ結び、多く貨賄そ

納むるζ

と、

或るいはその家門を医し

て、屈辱を網姫に受け、或るいはその奮族を持り、無稽を

販曹の如き有り、

自男姑に行なう。積習俗を成し、今に迄るまで未だ己まず。

既に人倫を素し、貫に名教を酷く。股夙夜競傷、政選を憂

勤し、往代の霊害、戚く己に懲草するも、惟だ此の倣風、

未だ霊くは饗ずる能わず、今より己後、明きらかに告示を

-63-

加え、嫁要の序は、各おの典瞳に合するを識らしめよ。朕

それ今年六月より賓婚を禁ぜよ。」

浪落した名門が、名門なるが故の地位をたもち、新興成

が意を知らば、

金たちが

それと姻戚となる乙とによって、自分たちの一世

曾的地位を高めようとしていたことがよく一ホされている。

ところが、唐末五代の戟凱は、そのような名門を根とそ

ぎくつがえした。食うや食わずのはげしい戟字のあけくれ

は、買力を必要第一としたし、官吏になるととは、鳴道の

ごとき柔軟な性格を持つものでなければ、生命の危険にい

つでもおびやかされねばならないものであった。そ乙で中

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央で官吏になるのは危険だし、

といって、

地方でくらして

いくにも、

戟宇にその財産をおびやかされているとすれ

ば、名家であるだけでその生活を維持することは到底でき

なかったであろう。

北宋初の官僚の父祖には、戟凱のため

に仕えなかったものが多い。

五代の戟凱は、官僚としての

名門というもめをなくしてしまったといってよい。

ヵ、く

て、北宋初期の官僚たちは、親たちのおかげでなくて、自

分たちの買力でのしあがって来た。そこには、世家として

の家風がないから、

むすこが、その胸骨統をうけつぐ可能性

がすくなく、そのために、自分の官僚としての地位をうけ

つがせるには、むすめによいむとを選ぶ方が、好都合であ

ったのであろう。

こうした質力第一の思想とともに、名門の地位をあやう

くしたのは、戟凱によって、系譜が失しなわれ、名門のよ

りどころである「血統書」がなくなったため、人聞は犬より

も毛なみのよしあしの判断がむずかしくなったととであろ

う。特に中原の大戦乱は、名門の地方行きをやむなくさせ

たし

たしかに賓とか南唐などの方が、卒和であった。宋

初の大官に、萄や南麿の出身者が多いζ

とも注意すべきで

あろう。

乙の地方へ、名士が出て行ったとき、本ものばか

りでなく

にせものもまじっていたことが想像される。責

出衆の凱で死んだはずの皮日休が、江南へ流浪して、呉越の

銭氏によったという侍設ができて、

同る。新五代史に義見停というものができるほど、姓氏はい

問題を提起したりす

いかげんになった五代の乱世なのだから、名門などという

ものは、信用できないし

したがって慣値を持たなくなっ

たと思われる。

かくて、名門であることが債値を持たず、買力が寧ばれ

- 64ー

た結果、唐代では斜陽の名門が富みを得るための手段とし

一代貴族たちが、自分の貴い地位

たむすめを、宋代では、

を、何らかのかつこうで自分の血縁にのこすためのものと

したようである。

むすめにすぐれたむζ

をえらぶことによって¥自分の血

のつながりのものに、高い地位を維持させようとする高官

一方、低い身分の出身者にとっても、歓迎

されたことであろう。高官のむこぎみになる乙とは、種種

たちの努力は、

の貼で利便が興えられるであろうからである。

要殊から富弼、宮崎京以下へ流れる女系の線は、

とのよ〉つ

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こ!l、Amしこ。

l「ラカオT

おそらく、これは、

王明清が特に注意するほ

どもっとも典型的なかたちで女系による官僚の地位の維持

があらわれたものであるう。

次ぎに、欧陽僑(一

OO七J一O七二)について見てみよ

ぅ。かれの出身もあまりよくない。

父の欧陽観は、泰州の

判官でなくなった。その上の世代は、南唐に仕えた下級官

僚であ

った。かれは、わかいとき、はなはだ貧乏であった

というはなじも停わっている。

かれは、三度妻をめとった。最初は、翰林事土背僅のむ

すめである。膏僅は、欧陽衡を引き立てた人であり、この

鮎、安殊に封する李虚己と同じような立ち場にある。衣ぎ

に右諌議大夫楊大雅のむすめ、さいごに醇套のむすめをも

らっ印。醇套は、仁宗皇帝の天聖年聞から明道年聞にかけ

て、参知政事になった人である。かれの妻は'次第に高官の

むすめとな

っていることは注意してよい。

けれども

乙の醇套も一代貴族であった。欧陽衡の「醇

297

大王父、

「曾王父

王父

三世皆頴なら

公墓誌銘」には

また醇套の弟酵塾のために欧陽備が書いた

「内股崇班醇君墓誌銘」

(欧陽文忠公文集容六一〉にも「醇

ずじといい、

は絡の大族、簡粛(醇套〉より興る。」

とある。

だから

欧陽備が蒔套のむすめを妻としたのは、息女殊が王徳用の妹

をもらったのと同じように

一代貴族が有望なむこをえら

んだかたちである。醇套は、欧陽惰のほかに

王挟辰(

O一一一

J一O八五〉をむことした。

しかも、王扶辰はまず姉

をめとり、次ぎにその死後、妹をめとった。「醇公墓誌銘」

では

「:::次ぎは太原の王扶辰に遁き、早く亡す。次ぎ

- 65一

は鹿陵の欧陽備に遁き、次ぎは叉王氏に遁く。」

いる。王扶辰は、天聖八年(一

O三O〉、

といって

欧陽僑と同じ年

に、進土に首席で合格し、

三司使などになった人である

が、人物はあまりよくなかったらしいゆ。醇套の

一族との姻

戚閥係は濃く、そのむすζ

たち、王正甫、王端甫は、

し、

れも醇釜の兄醇睦の孫むすめをもらっている。

(欧陽傍

「園子博士醇君墓誌銘」欧陽文忠公文集谷三四〉。

王扶辰

は、議すべき貼があったとはいえ、経済官僚として活躍し

たひとりであり、有望な人物と醇套が考えてむことしたに

E

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298

欧陽傍の子の欧陽護(一

O四OJ一O八五)は、奥充の

むすめを妻とした。

(張来「欧陽伯和墓誌銘」張右史文集

〔四部叢刊本〕容五九)

これは

甚だ興味深いことであ

る。というのは、英充の子女と、首時の大官僚との結びつ

きが甚だ密であるからである。呉充(一

O一一一

J一O八O)

は、紳宗皇帝のとき、中書門下同卒章事に任じた人で、王

安石と同じ年令で且つ同じ年に進士に合格した。おそらく

そんな欄係からか、英充の子奥安持は、王安石の長女を妻

とした。また、畏充のむすめたちは、李清臣の書いた奥充の

長は殿中丞欧陽震に適き、次ぎ

墓誌銘によれば

「女四、

は尚書都官員外郎呂希績に遁き、次ぎは光線寺丞夏伯卿に

適き、次ぎは承事郎秘閣校理文及甫に(遁く)。」とある。

欧陽謹の妻の次ぎの妹が嫁した呂希績は、哲宗朝に宰相

となった呂公著(一

O一入J一O八九〉の子である。その

次ぎの夏伯卿は、仁宗朝、植密使、問中書門下卒章事とな

った夏錬(九八四J一O五

O)の孫である。いちばん下の

むすめのむこ文及甫は、仁宗朝及び哲宗朝に、宰相となっ

た文彦博(一

OO六J一O九七)の子である。このように

見てくると、呉充のむすこやむすめたちは、名臣の二世

一世たちを姻戚の閥係でむすびつけているといってよい。

臭充の家がらは

父の呉待聞が尚書櫨部侍郎になってか

ら、目立つようになった家である。先租は、建州浦城(今

の一踊建省浦城鯨)の人で、祖父の諒は儒事に明きらかで郷

いなか儒者であっ加。

皇で教授したというから

けれど

も、兄の呉育(一

OO四J一O五八〉が仁宗皇帝の慶暦年

問、植密副使から参知政事になって、父の獲得した官僚の

地位をいっそう輩固にし、つ明ついて呉充が出、新興官僚の世

家となったように思われる。呉育のむすめのうち二人は、

韓璃の一族らしいが、だれの子かまだ調べていない韓宗彦

no no

と、仁宗朝の宰相であった鹿籍(九八八J一O六三)の子

の腐元丸とに嫁している。

ζ

こに、新興の官僚家族、が、

の官僚家族と姻戚をむすんで、新しい門閥を作って行くす

がたが見られるように思う。

いま、これらの関係を次頁に系固にしておこう。

わたしは、北宋初期の新興の士大夫階級が、どのように

姻戚に結びつき、新門閥を形成して行ったか、

それを甚だ

興味の多いととと思っ

ている。新門閥として完成されたも

のに呂氏(巨蒙正、呂夷筒、自公弼など)、

韓民(韓晴、

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妻「 寸」

石 ijL-4ii

299

夏立東

韓忠彦など)、

もう一つの韓氏〈韓億、韓緯、韓緯、韓維

など)、その他があり、それらが買に複雑な姻戚闘係で結び

つきあって、

ひとつの統治集圏を形成して行ったもののよ

うに思うのであるが、それらの結びつきについては、

まだ

整理がゆきとどいていない。ζ

とでは、ひとまず、その家

族が世家とならず、むすめむζ

の形で、統治階級の地位を

たもっていった曇殊の女系、も新興官僚たちの急速な結びつ

きが見られる欧陽備と奥充の一門についてだけ述べてみ

た。

いわば、標題の「北宋名人の姻戚閥係L

の護

とれは、

端をなすものであるととを諒とせられたい。

-67-

(一九六

一一、一一〉

① 註②

清水茂「唐宋八家文」(中)(東京

二六六頁以下。

コニ靭名医言行録」(四部叢刊本)品竺ハには「王丞相(安石)

嘗云。自議新法。始終言可行者。曾布也。言不可行者。司馬

光也。絵皆前叛後附。或出或入。」とあり、呂憩卿の名をあ

げない。なお、乙の係、出典を記きない。

欧陽衡に「曇公一澗道碑銘」(欧陽文忠公文集省二二)がある。

宋史本停は谷=一一一

銭占六時間「十期尚組問養新徐録」翁下「委元搬夫人」の係および夏

朝日新聞祉

一九六

O)

③ ①

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300

①⑥①

承煮「唐宋詞人年譜」

欧陽倫「榊道碑銘」

宋史谷二

七八本山内。

宋史谷二七八本間内。欧陽俗「武恭王公一例道碑銘」

(欧陽文忠

公文集谷二三)。王安石「王公行欣」(臨川先生文相出品伯九

O)。

同上。

夏承燕「唐宋詞人年譜」二六三頁によれば、王超は、安殊が

二二歳の大中鮮符五年

(一

O二一)になくなっ

ているから、

安殊が三度めの斐として王氏を迎えたときは、おそらく王超

はなくなり、王徳用が家をついでいたであろう。

朱宙開「五朝名臣言行線」谷六之三に「温公目線」を引く。欧

防修「袋公一柳道碑銘」では、父祖につき、「高祖捕、腐成過

中、血伊進士、::其後三世不願。」

とそのあと三世の名まえ

をしるすだけである。夏承穣

「唐宋詞人年織」

一九七頁

照。なお、清水「唐宋八家文」(中)五貨にもふれておいた。

前掲「五靭名臣言行鍛」引「組公日銀」。

夏承穣「腐宋詞人

年譜」二

O二頁以下参照。ζ

のむζ

えらぴの州開設に、あやま

りがあり、あてにならぬ乙とが同替に見える。

欧陽術「凪官公一柳道碑銘」では、「女六人、長泊戸部侍郎問中

沓門下卒議事富岡、次埴離部侍郎三司使楊族、其四山間幼。」

とある。

次女の婿の旧制察も高官で、宋史谷二九五に仰があ

る。そこで更に欧陽備は、一脚道碑

K「至捧其女之所従、叉得

二人者如此よという。寓弼の裂は、

一脚道碑では長女となっ

ているが、夏承審問「庖宋詞人年譜」ニ二四頁には、袋殊の

「答申丞兄家瞥」に「ニ娘子」とあるのに注意して、宙開拘に

(上海

一九五五)二六三頁参照。

①③ ⑩ ⑪ ⑫

⑬⑬

嫁したのは、次女であるというが、乙

の「ニ娘子」は必ずし

も袋殊の次女であることを意味しないであろう。排行を示す

数字は、ほんとうの兄弟にかぎらず、同族の同訟を通して敏

えるのがつねであるからである。

窟弼の仰は、宋史谷三一三。

「碗淡組抑制存」(仏恒例燕京厚枇引得特刊之十二

北京

一九

三八)府竺一、四四頁bに窟弼の「富秦公言墓誌銘」がある。

そこには「我先君奮寒苦」と記すc

.夏承額一「唐宋詞人年譜」二二三頁以下にこの事情はくわし

活京の仰は、宋史谷三一七。

「碗淡集酬存」谷三、三二頁b。

前掲書谷三、一一頁

a。

宋史および「活文相聞公京体」。後者によれば、「(溺)京及第

時、狼掛川佐侍外成、欲姿以女、使吏卒擁以入甘門家。頃之中人

以酒殺至、且一示以奮具廿曲厚。

京国節目『老母己議王氏。』

弗就。」とある。乙の王氏と富氏の二女の聞係は、どうなる

のかわからない。王氏の死んだあとに、窟弼のふたりのむす

めが、つぎつぎととついだのであろうか。そうすれば、後妻

であって、むこがかなりの地位を得てから、とついだ乙とが

惣崎博される。

「十加地獄養新除録」谷下「安元献夫人」。

宋史谷二一二虫干腕表三。

陳寅格「元自詩輔畳程稿」(上海一九五八)の「讃鴬都府仰」の

一O八頁以下を見ょ。なお、際資格

「記唐代之李武奪場婚姻

ORu

no

⑬ ⑬⑬⑪⑬ ⑫@@

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集閤」(歴史研究一九五四年第一期)に南北朝惰及唐初枇曾

の門族との婚姻に封する観念が略述してある。(三三頁以下)

事刷機非「校鮎『皮子文薮』説明

i

|粂論有闘皮日休諮問題」

(文史哲一九五八年第一期)四頁以下。

欧陽僑「欧陽氏譜闘」(欧陽文忠「公文集谷七一)。

清水「唐宋八家文」(中)一四頁。

欧陽備にその「膏夫人墓誌銘」(欧陽文忠公文集谷六二)が

木町ヲQ

欧陽僑にその「楊夫人墓誌銘」(前掲書谷六二)およびその

父楊大雅の「諌議大夫楊公墓誌銘」(同土谷六こがある。

蘇轍にその「欧陽文忠公夫人醇氏墓銘誌」(築城集各二五)

があり、欧陽僑はそのハス醇室の「資政殿事士戸部侍郎簡繍藤

公墓誌銘L

(

欧陽文忠公文集省二六)を書いている。

郁伯温「都民間見録」省八に、時臥陽備が王鉄農に戯むれて、

「替女容骨刷新女培、大崎腕夫作小娘夫」という詩句を作ったと

いうはなしを載せる。

「碗淡築制存」谷三、五一頁

aに賀鍛から「王強格公鉄辰停」

を柏崎載する。叉、宋史容三一八。

揖伺の察上田州「王荊公年譜考略」(上海一九五九)三九頁。

「琉説明集制存」省二、二三頁

a「奥正憲公充墓誌銘」。

なお

宋史の呉充の本停は、省三三一。

「碗淡集剛存」省三、一一頁

a以下「呂正朕公公著停」。

王法「夏文涯公紳道碑」(武英殿褒珍版全書「華陽集」省三

五)@

宋史容三二ニ文彦樽伸。叉、

⑧ ⑧⑧⑧ ⑧ ⑧ ⑧ ⑧ ⑧⑧ ⑧⑧ ⑧

「琉淡集制存」品恒三、

一四頁b

⑧@⑧

以下「文忠烈公彦博侍」。

前掲「呉正愈公充墓誌銘」。

欧陽傍「正晴間呉公墓誌銘」(欧陽文忠公文集省三二)

斡鴻のζ

どもたちは、忠彦、端彦、良彦、純彦、粋彦、嘉

彦、同母兄の韓獲のこどもは、正彦であって、宗彦の名は見

えないが、同じ排行に属するひとりであるζ

とはまちがいな

かろう。

宋史容三一一腐籍停。司馬光「太子太保腐公墓誌銘」(温国

文正司馬公集

〔四部議刊本〕谷七六)。王珪「廊荘敏公一柳道

碑』(華陽集昌也=一五)必

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Intermarriagesbetween Eminent Families

   

in the Northern Sung Dynasty

                

Shit

 

Under the T'ang dynasty the ?eminent men ”■who ■were success-

ful in climbing the social ladders by their ow^n merits tried to make

matrimonial ties■withthe traditional aristocracy, while some of the

declining noble families desired the same from economic reasons.

Then came the troublous age of the Five Dynasties which destroyed

the 01daristocracy. Most Sung eminent men who came from the

lo'wrer classes attempted to keep 。their families' social and political

status by choosing able young men for their daughters in marriage.

Such instances are not difficult to find : An Shu, Premier in the Ten-

tsung era, married his daughter to Fu Pi who became a premier and

played an important role in negotiations with Liao ; Ou-yang Hsiu゛s

family had matrimonial relations ■withHsueh K'uei and Wu Ch'ing;

Wu Ch'ung's family had close ties by marriage with the families of

such eminent people as Ou-yang Hsiu, Wang An-shin, Lu Kung-chu,

Hsia Sung and M陥nYen。po.

Notes on the History of China Merchants'

    

steam Navigation Company

       

HironaoKifamura

 

In January, 1877, China Merchants' Steam Navigation Company

purchased at the amount of 2, 200,000 Shanghai Tls. Shanghai Steam

Navigation Company which ■was an affiliated company of Russel &

Company, resulting in a sudden expansion of the former's business,

but this event initiated a series of public controversy on the corrup-

tion therein during 1880-81 with Wang Hsien-ch'ien playing an active

part.

 

Memorials to the throne ■were drafted by Liu K'un-i and Li

Hung-chang, relying on the reports of investigation by Liu Jui一珀n

                   

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