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Title 雨の情景 : 陳與義の詠雨詩と杜甫 Author(s) 綠川, 英樹 Citation 中國文學報 (2012), 83: 175-199 Issue Date 2012-10 URL https://doi.org/10.14989/226530 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

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Page 1: Title 雨の情景 : 陳與義の詠雨詩と杜甫 中國文學報 (2012), 83: …...三マ八、競は筒粛)十九首を選ぴ、彼ら四人によ の贋大さ、精巧絞密、高潔爽快な表現を見極めることにる同の描寓を高く評慣する。そのうえで、各詩のスケール

Title 雨の情景 : 陳與義の詠雨詩と杜甫

Author(s) 綠川, 英樹

Citation 中國文學報 (2012), 83: 175-199

Issue Date 2012-10

URL https://doi.org/10.14989/226530

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||陳奥義の詠雨詩と杜甫||線

J 11

樹京都大血甲子

古川幸次郎はその著『宋詩概説』において、唐人の詩に

は激情をあおるものとして、夕陽と月という二つの自然が

しばしば現れるのに封し、宋人の詩に多く現れるのは雨で

いわく、「夕陽は燃焼であり、雨は持績

である。唐宋詩の差異を示す、また一つの材料である」

0

あると指摘する。

これは単に特定の自然景物に釘する偏愛といった題材論

的な次元にとどまらない。吉川氏のことばを借りるならば、

「人生を長い持績と見る。長い人生に封する多角な顧慮が

ある。巨覗がある」宋人の人生観、哲撃に関わるものであ

雨の情景(総川)

り、その丈率的な表れとして、唐詩は激烈を、宋詩は平静

を獲得しているという。

確かに宋代の詩人たちは好んで雨を詩にうたう。たとえ

ば、北宋を代表する詩人蘇戟(一

O三六

一O一)には

「山色空濠として雨も亦た奇なり」(「飲湖上初晴後雨二首」

其二)など、雨にまつわる印象的な佳篇が少なくないし、

また雨を題材とした作品の数量、多様性という貼では、南

宋の陸説(

一一一五一二O九)と楊寓里(一

六)に指を屈することができよう。彼らがいかに雨を表現

175

したかについては、すでに個別的な研究も幾つかあり、

れぞれの作品世界を構成する重要な要素であることが指摘

されている。

停統的な丈島ア論に眼を向けてみれば、元・方回(一二二

二O七)が編んだ律詩専門のアンソロジl『漏本主体伴

髄』巻一七には、

つとに「晴雨類」が立てられ、次のよう

な論評が加えられている。

老社晴雨詩取二十首、似乎太多、然他人無此等気塊。

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中園文学報

第八十二一冊

随一干者但観老社・聖愈・後山・筒斎四家賦雨其弘大、其

工密、其高爽震如何、即知入慮失。

老社の晴雨の詩

二十首を取るは、太だ多きに似

たり、然れども他の人には此等の気腕無し。皐ぶ者は

但だ老社・聖食・後山・簡粛四家の雨を賦するに其の

弘大、其の工密、其の高爽なること如何と属すかを観

れば、即ち入慮を知らん。

(『漏套律髄』巻一七・晴雨類

社甫「雨四首」其一二、方凶許)

「晴雨類」は、「雨」のみならず「晴」、すなわち雨上が

りの晴れた情景も封象に入れているが、賢い意味で雨をう

たう詩と見なしてさしっかえないだろう。方回は、五言律

詩では唐代の社甫(七一二七七O)二十首、北宋の梅亮臣

(一

00二一

O六O、字は聖食)十三首、陳師遁(一

O五三

一O今、援は後山居士)七首、

そして南宋の陳奥義(

O九O

三マ八、競は筒粛)十九首を選ぴ、彼ら四人によ

る同の描寓を高く評慣する。そのうえで、各詩のスケール

の贋大さ、精巧絞密、高潔爽快な表現を見極めることに

よって、詩道を悟るための第一歩になるであろうと説く。

なお、「入庭」は禅家愛用の語。「入頭慮」ともいい、悟入

への手がかりのこと。

同巻の陳奥義「雨」詩の方回評には、さらに「筒粛の五

ため

言律雨の矯にして作る者、十九首を選ぶ。詩律精妙にし

て、上は老社に迫り、高きを仰ぎ堅きを錯る。世の斯文も

て自ら命ずる者は、皆な首に下風に在るべし。後山の後は、

此の一人有るのみ」とあり、陳奥義の雨をうたう詩を方回

は意識的に多く選ぴ、それを「社甫↓陳師這↓陳輿義」と

176

いう系譜のなかに位置づけていることがわかる。

七言律詩になると、社甫から四首、陳輿義から六首を採

り、同様に彼ら二人の詩を重視していることが窺えるもの

の、梅完臣は無し、陳師道はわずか一首のみと、五言律詩

hE

の場合とはいささか趣を異にする。陸詳の七首を採ってい

るのが日を引くが、楊高里は五言・七言ともにまったく選

録されない。

むろん、このような方回の論評は彼濁特の、多かれ少な

かれ偏向した詩皐観にもとづくものであり、その説の首否

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については、具躍的な作品分析に即して、あらためて検誼

してゆく必要があるだろう。ただし、少なくとも方固の批

評眼によれば、陳輿義の雨をうたう詩が唐宋詩の歴史にお

いて重要な位置を占めることは疑いない。

本稿では、陸瀧・楊高里よりも一世代前の詩人、すなわ

ち北宋末から南宋初にかけて活躍した陳奥義の雨をうたう

詩ーーかりにこれを「詠雨詩」と名づけるーーを取り上げ、

特に社甫からの影響関係に焦貼を嘗てて考察してゆきたい。

それは方回の論評を検詮すると同時に、

ひいては古川氏の

述べる宋人の人生観、哲皐をも頑野に入れることになるだ

ろう。なお、ここでいう「詠雨詩」とは、直接に雨を主題

とする詩を主とし、あわせて題材もしくはライト・モチ1

フ(主導動機)として部分的な雨の描寓を含む作品群を概

括していう。

「苦雨」「喜雨」から詩作を催す雨へ

陳輿義の詠雨詩の考察に入る前に、まず詩における雨に

ついて簡単に整理し、その歴史的な展開を概観しておこう。

雨の情景(総川)

中国古典丈撃において雨が描かれるのは古く『詩経』

『楚辞』にまで湖ることができるが、雨そのものを主題と

した作品の登場は後漢末から貌音の時期まで待たなければ

ならない。多くの場合、その内容は農事や物候に関するも

のであり、凶作の原因となる長雨を愁うか、あるいは逆に

幽一一旦作をもたらす恵みの雨を喜ぶという立場からうたわれる。

前者の例としては、後漢・奈川邑「霧雨賦」、親・曹杢や曹

植らの「秋山霧賦」、

さらに貌・玩璃の詩(『古詩紀』巻一七に

は「背雨」と題する)、耳目・停玄の詩(『古詩紀』巻二二には

177

「苦雨」と題する)、停成「愁霧詩」(『太平御覧』巻

'-./

ど。後者の例としては、曹植「喜雨詩」、惇成「喜雨賦」

などが今に惇わる。『丈選』巻二九に収める音・張協「雑

詩十首」其十は、神話的な想像力を駆使して降雨による世

界秩序の崩壊を描いた特異な例と言えようが、あくまでも

「苦雨」の枠組から外れることはない。

以後、六朝期を通じて、雨を主題とする詩賦は基本的に

「苦雨」か、

さもなければ「喜雨」という悲喜いずれかの

観念にもとづいてうたわれるのが主流であった。その一方、

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中園文学報

第八十二一冊

南斉・謝眺「観朝間」詩(『文選』巻一二O)、梁・劉孝威

「望雨詩」のごとく、雨そのものを細やかに観察し、そこ

に喚起される思念や情緒をうたう「観雨」「望雨」あるい

は「封雨」と題される作品も徐々に増えてゆく。梁の筒丈

帝請綱「賦得入階雨詩」、

元帝請鐸「詠細雨詩」などは、

詠物詩として雨の美しさを描寓した最たるものと言えよう。

多雨摂潤という中園南方特有の気候候件が及ぼした影響も

否めないが、南朝の修辞主義的な丈皐潮流のなか、従前さ

ほどうたわれなかった「微雨」「細雨」など、臆躍とした

雰園試や雨音の聴畳的側面を描き出す題詠の作が多く現れ

たことは注目に値する。ことに梁代以降、その傾向は顕著

になる。

上に奉げた雨を主題とする作品のほとんどは

『雲文類

来」巻二・天部・雨に牧載されており、曲民事や物候と密接

につながる

「苦雨」「喜雨」

の系譜であれ、南朝後期に

なって新たに現れた「観雨」「望雨」「封雨」の系譜であれ

少なくとも初唐以前の時期に、「詠雨賦」「詠雨詩」が一つ

のジャンルとして、すでに確乎たる地位を占めていたこと

を裏づける。

さて、唐代の社甫になると、詩における詠雨表現は質量

ともに新たな展開を見せる。第一に、雨を主題とした詩を

多数かつ集中的に創作していること。「雨」字を詩題に含

む作品だけでも五十三首、そのうち「雨」

一宇を取ってそ

のまま詩題とした作品も十二首にのぼる。もちろん、清

題を製

喬億『創諮説詩』巻下(『清詩話績編』)に「唐人

ること筒浄、老杜の一字二字もて拍出するは、更に古な

り」と述べるように、篇首の一字あるいは二字を機械的に

178

摘んで詩題とするのは

『詩一経』

の古風なスタイルに倣った

ものである。詠じられる雨そのものにさほど深い意味がな

いこともあるし、逆に詩題に「雨」字を含まずとも、雨が

作品において重要な役割を果たすこともありうる。あくま

でも目安としての集計ではあるが、詩の本丈中に「雨」字

が現れるのを合わせると計二百三十首、現在のこっている

杜甫のすべての詩一千四百鈴首のほぼ六分の一近くにも達

する。この出現頻度の高さは唐代の他の詩人に比しても群

を抜いており、杜甫は雨そのものを表現封象とすることに

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並々ならぬ闘心を抱いていたと言ってよい。

第二に、社甫を晴矢として、雨が詩作を催す、詩人に霊

感をもたらすという詩準認識が自覚されたことである。社

甫の若い頃の五律「陪諸貴公子丈八溝携妓納涼晩際遇雨

(諸貴公子の丈八溝に妓を携えて涼を納るるに陪し、晩際にて雨

に遇、つ)二首」其一

註』と略、刊)に、すでに次のような護言が見える。

(清・仇兆鷲「杜詩詳註」巻三。以下、『詳

片雲頭上黒

片雲

頭上に黒し

廃是雨催詩

一際に是れ雨の詩を催すなるべし

詩題の「丈八溝」は長安南郊にあった運河。夏の夕暮れ

どき、貴族の若者たちと美しい妓女たちが舟を浮かべて納

涼の宴に興じる様子をうたう。社甫は詩作を披露する陪客

の立場として、この華麗な集いに加わったのだろうか。上

に引いた末尾二句では、

頭上に黒い雨雲がかかり始めてき

たが、それはきっと雨がわたしに詩を作れと催促している

にちがいない、とユーモラスに詩を結ぶ。宴席即興の軽妙

雨の情景(総川)

な筆致ではあるものの、これ以降、雨を主題とする詩を幾

度となくうたいつづける社甫の創作姿勢を、

はしなくも暗

示している句と言えよう。この詩では、雨が降り出す前に

詩を急いで作ろうとする思いを擬人的に表現したに過ぎな

い可能性もあるが、

北宋になると、「雨

詩を催す」は本

来の文脈を離れ、詩作の動機となる雨、詩人に霊感をもた

らす雨という意味合いが明確になってゆく。杜甫は、宋人

に先駆けて、これに近い認識を持つに至ったのである。

章を改め、社甫の詠雨詩の表現について具瞳的に考察し

179

,目当

O

えし

社甫の詠雨詩

杜甫の詠雨詩で最も注目すべきは、従来のものと比べ、

内容上および表現上の創新が認められることである。本章

においてその多彩な全貌をつぶさに論ずることはもとより

不可能であるが、ここで特筆しておきたいのは、社甫の場

合、「苦雨」「喜雨」というこつの枠組を踏襲しつつも、農

事や物候の範園を超えて、戦乱などの時事問題、

ひいては

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中園文学報

第八十二一冊

枇A胃全瞳まで射程に捉えているという貼である。典型的な

上げてみよう。 五

古「喜雨(雨を喜ぶ)」(『詳註』巻一一一)を取り

例として、

春日干天地昏

日色赤如血

農事都己休

兵戎況騒屑

5巴人困軍須

働問犬厚土熱

治江夜来雨

員宰罪一零

穀根小蘇息

日診気終不滅

何由見寧歳

解我憂思結

帰蝶群山雲

交命日未断絶

春日干

天地昏く

日色

者は赤てく己し

休血すの

如し

農事

兵戎

軍況須んにや困i騒し 屑みた

るをや

巴人

厚土の熱きに働問犬す

治江

夜来の雨

国県宰

一たび雪ぐ

穀根

小Z罪しく蘇,息するも

冷気

物件に減せず

何に由りてか寧歳を見

我が憂思の結びたるを解かん

帰蝶たり

群山の雲

交合して未だ断絶せず

目安得鞭雷公

安くんぞ得ん

雷公に鞭うちて

湾花洗呉越

立開花として呉越を洗うことを

原注に「時に聞く

漸右に盗賊多しと」とあり、台州

(漸江省臨海市)の人、衰晃が叛乱を起こして湖東地方を

陥れた情況を背景としてうたう。事は

『菖唐書』代宗紀な

どに見える。賓鹿二年(七六三)四月には河南副元帥の李

光弼が衷昆を討伐していることから、清・朱鶴齢「社工部

詩集輯註」巻一

Oはその直前、すなわち同年春の作とする。

180

首時、杜甫は成都をしばらく離れ、梓州(四川省三基豚)

に滞在していた。

冒頭六句では、春の日干魅のため、宮地の人びとは農業被

害に遭っているばかりか、戦局の悪化にともない、叛乱軍

の鎮匡に必要な軍需物資の供給のためにも苦しんでいると

いう。幸いにも昨夜からの雨が降り、日干魁をもたらした造

物主の罪は一気にすすがれ、作物の根もしばし息を吹き返

すことができたようであるが、結局のところ、「診気」(災

いなす気)は消滅していない。同じ社甫の「喜雨」

でも、

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人口に謄哀した「春夜喜雨(春夜

雨を喜ぶ)」詩(『詳註」

虫色一

O)とは異なり、この詩は春雨の恵みを手放しに櫨賛

するものではない。むしろ「喜」ぴながらも、「憂思」は

依然として結ぼれたまま。

末尾二句は、自身のいる巴萄から遥か呉越の地へと想像

を馳せ、どうにかして雷神に鞭打って大雨をざんざと降ら

し、所東一帯の叛乱軍をすべて洗い流したい、と社甫らし

い奇想をもって詩を結ぶ。末尾の部分に「安得」を用いて

切貰な願望をこめるのは杜甫にしばしば見られる句法であ

り、「安くんぞ得ん

贋慶の干高聞なるを、大いに天下の

寒士を庇いて倶に歎ばしき顔せん」(「茅屋第秋風所破歌」、

『詳註』巻一

O)など、彼自身の誇大妄想的な済世の思い

⑩一

を表現することが多い。また、大雨によって戦争の終結を

願うという護想としては、乾元二年(七五九)春の作、七

古「洗兵馬」(『詳註』巻六)にも同様の例が見える。

安得壮士挽天河

i軒安らくかんに ぞ甲得兵 んを洗

天河を挽き

壮士

海洗甲兵長不用

長えに用

雨の情景(総川)

いさるを

「甲兵」(よろい、武器)の汚れを洗い去るというのは、

周の武王が段を討伐した際に大同が降ったことを「天

を洗うなり」と述べた故事にもとづくが、杜甫はこれを未 丘

来のことに反結押させて用い、大雨の力によってこの世界か

ら戦争を消滅させたいと夢想する。「喜雨」詩の「諒氾と

して呉越を洗う」もこの方向で謹まれるべきであり、停統

的な「喜雨」の型を踏まえつつも、「農事」から「兵戎」、

祉舎全瞳の問題にまで憂患の封象を推し賢げているところ

181

に杜甫の詠雨詩の特徴がある、だろう。

先行作品に見られない雨に封する繊細鋭敏な感覚など

社甫の詠雨詩について論ずべきことはなお少なくないが、

後述の陳奥義との関わりにおいて特に重要な作品として、

次に五律「西閤雨望」(『詳註』窓一七)を検討したい。

棲雨需雲幌

水雲城 慢にを著つ 品う

く す占主

棲雨

山寒著水城

山寒

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中園文学報

連添沙面出

浦減石稜生

菊蕊凄疎放

松林駐遠情

法花朱櫨滋…

高慮傍箸極

第凶ヲ J¥

j市5j需士減添鼎じえ叩てら石れ稜て生沙ず面

出で

i穿i'd と

聾し遠凄櫨て情とに朱をし傍そ艦駐Eて

う混i む~*しミ 刷、

菊蕊

松林

高慮

「西閤 「

西閤」は、愛州(重慶市奉節牒)における社甫の寓居。

百尋徐」(「中育」詩、『詳註」巻一七)とあるように、

棲閣が白帝山の西の中腹に高く聾えていた。そこから見た

雨の眺めをうたう。五年にわたって逗留した成都を離れ、

長江を下ってこの水遣のまち愛州にたどり着いたのは大暦

元年(七六六)、杜甫五十五歳のこと。この地で西閣を題材

にした詩を十首以上のこしている。掲出した詩は従来あま

り取り上げられることがないけれども、先に見た枇舎全瞳

に封する憂患意識がより象徴的な表現によって純化されて

いる貼において、極めて注目すべき作品だと思う。

中間二聯のうち、領聯は山川の水かさが減り、沙の表面

や岩の稜角が露出した状態をいうのだろうが、奮注の解稗

はいずれも暖昧ではっきりしない。宋代の類似する着想と

して、欧陽惰「醇翁亭記」に「風霜高潔に、水清くして石

出づる者」、蘇戟「後赤壁賦」に「水落ち石出づ」という

有名な句と照らし合わせるならば、秋から冬にかけての

寒々とした水遣の景を表象したものと解することができよ

うか。南宋・超次公注(『九家集注杜詩』巻一一一一所引)はこの

二句を「奇語と謂うべし」と評するが、それは軍に小径が

「添」えられ、早瀬が「減」ずる、といった措辞の異様さ

182

ではなく、むき出しのまま呈示された荒涼たるイメージに

反磨した感じ方なのかもしれない。

領聯が水遣の景を描くのに釘し、

つづく頚聯では山遣に

眼を轄ずるが、詩の後半部になるとそれまでの情景描寓か

ら心情表現へとスライドしてゆく。「菊蕊

凄として疎放、

松林

遠情を駐む」は、表面的にはもちろん、雨に打たれ

て黄色い菊の花がまばらに咲き、雨に包まれながら青々と

した松の林が情趣を留めているという仇兆驚の解緯に従つ

てよいだろう。と同時に、この二句から不整の節操を守り

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抜く高潔さの象徴を謹み取るべきではないのか。

つまり、

菊の花と松の林は

「論語」子

『楚辞』離騒や陶淵明の詩、

四干などを引くまでもなく、ただに属目の景というにとどま

らず、杜甫の人格形象を反映させたダブルイメージとなっ

ているのだ。「疎放」の語も、菊の花が少し聞いているこ

とと、本質的には菊花のごとく高潔でありながら、「疎

放」な社甫自身の性格とを重ね合わせていると考えられる。

賓際、杜甫はみずからを「疎放」な人間だと客観覗し、そ

こに開き直ろうとする。たとえば七律「狂夫」(『詳註』巻

九)にい、つ、

欲填溝霊惟疎放

溝窒に填めんと欲して

惟だ疎放

白笑狂夫老更狂

自ら笑、っ

老いて更に狂す

狂夫

るを

清・銭謙盆が菅・向秀「思奮賦序」(『文選』巻一六)の

ひろ

「就山(替康)は志遠くして疎、日(呂山女)は心臓くして

放なり」を語の出典として説明するように、野放園で

雨の情景(総川)

物にこだわらない性格、

それゆえ俗世間とは相容れず、最

後は野垂れ死にしそうな運命を招くであろうことを自明し

て遮べている。

やど

あるいは最晩年の五古「次晩洲(晩洲に次る)」(『詳註』

巻二二)にも、

覇離暫愉悦

草寺離

暫らく愉悦し

官肌老反伺憶

車老

反って伺憶す

中原未解兵

183

中原

未だ兵を解かず

吾得終疎放

五日

疎放に終わるを得たり

と見える。最後の一句について、趨次公注(『九家集注杜

詩』巻一六所引)は「兵未だ解かざれども疎放を得たるは、

世に用いられざるを以てなり」とする「菖注」の説を退け、

「正に時の擾擾たるを傷めば、五口

量に終に疎放たりて憂

憧せず、且つ流落するを得んや」と反語に謹むことを主張

する。鈴木虎雄も「中原未だ兵を解かず、五日終に疎放なる

ことを得むや」と訓誼して同様の解稽を取るが、いささか

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中園文学報

第八十二一冊

理に落ち過ぎではないか。ここは、

北方でつづく戦乱に封

して何もなし得ない不甲斐なさを杜甫自身は痛いほど理解

しつつも、湖南の地に漂泊したまま終わるであろう我が人

生を、「疎放に終わるを得たり」と絶望的なまでに聞き

直った句として謹みたい。こうした社甫の自己認識は「西

閤雨望」詩にも投影していると思う。

かりに如上の方向で解緯することが許されるならば、尾

聯の「諒花」についても、西閣に降り注ぐ雨の激しさの形

容というだけでなく、明・王嗣爽のように「湾出たること

λ川wJ

パHV

鴇客の涙の如し」と謹むことも十分可能であろう。とすれ

I!'

」の詩はあたかも自己と外界とが相互に照麿

((リ

DHHO弓ロロ含ロロ2)し合う泰西の象徴詩のように、社甫の

形象を雨の情景のなかに臓やかに融けこませた作品と言う

ちまた

ことができる。||「巷に雨の降るごとく/わが心にも

涙ふる/かくも心ににじみ入る/このかなしみは何やら

ん?」(ヴエルレ1ヌ

7-」ωれた小山」その三、堀口大皐誇)

0

西閣の軒下の柱にもたれながら湧き起こる「高慮」、く

さぐさの思いとは何か。恐らくは同時期の「西闇夜」詩

「時危うくして百慮に闘す、盗賊

(『詳註』巻一七)に

雨は猶お存せり」とうたわれる嘗時の戦乱情況に封する

憂慮を指すのであろうが、この詩において杜甫は敢えて何

も明示しない。前掲「喜雨」詩のように具躍的な時事をそ

のまま悲しみ歎くことはないし、個人的な感懐さえも、す

べて雨のなかに包みこんでしまう。かくも極度に象徴化さ

れた雨の世界を、晩年の杜甫は詩において創造してみせた

のである。

陳奥義の詠雨詩

184

次に、杜甫を去ること三百数十年ののち、北宋南宋の交

に生きた陳輿義の詠雨詩について論述し、雨者の影響関係

を検詮したい。まず、陳奥義の履歴を筒車に紹介しておこ

、ペノ。陳奥義、字は去非、競は筒粛。洛陽の人。政和三年(

二二)、太事の上舎甲科に及第し、聞徳府教授などを経

て太皐博士に遺る。「和張規臣水墨梅(張規臣の水墨梅に和

す)五紹」(白敦仁『陳奥義集校生究』巻因。以下、『校築』と略

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す)によって徽宗にその詩才を歎賞され、秘書省著作佐郎

となる。若い頃は、官僚・詩人として比較的順調な歩みを

重ねていたが、宣和六年(

一二四九時の宰相王櫛の失脚

にともない、累が及んで監陳留酒税に庇請される。靖康元

一二六)、三十七歳のときに靖康の嬰が勃護、金軍の

年(一

侵攻によって北宋の都、作京(河南省開封市)が陥落する

や、陳留にいた陳輿義も乱を避け、商水、舞陽、南陽など

河南の地を蒋々とした。宋室南渡ののちも居所定まらず、

南のかた岳州(湖南省岳陽市)、浬州(湖南省長沙市)、

さら

には麿西、唐東、一帽建を流浪していたが、紹興元年(一

三会)、臨安府(漸江省杭州市)に擦る高宗の政府に百され、

中央政界への復闘を果たす。その後、中主回全白人、翰林附晶子

士・知制詰などの要職を歴任、紹興七年には参知政事に至

るも、ほどなくして病浪。享年四十九。

宋末元初の方回が雪崩杢律髄』において江西詩抵の旗臓

を掲げ、社甫を「一組」とし、黄庭堅・陳師道と並べて陳

輿義をコ二宗」の一人に列ねたことはよく知られており、

現在でも、陳輿義を江西詩抵の重要な詩人と見なすのが

雨の情景(総川)

般的である。これに封し、「陳輿義は江西詩祇とさほど似

ておらず」、方回が「金持ちと結婚して親戚閲係を結ぶよ

うに」、江西詩抵の権威を高めるために陳奥義を仲間に引

き入れたものであり、「後世の丈島ア史家の耳目を惑わすこ

とになった」とする異論も提起されていふ。

陳輿義を江西詩祇に蹄属せしめることが果たして安首か、

黄庭堅・陳師遁の忠貰な継承者と言えるのか、さらには宋

末元初の詩壇はいかなる情況だったのかなど、それ白盟、

極めて重大な問題であるが、

185

いずれにせよ、陳輿義が杜甫

を作詩の典範とする大きな潮流のなかにいたことは確かで

ある。しかも、靖康の嬰という衝撃を受けた首時の詩人た

ちは、各地を放浪し、乱離を経験する過程で、杜甫の詩に

描かれた安史の乱後の境遇や情感を我が身と重ね合わせる

ようになる。陳輿義もまた例外ではなく、それは彼が生涯

にわたって作りつづけた詠雨詩にも明確に現れている。

以下、陳輿義の詠雨詩について、靖康の嬰による南渡の

前と後の時期に分けて考察を進めてゆこう。論述の便宜を

圃るべく、本稿末尾に、陳奥義の作品のなかから詩題に

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中園文学報

第八十二一冊

「同」字を用いる詩、

および

「滅套律髄』巻一七・晴雨類

に牧録される詩を抽出し、

それらを制作時期の順に並べた

一覧表を附したので、あわせて参照されたい。ちなみに、

社甫の詠雨詩との敷量上の比較を示すと、「雨」字を詩題

に含む作品が四十一首、本丈中に「雨」字が現れる詩を合

わせると計一百三十四首。陳奥義の全詩六百二十韓首の賓

に五分の一に達し、

その頻度は杜甫をも上回る。

(ー)

目U

靖康の愛が起こる前に陳輿義が作ったと考えられる詠雨

詩は、およそ十六首ある。杜甫からの影響という嗣賠で見

ると、意識的に社詩を典擦に用いた例が多いことに気づく。

たとえば、七律「連雨不能出有懐同年陳圃佐(連雨

出づ

る能わず、同年の陳園佐を懐う有り)」(『校筆』巻四)はその日夜

も極端なもので、あたかもパズルのピ

lスを組み合わせる

ように、杜甫の詠雨詩を寄せ集めて作っている。

雨師風伯不吾謀

風伯

吾を謀らず

雨師

漠漠窮陰断迭秋

欲過蘇端泥浩蕩

定知高鳳萎漂流

署前甘菊己無盆

階下決明還可憂

安得如鴻六尺馬

暫時相封説新愁

漠漠たる窮陰

秋を断迭す

Tこり

蘇端に過らんと欲して

泥は浩蕩

定めて知らん

んことを

聾前の甘菊

階下の決明

安くんぞ得ん

を暫時

相い封して 高

鳳の委

漂流せ

己に益無く

還た憂うべし

鴻の如き六尺の馬

新愁を説かん

186

第三句は「雨過蘇端(雨に蘇端に過る)」詩(『詳註』巻四)

あかぎ

の「葱を杖っきて春泥に入る」、第五句は「歎庭前甘菊花

(庭前の甘菊の花を歎ず)」詩(『詳註』巻一二)の「箸前の甘菊

おそ

移せし時は晩く、青蕊

重陽に摘むに堪えず。明日帯保と

して醇いは壷く醒め、残花澗漫として聞くも何の盆かあら

早 ん」、第六句は「秋雨歎」詩(『詳註』巻二一)の

秋に欄れ死す、階下の決明

顔色鮮やかなりOi---涼

「雨中の百

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風語講として汝を吹くこと急なり、恐らくは汝の時に後れ

て濁り立つこと難きことを」、第七句は「苦雨奉寄臨西公

粂呈王徴士(雨に苦しむ

院西公に寄せ奉り、兼ねて王徴士に

呈す)」詩(『詳註』巻一二)の「願わくは六尺の馬を騰せて、

背ること孤征の鴻の若くせん」をほぼそのまま襲用する。

詩の内容は、連日の雨で外出もままならぬなか、隔てら

れた友との再舎を願うものに過、ぎない。雨の描寓は社甫の

詩を典擦とするが、これ以外にも、たとえば「断迭秋」は

蘇戟「次韻答邦直子由(次韻して邦直・子由に答う)五首」

其二の「間作清詩もて秋を断透す」を踏まえ、きっぱりと

秋を送り出す、追いやるの意。高鳳が畑で請書に浸頭する

あまり、大雨で奈が流されるのにも気づかなかったという

故事は

品の表現を組み合わせた知的操作の産物であり、江西詩抵

『後漢書」逸民停にもとづくなど、この詩は先行作

の作詩技法の影響を受けていることは明らかであろう。

五律「雨」(「校婆』巻一一一一)にも社甫に皐んだ痕跡が

はっきりと窺える。

雨の情景(総川)

沙岸残春雨

茅箸古鎮官

一時花帯涙

高旦客患欄

日晩蓄薮重

棲高燕子寒

惜無陶謝手

霊力破憂端

沙岸

残春の雨

茅箸

古鎮の官

11:.

涙を帯び

日高晩く里れ

菩被重く

関こ馬いる

ふやllu、Jzdi

,,

棲高くして燕子寒し

惜しむらくは

陶謝の手の

力を墨くして憂端を破る無きことを

この詩は、官一和七年(

一一一五)春、陳留の南鎮での作。

187

監陳留酒税に左遷された陳輿義の境遇を反映してか、苦々

しい憂愁を帯びる。前の詩と同様に、第三句以降は、「春

望」詩(「詳註』巻四)の「時に感じて花涙を漉ぐ」、

「中夜」詩(『詳註」虫色一七)の「長く高里の客と局る」、

「春夜喜雨」詩の「花は錦官城に重からん」、「江上値水如

海勢柳短遮(江上にて水の海勢の如くなるに値い、柳か短述

す)」詩(『詳註』虫色一

O)の「鷲くんぞ得ん思い陶謝の如

き手を、渠をして述作せしめて輿に同遊せん」、「自京赴奉

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第八十二一冊

先牒詠懐五百字(京向り奉先勝に赴く詠懐五百字)」(「詳註」

ひと

巻四)の「憂端柊南に来月し」など、いずれも社詩に由来

中園文学報

する表現を巧みに組み合わせたものである。ただし、そう

した典擦使用は必ずしも露骨に現れておらず、

一首全睦に

自然な統一感が保持されているように思う。清・紀崎『滅

窒律髄刊誤』巻一七に「深穏にして清切、簡斎完美の篇」

と絶賛されるとおり、作品の完成度としては前の詩を遥か

に上回ると言ってよい。

陳輿義の南渡以前の詠雨詩は、典擦に社詩を多用するの

みならず、釘句に雌琢を凝らした例も多い。たとえば、

十九歳のときの五律「秋雨」(『校筆』虫色四)

0

濡濡十日雨

満満たり

十日の雨

種迭祝融踊

祝融の踊るを穏迭す

燕子経年夢

燕子

経年の夢

梧桐昨暮非

昨暮

梧桐

非なり

一涼恩到骨

J尽

恩は骨に到るも

四壁事多違

四壁

事は遣うこと多し

哀衰繁華地

哀哀たり

繁華の地

西風吹客衣

西風

客衣を吹く

第二句の「穏迭」は、韓愈「贈劉師服」詩に「匙は欄飯

を抄いて種やかに之を迭る」と見えるが、恐らく上述の

「断迭秋」からの聯想もあるか。夏の炎熱が終わり秋の冷

涼へと推移するなか、十日聞に及ぶ長雨が夏の神祝融の去

るのを穏やかに見逸る、と擬人的に表現する。「連雨書事

(『校集』巻七)には、晩秋の雨について「九月

連雨に逢い、粛粛として秋を稽迭す」ともいう。

『校筆』は『漏杢律髄」によって

188

四皆目」宜ハ

領聯の本丈について、

「燕子経年別、梧桐昨夢非」と改めるが、ここでは従わな

かった。秋になって南方の故郷に踊ることを一年中夢みて

いた燕、秋の雨に毎晩葉を落とし枯れてゆく梧桐、という

動植物のイメージを並置することによって、「詩人の懐奮

の思、遅暮の慨」を表しているが、(貫字の「夢」に釘して

虚字の「非」を配するなど、かなり破格の封句となってい

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後山十の頚聯、ことに上の句の、秋雨によって天から「

涼」がもたらされ、その「思」が骨まで染み入るという護

想も奇抜である。これは恐らく杜甫「又呈呉郎(又た呉郎

には主す)」詩(『詳註』巻二O)に「巳に訴う

貧は骨に到ると」というのを「恩」に轄用したもの。それ

徴求せられて

なのに自分の暮らしは四方に壁が立つのみ(『史記』司馬相

如惇)の素寒貧、とアイロニーをにじませる。

封句の技法としては、「涼」と「壁」、「骨」と「達」は

巌密にはそれぞれ丈法機能が異なり、字面の上で不斉整で

あるけれども、二句全樫として生硬さを克れている。この

黙について、劉辰翁(一二三二一二九七)の「劉母子粛詩

序」(『須渓集』を六)に「此れ今人の所矯る偏枯失封なる

妙意は政に阿堵中に在るを」と

者なり、安くんぞ知らん

あり、陳奥義のこの封句を高く許慣している。「偏枯」は

もと竿身不随のこと。そこから、封句の上句と下句とのパ

ランスに偏りが生じたものを「偏枯封」と稀した。宋代の

詩話・筆記の類では封句の技法について熱心に議論されて

いるが、

たとえば北宋・蘇稽『築城先生遺言』(『百川皐

雨の情景(総川)

海』)に「束坂の律詩、最も属封偏枯なるを忌み、

善からざる者も容れず」という蘇轍(蘇箱の祖父)のこと

句の

ばを書き留めるように、

一般的に「偏枯封」は出来の悪い、

忌避すべき型と考えられていた。ところが、南宋の慶元か

ら聞轄年間頃三二OO前後)の人、孫奔の指摘によれば、

賓は社甫の詩にも「偏枯封」が多用されており、「大手筆

きず

の老社の如きは則ち可なり、然れども未だ白圭の砧矯るを

克れず、恐らくは後皐尤に致、つべからざらんことを」と、

後撃の者たちに下手にまねするなと警告を輿える。北宋末

189

期にも「偏枯釘」は忌避すべきものと見なされていたのだ

ろうが、新進気鋭の詩人たる陳奥義は通常の規範に反する

封句技法にも果敢に挑戦し、

一定の成功を収めたのである。

以上をまとめると、南渡以前の陳輿義は典様、措辞、封

句といった作詩の技法面で明らかに江西詩振の影響下にあ

り、詠雨詩において社甫を直接に意識した表現を追い求め

ていたと言える。しかし、筆者の考えでは、彼の作詩の本

領はむしろ南渡ののちにこそ殻揮されてゆく。

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中園文学報

第八十二一冊

(司

昨日時

陳奥義は杜甫の詩を組連の封象とし、模擬的な作品世界

を創り出すことに羽白熱していた。ところが、金軍の南侵に

よる靖康の愛を境にして、士大夫官僚としての運命が翻弄

されるとともに、社甫の丈島ナに封する認識も改めることを

館儀なくされたのである。

建炎二年(

二八)正月、房州(湖北省房牒)に身を寄

せていた陳輿義は、金軍の侵攻を受けて逃避行をつづける。

彼にしては比較的長篇の五古「正月十二日白房州城遇金虜

至奔入南山十五日抵田谷張家(正月十二日、房州城向りして

金虜の一全るに遇い、奔りて南山に入る。十五日、阿久口の張家に抵

首に爾るべ

しると ζ

土旦 2 E正↑又

に婆音亨』

おわ巻ん工ぞ~

久しくヨ回目円

身の之に及ばんとは。虜を避けて

年に連なり、行くこと天の四維に宇ぱす」とあり、頭のな

かで想像していただけの情況が現賓に自分の身の上に起こ

り、各地を放浪すること数年、中園全土の宇ばを踏破する

ほどだと述べたのち、

但恨平生意

但だ恨む

平生の意

軽了少陵詩

少陵の詩を軽了せしことを

と、これまでの社甫に封する認識が浅かったことを後悔す

る。もちろん、上に見てきたように、南渡以前の陳奥義は

社甫を箪崇こそすれ、決して軽んじていたわけではないの

Z-AYミ、

JJh品川村

しかし賓際に社甫が味わったような戦乱を瞳験して

はじめてその丈皐の民慣に気づくことができたというのは、

彼の儒らざる告白であろう。

190

もう一つ、陳奥義自身による社甫観を示す史料として、

晦粛「筒粛詩集引」(四部叢刊本『筒粛外集』巻首)を奉げよ

、司ノO

詩至老社極夫、東坂蘇公・山谷黄公奮手数世之下、

復出力振之、而詩之正統不墜。然東城賦才也大、故解

縦縄墨之外、而用之不窮。山谷措意也深、故海泳口

[玩]味之館、而索之盆遠。大抵同出老社、而白成一

家、如李贋・程不識之治軍、龍伯高・社季良之行己、

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不可一概語也。近世詩家知隼杜失、至向学蘇者乃指黄震

強、而附黄者亦謂蘇矯臨時。要必識蘇・黄之所不局、然

後可以渉老杜之涯決。

詩は老社に至りて極まれり、東坂蘇公・山谷黄公

敷世の下に奮い、復た力を出だして之を振るい、而し

て詩の正統は墜ちず。然れども束坂の賦才たるや大な

り、故に縄墨の外に解縦し、之を用うるも窮まらず。

山火口の意を措くや深し、故に口[玩]味の徐に詐泳し

て、之を索むれば盆すます遠し。大抵

同じく老社に

出で、而して自ら一家を成す、李麿・程不識の軍を治

め、龍伯高・杜季良の己を行、つが如く、

一概に語るべ

社を隼ぶを知れり、蘇に

むりやり

向学ぶ者に至りでは乃ち黄を指して強と潟し、而るに

ほしいまま

黄に附く者も亦た蘇を謂いて障と矯す。要するに

からざるなり。近世の詩家

必ず蘇・黄の矯さざりし所を識り、然る後に以て老杜

の涯決に渉るべし。

引を書いた晦薪なる人物が誰かは未詳。

つづく箇所で

雨の情景(総川)

「此れ簡薪陳公の説と云うのみ、予

呉興(祈江省湖州市)

に瀧びて之を得、乃ち知る

公の向学ぶ所は此くの如し、故

に能く一代に濁歩するを」と述べる口吻から判断すれば、

陳奥義からこの謹言を直接に聞いたわけではなさそうであ

る。この引の末尾に「玄戟敦梓(壬午の年)中秋、晦粛書

す」とあることから、執筆時期は紹興三十二年三一六二)

か嘉定十五年ご一二一二)のいずれかに絞れるだろう。た

だし、紹興十二年(一一四二)、陳輿義の浸後四年にして早

くも知湖州の周葵が「陳去非詩集」を刊刻しており、時間

的にある程度の隔たりがあると推測される。かりに後者の

ηy

時期で晦粛と競する人物というと、あるいは謝直(もとの

名は希孟)、字は古民を指すのではないか。謝直は陸九淵の

門人にして、淳照十一年(一

一七四)の進士。紹照三年

一九一一)に「簡棄詩筆絞」(四部叢刊本「増慶隻注筒蔚詩

集』巻首)を書いた楼鎗(

一一一一七一一二三)と交遊があ

ることも、陳奥義の詩集編纂との閲わりを示す傍誼になる

かもしれない。ともあれ、

いまだ推測の域を出ず、博雅の

士の指数に倹ちたい。

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中園文学報

第八十二一冊

さて、この記述からわかるとおり、陳奥義は社甫を至上

の地位に置くことを前提としたうえで、蘇献と黄庭堅二人

が同じく社甫を丈撃の源流としながらも、それぞれタイプ

の異なる詩人として一家を成したことを大いに栴賛する。

近ごろの詩人たちは蘇戟抵と黄庭堅抵に別れて互いに

「強」だ「障」だと排撃し合っているが、最も重要なのは

杜甫から蘇・黄が護掘し得なかった部分を認識し、新しい

行き方を模索すること、それこそが社甫に近づく遁なのだ

と説く。

二六〉)夏頃に作られた七律「観雨(雨を観

る)」(『校時過さ虫色二六)は、陳奥義には珍しく豪雨の景をう

建炎四年(一

たったものだが、それが枇合全瞳に釘する憂患意識へとス

ライドしてゆくのは、まさしく社甫の詠雨詩と軌を一にす

山客龍鍾不解耕

耕を解くせず

車n山を 客聞 龍き 鍾危と坐 ししてて

開軒危坐看陰晴

陰晴を看る

前江後嶺通雲気

同リ

後嶺

雲気を通じ

高室千林迭雨聾

海匡竹校低復奉

風吹山角晦還明

不嫌屋漏無乾庭

正要群龍洗甲兵

時国同叡土

千林

同撃を迭る

海は竹枝を匿して

低く復た翠が

り風は山角を吹きて

晦く還た明ら

かなり

嫌わず

屋漏れて乾ける慮無きを

正に要す

群龍の甲兵を洗うを

乱離の苦難を経て、よぼよぼに疲れ病んだ「山客」||

192

むろん、陳輿義自身の形象||の無力感、倦怠感からうた

い起こしながら、激しく吹きつける風雨を嗣盟国と聴覚で感

じ取り、その強い力でもって金軍を畔明滅したいと夢想する

け破る歌日記、 /ー、

主主、 芽

'じ屋

に至る。末尾二句は、言うまでもなく社甫「茅屋矯秋風所

屋漏れて乾

および

秋風の破る所と潟る歌)」の「床床

壮士

i手らか

ι+'、一一「

丘、洗f、f王

、洗、 EUミ

ての長~i 'tぐにく用 んい ぞざ得るんをしーー

天河を挽き、

踏まえた表現。典擦使用は極力控えめにしつつ、豪雨の描

寓で精一珊を昂ぶらせ、最後は社詩の引用をもって結ぶダイ

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となっている。

ナミツクな展開は、南渡以前に見られない力感溢れるもの

次に拳げる五律「雨中」(『校筆』巻二九)は、紹興元年

(二三一)、ようやく曾稽(漸江省紹興市)の高宗の行在所

に馳せ参じて、その年の暮れを迎えたときの作。

北客霜侵賓

南州雨迭年

未聞兵革定

従使歳時遷

古淳生春需

高空落暮鳶

山川含寓古

穆欝在樟前

北客

髪を侵し

南州

年を迭る

歳未時だを兵し 革ての遷定らましるむ をる聞にカミ従iずす

古津

春需生じ

高空

暮鳶落つ

山川

高古を含み

替穆として樽前に在り

第三句は杜甫「寄丘山州買司馬六丈巴州最八使君雨閣老

(岳州の買司馬六丈、巴州の巌八使君雨閣老に寄す)五十韻」

(『詳註」巻八)の「甘んじて歳時と奥に遺る」にもとづく

雨の情景(総川)

が、単なる字句の模倣にとどまらない。むしろ枇舎に封す

る憂患意識を抱きながら、且ハ瞳的な時事をそのまま悲しみ

歎くのではなく、象徴的な表現によって描き出そうとする

貼において、先に論じた「西閤同望」詩など社甫晩年の詠

雨詩に酷似する。

五年徐に及ぶ流浪生活に終止符を打ったものの、金軍の

侵攻による戦乱はなお牧束せず、歳月はただ移りゆくまま。

とは言え、ここに創り出された雨の世界はすでに陳奥義個

人の悲哀を超越し、永遠の悲哀へと昇華するかのようであ

193

る。雨は空間全瞳を包みこむだけでなく、「寓古を含」む

無限の時聞にわたって降り注ぐ。老詩人は、永遠にこの雨

の中に身を置きつづけるがごとく、酒を前にして濁り件む

ほかない。「中原

疎放に終わるを

未だ兵を解かず、五日

得たり」とつぶやいた社甫ならば、もっと白閉気味に苦悶

してみせるかもしれないが、陳輿義のこの詩は深く静かな

悲しみを湛えている。

南渡以後の陳輿義は江西詩抵のエピゴーネンたることを

放棄し、「蘇・黄の矯さざりし所」を目指して、

それを貰

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中園文学報

第八十二一冊

践に移していた。友人の葛勝仲(一

O七二-|

一四四)が周

葵刻本のために執筆した「陳去非詩集序」(『丹陽集』巻八)

には、陳奥義晩年の詩のスタイルが「新盟」と稀され、朝

野に置く流行していたことを記す。

命日兵興拾接、避地湘・属、汎洞庭、上九疑・羅浮。

雌流離困厄、而能以山川秀傑之気盆昌其詩、故晩年賦

詠尤工。措紳士庶争俸調、而旗亭停会口摘句題寓殆遍、

競栴「新瞳」

0

兵興りて拾撞たるに舎い、地を湘・属に避け、洞庭

に汎び、九疑・羅浮に上る。流離困厄すと難も、能く

山川秀傑の気を以て盆すます其の詩を昌んにす、故に

晩年の賦詠は尤も工みなり。措紳士庶

争いて俸調し、

旗亭惇舎にて句を摘み題寓すること殆ど遍く、競して

「新瞳」と稽せらる。

上述のとおり、詠雨詩に限ってみても、陳輿義の南渡以

後の作品は社甫晩年の象徴的な表現に皐びつつ、彼濁自の

詩の世界を切り拓こうとして到達した境地であった。南宋

初期の詩壇にあって、それは「新樫」と栴するにふさわし

いものであったのだろう。

結びに代えて

陳奥義には、孤濁に詩を作るみずからの姿を投影した七

絶「石限病起(石限にて病より起く)」(『校築』巻二六)とい

う作品がある。

幽人病起山深庭

194

幽人

山深き庭

鵡;帝鳴亡く起

小院鵠鳴日午時

日午の時

六尺扉風遮宴坐

六尺の扉風

宴坐を遮り

一簾細雨濁題詩

一簾の細雨

濁り詩を題す

「六尺の扉風」に遮られた狭小の空間に身を置きながら、

雨のそぼ降る外界を繊細に感受し、それを詩に表現しよう

いみじくも「土寸居」詩(『校集』外集)に「物象は

ebhり

ebL」

自ら客眼に供するに堪ゆ、未だ須いず句を覚めて

とする。

Page 22: Title 雨の情景 : 陳與義の詠雨詩と杜甫 中國文學報 (2012), 83: …...三マ八、競は筒粛)十九首を選ぴ、彼ら四人によ の贋大さ、精巧絞密、高潔爽快な表現を見極めることにる同の描寓を高く評慣する。そのうえで、各詩のスケール

長に肩ざすを」というように、修辞の鍛錬によって詩句を

」しらえるのではなく、外界の「物象」が己に提供される

ことよって、詩はおのずと生まれる。陳奥義にとって、雨

こそはまさしく格好の「物象」であったにちがいない。詩

作という行矯をこのように捉えようとする認識は、黄庭堅

が陳師遁({子は無己)の苦吟ぶりについて述べた「門を閉

ざして句を覚むるは陳無己」(「病起刑江亭即事十百」其八)

のいわば反措定であり、次世代の詩人、楊寓里が「門を閉

ざして句を覚むるは詩法に非ず」(「下横山灘頭望金華山」

詩)と遁破し、江西詩汲の影響を乗り越えたのを先取りす

るものと言えよう。

陳輿義の創り出した「新盟」の「新」なる要素は他にな

いのか。南宋になって詠雨詩を多作するのは陳奥義に限ら

ないが、日本中・曾幾など同時代の他の詩人の情況はどう

なのか。賓は、社甫の詠雨詩との影響関係にしても、本稿

では論じきれなかった重要な問題がなお幾っか積みのこさ

れている。それらについては、あらためて別稿を準備した

し、。

雨の情景(総川)

+主①

士口川幸次郎『宋詩概説」(岩波書府、一九六二年、中岡詩

人選集二集)序章第十二節「宋詩における自然」、六三頁。

②前掲、吉川氏『宋詩概説』序章第八節「唐詩と宋詩」、四

五百ハ。

③たとえば、小川環樹『陸准』(筑摩書房、一九七四年、中

園詩文選)「静寂・黙想・雨」、三野豊浩「雨の詩人陸放

翁」(「丈島ナ論叢』第一一ムハ輯、愛知大皐文皐舎、一九九八

年)、陳一小「楊高旦の自然描潟||『雨」を中心に||」

(『京都産業大皐論集』人文科挙系列第二九抜、二

OO二

年)など。

④『減套律髄』巻一七・晴雨類に曾幾の五排「秋雨排間」を

牧めるが、作者は陸海の誤りと推測される(銭仲聯『剣南詩

稿校注」巻ム五、上海古籍出版一吐、一九八五年、一一八ム

頁)o

とすれば、晴雨類に採られた陸併の詩は計八首。

⑤梁・鍾隙『詩品』序に五二百詩の秀作を列馨して「景陽(張

協の字)の苦雨」というのは、張協「雑詩十百」其十を指す

とされる。

⑥六朝の詠雨詩については、矢嶋美都子『庚信研究』(明治

書院、二

000年)第三章第四節「一六朝時代の『喜雨』

詩について」、および第四章第一節「二六朝時代の雨の詩

に見る雨に封する認識」、一六二一九一頁を参照。

⑦杜甫の作品の引刷は、宋本『社工部集』(『績古遜叢書』)

195

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中園文学報

第八十二一冊

を底本とし、検索の便のため、あわせて『社詩詳註』の巻数

を記す。

③たとえば、蘇戟「遊張山人園」詩に「織織入奏黄花乱、楓

楓催詩白雨来」、同「行現・傷問、一屑輿坐睡・::」詩に「急

雨量無意、催詩走群龍」など。同様の詩準認識として、晩唐

の斉己「新秋雨後」詩の「夜雨洗河漢、詩懐血児有霊」など、

杜甫の詩を直接の典擦としない例も散見される。

⑨呉在慶「社甫詠雨詩努議」(『唐代文士輿唐詩考論』、慶門

大皐出版世、二

OO六年)、二四五二四八頁。初出は『閑

江向学院皐報』二

OO三年第一期。

⑩杜詩における「安得」の句法の機能については、南宋の孫

突『履粛示児編」巻一

0・詩説「安得」候(『知不足爾叢

書」)にすでに指摘されている。

⑪南宋・察夢弼『社工部草堂詩護」巻一一の引く漢・劉向

『説苑』に「武王伐材、風霧而采以大雨。散宜生又諌目、此

非妖欺。王日、非也、天洗兵也」o

ただし、現行本の『説

苑』権謀では「洗」を「漉」に作る。

⑬仇兆禁注に「菊逢雨打、其疏放也凄然。雨軍松青、見遠情

之進駐。二句倶寓雨景。遠情指松、蓋蒼翠吋愛庭、宛然具有

情致。駐、停駐也」

0

⑬銭謙盆「銭注杜詩』巻一一に「向秀『思奮賦』、替志遠而

疎、呂心臓而放。著者唐仲目、社詩毎云疎放、蓋本

T此」。

替者唐仲は、明・唐汝拘、字は仲言のこと。

⑬これ以外に社甫肖身を「疎(疏)放」と稽した例は、「隼

築階地組、疎放憶窮途」(「奉寄河南幸手丈人」詩、『詳註』

巻二、「客雄容疎放、官曹可接聯」(「奉謄最八閣老」詩、

『詳註』巻五)

0

⑬鈴木虎雄『社少陵詩集』第四巻(同氏文庫刊行舎、一九一一一

一年、績岡詳漢文大成)、六七三頁。鈴木氏の語解は、恐ら

く仇兆楚注が「思及中原多故、得終疏放於紅湖否耶」と反語

に取るのを襲ったもの。

⑬ア工嗣爽『杜臆』巻八に「最妙在結語、液朱権者雨也。湾花

知罵客之涙、故知高慮不離箸極耳。慮多故涙多」

0

⑬陳奥義の作品を引用するにあたり、白敦仁『陳輿義集校

護』(上海古籍出版祉、一九九

O年)を底本とし、その巻数

を示す。ただし、胡梶『増虞婆注簡蒲詩集』『簡粛外集」

(『四部叢刊』)、劉辰翁『須渓先生評黙筒薪詩集』(『和刻本

漢詩集成』第十五輯)、方回『漏杢律髄』などを参照して字

を改めた箇所もある。陳奥義の事蹟・作品繋年については、

白敦仁『陳奥義年譜』(中華書局、一九八三年)に従った。

⑬方回『漏本主律髄』巻二十六・問問先住類、陳奥義「清明」許に

「古今詩人首以老社・山谷・後山・筒粛四家第一組三宗」

0

同「、会食唯遁序」(『桐江集』巻二にも「大概律詩首専師老

杜・黄・陳・筒粛」など。

⑬銭鍾童H

『宋詩選注」(人民文皐出版壮、

義」、一四六一四七頁。

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一九五八年)「陳奥

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⑫陳奥義の詠雨詩に関する先行研究として、趨斉平『宋詩臆

説」(北京大墜出版祉、一九九三年)所般の「念捜奇句報新

晴||説陳奥義《雨晴》」「霧津合元気風花過洞庭||説陳

奥義《雨》」、王友勝・許菊作方「陳奥義詠雨詩初探」(『湖南文

理由学院内学報(枇合科挙版)』二

00六年第四期)などがある。

また、横山伊勢雄「陳奥義の詩と詩法について」(「宋代文人

の詩と詩論』、創文枇、二

OO九年。初山は『人文科皐研

究』第七十四輯、新潟大皐人文筆部、一九八九年)にも部分

的に言及される。

⑪張相『詩詞曲語辞匪穣」巻五(中華主目局、一九七七年)六

八七頁には、「断迭」の語義を五項目に細分したうえで、陳

奥義のこの山例について「猶云推迭之途或迎迭之迭也。

二日風雨推迭秋来也」というが、やはり「断」の持つ「きっぱ

り」というニュアンスを帯びるのではないか。ここは、緯大

典『詩家推敵」巻下に「但語ニイフ仕舞ツケル意ナリ」とい

う轄義にくみしたい。

⑫近人による唐宋詩比較論として名高い謬銭「論宋詩」(『詩

詞散論』、上海山籍出版枇、一九八二年、初山山は『思想奥時

代』第三期、一九四一年)は、唐の李商隠「細雨」詩と比較

しつつ、この詩の↓一部雨表現を綴密に分析している。

⑫孫芥『履蒲示児編』巻九・詩説「偏枯封」僚に「詩貴子的

封、而病子偏枯。雄子美向有此病」と述べ、杜甫の詩のなか

から十八聯の具健例を列翠するが、ここでは省略に従う。

雨の情景(総川)

@「正月十二

H白房州城:::」詩一首全鐙の解轄については、

中尾禰継「陳奥義の南渡」(『中園言語文化研究』第五援、併

殺大学、二

OO五年)、二九三三頁を参照。

③陳奥義の「新髄」について、南宋の陳普「刑議新話』巻

八・詩類(『津逮恥主目』)では、若い頃の出世作「墨梅」詩と

結びつけた異説を提附している。ただし、陳菩自身はそれが

「東坂の句法」を「奪胎」したスタイルだとニ一日うのみで、必

ずしも賛否は明確でない。

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附表一陳奥義諒雨詩一覧

23 22 21 20 19 18 17 16 15 14 13 12 11 10 918 716 514 312 1 番披

序憤徐歩M晴M

積 夏 雨 春 )¥ 雨浴観室

干懐話ヰ雨晴

秋某以 某以 連 連 j主 連 連 夜 秋 風

雨宣H主円

忽主主

雨房f開曾

援沙呑

雨書事雨 事雨書 事雨書 雨書事

雨 雨 雨 雨

塵雨有R茄E 岡有際嘉 ii十i着官

雨;J! 起

首四 四 四 首四 詩雨 首 首

雨 月 日其 其 其 其 雨四 題

甘: 甘:

建炎 建炎 靖康 靖康 靖康 靖康 靖康白円 凸円 凸円 ー円 戸円 白円 白円 出円 ー円 凸円 白円 凸円 政 正文 政 政

和七 和七手口 手口 手口 和 和 和 和 和 手口 手口 手口 手口 手口 手口

作期制時年秋JL, 年夏j し 1年夏し ]年春し 1年春L 年夏 年春

五年秋四

年秋 君年、年秋 年秋 年秋 年秋

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人 七

年春 年春 年夏 春年 年秋 秋年 年秋 年秋

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五 五 五 五 五 五 五 五 五 五 五 七 七 七 七 五 五 五 五 七 七 五 五詩f豊律 古 古 古 律 {章 古 古 律 古 律 f軍古 キ直 i自律 {章 f掌律 律 律 律 古

巻 巻 巻 巻 巻 巻 巻 巻 巻 巻 巻 巻 巻 タ集ト外集 巻 巻 巻 巻 巻 巻 巻 巻巻敷七 七 七 七 四 四 四

)¥ J¥ 五 五 五 五 五 四 。。 。。 。。。 。。。。。。律髄

198

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雨の情景

47 46 45 44 43 42 41 40 39 38 37 36 35 34 33 32 31 30 29 28 27 26 25 24

雨 微

修黄司蔵雨中

雨 七士

震き

雨中 愚渓観 昌田三与 雨

晩歩正 立 道

雨中 晩日青細

釘刊佐h阿N

g離詰向く観江iii 雨

相猫雨首酌中 襲襟官

雨 雨f雨11'

月 春 中 雨

雰雰

4聖断~ ( 再 日 (

野望雨

北客霜日武

十雨

宇船雨窪J 中j棲山毎;笑

聖書量

日 雨

薬有 侵髪

仮器務i削用t 乙

雨不止

五校

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(総川)

-詩題・各数は円敦仁『陳奥義集校主主』による。

-作品の繋年・地黙は白敦仁『陳J)~義年譜』の考設に従う。

「律髄」のO印は元・方回『減杢律髄』に取録されていることを示す。

199