title 『史記』の構成と終始五徳説 東洋史研究 (1980), 38(4 ...542 『史記』...

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Title 『史記』の構成と終始五徳説 Author(s) 上田, 早苗 Citation 東洋史研究 (1980), 38(4): 542-568 Issue Date 1980-03-31 URL https://doi.org/10.14989/153762 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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  • Title 『史記』の構成と終始五徳説

    Author(s) 上田, 早苗

    Citation 東洋史研究 (1980), 38(4): 542-568

    Issue Date 1980-03-31

    URL https://doi.org/10.14989/153762

    Right

    Type Journal Article

    Textversion publisher

    Kyoto University

  • 542

    『史記』

    の構成と終始五徳説

    一五帝時代

    三代|夏

    ・股・周

    始皇帝

    四世界の再生|漢朝

    おわりに

    - 26ー

    』主

    中園では早くから合理主義的な思考が形成され、他の多数の民族とは異って神話や俸読にきわめて乏しいとされる。孔

    子は「怪・力・乱・紳を語らず」(『論語』述而)などとあり、すでに春秋末期には宗教からの理性の解放が認められるもの

    の如くである。しかしながら、孔子の皐読を見てみると、かれは周公が創作したとする制度を租型h

    寄与ミ尋問とし、こ

    れを模倣又はこれに回開しようとしていることが窺われる。これは世界各園に共通して見られる神話時代における行動の

    パタンである。また、孔子が編纂したとされている『春秋』は、周知のごとく哀公十四年の獲麟の記事を以てその錠述を

    終えている。獲麟に闘しては、類い稀れな士口鮮であると一般には解律されている。それでは何故に賦麟という動物が吉鮮

    とされるのかについては、あまり注意が梯われていない。この時代にあっては、まだまだ神話時代におけるシンボリズム

  • が根強く残存しており、完全に梯拭されてはいないのである。小稿では、とくに『史記』の慮々に現われるこのような象

    徴的な記述を指摘し、その意味するところを明らかにするつもりである。

    孔子の浸後おおよそ四百年を経た前漢太初元年に司馬遁は『史記』の完成をめざし、編纂に着手した。

    は、太古の責帝より始めて一巡して再び土徳に戻った今上武帝の太初元年に至る一周期分の逼史を著そうとした。『史記』

    全韓は、古代の人々が共通して持っていた認識方式にもとづいて歴史を記述しているのであり、

    『史記』の作者

    これは紳話あるいは民間

    説話に普遍的に認められるパタンである。『史記』は夙に史料の整理や史料の批剣が遁宜おこなわれ、

    その銃述も科皐的な

    いし合理的であると見倣されてきた。史賓の正確さを期そうとする態度はたしかに全巻を通じて窺うことが可能である。

    ところが、一方では民聞の停承や説話をそっくりそのまま採録した個所もすくなくはない。客観的事賓の確立と言って

    も、自ずから限界があり、『史記』の作者たちと言えども例外ではない。知費、記憶あるいは表現の方法に規則が存在す

    るとするならば、われわれの歴史に劃する認識もそれらの規則にあらかじめ拘束されていると言えよう。とするならば、

    奮爽の歴史の定義も根本から聞い直さねばならないであろう。

    - 27ー

    『史記』全健の構成は、二つの思想に則って編集されている。一は寅老であり、他は終始五徳読〈普通には五行設と言う)

    である。小稿にあっては、主に終始五徳設を検討すべき封象として取り上げる。黄老に闘しては、すでに愚見を護表して

    いるので、併讃していただければ幸甚である。

    神話の領域にあっては、

    はじめに混沌与

    ghの朕況が示され、

    しだいに秩序ある世界

    8・4S2が生成されてくる。世

    543

    界各地の紳話には、混沌の獣態から紳々による天地創造あるいは字宙の開聞に至る過程があらわされる。『史記』の作者

    は、天や地、山や川などの自然の創造に燭れるところはない。太古の中夏にあってカオスからコスモスへと轄換させたの

  • 544

    覇者などが順衣波生していく構成になっている。責帝はまた老子とともに賞老思想における始祖でもある。

    は資帝であり、

    『史記』では

    かれが巻頭に据え置かれ

    責帝が即位する以前は、炎帝紳農氏の治世であったと言う。神農氏の支配力は弱まり、

    諸侯は互に侵伐し合い、

    百姓は

    かれらの暴虐に困窮していた。一脚農氏は無論かれらを征伐して統率する寅力ももはや持ち合わせていない。

    つまり、首時

    は秩序のない混沌たる情況に置かれていたのである。やがて資帝が出現し、諸侯を結束して敵針する炎帝と蛍尤を滅亡さ

    せ、ここに中圏全土は統一され、秩序がもたらされる。

    『史記』は「五帝本紀」を以てを首としているが、唐代に至り司馬貞が五帝よりもさらに古いとされる一一一皇の説話を纏

    めて「三皇本紀」を加上した。三皇とは

    一設では庖犠氏、女鍋氏及び炎帝神農氏である。あるいは、天皇、

    地皇及び人

    皇とする設もある。司馬貞は『史記』の闘を補うために皇甫諭『帝王世紀』、徐整

    『三五暦』などを参照してこの「三皇本

    紀」を著わしたとしているが、これは『史記』編纂の意固に反する。

    「土徳の瑞あり、故に賞帝と放す」(「五帝本紀」)、「賞帝は土徳を得」(「封稀書」)とある如く、

    土徳の責帝をあらゆる事象

    -28一

    『史記』の作者が黄帝を巻頭に設定しているのは

    の根元として考えたからであり、他者を以て置換することは出来ない。

    「三皇本紀」では、太陣庖犠と女嫡については「蛇身人首」とされ、炎帝一脚農につレては「人身牛首」とある。これら

    の記述の意味するところを明らかにしておかねばならない。庖犠と女嫡については、夫婦とする説と兄妹とする読とがあ

    上半身は抱き合う人聞の形をなし、下宇身はつるみ合う蛇の援をした庖犠と女鍋とが描寓されている。

    蛇は榊話の領域ではきわめて重要な意味を持つ。蛇は混沌、無形、潜在などを象徴する。東西の紳話においてしばしば

    見られる蛇を殺すという行篤は、潜在から顕現へ、無形から有形へ、つまり混沌から秩序への轄換を意味する。蛇は人類

    が地上に居住することを種々に妨害する地下又は洞穴の動物である。地上に生活しようとする人類がまず最初になさねば

    ならない仕事は、この蛇を退治することである。そして、蛇を退治した人物こそ英雄として敬まわれ、あるいは始祖とし

    る。重像石には、

  • て崇められる。

    蛇はこのようにうとましい退治されるべき劃象であるとともに、他方では正反射に崇奔あるいは畏敬されるべき動物と

    もされる。江南の楚地では蛇をとりわけ紳聖観していたらしい。「蟹」は「虫」を意符とし、「崩」を音符とする形聾文字

    であるが、意符の「虫」とは具健的には蛇のことである。楚地では蛇を禁思としていたのであろう。世界の各地には蛇を

    人類の祖先とする民族さえ見受けられる。贋西、湖南、貴州、雲南に分布している苗、倍、伺、葬などの少数民族の聞に

    @

    は、庖犠(伏犠)と女嫡とを人類の始祖とする説話が俸承されている。洪水が瑳生したときに萌童〈ふくべ。ひょうたん〉

    の内に身を潜めて伏犠と女嫡のみが生き残り、この男女二人が人類の始組になったと言う。洪水は破局を象徴する。これ

    らの少数民族が伏犠と女嫡とを蛇身と考えているかどうかは剣明しない。人類の始祖とするモチーフが蛇身によるかどう

    かさらに検討されなければならない。

    蛇はこのように南極端の性格を有する特異な動物である。

    一方では退治されるべき射象であるが、他方では逆に崇奔さ

    - 29ー

    れるべき動物と見なされる。ところが、偲空の動物である龍が作り出されると、機能分化がおこなわれ、山田市奔されるべき

    性格の方は龍に譲り渡さねばならなくなった。中園においては、とくにこの傾向が顕著である。龍はこの上ない嘉鮮とさ

    至傘天子のシ

    ンボ

    @

    (「封調書」)。『口口氏春秋』では、大填と大鍛とが現われたことになっている。責龍はともかくとして、地下の横〈みみず)や

    娘(みずち〉という虫類も嫌忌すべきものとはけっして考えられていない。われわれの租先は漕在より頴現へ、混沌より

    秩序への媒介をつとめる地中や水生の動物をとりわけ重視していたことがわかる。

    『史記』

    の作者は

    神農は人身牛首という年人宇獣の姿として表わされている。神農は木を削って栢を、木を曲げて采を製作した。

    かれは

    545

    蔦人に封して招来を使用して農耕をおこなうことをはじめて教えた人物とされている。庖犠は「綱習を結びて以て佃漁を

    数う」と記され、人類に狩猶漁掛か-教えるに止ったが、一押農はさらに進んで農具を瑳明し、人類に農耕を数えたのであ

  • 546

    る。農耕の開始は、人類の歴史において革命的な出来事であるが、これを一岬農の事蹟として拳げている。諸子百家の一涯

    である農家は紳農をかれらの皐租として偲託した。戦園時代は牛耕と餓製農具の普及により農業の生産力が飛躍した時期

    である。神曲震が牛首の姿を取っているのは言うまでもなく牛耕と閥係がある。戦園時代に至り、農家たちによって牛耕と

    結び附けて牛首のさまに象られたのであろう。

    賞帝が帝位に即く以前は、三皇が地上を支配していた。しかも、庖犠と女鍋の二人は蛇身人首、神農は人身牛首という

    風に牢人宇蛇又は牢人中十獣の姿で示されている。これらの読話の意味するところは明白である。すなわち、三皇の時代は

    人類がいまなお地上を征服しておらない段階であり、禽獣議蛇が横行する混沌たる肢況であった。やがて、責帝が出現し

    「鳥獣轟蛾を淳化」もしくは排除し、秩序ある世界を開閉した。ここに地表はついに人類の所有と化し、生活を営むこと

    が可能となる。それとともに、資帝は人類の始租という重要な地位が輿えられている。『史記』にあっては、この責帝か

    ら漢族の帝王、覇者、封建諸侯は言うに及ばず、さらには旬奴、南越、東越、朝鮮など中園を取り巻く外閣の種族も次々

    と汲生していくのである。

    - 30ー

    責帝は混沌の吠況から秩序ある世界を創成するとともに、

    かれは人類の始祖となった。加うるに、

    かれの功績として特

    筆すべきは暦法の義明である。かれは天地陰陽四時の法則に順醸して暦法を護明したとある。責帝が貫際に暦法を護明し

    たか否かはともかくとして、人類の歴史にとって暦法の護明はきわめて重要な意義を持つ。

    日の運行と月の盈酷にもとなっ

    く暦法の護明は文明の指標のひとつとして数えられるべきである。紳農によって始められた農耕は、暦法の護明を侠たな

    その数用は期待できない。播種をはじめ農事はすべて暦にのっとって計霊的に進められるようになり、なお一層

    ければ、

    食糧の確保も可能となる。人々は自然のリズムに従い、日常の生活にも安定がもたらされることになる。農耕祉曾にあっ

    て暦法のはたす役割は決定的である。人類に多大の恩恵を興えた暦法の護明は、責帝の治績としてまことに似合しいと言

    えよう。

  • 責帝の浪後、帝位は嗣頭、帝阻害、帝案、帝舜へと縫承された。顕頭以下の四帝は、美帝の正妃媒組を生母とする玄嵩青

    陽と昌意の二子の後奇とされ、いずれも黄帝と同姓である。嗣頭は昌意の子、資帝の孫にあたり、帝暑は玄者の孫、責帝

    やわ

    の曾孫とされる。資帝、嗣頭、帝暑の治世は圏内はよく治まり、九族は睦まじく、高園は和らぐという理想的な時代であ

    った。ところが、次の帝尭の治世に及ぶと、深刻な事態が護生した。それは洪水である。洪水は神話にあっては、世界の

    破局を象徴する。『史記』

    「夏本紀」では、洪水の有様を『向書』「属貢」をそのまま引用し、

    はびζ

    帝尭の時に嘗りて、鴻水は天にまで泊り、浩々として山を懐き陵に裏る。下民は其れ憂う。

    と表現している。洪水は天にまで漉る程であり、漫々とたたえた大水はどこまでも果てなく績き、

    山を包み丘に登るとい

    う朕態であった。世界を覆い壷くした洪水に直面した帝尭は、四獄の推す鯨を登用して治水にあたらせた。しかし、九年

    の歳月を費しても工事は成就せず、水害はいっこうに止まない。世界はいよいよ破滅の危機にさらされ、帝尭の責任は菟

    がれない。かれはついに退位を決意し、虞舜に嬢政を命ずることになる。虞舜が天下を巡狩して治水工事の進捗肢況を視

    察するが、その成果は全く認められない。そこで係は虞舜によ

    って放談され、羽山において殺された。虞舜はあらためて

    係に代り子の百円を奉げ、治水の事情を引き緩がせた。福岡は第身焦思し、外に在ること十三年、

    ようやく成功した。水土は完備され、破滅寸前にあった中夏の世界はここに再生された。

    - 31ー

    父が失敗した治水の事業に

    中園の古典には、洪水にまつわる侍読あるいは鯨と馬との父子二代をはじめ、玄冥、大業など治水工事に携った人物の

    説話を載せている。洪水説話は、

    エジプト、

    メソポタミア、華北など古代文明の設群の地に共通して見られる。古代文明

    はナイル川、チグリス川、ユ

    lフラテス川、黄河など大河の流域に起ったが、これは周期的に繰り返えされる洪水によっ

    て盟沃な土壌が造成されるからであり、逆に大河の氾濫が反覆されないような土地は肥沃ではなく、従って農耕を基盤と

    する古代文明は護生し得なかったと考えられる。洪水の譲防あるいは濯甑のための治水工事は首長のもっとも重要な任務

    のうちのひとつであった。世界各地の洪水説話にはこのような現賓が反映されているのであり、中夏にあっても事情は襲

    547

  • 548

    らない。神話における洪水は暴虐や戦争と並んで破局を象徴する。

    しかし、洪水によりいったん破滅乃至破滅寸前にまで

    遁い込まれるが、死滅には必ず復活があり、洪水のあとには新たなる再生が績くのである。洪水という世界の破局を救つ

    た人物は英雄硯され、もしくは洪水の際に箱舟や萌置に身を潜めて生き延びた人物は人類又は民族の始祖として崇められ

    る。完舜の治世に洪水が頻裂して止まなかったということは中夏の世界が破滅しつつあったことを象徴する。この世界が

    まさに破滅せんとするときに、虞舜に登用された百円が苦努の末に治水工事に成功した。

    これはかれの御蔭で世界が蘇生し

    たことを意味する。百円の治績は計り知れない程に大きい。資帝に始まり顕頭、器、帝奏、虞舜と継承された五帝時代は移

    鷲を告げ、百円王により新しい世界の創造すなわち夏という王朝が聞かれる。

    l夏・股・周

    のあと、中閣を統治したのは洪水という世界の破局を救った馬王であり、

    夏朝と名附けられる新たなる秩序〈コスモス)

    - 32ー

    黄帝を始組として嗣頂、響、帝尭、帝舜と五代の帝王により世襲された時代はいちおう区切りがつけられる。五帝時代

    を創成する。五帝はいずれも同姓とされているが、百円王もその同姓の一員であり、

    血統を同じくする。

    かれの系譜をたど

    ヲハV

    ル」、

    かれは黄帝の玄孫にあたり、曾祖父は昌意、租父は二代皇帝顕頭、

    父は係とする。

    『史記』にあっては、漢代以前

    の「本紀」や「世家」に登載されている人物の遠粗は、すべて五帝となんらかの関係を持つ。「本紀」や「世家」に記載

    されている帝王、覇者、諸侯が世界をリードし、時代を切り拓く。かくのごとき人物はことごとく五帝と結び附けられ、

    元祖黄帝を原黙としてこれらの人物が中心となって作り出される歴史が順次汲生していく。五帝と血縁関係にある福岡王は

    同時に帝尭の治世に登用された功徳の臣として名が高い十一人の内に教えられている。この内五名の後沓は帝王あるいは

    帝王に準ずる覇者に至り、他は有カ諸侯になったとする。五名とは、虞舜、福岡、契、后覆及び伯臨調を指す。虞舜はかれ自

    身帝売の推穆により帝位に即いたのみなら.す、『史記』の作者によるとかれの子孫が陳、回湾、陳渉と波生し、さらに劉

  • 却と覇権を昏ゆった項羽も虞舜の末喬とみなしている。百円はいうまでもなく夏后となり、その遠孫は杷、越王勾践(鳩浅)

    と績く。契の後奮は股朝を輿こし、さらに宋、孔子へと縫がれる。后稜の苗葡は周朝を始め、これから果、魯、燕、管、

    菜、街、音、鄭など姫姓の諸侯が祇生し、晋はさらに越、貌、韓の三園に分れる。伯臨調の後沓は秦朝を建て、さらに始皇

    へと連なる。また、功徳の臣のうちその後喬が有力諸侯となったものとしては、伯夷や泉陶が奉げられる。伯夷はその子

    孫とされる太公望日向が萎斉を立てた。泉陶の後については、英や六に封建され、前漢時代に英布が現われたと言う。

    帝棄の下で活躍した功徳の臣たちはいずれも各自頴著な業績を奉伊たが、福岡には到底かなわない。かれは洪水を治め、

    水土を整えた。天下を匡劃して九州となし、各州の山川、沼津、土質、動物、植物など地理を明らかにし、団地の肥痩及

    び税賦の等級、貢物の品目などを制定する。「夏本紀」のうち大半が夏風に闘する記事を占め、しかも『尚書』「爵貢」

    をそのまま轄用している。馬王の後は直系の子孫たちが父から子へ、叉は兄から弟へと帝位を相績し、福岡王から教えて十

    四世代十七君を鰹て夏祭に至る。これは『世本』を典擦とする系固であり、事蹟に闘する記述もきわめて簡単である。

    王朝滅亡の原因を築の「虐政淫荒」と見なしてい

    夏朝は築の代に至って滅亡する。築は材と並び稽される暴君であり、

    ← 33ー

    一る。神話や民開設話にあっては、暴虐は洪水や戦争とともに破局

    SEhH可

    erのシンボルである。暴虐が天地に充満する

    と世界は破滅せねばならない。しかもすでに指摘されている如く、

    る。'要約すると、

    夏祭と肢材との故事には共通のパターンが認められ

    (一)特定の女性を寵愛し、その婦人の言のみを聴き入れること。祭の場合は有施氏妹喜であり、射の

    場合は有蘇氏担己である。

    どちらもわざわざ園を伐って手に入れた女性である。

    (二〉寵愛する女性の言のみに従うの

    で、従って忠臣の諌言には全く耳を貸さないこと。忠臣というのは、夏祭では閥龍逢であり、股射では微子、、比干、箕子

    のいわゆる三仁である。因みに言えば、幽王と褒娘、玄宗と楊貴妃など後世の歴史においても亡園の原因としてこのモデ

    ルが使用されている。

    つまり、帝王が特定の女性を寵愛したために園家そのものを破滅に導いたと説明する1

    (一ニ)オハの

    549

    王朝を興すベく預定されている人物をいったんは監禁するが、

    のちにこれを樺放すること。成湯は夏蓋に、文王は麦里に

  • 550

    しばらく囚われの身になっていた。文王については、家臣の閤夫の徒が千金を以て美女奇物善馬を買い求め、

    これらを材

    王に献上して文王を緯放して貰うという筋になっている。成湯と文王とが王朝を興す以前に一時拘束されていたとする説

    話の意味するところは何であろうか。古代の人々は、生には必ず死があり、死には必ず生があり、

    生と死とが永遠に繰り

    返えされると認識した。従って創生(叉は再生)には、その前提として死滅、かあらかじめ準備されているのである。人々は

    完全なる創生(又は再生)の質現のために模擬的な死滅の所作あるいは儀躍をおこなった。新たに世界を生成するような人

    物は、前もって拘禁や潜伏などの「隠り」あるいは窮屈な生活を経験せねばならない。あるいは、古代の人々は、鳥や議

    のごとき卵生を見て、出生に先立って、ひさご、桑、竹などの密封された中空にしばらく閉ざされて過さねばならないと

    認識した。湯王と文王の一時拘禁もこのような事例に該嘗するのであろう。因みに言えば、秦の始皇につ

    いては、父子と

    もども人質に取られて越に寄寓していたとある。あるいは、漢の劉邦の場合は、始皇の追跡を避けるためしばらくで鯨や

    碩牒の山海巌石の聞に身を潜めねばならなかった。

    祭の故事には、股肘の説話と類似するところが多い。

    おそらく数々の夏築の悪業は股材が原型であり、

    これをモデルにし

    - 34ー

    (四)酒池糟丘を作り、賢淳三昧を壷くすこと。以上述べた如く、夏

    て附加されたのであろう。

    肢の遠祖は契とされ、

    莞舜の下で活躍した功徳の名臣のうちの

    一人である。司徒に任命されたかれは、

    五品の数を普及

    させ百姓や親子の聞を和らげるのに功績があった。夏の築王を放伐して段朝を建てたのは、契から数えて十四代後の天乙

    成湯である。『史記』

    の作者は、このように寅際に王朝を興した人物からではなく、

    遠く五帝時代に朔っ

    て必ず遠祖を明

    示した。これは『史記』全健を貫く編纂の方針である。契の母は簡秋と言い、玄鳥の卵を呑んで契を字んだことになって

    いる。玄鳥とはつばめ(燕)のことであり、中園では仲春(二月〉に訪れる。

    『膿記』

    「月令」、仲春之月に、

    是月也、玄鳥至。至之臼、以大牢嗣子高楳。天子親往。

    とあり、鄭玄注は、

  • 玄鳥、燕也。燕以施生時来、集人堂宇而字乳。嫁要之象也。

    とする。高楳とは子供を授ける紳のことである。

    を施すの時を以て来る」とあるごとく、折しも高物が再生する時節に渡ってくるので婚姻や受胎と結び附けられるのであ

    つばめをはじめ渡り鳥は世界各地で神聖祝されている。鄭注に「燕は生

    る股契のあと王位は直系の子孫が父子相績し、段契より十四世後の天乙成湯が「虐政淫荒」の夏祭を滅ぼし股朝を建てる

    ことになる。これには伊安が補佐の臣として力を壷くした。伊予は周朝創業の際の太公宰ロロ向と周公旦の二人を合わせた

    ような役割を演じている。かれはもともと成湯の妃有華氏の私臣であったが、のちに成湯が「伊予慮土」を鴨召したので

    ある。孟子によると、伊予は「五たび湯に就き、五たび築に就く」とあり、最後には成湯に従った。因みに言えば、太公

    墓呂向の出自は萎氏であり、武王の妃王美と同族である。さらに一読では、呂向はかつて段付に仕えていたとあり、

    結局、無道の段材の許を去り、

    ー寸

    - 35ー

    たび股朝に入り、三たび文王に就き」、

    西伯文王に聞したとする。あるいは一読では「呂

    向慮土」が海漬に隠居していたのを、知友の散宜生と閤夫の二人が招いたとあり、この散宜生、閤夫及び目向の三人が麦

    里に拘禁されている文王を救出しようとして、美女奇物を買い求めて材王に献上したとする。

    の逸話は相互に錯綜して成立しており、各々の原型を復元することは困難である。

    かくの如く、伊予と目向と

    その弟の中壬、,次いで太甲が受け縫いだ。帝太甲元年に伊予は『伊訓』を著わし、政

    教及び法度を明らかにした。ところが、この帝太甲が「不明暴虐」であったので、これを桐宮に追放し、伊予が揖政に嘗っ

    たとする。三年の後、悔過自責した太甲に再び政権を返したと言う。これらの伊予に闘する説話は、周公旦が幼少の成王

    に代って掻政に嘗ったこと、成王が成長したあと、政権を返したこと、周代の制度文物を制定したことなどと共通する。

    天乙成湯以後の系園はかなり正確に停えられており、このことは甲骨文字によって明らかにすることが出来る。

    股族に

    あっては、帝位の兄弟相績が多く認められ、末弟のあとは末弟の子に縫承されている。遊牧民族にあっては、しばしば末

    湯王の混後、

    王位は衣子の外丙、

    551

  • 552

    子相績が見られ、子供たちは順次成年に達すると親元を離れて濁立する。最後に残るのは末子であり、これが家統を縫承

    するのである。股族は農業と牧畜とを生業としており、このような相綴の型態はこの牧畜生活にもとづくのかも知れぬ。

    股族は轄々、として何度も園都を遷した。契より湯に至る十四世に八回も遷都した。成湯ははじめ商事に園邑を置き、,次

    いで西一事に遷した。さらに成湯から十代後の仲丁のとき敵(『竹書紀年』は密に作る)に、

    十二代河一回一甲のとき相に、十三代

    組乙のとき政

    令竹書紀年』は庇に作る)に、

    十九代盤庚のとき再び西宅に移ったとする。

    『竹書紀年』では、庇のあと奄に

    移り、

    盤庚が奄から北家すなわち股櫨に置いたとしている。このように成湯から盤庚に至るまでの十九代の聞に五・六

    回も遷都した。ところで、河南安陽の股撞は盤庚以来七百七十三年聞の園都とみなされている。

    〈対〉に至るまで十二代の聞は遷都の事買はなく、

    安陽の股撞がずっとそのまま園都とされていたと言う。

    つまり、盤庚より帝辛

    これは蓮都を

    重ねた鍵庚以前の様相と大いに異なる。

    『史記』によると、盤庚は河を渡って南し、成湯の故地西一旦宅に都を置き、

    盤庚より八代後の武乙がこの事を去り、河北

    - 36ー

    『史記』の作者によると、河北に園邑が設けられていたのは、武乙以後帝辛(付〉に至る四

    世と解しているのである。この説はほとんど注目されておらず、も

    っぱら『竹書紀年』の読が採用され、安陽の股趨は盤

    庚以後材王に至る十二代の園都と信ぜられている。また、股族はかくの如く契より討に至るまで十四・五回も園都を遷し

    ているが、これはあるいは農業と並んでかれらの生業である牧畜と関係があるかも知れない。牧畜には慶大な牧野を必須

    に渡ったとする。すなわち、

    とし、

    しかも牧草が確保できなければどうしても移動せねばならないからである。段材と周武とはついに「商郊牧野」に

    おいて雌雄を決することになるが、この「商郊牧野」は、園都商邑に附属する牧地であり、商邑の四郊の外側に贋がっ

    いたと推測される。

    周の遠祖は后寝とされる。かれもまた奏舜の治世に活躍した功徳の臣のうちの一人である。かれは農師として治績があ

    ったJ

    四時に障って百穀を播種し、百姓を飢僅より救ったことになっている。かれの母は萎原といい、

    E人の足跡を踏ん

  • で后程を苧んだとある。

    E人は大人とも呼ばれ、中閣でも嘉鮮と見なされる。一例を掲げると、『漢書』「五行士山」下之上に、

    秦始皇帝二十六年、有大人長五丈、足履六尺、皆夷秋服、凡十二人、見子臨挑。

    とする。始皇二十六年に身丈が五丈(十一メートル〉、足が六尺(一・三五メートル〉もある

    E人が臨挑に出現したと言う。

    折しも海内の統一がようやく賓現した年でもあり、始皇は善鮮と見なして、これに似せてブロンズ十二睦を鋳造した。民

    聞から武器を供出させ、これを錯して造ったとされ、金人、金秋、あるいは銅人とも呼ばれる。各々の銅人の胸には、丞

    相李斯がしたためた「皇帝二十六年、初粂天下、以震郡豚、正法律、同度量。大人来見臨挑、身長五丈足六尺」の銘文が

    刻まれていたとある。これらの銅人は威陽阿房宮の門前に据えられていたが、漢代に未央宮前に移されたと言う。『漢書』

    「五行志」は、この

    E人の出現を天戒ときめつけているが、

    に射する小人ともども不老長生の嘉鮮として扱っていたのである。

    これは儒家の

    一方的な解韓である。首時の人々は大人とこれ

    后穣の母は萎原と呼ばれる。萎原は古公一璽父の妻である太萎をモデルにして加上されたのであろう。姫姓と萎姓とは古

    公璽父のときから通婚聞係にあった。武王が段材を滅ぼし周靭を興したのち、周王の王后は費、申、紀など菱姓から濯ば

    - 37-

    れるのが慣例であったらしい。また、姫姓の相手としては、萎姓が量的にも著し《多い一姫姓と萎姓とは太菱(又は美原〉

    を共通の祖先と観念する費分組織

    n?とミ吋

    SNKR3誌を構成していたと推定される。

    古公直父には三子があり、長子を太伯、次子を虞仲、少子を季歴と言う。太伯と虞仲とは末子の季歴に家督を譲ろうと

    して自ら刑蜜の地に逃亡し、支身断髪の姿と化す。この逸話は嘗時の祉曾において普遍的におこなわれた末子相績をこの

    ように修飾して説明したのであろう。季歴の生母、が古公宣父の正妻太萎であるからとか、季歴の妻太任が生んだ昌(のち

    の文王〉に婁瑞が現われたからなどという理由は、後世の草なる附舎に過ぎないと思われる。

    の少子とされ、長手は三仁のひとりに数えられている徴子啓である。

    因みに言えば、段材も帝乙

    『史記』では、辛(対〉

    の生母が正后であるので帝

    553

    位を継承したとする。しかし、徴子啓と辛とは同母であったとする読も見受けられ、辛が後嗣となった理由をあれこれと

  • 554

    詮索している。しかし、この場合も季歴と同様に貫際には年長の者が順次濁立して親元を離れ、

    最後に残っ

    た末子の辛が

    家統を継承するという習慣に従ったまでのことであろう。

    世界の中心は静止することなく、刻々と努化していく。五帝時代から夏、段、周の三代を経て、

    記』の作者はかくの如き王朝の交替を終始五徳読を以て説明しようとする。

    さらに秦に至る。

    『史

    「土徳の瑞あ

    黄帝を始組とする五帝時代は

    り、故に黄帝と競す」とあり、土、木、金、火、

    水の五徳のうちの土徳に嘗てられている。責帝以後の三代については、

    夏を木徳に、般を金徳に、周を火徳に配列する。秦の始皇が四海を卒定して皇帝に即位した際、あるものがあらためて秦

    の徳を制定しようとした。その上奏の一節に、

    黄帝は土徳を得、資龍地蹟

    見わる。夏は木徳を得、主円龍

    郊に止まり、草木

    暢茂す。肢は金徳を得、

    山より

    - 38一

    溢る。周は火徳を得、赤烏の符あり(「封欄書」)。

    とある。『史記』の作者もこれに倣い同じ意見を持っていた。夏を以て木徳とする貼に関しては、『史記』の作者がこれ以

    外に取り立てて説明をおこなっている個所は見嘗らない。

    股朝を金徳に嘗てることについては、他にも典擦を翠げること

    が出来る。すなわち、股人が金徳をあらわす白色を写んだという事買である。

    湯は乃ち正朔を改め、服色を易へ、白を上び、朝舎は萱を以てす。

    「股本紀」に、

    とあり、あるいは「股本紀」巻末に、

    太史公日く、余は煩を以て契の事をい九ず。成湯より以来は書と詩とを採る。契を子姓と信用す。其後は分封せられ、園

    を以て姓と帰す。股氏、来氏、宋氏、空桐氏、稚氏、北股氏、目夷氏あり。孔子日く、肢の路車を善しと粛すと。而

    Lて色は白を街ぶ。

  • えており、

    @

    @

    と記す。股人が白色を傘んだことは、『瞳記』「檀弓」、『春秋繁露』「三代改制質文」、『准南子』「斉俗」などの諸書にも見

    『史記』の作者の濁断ではない。

    周朝は火徳である。周の武王にまつわる白魚入舟の故事は肢周の交替を象徴的に示す。

    「周本紀」に、

    武王河を渡り、中流に白魚躍りて王の舟の中に入る。武王は僻して取り以て祭る。既に渡りぬ。火有りて上より

    下に復る。玉屋に至り、流れて烏と震る。其色は赤、其聾は塊と云う。

    と記す。この説話の主題は、白魚が赤烏に化したことである。白魚は白と魚との二個の要素に分たれ、白は金徳の肢を、

    水中の動物である魚は潜在を意味する。赤烏は赤と烏とのこ個の要素に分たれ、赤は火徳の周を、天空の動物である烏は

    顕在を象徴する。つまり、股朝は後退して周朝が寅現することを預言する。この白魚赤烏の故事は前漢時代にあっても贋

    く知られていたらしい。『史記』の作者が引用したのは『向書』「太誓」と推測されている。ただし、現行の『尚書』「太

    『史記』の編者はこちらを擦り

    どころとしたと思われる。

    - 39一

    誓」には上記の逸話は見出せない。漢初には『尚書』の異本が停来していたと考えられ、

    周の後は、水徳の秦によって受け縫がれる。蔵秦は五帝のひとりに数えられている嗣頂を遠祖とし、虞舜の治世には相

    臨調が鳥獣を調訓し、家畜化に成功した。獣類の家畜化は、農耕の開始、土器や織物の製作とともに新石器革命の指標に拳

    げられている。周の遠組とされる后寝は農耕と結び附けられ、秦の先祖とされる柏臨調は封照的に牧畜と開連づけられてい

    る。帝舜より賜ったとする粛という姓は、家畜が繁殖する意味と解掴拝されている。

    菰秦はもともと自ら金徳と稽していた。献公の治世のときに機陽に金の雨が降ったからである。金徳の瑞兆を得たと見

    なした献公は機陽に陸時(土盛をして作った祭壇)を設けて、白帝を杷ったとする。その後、百二十年ほど鰹て、荘裏王が

    ーついに周室を滅亡させた。この頃の周室は東周公と西周君とに分裂し、洛陽附近を領有する小園に過ぎなかった。妊裏王

    のあとに政〈のちの始皇)が立ち、韓、親、楚、燕、越、脅か-次々と併合して、天下統一を貫現した。臣下の意見を採用し

    555

  • 556

    て皇帝の稿慌をあらたに作り、皇帝に即位する。この折に、秦を以て水徳とすることが正式に定められたのである。或る

    者の上奏に、

    かわ

    今ま秦は周に嬰る。水徳の時なり。土日秦の文公は識に出でて黒龍を獲たり。此れ其れ水徳の瑞なり(「封栂書」)。

    とある。これに仲って諸々の制度を一新した。多十月を歳首とするのは、五行思想では水徳を多に配置するからである。

    色は水徳にあてられている黒が偉ばれ、衣服、接節、

    蛙旗などはいずれも黒色が最上とされた。数は陰数(偶数)を代表

    する六が隼ばれ、符節や法冠は六寸、輿駕は六尺、尺度は六尺を一歩とし、馬車は六頭立てという具合に六を以て規格さ

    @

    れた。さらに、黄河をあらためて徳水と名附け、音は陰律の始である大呂を最高とみなした。

    秦の施政は法律蔦能主義であり、何事も法律と刑罰によって決しようとする。

    「剛毅戻深」

    「刻制にして仁恩と和義な

    し」の政治こそいよいよ水徳にかなうと考えた。水徳(冬)は陰とされる刑罰をつかさどるからである。

    政治と自然のリ

    - 40-

    ズムとを合致させることは、

    後世にあってもしばしば見受けられるところである。

    春夏は陽気が盛んであり、首内物を育

    む。君主はこの時期は徳思の政治を施し、大赦や救値などをおこなう。秋多は陰気がはびこり、首円物を枯らす。君主はこ

    の時期は刑殺の政治に轄じ、死刑を執行する。

    た宵腕秦も夏や肢と同様に暴虐によって破局を招き、

    神話あるいは読話の領域においては、世界は洪水、暴虐、戦争などによって破滅すると解揮される。天下統一を質現し

    始皇はかの夏祭や股材もかなわぬ極悪非道の暴君であ

    滅亡に向う。

    「上は祭しむに刑殺を以て威を篤す」(「秦始皇本紀」始皇三十五年之僚〉とある

    如く、始皇は過酷な刑罰主義を以て民衆に臨んだ。民衆は恐怖政治に脅え、瞬時も心の安らぐことはない。また、人民は

    阿房宮、長城、郡山の蕎陵など度重なる土木工事に徴設され、極度に疲弊する。あるいは、兵役に駈使され、議境の防衛

    る。かれの悪業は数え上げればきりがない。

    につかねばならない。始皇の悪政の最たるものはやはり思想統

    一のために断行した焚書坑儒である。

    さらに、始皇の後を

    継いだ二世皇帝胡亥は官官の越高の専断に委ね、始皇に劣らぬ暴虐無道を繰り返すばかりである。悪業はついにここに極

  • まった感がある。中園は有史以来最大の破局

    SHEマ毛言を迎え、

    来た文化は破滅し、これより中園は混沌円

    EEの時期に陥る。

    糞帝を起黙とし、夏、段、周、

    秦へと受け縫がれて

    秦に劃する評剣は、何時の時代にあっても芳しくはない。かくのごとき評債は、貨は秦の後を承けた長期安定政権たる

    漢朝において下されたものであり、歴代これをそのまま無批剣に踏襲しているに過ぎない。漢代の人々は漢朝を稽讃し正

    嘗化するために、短命に移った秦をことさら悪様に言わねばならなかった。秦と漢と同じ関係にあるのが惰と唐であり、

    秦の始皇は惰の甥帝にあたる。時代の推移につれ、秦と漢、障と唐は各々相互に劉極する属性を形成する迄に襲形を、遂げ

    た。このため、秦と惰の二朝は寅際以上に反されていることは勿論、他方、この時期に劃極する漢と唐とは寅際以上に褒

    められている筈である。また、始皇と煽帝については、あたかもかれらが奮来の制度を破壊し蓋した如く見なされている

    が、これも構造的な認識のしからしむるところである。

    漢代における前代の蔵秦に射する評債としては、

    ー41ー

    まず買誼の「過秦論」が奉げられる。『史記』の作者は、「善哉。貫生

    推言之也」として「秦始皇本紀」の巻末に長々とこれを引用し、責誼の見解に賛同の意をあらわしている。「過秦論」は

    覇秦の興隆から読き起こし、天下統一を経て破滅に至る歴史を論述する。菰秦が滅亡した根本の原因は、

    秦王は貧都の心を懐き、自奮の智を行い、功臣を信ぜず、士民に親まず、王道を腰し、私権を立て、文書を禁じて刑

    法を酷しくし、詐力を先にして仁義を後にし、暴虐を以て天下の始と震す。

    左記し、あるいは、

    秦王は己を足として問わず、過を遂げて饗えず。二世はこれを受け、因りて改めず。暴虐以て繭を重ぬ。子嬰は孤立

    して親なく、危弱にして輔なし。三主は惑いて而して終身悟らず。亡ぶること亦た宜ならずや。

    557

    とする如く、要するに始皇と二世皇帝との「暴虐」にあると言いたい誇である。

    時代が降るにつれて、儒家が蔵秦に射して非難するところは、しだいに焦黙が絞られてくる。

    それは儒家が永遠に四時

  • 558

    する「先王の道」の租型を蔵秦が牽く底止し、

    「躍儀」「道徳」

    「仁義」

    を捨て去ったことである。

    かれによると、文武二王の治世は、道徳を崇び躍儀を隆んにし、

    古文皐汲の組とされる

    劉向はこの情況を段階的に説明している。

    仁義の道は天

    下に充満していた。康王昭王の後になると徳が衰え、春秋時代は時君に徳が無くなり、春秋の後に及んで躍が衰える。孔

    子の混後、道徳は大いに贋れ、上下は秩序を失い、

    び、仁義を奔てて詐請を用いた」結果、ついに「洛然として道徳は紹ゆ失」とし、戦園時代に道徳は絶えたと理解してい

    る。さらに、始皇及び二世に至って、破局を招来する。すなわち、

    始皇:::謀詐の弊に杖り、信篤の誠を終め、道徳の数・仁義の化なく、以て天下の心を綴せ、刑罰に任せて以て治を

    下克上が起る。

    ついで、

    「秦の孝公に至り、

    躍譲を摘てて戦争を貴

    信用し、小術を信じ以て道を矯す。遂に詩書を燭境し、儒士を坑殺し、上は桑舜を小とし、下は三王を遜かにす。二世

    は愈々甚しく、恵は下に施さず、情は上に達せず。君臣は相い疑い、骨肉は相い疏んず。化道は浅薄にして、綱紀は

    補強敗す。民は義を見ずして不寧に懸く。天下を撫して十四歳にして天下は大潰す。詐偽の弊なり。

    査に遠からずや(『戦闘策』書録)。

    それ王徳に比して

    - 42一

    と記す。

    儒家の認識するところによると、先王の遁つまりかれらが誇る文化そのものは疏秦の暴翠により戦園時代に贋れてしま

    った。その上に始皇が焚書坑儒を強行したので、ここに先王以来の文化は根絶してしまうことになる。

    それでは、

    一日一破

    滅した文化は如何にして再生されるのか。破壊された世界はやがてその破片から再生されるであろう。その破片とは言う

    までもなく壁書である。焚書坑儒の際に、孔安園の先人が屋壁に隠しておいた古文の経典の御蔭で文化は復活できたので

    ある。このように、前漢武帝時代における古文設見の逸話は、神話風にもしくは説話風に影られている。

    世界の再生l漢朝

  • 『史記』の作者は、始皇と二世皇帝との暴虐によって世界は破局を招き、責帝以来の文化はここに壷く破滅し、これ以

    後中園は混沌の時期に入ると解穫した。秦に代って新たなる秩序を再生せんとした最初の人物は陳勝である。かれは秦の

    苛政に苦しむ農民たちを組織し、一時は河南において陳王を稿する程であった。しかし、秦勝章聞に敗れ、あえなく潰え

    去ってしまう。『史記』の編者は、陳勝が歴史にはたした役割を重視し、これを「世家」の一編として扱っている。陳勝

    が匹夫の身でありながらあれ程の大業を成し得た黙については、陳勝が帝舜の血統を引く陳の文化的土壌にもとづくとこ

    @

    ろが大きいと考えている如くである。『史記』にあっては、

    「本紀」や「世家」に登載されるような王朝や人物の遠祖は

    すべて太古の五帝または五帝のもとで治績を残した功徳の臣に求められているからである。陳勝と呉贋とが興起し、新た

    なる秩序が再生されるかに見えたが、

    それもほんの束の聞のことで、

    やはり中園は混沌が支配する情況に戻る。

    陳勝・臭贋の反乱を契機に劉邦と項羽とが相い前後して兵を翠げ、

    首初は項羽の方が優勢を誇り、

    しだいにこの南雄のもとに勢力が糾合されてくる。

    た。項羽は周知の如く「本紀」として上せられている。ところで、『史記』の史観によると、

    かかる覇業を成し得る逸材は

    - 43ー

    子嬰を殺して秦を滅亡させたあと、

    自立して西楚覇王となり天下に暁令を下す程であっ

    前述した如く上古の五帝又はそのもとで活躍した名臣と何んらかの関係がなければならない。この貼について、『史記』の

    編者は帝舜と項羽の雨者がどちらも重瞳であったとする停承を取り上げ、項羽は帝舜の苗立闘ではなかろうかと推測す恥

    ついに咳下において雌雄を決し、劉邦が天下を掌握して漢朝を興す。混沌の朕況の下に置かれて

    いた中土は、ここにようやく新たなる秩序再生の気運を見るのである。上述の如く、蔵秦を崩壊へと導いた陳勝及び項羽

    の二人は根嬢薄弱とは言え、どちらも太古の聖賢と結び附けられている。ところが、漢朝という新たなる秩序を再生した

    @

    劉邦の場合には、太古の聖賢との血統閥係あるいは地縁関係はもはや示きれない。つまり、資帝を元祖とし、多くの帝王

    あるいは覇者たちによって引き縫がれてきた歴史は、

    項羽と劉邦の雨雄は

    項羽に至ってひとまず断絶するのである。

    これを五徳(五行〉の推

    559

    移につレて見ると、土徳の五帝に始まり、木徳の夏、金徳の段、火徳の周、水徳の奏という具合に、

    五徳も一巡してひと

  • 560

    つの周期を移えることになる。

    劉邦は浦鯨の中農の小伴から最後には皇帝の位に卸いたが、

    そもそもかれの出生からしてこのことを啓示するものであ

    「高帝本紀」の巻頭にかれの誕生にまつわる説話を載せている。それによると、

    かれの母の劉姐が夢に紳と遇い、蛇

    龍が下って劉邦を苧んだとする。劉邦は龍に感醸して生まれたのでその顔貌は龍に似ていたとある。龍は言うまでもなく

    至傘天子のシンボルである。劉邦の青年時代に起った出来事として、小径を塞ぎ通行を妨げていた大蛇をかれ自身が剣を

    抜いてこれを雨断したとする説話が録されている。この説話の意味するところはきわめて重要である。

    蛇は神話や説話の

    領域にしきりに登場する動物であり、混沌、無形、潜在などを意味する。蛇を退治するという行筋は、混沌から秩序へ、

    @

    無形から有形へ、潜在から顕現への轄換を象徴し、蛇を退治した人物は英雄あるいは人類の始祖として崇められる。

    人は、 蛇

    は混沌、無形、潜在などを象徴する動物であるが、この貼につ

    いて中閣の典籍にもとづき説明を加えたい。古代の人

    @

    多は識のごとく認識した。

    四季の移り行きを春は生、

    夏は長、私は成、

    - 44-

    春には首問物が復活し、萌動する季節であ

    る。多眠のため地中にこもっていた蛇や蛙は地中に出て活動を開始する。あるレは「春は議なり。物の義生ずればなり。

    (『漢書』「律暦志」)とする。夏は生物が生長し、繁殖する。

    「夏は慣なり。物の俵大すればなり。乃ち宣卒

    乃ち動運なり」

    なり」とある。秋は成熟のあと極まり一縛して衰微へと向う時期である。

    「秋は牧なり。物の牧徴すればなり。乃ち成軌

    なり」とする。多は死滅、閉塞あるいは牧臓の季節である。草木は枯れ落ち、蛇や蛙は活動を停止し、地中にこもって多

    「多は絡なり。物の的仲裁すればなり。乃ち司稿なり」とある。

    眠という偲死欣態に入る。

    ところで、東、西、南、北の四方には、それぞれ動物が配置されている。東は春にあてられ、青龍である。南は夏にあ

    てられ、朱雀である。西は秋とされ、白虎が配される。北は多とされ、玄武が配される。玄武は蛇と骨粗とが一陸となった

    形として表わされ、

    漢代の董像石では亀の甲に蛇が絡み附いている援に描かれている。このように、春は龍、夏は雀、秋

    は虎、多は砲と蛇のごとく四季には各々シンボルの動物が嘗てられている。それでは、古代の人々は、いかなる認識のも

  • とに四季それぞれにシンボルの動物を配置したのであろうか。これについては、『躍記』「月令」の記事が手掛りを輿えてく

    れる。但し『瞳記』「月令」では、春、夏、土用、秋、多の五期に到してそれぞれ動物を嘗てているので、四紳(青龍、

    朱雀、白虎、玄武)の設とは多少の異同が認められる。『躍記』

    「月令」にあっては、春は「其の識は鱗なり」とされ、鄭玄注は

    「物の字甲、絡に鱗を鰐かんとするを象る。龍

    ・蛇の属なり」とする。創生の三春を象徴する動物は地下や水中に生息す

    る鱗(うろこ)におおわれた龍や蛇の類である。次いで、生長の夏は「其の姦は羽なり」とあり、「物の風に従い葉を鼓すを象

    る。飛鳥の属なり」と注す。夏は翼を具え、天空を飛ぶ鳥類がシンボルの動物とされる。夏と秩の中聞に位置する土用(漢

    代にあっては最盛の中央・土徳は未の方角に置かれている)については、「其の識は保(裸)なり」とされ、「物の露見して隠顕

    ざるを象る。虎・豹の属なり。恒に洩毛」とある。土用は睦毛の浅きを以て虎や豹の属をシンボルの動物と見なしている。次

    いで成熟より一陣して衰落へと向う秋は「其の姦は毛なり」とあり、「物の涼気に臆じて寒に備うるを象る。狐・絡の属な

    り。捕毛を生ずればなり」と言う。摘毛に包まれた狐や絡がシンボルの動物とされ、捕毛は涼気を防ぐのに適し、来たるべき

    寒冷に備える。寓物が死滅する多季は

    「其の裁は介なり」とあり、鄭玄注は

    「介は甲なり。物の地中に閉蔵するを象る。

    亀・簡の属なり」とする。多を象徴する動物は介(こうら)を着た亀やすっぽんの類があてられ、地中に潜って生活する。

    - 45 ~

    上過の如く、

    『瞳記』

    「月令」では、動物の器官と生息の場所によって春、夏、土用、秩、多の五期につき各々シンボ

    ルの動物を配置している。多と春とは、亀や龍のごとき地中または水生の動物が選ばれ、これに封極して夏、

    土用及び秋

    については、鳥や獣のごとき陸上または天空の動物が配されている。

    四紳の場合は、

    『躍記』

    「月令」と少しく異問、があ

    春には青龍、

    夏には朱雀、

    秋には白虎、

    多には玄武(蛇と組〉があてられているが、

    多と春には地中又は水生の動

    物、これに劉極して夏と秋には地上又は天空の動物が配されていることには嬰りがない。

    561

    きて、古代の人々は東西を問わず共通して生(創造〉と死(破滅〉とが、氷遠に繰り返されると認識した。これを自然のリ

    @

    メムすな

    hち四季に嘗てはめるとどうなるであろうか。首内物が復活する春は生(創造)に劃麿する。春は天地創造、宇宙

  • 562

    開聞を象徴する。生物が繁茂し増殖する夏は秩序が確立する時期である。秋は成熟のあと表落へと轄じ、破局を意味す

    る。多は生物が死滅し、混沌が支配する時期となる。これらの関係を園示すれば次の如くなろう。創生の春を象徴する動

    物は地下及び水中と天空とを登降往来する龍である。淵にひそみ穴にもぐる龍は時折勢いよく一気に天上に昇り雲を呼び

    雨を降らす。夏は秩序の確立を青山味し、シンボルの動物は天空を飛朔する鳥類である。なかんづく、鳳嵐などの奇鳥は太

    卒の世に出現すると言う。秋は成熟から一穂して破局に向う。陸上の動物、かシンボルとされている。『春秋』は朕麟が出

    現した記事を以て結びとしているが、これは太卒の世が極

    まったことを象徴している。極まれば臆くありとある如

    く、表落に轄ずる誇である。混沌の多を象徴する動物は水

    中や地下に生息する蛇や詣である。蛇は混沌、無形、潜在

    のシンボルであり、蛇を退治するという行震は、混沌から

    - 46ー

    秩序へ、無形から有形へ、潜在から顕現への轄換を意味す

    るのである。亀もまた混沌、無形、潜在を象徴する動物で

    ある。百円王のとき洛水から神品胞が護見された。その背に一万

    された記暁をもとに聖人は文字を護明することが出来た。

    文字の護明により人類は未聞から文明へ、自然から文化へ

    と轄換することが可能となる。文字の護明は人類の歴史に

    とって劃期的な事件であるが、これを媒介したのが他なら

    ぬ亀であった。

    始皇と二世皇帝の暴虐によって中園は未曾有のカタスト

  • ロフ(破局〉を招き、

    ここに黄帝以来の文化は壷く滅亡する。

    しかし、このカオスハ混沌)の朕況からやがて劉邦が出現

    し、蛇を斬ってコスモス〈秩序〉へと轄換し、

    って、天子になるべく運命づけられていた。

    世界は再生されるのである。

    しかも、

    劉邦は龍に感醸して誕生したのであ

    漢代の歴史は高祖劉邦を大本として展開していく。政治の貫権は、目太后、文帝を経てさらに景帝へと引き継がれ、今

    上武帝に至る。『史記』の作者は、太古の責帝(土徳〉から始め、木徳の夏、金徳の肢、火徳の周、水徳の秦を経て、一

    巡して再び土徳に戻った今上武帝の太初元年に至る一周期分の通史を著わそうとしたのである。漢朝は、高祖劉邦以来秦

    制をそのまま踏襲していたが、司馬遷などの要請によりようやく元封七年に及んで諸々の制度の改革がおこなわれた。元

    封七年を以て太初元年と改め、十月を歳首とする四分暦に代って太初暦が採用され、歳首は正月となる。この太初暦は司

    馬連が太史令という職掌にもとづき作成したものである。秦では、水徳をあらわす黒が最上の色とされ、敷は六を傘んで

    諸々の制度を規格した。これに封して、漢朝は太初元年に至って正式に土徳と定められ、服色は黄を街び、制度は五を以

    て規格されることになる。

    - 47ー

    王朝の交替を五行の推移を以て説明するのは、普、通には五行相勝説又は五行相克読とされる。

    @

    は、これを五行読と呼ばないで、「終始五徳」「終始五徳之停」「五徳之俸」などと稿している。

    しかし、

    『史記』の作者

    ところで、

    五行と易とは

    本来別個の思想睦系と見なされている。

    く、易のうちに陰陽も五行も含めて理解していた。司馬遷の易に劃する解揮は特異とせねばならない。『史記』全睦の構

    成は、資老と終始五徳の読にもとづいて編纂されている。もしも、易のうちに終始五徳の読(五行設〉を含めるという解

    @

    『史記』の作者は、責老と易の思想によって全佳を構成したと言い直さねばならないであろう。

    しかし、

    司馬遷は「易は天地陰陽四時五行を著わす」(「太史公自序」)とあるごと

    稗に立つならば、

    563

    太古の貰帝は、いうまでもなく土徳である。かっ、人類の元祖とされ、歴史の原黙でもある。土篠の責帝から始まった

    歴史は、木徳の夏、金徳の段、火徳の周、水徳の秦を経て、一巡して前漢武帝に至り再び土徳に戻った。従って、責帝と

  • 564

    武帝との事蹟には、共通するところが多く、武帝も黄帝を強く意識していた。黄帝と武帝の治世はどちらも新しい時代の

    到来を告知する。黄帝が帝位に即く以前は牢人牢蛇又は隼人中十獣が地上に横行する混沌たる欣況であっ

    た。策帝の出現に

    より秩序がもたらされた。黄帝は人類の元組とされ、かつ歴史の原黙でもある。漢朝は武帝の治世に至って確立し、最盛

    の時期を迎える。もろもろの制度が一新され、秦の奮制は輩く取り除かれた。

    であり、「太極」と同義であり、

    『繋僻俸』

    を瓜ハ援とする。

    「太初」とは「大いなる初め」という意味

    責帝と武帝とはどちらも暦法を新たに制定した。黄帝は日の運行と月の盈艇により暦法を瑳見し、農業生産に安定をも

    たらした。武帝は秦制の四分暦を贋止し、司馬遷が作成した太初暦を採用した。また、責帝と武帝の二人はいずれも賓鼎

    しかもこれを得たのが、

    を得たことが記されている。

    黄帝の場合は「己酉朔旦多至」、

    @

    され、同じ「移りて復た始まる」朔旦多至の日であった。

    武帝の場合は「辛巳朔旦多至」と

    し、追抑制)

    0

    元鼎の年続は、

    ついで、武帝は湾人申公の鼎書にある「漠興、復嘗黄帝之時」「漢之聖者、

    扮陰より護見されたこ

    の賓鼎に由来する(ただ

    在高組之孫且曾孫也。賓鼎出而輿

    - 48ー

    神通封牌。封稗七十二王、唯黄帝得上泰山封」の魯示を信用して貰帝に倣い大々的に封稗の儀躍を奉行する詳である。武

    帝は黄帝を意識し、資帝の事跡を租型とみなし、これに追随せんとする。責帝は封梓のあと、倦人となり天に登ったと停

    えられているが、武帝自身も、

    瑳乎、

    五日

    誠に黄帝の如きを得ば、吾

    妻子を去るを親ること隅を脱ぐ如きのみ(「封調書」)。

    とあり、黄帝にあやかり、健人となって昇天したいと熱望していたのである。

    『史記』は循理史観の立場で絞遇されている。これは古代の人々が共通して持っていた認識の方式|生〈創造又は復活〉

    と死ハ死滅〉とが永遠に繰り返されるーにもとをついているのでありこの認識の方式による限りその歴史は循理史観とな

  • らざるを得ない。また、王朝滅亡の原因を洪水や暴虐とみなしているのも、東西の神話や侍説、あるいは民開設話に普遍

    金徳の段、火徳の周、水徳の秦と王朝

    的に見られるパタンである。太古の責帝(土徳〉より始まった歴史は、

    木徳の夏、

    ここに責帝以来の文化はひと

    まず滅亡する。しかしこのカオス(混沌)の朕況からやがて劉邦が出現し、蛇を斬ってコスモス(秩序)へと轄換し、中園

    が交代する。始皇と二世皇帝の暴虐によって有史以来最大のカタストロフ(破局〉

    を迎え、

    は再生されるのである。

    『史記』の作者は、上古の黄帝から始めて

    一巡して再び土徳に戻

    った今上武帝の太初元年に至る

    一周期分の逼史を著そうとしたのである。この通史を園示すれば、

    上の如くなる。

    -f!¥J7 3

    れに劃して四漫の夷秋は野俊とされ、

    ろ}catasl1ψhe

    歴史とは時聞の経過を種々の関係を媒介にして系統

    e

    つけた韓系

    あらかじめ知費、

    である。盟系は人聞による認識の所産であり、

    記憶及び表象などの規則に支配されているのであろう。

    - 49-

    歴史の本質は、過去の事件を種々の関係を媒介にして系統的に

    認識することと言えよう。『史記』の作者はこの系統的な説明に固

    執する除り作者ならではの特異な見解を示さねばならなかった。

    第一は、旬奴、南越、東越、西南夷、朝鮮など中園を取り園く周

    港の外園種族についてその租先をことさら漢人に結び附けている

    @

    ことである。これは中園の四夷に射する構造的な認識、

    つまりい

    わゆる中華思想とおおいに異なる。中園は躍儀すなわち文化の園

    である。中園が中園H文化たり得る所以は躍儀の存在である。こ

    動物

    (H自然)と等置される。

    をわきまえない

    565

    漢族は周漫の夷秋を躍儀

    (H文化)

    「人面獣心」などと表現している。嘗時、漢朝は高組以来旬奴の侵冠に苦しんでいた。旬奴はもっとも有力な北狭である。

  • ところで、形麓文字の「秋」を分解すると、

    「けものへん」であり、「秋」は獣類として観念されていたことがわかる。

    第二の特異の見解は、

    漢初において有力であった三大思想の系統的な生成に開する説明である。

    566

    「VA

    d

    (

    犬)」が意符であり、「火(亦どが音符である。

    「ZLは言うまでもなく

    と見なし、

    かれは老子を孔子の師

    また法家形名は黄老にもとづくとし、道家黄老より儒家と法家とが波生したと理解した。

    場をあらわすものであ加。道

    ・儒

    ・法の三大思想が賓際にいかなる過程を鰹て形成されたかについては別箇に検討を加え

    これは道家黄老の立

    ねばならない。

    『史記』の作者は、秦代以前の通史については、黄帝を大本として系統、つけている。秦末に至って一周期分が完結した

    とする。漠朝は新たなる周期の起貼をなすが、これは同時に武帝の事蹟に示されるごとく太古の責帝への回簡である。創

    生へのたえざる回蹄は神話の本質とされる。このように『史記』は歴史の本質をなす時聞の経過についての系統的な説明

    をおこなっているが、全剛直の構成はやはり神話や民開設話に見られる認識方式に拘束されているのである。部分について

    - 50ー

    り、ここに歴史とは何かが鋭く問われている如くである。

    はいくら客観的に事貧を検読することができたとしても、これらの全鐙を鰻系化する段階では別の原理が作用するのであ

    註①拙稿「『史記』の構成と責老思想」(『研究年報』

    〈奈良女子大

    良平文製部〉二O)。

    ②註①参照。

    st・』

    hxb

    ミhb内同

    H35NFE3(堀一郎譲、未

    来社刊)などを多照。

    @亥珂『中園古代紳話』第二章「世界是忽様開始的(上〉L

    参照。

    @

    呂氏春秋』「態同」に、

    責帝之時、天先見大鎖大娘。責帝回、土気勝、土気勝。故

    其色筒賞、其事則土。

    とある。

    尤に関しては、張守節正義に「龍魚河園」を引用して、

    責帝掻政、有資尤兄弟八十一人、並獣身人語、銅一政鍛額、

    食沙石子。

    とし、「献身人語」と言う。

  • 567

    ⑦註①参照。

    ③暦法の夜明以外に、黄帝は火食を始めたとされているハ『玉

    篇』食部所引『世本』「作編」、陳其祭治訂『世本』参照)。ま

    た、文字は、責帝の史であった泡読と倉韻の二人が夜明したこ

    とになっている。

    @『竹書紀年』では、「告知之末年、徳衰、震舜所囚」とか、「舜

    囚奏、復僅塞丹朱、使不興父相見」とか、「舜纂莞位、立丹朱

    城、俄叉奪之」などとあり、調岬譲がおこなわれたのではなく、

    虞舜が帝売の位を纂奪したと記す。

    ⑮註①参照。

    ⑪「般本紀」に

    諸侯関之日、湯徳至失、及禽獄。首是時、夏批措置周虐政淫荒。

    とある。

    『中園古代紳話』第九章

    「夏以後(上)」参照。

    ⑬伊予の出生については、

    有仇氏女子採桑、得嬰児於空桑之中、献之其君、其君令浮

    人養之(『呂氏春秋』「本味」篇)。

    としている。

    ⑬「高組本紀」に、

    秦始皇帝常目、東南有天子気。於是因東滋以厭之。高粗削

    自疑。亡匿際於で湯山津巌石之開。

    と言う。

    ⑮班固「西都賦」に、

    於是左城右卒、重軒三階、閏房周遁、門閥洞開、列鍾虞於

    中庭、立金人於端闘。

    とあり、また『水経注』各四、

    「河水」四に、

    西北得河水湧起方数十丈、有物居水中、父老云銅翁仲所投

    慮。::・(中略〉

    :::案秦始皇二十六年、長秋十二見子臨

    挑、長五丈絵。以信用善群、鋳金人十二以象之、各重二十四

    蔦斤、坐之宮門之前、謂之金獄。皆銘其胸云、皇帝二十六

    年、初粂天下、以信用郡豚、正法律、同度量。大人来見臨挑、

    身長五丈足六尺。李斯書也。故術恒叙祭日、秦之李斯腕肌居同

    工象。諸山碑及銅人銘皆斯書也。漠自阿房徒之未央宮前。

    俗謂之翁仲失。

    と載せている。

    ⑮夏后氏向黒、大事飲用唇、戎事乗騒、牡用玄。段人向白、

    大事徴用日中、戎事乗翰、牲用自。周人向赤、大事此服用日

    出、戎事乗願、牲用辞。(『躍記』「槌弓」上)。

    ⑫有世保氏4

    之紀、其社用土、紀中雷、葬成畝、其祭威池、承雲、

    九節、其阪向賞。夏后氏其社用松、犯戸、葬総置婆、其祭

    夏節、九成、六俗、六列、六英、其服向育。段人之雄、英

    祉用石、杷門、葬樹松、其集大滋、長露、其服向白。周人

    之雄、其批用栗、問竃、葬樹柏、其楽大武、三象、練下、

    英般向赤、ハ『准南子』「贋俗L

    訓〉。

    ⑬「秦本紀」に、

    (周〉孝王目、品目伯務潟舜主畜、畜多息、故有土、賜姓旗。

    と記す。

    ⑮「秦始皇一本紀」に、

    改年始朝賀、皆自十月朔、衣服箆控節旗皆上黒、数以六信用

    紀、符法冠皆六寸、而輿六尺、六尺鴛歩、一来六馬、更名河

    - 51ー

  • 568

    日徳水、以潟水徳之始(治?〉、剛毅庚深、事皆決於法、

    刻削母仁恩和義、然後合五徳之数、於是急法、久者不赦

    とあり、また、「封調書」に、

    於是秦更八叩河田徳水、以冬十月骨周年首、色上黒、度以六角

    名、t目上大呂、事統上法。

    とする。

    ①参照。

    @註①参照。

    ②『漢書』では、劉邦の租先を向唐氏帝亮とする。「高帝紀」

    賛参照。

    ③『史記』には、これらの説話以外に、かれが泊燃の父兄子弟

    たちにより浦公に推されると賞帝を澗ったこと、また責帝とと

    もに豚街の中庭で武紳の鎖尤をまつって武濯を祈願したことを

    載せている。

    @たとえば、『揮鍛論』

    「論蕗」に

    始江都相董生推言陰陽、四時相織、

    父生之、子養之、母成

    之、子臓之。故春生、仁、夏長、徳、秋成、義、各議、躍。

    此四時之序、聖人之所則也。

    などと表現する。

    ③宮崎市定博士は、「李斯侍」の構成を分析され、この列俸が

    文皐的に最も形式が整斉完備しており、全種として中園固有の

    リズム、起(夜起〉、承(展開〉、鱒(一穂)、結(終結〉の四

    段の構成に従って展開していくことを明らかにされた。起承

    |縛|結を四季に嘗てはめれば、春1

    夏|秩冬になる。また

    「李斯侍」のような形式をもつものとして他に「商鉄列俸」

    「伍子膏列停」などを撃げられている。宮崎市定「『史記李斯侍』

    を読む」(『東洋史研究』

    一一一五|四)、同『史記を語る』参照。

    としては、

    始由主推移始五徳フ信、以信用周得火徳、秦代周、徳従所不勝、

    方今水徳之始(「秦始皇本紀」)

    是時濁有郵街明於五徳フ惇・-至孝文時、魯人公孫医以終

    始五徳上書言

    (「暦書」〉

    余譲諜記、責帝以来皆有年数、稽其眠阿譜諜終始五徳之市開

    (「三代世表」)

    などが翠げられる。

    @

    司馬談は「太史公摩天官於唐都、受易於楊何、習道論於賀子」

    とあり、

    天官

    (天文)と易と道論

    (道家糞老)の三星を習得し

    たとある。『史記』全健はあるいは司馬談の構想であるかも知

    れない。この粘につき、さらに検討を加えたい。

    「封調書」に、

    世間人公孫卿回、今年得賞鼎、

    廿丹冬辛巳朔日一冬至、興資帝時

    等。

    卿有札誕百日、黄山市得費鼎宛胸、

    問於鬼央区。鬼奥医針

    目、黄帝得資鼎紳策、是裁己酉朔E冬至、得天之紀、終而

    復始。於是黄帝迎日推策、後率二十歳、復朔旦冬至。凡二

    十推、三百八十年、英帝倦登子天。

    とする。

    ③註①参照。

    ③註①参照。

    - 52-

  •   

    The Handwoven Cloth Industry in the

    Tarim Basin before the A. D. Eighth Century

             

    YamamotoMi£suo

       

    The Tarim Basin before the A. D. eighth century is said toha▽e

    enjoyed a great prosperity. Until now, this prosperity has largely been

    attributed to the region's role as a middleman for Chinese products in

    the East-χNest trade, particularly the silk. No doubt, the China trade

    occupied an important place in the economic life of the region; putting

    too much emphasis on it, however, will inevitably lead us to neglect

    otherindustries. In this essay l looked into, among those other indu-

    stries,the handwoven cloth industry, which stillis a major industry of

    the region. As aresult,l have found out thatit was as much responsible

    for the region's prosperity before the A.D. eighth century as the China

    trade.

    The structure of the Shih-chi 史記and the

          

    Theory of Five Virtues

             

    VedaSanae

      

    The ぶみz‘h-chiis written from the viewpoint of the circular theory

    of history 循環史観, which reflectsthe system of cognition that the crea-

    tion and destruction repeat each other eternally,shared commonly by the

    people of antiquity・

      

    According to the Shih-chi、historybegan with the Yellow Emperor

    黄帝and then developed into a succession of dynasties, each of which

    enjoyed the protection of one of the 五ve elements. The fallof a dynasty

    is due to either cataclysm or tyranny, a notion also common in the folk

    legends of the time. With the tyranny of the First Emperor of Ch'in

    秦始皇, the greatest catastrophe befelland destroyed the civilizationcon-

    tinued since the Yellow Emperor. Soon, however, from the chaosemerged

    Liu Pang 劉邦, who by slaying a serpent realized the ωs。ws and brought

    new life to China。

                       

    -1-

  •   

    What the author of the Shih-chiintended to write was a history of

    one full cycle, beginning with the Yellow Emperor and coining to Han

    Wu-ti漢武帝, the ruler of his time. Both of them, thought he, enjoyed

    the protection of the element earth ; accordingly, he consciously tried to

    draw a parallel between the deeds of the two。

      

    The theory which tries to explain the succession of dynasties in

    terms of the £veelements is being usually referred to as the wu-hsing

    hsiang-sh.£neshlぷo五行相勝説.The author of the Shih-chi,however,

    terms it as the xvu-techuns.shihshuo五徳終始誕or the theory of five

    virtues. The Shih-chi, itcan be said, was written on the basis of this

    theory and the Taoist philosophy・

           

    The Red Turbans 紅巾

    -A Tradition of Popular Armed Gronps in China―

             

    Soda Hiroshi

       

    The Red Turbans are most famous for their role in the rebellions

    at the end of the Yiian. The custom of wearing red turbans among

    popular

     

    armed groups in China, however, had a longstanding tradition

    which had continued until the modern times。

       

    As the late Shigematsu Toshiaki重松俊章had pointed out, the Red

    Turbans had their origin at the time when the Northern Sung fell.Faced

    with the advancing Chin 金troops, popular armed groups with the aim

    of self defence sprang up in various parts of Northern China. Red being

    the colour symbolizing the Sung dynasty, some of these groups had their

    members wear red turbans or tunics,or丑iedthe red banner in order to

    show their resistance. Since then, throughout the Yiian, Ming, Ch゛ing

    and the Republic, the red turban came to be adopted as a symbol of

    national resistance among various popular armed groups. Even the Water・

    Margin, the bible of rebels, reveals the in丑uence of the Red Turbans.

    Some of the characters, for example, are wearing the red turban; the

    Mount T'ai-hang 太行山, their base, too was originallya base of anti-Chin

    guerrillas. The Red Turbans were so numerous among the rebels against

    the Yiian dynasty that the rebellions at the end of the Yuan are some-

    - 2-