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Title 葬送活動からみたコレギア : 帝政前半期ローマにおける社会的結合関係の一断面
Author(s) 佐野, 光宜
Citation 史林 (2006), 89(4): 485-516
Issue Date 2006-07-01
URL https://doi.org/10.14989/shirin_89_485
Right
Type Journal Article
Textversion publisher
Kyoto University
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葬送活動からみたコレギア
ーー帝政前半期ローマにおける社会的結合関係の一断面
佐
野
光
宜
門要約】 本稿ではローマ帝政前半期に都市において盛んな活動を行ったコレギアという社会集団を取り上げて、ローマ社会の社会
的結合関係の}断面を明らかにすることを試みた。対象としたのは前一世紀から三世紀までの帝国西部におけるコレギアである。
コレギアの行った活動にはいくつかの種類があるが、本稿ではコレギアの葬送活動に注目した。葬送活動の痕跡を伝える史料を網
羅的に収集すると二八一例の碑文が分析対象となる。ほとんどが墓碑で構成される史料群であるが、そこからコレギアの名称、被
葬者の名前、被葬者と埋葬者の関係、葬送活動を規定する会則を分析した。その結果浮かび上がったコレギア像とは以下のとおり
である。すなわち、家族を有さない東方出身者や奴隷出自の中・下層民が構成員となり、葬送や祝祭を通じて擬制的な家族関係を
結ぶ場となったというコレギアの姿である。 史林八九巻四号 二〇〇六年七月
葬送活動からみたコレギァ(佐野)
は じ め に
ローマ社会を実際に生きた人々の、とりわけ、上層ではない一般民衆の生活のありようを知ることは、ポンペイなど一
部の地域を除いてはほとんど不可能である。しかしながら、彼ら彼女らがいかに関係しあってローマ社会を構成し、また、
そこにどのような心性をうかがえるのかを知ることは、ローマ社会全般に渡って、欠くべからざる研究テーマである。
このジレンマを解消する一つの手段が、都市ローマを中心にして大量に発見される墓碑の研究である。墓碑をめぐって
(485)1
-
は、例えばサラーに代表される研究者たちが、家族史研究における法・文学史料中心の「複合大家族」説に対し、墓碑の
①
分析に基づいた「核家族」説によって批判を加えるなど、一定の成果を挙げてきた。その一方で、多くの研究者たちによ
って指摘されているように、墓碑を通じた考察には限界がある。すなわち、墓碑に描かれる家族の姿は、あくまでそれが
建立された時点の一時的なものであり、また、故人とその最近親の人間たちとの関係しか浮かび上がってこないという点
②
である。
このような史料上の制約から、ローマ社会における}般民衆の社会的結合関係(ソシアビリテ)や心のありよう(マンタ
リテ)を知ることは、あきらめざるをえないのであろうか。実は、墓碑を中心とした碑文史料を利用しながらも、都市の
一般民衆に関して、ある程度持続的な社会的結合関係、そしてそこに見られる心のありようを探る恰好の素材がある。そ
③
れは、ローマ帝政前半期に盛んな活動を行った社会集団、つまりコレギアである。コレギアは、都市において職業や宗教
を紐帯として人々が集い、自発的に結成された社会集団である。本稿は、このコレギアをとりあげて、ローマ社会の社会
的結合関係の一断面を明らかにすることを試みるものである。
なお、考察対象とする地域は、東はダキアやモエシアから西はイベリア半島まで、北はブリタンニアから南は北アフリ
カ西部を含む、一般に帝国西部と呼ばれる地域であり、ラテン語文化圏とされる地域である。東方地域、とくにギリシア
④
においては、コレギアのような自発的に結成される社会集団の伝統が西部とは別に存在するため、それらの検討には別稿
を要する。そのため、本来ならばローマ世界全体からの史料を利用すべきところだが、本稿では帝国西部に限定しそこか
らの史料を網羅的に検討することとする。時代設定については、前一世紀~三世紀、すなわちコレギアの活動が盛んであ
った帝政前半期を対象とする。非常に広いタイムスパンになってしまうが、碑文史料は細かな年代同定のできるものが少
なく、それらに限って議論を進めることは、この場合、あまり生産的とは言えない。
本稿では、広範な地域・時代設定のゆえに、内部での偏差と時代を追った変化を等閑に付すことになる。しかし、碑文
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史料全体を生かし、
*本稿で訳出・言及した史料について、以下の略号を用いた。また、雑
誌の略号は、卜虻§瀞慧§蔓qミに従った。
郎由トざミ“鴨魯㍉鷺愚ミ心ミΩド、9鳶霧§塗忌§ミミト覇ミミ藁ミ
b蒔6馬鷺防ミ蝕隔§遷膏ミ、蕊毎蟻ミミミ毫㌧営§膏職帖貯b§ミ沁§ミミ
自,守鋸讐甘翫§題旨ミ貯恥
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一り。。倉忘’H逡山αρじσ.Pωご善い鉾ぎ閃量①話調一瓢σq轟℃ξ餌巳
閃Q邑ぞ甑{Φぎ費⑦ぴ卑臼関。露営国単物Hρ§ミ、貯ωρ一りG。禽署.
心㎝刈一轟④N
②例えば、樋脇博敏「ローマの家族」樺山紘~ほか編『岩波講座世界
歴史四 地中海世界と古典文明幽岩波害店、皿九九八年、二九二頁。
新たなコレギア像を浮かび上がらせることを目指すために、
この設定で考察を進めたい。
③呼称について、あらかじめ説明しておきたい。この社会集団を指す
場合、oo一一Φαq貯導の他にもいくつかの語があるが、どの呼称を用いる
かでそれぞれの集団の持つ意味合いが変わるわけではない。また、訳
語として組合、協会、クラブなどが考えられるが、この集団の特徴と、
それぞれの語の含意とは必ずしもかみ合うものではないため、本稿で
は、oO奇σq冨ヨの複数形であるoo穿αq罫を「コレギア」とカタカナ表
記することで、この社会集団の呼称とする。なお、史料の訳文中にお
いては、原文にしたがった場合もあるためこの限りではない。
④b喧×じく月b・卜。曽膳によれば、ソロンの時代からそのような活動が
あったようである。○.《’くき室誘§鴨9蝕らぎ融ミ駄挙.爵鼠§ミ
墨蹟§翫§瓢ミぎさ、、N§肉織鼻〉日ω齢興号β一㊤④刈もb蒔も参照のこと。
送活動からみたコレギア(抜野)
第一章 先行研究の概観と問題の所在
①
コレギア研究全体を見渡してみると、これまでの研究の積み重ねは非常に豊富である。モムゼンの学位論文に始まり、
②
近年でもいくつかの論考が発表されている。本章では、これまでのコレギア研究を概観し、本稿で注目する点、そしてそ
の問題点を明らかにし、本稿の目指すところをより具体的に示したい。
そもそも、コレギアとは、一体どのような社会集団であったのだろうか。現在、一般に通説として理解されているのは
③
以下のとおりである。古代ローマ社会では、手工業者や商人の中に、職種別の団体をつくる者たちがいた。また、特定の
神に対する信仰を共にする人々の団体やいわゆる「葬儀組合」、すなわち、構成員の葬儀を挙行することを目的とする集
団も現れるようになる。これらが、コレギアと呼ばれる社会集団で、それらの組織の活動が明確に確認できるようになる
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④
のは、共和政末期からである。帝政成立に至る過程で、コレギア認可に関しての方向付けがなされたが、実質的にはかな
⑤ ⑥
りの程度自由にコレギアを結成することができたようである。奴隷も主人の許可があれば加入できるなど、コレギアへの
⑦ ⑧
加入も自由であり、これらは私的で自発的な性格であった。政治的・経済的な活動には重きをおかず、構成員間の扶助や
楽しみのための集団であり、そこに集うことによって構成員は社会的活動の基盤とアイデンティティの拠り所をえること
⑨
になった、というのである。
⑩
このような通説的理解にいたる研究は、前述したように、モムゼン、そして一九世紀末のワルツィングによって、その
方向付けがなされた。ワルツィングが自身の用いた碑文史料をカタログとしてその著作にまとめたこともあり、その影響
⑪
は非常に大きかった。その後の研究は、彼の研究の枠組みを大きく変えるようなことはなく進められてきたのである。
⑫
このような流れの中で、特定の種類ごとにコレギアを考察したものはあっても、どのコレギアにも見られるような活動
について具体的に検討した研究は少ない。史料から確認されるコレギアの活動には、パトロンに対する顕彰碑文の建立、
⑬
構成員の葬送活動、祭祀の挙行や宴会の実施がある。筆者の問題関心であるソシアビリテやマンタリテを探る上で、死に
⑭
まつわる営みは大きな意味を持つため、本稿で注目するのは、コレギアによる葬送活動である。以下では、コレギアによ
る葬送活動に対する諸見解を中心に先行研究を整理し、それらがはらむ問題点と考察の博外に置かれた点を指摘し、本稿
の目的を一屡明確に示したい。
コレギアによる構成員の葬送活動についての見解を中心に先行研究をまとめてみると、その出発点は、やはりモムゼン
による学位論文である。この中で、モムゼンは、ある法史料と、「ディアナとアンティノウスの礼拝者たち」というコレ
⑮
ギアの会劉を記した碑文との文言の類似から「葬儀組合(8}}ΦσQ鈷{壽Φ円魯。芭」というコレギアの類型を措定し、その種
のコレギアには元老院決議によって一括して公認が与えられたと結論付けた。
⑯
モムゼンの説明にはいくつかの批判が加えられたものの、コレギア研究の基礎を築いたワルツィングによる一連の研究
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においてもモムゼンの類型化は受け入れられたため、通説として~般に広まったと言える。ワルツィングが四巻本の大著
⑰
の他に、唯一コレギアについて著した論考は「葬儀組合」を対象とするものであった。彼はその論考の中で、「葬儀組合」
を次のように定義付けた。
「(葬儀組合とは)帝国内において、月会費によって蓄えられた基金で、単に、あるいは主として、構成員たちにしかるべき葬式
⑱
をもたらすために、出生自由人、解放奴隷、あるいは奴隷である貧民たちの間で形成される組合である。」
こうして、「葬儀組合」という特殊なコレギアが存在し、他のコレギアとは区別して議論されることとなった。しかし、
⑲
この研究の流れに対して真っ向から批判を加えたのが、アウスビュッテルであった。彼は、モムゼンが主張の根拠とした
碑文について、欠損部分の補読が恣意的であることを指摘し、「葬儀組合」という類型化を否定した。そしてコレギア全
体における葬送活動の意義を考察すべきと主張したのである。しかしながら活動の分析については、先行する研究の枠組
みをこえる視点は生み出されなかった。
⑳
近年、「葬儀組合」についての論文を著した坂口明氏は、モムゼン、アウスビュッテル双方の説を批判した。すなわち、
モムゼンの主張する碑文の通読は誤りであるが、「葬儀組合」という類型自体まで否定するアウスビュッテルもまた行き
過ぎであり、便宜的に「葬儀組合」と呼ぶことは許されるであろうとする。このような観点から、あらためてラヌウィウ
ムの「ディアナとアンティノウスの礼拝者たち」の事例を検討するが、氏による新たな論点の提示がなされているわけで
はない。
類型化の議論に拘泥せず、葬送活動をコレギア全体に見られる活動として捉えるべきであると、筆者は考える。そこで
重要な論考を提示しているのは、次の二人の研究者である。
一人目が、パターソン。彼は、ローマ市における埋葬の問題を、バトロネジとコレギアと家族との三者の関連の中で考
⑳
察し、コレギアの活動の意義を高く評価した。しかし、コレギア自体については独自の考察を与えず、また、ローマ市と
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⑫
いう狭い地域における考察にとどまっている点は問題であろう。次に、ペリーが、博士論文の中で、まず法史料の側面か
らモムゼン説を批判し、「葬儀組合」という類型を設定することを批判している。さらに、コレギアによる葬送活動を示
す碑文史料を網羅的に収集し、それらについて考察を加えてもいる。それによると、コレギアは家族の代替物、あるいは
家族を補完する存在として構成員となる人々に求められたとする。
コレギアを家族と捉えるペリーの視点は非常に重要であり、筆者も基本的にはこの立場に立つ。しかしながら、彼の行
った碑文史料の分析は、一つ一つの史料から情報を吸い上げることはせず、特に後述するタイプ(一)の史料群に関して
はテクストの補導や解釈の説明に終始している。そもそも、コレギアが家族的な働きをしていたと考える根拠が曖昧であ
り、改めて史料を検討し、史料群全体からコレギア像を浮かび上がらせる必要があろう。また、構成員の出自も漢然とし
た理解になっているため、~体誰に対して、コレギアは家族というつながりを提供する場となったのか明らかではない。
そこで、本稿において、筆者は以下のように議論を進める。まず、ワルツィング、シス、ペリーによって作成された、
⑬
コレギアの葬送活動を示す碑文史料のカタログをもとに、史料を網羅的に分析する。そこにおいて、どのような人々が、
なぜコレギアに集い、そしてそれが彼らにとってどのような意義を持つものであったのかを考察する。これによって、葬
送活動に関する従来のコレギア研究についての問題点を乗り越え、かつ、コレギアがローマ社会においてもった意義を論
ずるための新たな視点を提示できるものと考える。
次章からの具体的な史料の分析に入る前に、対象となる碑文史料の性格について、四つのタイプに分類し整理しておき
たい。
⑳
現在、コレギアによる葬送活動を示す碑文史料としては、二八~個の碑文が知られる。ただし、富裕者が自身の所有す
⑳
る奴隷や解放奴隷を組織して作るコレギア、いわゆるドメスティック・コレギアは、構成員の自発的な意志に基づいて結
成・参加される社会集団としてのコレギアを考察する本稿の問題関心とは相容れないため、収集の対象から除外している。
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まず~つ目が、コレギアが単独でその構成員に建立した簡素な墓碑である(以下、タイプ(一)と表記)。これは全史料申
⑯
最も数が多く、}七四例ある。二つ目が、コレギアと故人の近親者が協同して墓碑を建立している事例である(以下、タ
⑳
イブ三)と表記)。これは四〇例確認される。三つ目が、コレギアによる墓地の所有を示す碑文である(以下、タイプ(三)
⑱
と表記)。このタイプには六三例の碑文がある。最後に、四つ目が、構成員の葬送に関しての取り決めがその会則に含ま
れているコレギアの碑文である(以下、タイプ(四)と表記)。これが、従来「葬儀組合」として言及されてきたコレギアで
あり、「ユピテル・ケルネヌスのコレギア」、「ファミリア・シルウァヌス」、「アエスクラピウスとヒュギアのコレギア」、
⑳
「ディアナとアンティノウスの礼拝者たち」の四例が確認される。
このように、今回検討の対象とする碑文史料について、その性格から四つのタイプに分けた。第二章以下、それぞれに
ついて具体的な分析を行うことにする。なお、本稿が対象とする時代と地域は冒頭で説明したとおりである。
①臣・竃。ヨ暴①p導9N葺款勉ミ象§§傍沁§§ミ§曽田匿‘。鳥。。お.
②近年刊行の単著には、即r菊。乱①戸§免凝象ミ題駄§沁§§
㍗番鴇§ミOミ磯貯斗§膏、6ミ熱鳴国韓8熱笥§帖ミ9、Nミ壁国.♪
コωP60。Q。一〇.鎧.くき冨α{u愚・ら鉢(「はじめに」昌■心)がある。
③通説的理解を示すにあたって、坂口明「組合」伊藤貞夫・本村凌二
(編)『西洋古代史研究入門』東京大学出版会、一九九七年、一八二
~三頁を参照した。
④王政時代から存在した(廻鼻曽ミ跳さミ.L圃.)とされるが、不明な
点も多い。閃.O接げP8冨Oo一一Φ触餌。{瓢信ヨ鋭℃δ甑㊦ヨω。hζ①窪。像雪匹
℃○一三。既置①pω甲隠恥二一お。。倉O唱.。。∵。。①を参照のこと。
⑤共和政末期の政争とコレギアの活動に関しては、毛利晶門紀元前六
四年の元老院決議とコンビターリアの担い手たち」『史学雑誌踵一〇
三…三、一九九四年、一~三四頁を参照のこと。カエサルとアウグス
トゥスによる対策については、坂口明「組合に関するユリウス法}。×
H陰画鳥㊦。o=Φαq房について扁『西洋史学輪二一八、二〇〇五年、一=
一=エハ頁’乞日沁よ。
⑥b蝉×じくHHるト⊃wω・
⑦一方、国家と深く関わるコレギアもあった。例えば公共の便宜に資
するコレギアには都市への義務の免除という特権を認めることで
(b~晦.甲ピΨ①甲①.)、政府は加入を奨励した。また、大工や織物職人のコ
レギアも都市の消防隊に属していることが多く、おそらく正式な認可
を与えられていたと推定されているが、通説の見直しも図られている。
○.ζ.くき蜜騨0白鼠αq訂固盈Oぎ。O留鳥曾↓≦oOプ帥讐興ω冒簿Φ
田ωδ蔓。{ωoo賦げ節蔓”≦晶8αQヨ繕卸竃.囚鉦昇Φσq陣(&ω.γ魯箋き鳴
窪匁ビΦ箆ΦP切Oω8口卸囲α一P悼OON℃やωO?G。ωρ本間俊行「ローマ帝
政前期における組合と都市社会一「三つの組合(鼠900一δαQ鎧)」を
手がかりに一」『史学雑誌紬 一一四i七、二〇〇五年、三七~五八
頁を参照のこと。
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⑧政治的な活動はコレギアのパトロンを通じて行われたとされる。パ
トロンに焦点を当てた研究としては、○.ΩΦヨΦ障ρ綴冨嘗。混けop蝕
o巳げσq冨ら㊦目.冒需δ門。藍碧ρ砺OO陣しり鳶もや置鱒-占卜⊃㊤が唯一のも
のである。
⑨}㌔即≦葺N冒σQ恵ミ譜ミ防な譜ミ薬こ跨§醤ミ叫§愚、爵逐q、ミミ題§N
醇ヨ§§溶δ旨Φρピ8〈山言δ。。卸8ρ國も.ωG。P(以下、肉ミ譜と略
記する。)
⑩㍗℃.≦聾Nぎαq甲吋ミ長p.⑩y
⑪男罫UΦ濁。び①aρ要。ミ魯NN免§誉、§§爵ミ、ミご馬§aミ§ミ
ミ§さ、§N§峯悼8ヨ詑じご⇔芦一〇謡は法綱史的な叙述。これは、び.
O蜀80-菊判σqαQ貯却Oo甥Φαqご臼ooo愚蕊”い節唱。一三〇pΦoo昌。日ざ”郡Φ質麟
δαQ置冨臥。屋Φ器=櫛箕餌ωω押O.O■諺8鐵(Φq.)り鋤W蹄§凡§軌堕岬注ミ9馬鴨
鳶ミミ篭Nミらぎミこミ誉静粛鴨墨銀臨器P一⑩刈O甲℃や①G。-O蒔のアプローチ
にもつながる。また、ローマ社会一般を扱った著作でもコレギアが取
りあげられ、概ねワルツイングの見解を踏襲している。
⑫同職団体については、例えば頃・び.渕。覧⑦P信・ミ(Pb。)など。青年
団(8幕αQ鑓旨く①農ヨ)については長谷川博隆『古代ローマの若者』
三省堂、 九八七年、二二〇一六一頁がそれに先行する研究を手際よ
くまとめている。なお、最新のものは、℃.OぎΦω8F出題。蓉、誉霜』帖§偽
魯貯氣畏ミ防龍雲霧N6ミ智乱声§ミドbU三ω器㌍一り縁である。
⑬本稿では葬送活動という語で、葬儀の挙行、埋葬の寓話、墓碑の建
立など一連の行為を指すこととする。
⑭ 古代ロ…マの人々は自分が何者であったか、そしてどのように周囲
から見られることを欲したのかという思いを墓碑や墓のレリ…フに込
めた。帝政期のローマ社会においても葬送活動とアイデンティティは
重要な関係を持っていたのである。以下の諸著作を参昭…のこと。F・
キュモン噸古代ローマの来世観隔小川英雄訳、平凡社、一九九六年
(原著~九ニニ年)、回ζ.ρ同。署ぴΦρb恥ミ隷§吊し。ミ凡ミ§導免沁ミ竃鳶
き、裁ピoo仙。戸お謡…囚.頃○℃評ぎ。。”bミミ§ミ肉§恥鑓鼻09ヨ鐸答σq9
一ΦcQω淵.《o嶺グbミS-肉糠§N亀嵩蹴き既ミ勲、§9ミ馬馬醤G脊砺鴇ミN》ミ避ミ蛍
09ヨげユασQρ一りO卜⊃’
⑮U喧×いくHHるN押Q9×H<る銭卜。9
⑯坂口明「いわゆる「葬儀組合」について」『西洋古典学研究』五〇、
二〇〇二年(以下、「葬儀組合」と略記)、七四一五頁(注七)を参照
のこと。その他、βω。迂霧。・’b紋沁q§い簿§9N暮ミ℃§§ミこミミ
§N§砺多望§甲ζq旨。『Φ戸一QQoQo◎一≦.ピ陣①σΦ”蝉導層N爲、Q題さ詩ミ馬ミミ
O、題ミ題翫§騨肉嘲ミ§》§謬、,断片島蔭鴨浅”ピ㊥首鼠αqり一〇。OOは、モムゼン
やワルツィングのように「葬儀組合」の機能を葬送活動には限定せず、
相互扶助組織という広いコンテクストに位置付ける。
⑰}㌔℃.≦鞍N冒αqト㊥ω。島一£Φω{琴鋒舞Φω。訂巳Φ。。8ヨ巴βトこ§§馬
富喧卜⊃”一GQΦQQ”「℃.卜⊃c◎一面り鼻帥卜馬§ミ紳富曹OQ”一cQ⑩Pもや一〇QO匹一㎝唖.
⑱暮ミ甲緯§誠魯富會Nやト。。。蝉
⑲国客》話げ薯ゆrS牒霧黛き§α・§蓑§蕎板起§§き偽§§
沁職ミ蹄急§呈出厭舞囚鋤に三障口NΨ一〇cQトっ9
⑳坂口「葬儀組合」(注一六)、六七一七七頁。
⑳』勇.評羅「。。g㌔葺8帥αqρO。}げαq冨・巳bd鼠鉱帥類露℃鼠鉱円。昆曽
ω.じd効ω鴇黛①餅)“∪ミS旨§§、舅qY富着肉Q愚。謹跨ミミ砂払勘茜§駄導馬
bミみNqq丸OqPじ鼠8。。叶Φ「りい。口αo昌帥冨Φ類鴫oHr回ΦΦN唱O.一9爬メ己.w
ごくぎσq磐匹U覧おぎ跨Φ○一下。{知。白Φ”出og㊥ω鴛鳥同。ヨσω”旨
Oo巴。り8ロ節閏.σo鳥αq①(①牙.)w臥ミ帖§昏知ミ§き馬郎、ら建sN韓ミド隷肉庸ミミ
Ω童○鳳oHgNOOρO喝.卜⊃OΦ幽oQO.
⑫ 旨の.℃Φ昌ざ》b恥ミこ、尉き俺穿ミミ鼻さ馬手M§爲葭GQ亀韓防駄き恥謁。ミ§
肉愚帖糞¢⇔℃嘗ぴぼω『Φ匙℃劉U・鹸無二りζ辛く①門。。騨《o{累曾昏O碧。跨昌叫韓
07帥唱Φ一霞臼”一⑩Oρ
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葬送活動からみたコレギァ(佐野)
⑱ }、℃’影野NぎαQ▼感ミ魯(轡■㊤yH岸βω。諏Φω。。魑§ミ(ゆμ①)は碑文史料
のカタログをそなえる。しかしながら、この二者はシルウァヌス神に
対する信仰をもとに結成されたコレギア(§冒HH押①ωω)を、シルウ
ァヌスが冥界と関連する神格であるという理由のみで、葬送活動を行
うコレギアとしているなど、史料の選択に疑問が残る。それゆえ、本
稿では、葬送活動のあとを示す史料(墓碑、コレギアによる墓地の所
有、葬送活動を行うという会則)に絞った回ω■℃霞ざ魯ミ(p卜。昏っ)の
カタログを数本とし、そこにそれ以後の知見を付け加えた。
⑳ ただし、複数の碑文を組み合わせて一つの事例が構成されている
ケ…スもあり、総数としては二八~を超える。
⑮ この種のコレギアに関しては、}.,℃.≦巴梓臥pαqり時薄貯(口.Oy押唱唱.
ひ⊃①ω-卜⊃①会〆璃器ΦαQ印芝♪§恥建㌶ドミ貸9呼亀嵩簿栽ミ款謡鴫、ぎ穿、督肉母S凡溝
○×{o【負卜。OO伊bやQ。ゲ。。。。を参照のこと。
⑯ ΩFH押。。一9c。一刈 一8G。一一Φおる刈ω論る刈Q。鱒ω卜⊃魔 膳8会まOρHいメ
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おoQρり蒔cQ一HりcQρコど泊り㊤り一一〇ω煙鉢、きOミ亀鱒卜⊃(一〇刈O)唱も「一窃鱒山①仲
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署.一〇〇山O砂6知H同H-N軽09鎖。。刈9さ下心鳶N苛ミ建国(一難ω)80.(複
数の典拠がある碑文は入手が容易なもののみを挙げた。以下も同様。)
⑳Q罫HHΨ。。δるO刈9。。二禽。。b⊃“。り…Oc。δ本膳押δO禽ま見る㎝。。G。篇8拝
メωGQメ一①卜⊃Q◎一心心OQω一く押一〇①cQ押一跨刈心食一①ΦGQ卜σ一ト⊃心①OごOQωり謡一ω膳O邸黛
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(493)9
-
第二章 コレギアによる墓碑建立
le (494)
初めに、タイプ(一)の史料について検討する。具体的にどのようなものなのか見てみることにしよう。
「手工業者のコレギアに属したガイウス・ユリウス・マルクスの御霊に。彼は、六〇歳まで生きた。上記コレギアが(これを建て
①
た)。」
このように、このタイプの墓碑からは、故人と、関係するコレギア名のみが、情報として引き出せることになる。この
二つの情報から分析できることは、構成員の出自の問題と、当該コレギアにおいて何が紐帯となってそれが結成されたの
かということである。そこでまず、コレギアの名称となっている言葉から、そのコレギアがどのようなものを紐帯とした
のか見てみよう。葬送活動とは、果たして、一部の特殊な種類のコレギアによって担われる活動であったのであろうか。
コレギアの分類は、名称が職業に関するものであるか、あるいは、特定の神格への言及であるかなどによって分類されて
きた。ここでも、それにのっとって、各コレギアがどのような紐帯に基づいて結成されたコレギアであったのかを分類す
る。
園M]は、タイプ(一)の墓碑に見られるコレギア名を分類し整理したものである。タイプ(一)の墓碑の総数は一七
四例であるが、同~のコレギアが複数の墓碑に表れている事例もあるため、この表における総数は一五五例となっている。
分類の手順は次のとおり。例えば。。一一Φσqごヨ鐡げ毎導というコレギア名の場合、これは手工業者のコレギアということで
あるが、名称の幹となっている部分が。○一8αqご目であり、それに貯げ毎日という職業に関する名称が添えられている。こ
れは、口國]においては「。○一一Φσq貯諺」「職業的」の項目に分類されることとなる。なお、「幹」の項目内で「その他」に分
類されたコレギア名としては、幹となる言葉がなく、例えば「毛織物職人たち(一心口p三)」のようにコレギア構成員を表す
言葉の複数形が名称となっている事例である。また、紐帯を分類する項目内で「その他」に分けられているのは、職業的
-
葬送活動からみたコレギァ(佐野)
表1 タイプ(一)に見られるコレギアの名称分類
幹 職業的 宗教的 その他 幹のみ 計
amici 1 0 2 2 5(3%)
collegium 37 18 9 18 82(53%)
sodales/sodalicium 2 4 2 19 27(17%〉
SOCii/SOCietaS 0 0 1 0 1(1%)
その他 12 14 14 …40(26%)
計 52(34%) 36(23%) 28(18%) 39(25%) 155
*総数155となるのは,同一コレギアが複数建立している事例があるため。
とも宗教的とも判別しがたいもの、例えば青年団や宴会を共に楽しむことを目的とした
② ③
もの、あるいは地縁的と思われるもの、そして、その名称の意味が判然としないものが
含まれる。
この園閏]を紐帯の分類に注目して見ると、「職業的」が三四%、「宗教的」が二三%、
「その他」が一八%、「幹のみ」が二五%となっている。このことから、葬送活動を行
うコレギアにおいては、その紐帯によって偏りがあるわけではないということが看取さ
れよう。しかも、宗教的なコレギアよりもむしろ、職業的な紐帯のコレギアのほうが、
葬送活動を行うコレギアにおいてその占める割合が大きい。したがって、アウスビュッ
テルやペリーらの立場同様、葬送活動をコレギア全体に見られる活動と捉えて、コレギ
アという社会集団がローマ社会において有した意義を考察することは妥当であると考え
る。
次に、構成員の出自を調べるため、墓碑に記される人名についての考察に移る。ロー
④
マにおける命名法は、一般に、三名法(膏H一P ⇒OヨH⇒蝉)として知られている。すなわち、
個人名(唱吋鋤Φ降O白Φ口)・氏族名(⇒。自営)・家族名(8αqご。ヨ窪)からなる。その中で、その
人物が、一体いかなる出自の人物であるかということは、氏族名と家族名の部分に表れ
てくるわけであるが、より重要になるのは家族名である。それは、奴隷が解放される際
の命名方法が関わってくる。奴隷は基本的に、名前を一つしか持たないが、解放される
と画名法による名前を名乗る。その名付け方には決まりがあり、主人であった者の個人
名と氏族名に加えて、奴隷時代の自分自身の名前であったものを家族名にして名乗るの
11 (495)
-
表H タイプ(~)の墓碑における構成員の入名の分析
(A>家族名の雷語系統(総数:209名)
ラテン系 ギリシア系 不明・その他
家族名の系統 122 63 24
(B>H.Solin(1996)における同一奴隷名の事例数(系統が判明したユ87名の内)
/0例以上 10例未満 なし
奴隷名の事例数 95 6ξ 28
(C)身分指標の有無(総数;209名)
市民 aug・ 解放奴隷 奴隷 なし
身分指標 14 2 ユ2 12 169
*aug.はアウグスタレスの略記。なおアウグスタレスと「解放奴隷」は重複していない。
(D)構成員の性別(系統が判明した187名の内)
男性 女性
性 173 14
である。したがって、家族名の部分には自身の出自の痕跡が残
るわけであり、それを分析していくことは、コレギアに集った
人々を明らかにする有力な手がかりを提示してくれるであろう。
では、具体的な分析方法について説明する。まず、碑文史料
中からコレギアの構成員と分かる人物を抜き出す。その上で、
抽出した人物の家族名を以下の人名に関する著作・史料集成を
⑤ ⑥
用いて分析する。ソリンによる集成は、ローマ市出土の碑文史
料を網羅的に分析し、その中で奴隷であった者の名前を集めた
ものである。言語系統別に分類されており、これに基づいて名
前の言語系統を判断する。さらに、それが奴隷に典型的な名前
かどうかを判断する。この集成に見られない人名は、同じくソ
⑦
リンによる、ローマにおけるギリシア系の名前を集成した著作、
ソリンとサロミエスによる、ラテン系の氏族名と家族名を集成
⑧ ⑨
した著作と照合して、どちらの系統に属する名前か判断する。
また、家族名の他、身分指標・性別についても整理した。
分析結果は園剛幽のとおりである。(A)について、総数は二
〇九名であるが、そのうち六三名がギリシア系の家族名を持つ。
ここで、帝国西部においてギリシア系の家族名を持つ人々とは、
多様な集団であったことに注意しなければならない。まず つ
12 (496)
-
葬送活動からみたコレギァ(佐野)
には、ギリシア語圏からの移住者たちであろう。また、出身地域は判別できないが奴隷あるいは奴隷出自の人々も含まれ
⑩ ⑪
ていた。奴隷出自の人々に関しては、奴隷身分からの解放後、それほど世代を経ていないと考えられる。したがって、
ローマ帝国西部においてギリシア系の家族名を持つということは、次の二つのうちのどちらかであったとするのが妥当で
あろう。すなわち、その人物が東方からの移住者であったか、出身地域の判別はできないが、自身もしくは近い直系にお
⑫
いて奴隷であった、のいずれかである。
また(B)においては、ソリンによる奴隷名の集成に依拠しながら、奴隷に典型的な名前か否かを分類した。ローマ市
における同一の奴隷名が一〇例以上確認される事例を、ここで仮に奴隷に特徴的な家族名とすると、九五名(そのうちラ
テン系六〇名、ギリシア系三四名、イリュリア系~名)がそれに当てはまる。このことは、ギリシア系の名前を持たないもの
においても、自身が奴隷であったか、もしくは近い直系において奴隷であった人物がいたことを示すと考えてよいだろう。
一方で、(C)から特定の身分であることを示す身分指標が記されている事例をみると、奴隷・解放奴隷であることを示
すものがかなりある。他方、支配者階級である騎士身分や元老院議員級の人物はいないことも判明する。
以上から、コレギアの構成員となった人々とは、おおむね東方出身者や解放奴隷、あるいは近い直系において奴隷出自
であった人々であったと言える。騎士身分以上の地位にある人物は確認できず、また、職業を紐帯としているコレギアの
事例が多いことから、階層としては、都市の中・下層罠、ただし、無産市民ではない層と考えられよう。数は少ないが女
性もコレギアに参加することができたようである。構成員の出自の意味については分析結果の総括において改めて考察す
ることとして、ひとまず次のタイプ(二)の分析に移る。
①○臼」戸δOα.(なお、本稿で引用する史料の訳文において、……
は省略を、[]は訳文ではなく筆者による内容の要約を示す。また、
()は筆者による補足である。また、人名・地名の長音に関しては、
一部慣例に従った場合を除き、原則無視している。その他、貨幣・度
量衡の単位については、原語の単数・主格形をカタカナ表記すること
で統 している。)
13 (497)
-
②例えばq臼”<押鵯。。¢・昏。からは、ω。紆奮鼠器冨託。霧器というコレ
ギアの名称がうかがえる。
③例えば自冒く日し5露にはしウ費p甑という名称が見えるが、ここ
からはその紐帯を判、断ずることができない。
④古代ローマにおける命名全般についてはbu.ω鉱話~≦訂雰ぽ蝉
累pヨ①叩〉ωg<Φ<o{殉。葺Q昂○昌。ヨpω降。℃冨。離8{8ヨρ刈OOごd.ρε
〉・U.↓Oρ隠恥。。野一〇〇♪醤.お膳-慰㎝から有益な概観がえられる。邦
語では佐藤篤士「ヨーロッパ古代の名扁黒木三郎(編)『家の名・族
の名・入の名』三省堂、}九八八年、一八九⊥一〇四頁が簡便である。
⑤なお、名前が二つしかないものは後方を、一つしかないものはそれ
自体を家族名として扱った。
⑥出.ω。響u窟偽恥ミミ、§聴ら》§象隷q§N§ミ§さミ§守ミ画ωしd傷Φこ
ω誓簿αq碧∬一〇⑩◎
⑦閏.ω。ぎvb貯9§起き§譜越§§㌔ド§§註沁§㌔§さミ§寒罫昏。.
》鉱rωじd住Pじd臼富昌俸冨Φ≦皮9ぎト⊃OOω.
⑧ 葭.ω巳ぎ卿ρω鉱。巳霧η肉愚幾な識§煙さ§馬ミミO§ミ賊§Nミ
O§ミミ§袋ミト犠ミ§§ミ”国P鎚舘ぴ臨旨叩N瞬ぎザや冨①毛唐。目r一⑩GQoQ.
⑨家族名研究の基本文献である、H・潤鋤す馨P§鴨トミ謎§さミ§禽
国Φ一ω墨書一り①αも適宜参照した。
⑩ギリシア系の名前を東方出身で奴隷出自と判断するのは、↓.
凋H碧rカロ8ζ空母話ぎ叶『㊦菊。ヨ雪国白質噌ρ》三門⊃お目豫◎唱Ψ
①cQOるOGQ一〉’竃.∪黒めき謹ミ、N§斗き免穿、、◎沁。ミ匙二曹口出目糞O駄oH9
一〇卜。c。”唱や綴-αc。.一方、奴隷出自ではあるが出身地は東方と限らない
とするのは鼠・U・OoaoP8冨客巴。昌帥浮団鼠ω一年Φω言山曾跨Φ国即二く
国。日き国旨要ρ弟砺一♪目露駆もや¢。。山一一.本稿では、一般に理解され
ているのと同様、ゴードンの説に従う。
⑪世代を経るごとにラテン系の名前に改名する傾向が強いことが指摘
されているQじ’菊.門四覧。が甥話①山ヨΦp四p侮日お⑦げ。旨ぎ跨㊦国威搾碧げ。。o{
Hヨ驚H蕊男。日Φ誌莞。。卜。LΦ①一もワ一一ω山G。卜。を参照のこと。なお、勺.
O霞湧㊦メUΦ。・8目仙効纂ωo{閏冨①山ヨΦμぎ轡oo巴℃o=け一〇臼ωo筥ΦOユ齢Φ嵩P
bu.目Φ訟。πΦ臼)▼§免出㌧§§馬ミ賜§,貯醤§駄ミ防§ミ忌避O話αqαq甲6刈伊
署.一①刈山。。Oは、少数ながら逆の例もあることを指摘しており、家族
名だけで解放奴隷かどうか判断することには懐疑的である。
⑫門密寅簿p誤Φω坤σq。蕊。き8。h客8-冨欝O。αQ口。ヨぎ餌トミ§§悼メ
一⑩①c。”署.0一刈-αω幽は、この立場に近い。また、最近では国・ζoβ馨-
。。ΦP閏【Φ①匹ヨΦ昌き匹U①2臨。島“国唱#巷『効目島ω09巴餌討8蔓ぎ
Hヨ唱①二身津巴ざ弟防㊤ρトっOOgO唱.ωc。ふωが、ギリシア系の名前を奴隷
出自の判断基準として考察に用いている。
また、人口動態についても簡単に触れておく必要があるだろう。帝
政前半期には年間二万人ほどが東から西へ自発的に移動していたと考
えられている。戦争捕虜は、年間一万入程度がもたらされ、奴隷取引
の規模は年間二万人程度(そのうち七〇%以上は西部で取引)であっ
たと推定されている。≦.牢冨がUΦヨ。αq「巷ξ“9吟歳×挿卜。OOρ唱.
刈cQ↓-cQ一① 芝.ωoゲ①賦鉱(Φ島.)”bSミ§αq肉Qミ亀嵩b恥ミ§§曹一いΦ箆ΦP
しuoω80卸開αげ讐b⊃OO押箆こ躍¢露帥μ竃。ぴ臣子聖恩。ヨ窪岸巴ざH…野①閃H8
℃o℃巳蝉ユ。戸弟砺O企NOO♪唱やマ鱒9己.り畷属目節昌ζo獣副乳酵円。日帥p
緊巴ざ同H”夢Φω莚くΦ℃o唱白塗δ7菊譲り9笛OOOもや①陣触汐長谷川岳男・
樋脇博敏噸古代ローマを知る事典』東京堂出版、二〇〇四年、一九二
一八頁を参照のこと。
(498)14
-
葬送活動からみたコレギア(佐野)
表HI タイプ(二)に見られるコレギアの名称分類
第三章 コレギアと近親者の協同による墓碑建立
幹 職業的 宗教的 その他 幹のみ 計
amici 0 0 0 0 0(0%)
collegium 8 4 3 9 24(67%)
sodales/sodal圭ciuln 0 0 3 4 7〈19%〉
socil/societas 0 0 1 0 1(3%)
その他 0 3 1 一4(ユ1%)
計 8(22%〉 7(20%〉 8(22%〉 エ3(36%) 36
*総数36となるのは,同一コレギアが複数建立している事例があるため。
次に、タイプ(一~)、コレギアと近親者による協同の事例を検討していく。具体的に
は次のような内容である。
「ヌメルス・フレシドゥス・スッケッススの御霊に。一四歳まで生きた彼に、手工業者のコ
レギアの決議に基づいて、父であるヌメルス・フレシドゥス・フロレンティヌスと母である
①
フレシディア・スッケッサが(建てた)。」
このような史料の中から引き出せる情報は、タイプ(一)の場合と同様にコレギアの
名称と構成員の人名であるが、さらに重要であるのは、被葬者とどのような関係にある
人物がコレギアと協同して墓碑を建立しているかということである。以上三点について
分析していきたい。
園幽幽はタイプ(二)の墓碑に見られるコレギア名を分類し整理したものである。タ
イプ(二)の墓碑の総数は四〇例であるが、同一のコレギアが複数の墓碑にあらわれて
いる事例もあるため、この表における総数は三六例となっている。分類に関しては、
[園」](タイプ(一)の名称分類)と同様である。園関]と比べて、職業的な紐帯によるコレ
ギアの割合が二二%と低くなってはいるが、各項目それほどの偏りもなく確認されると
いう点は変わらない。
続けて構成員の人名を分析するが、抽出した人名は、被葬者に加えて明らかにコレギ
アに所属する人物と分かった者のみである。コレギアと協同して墓碑を建立している被
15 (499)
-
表IV タイプ(二)の墓碑における構成員の人名の分析
(A)家族名の醤語系統(総数二41名)
ラテン系 ギリシア系 不明・その他
家族名の系統 25 13 3
(B)H.Solin(1996)における同一奴隷名の事例数(系統が判明した40名の内)
10例以上 ユ0例未満 なし
奴隷名の事例数 22 12 6
(C)身分指標の有無(総数:41名)
dec. 市民(?) 解放奴隷 奴隷 なし
身分指標 1 3 0 2 35
(D)構成員の性別(系統が判明した187名の内)
男性 女性
性 32 8
葬者の近親者は、コレギアの構成員であったかどうかがはっきり
とはしないため、分析対象にはしていない。
分析結果は園痛幽のとおりである。(A)について、総数は四一
名であるが、そのうち一三名がギリシア系の家族名を持つ。また、
(B)から奴隷に特徴的と思われる家族名を持っているのが二二
名(そのうちラテン系一三名、ギリシア系八名、イリュリァ系一名)確
認される。これらの割合は、園]幽タイプ(一)の場合の分析結
果とほぼ同じである。一方、(C)から身分指標が記されている
事例をみると、一例だけであるが、都市参事会員が含まれる。騎
士身分とは記されていないが、いわゆる都市名望家層に属する人
物であったと考えられる。他には、市民や奴隷であることを示す
例がいくつか見られるが、多くは身分指標を有していない。これ
らのことから、タイプ(二)の事例でも構成員の出自については、
園闇商の分析において考察したのと同様のものを想定してよいと
思われる。
次に、タイプ(二)において最も重要な情報である、被葬者と
墓碑建立者との関係について分析を行いたい。
分析結果は[園M]のとおりである。全体で四〇例あるが、その
うち四例では、続柄の異なる複数の人物によって墓碑が建立され
16 (500)
-
葬送活動からみたコレギア(佐野)
②
ており、これらに関してはそれぞれ一つずつカウントしたので、総数は四四となる。まず、最も割合が多いのは、(両)
親が子供に対して建立している事例であり、三六%に上る。続いて、配偶者が故人に対して建立している事例が二三%で
あり、子供が親に対して建立するのが~六%となっている。これらの数字の意味を考える上で重要なのが、サラーとシ
③
ヨーによる論文である。彼らによれば、都市民衆の墓碑の場合、それを建立している人物の黒八○%が被葬者の核家族関
係内の人物であるという。園M]の場合だと、配偶者、親、子供、キョウダイによるものを合計して八四%になり、彼ら
の提供するデータと合致する。しかしながら、核家族関係内で墓碑を建立している事例の割合を比べると、顕著な差があ
らわれる。彼らのデータによれば配偶者が約三八%、(両)親が約三一%、子供が約二二%、キョウダイが約九%となつ
④
ているのである。しかしながら、今回の事例では配偶者によるものが約二七%と低く、それに代わって目立つのが(両)
親によるものなのである。このことはコレギアの構成員、あるいはコレギアの有する意義そのものに関して、一体いかな
る意昧を持つのか。
系 族
{表V 被葬者と墓碑を建立した人物との関
続柄 数 パーセント
配偶者 ユ0 23(27)
(両)親 16 36(43)
祖父母 2 5
子供 7 16(19)
キョウダイ 4 9(11)
相続入 1 2
解放奴隷 2 5
友入 1 2
都市(「公に」) 工 2
*「パーセント」の項目で,(
関係内での割合。
)内は核家
墓碑研究全般において、子供、特に幼子が死んだとき、解放奴隷である
⑤
両親のほうがより熱心に墓碑を建立することが数量的に確認されている。
もちろん、解放奴隷とその他の身分の人々との問での、子供に対する愛情
の多寡を碑文から推し量ることはできない。この現象の説明としては、親
である解放奴隷たちは自らが市民身分を獲得したことを喧伝する手段とし
⑥
て子供の墓碑建立を熱心に行った、という説明が説得的であろう。解放奴
隷たちにとって、最も公的にアピールできる手段が墓碑の建立だったので
ある。
裏を返せば、子供に対する墓碑の建立が多いということから、コレギア
17 (5el)
-
には解放奴隷が多く集っていたということが言える。また、そのような大事な墓碑建立においてコレギアが協同するとい
うことは、その家族とコレギアの密接な関係がうかがえる。そこには、家族を包み込むより大きな紐帯をコレギアに求め
る、構成員の姿を認めることもできるのである。
①qド鏡b。。ミ.
②象りくv念G。ωは祖父と友人。自獄同H仁まωは子供とキョウダイ。
Q隅りくH』O①c。一は配偶者とキョウダイ。O臼”<押○。↓o。0卜。は祖母と親。
③幻■℃.ω霞目帥ゆ.U.ω訂挺魯.ら欺(「はじめに」コヒ・
④§罫浸σ圃霧島山ρ℃噂」膳刈山α9
⑤例えば、甲ω■窯犀器P同馨曾讐Φ陣ぎαQ即智三時。・ぎ幻。旨自国唱一ぢ冨。・扇.
甥ゆ壽8知℃’芝$〈ΦH(巴ω.)”§恥沁§§凄ミ魯§寄亀警防ミミ勲
浄ミ冒§3憩轟黄○改。己卿甥㊦ξ磯。蒔甲一〇〇メ噴.トっOO。など。
⑥以下の論考を参照せよ。ζ.囚ヨσq”O。ヨヨ弩。§δ昌。{H旨き冴自
菊○導雪閃琶①§賓瓦屋。昌け陣。葺O.魯9ぞΦH(Φe”§鴨警噂§書駄
bミミいミミ題討妹註撃8㌧望§静思駐雪駄孚§鴨§蹴沁。ミ魯ごく⑦遍oor
範OOρ慧’一一?一ゆ分}.竃。≦一一証夢O露国お戸帥日8αq浄①O①巴二冨
ぎ自器昌80{Q門げ卿芦び欺⑦o口汗ΦOo日日Φ謬。鑓臣。⇒ohO臣凱HΦ昌op
円。ヨσ。。8器ぎ8Hな[陣8。。wω.U詳8(㊦e甲Oミ§8斜O§偽§蹴ミ§馬㌧こ漕
肉。ミ§ぎ、ミい。邑8卸瓢Φ≦《o長b。OO回り薯.課め○。.
18 (502)
第四章 コレギアによる墓地の所有
では、次にタイプ(三)の碑文の検討に移る。タイプ(三)はコレギアによる墓地所有の事例である。基本的に、墓地
となる場所に建てられ、そこが特定のコレギアの墓地であることを示す文言が刻まれる。簡素なものが多いが、コレギア
の特性を考える上で手がかりとなる記述を含むものもある。まずはそういった記述を見てみたい。
「ルキウスの息子、スブラナ区所属のルキウス・キンキウス・マルティアリスは、……大工のコレギアの第~○デクリアの人々に、
三二箇所の骨壷置き場のついた、右の建物を贈った。その人々は、以下に記されるとおりであり、一人につき一箇所が与えられた。
(二二名の男性の名が五列に並べられている。一列五名ずつだが、最後の一列だけは二名のみ。)
①
残りの一〇箇所は、将来、きっとこのデクリアに所属するであろう人々に与える……」
「金細工職人で、ムティナ市の都市参事会員であるガイウス・ペトロニウス・マンテスが金細工職人たちとその妻たち、そして私
-
葬送活動からみたコレギァ(佐野)
②
たちの間にある者に、幅一六ペース、奥行き二六ペースの土地と……とを私費で贈った。」
これら二つの碑文は、いずれもおそらくそのコレギアを指導する立場にある人物が、構成員たちに対して遺骨を安置す
る場所や墓地を用立てたことを示す碑文である。ともに、構成員の間での親密さがうかがえ、「その妻たち、そして私た
ちの間にある者8⇔甘σq8器①o讐β①父一一。。)ρ巳一華28ωω§こという文言にそれが構成員の間だけにはとどまらず、その
家族をも包み込むものだったこともみてとれる。一方、「将来、きっとこのデクリアに所属するであろう人々に与える
ρ缶騨訂。曾。霞貯聾Φ。酔冨黒黒」という文言は、原文で使われている未来完了という時制の用法とあいまって、すでにど
ういつだ人々がこのコレギアに所属することになるか決まっていることを示唆する。つまり、これらの碑文には、コレギ
ア内部での親密さが表れると同時に、その裏返しとしての外部に対する閉鎖性も表れていると言えるのである。
次に、墓地の面積が示されている事例を見てみたい。記されている面積には大小さまざまあり、また、各地域で発見さ
れている。おそらくその地域ごとに土地の価格も異なり、単純に全体の平均を出すことにはそれほど意味はないと思われ
③
る。むしろ、墓地の面積が知られる事例から検討すべきこととして、以下の碑文があげられる。
「……(当コレギアには)八八人の会員がおり、~人当たり二七平方ペースを(割り当てる)。全体では、二三九八平方ペースで
ある。」(アテステ市)
凹……(欠損)……墓地、幡二〇ペース、奥行き二五ペース。コレギアとその構成貝の子孫の……(欠損)……し(アテステ市)
門プブリウスの解放奴隷、プブリウス・パエティニウス・アプトゥスが、自身と、妻であるアッティア・ペレグリナと、毛織物職
人のコレギアの仲間たちとのために、幅四五ペース、奥行き~八ペースの土地を(用立てた)。……」
(アルティヌム市)
これらはイタリア北部の東側、アドリア海に面した地域であるウェネティアの小都市で発見された碑文である。最初の
碑文では、全体の面積以外に~人当たりの割り当て面積が記されており、二七平方ペースとなっている。なお、二七平方
19 (503)
-
表VI タイプ(三)に見られるコレギアの名称分類
幹 職業的 宗教的 その他 幹のみ 計
amici 0 2 1 0 3(5%〉
col互egium 10 0 2 1 13(22%)
sodales/sodalicium ユ 0 0 1 2(3%)
socii/societas 3 0 3 4 10(17%)
その他 7 ユ4 10 …31(53%)
計 21(36%〉 16(27%) 16(27%) 6(10%) 59
*総数59となるのは,同一コレギアが複数建立している事例があるため。
ペースが一人当たりの割り当て面積となっている事例はこの他に、ローマ市で二例確認
④
される。コレギアの墓地に関してはこれら以外に単位面積が分かる事例はない。仮にこ
れを、この地域での標準的な単位面積と考えると、二番目の碑文のコレギアでは二〇×
二五÷二七11約一八となり、一八人程度がその構成員であったと考えられるし、同様に
三番目の碑文のコレギアでは三〇人程度をその構成員と考えることができる。コレギア
の構成人数に関しては、構成員のリストのような碑文が残存していない限り分からない
が、このような情報から、地方の中小の都市に関しては数十人規模のコレギアが一般的
であったと推定することも可能であろう。
では最後に、タイプ(一)・(二)と同様、タイプ(三)の碑文に見られるコレギアの
紐帯に関する分析と、コレギア構成員と明らかに判劉できる人名についての分析を行い
たい。
園閣議はタイプ(三)の碑文に見られるコレギア名を分類し整理したものである。タ
イプ(三)の碑文の総数は六三例であるが、岡一のコレギアが複数の碑文に表れている
事例もあるため、この表における総数は五九例となっている。分類に関しては、[園旧]・
[困扁山(タイプ(一)・(二)の名称分類)と同様である。園丁]・圏山と比べてみると、名称
の幹となる部分のみのコレギアの割合が一〇%と少ない値になっている。これは、幹と
なる名称を持たないコレギアがタイプ(三)において半数以上を占めるためである。そ
のほとんどは、構成員を表す底意の複数形が名称となっているコレギアである。墓地を
示す碑文に記すには、そのような表記が好まれたのかもしれないが、はっきりしたこと
20 (504)
-
葬送活動からみたコレギア(佐野)
1表孤 タイプ(三)の墓碑における構成員の人名の分析
(A)家族名の言語系統(総数:338名)
ラテン系 ギリシア系 不明・その他
家族名の系統 208 115 15
(B>H.Solin(1996)における同一奴隷名の事例数(系統が判明した325名の内)
10例以上 ユ0例未満 なし
奴隷名の事例数 191 97 37
(C)身分指標の有無(総数:338名)
dec. 市民(?) aug・ 解放奴隷 奴隷(?) なし
身分指標 2 16 10 43 1 266
*dec.は都市参事会員の略記。(?)が付いている項目は、確定はできないが、その身分であると
碑文を補読できる可能性の商いものが含まれる。
(D)構成員の性別(系統が判明した325名の内)
男性 女性
性 284 41
は分からない。いずれにせよ、大きな偏りもなく全体に分散
する傾向は変わらない。
次に、人名の分析結果は園圃のとおりである。(A)につ
いて、総数は三三八名であるが、そのうち一~五名がギリシ
ア系の家族名を持つ。また、奴隷に特徴的と思われる家族名
を持っているのが一九一名(そのうちラテン系~一七名、ギリ
シア系七四名)確認される。これらの割合は、[國酬山・田酬山
(タイプ(一)・(二)の場合)の分析結果とほぼ同じである。
一方、身分指標が記されている事例をみると、二名の都市参
事会員と一〇名のアウグスタレスが含まれる。アウグスタレ
スの人数がやや多いが、これらは同一のコレギアに所属して
⑤
いるので、タイプ(三)のコレギアに特徴的というよりは、
このコレギアの特徴であると考えるべきだろう。他には、市
民や解放奴隷、奴隷であることを示す例が見られるが、やは
り多くは身分指標を有していない。これらのことから、構成
員の出自についても園丁]・囹の分析において考察したの
と同様のものを想定してよいと思われる。
21 (505)
-
①Q9<H讐逡8・
②煙喧息ミミ鱒。。(巳09も.おΦ(結O).なお、一ペースー1三〇・四八㎝で
ある。
③率いくる①Oω…8w<bおN多肉レΦc。メ薩ω「なお、一平方ベース薩
約○・〇九平方メートル。
④8▼<押ミ①卜、介Q摺く押ω8卜。O-ω腿8卜。.
⑤導勘§喧ゴ<H戸鳶卜。膳■なお、このコレギアに関しては、ζ・しUき甲
08増P空。Φ8帥80ヨ器梓紳$旨毎8ごΦσq冨ヨ{琶臼p葺。貯ヨ象〇三Φρ
浄ミミ織ミ蹄ミミ、§讐馬§馬きミ§影壁㊤c。ρ唱や爵④-駐①による分析があ
る。
22 (506)
第五章 コレギアの葬送活動に関する会則
最後のタイプ(四)は、これまで、いわゆる「葬儀組合」として言及されてきたコレギアの碑文である。葬送活動を行
うコレギアの、葬送以外の活動を詳しく知ることができるのはほぼこのタイプだけである。したがって、ここでは会則
(}
ウ×)などの文言を中心に検討することで、数量分析ではない側面からコレギア像の肉付けを行うことを目的とする。
このタイプには四例のコレギアがある。非常に多くの情報を含んでおり、本来ならば全文に渡って検討していく必要が
あるが、紙幅の都合上、以下では本稿での問題関心に沿って注目すべき点を指摘するにとどめたい。ここで検討するのは
①
「ファミリア・シルウァヌス」と「アエスクラピウスとヒュギアのコレギア」の事例である。
②
最初に、「ファミリア・シルウァヌス」の事例を見る。この碑文は、イタリア中部のレアテ付近で発見された。六〇年
に建立された奉献碑文であるが、この碑文には構成員の一覧が記されているので、まず、従前のとおり人名の分析を行い
たい。
分析結果は園囮のとおりである。リストに記されている人名は七八名だが、それ以外の箇所に三名が記されている。
そのうち一入はリストに含まれているので、総数を八○名とした。その中で、一九名がギリシア系の家族名を持つ。また、
奴隷に特徴的と思われる家族名を持っているのが五三名(そのうちラテン系四五名、ギリシア隠紋名、イリュリァ系一名)確認
される。園馴]・応圏幽・園閻…](タイプ(~)・(二)・(三)の場合)の分析結果と比べて、ややギリシア系の割合が低くなって
-
葬送活動からみたコレギァ(佑野)
いる。このコレギアにおいては、他のコレギア~般と比べて、ラテン系、すなわち、東方からの移住といったような大き
な変化を経験しない人々によって構成されていたのであろうか。
しかしながら、身分指標から考えるとまったく別の面が見えてくる。このリストに見られる人名には他のコレギアでの
人名と違って、比較的多くの人名に自分が所属するトリブス名が記される。トリブスとは簡
)
表四 ファミリア・シルウァヌスの碑文中に見られる構成員の人名の分析
〈A)家族名の言語系統(総数:80名)
ラテン系 ギリシア系 不明・その他
家族名の系統 58 19 3
(B)H,Solin(1996)における同一奴隷名の事例数(系統が判明した78名の内
10例以上 10例朱満 なし
奴隷名の事例数 53 2ユ 4
単に言って、ローマ市罠が市艮として登録される際に、必ず登録されることになっている市
③
民団の下位区分であった。ローマ市民として登録される際にどこのトリブスに登録されるか
ということが、その人物の出自を考える手がかりとなることがある。このコレギアの場合、
二六名にトリブス名が記されているが、コッリナもしくはクイリナとなっている。これら両
④
トリブスは、帝政期には東方出身者が登録されるトリブスとして知られる。このトリブス名
を持つ構成員で、家族名がラテン系であるものを、家族名がギリシア名でトリブス名を持た
ないものと合わせてギリシア系と考えてみると、ギリシア系が四〇名、ラテン系が三七名と
なるのである。
続いて会則を検討する。
「 ファミリア・シルウァヌスの会則
……祝祭日には、誰も言い争いや喧嘩などをせぬように。そして、部外者をその日に招き入れ
ぬように。そのようなことがなされれば、(罰金として)二〇セステルティウス支払う義務を負
うQ
会員のうちで、誰か亡くなるものが出た場合には、一人当たり八セステルティウスずつ供出す
るように。(その際)何人も、デクマヌスに三日以上遅れて支払ってはならない。遅延した場合、
23 (507)
-
あるいは、葬列に正当な理由なく参加しなかった場合には二〇セステルティウス支払う義務を負う。
亡くなった者の(葬儀などの)世話は、彼の(所属する)デクリアの会員たちが行うこと。もし、そうなされなければ}○セス
テルティウス支払う義務を負う。……」
まず、祝祭日についての記述に注目すると、そこに構成員以外を招いてはならないとされている。構成員同士の親密な空
間に部外者を招き入れないということは、すなわち、内部の親密さと外部への閉鎖性を端的に表していると言えよう。タ
イプ(三)においても指摘したが、コレギアにおいては従来から指摘されている構成員同士の親密な交際に加えて、外部
への閉鎖性を志向するという特徴があると言えるだろう。また、続く段落では葬送活動についての規則が記され、葬儀に
参加しない構成員や仲間の葬儀の世話をしない構成員に対して罰則規定を設けている。ここからは、このコレギアが葬送
活動を主要な活動として重視していた姿をみてとれよう。
⑤
次に検討するのは、「アエスクラピウスとヒユギアのコレギア」の碑文である。この碑文はローマ市から発見されたも
ので、このコレギアがある人物から贈与を受けることが記され、それに関して会則が決められている。 五三年に決めら
れたことが分かるが、このコレギアの結成はその少し前であったと考えて問題ないだろう。
「 アエスクラピウスとヒュギアのコレギアの会則
……同様にマルケッリナは、上記のコレギアへ寄贈した。すなわち、合わせて六〇人の会員たちに、以下の条件の下で、五万セ
ステルティウスを贈った。上記の人数以上の会員を入会させないこと。亡くなった会員には墓地が用立てられること。あるいは、
墓地を息子、兄弟、もしくは解放奴隷に用意したい者があれば、その費用の半分を我々の金庫から支払うこと。その寄付金を別の
図的に用いることを欲しないこと。そして、その寄付金の利子を元にして、下記の日々には、会堂に大勢で集まること。」
省略した冒頭部分において、マルケッリナという女性が、亡き夫を顕彰し記憶することを目的としてコレギアに建物や
土地を寄贈している。続いて金銭を寄贈するが、そこに見られる条件が興味深い。寄贈の条件として示されたのは、まず、
24 (508)
-
葬送活動からみたコレギァ(佐野)
会員数を拡大させないことである。このような碑文が掲げられていたのだから、このコレギアの存在を人々が知る機会は
多かったであろう。それにもかかわらず、その数を増やさないようにするということは、繰り返しになるが、タイプ
(三)や「ファミリア・シルウァヌス」の事例で指摘したように、外部に対する閉鎖性を示している。もちろん、会員が
増加しコレギアの運営が経済的に困難になることがその理由とも考えられよう。しかしながら、会員数を制限する一方で、
構成員の家族や解放奴隷に対して葬送の世話を引き受けてもいる。仮に、会員数の制限が経済的な理由だけだとすれば、
当然その家族や解放奴隷に対する世話に関しても制限をかけておく必要があろう。それが見られないということは、会員
数の制限がコレギアの破綻を未然に防ごうとする意図によるものだけであったとは断言できないことになる。したがって、
外部に対する閉鎖性と、構成員の家族や解放奴隷も含んだ、コレギア内部での親密さをここでも指摘できる。
「……同様に(次のことが同意された)。二月二二日、カリスティア祭の日に、マルス神殿近くの会堂にて、スポルトゥラ、パン、
ワインを上記=月四日の場合と同じように分配すること。
……同様に(次のことが同意された)。五月一皿日、すなわちバラの日に会堂に集まった会員たちにスポルトゥラが、ワインとパ
ンとともに、上記の日々と同じように、分配されること。上記いずれの日々においても、会合において全会一致で採択された条件
の下で、分配される。[続いて還くの町にいるものや慢性疾患のためにこられない者をのぞいて、会堂に集まらない者には、分配
しない、という趣旨の条件が示される]。……」
さらに、宴会の日程が記されていく。この宴会の日取りには興味深い傾向が見られる。カリスティア祭、バラの日とあ
⑥
るが、これらはいずれも家族・親族との関連が深い祝祭日である。まず、カリステイア祭であるが、これは二月=二日か
ら二一日にかけて行われるパレンタリア祭に続いて行われるものである。パレンタリア祭とは、個々の家族がそれぞれの
先祖の霊を弔うための祭りである。それに続いて行われるカリスティア祭は、家族・親族が食事をともにし、その絆を確
かめ合うための祭り。そして、五月=日のバラの日は、五月九日から=二日にかけて行われるレムリア祭の期間中であ
25 (509)
-
る。レムリア祭は先祖の霊を弔うという点ではパレンタリア祭と共通するが、ここに現れる霊は生者を死者の世界へと連
れ去ろうとする霊である。真夜中に豆をまいて、生者の身代わりとする風習があった。これらはいずれも、本来家族・親
⑦
族と過ごすべき時であり、それをコレギアの構成員で集まって過ごそうというのである。果たして、構成員にとってコレ
ギアとはいかなる意味を持つものであったのであろうか。最後に、ここまで行ってきた分析を総括し、また、その結果が
ローマ社会においていかなる意味を持つのか、展望を示したい。
26 (510)
①「ディアナとアンティノウスの礼拝簸たち」は、すでに諸所で検討
され、論点は出尽くした観がある。ゆえに、本稿では直接の考察対象
としなかった。邦訳・英訳は、以下を参照のこと。K・ホプキンス
『古代ローマ人と死』高木・永都訳、晃洋書房、一九九六年、八八一
九〇頁、R・L・ウィルケン『ローマ人が見たキリスト教隔~二小田・
松本ほか訳、ヨルダン祉、【九八七年、七一一四頁、坂口「葬儀組
ムロ」(第一章 い圧 山ハ)。属.ピ㊦妻δ庫竃■幻蝕p70一畠甲沁。ミ織謡∩㌶鼠職酸ミ貯斜
きミ融ぽ簿自.、書肉蔦男望瓢Φ≦鴫。身理り①①冒署b話-雪㎝し㌔》・ω訂一8詞
輸§肉§斜誠bミ職き浸§い8ミ禺肉§§象§N§§g卜。.計ρ○×{。a
卸累Φ謹くoHぎおOG。響庖.O①めG。9
門ユピテル・ケルネヌスのコレギア」は、あるコレギアがその活動
を停止させたことを周知させるための碑文である。これ自体は非常に
興味深いケースであるが、本稿において特に指摘すべき点は見当たら
ないため、こちらも考察対象から外した。客囲①鼠ω摂家9円蝕導99
§■ら餅悪.卜。刈①幽ミに英訳がある。
なお、同.竃.〉霧び葺叶Φ四竃■鼠卜(第一章P一㊤γ署.①9①刈には「ファ
ミリア・シルウァヌス」の碑文の独語訳があり、H㌔ζ.閏げヨび霞P
犀伽日Φ艮ω唱。葭琶①窓讐oo訂{冒響9曾㊥諭一四臼。菖匹きω冨。・oごωω霧
勺8三叢雨Φ。。臼国m導出ヨ℃一「Φ”》暴ぞ白。Φ曾び巳αqΦ&Φρ器5¢のω8まσqΦω
{唐Φ鎚騨Φω鳥①菊。日Φ簿臼緊聾ρ男霞霊H恥(巴.アト匙§ミこ禽§ミ騎鴨琳誉黛-
要義§還流ミ§輝き§織賞O器P一り。。メ℃唱.卜。O㊤山田には、四例全てに
対する仏語訳がある。それぞれ本文での訳出にあたって適宜参照した。
②出銅冨8vδド
③さしあたり、砂田徹「都市トリブスとローマ市罠団の周縁」噸西洋
史論集瞼六、二〇〇三年、一一三二頁を参照のこと。
④例えば、○亀甲ω.く■二目ω(9諺.認。ヨ琶下山。卸6藁・○。舅Φε…ピ.
即日騨覧。び§恥ぎ§oqb蹄肺蔦駐駄暮鴨沁。§§肉愚さ勘らり円。日ro㍉8ρ署■
一鼻刈1一心9
⑤自甲≦し8ω野
⑥家族に関係する祝祭全般についてはU.℃.欝善。P帰冨評巨ζ