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Title 徐乾學三兄弟とその時代 : 江南鄕紳の地域支配の一具體 Author(s) 川勝, 守 Citation 東洋史研究 (1981), 40(3): 480-511 Issue Date 1981-12-31 URL http://dx.doi.org/10.14989/153835 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Page 1: Title 徐乾學三兄弟とその時代 : 江南鄕紳の地域支配の一具體 像 … · 案史料により、徐乾皐一一族に劃する告訴内容 史捲案館編星例代捲案史料叢編』第五瞬、「徐乾鼠平等被控魚肉郷里茶義人民朕」として校貼をつけて企刊され向。この楢

Title 徐乾學三兄弟とその時代 : 江南鄕紳の地域支配の一具體像

Author(s) 川勝, 守

Citation 東洋史研究 (1981), 40(3): 480-511

Issue Date 1981-12-31

URL http://dx.doi.org/10.14989/153835

Right

Type Journal Article

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Kyoto University

Page 2: Title 徐乾學三兄弟とその時代 : 江南鄕紳の地域支配の一具體 像 … · 案史料により、徐乾皐一一族に劃する告訴内容 史捲案館編星例代捲案史料叢編』第五瞬、「徐乾鼠平等被控魚肉郷里茶義人民朕」として校貼をつけて企刊され向。この楢

480

徐乾墜三兄弟とその時代

||江南郷紳の地域支配

一具睦像ーーー

1

1

・目白目白目,,

z'

一徐乾皐の先世と一一一兄弟の官途昇進

二康照二

0年代の政治針立

三徐乾皐等告訴事件

四郷紳徐氏の地域支配とその特徴

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土口

ノ司

令市

- 70-

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〈厳)札、

『大清聖租仁皇帝貫録』巻一四六、康照二九年六月葵酉(十四日)の篠に、江南江西総督得控塔が、大間学士徐元文、原任

刑部向書徐乾撃は一

一族家人を縦しいままに動かし、勢威を笠に着て納賄し、民害をなしたとする劣跡十五僚を告鼓した。

しかし、その結果は、康照帝の「所参の木内各款は、寛に従ってその審明を菟ず」という特旨で徐氏一族は不起訴になっ

たことがみえる。

康照二九年は、呉三桂らの三落の飽の銀定後

一O年目であり、

た、針外的にも、前年二八年三

六八九円

圏内統一はなっていた。

ロシアのピョ

ート

ル大帝の使臣との聞でネルチンスク僚約が締結され、

既に蓋潤鄭氏も卒定され、

まロ‘ コノ

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アの南一下を抑えていた。こうしてみれば、康照二八

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二九年ごろ町、清の桂制確立期と考えることができよう。康照二八

年、康照帝は清皇帝として始めて、江南一帯への巡行、すなわち南巡を敢行したが、これも清の中園統一のセレモニーと

考えられる。

徐乾皐に糾問する告訴は、別の一件が二八年にも起っており、二九年の事件とともに、それらが康照帝治下、清朝の鐙制

確立期の最中に起きた事件であったという貼から、その政治史的意義の究明が要請される。すなわち、徐乾皐らの告訴が

数次一にわたり、しかも南江総督待並塔という満州人質力者の告訴にもかかわらず、不起訴に終ったとなれば、この時期の

清朝盟制ないし清朝の満洲人政権設たどの内容に再考を,迫るものがあろう。

,徐氏告訴事件は、貫録、東華録に記述があるが、

。事件の詳細を知るに十分な原史料が楢案として残っており、先に一

F

三O年、『文献叢編』第四・第五輯に「徐乾皐等被控紋L

として活字印刷され、また、最近の一九八

O年に、中圏第一一歴

史捲案館編星例代捲案史料叢編』第五瞬、「徐乾鼠平等被控魚肉郷里茶義人民朕」として校貼をつけて企刊され向。この楢

案史料により、徐乾皐一一族に劃する告訴内容H徐氏一族の不正行魚の詳細が明らかになるとともに、徐氏の不正行矯が示

す徐氏一一族の郷紳としての領域的地域的支配の貫態をも具瞳的に検査できると期待される。

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徐乾皐の先世と三兄弟の{目途昇進

1

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康照二、三

0年代に刑部向書(乾拳〉、内閣率土粂雄部侍郎(乗義)、内閣大拳士粂戸部向書(元文)という寓官要職とな

った三兄弟を出した江蘇蘇州府毘山懸の徐氏はブ清朝下の漢人官僚の家としてまず一級の家柄となったが)その先世はど

の程度の家であったのか。また、特別な問題としては、江南郷紳にとって極めて深刻な選捧を迫られた明清鼎革をどのよ

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482

うに過したか、がある。

乾康三兄弟らの治氏は、乾皐らの六世の組の申が郷牒常熟豚より毘山に遷った。申は弘治十七年の師事人、刑部声事から

湖州推官を歴任した。その子の一元は鯨の諸生から太畢生となり、選により交河豚(北直・河開府)主簿をつとめ、また

その子の汝龍も諸生となったが、たまたま嘉靖倭冠の害を受け、家屋数を焼かれて姻戚顧氏に居候したという。その子、

ヴ,

すなわち乾泉らの曾祖父の膳鴨は高暦十一年に準土となり、太僕寺少卿にまで昇進した。鹿鳴の子は、寓暦三四年の副携

貫生、氷芳、同四三年の副梯貢也、氷美ほかがあっ制が、いずれもさしたる官職経験はなかった。その次の代、つまり乾皐ら

の父の代となるが、まず、鹿轄の堂兄弟の臆時の孫に嘗る開轄は崇踊元年に準士となり右春坊右中允となっており、その

A刀

zhu、

弟の開裕は崇頑九年の翠人であった。一方、鹿聴の長子永芳の子開遠も崇頑十二年に奉人となったが、乾皐の父の開法、

川河

その弟の開緒らはいずれも康例の貫生で官職経験はなかった。

乾同月干の父の世代は、明清鼎革の時期に嘗った。参入開遠は順治二年の昆山城陥落の際、まず子の履償、履恒を殺され、

- 72ー

自身も三子の履慢とともに捕縛され殺世一目されそうになったが、自分だけ助かり、その後、順治十六年湖南、賓慶府推官か

内1w,

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んけい

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ら一幅建江州府推官となるというように清朝に仕えた。しかし、同じ世代の開菅・開宏は明に殉じて清兵に抗して死亡し、

開任は清に仕えず隠逸の生活を逢ったというように、明清鼎革に嘗つての徐氏一族の生き方は様々であった。なお、開任

は婁東(太倉・毘山〉では臭偉業とともに「尤も史皐を専らとす」といわれ、

また、徐挑の責宗義もこれを稿して「近時、

4Aリ

ほとんど廓清の功を牧むるに幾からん」といったという。開任の史祭がいかなるものか、

偽書の流行し、此の録出でて、

もとより詳細は知れないが、これが明史編纂に携わった乾皐兄弟に何らかの影響を輿えたことは確賓であろう。乾皐の父

の開法も、

明末に諸生から太同学生となっており、

甲申・乙酉の明清革命に際しては

清朝から明経を以って薦も受けた

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が、疾と稀して出仕せず、蹄郷の後に門を社ざして生涯城市に足跡を残こさなかったという隠逸生活を迭った。なお、閥

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法の妻の兄はかの顧炎武で、乾皐兄弟は幼時よりその皐風の薫陶を受けたという。

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こうしてみれば、乾皐ら昆山徐氏の先世は数名の進士・奉人合格を出し、官職経験を持ったものも居るには居るが、

般的には内閣大撃士や六部尚書を輩出させた江南士大夫の家と比べればやはり寂しいもので、むしろ先世の多くは諸生ク

ラスの讃書人が多かったとみておくべきであろう。

2

三兄弟の官途昇進

長子乾拳は、崇頑四年三六三一)十一月二日の生れ、順治十一年三六五四)に蘇州府皐より年貢生に選ばれ、同十

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七年京兆郷試に合格し奉人となったところ、翌年江南奏鎗案事件にまきこまれ、除名すなわち孝人身分の剥奪の慮分を受

け、官途昇準は一時閉ざされた。

次子乗義は、崇頑六年(一六三三)六月十八日の生れ、初名輿儀、十五歳(順治四年一六四七)で太倉州の諸生となり、

兄弟一緒に蘇州の文社で活動した。しかし、乗義も奏鋪案に連坐し、馳籍となった。

三子元文は、乗義と年子の崇頑七年九月二八日の生れ、十四歳で諸生となり、兄らと蘇州の文社で勉強し、順治十一年

- 73ー

に郷試合格、

じ、

ついで同十六年には禽試に庭じ、股試に首席(獄元、

翰林院修撰に除され、エリートコ

Iスを歩むことが約束された。 一

甲一名)で準士及第を果した。準土合格は二兄に先ん

元文も奏鈎案の被疑者とされて名が出、

しかし、

(「好得、公の名をその中に鼠す」)、饗儀衛に諦せられた。

順治十八年に渡せられた奏錨案では、繕紳二一七一名、生員一高一三四六名、計文武の紳衿一高三五一七名が公職追放

や科奉身分の剥奪晶一すの慮分を受け、これが清朝に劃し何かと反抗的気運をみせた江南郷紳の抑制を狙った政治的大量庫分

であったことは疑いを容れない。徐氏三兄弟も、すでに準士合格を果した元文を含め、

いずれも庭分された。

奏錯案の慮分解除は

一般的には事件後十五年も経

った康照十四年で、

しかも権利の回復には摘納が必要とされた。し

483

かるに、徐氏三兄弟の慮分解除は目立って早く、

はやくも事件の四年後には元文の無賓が誼明されて原官に復していた。

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484

科拳瞳試を許された乾皐は、

康照九年の殿試に探花(一甲三名)で準土及第となり

弟の乗義は八年の順天郷試で奉人、

十二年にやはり探花で準土合格となった。結局、三兄弟は紋元、探花という高位合格で、

いずれも翰林院系の高官コ

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死、ニo

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主として史書の編纂であったが、ここで三兄弟が修拳中にどんな拳閉経験を持った

か、事的交友関係と専攻皐聞の特徴をみてみよう。まず、幼時における家庭数育では、先述のように父の開法が諸生から

翰林院に入った三兄弟の任務は

太皐生となり、明清鼎革の際明経を以って薦を受けたとあることから、父から鰹恩ナを皐んだと思う。失に、やはり先述の

如く、父の世代の親族には明末清初に呉偉業とともに太倉史皐の雄とされた徐開任があり、また、母方の伯父にはかの顧

炎武がいる。三兄弟は雨名から史翠を皐んだことは間違いない。

順治四年ごろ、乾皐十七歳、

乗義十五歳、元文十四歳で蘇州の文祉に参加し、その領袖の長洲鯨宋貫穎(既庭〉、問、{木

徳宜(文格〉、問、彰璃(雲客〉、臭鯨の忽彫(念資〉らの推を受け、これより三徐の名が遠近に聞えるようになったという。

このころの三兄弟の象風は古皐を旨とし

吉家に汎濫し、

六経を根抵として「明理致用」につとめるものであったとい

- 74ー

女に三兄弟の官職経歴を略述しよう。まず、進士及第の早い徐元文は、準土となるや直ちに翰林院修撰に除されたが、、

奏錯案のため

一時昇準が中断し、その後、康隈八年に園史院修撰、

首し、翌年廷推により園子監祭酒となり、また経鐘講官にも充てられた。以後、因子監祭酒にあること四年に及んだ。こ

ついで秘書院侍誼に進んだ。同年秋には快西郷試を措

の聞の元文の業績として明以来の園子監入監査格の手直しがある。納粟監生や歳貢生などの資格を大巾に制限し、

その責

格を各府民平から一年おきに推薦された品行・文拳ともに優秀な者と郷試の合格者で摩人の濯にもれた副楊貢生とに定め

た。因みに康岡山帝の祭酒徐元文に劃する評言に「徐某、祭酒たりし時、規篠巌粛、満洲(人〉の子弟も数えに率わざる

は、必ず援責を加う。今に至るも猶お之を畏る。後来、

一那んぞ此くの如きを得んや」という。その後、康照十二年京兆郷

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試の責任者となり、

が、康照帝は元文に兄乗義の数習のみを兎じ、退職は許さなかった。元文は翌十三年五月に内閣皐土粂躍部侍郎となり、

ついで清の太宗貫録編集副総裁となった。翌十四年四月には翰林院皐士粂躍部侍郎、日講官起居注を捨嘗し、五月再び数

また庶吉土敬習の任についた。

この時、

兄の乗義が庶吉土となったため、

数習の職を勉附そうとした

習庶吉土を粂ねた。このころ、康照帝への準講は桐城の張英と分携した。康照十八年以後、明史の監修に嘗ったが、閣臣

動臣以外の皐士でこれになったものは元文だけであった。元文は、故明の給事中李清、主事責宗義、副使曹溶、主事注搬出

麟、布衣黄虞種、諸生萎震英、寓言等を推拳したが、部議の反封にあった。しかし、康照帝は元文の提案を支持し、李清

らを召そうとしたが、李清、黄宗義、曹溶らは老を以って至らなかったという。元文は十九年に都察院左都御史、二八年

に文筆殴大皐士粂翰林院事となり、この聞に戸部尚書も粂ねた。元文は翰林院官のみならず監察官たる都察院の御史や財

務官僚たる戸部尚書を勤めたが、これは彼が草なる挙者官僚でなく、責務官僚であったことも示している。事賞、三藩の

乱鎮定後に、三藩の虐政として専の五害(駿埠、渡税、総底、市舶、漁課)、閣の四害(堕税、報船、冨優喫夫、牙行渡税〉、濃南

の四害(勲荘、園田、磁廠、兵多)などを指摘し、

その針策を講じたことや、

戸部向書に就いた際、

その一面を窺うことができる。

銭穀の帳簿を調査する

- 75-

のに脊吏の手を俵りなかったと稽されたことなどからも、

次に、長兄の乾皐は、康照九年に

一甲三名(探花)で準土合格後、

翰林院の編修、

同十一年に奈啓得の副査として順天

郷試を主ったが、この試で蘇州の韓英を抜貢した。しかしこれが因で察啓得とともに期草されたが、やがて復官した。そ

の後、翰林院の左賛善に遷り、日講起居注官を経て、明史総裁官、侍講皐士に累遷し、康照二三年多に倉事、二四年には

南書房(翰林院〉に日直して、内閣皐士に擢ばれ、大清曾典、大清一統志の副総裁、数習庶士口土となった。ついで躍部侍郎

となって経鐘に直講し、二六年には左都御史に遁って、その後、刑部備蓄となった。乾撃は性格が侃侃、豪傑肌でよく人

と交わって友人が多かった。彼の事蹟で注目されるのは、郷黛のために善事を行うことが多かった貼である。故友朝土の

485

葬儀を行い、乗義・元文の二弟とともに、朱子の祉倉法に倣って世徳倉を立て、穀二千石を貯えて貧民を済った。同時に

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486

た伺向。釜

曾帥を組織し

貧民墓地をイ〉

くり

また、千畝の義荘をつくって一族の助けとするなど、徐氏

一族の宗族結合を強化し

乗義の経歴は、康照三

O年に入ってからが目立つので、ここでは割愛する。

康照二

0年代の政治封立

1

康照二七年の二月政繁

康照二

O年十

一月、湘専川三路の軍が雲南に入り、呉三桂の子世渚は自殺し、三藩の凱は卒定された。翌一二年正月十

四日、康照帝は乾清門に御し、内閣大摩士、内閣皐士、各部院等の堂官、翰林皐士、講讃日講、編修、検討、倉事坊局、

科道掌印官等の九十三員を集めて宴舎を催し、以後の歌作暢飲、笑語の禁を解いた。同年二月には翰林院侍講王鴻緒が疏

参して、楚人朱方旦の異端的儒教が摘瑳された。同年の五月、康照帝は治政の方針を「清憤勤」の一一一大字に約し、内政の

充貫が喧繍附された。一方、翌年十月には祭酒王土顧の請により園皐所臓の十三経注疏と二十一史の刻板が修理され、ま

た、このころ総督・

巡撫に各地方の明南監本の調査が命ぜられ、儒皐傘組閣にその版木が牧貯された。こうして康照帝の

一方では康照帝の新政下でも存在するボス政治の弊害は頂黙に達し、康照二七年に入るや、

- 76-

「文化」政治は進展したが、

漢人言官の糾弾が始った。

すなわち、康照二七年二月六日、御史郭誘は、黄河治水の総責任者、河遁総督斬輔と嘗該地区の巡撫等官の弾劾を行つ

たのに績き、大臣たる大皐土明珠、同余園柱らが背公結議して納賄皆私につとめていると糾弾し、

摘した。

一、凡そ閣中の票擬は、倶に明珠の指磨、

その貫跡を次の如く指

軽重も任意で

もし

余園柱、が其(明珠)の風旨を承けハて行い)、即舛錯が有って

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も、同官は敢て駁正し莫い。皇上は聖明で、時に詰責が有るが、乃漫として省改が無い。

即ち御史陳紫芝が湖贋巡撫

張祈を参劾した疏内に、並に保奉の員を議慮せんことを請うが如きも、皇上は九卿に面識し、躍に一睡に巌に議虚を

加うべきに、乃ち票擬は寛に之に及ばざれば、則ち張所を保奉せる原属の指塵、即ち此れ見る可し。

一、(要旨)明珠は皇帝の旨を勝手に増添し、何でも自分の手柄とし、群心に結黛して貨賄を挟取している。

(

思泰)

控)

一、明珠の結連んだ黛羽は、満洲は即ち戸部尚書併倫、

刑部侍郎嘉思泰、及びその族姪の工部侍郎縛鵬塔、刑部侍郎席

珠等で、漢人の穂撹は余園柱で結んで死黛を矯し、寄るに腹心を以ってす。向時、舎議禽推は皆悌倫、首相思泰等の把

持するところ、余園柱は更に之が嚢棄と漏り、惟だ命を是れ聴き、但だ徳を私門に戴くを知るのみ。

一、凡そ総督・巡撫・布政使・按察使が絞出すると、

余園柱等は展轄販制鰐せざるは無く、必ず索めて欲を満たすに及ん

で後に止む。是を以って督撫等官は愈よいよ駿剥に事め、小民因を重ぬ。今天下車主に遁逢し愛民は子の如くも、民

猶お未だ給足せざるは、皆責官捜索して以って私門に奉ずるの致す所なればなり。

て(要旨〉康照二三年、準遁報漏の後、賄賂が横行し、士風文敬が大壊した。

一、(要旨)河道総督新輔と明珠、

余園柱らは結託して工事費を横領着服している。

一、(要旨〉明珠、余園柱らが科道官の内陸、出差の考濯を左右する結果、言官は明珠らの牽制を受けている。

ねんごろになり

一、明珠は自ら罪戻を知り、人見ゆるに概ち柔顔甘語を用い、百般款曲するが、陰に鷲害を行い、毒を意い険を謀り、

(督)

その好献を震かれるを恐る。併倫線憲たりし時に嘗り、御史李時謙の累奏旨に稿い、御史呉震方

- 77ー

最も忌む者は言官、

頗る参劾有るを見て、即ち事に借りて排陥し、問者をして骸健せしむ。

御史郭務の糾弾は康照帝の支持するところとなり、同月十一日の吏部に下した上誌には、人事任命権の皇帝への集中、

並に人事の公正化と不正の防止を示した。関係者の鹿分は、大率土明珠、

問、勤徳洪が革職、問、李之芳が休致回籍、同

余園柱が革職、吏部尚書科爾坤が原品で解任、戸部商書併倫と工部尚書熊一輔が解缶、というそれぞれの昆罰が出た。こ

487

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488

こに内閣は二名の満人大皐土、二名の漢人大島土が革められ、五名の大皐土中残こるは漢人大皐土王国一一人となり、大巾

改造となった。なお、吏部山問書の科爾坤は康照帝の第一皇子の妻の父であり、併倫とともにこの時期の有力満人官僚であ

ったにもかかわらず失脚した。

明珠議の失脚は、正じく康照二七年二月政援とも呼べるくらいの規模があったが、所詮は内閣|六部の高級官僚による

公権の私物化現象で、康照帝の一喝で霧散すべき議羽であった。

績いて同年三月には、御史陸組修は、「河道組督斬輔、身は外に在ると難も、九卿と呼躍すること甚だ霊なり。曾議の

時、一向書併倫、科繭坤等は公議を顧みず、河臣に左担す。縞かに思うに河工・屯田の二事は子成龍自ら成算が有り、陸に

子成龍の京に到り明確丸面奏するを倹っ

て、加うるに乾断を以っ

てするを請うベ同と言い、審査が始った。

ここに康照

帝は、新輔

・子成龍らの主張を比較検討した。その後、御史郭誘や新任工部向書李天謹らの意見も提出され、結論として

子成龍の主張が採用され、斬輔の意見は斥けられた。それを受けて、吏部は斬輔

・慕天顔を革職とし、孫在盟、併倫もま

た降調された。

- 78一

ところで、先の二月政援後、内閣大皐土に登用されたのは梁清標と伊桑阿であり、六部では李天龍が工部向書に、張玉

書が兵部向書に、徐乾皐が刑部向書にそれぞれ就任した。徐乾摩は前年の二六年九月に都察院左都御史となっており、二

月政獲で何らかの役割を演じたことが推測されるが、

乾皐はそれ以前からも科爾坤や余園柱らの明珠議とは意見を異にす

-OH,

ふHV

ることがあり、二月政獲で明珠山無が失脚したことを受けて、刑部向書となったものと思う。時人の衆くは、明珠らの失権

拝翁は撃惣乾し撃たが」之とをも主言つオっ たれと

だ伺Vものも居た

また

明珠らを北謀、

乾皐らを南議とし、

「時に南・北議の目有り

互に相ひ

2

康照二八年の九月政嬰

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康照二八年九月、左都御史郭務は、再び康照帝側近官僚の糾弾を行った。すなわち、原任少倉事高土奇、左都御史王鴻

ACマ

hu、

緒らが-植黛営私、皇帝の権勢を偲りて財物をかすめとっている(「招揺鐙編」)というもので、今回の糾弾は、同じく近臣と

いっても、満人有力官僚は含まれず、専ら漢人官僚で、翰林院系の文人官僚が封象であるのが特徴である。

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高士奇らの罪献の一。高土奇は出身微賎、その始めや徒歩で上京し、監生となったが、その字皐が頗る工みであるこ

とが帝の自にとまり、資格に拘らず翰林に擢補され、南書房供奉に入ったが、仕事はもとより文章を考訂するに過ぎ

しごとをうけおって

ず、園政に興ずかるなどとんでもなかった。しかし、次第に大臣と結納詰附するようになり、撹事招接して私腹を肥

した。内外の大小臣工も土奇の名を知らぬものはなく、南書房で樹事する者の中で高士奇だけが名撃を博している。

高土奇らの罪肢の二。高士奇は王鴻緒と死黛を結び、科臣何楢とは義兄弟となり、翰林院陳元龍とは叔姪の関係とな

り、鴻緒の貫兄項齢とは子女の姻親といった人的関係を結び、相互に同盟をつくり、外には勧誘を行う。そこで督撫

(

)

以下の地方官や中央の諸官は皆、(高士奇)、王鴻緒、何楢を寄るべき居停とし、観や賄賂は千寓を数え、この黛護に

属さないものの常例の挨拶料を「卒安銭」といった。贈賄者は土奇が供奉の日久しく、勢焔も日に張って、人皆これ

- 79ー

を「門路員」というという。ところが、

土奇は自分が勢を笠に着て人の財物をかすめ取っているのを忘れ、自ら「私

の門路は員」と思っている。

高士奇らの罪肢の三。光梶食子易は北京で悪事を重ねること数年、事の露呈を恐れて潜かに直隷天津、山東灘口地方

に遁れた。その際、北京虎坊橋に所有する瓦葺の家屋六十除問、その債値八千金を、土奇に観迭し、照携を託した。

やちん

この他順城門斜街ほか各慮の房屋も、総て士奇の心腹が名義を出して置買したもので、何楢が代って租を牧めてい

'向

ν

る。北京の打磨場には士奇の親家の陳元師と彩計の陳季芳が鍛競を開張しており、各昆に寄頓した賄銀資本は約四十

ANw,

除寓雨となっている。他方、士奇は出身地の卒湖鯨に田産千頃を置買し、大いに土木工事を輿こし、花園を修置し

た。杭州の西漢に廉く園宅を置き、蘇松准揚で王鴻緒らと合彩して生理し、また百除首内金を下らない。痛かに思う

489

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490

めたものではないか。

に、書生で口に倒する窮儒が、今忽ちに数百寓金をもっ富翁となった。試みに問う。金はどこから来るや。各官に求

しからば各官はどこから工面したか。園需を侵したのでなければ民の膏を剥りとったものだ。

」れ士奇らが員に園輩、民賊であるところだ。

高士奇らの罪朕の四。皇上は聖明で、

その罪を洞悉している。ただ、各館史書の編纂が未だ完らないから、竣事まで

かかる持全の鴻恩は至極である。しかるに土奇らは過を究

って自新し、俊めようとしない。南巡の際、康

照帝は観迭・賄賂を巌禁し、違犯者は軍法をもって治罪することにした。ところが士奇・鴻緒は死をも畏れず、准揚

等慮で王鴻緒は各府醸の各官に招撹して黄金を酒かに土奇に績るよう約束させた。これ、土奇らが君を歎き法を滅ぼ

解任せず、

高し土奇公らにの背罪い吠ての私五を。行

更う

骸?とくッで

可あきる

とt主

王鴻緒、陳元龍は鼎甲出身、巌然たる士林の題楚であるのに、寛に清議

ハUOO

を顧みず、人に盤断を作しても恥とせず、大臣に蝿びて人の屑としないところに甘んじ、かつ辱づかしめられたと思

わない。有か富貴を固って、名数を敗傷した。どうして朝廷を砧し、嘗世の土たるを蓋じないか。これを組じれば高

土奇・王鴻緒・陳元龍・何惜・王項齢は針狼がその性、蛇蝿がその心、鬼蛾がその形である。

高士奇グル

ープに劃する御史郭務の糾弾も康照帝に支持され、同グループは全員休致回籍の慮分に附され、失脚が確定

した。このグループは、第一に先述の如く漢人のみの翰林院官僚で構成されていたこと、第二にその出身地がいずれも漸

江と一部江蘇に限られた江南官僚のグループであることが特徴である。

る黙が多く、

それでは、徐乾皐兄弟はこの高士奇グループとどのような関係にあったか。江南出身の翰林院官僚である貼など共通す

また、同グル

ープの糾弾があった翌月には徐乾皐に射する糾弾も始ったことからみて、何らかの関わりのあ

ったことは想像される。

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徐乾同月子等告訴事件

康照二八年十月、副都御史許三躍は原任刑部向書徐乾皐を疏劾しているが、その内容は概略次の通りである。乾皐は品

A河司,

huv

行を顧みず、身を律すること厳ならず、罪臣張所の供を受けた。乾皐は長く在京、修史を事とし、禁廷に出入し、高士奇

らと表裏して行動した。乾皐の子の試御史徐樹穀の就官も成例に遭ったものではなく、その考績は全く不明瞭、明らかに

侍むところがあるもの。乾撃の弟乗義や原任瞳部向書熊賜履は人物良好、皐識もあるから乾撃に代わるべきだ、と。かか

る許三躍の糾弾に射し、康照帝は乾皐の回奏を求めた。

乾間四干の癖解。許三躍がいう罪臣張所から供する所があったという黙については、臣は全く一銭の受け取りもない。高土

奇との関係も皐にともに史書の検討を行ったり、御濯の古文を校聾したりする以外には、全く干渉はなかった。子の樹穀

の考濯についても疑いを容れるところは断じてない、と癖解した。

許三瞳の疏劾文と乾摩の回奏とはともに吏部に下されて審査され、

その結果、吏部は、乾撃の招搭納賄は貫綾なし、

- 81ー

た樹穀の醸鵬とした考濯といっても確誼なしとし、

かえって許三瞳は降二級で調用すべしと決定した。

AW叫,a

hHV

これに封して、許三雄はひるまず、徐乾皐

一族の不正を九款に分けて復疏した(これを史料甲とする)。

A川w,

'M匹、

甲①一、乾事は丁卯(康照三ハ〉郷試、戊辰(哩一七)曾試で、外に在って招揺し、門生親戚、有名な文士が各ミ関節を興

え(賄賂を納れ)、務めて中式を期した。蘇州府貫生何帰は乾皐門下に往来したが、深くその弊を悉し、特に舎試の墨

巻(原答案〉に序文を作り、寓言で調刺した。乾同学聞知するや、即ち書舗に向って序を持って抽触させ、江蘇巡撫に

嘱託して何悼を訪金ナさせたが、今に至るも未だ結していない。

)

②一、乾翠は元本銀十高南を裂し、盟商項景元に交して揚州で貿易させ、毎月三分利息をとった。本年七月聞かの孫婿

〈決算)

史姓の家人李相を景元に押同させて八月二十四日北京で算脹し、共に本利とも十六首阿南を結算した。叉、布商陳天石

491

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492

こう

も新たに乾摩の元銀十蔦雨を領し、北京の大蒋家胡同で嘗舗を開張し、

し、禁に違って利息を取り、怨撃は道に満ちている。

その除の銀競銭呆もみな元本に設して放債

一、乾壊は門生李園亮が江蘇按察使と漏り、代りに(徐氏の家主

町配した。園亮は劉管家を差して銀

一車問を迭り

乾準の管家具子彦、果子章に交して牧めさせた。節を過ぎたときの迭銀四百雨、小躍四十雨、誕生日(十一月二日〉の

じゅんび

迭銀一千両である。具子彦は張所の事が渡したことで逃回したので、その寅弟の子章に牧めさせ、

徐元文入閣の掛事

うけとら

とした。園亮は管家劉姓を差し賀雄五千雨を迭り、果子章に交して牧級せた。

ひっぱりあって

一、乾皐は光視徐紫賢、紫書の二人を姪とし、逼同祉

して、得賊寓を累ぬ。紫賢・紫室田は現に欄面胡同で花園房

屋を造った。審開の子が一朝で富貴とな

った。金はどこから来たか。乾準の賦物の牢はその手に出た。

一、

乾皐はその弟の入閣の後、親家の高土奇と更に招揺を加え、以って「余秦槍(秦槍のような余園柱)を去らせたら、

徐巌嵩

(般協のような徐元文)を来させた。乾皐は踊滑に似たり、

是は彼の大長兄」の諮言が立った。

みやζ

物は東海(徐乾開きに蹄し、高園の金珠は櫓人(高士奇)に迭らる」の劃聯は京城の一一一尺の童子もみな知っている。

わいろ

し乾撃が萄直を絶したとすれば、なんでこんな醜語があろうか。

一、

乾皐は弟宏基を各省に遊歴させ、各地の富豪から寄附をせびり、河南磁州

・彰徳府では逗留一年有絵、放賭宿妓

また「四方の質

- 82ー

して、良民は害を受け、怨撃は道に載る。

一、乾皐は御史待感丁の北京邸宅一所を買い、債銀六千除雨、

開学士孫在盟の北京邸宅一所、債値五千五百雨を買った

ほか、

某天顔の無錫鯨の回

一高頃、京城縄匠胡問、半裁胡同と横街の新造房屋甚だ多くを買い、枚摩することはでき

すべて

ない。蘇州、太倉、毘山、呉幌、長洲、常熱、臭江等の州豚は、倶に徐府の邸宅団地である。

(凶)

⑧一、乾拳の子徐樹扉、

徐樹撃は甲子(康照二三年〉の郷試で食縁で翠人とな

ったが、弊が護見され身分を期草された。

行止脇有るは、此れより甚しと魚すは莫し。

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⑨て乾拳は身は園恩を受けながら、乃ち敢て桃李を一門に槙え(人材を一門に養成し〉、腹心を九州に醗まき、横行粟

級、在直を顧みず、之に順えば生き、之に逆えば死す。勢は中外を傾け、擢は嘗時に重く、朝綱素す可く、成例滅ぼ

す可し。

許三躍の再度の糾弾復疏に封し、大皐士徐元文が鼎解を奏上した。しかし、それは許三躍の主張が事賞に基づかないと

強離するだけのことで、甚だ説得力に絞ける。それでも、康照帝の裁決ではまたしても、徐氏は不起訴、許三躍は罪あり

とされた。

ところが、徐乾拳は許三躍の糾弾に弱り、年六十歳という老、精神の衰耗を理由として一時の蹄郷を願った。これに射

し康照帝は、「卿は事問掩博、各館書史を総裁し、著しく勤務有り、墓参に蹄省するを奏請するに、

る。国籍に骸るを准すが、書籍は著して随幣し編輯せしむ」という旨を下し、

'MO

また

情詞懇切なるを覧

御筆の「光談高丈」の匿額を賜つ

- 83ー

(雌)

その直後の六月に南江総督停並塔は、江蘇巡撫の洪之傑と

原任刑部向書徐乾撃、大拳土徐元文及び彼らの子姪の積跡数箇僚を列翠し、糾弾を加えたされを史料乙とする〉。

乙①一、康照二八年、徐元文大泉土に陸任し、洪之傑詰拐して、金字大直一方、旗揮二根を製り、旗上に金銭の『端葉金

甑泰開玉燭』八字を書き、督糧同知挑醸鳳に委ねて徐元文門前に賓至し樹立した。復た賀儀一寓雨を迭り、徐元文の

翌年二九年四月、徐乾風平らが手がけていた大清曾典が完成、

子事人徐樹本が親ら牧めた。

②一、康照二八年、原任松江府知府組寧は徐元文門下に投奔し、銀一千雨を観り、元文の姪樹扉・樹敏が親ら牧めた。

けっさんMさん

@↓、康照二八年、松江・江寧・常州三府採買の青藍布を戸部に解り、債を少くして多くを買った。(差額の)錯銀一高

ぶんばい

四千徐雨を、洪之傑、越寧、徐樹木等が分肥した。

493

じゅうよう

④一、徐元文の子樹撃は、京より巡撫街門に到るや、要緊な密信が有ると稽し、

開門やや遅れるに因り、

門吏を喝打

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494

ききつけ

泌わて

かえでる

〈ひ

しよう

し、洪之傑聴聞するや、

忙邸中門を大開し、鳴鍛撃鼓し祭を作して迎準す。街役も路人も皆恥笑を震す。

一、

洪之傑は康照二八年、重犯減等の案件内で吏部の禽議は革職としたが、皇上の寛宥を蒙り、降級留任となった。

しかるに元文

・乾皐は鴻恩を冒かし、以て己が力と潟し、洪之傑は銀二寓雨をば原任松江府知府組寧に、4

怒らせ徐樹本

が牧めた。

一、康照二八年、

蘇州間門外の居民欽沫

・欽鼎丞は彼此争訟していた。徐樹敏は欽鼎丞家の裕を見て、巡撫に蝿託し

うけとら

かの家人徐孔昭・李孔章に交興して免牧

て欽派

・欽震植をして(欽鼎丞を)謹告せしめ、

欽鼎丞の銀

一千雨を詐し、

せた。

⑦て徐樹盤兄弟は前に蘇州府承天寺内噸政山房に往き、悪僧等富厚をみ、銀一千両を詐し、巡撫に帰して激浪山房の

借のみを止留し、

除房の備は藍く皆堀逐し、後に逐われた備と衆くの百姓は悪倫を留め好倫を逐出したとし、公憤怨

- 84ー

恨している。

一、

徐樹本は王絹植の母を唆かして同豚の監生李端的加が久しく親を葬らなかったと告設させ、李端鞄の銀四百両を詐

得した。

一、

康照二九年、

蘇州豹門外の果子行の陛雲椿、斡雲若の二人が行業買寅を争っているので、徐樹本は詑

ってかの親

けいえい

の湯機先、

湯在治に生理させ、

陸雲椿の銀二百四十両を勤得した。

一、徐樹界は光視徐長民を庇護し、

徐長民が仇家の生員黄中堅の聾言で必ずその害を受けたとし、

雨、

資中堅の金四千

田の六百雨に抵るを嚇許した。叉、黄中堅を光根徐長民に交興し、殴らせ指を折らせた。

⑪一、

徐樹盤

・樹木等はかの銀米を六月より放出し、十月に交牧し利息銀は毎雨五六銭米は毎石五六斗を起こし、重利

魁剥し、貧民が償還する能わざれば、即ち家人を差して打罵させ、貧民受け難く、妻子を典買するに到る。その勢力

を畏れ、敢て理を告すものはいなしν。

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⑫一、徐乾皐、元文はかの子姪の団地を均しく別人名義に填入し、毎年銭糧を施欠し、官員の議慮にもかかわらず、勢

を以て歎匪し、終に完納しない。所有る毘山鯨の知豚は総べて銭糧(未完)のために革職降級とされ陸任できない者

が多い。

⑬一、徐乾皐は本年三月内に回籍したが、

四月には名血管を枯らんと欲し、蘇州府貢監生胡三錫、周郊詩等に蝿託して巡

撫洪之傑に百六星させ、違例にも(自己の)生洞を虎郎山上に建造しようとした。

⑭一、徐樹本・樹撃・樹扉・樹敏の家人徐孔昭・高彬甫・臭漢周・曹爾玉・蘇雲生・金正昌等は蘇州城に往来し、輪番

更替、馬吊演劇をやり重夜を虚かず、毘山知鯨の船夫を勤索し、大小街門の事件を承撹す。蘇州府城東に毛上列、西

城に賀聖徴、関門外に顧思誠が有って、慮昆差遣して有業の人を打聴し、信息を担告す。蘇州の民人皆投緯擁渡航仰と

稽し、怨恨切歯、奈何す可くもなし。

⑮総じて、徐元文等至富至貴、向お足るを知らず、皇上の仁恩を以て、選えて己が力と魚し、権勢を招提して、通省の

官民を恐嚇し、是非を顛倒し、銀銭を得受す。叉縦ままに、虎狼の如き子姪家人を放ち、大小街門に出入させ、地方

を擾害す。叉、復た争訟を唆使し、重利で民を累す、悪徒を牧めて羽翼と震し、世世相扶けて以て富貴を園る。

市る

に地方の大臣、巡撫洪之傑の如きは、叉趨炎附勢、婦を献じて鹿附を篤し、有司皆畏れ、逢迎せざるは無く、官既に

- 85ー

進迎せば累は小民に及ぶ。

得控塔の糾弾に糾問しても、康照帝の旨は、「参する所の各款は、寛に従ってその審明を兎ず。徐元文は休致回籍に著か

しむ」であった。

要するに康照帝の指揮権設動ともいうべき慮置で徐乾皐一族の告設は不起訴となったのである。しか

し、徐氏の郷里毘山鯨を中心として江蘇各地の土民は停並一塔の糾弾を契機として、以後二九年九月からコ二年十一月ま

で、徐氏

一族の不正を告護し績けた。

495

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496

郷紳徐氏の地域支配とその特徴

中圏第一歴史檎案館編『清代檎案史料叢編』第五輯「徐乾鼠平等被控魚肉郷里茶義人民獄」(以下

『播案』徐乾皐と略す〉

1

郷紳徐氏の権力構成

23

附篠陳》には、

「緒紳有れば、則ち繕紳の宗族姻戚有り。緬紳有れば、則ち繕紳の狼

僕打降有り。緒紳有れば、則ち繕紳の門生清客、以及附勢趨炎の土官猪吏有り」とあり、郷紳権力の構成は、

ω門生清客・土官獄吏(地方官、脅吏、街役)ということになる。

《沈惑星控徐乾皐

一門貧残昆邑欣

姻戚

倒奴僕

(H家人)・梶

(り打降)

に確認してみよう。

『清代償案史料叢編』第五腕「徐乾撃等被控魚肉郷里茶毒人民吠L

目録

第一表

番1 競

昆山脈民都徳呈控徐乾血平子姪姻貌勾結官宣屠民詐財欣(附粘単)

太倉州民熊繁呈控徐振絞等持宣残民紋(附粘単)

太倉州嫡締金氏哀挫徐興需義子奥古来山伸縮産逼嫁紋(附忽駁)

見山豚貢生沈愁再挫徐乗義等謀占田房逼死人命欣

葉以人葉控徐宣叛僕拾財劫娘朕

馬雲卓菓控郷沼恒倫侍徐宣制鰐坑銀占房欣

見山際民陶培一梁控徐笹至成王子来詐財姥命欣(附粘鼠)

揚州府高民一一巣佐知豚王維翰結納徐乾皐之子占財害命紋

常熟豚繍婦呉氏粟控地健闘眠殺男命賄投徐君甫挟豚不究欣

加熱錫鯨監生筆原淳告徐乾皐詐銀逼命獄

康照二九

二九

二九

九・

二九

・九・

二九

九・

二ハ

二九

・九・

二六

二九

二九・一

0・

二九・

一0・一七

三0・

2 3 21 17 16 15 14 12 4

ω宗族

凶ー

ωを史料的

- 86一

『文献叢編』

一一一六一一一四五

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三0・

三0・

八・

三0・九・

三0・一

0・二ハ

三0・一

0・一八

一一一一・一・二七

一一一一・一・二八

一一=・一・二八

コ二・

一・二八

一一一一・一・二八

一一一一

ムハ・一

一一一一

・一一・

一一一

-0七九八六

昆山鯨民秦旋呈控徐乾皐主使豪奴翁産掘攻吠

昆山脈貫生沈慾呈控徐乾率一門貧残昆邑獄(附僚陳)

嘉定燃民秦旋告徐乾阻甲子姪謀占田房朕(附粘単〉

附居太倉州生由良張陶如呈控徐乾血中fk詐婆賊逼死父命紋(附書附)

休寧豚商人奥深菓控徐乾民平冒旨詐扇銀雨財物状(附粘間早)

毘山豚民促培呈控徐富豪奴奥漢周等謀財筈民紋

昆山豚民陳乗券呈控陳乗衡傍侍岳父徐舟六奪産逐兄欽(附粘皐〉

毘山鯨民朱征呈告朱三盗捜淫奔投入徐府典史受賄不絹欣

毘山脈民活卿呈控徐元文家奴顧君甫侍勢強占民房状

太倉州嬬婦張氏呈控在偉等侍侍徐宣籍産斬嗣朕

嘉定豚民緒亮菓控徐宣管家格昭伎勢筈民欣

盟燃民事常玉朋告徐乾血午悪僕司元等姥命稲田伏

(ただし、徐氏一族に関するものだけを抄録)

34 32 31 30 29 28 27 26 25 24 23 22

一一一一一一四

- 87ー

史料甲

・乙にみえる徐氏の宗族の姓名は、原任刑部向書徐乾準・大同学士徐元文のほか、乾皐弟宏基(甲

ω宗族・姻戚

元文姪樹敏(乙②⑤⑭〉、

⑥〉、乾摩子樹扉・樹聾(甲③〉、元文子樹本(乙①③①⑦@@⑪⑭〉、

同樹扉

(乙②⑮⑭)、乾皐姪徐紫賢・紫書(但し光根、甲④)などである。

認が得られない。なお甲の記述には樹聾を乾皐の子とするなど不正確なところがあり、必ずしも信が置けない。

同樹齢埠(乙④⑦⑪⑪〉、

しかし、

乾開問子弟宏基とは誰か、他の史料の確

『槍案』徐乾皐は徐氏関係の楼案二

二件を牧め、各表題は第一表の如くであるがここに徐氏の宗族として名の見える

会J守

九回い

のは、大摩士嫡堂弟監生徐昭夏

(1)、向書子賄革暴人徐樹扉

(1・お

-M)、徐元文姪粟監徐振絞

(2・3)、

奥喬

(3)、輿喬子徐昌

(3〉、春坊徐乗義

(4・

n)、開任

・世糠

・履悦

・興華

・突叢

・錦・弘恵(以上4)、徐富悪姪徐

(口)、乾察族山西盟院徐詰武

(お)などが翠げられるが、

特に、お

《沈惑星控徐乾皐

一門貧残毘邑紋》には、

十五

官とか

一門十五貴とよぶ革職刑部向書徐乾皐以下、休致大皐土徐元文、歎君憶病春坊徐一葉義、原任御史降調按察司経歴徐

その父徐

497

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498

樹穀、現任行人司徐畑、品開縁中式磨勘瓢革拳人徐樹盤、丁卯食縁師事人徐樹木、現犯聞案詐賊擬絞公子徐樹敏、磨勘瓢革奉

人徐樹扉、辛未品開縁進士徐樹庸、奏錯醐革準土徐輿喬、納責考職今冒荒革職積悪訪犯徐輿筆、歳貢考職履枕、

壬子負縁奉

人徐世滅、現犯巌甫命案武穆徐錦が列翠されている(徐氏系図1参照)。

次に徐氏の姻戚では

甲・乙史料には乾皐の孫婿史氏(甲②〉、

(太爺)

乾皐には向書婿漢陽令張介眉・その父卸向書親翁の張曾愈

・葉宮(葉生員家、

妻葉氏(以上1)、銭爽深次子銭滅係徐元文表姪婿(

2

)

、本府数習知豚王維翰:::献妹於毘山徐乾皐公子矯妾(日〉とあ

る。いうまでもないが、『檎案』文書にその名を翠げられた徐氏の姻戚は、徐氏の権力を頼ろうとするもので、例えば揚

同親家高土奇(甲⑤)とあるだけである。

『橋案』徐

葉廷玉)・徐翰林乗義姪婿察玉森・徐昭夏

州府敬習知勝王維翰は乾皐の子に妹を献じて妾とし、「権豪と結納」しようとする(日〉。

書〉銭衆深は次子況の妻に徐元文の姪女を迎えたほか、長子瀧には太倉の王翰林談の女、三子濯には蘇州長洲の宋翰林徳

宜の女を求めたが、それは「倶に(女家の)勢を侍みて重賄晦托し、倶に南場(御試場〉に赴いて、奉人を食買する」ため

であるという(

2

)

。なお、これと同じレベルのことは擬制的宗族(養子)関係の形成たる通譜にみられる。

民平おには「徐志貞剖盛世貞、太倉州人、徐姓に頂って準皐す」とある。

また

白衣中書(粟監加納中

『檎案』徐乾

- 88一

ここで試みに徐氏の姻戚関係を乾皐の世代から二代固までを一寛にしよう(徐氏姻戚系図2参照)。乾皐、

乗義、元文とも

にその妻の家はさしたる官僚を出した家でない。次は乾皐長子の樹穀の妻葉氏は兄が廷玉(葉生員家

・葉宣)父副楊貫生方

至、祖父が崇顧元年準士太常寺少卿葉重華であり、同次子畑の妻は武準妊氏でその父は順治六年準士、河南風午政妊潮生で

あるくらいが注目される。しかし、二代たって乾皐の孫の代となると、樹穀の女は同邑の刑部侍郎葉方需の孫に、畑の女

は長洲の艦部向書一韓炎の子に嫁し、一方、樹穀の長子徳倣は長洲の翰林院編集沈世突の孫で同侍諮問学士沈朝初の女を妻と

し、樹穀の次子唐は彼の戸部向書王鴻緒の女、同三子徳秩は大同学士陳元龍の女、畑の長子酒は海寧の陸部向書陳読の女、

同三子修仁は丹徒の大皐士張玉書の孫女をそれぞれ妻に迎えた。以上から、毘山徐氏は乾皐兄弟、が昇進した康照二十年代

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以後、江南出身の主要な高官の家と姻戚関係を結んだことが知られる。ただし、これらは葉富を除けば『楢案』に全く登

場しない。

甲の③に徐乾皐の管家具子彦・果子章とあるが、管家とは家事家政を管理する奴僕をいう。

乙⑥には徐

樹敏の家人徐孔昭・李孔章、同⑬に徐氏家人徐孔昭・高彬甫・呉漢周・曹爾玉・蘇雲生・金正昌が摩げられている。

徐樹扉の豪奴張乗六

(1〉、

同奴僕・梶徒

『楢

(2・

3〉、徐乗義の豪奴徐復(

4

)

、徐乾皐の豪奴金洪盤、同乾皐の豪奴徐仰田・徐吉甫・徐慶甫・沈慌公(以上辺)、同乾皐

の豪奴任政・高大・張相(以上お〉、徐元文の豪奴顧君甫(却〉などのように、徐氏のある個人と特定な主奴関係にある

豪奴が存在する。なお、徐仰田は管帳豪奴と呼ばれ、

車なる狼僕の官同己・徐音等百凶とは区別されている(泊)。

(献)

大爺も徐乾拳の掌家といわれた(お〉。管家には梶徒一族の族虎裕昭が徐富に投廊した例(沼〉や、徐州盟鯨の王一虎が

管家豪監といわれた例

(但)がある。この管家豪監は、あるいは、監生出身のものが身を持ち崩して徐氏の傘下に入り豪

奴化したものと考えられる。

また沈

- 91-

失に梶徒。

「周園棉布を盛んに産し、倶に本鎮より貿易し、買に財賦の重地なり」といわれた嘉定牒馬橋鎮の光根郡君

侍るべき長城の護とした」とあり(以上「

華・許孟高・許周等は乾皐の悪姪徐君甫を頼り(口)、訟師盛漢宗・盛五、打降胡恩・沈石朝官・陳鮮は徐宮の勢を侍ん

で小民を抄浸した(

2

)

とあるように、担徒は勢威ある郷富徐氏の傘下に入っている。

m t主

「毘山の大官を侍んで泰山、

」は

M)、

殺人犯地梶許七・許二・許孟

ω門生清客・土官猪吏甲・乙史料で徐乾摩一族と結んだ地方官として、江蘇巡撫洪之傑(甲①、乙①③④⑤⑬〉、

蘇按察使(元門生)李園亮(甲③〉、松江府知府越寧(乙②〉が指摘されるが、江蘇巡撫洪之傑の動きが目立つ。『檎案』

徐乾撃では、康照二八・二九年嘗時の毘山知鯨童式度が巡撫洪之傑ラインで、徐府の子弟門下に投奔し、勢力に趨附して

数々悪事を働いたといわれる(ly制御幣太倉州では幕客陳相公や知州の宅門(長随)孫三爺などが徐氏の息がかかった 江

,501

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502

者で(

2

)

、常州府無錫豚には門生胡殻匡が居り、首鯨での徐氏の活動を助けていた(紅〉。

以上、徐氏の

ω宗族

・姻成、倒奴僕

・梶徒、

ω門生清客・土官狩吏を、一部を除き、その大陸を確認してきたが、貫は

「宗族姻戚は即ち紹紳の耳目なり、狼僕打降は即ち繕紳の爪牙なり、門生清客

・土官猪吏は即ち緒紳の心腹羽翼なり」

(お〉

といわれ、

ω倒ω三者が相互に結んで始めて郷紳権力が十全に機能し与えた。このことを示す『指案』徐乾拳の1に

今ふ、

ω宗族:::大皐土嫡堂弟監生徐昭夏、向書子賄革拳人徐樹扉

(服僕)

倒奴僕:::徐宮家人張乗六・馬英護・呉絞・陳九、張宮家人奈峯

・徐貴・顧彩、葉宮家人蒋華・部誕・陳峯即朱俊

担徒・::地担陳季

・蒋牽

・朱俊、徐府豪梶張乗六(||印は再出H同一人物)

ω門生清客・::徐府門客陳徳三・部賓

姻戚・・・・・・向書婿漢陽令張介眉、

父張曾愈、薬富(廷玉〉

土官・:

・毘山知鯨童式度

(戸)

忍円吏

・街役:::豚吏謝玉、鯨書唐燦、牒門子林瑞、牒差徐卿

92ー

とあり、同じく2〈計開勢宮・

豪奴

・街誼

・訟師

・打降的名・住祉〉には、

ω宗族:::徐振絞係相閣徐元文姪、住太倉東門外高貞堂河東宅内。

姻戚:::銭来珠係莱監加納中書、伊子係相園徐元文姪婿、持勢鴨民、住太倉州治東。

倒奴僕梶徒:::胡思住太倉州治東、係豪奴打降首領。

盛五係閣勝天皇禽首領。住太倉酋鍛務巷。

沈石朝官係綜鋭、的名沈君甫。係豪奴打降首領、住太倉州治東。

陳鮮係訪磁、違例復入街門、

今現充保線陳延章子、住太倉大西門外。着陳延章要。住西銭務巷。

膏二係徐宣第一豪奴、住太倉東門外徐振絞宅内。

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費成住州治東、着胡恩要。

ω門生清客

盛漢宗係著名草衿訟師、附舎徐、銭二宮門下、侍勢横行、住太倉西鍛務巷内。

土官脊吏(街役)

包群甫係二班快頭、官名陸群、

今更名包群、州官耳目、住北史家巷内。募賓陳相公、内丁孫三爺呼慮、高民大害。

蒋柴先係頭班快頭、官名方升、出入内街、州官第一耳目、住銀民橋南大街上朝東。

顧君聖係頭班快頭、官長之耳目、募賓内了之呼態、住太倉州治東楊家宅内。

(膏吏)

王緊徳係躍房俄吏、州官耳目、閣州稽信用小州官、住南馬巷口。

(念)

王褒斌係根房俄吏、充二十八年折線、王豪徳弟、住徐家牌楼頭。

- 93ー

王緊升係承愛書、州官耳目、現牧牙行税、関州切歯、王豪徳弟。

(叫明治

9)

郵靖公係吏房僑吏、治州西公解内、内丁出入磁垢之所。

包環的名包来章、住州治東。

葉公宣係戸房俄吏、官名陳昌信。叉粂充承稜俗吏、官名陳永賢。係銭宮第一豪奴、高民大害、住大橋南。

陳朝蹴係承稜俗吏、銭富豪奴、官権宣勢、毒害高民、住太倉大北門外。

楊茂凡係積窓、歴充潜折線、私徴加源、奉前撫洪(之傑〉訪革、今何充二十九年折線、叉謀本年漕線、住東滋上。

楊般臣係殺房俄吏、奉前撫洪訪革、今叉違例私充、住東港上。

503

というリストを翠げる。ここで確認すべき貼は、第一に二種の槍案ともにその悪事が指摘されるのは直接には参入-監生

・生員クラスの宗族・姻戚であること、第二に

ω倒ω相互では、例えばーでは徐氏の姻戚閥係に鹿じた形で各官奴僕が活

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504

勤していたり、また、奴僕と混徒とが一健であったりして、相互関連性が強いことが言える。この相互関連性は楢案2で

はより多くの事例がみられ、自己の奴僕を街門の脊吏に嘗てていることもある。第三には、郷紳の私的権力が公権たる街

門の各部者に極めて巧みに入り込んでいることである。この貼はなお項を改めて検討しよう。なお、以上三貼について追

加すべきことは、

『楢案』徐乾与の二二篇の文書中、徐乾皐なり、徐元文なりを直接に悪事の犯罪人としているのは、

4

(徐乗義〉、

幻(徐乾皐)、

お(徐乾皐以下十五官)

お(徐乾察〉の四篇に過ぎないことで

」のことは徐乾皐等の不正

行痛が宗族

・姻戚を含めて紳・衿雨身分の合作で途行されたことを物語る。

つまり楢案の多くの事例は徐乾民平等の勢威を

背景として凶

1ωの連闘で行われたとレうのである。女に

守橋案』徐乾皐の

1に「蒋華伊親鯨門子林瑞」とあり、華官

家人で同時に根徒の蒋華の親林瑞は豚の門子(街役)になっており、

また

同じくーには、陳峯即朱俊という更名の理由

につい

て、

巧唆身及、離身親属、持年限未満

之回二畝七分、強増債値、逼伊七十蝕歳病母来住身家、揚縮恐嚇。頼詐不透、投徐府蔽護、

担父詞、結仇梶葉府家人

陳峯回目稿前朝苗商、更父姓改朱俊、結集煽虐。令妻襲氏日夜鋳鼓、継母厚賂身弟、

- 94ー

蒋華

・部誕等。

とあって、これから奴僕(家人)、根徒、街門の街役(門子等)がほぼ一位の、

『槍案』

2では先掲の如く、

豪奴でありながら打降の首領をつとめる数人が指摘され、

横につながりのある存在と考えられる。

tt.

また僑吏の葉公宣は戸房、承

設房とわたるうち、

その官名をいちいち鐸更していることなどが注目される。

2

郷紳徐氏の地域支配同

『橋案』徐乾皐2(M!日頁)に、

太倉州に

一印十州官の呼有り、幕賓に陳相公有り、宅門に孫三爺有り、訪革配徒の今叉違例にも復た偽吏に充てらる

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王緊徳・郷靖公・王緊斌・王家升、快頭に包群甫・蒋祭先・顧君聖等有り、九人連甘し、知州一印なるに、十官詞訟

す。

とあって、太倉州の行政は知州一人の手から、幕客・宅門(』内丁、長随)・脅吏・街役

(H快頭)九人に移っていた。先掲

『槍案』

2のリストにも、王豪徳は州官耳目で小州官といわれ、王緊升も州官耳目、都靖公は内丁出入とあり、また、包

群甫も州官耳目で幕賓陳相公、内丁孫三爺呼謄とあり、蒋祭先も内衝に出入すとあり、顧君聖は官長耳目、幕賓内丁呼躍

とあった。しかし、幕客・宅門・膏吏・街役の九人はいずれも徐振絞・銭来深の、ひいては徐乾皐等郷紳徐氏の息がかか

ったものである。この太倉州の事例こそ、正しく郷紳による官府の把持の一具瞳を一示すものである。官府の把持が郷紳の

地域支配の一面に違いないが、

る。

さらにその具佳像を『楢案』徐乾皐2によって検誼しよう。

それは三種に分類されてい

A.徐元文姪徐振絞が元文の勢を背景として州官・訟師・打降・街役を働かす不正。

- 95ー

①一、徐振絞は捕快王吉と構えて買盗し、良民孫太を陥して盗と潟し、家資一千徐金を籍設す。孫太無事にて獄に死す。

寛一民孫太の萎唐氏審ぶ可し。

②一、徐振絞は命を飛偲して、九都の郷民唐元易の銀一千二百雨を許し、惨害傾家す。寛民唐元易審ぶ可し。

③て徐振絞は震空にも陸懐徳の銀五百南を惨詐す。寛民陸懐徳審ぶ可し。

④一、徐振絞は句容民張子華を園詐し、明らかに異郷に欺わり、傾身逐出し、家資三百徐金を籍渡した。

宿鴎略し、人人髪指す。

寛民張子華審ぶ可し。

⑤一

-徐振紋は良閏陸氏を強槍して淫姦し、朱徳の言燭れ、立刻に打死さる。菟民朱和山間審ぶ可し。

一門の老幼、

'505

⑤て徐振絞は越二・越連を冒認して僕と魚し、

す。軍民趨二・趨連審ぶ可し。

銀一百南を詐す。

賀茂公見附して誼し、

伊の妹を強捻して妾と作

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506

一、

徐振絞は朱招生の女を強姦し、童郎中等卒かならず、公言して怒に燭る。僕膏二等五十絵泉を統べ、門を園んで抄

捉し、童郎中を檎えて吊打し、買命銀六十雨を献

J

ぜしめ、具子遁見附す。寛民童郎中審ぶ可し。

一、

徐振紘は乳母郷氏を強姦するに、従わざれば、赤鐙に奨剥し、下身を棺潤す。金氏見誼す。菟婦郷氏審ぶ可し。

一、

徐振絞は楊招を回詐して遂げず、狼僕膏二等五十呉を統べて、家資一百五十品献金を籍浸す。菟民楊招審ぶ可し。

一、

徐振絞は呉建周の妻金氏併びに六歳の幼孤とを謀殺し、命田武千蝕畝と血資高金を謀占す。金氏の兄金天申、甥の

痛に毒に燭れ、立ちどころに檎綿されて馬坊に弔され、惨殺重探す。菟民金天申、金氏審ぶ可し。

B.白衣中書銭来深の不正

①一、白衣中書銭来深の長子銭瀧は太倉州王翰林(談)の婿に係り、次子銭淑は徐元文の表姪の婿に係り、

一子銭涯は蘇

州府宋翰林(徳宣〉の婿に係り、倶に勢を博みて重賄蝿託し、倶に南場に赴いて、拳人を食買せんとす。

- 96ー

一、

銭来深は杜永の家貨五百除金を籍浸す。寛民杜永審ぶ可し。

一、

銭来深は銭士誠の家貨八百除金を籍在す。寛民銭土誠審ぶ可し。

一、

銭来深は凌子鮮の家貸二千除金を抄注し、今に至るも露宿鵠略す。菟民凌子鮮審ぶ可し。

一、

銭来深は願君懐の家貨

一千二百除金を抄在す。菟民願君懐審ぶ可し。

⑥一、銭来深は陸明甫の家貨三百儀金を籍浸す。菟民陸明甫審ぶ可し。

⑦て銭来深は孫三の家貸二百徐金を籍浸す。

菟民孫三審ぶ可し。

c.訟師盛漢宗

・盛五、打降胡恩

・沈石朝官・陳鮮が徐宮の勢を侍み小民を抄浸した悪蹟。

①一、曹秀芝の家質三百徐金を血焚し、赤掃一光。寛民曹秀芝審ぶ可し。

一、曹子亮の家貸六百品献金を血焚す。寛民曹子亮審ぶ可し。

て楊車先の家質五百品献金を血費し、片瓦も存する無し。寛民楊聖先審ぶ可し。

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④一、隆一幅寺信子聞の什物鐘磐衣貿等件、共に二百徐金を血焚すe

寛倫子開審ぶ可し。

一、許文甫の家賃一百五十銭金を血焚す。寛民許文甫審ぶ可し。

一、勢を遅うして凌脅の銀八十雨を笑詐す。菟民凌寄審ぶ可し。

⑦一、顧華の銀二十四雨を詐す。寛民顧華審ぶ可し。

③一、命を飛陥に懐け、陳貞白の銀一百二十南を笑詐す。

寛民陳貞白審ぶ可し。

Aは徐氏一族の一人が州官・訟師等と組んでいわば全組織を奉げて働く不正で、さすがに種々の形態がみられる。試み

に詳細をみれば、一無賓の良民を犯罪人に仕立て家資を混牧するもの

(A①)、恐嚇による金銭詐取(②③④⑨〉、

強姦に伴

ろ犯行(⑤⑦⑧〉一良人を僕と矯し、妾と矯す

(⑥〉、婦女子殺害と国産・銀銭強奪(⑮)とあり、ここには徐氏一族の郷

旦における不正行震の過伴のタイプがみられる。なお、

Bは①を除き、すべて他人の家貨を籍(抄)したというもの、

C

もやはりすべて他人の家賃を血焚(強奪・詐取)したというものである。ここでは注目すべきは、

Bの型に他人の家賃を籍

法したとあり、

ABCのどの↓項もすべて被害者が犯罪人(完民〉とされていることである。これは州勝街門の地

AN凶γ

'M匹、

自己の組織陣営に訟師などの訴訟関係の専門家や

また、

一昨ー

方官1

脅吏|街役〈特に響察官的な捕快)の機構も私的に支配し、

4U1げ

ん同い

}

打降などの私的暴力を加えていた郷紳にして始めて貫現できることである。ここに郷紳の地域支配の具韓像が窺えるので

一方、

あ一るJ

ただし、以上についてまだ二、三貼の遁加がある。その一は、先掲甲・乙史料の例えば甲の②にある高利貸し営業、乙

の⑥⑤にみられた都市商工業活動の指摘から窺えるように、蘇州や北京での市場支配日経済的支配を徐氏一族は行ってい

たという酷である。この黙については、『槍案』徐乾皐のおには蘇州閤門臭趨坊に住む徽州人在震元が徐乾皐の黛富とさ

れ七いるが、彼は乾皐の掌家とともに、安慶の嘗舗、蕪湖の鍛庖、北京の布業を徐氏が不正に入手する工作をしたとい

う。そのこには、今までも述ベできたことだが、徐氏の権力構造はむしろ徐氏の政治的権勢を嘗として利権に群がる各種

507

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508

各階層の人々の参加で構成されたが、

その中に佃戸屠もいたという黙である。

『槍案』徐乾挙日は徐氏傘下の

E梶王子来

による土地強奪を告設したものだが、その附粘車の一項(却頁〉に、

悪佃戸王四、苛笑堪えず、別佃に遷るを思い、迭に冒認して家人と魚り、銀八雨を詐す。王瑞伯附誼を経る。

とあり、佃戸王四は佃作地を取り上げられるのを思って徐氏の家人となったという。

根により土地を強奪された者)から銀八雨を許しており、

複雑な動きをみせている。

しかし こ

こではこの佃戸は本来の地主

(E

いずれにしても、徐乾皐一族

の不正行矯卸地域支配が佃戸層まで参加するものであるとなれば、

その裾野の廉さは極めて大きい。

南江組督縛並塔の告訴は不起訴となったが、これを口火として江南の生員層や一般民の徐氏批剣は高まった。乾皐に緩

退

(

)

劃する恩寵は績き、再度の南巡に嘗つては徐氏宅を訪問し、三兄弟で残った仲子乗義以下に御筆の匿額御書を賜った。し

乾撃も数年内に死亡した。

- 98一

かし、徐氏にはもはや往時の勢いはなく、次第に衰亡に向った。それはやはり徐氏一族の地域支配が地域の批判によって

崩れたと考えるべきものであろう。

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509

註ω停位塔満州銀糞旗人、姓は伊爾根魔羅氏。表記の遠い(停

位塔|措蕗塔|停刷塔)については、涯宗街『讃清史稿札記』

〈中華書局香港分局、一九七七)二三九頁以下多照。

ωイエズス曾宣教師プ1ヴェ

qRZ司・』・回0507

白進・白

耳目)が中園に来たのは康照二七年の明珠黛失脚事件(二月)の

直前であった。プlヴェ著『康照帝停』(東洋文庫一五五、後

藤末雄誇、矢津利彦校注、卒凡社)の四五頁参照。なお、『康

照帝停』は、中園社舎科皐院歴史研究所清史研究室編『清史資

料』

1、(一九八

O北京〉一九三頁以下にも所枚。同時代の非

漢文史料として参考になる。

ω徐乾皐閥係の捲案は、『文献叢編』所収のもの十五件、『清

代捲案史料叢編』一一一一件(但し一件は不詳〉であり、しかも前

者には脱落や誤字が多いので本稿では専ら後者を史料として用

した。

川刊光緒『昆新商麻績修合志』(以下光緒士山と略す)巻三ニ、列

停二。

例光緒志巻二六、卓行。

例光緒士ゆを二九、孝友。

川w

光緒志袋二四、列博三。

w

科患の第一試である郷試に合格しても、患人の員数に制限が

あるため、患入の資格を奥えられない者が出たが、その中で園

子監に入る者を副携貫生といった。

例光緒志巻十九、選奉表三。

帥光緒士山容三て文苑一。

ω光緒志巻十七、選翠表一。

M脚光緒志径十八、選奉表二。

MW

光緒士山巻十八、選摩表二。

同光緒志巻十九、選翠表三、以下科翠関係の史料典擦は光絡志

巻十七|巻十九。

帥光緒志巻二五、政績。

帥光章雀二七、忠節。

制以上関任の俸は光章筆二二、隠逸。

帥光緒士山巻三三、好義。

帥願炎武『亭林文集』巻六、《答徐甥公粛書》に乾皐に史皐研

究の要を教えて「夫史書之作、壊往所以訓今」という。また、

同『亭林詩集』各三にも「答徐甥乾皐」に「孤軍苦憶難兄弟、

薄劣煩呼似男甥」の一句があり、願炎武は乾皐兄弟に相蛍の期

待をもっていた。

MW

徐乾四月干以後の八世代の家譜に『徐乾皐家譜』零本、東洋文庫

磁、一冊、紗本があり、これには乾患で乗義・元文とそれぞれ

の子孫の俸が載る。ほかに、韓亥『有懐堂文藁』巻十八行扶に

乾同月干の俸「資政大夫経鐙講官刑部向書徐公行吠」、巻十七行紋

に元文の俸「資政大夫文筆殿大皐士戸部倫書掌翰林院事徐公行

扶」がある。本項の徐乾皐・乗義・元文の記述は、以上のほ

か、乾隆『昆山新陽合志』袋二て人物列停、光緒士山巻二四、

列停三などにより、また『清史列俸』巻九徐元文・巻十徐乾拳

附乗義、及び『清史稿』巻二五

O徐一冗文附乗義・各二七一徐乾

皐などの停なども参照とした。

- 99ー

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ω・伺奏鎗案についでは、川勝守「初期清朝圏家における江南

統治政策の展開」(『中園封建園家の支配構造』所枚)参照。

帥前註同参照。

帥以上の徐元文の崎聞は先掲、韓亥『有懐掌文藁』径十七行状に

よる。

帥同諮問舎は明末に東林系の高肇龍や陳龍正が組織したものであ

った。

帥以上の徐乾皐の俸は前註帥参照。

制以下の本節の記述は、特に断らない場合、『東華録』巻十二

1巻十五(中華誕百局刊、

校貼本『東筆銭』一八九1二五四頁〉

による。

下の史料はその主要なものを原文の

ニュアンスを残しつつ

日本語化したが、口語と文語の混合したおかしな文践となっ

た。その他は要約にとどめた。本史料は校粘'本『東華録』一一一一

八l一一一一一

O頁。

同前回向、プlヴェ

『康照帝侍』四五頁、及び別註三六頁(矢淳

利彦氏校注)参照。なお、前掲、

『清史資料』

1所収の「康照

帝侍」(二

O八頁)で嘗該個所の四閣老に註して明珠・例倫・

余園柱

・徐乾皐とするのは重大な課りである。

帥校貼本『東筆鋒』一

一一一一一

一|一一一頁。

『清史列惇』巻

一O徐乾摩に

時海賊初卒、戸部郎中色拐額、往一漏建稽察鼓銭、疏請禁用明

代替銭。戸部向書科爾坤、余閣柱等議如所請。

上以詞内閣諸

臣、乾皐言「自古皆新替袋行、以従民使。若設例禁、恐滋煩

擾。・・」。色携額所奏、不准行。

とある。

以上、

『清史稿』巻二七一

徐乾皐惇。

以下も校勃本

『東筆鋒』

二四

01四二一良。

帥高士奇は新江、銭塘豚人、監生より書寓序班に

充てらる。

〈『清史列停』巻十高士奇俸)。

打磨場とは一般的には粉ひき場であるが、ここでは校黙本に

傍線がある通り地名の固有名詞。

高士奇の出身地は前註帥の如く、

杭州府銭塘燃であるのにこ

こでは本郷卒湖燃という。本郷とは同じ初江というくらいの使

い方か。

伺校勲本「東筆録』

二四三|四頁。

前掲、プlヴヱ『康問山帝惇』四五頁参照。

貼本

『東叢録』二四五1

七頁。

文は「乾闘母子丁卯郷試、戊辰曾試、在外招揺」であるが、

『清史列停』巻十の徐乾皐俸にはコ

一七年二月充舎試正考官」

とあり、また『清史稿』巻二七一の博も「二七年典舎試」とあ

り、さらに『清代職官年表』第四冊、二七八五頁にも同様の指

摘があって、「在外」の意味が取りにくくなる。しかし徐乾皐

が科翠試験に影響を及ぼしたことは考えられる。

川開校粘'本『東筆鋒』二四八頁。

同校貼本『東筆録』二四九|二五一頁。

帥以下『楢案』徐乾皐の楢案史料は第一表の史料番続のみを翠

げ、必要に昨応じて『櫨案』の頁数を傘げる。

同長随については、東京大同年東洋文化研究所に『長随論』とい

う冊子があり、一九八

一年四月二日の法制史皐舎大倉(於東京

-100ー

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↓ん且宇治風午部〉で

r

佐伯有一氏が紹介した。ただLL清初から康配一

年一関では長随という名務は見嘗らず、内丁とか宅門と一盲ってい

た。いずれにしてもこれは地方官の私的な(したがって家人H

奴僕的な〉使役者である。

田徳氏(「郷紳支配の成立と構造L

511

岩波講座『世界歴史」

ロ、一九七

-〉ーがい一う郷紳の開接的領域的支配の側面である。

帥訟師については、川勝守「明末清初の訟師について」(『九州

大拳東洋史論集』9、一九八一)参照。

(H打行〉については、川勝守「明末清初における打

仔と訪行」〈『史淵』

一一九韓、

一九八二〉参照。

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THE TIMES OF xu QIAN-XUE 徐乾學

   

AND HIS TWO BROTHERS

-A Case of Regional Control Eχercisedby

 

Xiangshen郷紳in the Jiangnan 江南-

Kawakatsu Mamoru

  

During the tenth month of the twenty-ninth year of the Kangχi 康煕

period (1690), Fulata傅拉塔, then governor-general of the Liangjiang 雨江

initiated the censure and dismissal of ranking o伍cials,including the chancel-

でlorof the Hanlin Academy χu Yuan-wen徐元文, and the President of the

Board of Punishments,χu Qian-xue. With the chancellor and president

using their authority over the entire Jiangsu江蘇region to cover certain

^unethical acts, the χu clan had eχtended their in且uence beyond their native

χunshan箆山district of Jiangsu province. During the Ming dynasty, the

Kunshan χu family members had bslongsd to the middle and lower ranks

・of o伍cialdom. But after having survived the psriod of the Ming-Qing 明清

transition―the time of the three χu brothers, Qian-χue, Bing-yi秉義, and

Tuan-wen―they rose to the highest positions in the government, advancing

from o伍cial status in the Hanlin Academy upon winning the eminent jinshi

進士degree, to appointment as a Chinese chancellor and president within a

Manchu court.

  

The decade of the 1680s, following the pacification of the Sanfan 三藩

rebellion, marks the period during which the structure of the Qing court

was fiχed. And yet several revolutions occurred within the government

during this psriod. During the second month of the twenty・seventh year of

the Kangχi period (1688), the faction around the chancellor Mingzhu 明珠

was criticized by the censor GuDχiu郭誘and overthrown from power.

During the ninth month of the neχtyear (1639), Gao Shi-qi高士奇and

his followers were censured and dismissed. The case of the χu brothers

represents the last of this series of o伍cial dismissals.

  

By the authoritative command of the Kangxi emperor・the Xu family

was not finally indicted. But shortly thereafter, censure and criticism of

                 

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the Xu family continued (from the ninth month of the twenty-ninth year of

the Kangχi period (1690) through the eleventh month of the thirty一丘rst year

(1692)), this time based both on reports of injury submitted by lower ran-

kk、g xiangs‰'.n(includins jiansheng監生andshengyuan生貝)in the

region of Kunshan and neighboring districts in Jiangsu, as well as reports

submitted by commoners. These reports now survive as danが皿槽案

included within the fourth and fifth volumes of 'Wenxianconshian文献叢

編(1930), and the fifth volume oi Qingdaidang’anshiliaoco町

代椙案史料叢編(1980).

 

This essay traces the history of the Kunshan Xu

family from the Ming dynasty and relates the speci丘c eχperience of the

“Three χu" under the Qing government. At the same time, in analyzing the

historical sources of the jαng'αn, in addition to such records as the Dong-

h皿臨東華録, the actual circumstances of the regional control, or territorial

control, eχercised by thexianeshenXu family was discovered.

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