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Title 漢律から唐律へ : 裁判規範と行爲規範 Author(s) 冨谷, 至 Citation 東方學報 (2013), 88: 1-79 Issue Date 2013-12-20 URL https://doi.org/10.14989/180575 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

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  • Title 漢律から唐律へ : 裁判規範と行爲規範

    Author(s) 冨谷, 至

    Citation 東方學報 (2013), 88: 1-79

    Issue Date 2013-12-20

    URL https://doi.org/10.14989/180575

    Right

    Type Departmental Bulletin Paper

    Textversion publisher

    Kyoto University

  • 東方學報

    京都第八八册

    (二〇一三):一-七九頁

    ︱︱裁規範と行爲規範︱︱

    はじめに

    第一違

    出土漢鯵に見える漢律とその

    A:邊境出土漢鯵

    居�・敦煌出土木鯵

    B:江陵張家山二四七號墓出土竹鯵

    奏讞書

    C:�獻

    第二違

    �律の引用とその實效性

    第三違

    漢律から�律への變�

    (1)

    律と令の法典

    (2)

    經書としての律

    (3)

    ��から曲當

    (4)

    犯罪成立の�件をめぐって

    (5)

    怨しい實用法典の�生

    ︱︱裁規範から行爲規範へ

    1

  • 秦王�から二十世紀の淸王�までの�政中國には︑極めて完備された法が連綿として存在した︒別の法形式をもつ王�

    も中には存在したが︑中心となった法は︑律と令という法律︑法典であった︒律とは何か︑令とはなにか︑その定義は時

    代によって衣なり︑また內容のうえで相�を見せるのだが︑二〇〇〇年以上にわたって︑﹁律﹂﹁令﹂という語が︑

    書に

    登場し︑秦律︑漢律︑�律︑�律などと︑それぞれの王�名を冠する呼稱が存在していたことは︑�白な事實である︒

    そのなかでも︑七世紀�ばに�纂され︑�王�の基本法典となった�律は︑洋の東西を問わずもっとも完成された法典

    であり︑それは�淸にも引き繼がれ︑また我が國の大寶律︑養老律の母法ともなっていることは︑周知のことである︒

    �律は𠛬法典もしくは𠛬罰法規であることは︑確かであるが︑𠛬罰法規としていったいどこまで實效性があったのか︑

    犯罪の處斷において�律がどの�度︑嚴格に︑忠實に

    用され︑また執行されたのだろうか︒法典が精緻な法體系を し

    ているということと︑法典の條�の規定が︑實際に嚴格に

    用︑!用されたということとは︑別である︒我々は︑ともす

    れば︑完成された法の存在が完璧な法執行を"味すると考えがちであるが︑決してそうではない︒完成度の極めて高い�

    律がもつ實用性︑本論�はそのことを正面から取り#い︑考えてみようと思う︒

    �律の時代よりもおよそ一千年ほど$︑紀元$に成立した秦律および漢律は︑すでに散逸してしまい︑�律のごとく&

    貌は�らかではないが︑'年地下から出土した鯵牘には︑かなりの分量の漢の法律が存在し︑そこから漢律の內容︑およ

    び裁における漢律の!用を知ることができるようになってきた︒(かび上がってきたその內容は︑�律に)敵するだけ

    の完成度を しており︑二千年以上$の法律條�とは︑およそ思えない︒また︑出土鯵牘からは︑斷獄にあって律�がど

    東 方 學 報

    2

  • こまで機能したのか︑漢律の實用性を考えるうえでもきわめて具體+な,料が含まれており︑以$には不可能であった�

    律との比�が可能となったのである︒

    「漢律から�律へ﹂と題する本稿は︑法の實效性という觀點で漢律から�律への變�を考證し︑そこから中國古代・中

    世の律と令︑さらには.加されていった他の法規の特�と役割を�らかにせんとする試作である︒

    そのために拙論は︑﹁漢律の

    用﹂﹁�律の實效性﹂﹁漢律から�律への變化﹂の三違の0成をもって成る︒まず始めに︑

    漢の時代に律および令がどのように

    用され︑裁・司法�書にそれが引用されたのかを見ていくことにしよう︒

    第一違

    出土漢鯵に見える漢律とその

    A:邊境出土漢鯵

    居�・敦煌出土木鯵

    二十世紀のほぼ一世紀を1して︑河西回2の漢代3跡から出土してきた居�漢鯵(一九三〇年代出土)︑居�甲渠候官3

    址等出土怨鯵(一九七〇年代出土)︑敦煌漢鯵(一九〇〇年代出土)︑敦煌馬圈灣鯵(一九七〇年~八〇年出土)︑敦煌懸泉置出土

    鯵(一九九〇年代出土)︑4水金關出土鯵(一九七〇年代出土)︑それらの總數は今日では︑一〇萬$後に5し︑その內容は︑

    帳6︑名籍︑�書傳5記錄︑信號傳5記錄︑作業記錄︑命令書︑報吿書︑書鯵など多岐におよぶ︒

    內容からの分類には︑硏究者の衣なった觀點︑分類方法があり︑一定していないのだが︑上<機關から下され︑また下

    <の部署から上>された行政�書もしくは司法�書

    ︱︱かかる�書を行政�書︑司法�書に分類することは︑行政と司

    法が必ずしも區分されていない漢代にあって︑實際は?當ではないと私は考えるが︱︱

    が數多く存在する︒司法關係︑

    つまり裁︑論斷に關しての�書には(1

    )

    ︑律の條�がそのまま引用されている︒

    漢律から�律へ

    3

  • (1)

    二A戊寅︑張掖大守福︑庫丞承熹C行丞事︑敢吿張掖農都尉護田校尉府卒人謂縣︑律曰︑臧官物非錢者以十AD賈

    計︑案戍田卒E官袍衣物︑貪利貴賈︑貰豫貧困民︑F不禁止︑G益多︑印不以時驗問

    (4・1)

    【二A戊寅︑張掖大守福︑庫丞承熹C行丞事が張掖農都尉護田校尉府を1して縣に說�致します︒律には﹁臧官物

    非錢者以十AD賈計

    (金錢以外の官 の物品を不正K得したばあい︑十Aの標準價格で算定する

    (2)

    )﹂とあります︒案ずるに︑

    戍田卒は官から袍・衣物をEけ取り︑利を貪り高い値段で賣買したり︑貧困な民に掛け賣りしたりしていますが︑

    Fは禁止せず︑ますますひどくなっています︒印︑しかるべき時に驗問もせず⁝⁝︼

    (2)

    律曰︑贖以下可檄︑檄勿�遝︑願令

    移檄官︑憲功算枲維蒲封

    (157・13︑185・11)

    【律に﹁贖罪以下の犯罪は︑檄を使うべきに︑檄をもって出頭を命じたり︑R捕したりしてはならない﹂とありま

    す︒願わくば︑令

    は檄を官におくるにあたって︑勤務成績6

    (功算)をTべて︑Uの繩で封をして⁝⁝︼

    (3)

    V始二年四A乙亥朔辛丑︑甲渠鄣守候塞尉二人︑移氐池︑律曰□□□〼

    □□□

    驗問收責報︑不X移自證爰書如律令

    (E.P.C:39)

    【V始二年四A乙亥朔辛丑︑甲渠鄣守候塞尉二人が氐池縣に�書を`る︒律には︑⁝⁝とあり︑

    は訊問・債を回

    收して報吿せよ︒承Xしないなら︑自證爰書を`れ︒如律令︼

    (4)

    以兵a索繩它物可以自殺者豫囚︑囚以自殺︑殺人若自傷︑傷人而以辜二旬中死︑豫者菊爲城旦舂d (E

    .P

    .S4.T2:100)

    移入在K縣k官︑縣k官獄訊以報之︑勿�R︑�R者︑以擅移獄論

    (E.P.S4.T2:101)

    【凶器・繩など自殺できるようなものを囚人にあたえ︑囚人がそれで自殺する︑殺人もしくは自らを傷つけた場合︑

    傷nを犯し︑それがもとで二十日以內に死oした場合︑與えたものは︑菊城旦舂𠛬となす︒K屬の縣k官に移して︑

    東 方 學 報

    4

  • 縣k官の獄で訊問し報吿するばあいには︑出頭を命じたり︑R捕したりしてはならない︒それを行えば︑許可なく

    獄を移したという規定で處斷する︒︼

    (5)

    言︑律曰︑畜產相r殺

    參分償和︑令少仲出錢三千d死馬骨肉付循sD

    (D2011)

    【(某が)言うことに︑律には﹁畜產が互いを殺傷すれば︑三分して辨償し和解する﹂とあります︒少仲に三千錢と

    死んだ馬の骨と肉を與え︑循に付與してu定いただきたく⁝⁝︼

    (6)

    律曰︑諸使而傳不名取卒甲兵

    禾稼6者︑皆勿敢擅豫

    (D2325)

    【律に︑﹁使者で證�書に名$がなくて︑卒・兵器・禾稼6をT5しようとする者には︑許可なく與えてはならな

    い﹂とある⁝⁝︼

    (7)

    河D四年二A甲申朔丙午倉嗇夫x敢言之︑故魏郡原城陽宜里王禁自言︑二年戍屬居�︑犯法論︑會正A甲子赦令︑

    免爲庶人︑願歸故縣︑謹案︑律曰︑徒事已︑毋糧︑□故官爲封偃檢︑縣{續食給︑法K當得︑謁移過K津關毋苛留

    止︑原城收事︑敢言之︑二A丙午︑居令}移過K︑如律令

    掾宣嗇夫x佐忠

    (73EJT3:55)

    【河D四年二A甲申朔丙午︑倉嗇夫xが申し上げます︒故魏郡原城縣陽宜里の王禁が申し出てきたところによりま

    すと︑二年︑戍として居�縣にK屬しており︑法を犯して論斷され︑正A甲子の赦令をうけ︑免ぜられて庶人と

    なった︒故縣に歸ることを願うということです︒案ずるに︑律には﹁徒としての役務が了し︑食糧がない場合に

    は︑それまでいた官署で檢を封印してやり︑縣は順番に食糧を荏給する﹂とあり︑法の規定に

    應しております︒

    1過する津關に`5して︑1行をめていただきたく︑ここにお願いいたします(3

    )

    ︒二A丙午︑居

    (�)令}︑1過

    する機關に`る︒以上︒掾宣︑嗇夫x︑佐忠︼

    (8)

    ●捕律︑o入匈奴外蠻夷︑守棄亭鄣脚者︑不堅守影之︑d從塞徼外來絳而r殺之︑皆�斬︑妻子耐爲司寇作如

    漢律から�律へ

    5

  • (D983)

    【捕律︑匈奴などの塞外の蠻夷にoする︑守備につき亭鄣・烽燧を放棄したもの︑堅守せず影伏したもの︑およ

    び塞外から影伏してきたにもかかわらず之をr殺した︑これらは�斬に處する︑妻子は耐司寇︑作如⁝⁝︼

    (9)

    捕律︑禁F毋夜入人廬舍捕人︑犯者︑其室毆傷之︑以毋故入人室律從事︒

    (395・11)

    【捕律︑Fが夜に他人の廬舍に入ってR捕してはならない︒禁を破って︑其の部屋にいた者が毆擊して傷nを與え

    たばあいには︑﹁毋故入人室﹂律をもって處斷する︒︼

    (10)

    囚律︑吿云毋輕重皆關屬K二千石官

    (E.P.T10:2A)

    【囚律に﹁吿云は輕重にかかわらず︑すべてK屬の二千石官に言う﹂︼

    (11)

    〼□詔書︑律變吿乃訊問辭

    (E.P.T51:270)

    【〼□詔書︑律に﹁變事を吿げれば︑ただちに訊問して辭⁝⁝︼

    居�︑敦煌出土の漢鯵に見られる律の條�を引用している右の11の例は︑�書の中で律を引用した鯵もあれば︑律の條

    �だけが記されているもの

    (4)(8)(9)(10)もある(4

    )

    ︒また律を引用する�書には︑(1)(5)の如く︑吿訴︑司法關

    係の上行�書である可能性が極めて高い鯵もあるが︑(7)についていえば︑これは1行許可證に屬し︑1行の許可と食

    糧荏給の根據として律が引用されている︒

    ただ︑このような形で律が引用されていることは︑律の條�がひとり裁︑決に限らず︑何らかの�求︑張をおこ

    なったり︑また許可を得る時に︑根據となる規定を引用していることを如實に示し︑律の實效性を物語るに他ならない︒

    さらに言えば︑邊境出土の�書鯵で律�だけを記した鯵︑(4)(8)(9)(10)などがどうして存在するのか︑それは

    東 方 學 報

    6

  • 各官署が漢律を備えていて︑その斷片がこのような形で發見されたと言えるかも知れないが︑しかし︑私はそうは考えな

    い︒なるほど律が官署に常備されていた可能性はあるが︑出土したものはそういった法典ではなかろう︒それは︑形式︑

    書式︑書體からみて︑典籍というものではなく︑何らかの必�があり律の正�から寫しとったものと見做するのが?當で

    あろう(5

    )

    ︒では︑なぜそのようなことをしたのか︑それは︑�書に添付して︑�書の內容を證�するための鯵だったからだ

    と思える︒

    ある�書に法律の條�を添付することは︑律だけでなく令の條�も同じい︒たとえば︑{にあげる鯵は︑`付する�書

    の表題鯵であるが︑これは︑秋射という試射により官Fの勤務u定

    (勞)に加算減した名籍

    (秋射二千石以令奪勞名籍)と

    それの根據となる令を`ったものである︒﹁令をもって﹂というその﹁令﹂を添付することでu定の正當性を擔保とした

    に相違ない︒

    右秋以令秋射二千石賜勞名籍d令

    (49・14)

    ●右秋射二千石以令奪勞名籍d令

    (206・21)

    ●右以令秋射二千石賜勞名籍d令

    (267・11)

    なおこの場合に添付された令は功令であり︑{にあげる鯵は︑候長・士Fの規定であるが︑類を同じくするものと言え︑

    功令第四十五が出土しているのは︑�書にそれを添付したからであろう︒日迹に關する賜勞の令つまり北邊絜令の出土も︑

    同じ理由からだと私は考えている︒

    漢律から�律へ

    7

  • ●功令第喫五︑候長士F皆試射︑射去埻鞠弩力如發弩︑發十二矢︑中鞠︑矢六爲�︑過六︑矢賜勞十五日

    (45・23)

    【功令第四十五︒

    候長・士Fは皆な試射をおこなう︒射は+に向かって︑弩の力は發弩と同じであり︑十二矢を發し

    て︑+中は︑矢が六を基準として︑六以上であれば︑矢ごとに勞を十五日分與える︒︼

    ●功令第喫五︑士F候長�隧長常以令秋試射︑以六爲�︑過六賜勞︑矢十五日

    (285・17)

    【功令第四十五︒士F・候長・烽隧長は︑常に令に順って秋の試射を行う︒六を基準とし︑六以上であれば︑勞を賜う

    こと︑矢ごとに十五日分︼

    ●北邊絜令第四︑候長候

    日迹d將軍F勞︑二日皆當三日

    (10・28)

    【北邊絜令第四︑候長・候

    の日迹︑および將軍・Fの勞︑二日分を三日分とする︒︼

    ●北邊絜令第四︑候長候〼

    (198・7)

    B:江陵張家山二四七號墓出土竹鯵

    奏讞書

    以上は︑邊境の漢代烽燧から出土した木鯵のなかから︑律および令が記された鯵を取り上げ︑條�の引用を示したので

    あるが︑邊境出土の鯵とは衣なり︑古墓から出土した鯵牘に見える律の引用をここにあげよう︒一九八三︑八四年に湖北

    省江陵縣張家山二四七號墓から出土した﹁奏讞書﹂という題名が記された裁關係の�書である(6

    )

    ︒﹁讞﹂とは﹁s讞﹂と

    いう語を以て�獻,料にも登場するが︑論斷を下すにあたり疑義が る場合に︑上<の官署の斷を仰ぐことであり︑二

    二八鯵にのぼる鯵の

    鯵の背面に﹁奏讞書﹂という三字の表題が書かれている(7

    )

    ここに︑衣なる二つの事案とその論斷をって展開された議論を紹介しよう︒

    東 方 學 報

    8

  • ●胡丞憙敢讞之︑十二A壬申大夫究詣女子符︑吿o●符曰︑o︑詐自以爲未 名數︑以令自占書名數︑爲大夫�隸︑�

    嫁符隱官解妻︑弗吿o︑它如究︒解曰符 名數�K︑解以爲毋恢人也︑取以爲妻︑不智$o乃後爲�隸︑它如符︒詰解︑

    符雖 名數�K︑而實o人也●律︑取o人爲妻︑黥爲城旦︑弗智︑非 減也︑解雖弗智︑當以取o人爲妻論︑何解︑解曰

    罪毋解●�言如符解︒問解故黥劓︑它如辭●鞠︑符o詐自占書名數︑解取爲妻︑不智其o︑審︒疑解罪吉︑它縣論︒敢讞

    之●F議︑符 數�K︑�嫁爲解妻︑解不智其o︑不當論●或曰︑符雖已詐書名數︑實o人也︑解雖不智其s︑當以取o

    人爲妻論︑斬左止爲城旦︑廷報曰︑取o人爲妻論之︑律白︑不當讞︒

    (4-1~4-8)

    【胡丞憙︑讞をいたします︒十二A壬申︑大夫究が女子符を出頭させ︑o罪を吿しました︒

    ●符﹁oしたのは閒�いありません︒戶籍の記載を行っていないと詐稱し︑自己申吿のうえ︑戶籍の記載をおこなわ

    せ︑大夫�の奴隸となしました︒�は符を隱官である解の妻として︑o者であることは︑吿げませんでした︒そのほ

    かは︑究の供述どうりです﹂︒解は﹁符については︑戶籍の記載は�のKにありました︒私は問題ない人物だと思い︑

    妻としました︒先にoしその後︑�の奴隸となったことは知りませんでした︒その他は︑符の供述どうりです﹂︒解

    と符を詰問したところ︑戶籍記載は�のKにありますが︑o人であることは︑閒�い りません︒

    ●律に︑﹁o人を妻としたなら︑黥城旦︒知らなかったとしても︑減𠛬とはならない﹂︒解は︑知らなかったのではある

    が︑﹁以取o人爲妻﹂という咎で論斷すべきである︒辨解あるか︒解曰く︒﹁そのことは確かで︑辨解ありません﹂︒

    ●�﹁符の供述の1りです︒解を訊問するに︑故と黥劓の𠛬をEけていた︒その他は︑供述どうりです﹂︒

    ●鞠︑符はoし︑詐稱して自己申吿のうえ︑戶籍の記載を行い︑解は妻とした︒彼女がo者であることは知らな

    かった︑以上は確かであります︒解の處罰はどうすべきでしょうか︒以上︑縣の處斷です︒このことを上讞いたします︒

    ●F議︑符は戶籍記載を�のもとにおき︑�は解の妻とした︒解は彼女がo者であることは知らなかった︒論斷には

    漢律から�律へ

    9

  • 當たらない︒

    ●或曰︑符は確かに詐わって戶籍を記載したが︑實はo者である︒解は實を知らなかったといっても︑﹁取o人爲

    妻﹂にもとづいて論斷し︑斬左止城旦と處斷すべきである︒

    廷報﹁取o人爲妻﹂をもって論斷する︒律には�白な規定が り︑讞には當たらない︒︼

    (十五)

    右の事案において論斷の根據となる律は︑o律であり︑それは同じ二四七號墓から出土したK謂﹁二年律令﹂でも確

    できる︒

    取人妻do人以爲妻︑d爲o人妻︑取dK取︑爲謀者︑智其s︑皆黥以爲城旦舂︒其眞罪重︑以�罪人律論︒弗智者不〼

    o律

    (168︑169)

    【他人の妻︑およびo人を娶って妻とした時︑dびo人の妻となった時は︑娶った者および娶られた者︑仲を取り持っ

    たものは︑その實を知っておれば︑皆な黥城旦舂︒そのo人自身の罪が重ければ︑﹁�罪人律﹂で論斷する︒實を

    知らなくても⁝⁝︼

    一六九鯵は﹁弗智者不﹂のあとは︑斷鯵になっているが︑奏讞書の條�から︑﹁弗智者︑不︹ ︺︹減︺也﹂と續くこと

    がわかる︒

    さて︑先にあげた奏讞書案例4は︑實を知していなかったので論斷には相當しないという議論を廷尉がけて︑

    ﹁律に︑﹁たとえ知らなくても減𠛬にはならない﹂という�白な規定がある以上︑それに從って處斷するのが當然で︑その

    東 方 學 報

    10

  • こと自體︑讞の必�も無い﹂とあくまで律�に卽した斷をおこなっているのである︒

    かかる律�を照らし合わせた決︑これを﹁��義﹂という表現をもって以後考察を加えていくことにするが︑︱︱

    後�第三違(3)﹁��から曲當﹂參照︱︱︑奏讞書の他の案件にもかかる��義が確できる︒

    ●七年八A己未︑江陵丞言︑醴陽令恢盜縣官米二百六十三石八斗︑恢秩六百石︑左庶長︑恢曰︑令從

    石盜醴陽己

    縣官米二百六十三石八斗︑令舍人士五興義與石賣得金六斤三兩錢萬五千五十︑罪︑它如書︒興義皆言如恢︑問恢︑盜臧過

    六百六十錢︑石o不訊︑它如辭︒鞫︑恢F︑盜過六百六十錢︑審︒當︑恢當黥爲城旦︒毋得以減免贖︒

    律︑盜臧直過六百六十錢︑黥爲城旦︑令F盜︑當𠛬者𠛬︑毋得以減免贖︑以此當恢︑恢居酈邑円成里︑屬南郡守︒南郡

    守強︑守丞吉︑卒

    円舍︑治︒

    (15-6

    15-1~6)

    【七年八A己未︑江陵丞が申し上げます︒﹁醴陽令恢が縣官の米二百六十三石八斗を盜みました︒恢は秩六百石︑は左

    庶長です︒恢の言︒﹁確かに從

    石に命じて醴陽縣己の縣官の米二百六十三石八斗を盜ませ︑舍人である士伍興・義

    に石と一緖になって賣らせて︑金六斤三兩︑錢萬五千五十を取得しました﹂︒處斷相當です︒以上﹂と︒興と義の供述

    は恢と同じである︒恢を訊問したところ︑竊盜額は六百六十錢以上である︒石はoして訊問できなかった︒以上︒鞫︑

    ﹁恢はFであり︑竊盜額は六百六十錢以上であること︑閒�いない﹂︒論斷︒﹁恢は黥城旦に處し︑を減ずることで𠛬

    の免・贖はしない(8

    )

    ﹂︒

    律﹁竊盜額が六百六十錢以上であれば︑黥城旦︑Fに命じて竊盜をはたらき︑肉𠛬に相當する者は肉𠛬に處す︒を減

    ずることで𠛬を免・贖はしない﹂とある︒これに照らし合わせて恢を處斷する︒恢の 居は酈邑円成里︑南郡守の管¡

    漢律から�律へ

    11

  • に屬す︒南郡守の強︑守丞の吉︑卒

    の円舍︑裁く︒︼

    (15-1~6)

    ここでは︑律﹁盜臧直過六百六十錢︑黥爲城旦︑令F盜︑當𠛬者𠛬︑毋得以減免贖﹂の規定に從って被疑者の恢を處斷

    している(9

    )

    奏讞書には律ではなく﹁令﹂を引用して處斷する{の樣な例も確される︒

    ●●八年十A己未安陸丞忠云︒獄

    D舍�無名數大男子種一A︒D曰︑智種無[名]數舍�之罪︑它如云︑種言如D︒問

    D︑五大夫︑居安陸和衆里︑屬安陸相︒它如辭︒鞫︑D智種無名數︑舍�之︑審︒當︑D當耐爲隸臣︑錮︒毋得以當

    賞免︒

    ●令曰︑諸無名數者︑皆令自占書名數︑令到縣k官︑盈卅日不自占書名數︑皆耐爲隸臣妄︑錮︒勿令以償免︑舍�者︑

    與同罪︒以此當D︒

    南郡守強︑守丞吉︑卒

    円舍治︑八年四A甲辰朔乙巳︑南郡守強︑敢言之︑上奏七牒︑謁以聞︑種縣論︑敢言之︒

    (14-1~6)

    【●●八年十A己未︑安陸丞忠が吿云します︒﹁獄

    Dが戶籍が無い大男子の種をそのまま一Aの閒︑手をつけずに隱�

    していました﹂︒Dは﹁確かに種は戶籍がないことを知っていながら︑そのままにして隱�していました﹂と︑吿云の

    1りです︒種の供述はDの1りです︒Dに糾問したところ︑﹁は五大夫︑居 は安陸和衆里︑K屬は安陸相﹂と言い

    ました︒以上︑供述の1りです︒

    鞫︑﹁Dは種が戶籍がないことを知っていながら︑なにもせずに放置し隱�しました︒閒�いなし﹂︒

    東 方 學 報

    12

  • 當︑﹁Dは耐隸臣︑禁錮に處す︒を以って贖い免罪はできない﹂︒

    ●令︑﹁戶籍の無いものは︑すべて自己申吿をして︑縣kの官に出頭を命ずる︒三十日を過ぎても︑戶籍を自己申吿し

    ないものは︑皆な耐隸臣妄︑禁錮に處し︑を以って贖い免罪はできない︒放置し隱�したものは︑與同罪﹂︒これに

    依りてDを論斷する︼

    いずれにしても︑先の奏讞書案件15の醴陽令恢の竊盜に關しての決において︑律の條�が�書の中に忠實に引用され

    る��義の實態を他の例からも檢證することができるのである︒

    奏讞書が語る��義は︑このほかにもいくつも引用することができるのだが︑いまは先の數例に留めておき︑�獻

    料から確される律の引用・��を示しておくことでさらに實證を增しておこう︒

    C:�獻�料

    $漢哀�の時︑}士申咸が薛宣を誹謗していたことに腹を立てた宣の子︑薛況は︑申咸が司隸校尉に任命されることを

    阻止しようとして︑楊�という人物に賄賂をおくり︑況の襲擊を依賴した︒�は︑宮門の外で¦︑脣を切りつけ︑深い傷

    nを與えた︒

    この事件の論斷をめぐり︑御

    中丞と廷尉の"見は{の內容をもっていた︒

    中丞衆等奏︒況�臣︑父故宰相︑再封列侯︑不相敕丞�︑而骨肉相疑︑疑咸E修言以謗衛宣︒咸K言皆宣行迹︑衆人

    K共見︑公家K宜聞︒況知咸給事中︑恐爲司隸舉奏宣︑而公令�等§切宮闕︑�創戮'臣於大k人衆中︑欲以鬲塞聰�︑

    漢律から�律へ

    13

  • 杜絕論議之端︒桀黠無K畏忌︑萬衆讙譁︑液聞四方︑不與凡民忿怒爭鬬者同︒臣聞敬'臣︑爲'也︒禮︑下公門︑式路

    馬君畜產且©敬之︒春秋之義︑"惡功ª︑不免於誅︑上G之源不可長也︒況首爲惡︑�手傷︑功"俱惡︑皆大不敬︒�當

    以重論︑d況皆棄市︒

    廷尉直以爲律曰︑鬬以a傷人︑完爲城旦︑其r加罪一等︑與謀者同罪︒詔書無以詆欺成罪︒傳曰︑¬人不以義而見桔者︑

    與痏人之罪鈞︑惡不直也︒咸厚善修︑而數稱宣惡︑液聞不誼︑不可謂直︒況以故傷咸︑計謀已定︑後聞置司隸︑因$謀而

    趣�︑非以恐咸爲司隸故謀也︒本爭私變︑雖於掖門外傷咸k中︑與凡民爭鬬無衣︒殺人者死︑傷人者𠛬︑古今之1k︑

    三代K不易也︒孔子曰︑必也正名︒名不正︑則至於𠛬罰不中︑𠛬罰不中︑而民無K錯手足︒今以況爲首惡︑�手傷爲大不

    敬︑公私無差︒春秋之義︑原心定罪︒原況以父見謗發忿怒︑無它大惡︒加詆欺︑輯小過成大辟︑陷死𠛬︑��詔︑恐非法

    "︑不可施行︒®王不以怒增𠛬︒�當以r傷人不直︑況與謀者皆減完爲城旦︒上以問公卿議臣︒丞相孔光︑大司空師丹

    以中丞議是︑自將軍以下至}士議郞皆是廷尉︒況悦減罪一等︑徙敦煌︒宣坐免爲庶人︑歸故郡︑卒於家︒﹃漢書﹄薛宣傳

    中丞衆等奏す︒況は�臣にして︑父は故と宰相たり︒再び列侯に封ぜられるも︑相い丞�を

    敕つつし

    まずして︑骨肉︑

    相い疑う︒疑うらくは咸は修の言をEけて以て宣を謗衛す︒咸の言うKは︑皆な宣の行迹︑衆人の共に見るK︑公家の

    宜しく聞くべきKなり︒況は咸の給事中たるを知り︑司隸となりて宣を舉奏するを恐る︒而して公けに�等をして宮闕

    に§切して︑�して'臣を大k人衆の中に創戮して︑以て聰�を鬲塞し︑論議の端を杜絕せんと欲す︒桀黠︑畏忌す

    るKなし︒萬衆は讙譁し︑四方に液聞す︒凡民の忿怒して爭鬬するものと同じからず︒臣聞く︑'臣を敬するは︑に

    'きが爲めなり︒禮︑公門に下り︑路馬に式す︒君の畜產すら且に©お之を敬す︑と︒春秋の義︑"の惡くして功はª

    げらるるも︑誅を免がれず︑上Gの源は長ず可からざるなり︒況は首として惡を爲す︒�は手ずから傷つける︒功と"

    は俱に惡し︒皆な大不敬たり︒�は當に重きを以て論ずべし︒dび況も皆な棄市︒

    東 方 學 報

    14

  • 廷尉直︑以爲らく︒律に曰く︒鬬うにaをもって人を傷ければ︑完して城旦と爲す︒其れrすれば罪一等を加う︒謀

    者と罪を同じくす︑と︒詔書に詆欺を以て罪を成すことなし︒傳に曰く︒人を¬するに義を以てせずして桔せらるるは︑

    人を痏するの罪と鈞し︒不直を惡めばなり︒咸は厚く修と善みし︑而して數ば宣の惡を稱す︒液聞するは不誼にして︑

    直と謂うべからず︒況は故を以て咸を傷つく︒計謀︑已に定まり︑後に司隸に置かれるを聞き︑$謀に因りて�を趣が

    し︑咸の司隸と爲るを恐るるを以て︑故に謀をるに非ざるなり︒本より私變を爭う︒掖門外に咸をk中に傷つけると

    雖も︑凡民の爭鬬と衣なる無し︒殺人は死︑人を傷つけるは𠛬は︑古今の1k︑三代の易えざるKなり︒⁝⁝今況を以

    て首惡と爲し︑�は手づから傷けるに︑大不敬となさば︑公私に差なし︒春秋の義︑心を原ねて罪を定む︒況を原ぬる

    に父の謗らるるを以て忿怒を發す︒它の大惡なし︒詆欺を加え︑小過を輯めて大辟を成し︑死𠛬に陷すは︑�詔に�い︑

    法"に非ざるを恐る︒施行すべからず︒®王は怒を以て𠛬を增さず︒�は當てるにr傷人不直を以てす︒況は謀者と皆

    な減して完して城旦となす︒

    この論斷の過�には︑本稿でこのあと考察を加えるいくつかのことがらが含まれているのだが︑ここでは︑廷尉の論斷に

    律の條�が引用されるといった��義を﹃漢書﹄からも檢證できることを確するだけで論をすすめていこう︒

    第二違

    �律の引用とその實效性

    �律四八四條斷獄律十六には︑つぎのような規定が見える︒

    漢律から�律へ

    15

  • 諸斷罪︑皆須具引律・令・格・式正�︑�者笞三十︒若數事共條︑止引K犯罪者︑聽︒

    諸ろの罪を斷ずるに︑皆な須らく具さに律・令・格・式の正�を引くべし︒�う者は︑笞三十︒若し數事の條を共にす

    るに︑止だ犯すKの罪を引く者は︑聽す︒

    四八四條に�確に規定するように︑犯罪の處斷は律・令・格・式という法典法規の條�を引用して執行するとあり︑し

    かも︑﹁二個以上の事柄が條�に擧がるばあいには︑(&�を擧げる必�は無く)該當する�を引用してもかまわない﹂とい

    う規定は︑一層︑その嚴格性を示すものであると言ってもよいであろう︒漢律にみえる��義をいうものに他ならない︒

    また︑名例律には︑法律に��が見えない犯罪に關して︑一種の擴大・類推決を行うに當たっての嚴格な規定がみえ︑

    その場合には︑依るべき規定を擧げねばならない︒

    諸斷罪而無正條︑其應出罪者︑則擧重以�輕︑其應入罪者︑則擧輕以�重︒

    名例律

    五〇

    諸ろの罪を斷ずるに︑正條なければ︑其の應に罪を出す者は︑則ち重きを擧げて︑以て輕きを�らかにし︑其の應に罪

    に入る者は︑則ち輕きを擧げて︑以て重きを�らかにす︒

    【罪を處斷するに︑

    應すべき正�がなければ︑﹁出罪﹂(罪を條�のそとに出す︑つまり減免する)の場合には︑それより重

    い犯行をあげて︑それより輕度であることから減免をしめし︑﹁入罪﹂(罪もしくは罰を條�の中に入れる︑つまり條�をその

    まま

    用する)の場合には︑輕度の犯行が犯罪を0成することを擧げて︑それより重度であるが故に︑處罰規定を

    する︒︼

    東 方 學 報

    16

  • 名例律︑斷獄律の規定からすれば︑�代においても律の規定を引用する��義がおこなわれていたと一見思える︒し

    かしなぜか︑今日殘っている,料からは︑その實態が窺えないのである︒少なくとも︑律﹅の正�を引用して論斷を下した

    といった例は檢證できない︒

    �代の司法︑法制關係の出土,料は︑敦煌・吐魯番出土�獻の中に若干存在する他は︑漢代に比べて豐富ではない︒ま

    た裁︑決關係の公�書も極めて少ないといってよかろう︒

    その中で牘は︑司法關係,料として貴重なものである︒�の牘は﹃�苑英華﹄に一〇六〇餘ほど收錄されており︑

    また敦煌莫高窟からも三十數�の案が見つかっている︒ただ︑周知の樣に︑その大部分はF部銓µにおける試驗科目であ

    る﹁﹂のための書式︑¶作手本であり︑それはまた時代が影るに順って�學作品としての傾向を強くしていく︑白居易︑

    元愼によってものされた牘に他ならない(10

    )

    このような性格を する�代のが︑いかに現實の裁,料として 益であるのか︑當然檢討せねばならない問題であ

    るが︑いまは︑まず�における律の��の樣態を見てみることにしよう︒

    (敦煌本)には︑{のような案件が見える(11

    )

    ︒以下に原�の抄譯を揭げよう︒

    (1)

    奉︑黃門繆賢︑先娉毛君女爲¹︑娶經三載︑º�一男︑後五年︑卽恩赦︑乃 西»宋玉︑.理其男云︑與阿毛

    私1︑ª生此子︑依.毛問︑乃承相許未姧︑驗兒告¼似繆賢︑論¹狀似姧宋玉︑未知兒合歸誰族︑阿毛宦者之妻︑

    久積標梅之歎︑春易感︑水難留︑春彼芳年︑能無怨曠︒夜聞琴T︑思託志於相如︑�垝地垣︑ª留心於宋玉︑

    因茲結念︑夫復何疑︒況玉 在西»︑連薨接棟︒水火À貿︑蓋是其常︑日久目深︑自堪稠密︒賢乃家風淺Á︑本闕

    漢律から�律へ

    17

  • 防閑︑恣彼Â來︑素無閨禁︒玉 悅毛之志︑毛懷許玉之心︑彼此旣自相貧︑偶合誰其限Å︒K欸雖言未合︑當是懼

    此風聲︑¹人唯惡姧名︑公府豈疑披露︒未姧之語︑寔此之由︑相許之言︑足堪�白︒賢旣身宦者︑理絕陰陽︑妻�

    一男︑�非己胤︒設令¼似︑

    亦何妨︒今若相似者︑例許爲兒︑不似者︑卽同行路︑º恐家

    父︑人

    是男︑訴

    父悦兒︑此喧何已︒宋玉承姧是實︑毛亦姧狀分�︑姧罪竝從赦原︑生子理須歸父︒兒Æ宋玉︑¹付繆賢︑毛宋Â來︑

    卽宜斷絕︒

    (ペリオ將來

    P3813)

    【:黃門の繆賢は︑先に毛君の娘を娶り︑三年を經て︑ようやく一男を生み︑その後︑五年して︑恩赦が出され

    た︒西»の家の宋玉が︑阿毛と私1して︑この子をもうけたのだという訴えをおこした︒それに從って毛を糾問し

    たところ︑互いに心を1じていたが︑姦1はおこなっていないと供述している︒子供をTべてみるに︑繆賢によく

    似ており︑女性をめぐる狀況からいえば︑宋玉との姦1は可能性が高い︒子供はどちらの家に歸屬させるべきか︒

    阿毛は宦官の妻であり︑獨り寢をかこち︑欲を押さえきれず︑相手への思いを忍んで我慢することができな

    かった︒夜に琴のTべを耳にするにつけ︑かの司馬相如と卓�君になぞらえ︑かくして契りを結ぶにいたったこと︑

    疑う餘地はない︒まして︑宋玉は西»に んでおり棟續きで︑互いにモノを貸し借りするのがD生であれば︑一層︑

    親しさがつのること言うまでもない︒賢はといえば︑いささか淺はかでいい加減︑抑制することもなく︑彼らの行

    き來を許し︑(氣を見していた︒玉は毛を愛しむ思いをÈき︑毛は玉に身をまかせる氣持ちをもち︑彼らの相思

    相愛は︑誰もそれを止めることなどできなくなっていた︒⁝⁝姦1はしていないという供述は︑姦1といわれるこ

    とを女はÉけようとするゆえ︑隱し立てをしているとせねばならず︑こころは1じ合っていたという供述は閒�い

    ない︒

    東 方 學 報

    18

  • 賢は宦官ということであるので︑當然のことながら生殖機能はなく︑妻が產んだ子供は︑自分の子でないことは

    �らかである︒たとえ¼似していたとしても︑それは關係ない︒いま︑似ているということで︑實子ということに

    なれば︑似ていない者は︑どこでもだれでもが父でありまた子であるということになり︑父と子の訴訟沙汰で手が

    つけられなくなろう︒宋玉が姦1を甘Eしたこと︑これは確かであり︑毛にあっても姦1の背景ははっきりしてい

    る︒姦罪は赦によって免ぜられるとして︑生まれた子は︑理として父親に歸屬させ︑子供は宋玉にÆし︑毛は繆賢

    に附屬し︑毛と宋の付き合いは︑斷ち切るべきである︒︼

    この案件において︑子供の處¬は︑姦淫を定した場合︑姦淫の相手男性に歸屬することは︑�令﹁戶令﹂の{の條�

    で�らかである︒

    諸良人相姦︑K生男女隨父︑若姦雜戶・官戶︑他人部曲妻客女︑d官私婢︑竝同類相姦︑K生男女︑竝隨母︑卽雜戶・官

    戶・部曲︑姦良人者︑K生男女︑各聽爲良︑其部曲d奴︑姦緦U以上親之妻者︑若奴姦良人者︑K生男女︑各合沒官︒

    �令

    戶令

    諸ろの良人の相い姦するに︑生れるところの男女は父に隨う︒若し雜戶・官戶︑他人の部曲の妻︑客女︑および官私婢

    と姦す︑竝びに同類︑相い姦すれば︑生むKの男女は︑竝びに母に隨う︒卽し雜戶・官戶・部曲の良人と姦すれば︑生

    むKの男女は︑各の良と爲すを聽す︒其の部曲︑および奴のの緦U以上の親の妻と姦す︑若くは奴の良人と姦すれば︑

    生むKの男女は︑各の合まさに官に沒すべし︒

    漢律から�律へ

    19

  • しかし︑このは︑令の條�をここに引用せずに︑﹁生子理須歸父︑兒Æ宋玉﹂とそれをただ﹁理﹂とする︒かりに︑�

    �義がそこに存在していたとするならば︑﹁理﹂ではなく﹁戶令﹂とするのが一般であろう︒この場合は律ではなく令

    の規定が依據すべき準則であるが︑現實+法の條�が觀念+k理に置き奄わり︑

    用條�を�記することが後している

    ということの傍證としてあげておこう︒

    (2)

    長安縣人

    婆陁︑家興販︑,財巨富︒身 勳官驍驍騎尉︑其園池屋宇︑衣X器玩︑家僮侍妾︑比侯王︒ 親弟頡利︑

    久已別居︑家貧壁立︑兄亦不分給︒ »人康莫¦︑借衣不得︑言�法式事︒五X旣陳︑用別Í卑之叙︑九違攸顯︑

    爰円上下之儀︒婆陁闤闠商人︑旗亭賣竪︑族x卑賤︑門地ÏÐ︒侮慢�違︑縱斯奢僣︑ª使金玉磊砢︑無慙梁霍之

    家︑綺穀繽紛︑ 逾田竇之室︑梅梁桂棟・架逈(空︑繡桷彫楹︑光霞爛目︒歌姫舞女︑紆羅袂以驚風︑騎士Õ越︑

    轉金橘而照日︒公爲侈麗︑無揮彝違︑此而不Ö︑法將安措︒至如衣X�式︑竝合沒官︒屋宇過制︑法令修改︒奢之

    罪︑律 ��︑宜下長安︑任彼科決︒且親弟貧匱︑特衣常倫︑室惟三徑︑家無四壁︒而天倫義重︑同氣深︑罕爲

    落其一毛︑無肯分其�韻︑眷言於此︑良深喟然︒頡利縱已別居︑©是婆陁血屬︑法雖不合�給︑深可哀矜︒分兄犬

    馬之,︑濟弟到懸之命︑人共允︑物議何傷︒竝下縣知︑任彼安恤︒

    (ペリオ將來

    P3813)

    【長安縣人

    婆陁は家は×賣をしており︑巨萬の富を蓄え︑自身は勳官驍騎尉であり︑園池家屋︑衣XT度︑家僕

    召使いの多さ豪華さは王侯にも竝ぶほどであった︒實の弟頡利とは長い閒別居しているが︑弟は大變貧困であるに

    もかかわらず︑Ø助せず︑»人が衣Xを貸してくれと言ってきても貸さない︒法令で決められた規定を守っていな

    い︒五X︑九違というものはÍ卑の序列︑上下の儀式を�確にするものである︒

    婆陁は市井の商人︑居酒屋の親

    父でしかなく︑卑賤な階<︑下層の出身である︒にもかかわらず︑思い上がって贅澤をつくし︑家屋の"匠は輝く

    東 方 學 報

    20

  • ばかり︑舞女をはべらし︑騎士越子を引き連れて︑公然と憚ることなく奢侈を極めている︒これをばÖ戒せずして︑

    法はどこに存在價値があるのか︒衣Xが規定に�反しておれば︑官に沒收すべきであり︑円物が制限をこえれば︑

    法令にしたがい修改すべきである︒奢侈に關する罪は︑律に��がある︒長安縣に下して︑その決に任す︒

    さらに實弟は赤貧であり︑⁝⁝たとえ︑すでに別居しているとはいえ︑

    婆陁の血族であることに變わりない︒

    法律では�收し荏給するとまではできないが︑せめて兄としての犬馬の養はすべきで︑弟の生活を救ってやる︑そ

    れは人として當然のこと︑何の痛みがあろうぞ︒これも縣に下して︑その溫+裁斷にゆだねる︒︼

    律に規定された��とは︑雜律四〇三條︑四四九條であるが(12

    )

    ︑ここにおいても具體+な律名︑および條�の內容は引用さ

    れず︑しかも﹁奢之罪﹂という律�にはない犯罪名稱が擧げられている︒

    (3)

    元愼

    「錯字﹂(﹃�苑英華﹄卷五一二

    (13)

    )

    丁申�書︑上尙書省按之︒辭云︑雖Û︑可行用︒�奏或差︑本Ü行詐︑比例可辨︑必 原苟衣因緣之姦︑則矜過

    Û之罰︒丁也方將計6︑忽謬正名︑曾不戒於爰毫︑ª見尤爲起草︒然以法存按省︑Û 等差︒倘以百爲千︑比賜縑

    而難赦︑若當五而四︑縱闕馬而何傷︒苟殊魚魯相懸︑宜恕甲由未ß︒按其非是︑雖懷三豕之疑︑訴以可行︑難書一

    字之貶︒s諸會府︑棄此小瑕︒非愚訴人︑在法當爾︒

    【丁は�書を尙書省に提出し︑それを檢閱したところ︑﹁閒�いがあるが︑"味はわかり1用する﹂︒

    奏�に閒�いがある場合︑本來は詐欺を犯しているかどうかを問題にせねばならない︒かかる案件を正しく取り#

    うには︑實を把握することにある︒かりに︑原因をもつ姦事ではない場合には︑過失による閒�いを罰するのは

    漢律から�律へ

    21

  • 痛ましいことである︒

    丁の場合は︑計6にかんして︑粗忽にも正しき表記をÛったのだが︑細かな點にいたるまでのá"を怠ったので︑

    かく起草をしたことの責めをうけたのである︒

    しかるに︑法律は取りTべに重きをおくが︑Ûりには�度の差がある︒たとえば︑百を千に閒�ったならば︑縑

    を賜與する場合に︑容赦することは難しいかもしれないが︑五を四にÛったとして︑﹁馬﹂の一點を落としたとし

    ても︑さしたる問題はなかろう︒﹁魚﹂と﹁魯﹂の二字には懸âがあるということは︑まあ確かにそうだが︑﹁甲﹂

    と﹁由﹂はよく似ているということを大目に見てもよいのではないか︒

    いま︑このことを沙汰するに︑亥豕のÛりという疑念はのこるが︑訴狀は1用するということをいっており︑�

    書の一字の咎には躊躇している︒擔當部局におかれては︑かかる瑕瑾はãて置かれますようにお願いしたい︒訴狀

    は閒�った方向でいっているのではなく︑法律上も問題はない︒︼

    元愼のこのの內容は︑�律職制律一一六條に關わる︒上書における�字のÛりを罰すべきかどうかの案件である︒

    諸上書若奏事而Û︑杖六十︑口Û︑減二等︒(口Û不失事者︑勿論︒)上尙書省而Û︑笞四十︒餘�書Û︑笞三十︒(Û︑謂脫

    剩�字d錯失者︒)卽Û n者︑各加三等︒( n︑謂當言勿原而言原之︑當言千疋而言十疋之類︒)若Û可行︑非上書・奏事者︑勿

    論︒(可行︑謂案省可知︑不容 衣議︑當言甲申而言甲由之類︒)

    職制律

    一一六

    諸ろの上書︑もしくは奏事にしてÛあらば︑杖六十︑口にÛあらば︑減二等︒(口にÛるも事を失せざれば︑論ずる勿し︒)

    尙書省に上してÛあらば︑笞四十︒餘の�書にÛあらば︑笞三十︒(Ûとは︑�字を脫剩︑錯失するものを謂う︒)卽しÛり

    東 方 學 報

    22

  • てn らば︑各の三等を加う︒(n るとは︑原す勿しと言うべきに︑之を原すと言い︑千疋と言うべきに十疋と言うの類を謂う︒)

    若しÛあるも行うべき︑上書・奏事に非ざるは︑論ずる勿し︒(行う可きとは︑案省するに知る可く︑衣議 るを容れず︑甲申

    と言うべきに︑甲由と言うの類を謂う︒)

    元愼自身︑この�律條�を踏まえ︑また律駅をも念頭においていることは︑�白である︒�律駅議が解說する日付の

    ﹁申﹂と﹁甲﹂の相�︑數量の﹁千﹂と﹁百﹂(駅議では﹁十﹂)のÛりを︑元愼もその�で例にあげて︑それにåうæn

    に言dしていることは︑端+にそれを物語る︒

    このでは︑(1)迂闊・粗忽に由來し︑"圖+でない過失︑(2)過失によって生じたもので︑深刻・重大な結果を招

    來しないもの︑この二つの條件のもとでの處罰は行うべきではないとの張がその骨子である︒

    しかし︑案件は︑改めて論ずるまでもなく︑�律でははっきりと處罰の對象とならないことが�記されており︑つまり

    犯罪を0成する�件をはじめから閏足しない︒

    職制律一一六條では︑皇�への﹁上書﹂﹁奏事﹂でなく︑尙書省への上申である場合の�字のÛりは︑笞四十であるが︑

    それが﹁案驗して內容が理解でき1用する﹂場合には︑處分しないと�記されている︒は﹁上尙書﹂であり︑﹁雖Û︑

    可行用﹂との斷を尙書が下している以上︑論議するまでもないことで︑それはこの條�を引けばそれで十分である︒し

    かし︑元愼は�律の職制律の上部の規定をここに引用してはいない︒先にá記したように元愼は�らかに職制律の條�を

    ふまえ參考にしているにもかかわらず︑肝心の條�を引用して議論を0成していないのはなぜか︒�學性の.求が非�學

    の極端に位置する律�の直接の引用を忌Éさせたとの推測もできなくもない︒しかし︑牘は擬制であったとしても形の

    上では裁�書の範疇から逸脫しないならば︑犯罪行爲の處斷にあって︑�律を引用する��義がこの段階で希Áと

    漢律から�律へ

    23

  • なっていた︑少なくとも罪を論斷するに律の正�に依據し︑それを引用することが�書における絕對+必�事項とはなっ

    ていなかったと考えてよいのではないだろうか︒

    いま︑ここに三例のを引用しただけだが︑敦煌出土の︑および一千以上にのぼる﹃�苑英華﹄に收められた�の

    の中から︑律や令の條�を引用しているものは︑やはり見當たらないのである(14

    )

    では︑﹃舊�書﹄﹃怨�書﹄をはじめとする�獻

    料ではどうなのか︒﹃漢書﹄﹃晉書﹄などでは︑論斷をめぐっての司法

    官の上奏�書の中に︑��義が確された︒しかるになぜか︑�の典籍から律の條�を引用した裁關係の,料を見つ

    け出すことができないのである(15

    )

    たしかに︑限られた少ない,料から檢證が得られないということから︑論斷をめぐる司法關係の�書に律の正�が引用

    されないことを否定するのは安易にすぎ︑かつ危險な憶測であるとの誹りをうけること︑十分に承知している︒しかし︑

    その批を承知の上で︑私はやはり�代において︑決をめぐる�書には︑�律の條�が引用されるという��義は希

    Áであったと言いたい︒律以外の法規︑皇�の命令などを引用して決�書が作成されることは︑あったかもしれないし︑

    また決の根據となる何らかの準則を�書の中に示したとの可能性は低くない︒しかし︑こと�律にかんする��は︑極

    めて少なかったと言わねばならない︒

    では︑なぜそうなのか︑それは漢律と�律の法典としての性格が變�したからではないだろうか︒實は︑律の正�が

    決に引用されることを�獻

    料で.っていくと︑北魏後�から變�し��義が希Áになっていったように見える︒

    北魏�昌三年

    (五一四)の和賣事件に關する{のような議論が﹃魏書﹄𠛬罰志︑﹃1典﹄卷一六七に殘っている(16

    )

    東 方 學 報

    24

  • (三年︑尙書李D奏)︑冀州人費羊皮母o︑家貧無以葬︑賣七歲子與張廽爲婢︒廽轉賣梁定之︑而不言狀︒案律和賣爲奴婢者︑

    死︒迴故買羊皮女︑謀以轉賣︒依律處è𠛬︒

    詔曰︑律稱和賣人者死︑謂兩人詐取他財︒羊皮賣女︑吿迴稱良︑張迴利賤︑知良公買︒於律俱乖︑而各非詐︒然迴轉賣

    之日︑應 遲疑︑而決從眞賣︒於固可處è𠛬︒

    三公郞中崔鴻議曰︑按律︑賣子一歲𠛬︑五X內親屬在Í長者死︑賣周親d妾與子¹者液︒蓋以天性難奪︑荏屬易3︑印Í

    卑不同︑故殊以死𠛬︒且買者於彼無天性荏屬︑罪應一例︒�知是良︑決º眞賣︑因此液漂︑家人不知︑.贖無蹤︑永沈賤

    隸︒按其罪狀︑與掠無衣︒

    (三年︑尙書李D︑奏す)︒冀州の人︑費羊皮の母︑oす︒家は貧くして以て葬する無し︒七歲の子を賣りて張迴に與えて

    婢と爲す︒迴は梁定之に轉賣するも︑實狀を言わず︒(盜)律を案ずるに︑和賣して奴婢となさば︑死︒迴は故と羊皮

    の女を買いて︑以て轉賣するを謀る︒律に依りてè𠛬に處す︒

    詔して曰く︒律に人を和賣するは死と稱するは︑兩人の他の財を詐取するを謂う︒羊皮は女を賣るに︑迴に吿げて良と

    稱す︒張迴は賤に利あるとし︑良なるを知りて公に買う︒に律において俱に

    乖もとる

    も︑各の詐するに非ず︒然れども︑

    迴の轉賣するの日︑遲疑あるべきも︑決して眞賣に從う︒において固よりè𠛬に處すべし︒

    三公郞中崔鴻︑議して曰く︒律を按ずるに︑子を賣れば一歲𠛬︑五X內の親屬のÍ長に在る者ならば死︒周親および妾

    と子¹を賣れば液︒蓋し天性は奪い難く︑荏屬は易3し易く︑印たÍ卑は同じからざるを以て︑故に殊にするに死𠛬を

    以てす︒且つ買う者は︑彼に天性の荏屬なく︑罪は一例たるべし︒是れ良なるを�知するも︑決してºち眞賣す︑此れ

    に因りて液漂し︑家人は知らず︑.って贖うも蹤なく︑永く賤隸に沈む︒其の罪狀を按ずるに︑掠と衣なる無し︒

    漢律から�律へ

    25

  • 見られるように︑ここでは律の條�を丁寧に引用して議論がなされている︒��義は︑六世紀の初め北魏末年までは︑

    確實に繼承されていったこと(17

    )

    をまずここで確しておこう︒そして︑北魏を境にして︑律の性格が變�したのである︒以

    下︑(1)律と令

    (2)律と經

    (3)反��義の傳瓜

    (4)�律條�の非實用性格

    (5)怨しい實用法規の�生と

    いう五つの視點から變化とその�因を考えてみることにしたい︒�律の條�が引用されるという��義が希Áになった

    という事實もこの行論のうえでî得していただけるのではないかとï待する︒

    第三違

    漢律から�律への變�

    (1)

    律と令の法典

    漢律と�律の法典としての性格の變�を考えるにあたり︑まず漢から�にかけてのほぼ一千年にわたっての法典�纂の

    經雲をたどっておこう︒

    中國古代から中世にかけての律と令の變�にかんして︑私は﹁晉泰始律令へのk︱︱第Ⅰ部

    秦漢の律と令﹂(﹃東方學

    報﹄京都七二

    二〇〇〇)︑﹁晉泰始律令へのk︱︱第Ⅱ部

    魏晉の律と令﹂(﹃東方學報﹄京都七三

    二〇〇一)において︑秦漢

    の律と令の法形式を考え︑また𠛬罰法規としての律と行政法規としての令の二つの法典が三世紀の晉泰始律令において成

    立し︑それが以後︑�律︑�令につながっていくことを論じた︒

    その槪�は︑あらまし以下のような內容である︒

    秦の六經︑漢蕭何九違律を基本法典としてきた秦漢の律は︑その外緣に多くの單行律︑.加律をもっていたが︑魏が怨

    律を制定した段階で︑十八ñからなる正律として�纂され︑晉律二十ñへと繼承されていく︒

    東 方 學 報

    26

  • 正律に限っていえば︑それは第一�から

    ñまでが固定した﹁ñ違之義﹂を備えた典籍︑つまり法典であったといっ

    てよいが︑令についていえば︑漢令は令典としての完成された法律書とはなっていないばかりか︑令の條�も皇�の詔令

    そのままの形態をもち︑�纂・整理といっても單なるファイルとして番號をうち︑.加・集錄していたにすぎず︑個別の

    事項別の名稱も與えられてはいなかった︒すなわち︑漢令は未成熟な法令︑法規だったといえる︒

    いまひとつ︑留"しておかねばならない重�なことは︑令

    (皇�の命令)が律となって整理されるという成立過�をも

    つ漢の律は︑𠛬罰法規と非𠛬罰法規の二つを含むものであり︑�の律と令に見られる內容の�い︑つまり𠛬罰法典と行政

    法典といった區分をもたなかったということである︒律と令は︑�纂された法典かò{.加されるファイルかといった法

    形式の�いに過ぎない︒

    漢の令が典籍としての令典となり︑また內容のうえで行政法規となったのは︑晉の泰始四年

    (二六八)の晉令をもって

    嚆矢とし︑律典

    (𠛬罰法規)︑令典

    (非𠛬罰・行政法規)の二つの法典がここに成立する︒かかる二つの法典を生み出した原

    因の一つは︑書寫材料が鯵牘から紙に變�し︑ファイルとしての機能に優れていた鯵牘から︑すでに書籍には使用されて

    いた紙に晉令が書寫されることにより︑令典という法典を生み出した經雲に存する︒そして今ひとつは︑內+な思想+�

    因であった︒つまり︑後漢ïに隆盛となる禮敎義︑その禮の理念が現實の法令としてõ用されるようになったことであ

    る︒禮とは︑理念が具現�された形式であるとすれば︑行政における具現は令

    (令典)に他ならない︒晉泰始令以$にす

    でに盛行していたいくつかの禮典︑それは理想+瓜治行政のあり方を記した經書であったのが︑令典の制定に際して︑行

    政法規としての典籍を�生させるに與って力あった︒この二つの液れの上に晉泰始律令が生まれたのである︒

    禮と令のÀ差の示す例を一つだけここに擧げよう︒

    漢律から�律へ

    27

  • 以純父老不求供養︑使據禮典正其臧否︑太傅何曾︑大尉荀顗︑驃騎將軍齊王攸議曰︑凡斷正臧否︑宜先稽之禮律︑八十者︑

    一子不從政︑九十者︑其家不從政︑怨令亦如之︑按純父年八十一︑兄弟六人︑三人在家︑不廢待養︑純不求共養︑其於禮

    律末 ß也︑⁝⁝司徒西曹掾劉斌議以爲⁝⁝禮︑年八十︑一子不從政︑純 二弟在家︑不爲�禮︑印令︑年九十︑乃聽悉

    歸︑今純父未九十︑不爲犯令︒

    『晉書﹄卷五十

    臾純傳

    (臾)純の父︑老いるも供養を求めずを以て︑禮典に據りて其の臧否を正さしむ︒太傅何曾︑大尉荀顗︑驃騎將軍齊王

    攸︑議して曰く︑凡そ斷じて臧否を正すに︑宜しく先ず之を禮律に稽みるべし︒八十の者︑一子︑政に從わず︒九十の

    者︑其の家︑政に從わず︑と︒怨令︑亦た之の如し︒按ずるに︑純の父は年八十一︑兄妹六人︑三人は家に在り︑待養

    を廢せず︒純も共養を求めず︒其れ禮律において末だßきこと らざる也︑⁝⁝司徒西曹掾劉斌︑議して以爲らく⁝⁝

    禮︑年八十︑一子︑政に從わず︑と︒純は二弟 りて家に在す︒禮に�うと爲さず︒印た令︑年九十︑乃ち悉く歸るを

    聽す︒今ま純の父は未だ九十ならず︒令を犯すと爲さず︒

    これは︑臾純なる者が︑父親の養育を怠っているということを擧げて︑彼の失脚をはかった賈閏の訴えに對するu議の一

    部である︒言うところの﹁怨令﹂とは︑怨しく制定された泰始令のこと︑劉斌が引用する﹁禮律﹂の﹁八十者︑一子不從

    政︑九十者︑其家不從政﹂は︑﹃禮記﹄王制・內則に﹁內三王養老皆引年︑八十者︑一子不從政︑九十者︑其家不從政﹂

    と��が見える︒禮典の條�が法源となり︑また怨令にõ用されているのである︒

    晉律における儒家と禮思想の影øは︑すでに祝總斌氏が指摘しており(18

    )

    ︑先の臾純の記事をはじめ︑官Fの三年X喪︑復

    讐をめぐっての禮と律との折中︑繼母如母

    (﹃儀禮﹄喪Xに規定が見える)︑父子分家衣財

    (﹃禮記﹄典禮)などの禮典の理念が

    その條�にú收されていることなど︑七點にわたって例をあげて論證しているのである︒

    東 方 學 報

    28

  • また︑﹃周禮﹄に��が見える八議は︑魏律において立法�が行われていたこと︑﹃禮記﹄A令・仲秋之Aにみえる﹁是

    A也︑養衰老︑û几杖︑行糜粥飮食﹂が$漢末から後漢にかけての王杖û與の漢令︑つまり御

    絜令第四十三︑蘭臺絜令

    第三十三として法制�されていたこと︑つまり禮の規定が現實に則るべき法源となることは︑晉律令に始まることではな

    く︑後漢ïから魏晉へと時代を經るなかで着實にýんでいったといってよい︒その液れのなか︑晉泰始年閒の怨たな法律

    制定が行われることになる︒

    以後︑北魏・北周に至って︑周知のごとく周の理想+政治制度を記した﹃周禮﹄を現實+な行政にØ用するþ�の中で︑

    令と禮の接'が一層すすんでいくのだが︑ことがらは︑令典だけでなく︑律においてもしかりであった︒むしろそれは︑

    法典と經典の接'︑否︑律典の經書�と位置づけるべきだと私は考えている︒

    (2)

    經書としての律

    $漢時代︑鯵牘は書かれる內容によって︑その長さが決められていた︒一般の�書は一尺の札に︑皇�の詔書が一尺一

    寸の鯵牘に書かれ︑皇�の命令よりも權威のある經書は︑二尺四寸の鯵が用いられた︒かかる鯵牘の長さの確定︑制度�

    は︑一度に生じたのではなく︑書寫の內容とその權威を必�とした時代に順って段階+にýんでいったと考えられる︒一

    尺一寸の詔書鯵は︑おそらく呂氏の亂D定後︑皇�の權威を取り戾し︑改めて�確�するに際して︑また經書鯵の確定は︑

    武�時代に經書が他の書籍よりも上位に位置づけられ︑}士弟子員設置という立法�にåう措置であった︒そして︑律が

    二尺四寸の鯵に記され︑いわゆる﹁三尺之律﹂と稱されるようになったのは︑經書鯵の長さが決められた後の閒もない頃︑

    $一〇〇年$後だったと考えられる︒それは︑皇�の王言を持たず︑それ故︑一尺一寸の鯵牘には書けない律に︑令以上

    の法+權威を付與するために︑經と同じ二尺四寸の鯵に律の正�が記されたのである︒ここに︑律は經とおなじく不�の

    漢律から�律へ

    29

  • 大典と位置づけられ︑同等の價値をもつことになる︒律典の經書�のこれが具體+な第一步であった(19

    )

    經書と對等の位置に置かれた律典︑やがて律は經書とみなされるようになる︒つまり實用書としての律が︑思想書とし

    ての經と一體�していく︑當時の學者︑法律家は律を經典と同一視し︑經典と同じ訓詁の對象とし︑そこから律の性格も

    自ずと變�していくことになるのである︒そのことを︑律のá釋︑律說という視點から一步踏み�んで考察してみよう︒

    律のá釋がいつ頃から始まるのか︑ある"味では雲夢睡虎地出土の﹁法律答問﹂と稱されている二一〇本の鯵は︑問答

    形式をとり︑律の用語の解釋︑個別の事案に對する條�の

    用等の解說であり︑á釋︑律說であるといってもよい︒ただ︑

    それは法律家による獨自の解釋

    ︱︱後�の﹁違句﹂︱︱

    とは衣なったものであろう︒その時代︑つまり秦では︑未だ

    法律學者が各自の法解釋を提示するまでには至っていなかったと思える︒

    律・令に關しての學者が輩出し︑律�の用語や內容を解說することが︑盛んになるのは後漢以影である︒永元六年

    (九

    四)に陳寵が律令の整理を上奏したその內容には︑﹁漢興以來︑三百二年︑憲令稍增︑科條無限︒印律 三家︑說各駁衣﹂

    (﹃後漢書﹄陳寵傳)とあり︑三つの律の學�が互いに甲論乙駁を展開したという︒やがて︑b玄︑馬融らの律學が液に

    なっていった︒

    『晉書﹄𠛬法志には︑魏の��

    (二二六−

    二三九)の時ïの法律家とその解釋

    (違句)の盛行について︑かく記している︒

    後人生"︑各爲違句︒叔孫宣︑郭令卿︑馬融︑b玄諸儒違句十 餘家︑家數十萬言︒凡斷罪K當由用者︑合二萬六千二百

    七十二條︑七百七十三萬二千二百餘言︑言數益繁︑覽者益難︒天子於是下詔︑但用b氏違句︑不得雜用餘家

    後人︑"を生じ︑各の違句を爲す︒叔孫宣︑郭令卿︑馬融︑b玄諸儒の違句︑十 餘家︑家ごとに數十萬言なり︒凡そ

    東 方 學 報

    30

  • 罪を斷ずるに︑當に由りて用いるべきところのものは︑合して二萬六千二百七十二條︑七百七十三萬二千二百餘言︒言

    數はますます繁く︑覽るもの益す難し︒天子︑是において詔を下し︑但だb氏の違句を用い︑雜えて餘家を用いるを得

    ざらしむ︒

    その後︑二十年あまり經た時ï︑晉が成立する直$のこととして︑b玄の違句だけをõ用することが問題視される︒

    ��爲晉王︑患$代律令本á煩雜︑陳羣︑劉邵雖經改革︑而科網本密︒印叔孫︑郭︑馬︑杜諸儒違句︑但取b氏︑印爲�

    黨︑未可承用︒於是令賈閏定法律︑令與太傅b沖︑司徒荀覬︑中書監荀勖︑中軍將軍羊祜︑中護軍王業︑廷尉杜友︑守河

    南尹杜預︑散騎侍郞裴楷︑潁川太守周雄︑齊相郭頎︑騎都尉成公綏︑尙書郞柳軌dF部令

    榮邵等十四人典其事︒

    ��︑晉王となり︑$代の律令の本とáの煩雜にして︑陳羣︑劉邵は改革を經ると雖も︑科網は本より密なり︒印た叔

    孫︑郭︑馬︑杜の諸儒の違句に︑但だb氏を取るは︑印た黨に�よるとなし︑未だ承用すべからざるを患う︒是に於い

    て︑賈閏をして法律を定めしめ︑太傅b沖︑司徒荀覬︑中書監荀勖︑中軍將軍羊祜︑中護軍王業︑廷尉杜友︑守河南尹

    杜預︑散騎侍郞裴楷︑潁川太守周雄︑齊相郭頎︑騎都尉成公綏︑尙書郞柳軌︑およびF部令

    榮邵等十四人と其の事を

    典せしむ︒

    かくして賈閏に命じて法律を改定させることとなり︑やがて泰始四年

    (二六八)の泰始律令公布にいたるのである︒後

    漢から晉にかけて律學︑律家にかんするかかる一連の

    料をめぐって︑ここで檢討し指摘したいことがいくつかある︒

    まず︑いうところの﹁違句﹂とは︑原義は�違と��であるが︑一違一句に對して施されたá釋を"味し︑特にそれは

    漢律から�律へ

    31

  • ﹁違句學﹂として儒家の經典のá釋︑すなわち訓詁學をいった︒﹃漢書﹄藝�志には︑易にかんして施︑孟︑梁丘三家の

    ﹃違句﹄︑﹃尙書﹄にかんしての﹃歐陽違句﹄三十一卷︑﹃大︑小夏侯違句﹄各二十九卷︑﹃春秋﹄における﹃公羊違句﹄三

    十八ñ︑﹃穀梁違句﹄三十三ñなどが擧げられており︑また$漢成�ïには︑張禹が﹃論語違句﹄をものした(20

    )

    そして後漢時代になると︑﹁◯◯違句﹂なる經書のá釋書は一層その數を增す︒光武�の末年中元元年

    (五六)には︑

    五經違句があまりに繁多であり︑整理減少を命ずる詔がだされ︑その二十年後の違�円初四年

    (七九)には︑諸儒を集め

    て五經の諸說を論議させるにいたる︒白虎觀會議に他ならない(21

    )

    「違句小儒﹂とは︑訓詁に拘泥する儒者を揶揄した當時の言葉であるが(22

    )

    ︑こういった揶揄の言い回しは︑�に儒者たち

    のá釋訓詁がいかに盛行していたのかを物語っているといってもよい︒もとより︑違句は儒學の經典を中心とするのだが︑

    經書と同格の律に對しても施された︒それが︑應劭﹁律本違句﹂であり︑またb玄﹁律違句﹂であった︒

    「後人︑"を生じ︑各の違句を爲す︒叔孫宣︑郭令卿︑馬融︑b玄諸儒の違句︑十 餘家︑家ごとに數十萬言なり﹂︑

    ﹁但だb氏の違句を用い︑雜えて餘家を用いるを得ざらしむ﹂は︑まさに白虎觀會議にいたる儒學の狀況と¼似すると

    いってもよかろう︒律に對する違句つまりá釋︑および律學家の

    勢は經書の訓詁學者の�長であったのだ︒

    律の訓詁のあり方を︑今日わずかながら殘っている律の條�に對するá釋

    ︱︱それは﹁律說﹂とも言われ正

    のá釋

    に引用されている︱︱

    をとりあげて︑さらに具體+に檢證してみよう︒

    (1)

    景�︑武�ï︑諸侯抑制政策として﹁左官﹂﹁附益﹂﹁阿黨﹂の法律が設けられた︒それぞれの法規の條�は殘っ

    ておらず︑その內容は︑á釋家の解釋に賴るほかない︒そのなかで︑魏・張晏が引用する﹁律b氏說﹂は︑﹁附益﹂を﹁諸侯

    を封円するに規定をこえて優¬すること﹂と解說している︒

    東 方 學 報

    32

  • 果たして︑この說が﹁附益﹂の正しい"味をいっているのかどうか︒﹁左官﹂とは︑應劭は﹁天子を無視して諸侯に奉

    仕すること

    (舍天子而仕諸侯)﹂と解釋し︑﹁阿黨﹂とは︑張晏は﹁傅相が諸侯の罪を吿發しない﹂と說�している︒どちら

    も諸侯の周邊の者が漢王室よりも諸侯に 利な計らいをすることで︑對象となっているのは︑諸侯に使える臣下である︒

    それと�置される﹁附益﹂もやはり︑法律に�反して諸侯に 利なことをするといった方向にあり︑對象となるのはやは

    り諸侯に仕えるもの︑もしくは諸侯と關係をもつ他の諸侯と考えるのが自然であろう︒﹁左官﹂﹁附益﹂﹁阿黨﹂いずれも

    諸侯の.從者を取り閲まることで︑諸侯の力を減殺することを目論む法規である︒

    一方でb玄律說は﹁諸侯を封円する﹂と說�するが︑﹁封円﹂は皇�の專決事項であり︑その封円に關する規定とみる

    のはやはり無理があろう(23

    )

    b玄がどういった背景で﹁附益﹂をめぐって件の律說を提示したのか︑今となってはわからない︒ただ︑この$漢景

    �・武�ïに︑王國諸侯抑制を目論んだ﹁附益﹂の法律が︑ほぼ三〇〇年後のb玄の時代︑諸侯王の脅威が�滅してし

    まった時代にも現行法規として存在していたのかどうかと問われると︑私は極めて否定+である︒﹁律說﹂なるものは︑

    現行法規の!用に供する實用+な補助+法解釋というよりも︑儒者の經書の條�︑語彙に施す訓詁でしかなく︑法律!用

    には影øはなかったのではないか︒

    法律!用についての影øがないということでは︑{の例もそれを物語ろう︒

    (2)

    二千石�都F循行︑(蘇林曰︑取其都F 德也︒如淳曰︑律說︑都F今督郵是也︒閑惠曉事︑卽爲�無n都F︒師古曰︑如說是也︒)

    ﹃漢書﹄��紀

    漢律から�律へ

    33

  • 二千石は︑都Fを�わして循行せしむ︒(蘇林曰く︑其の都Fの德 るを取るなり︒如淳曰く︑律說︑都Fとは今の督郵︑是れなり︒

    閑惠にして事に曉なり︒卽ち�無n都Fとなす︒師古曰く︑如說︑是なり︒)

    如淳が引く﹁都F﹂に關する律說である︒確かに︑漢律には﹁都F﹂という二千石官の屬官が數條にわたってみえる︒

    ⁝⁝乞鞫者各辭在K縣k︑縣k官令︑長︑丞謹聽︑書其乞鞫︑上獄屬K二千石官︑二千石官令都F�之︒⁝⁝

    ﹁二年律令」

    具律

    (116)

    【再審を�求する者は︑それぞれの居 地の縣・kにて供述し︑縣kの官の令︑長︑丞は嚴正にE理して︑その再審�

    求を�書にして︑案件をK¡の二千石官に上申せよ︒二千石官は都Fに命じて�せよ︒︼

    縣k官令長d官毋長而 丞者卽免︑徙︑二千石官�都F效代者︒雖不免︑徙︑居官盈三歲︑亦輒�都F

    ﹁二年律令」

    效律

    (347)

    【縣k官の令長︑および官に長はいないが丞がいて︑それらがやめたり衣動したりしたら︑二千石の官は都Fを��し

    てTべて後任者に引き繼がせる︒やめたり衣動したりしなくとも︑官におること三年に5すれば︑またそのたびに都F

    を��して⁝⁝︼

    縣k官K治死罪d過失・戲而殺人︑獄已具︑勿庸論︑上獄屬K二千石官︒二千石官令毋n都F復案︑聞二千石官︑⁝⁝

    ﹁二年律令」

    興律

    (396)

    東 方 學 報

    34

  • 【縣・kの官が取りTべた死罪︑および過失・Õ戲から人を殺した事案は︑裁ですでに罪狀が具備しても︑それで論

    斷してはならず︑裁をK¡する二千石官に上申する︒二千石官は︑無nの都Fに復案させ︑二千石官に報吿させる︒︼

    都Fの職掌に關しては︑いくつかの說が出されているが︑中で 力な說が如淳引用の律說﹁今の督郵である︒公�正大で

    慈惠︑したがって﹁�無n都F﹂とされる﹂という解說である︒

    「督郵﹂と都Fが同じなのか︑いうところの﹁今﹂とはいつの頃なのか︑すくなくとも︑それは漢律が現行法となって

    いた時代ではなかろう︒漢代であるとすれば﹁今の﹂という表現は理解できないことと︑また漢には﹁都F﹂とならんで

    ﹁督郵﹂があり(24

    )

    ︑そこから漢の督郵と都Fは別である︒したがって︑これは少なくとも如淳の時代︑つまり魏になってか

    らのことと考えるのが自然であろう︒さらにいえば︑本來の律說は﹁都F﹂の二字を解說するものではないと思える︒漢

    律の條�︑もしくは行政・司法�書には先の二年律令興律三九六條にみえるように﹁毋n都F﹂という四字が常套句とし

    て使われていたようである(25

    )

    ︒﹁都F﹂が監察︑獄訟關係を擔當することは閒�いないが(26

    )

    ︑冠せられる﹁毋n﹂もしくは

    ﹁�毋n﹂という語がどういう"味なのか︑﹃

    記﹄﹃漢書﹄のáには︑後漢應劭︑X虔︑魏蘇林︑吳韋昭︑梁蕭該などの

    á釋が引用されている(27

    )

    ︒魏の如淳引用の律說︑﹁都Fとは︑今の督郵と同じである︒廣く恩惠を施し︑政事に1曉してい

    て︑�毋nの都Fと爲す﹂という解釋も︑同じくこの﹁�毋n﹂を解說したと考えてもよいのではなかろうか︒ただそこ

    で︑指摘したいのは︑應劭が﹁雖爲�F︑而不刻n︱︱�法のFであったとしても︑苛¼ではない﹂とá釋するものが︑

    彼がものした﹁律本違句﹂の該當個Kの解釋とすれば︑これは如淳引用の律說﹁閑惠曉事︑卽爲�無n都F﹂が﹁�﹂を

    ﹁�法﹂ではなく﹁�德﹂﹁慈愛惠民﹂(﹃逸周書﹄諡法解﹁k德}厚曰�︑慈愛惠民曰�﹂)と解釋するそれとは︑衣なる(28

    )

    律條�の﹁�毋n﹂をめぐっては︑後漢には如淳引用の律說以外にも樣々な解釋がだされ︑一定していなかったこと︑

    漢律から�律へ

    35

  • それらの諸說は︑律

    用にたいしての實用性を するのではなく︑あくまで一á釋家の說にとどまり︑それはまた經書の

    解釋と同じ{元ものでしかなかったということである︒さらに一步ふみこんで憶測するならば︑律の條�の解釋が多岐に

    わたるということは︑律が多樣なá釋を許容し︑解釋が一定せず︑また解釋の一定と法施行の安定は考えなくてもよいと

    いう方向に�いていったということである︒

    「律本違句﹂は︑後漢獻�ï

    (一八九−

    二二〇)にものされたのだが︑円安元年

    (一九六)に應劭が奉った上奏�には︑こ

    のような內容が見える︒

    夫國之大事︑莫尙載籍︒載籍也者︑決ª疑︑�是非︑賞𠛬之宜︑允獲厥中︑俾後之人永爲監焉︒⁝⁝臣纍世E恩︑榮祚豐

    衍︑竊不自揆︑貪少云補︑輒²具律本違句︑尙書舊事︑廷尉板令︑決事比例︑司徒都目︑五曹詔書︑d春秋斷獄凡二百五

    十ñ︒

    ﹃後漢書﹄應劭傳︑﹃晉書﹄𠛬法志

    【いったい國家の大事で︑典籍ほど重�なものはない︒典籍は︑ª疑を決し︑是非を�らかにし︑賞罰の?當性は︑そ

    の中正をとり︑後世の者が鑑とするものである︒⁝⁝私は纍世にご恩をたまわり︑ り餘る幸いをうけた︒そこで身の

    �も�みず︑淺Áな知識をふりしぼって︑律本違句︑尙書舊事︑廷尉板令︑決事比例︑司徒都目︑五曹詔書︑および春

    秋斷獄凡二百五十ñを�纂した︒︼

    應劭にあっては︑漢律および漢制度は︑あくまで過去の制度︑故事を記す書籍であり︑政治をおこなうに參考にすべき

    書であった︒それは實際に訴訟案件を司法事務の上で處理をするにあたっての法規集と法律用語の!用上の定義ではな

    かったのである︒

    東 方 學 報

    36

  • (3)

    治河卒非ED賈者︑爲著外繇六A

    (如淳曰︑律說︑D賈一A得錢二千)︒

    ﹃漢書﹄·洫志

    治河卒のD賈をEくるに非ざる者︑外繇に著けるを爲すこと六A

    (如淳曰く︑律說︑D賈とは︑一Aに錢二千を得る︒)

    如淳引用の律說が﹁D賈﹂という二字を解說する︒この﹁D賈﹂に關して言えば︑漢律の規定に確かに﹁D賈﹂という

    語が散見する︒

    發傳□□□□︑度其行不能至者□□□□□長︑官皆不得釋怨成︒使非 事︑d當釋駕怨成也︑d當釋駕怨成也︑毋得以傳

    食焉︑而以D賈責錢︒非當發傳K也︑勿敢發傳食焉︒爲傳過員︑d私使人而敢爲食傳者︑皆坐食臧爲盜︒

    ﹁二年律令」

    傳食律

    (229︑230)

    【發傳⁝⁝その行�を計って至ることができないものは︑⁝⁝いずれもT敎しえたばかりの馬を解くことはできない︒

    使者のうち公務がない者や︑T敎しえたばかりの馬を解くときには︑食糧を供給することはできず︑D賈

    (u價した

    價格)によって錢をs求する︒傳を開封すべき場Kでなければ︑決して傳を開封して食糧を荏給してはならない︒傳を

    發行して人數を超過したとき︑および私+に人を��して傳にて食糧を荏給したときには︑いずれも不正に飮食したか

    どで盜とする︒︼

    芻稾�貴於律︑以入芻稾時D賈入錢︒

    田律

    (242)

    【芻稾がもし律より高價であれば︑芻稾をî入する時のD價でもって錢をî入させる︒︼

    漢律から�律へ

    37

  • 諸當賜︑官毋其物者︑以D賈豫錢︒

    賜律

    (290)

    【賜與に當たり︑官にその物,がない場合には︑その物,のD賈によって錢を與える︒︼

    罰︑贖︑責︑當入金︑欲以D賈入錢︑d當E�︑償而毋金︑d當出金︑錢縣官而欲以除其罰︑贖︑責︑d爲人除者︑皆

    許之︒各以其二千石官治K縣十A金D賈豫錢︑爲除︒

    金布律

    (427︑428)

    【罰・贖・債務があり︑金をî入するのに該當するが︑D賈で錢をî入したい︑および賞金・補償をうけるのに該當す

    る金がない︑および金・錢を官署に出してそれで罰・贖・債務を免除されようと欲する︑および他人を免除しようとす

    る者は︑すべて許可する︒おのおのその二千石官の治Kの縣の十Aにおける金のD賈で錢を荏拂い︑免除する︒︼

    o︑殺︑傷縣官畜產︑不可復以爲畜產︑d牧之而疾死︑其肉︑革腐敗毋用︑皆令以D賈償︒入死︑傷縣官︑賈價以減償︒

    金布律

    (433)

    【國家の畜產をがしたり殺したり︑傷つけたりして︑畜產とすることができない︑および牧養して病死させて︑その

    肉・革が腐敗して用�がなければ︑いずれもD賈によって償わせる︒死傷したものを國家にもどせば︑價格については

    減損分を支払う︒︼

    「D賈﹂とは︑﹁Dするところの賈﹂﹁二年律令﹂盜律

    (80)とも記されており︑﹁D﹂とは﹁u」=

    u價の"味で︑D賈

    とは物價をu定し算定された標準價格に他ならない︒漢律條�は︑﹁食料を供給することなくu

    (D)價した價格によっ

    て錢をs求する﹂(230)︑﹁罰︑贖︑債で金錢でî入するに︑u定した標準價格でî入する⁝⁝は許可する﹂(427)︑﹁畜產を

    東 方 學 報

    38

  • がしたり殺したり傷つけたりして︑その肉・皮が腐敗して使用できない場合︑u價額によって償わせる﹂(433)という

    "味である︒

    如淳が引用する律說がどの條�に關するá釋なのかは︑定かではない︒しかし︑﹁一ヶAは二〇〇〇錢﹂との確定した

    數値が漢律の條�に

    應するのかといえば︑私は甚だ懷疑+である︒たしかに︑﹃漢書﹄·洫志﹁治河卒非ED賈者︑爲

    著外繇六A﹂においては︑﹁D賈﹂が﹁A二〇〇〇錢﹂という算定と解說は︑"味をなすかもしれないが︑D賈は時閒に

    åい可變性をもつのであり︑錢二千という定額は律�の﹁D賈﹂の語義とは乖離する︒さらに﹃漢書﹄·洫志にみえる記

    事は$漢成�ïであり︑A單位の錢立てであるが︑後漢円武三年

    (二七)では︑�賃は穀物の日割り計算で算定されてい

    る場合もあり︑如淳引用律說が律の語義にどこまで正確であったのか疑問とせざるを得ない(29

    )

    恩子男欽︑以去年十二A廿日︑爲粟君捕魚︑盡今年正A閏A二A︑積作三A十日︑不得賈直︑時市庸D賈︑大男日二斗爲

    穀廿石︑⁝⁝

    (E.P.F22:26)

    【恩の子男の欽は︑去年の十二A廿日に︑粟君のために魚を捕えんとして︑今年正A閏A二Aに至るまで︑!べ三ヶA

    十日︑賈直を得ず︒時に市庸のD賈は︑大男は一日二斗︑穀廿石となる︒⁝⁝︼

    律說はá釋家の恣"+訓詁であり︑それは自己の學識の高さを張することを競った經書の訓詁に類する︒そこには︑

    法律の實用面での用語解說というよりも︑律の條�に見える用語の解釋を以て自己の訓詁學+知識の陳述︑知識人の自己

    張でなかったのだろうか︒

    以上︑後漢末から三國晉にかけての律說をとりあげ︑律のá釋の內容︑特�を考えてみた︒そこから(かび上がってき

    漢律から�律へ

    39

  • た律のá釋は{のようなものであった︒

    律のá釋は後漢後�に馬融︑b玄たち十數家の﹁律違句﹂が出されるが︑﹁違句﹂という名稱が語るように︑經學書

    のá釋︑訓古學と{元を同じくするものであった︒

    魏の��の時には︑律に關する諸家諸說のなかで︑b玄の違句が參考にすべきものとしてõ用された︒しかし︑その

    b玄の律說とて︑漢律の條�の正確な解釋であったのかといえば︑そうではない︒あくまで訓詁學者の個人+解釋で

    しかない︒

    b玄︑如淳引用律說などが對象とした漢律の條�は︑同時代の現行法規ではなく︑律書は︑むしろ過去の制度︑故事

    を記す書籍として#われていた︒

    それゆえ︑現行法規の!用に,する實用+法解釋の補助+參考書の性格は希Áで︑裁案件を處理するための法律用

    語の定義︑犯罪確定のための�件の解說ではない︒律の條�の解釋が一定せず︑多岐にわたることも︑それが司法事

    務の處理ということを念頭においていないことを物語っている︒

    以上四點から�き出される結論は︑つまり律違句は經書の訓詁と同じであり︑各á釋家が自己の訓詁の學識を經書から

    それと同じ地Dにおかれている律書に廣げた�