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Title 社甫「詠懷古跡五首」之三 : 「王昭君」像の形成と白居 易の繼承 Author(s) 西村, 富美子 Citation 中國文學報 (2012), 83: 96-110 Issue Date 2012-10 URL https://doi.org/10.14989/226535 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

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Title 社甫「詠懷古跡五首」之三 : 「王昭君」像の形成と白居易の繼承

Author(s) 西村, 富美子

Citation 中國文學報 (2012), 83: 96-110

Issue Date 2012-10

URL https://doi.org/10.14989/226535

Right

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Kyoto University

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中園文学報

第八十二一冊

社甫

「詠懐古跡五首」之三

||「王昭君」像の形成と向居易の継承||

西

ネす

社甫に「詠懐古跡」と題する五首連作の詩がある。大暦

元年(七六六)五十五歳の時の作で、主として長江の刑州

(江陵)より上流の一一一峡の古跡及び局の劉備・諸葛孔明廟

(四川省)を題材にした詩である。だが、首時杜甫は憂州

(四川省奉節豚)にいたので、これらの古跡を訪れる前の

自身の想像に基づく作か、後に大暦三年(七六八)長江を

下ってこれらの古跡に賓際に行った時に作り、後日長江の

「古跡」閥連の詩を一括して「詠懐古跡五首」の詩にまと

めたのか、詳細は不明である。

この五首の詩はこのように制作時期、事情に問題を建す

が、本稿では五首の第三首「草山高霊赴刑門」についての

私見を論じることにしたい。「詠懐古跡五首」の詩は、杜

甫の詩の中ではよく知られている詩だが、

五首の各詩につ

いて簡単にその内容を提示しておけば、

「支離東北風塵際」

「揺落深知宋玉悲」

「群山高霊赴刑門」

「局主窺呉幸一一一峡」

「諸葛大名垂宇宙」

北周の詩人庚信の古跡について

の詠懐。

宋玉の故宅についての詠懐。

96

王昭君の古跡・昭君村について

の詠懐

局の先主廟・武侯廟についての

詠懐

諸葛廟・孔明についての詠懐

先ずこの論稿で取りあげる第三首の詩を奉げておくと、

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詠懐古跡五首之

群山高叡一一赴刑門

生長明妃向有村

一+玄紫牽連朔漠

濁留青塚向黄昏

書一固省識春風面

環楓空開月夜魂

千歳琵琶作胡語

分明怨恨曲中論

詠懐古跡五首の

群山

刑門に赴く

高室

~~明た妃ぴを紫生墓長をす去れば

向お村有り

朔漠連なり

主濁固り

省i?Z4 啄fEきをヲ留

めて頁

向かっ

春風の面

環相川

空しく時る

月夜の魂

分明

怨琵恨琶を は曲胡中三五

日口

にを論作ず、①し

千歳

の意は諸説あるが、

「詠懐古跡五首」の詩はすべて七言律詩である。この詩

ならぴ立つ群山、多くの谷が刑門山に向かっており、

そこに「明妃」の生まれ育った村が今もなおある。漠

の宮殿を去ってしまうと、先はどこまでも北方の沙漠

,「

守令-ふlノ、よ一。

4争

J'uナ/

がつづいていて、ただ黄昏どきに「青塚」を留めてい

春の美しい顔は「童旦園」によって知られたのだが、

杜甫「詠懐古跡五首」之三(西村)

腰の環楓を鳴らして月夜に空しく魂が蹄漢するような

」とになったのだ。千年後も琵琶にあわせた「胡五巴

のような歌詞で、はっきりと「怨恨」の思いを曲中で

述べている。

ということであろうか。

最初の二句は、明妃の生まれ育った村(昭君村)、次の

三・四句は、北漢の旬奴で浸した明妃の墓「青塚」、を述

べる。五・六句は、重工の筆先による旬奴への西(北)嫁

と死後魂となって時漢した生前・死後の非運、最後の七・

97

八句には、胡語のように聞こえる琵琶の歌詞が永遠に昭君

の「怨恨」の念を曲中で語っている、という。

さらにこの詩は、前半と後半の二つに分断することがで

きょう。すなわち前竿の四句は明妃の悲劇を象徴する

「村」と北漠の「青塚」の二つの古跡、後半の四句は史賓

や惇説によって停えられる生前死後の不幸な運命と今も停

えられる琵琶の「怨恨の曲」、を遮べることで、明妃への

哀悼の意を表したと考えられる。

明妃は死んだが今も現存する出生地の村、北漠の地にあ

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中園文学報

第八十二一冊

る墓「青塚」、

」の二つの古跡には漢土と異域旬奴の封照

的な相違が存在する。さらに生前は歪曲された童園、死後

は不本意な魂の蹄漢、と百八十度韓換した生と死の不運な

宿命を琵琶の曲に託した、と杜甫は詠じたのだと解穫でき

るであろう。

言うまでもなくこの詩は「王昭君」のことを詠ったもの

だが、詩には「王昭君」「昭君」でなく「明妃」

の語を用

ぃ、また「明妃」が「生長」した「村」と表現し、「昭君

村」の名稽は用いていない。これには杜甫の何らかの意園

があるように感じられる。

この杜甫の詩には他に幾つかの間題が存在するようであ

る。たとえば王昭君の墓を「青塚」というのも社甫以前に

あまり例を見ない語であり、

五句目の「省識」

や「春風

面」などは従来の解稗では分明ではないところがある。六

句日の「月夜の魂」は封語としてもあまり遁切ではなく、

典擦あるいは前例の存在はないのであろうか。

さらに七・八句の二句には最大の疑問が蔑されている。

歌詞が「胡一立巴のように聞こえる「恐恨」の念いをこめた

琵琶の曲が、「琴操』以来惇えられる王昭君自作の「怨思

之歌」という通説は果たして安首だと圭一

等生寸である。

次に前半の四句、後半の四句、について順次述べていく

」とにする。

一一寸

先に指摘したこれらの疑問あるいは問題賭に封して可能

な限り筆者の私考を遮べてみたいと思う。先ず「明妃」に

98

ついては、王昭君を「明妃」と表現するのはおそらく次に

奉げる梁の江流(ハ子は文通)の「恨賦」(『文選』虫色十六・哀

傷)に見えるのが最初であろうか。

若夫明妃去時、仰天太息。紫蓋梢遠、闘山無極。

揺風忽起、白日西匿。臨属少飛、代雲寡色。望君王今何

期、終蕪絶分異域。

夫の明妃去りし時、天を仰いで太息するが若きは、紫

ょうや

蓋棺く遠く、開山極まり無し。

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揺風忽ち起こり、白日西に匿る。臨属飛ぶこと少なく、

代雲色寡し。君王を望むも何ぞ期あらん。終に異域

ぷぜつ

に蕪絶す。

この「恨の賦」は、「恨み」を残して死んだ歴史上の人

物を題材とする「賦」だが、秦始皇帝、漢の李陵に次いで

「王昭君」を詠っている。車に「明妃」の語の先例という

だけではなく菅の石崇の「王明君詞」とともに、杜甫も含

めて後の「王昭君」闘連の作品に影響を輿えている節があ

る。「明妃」

の語は、唐代では陳子昂の「居延海樹に鷲聾

を聞き同に作る」の詩に、「明妃漢寵を失し、察女胡塵に

i交す

の匂があり、李白の「王昭君」

の詩にも「漢家秦

地の月、流影明妃を照らす、:::漢月還た東海より出で、

明妃西に嫁して来る日無

Li---o」や他の詩にも「明妃」

の語が用いられている。更に白居易には「王昭君」を題材

にした詩が多いのだが、「明妃」

「青塚」

の吐討の

の証聞は

「何ぞ乃ち明妃が命、濁り書一工の手に懸かれるo」以外に

④⑤

も、「明妃」の語が見受けられる。

杜甫「詠懐古跡五首」之三(西村)

王昭君の呼稽については、「王婚」は、『漢書』巻九・元

帝紀、「琴操』「昭君怨」。「西京雑記』巻二、「一幣代名書一記』

巻固など。「王婚、字昭君」は

『漢書』巻九十四下・旬奴

停。「王昭君」は

「後漢書』南旬奴惇。「王明君」は石崇

「王明君詞」、

『世説新一詰』賢媛篇など。「昭君」は

『西京

雑記』巻二、

『後漢書」巻九十四・南旬奴停、

『歴代名董

記』巻固など。「昭君、字は婚」は

『後漢書』巻九十四・

南旬奴惇。「明君」は

『世説新王巴賢媛篇などがある。ま

た「明君」「昭君」そして「明妃」なども「楽府詩」に見

AE

えるが、「王明妃」の名稽は使われていない。

99

「l妃」を件、っこの「明妃」は他の呼稽とは異なり皇后

に次ぐ後宮の階級「妃」をあらわす語であり他の固有の人

稽をあらわすのとは本質的に異なる。「明妃」

の詩語は梁

の江流に始まるのだろうが、唐代に入って「明妃」の持つ

意味の饗化、同時に「王昭君」像に釘する意識愛化の一つ

の現象とは考えられないだろうか。漢土から異域に嫁して

生涯を終えた女「王昭君」ではなく、漢王朝の後宮の「王

明妃」

の悲劇なのである。「明妃」の語には異民族に嫁し

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中園文学報第八十二一冊

た女としてより、漢帝国の後宮の「妃」として位置づける

意識があったのではないだろうか。「王昭君」に闘する作

品の多くが印刷ポ府詩の流れの一環として作られる中で、社甫

の「詠懐古跡之三」は七言律詩五首の一首として作られた

ものである。その杜甫の詩は以後の「王昭君」関連の詩に

何らかの影響を及ぼした、換言すれば後代の詩人が「王昭

君」像形成の規範と考えたことは想像に難くない。

ちなみに、『築府詩集』に見える「王昭君」の呼稽に閲

するものは、「王明君」、「王昭君」、「明君」、「昭君」、「明

妃」などがある。また「梁府題」には、これ以外に「明君

詞」「昭君歎」「昭君怨」「明妃怨」があり、宋代になると

欧陽修や王安石の「明妃曲」群が「築府詩」に加わる。

『築府詩集』には「築府題」として「明妃曲」は無いが、

「明妃由」の詩題は唐代にもすでにあり、たとえば『梁府

詩集」巻二十九に牧める儲光義の「王昭君」、王位の「明

君詞」は、

それぞれ「明妃由」四首の一首、また「明妃

曲」(巻十九・相和歌辞)として「全唐詩』に見えるもので

ある。

キナ

先に遮べたように、前半の四句は出生の「村」と死後の

「青塚」について述べたものだが、詩には「向お村有り」

とのみで「昭君村」の名を記していない。だが「昭君村」

の名稽は「負薪行」の詩に見えており、美人輩出の村とし

て最後の四句に

面粧首飾雑時痕

100

地編衣寒困石根

若地面し編Z粧E区 に 首山衣飾の寒女く轟そし

醜与三守最

よ品iA旦しわ ι

ば U

時痕を雑、っ

若遁亙山女羅醜

何得此有昭君村

何ぞ此に昭君村有ることを得ん

と、故意に醜女に書一かれた昭君の故事を踏まえた表現をし

ている。この「負薪行」の詩も「詠懐古跡」と同時期の作

である。

また「大暦三年春、白帝城より船を放ち塵唐峡を出ず。

久しく要府に居り、特に江陵に適かんとして漂泊、詩有り、

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けんみよう

凡そ四十韻」の長篇の詩の句にも「神女峰絹妙なり、昭

ゅうむ

君宅有無。曲留められて怨惜を明らかにす、夢蓋きて歓娯

のことを詠じている。

を失す」と、「昭君宅」及び昭君自作の「怨惜(別)」の曲

」の「昭君村」を詠んだ詩としては、白居易の「昭君村

を過ぎる」の詩が最もよく知られている。「村は蹄州の束

北四十里に在り。」の自注がある。

過昭君村

霊珠産無種

彩雲出無根

亦如彼妹子

生此還阻村

至麗物難掩

謹選入君門

濁美衆所嫉

終棄於塞垣」

唯此希代色

昭君村

産をす過るぎにる叩内(

主主7 巻

'と十

526

霊珠

此亦のた退か彼阻号の出の 妹 ゐ ず村子しるにのに生如根まき無るし

一円杉晋一百

至麗にして物掩い難く

遠かに選ばれて君門に入る

終 濁にり塞R美垣えなにる棄 はて 衆らのる嫉

む所

」一

杜甫「詠懐古跡五首」之三(西村)

唯だ此の希代の色

畳無一一顧恩

事排勢須去

不得由至隼

白黒既可愛

丹青何足論

克埋代北骨

不返巴東魂」

惨潅晩雲水

依稀奮郷園

餌姿化己久

但有村名存

村中有遺老

指貼矯我言

不取往者戒

恐胎来者菟

至今村女面

焼灼成癒痕」

畳に一顧の恩無からんや

事排して勢い須く去るべし

至隼に由るを得、ず

ム日里…

既に嬰ずべし

何ぞ論ずるに足らん

克己丹に青代北

よ亘.H

を埋め

巴東に魂を返さず

耕日依u 惨姿し稀き港化たたしりりて己

久し

晩雲水

奮郷園

但だ村名の存する有り

村中に遺老有り

指酷して我が矯に言う

恐往ら者くのは戒来め者 をの取寛えらをず目白2んさ l工ん

今に至るまで村女の面

焼灼して糠痕を成すと

L L

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中園文学報

第八十二一冊

冒頭は「王昭君」

の後宮入りの経緯から始まる。「塞垣

に棄てらる」と旬奴王に遣られることを「棄」と表現する。

次に「一顧の恩」は李夫人の「北方に佳人有り、絶世にし

て濁り立つ。

一たび顧みれば城を傾け」に基づき、「丹青」

の語は「国書こと同じ意味で

『西京雑記』等を背景とし、

「巴東に魂を返さず」は、社詩の「環楓空しく踊る月夜の

魂」の昭君の「魂」だが、杜甫とは異なり「魂」の蹄漢も

否定する。

最後は「昭君」死後の「昭君村」の現状、「焼灼の面」

の風習を語る。内容は三段階構成で、最初の八句は王昭君

の故事を、次の八句は天子の意志ではなく僑作の書一園のせ

いで旬奴で死し、故郷の巴東には「返魂」しなかった悲劇

を述べ、最後に昭君の死後八百年ほどの長い年月だが村の

名は現存し、村の故老の口を借りて今も受け継がれている

悲惨な「焼灼」の村の風習を語らせて、杜甫の詩に見える

「昭君村」の賓態の具樫的な解明を一歩進めている。

この「昭君村」の詩は、元和十四年(八ム九)、江州刺史

から忠州刺史に轄任の途次の作であり、また同じ年に「王

じた内容である。

昭君」に閲する詩を作っているが、「昭君村」の春景を詠

題峡中石上

京一女廟花紅似粉

昭君村柳翠於眉

誠知老去風情少

見此争無一句詩

「主円

峡中の石上に題す(巻十七・雌)

亙女廟の花は紅なること粉に似たり

昭君村の柳は眉よりも翠なり

誠に知る

老い去りて風情の少なき

;みによ此

れを見て

争でか一句の詩無から

102

ん塚

次に、社甫の詩の第四句の「青塚」だが、先にも述べた

ように昭君の墓を「青塚」と明言するのは杜甫のころから

『蹄州園経』

ではなかろうか。そのル

lツは恐らく仇兆驚も引用する

の「遺地白草多し。昭君の塚濁り青し。郷人

之を思いて、話に廟を香渓に立つ。」かと推測されるが、

「青塚」の語は用いていない。李白の「王昭君」の詩にも

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「青塚」

の語は見え杜甫の詩と類似する貼も多く、「王昭

君」を詠じた詩では評慣が高い。

王昭君二首之一

漢家秦地月

流影照明妃

一上玉闘遁

天涯去不蹄

漢月還従東海出

明妃西嫁無来日

燕支長寒雪作花

蛾眉慌惇浸胡沙

生乏黄金柾園童

死留青塚使人嵯

王昭君二首の一

李白

漢家

秦地の月

流影

明妃を照らす

一たび玉闘の遁に上れば

天涯

去って蹄らず

漢の月は還た東海より出ずるも

燕工明支L 妃はは長西えにに嫁寒しく てし 来てた

る日鉦

雪は花を作

し蛾眉は樵悼して

胡沙に浸す

生きては黄金に乏しくして

園を柾

げて重かれ

死しては青塚を留めて

人をして唾

かしむ

杜甫「詠懐古跡五首」之三(西村)

漢朝の長安の月、月光が王昭君を照らしている。

度玉閲への遁中に出てしまえば、天の果ての地でもう

蹄つてはこない。

漢の月は束の海から出てくるが、王昭君は西の方へ

嫁してもうやって来る日もない。

北方はいつまでも寒くて、雪が花のようであり、美

しい人はやつれはてて、胡の沙漠で浸してしまった。

生きていた時は黄金が無くて給をちがった風に董か

れ、死んでしまうと青塚を世に残して人を嘆かせる。

103

昭君挽玉鞍

上馬暗紅頬

昭君

玉鞍を

紅~ .j:<弗

頬;いを時

馬に上りて

今日漢宮人

今日

漢宮の人

明朝胡地妾

明朝

胡地の妾

王昭君は玉で飾った馬の鞍を梯い、馬に乗って紅で化

粧した頬に涙を流して暗いた。今日は漠朝の後宮の宮

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第八十二一冊

女だが、明日は胡の地の妾となるのだ。

社甫の詩は、古跡「昭君村」を主題とするが、李白の詩

は「築府詩」であり「王昭君」の悲惨な生涯が中心である。

漢土出費と胡地での死浸、生と死の重なる悲劇に重酷をお

いている。しかし詩中には「青塚」以外に社甫と同じく

「月」「園書一」(書一園)「青塚」「胡l」また「明妃」が用い

られ、西嫁(北嫁)の事情を詳細に描いている。第二首は

出立の様子と今日明日の急縛直下の運命の激饗を簡潔鮮明

に表現する。ただし残念ながら李白の詩の制作時期は分明

でない。また「梁府詩」

でもあるので、社甫の「詠懐古

跡」との前後については決めがたいものがありはするが、

李白・社甫のころには「王昭君」に閲するイメージの形象

⑧⑨

化がかなり定着していく方向にあったと一三一口えないだろうか。

なお王昭君の墓は後に奉げる白居易の「青塚」の詩の中

にも見えるように「昭君墓」と稀されることもあり、先立

つものとして常建に「昭君墓」の詩がある。

「王昭君の墓」は杜佑の

『通典』巻一七九・州郡九に見

えるのが最初であろう。「麟懐元年、者一宮中都護府を改めて

以て草子大都護府とす。将一。」(牒は余河豚)とあり、「長

城有り、金河上城、紫河及び象水有りて、又た南流して河

に入る。李陵墓・王昭君墓。」と、金河牒に「李陵墓」「王

昭君の墓」のあったことを記している。

「明妃」のところで暢れたが白居易に昭君の墓「青塚」

を詠んだ詩があり、この「調論」の意がこめられた三十二

である。

句の長篇の詩は、王昭君の墓を詠じた詩としては最も詳細

青塚

上有飢雁競

下有枯蓬走

+叫にザピ哨団法居室長

一掬沙培壊

停是昭君墓

埋閉蛾眉久

凝脂化矯泥

104

(虫色二

-m)

さけ

上に飢雁の競ぶ有り

下に枯蓬の走る有り

一 正掬 正のたi少さる培lf遺壊ろ信

う 三三子

の裏

惇う

是れ昭君の墓と

蛾眉を埋閉すること久し

凝脂は化して泥と矯り

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鉛貸出復何有

唯有陰怨気

時生墳左右

欝麓如苦霧

不随骨舘朽」

婦人無他才

栄枯繋餌否

何乃明妃命

濁懸童工手

丹青一註誤

白黒相紛札

逐使君眼中

西施作ぼ母

同情傾寵幸

異類矯配偶

耐一帽安可知

美顔不如醜」

何言一時事

鉛黛

復た何か有る

唯だ陰怨の気有り

時に墳の左右に生ず

欝欝として苦霧の如し

骨に随って錆朽せず

婦人

耕他否才に無繋かしかる

築中古

何ぞ乃ち明妃が命

濁り重

一工たのび手註?:に誤ご懸し か

れる

丹青

白黒

円口、、刀

luLq

キし

r示、す

同f西遂憐t施に

を君摸ほの母ぽ眼と 中作をさししてむ

寵幸を傾け

異類

配偶と震る

示品市品

安んぞ知るべけん

美顔

醜に如かず

何ぞ一時の事を言わん

杜甫「詠懐古跡五首」之三(西村)

可戒千年後

特報後来妹

不須情眉首

旺凶器羊白リ交

h盟

'd却す向同

4イJ仲耳八i

L一一

嫁作貧家婦

不見青塚上

行人馬法酒

須特千らに年く後の眉来後首のをを妹戒f奇Eにむる報ベベずしからず

辞すること無かれ

刑叙を描み

嫁して貧家の婦と作るを

見ずや

馬に青酒塚をのi桑Z上くれ

行人

の墓」と栴している。

昭君の墓を、詩の題には「青塚」また詩の中では「昭君

105

正立にたる遺地の雪の中の砂の小山「沙培壊」は「昭君の

墓」でその墓上に「陰怨の気」が立ちこめているという。

次には、書工の手に始まった昭君の不運の顛末を具躍的に

述べて、繭一帽の貼では美女が醜女に勝るとは限らない、そ

のよき典型が遺地の「青塚」に眠る昭君であり、後宮入り

L一一

して「青塚」となるよりは「貧家の婦」となるほうがまし

類している。

だ、と警告を護している。白居易はこの詩を「誠議」に分

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中園文学報

第八十二一冊

ここに奉げた三首の詩、「昭君村を過ぎる」は「感傷」、

「峡中の石上に題す」は律詩(絶句)、「青塚」は「調論」

の部類にそれぞれ配しているが、同じ時期(元和十四年)

に江州から忠州への量移の援の途中で作られた詩であり、

杜甫また李白の詩により順次形成された「王昭君」像を纏

承していることは明白だと言える。

豆亘圃」と「月夜魂」

社甫の「詠懐古跡」の詩の後半の四句の最初は、諸注に

一言うように『西京雑記』『世説新語』に見える「霊園」ま

「重工」

の話がその背景にある。第六句には、庚信の

「明君詞」(「楽府詩集』巻二九相和歌辞)の「胡風骨に入り

て冷ややかに、夜月心を照らして明らかなり、方に琴上の

由を調べて、同相生じて胡茄の撃に入る」を仇兆費は奉げてい

る。不明確ではあるが閲連性を完全には否定できない、と

いう程度だが他に適切な先例を見いだすのは困難である。

「月夜の魂」の表現には他に何か擦る所があるのではない

かというのが筆者の未解決の課題である。

最後の二句については、

そのキーワードとなる「琵琶」

「胡語」「怨恨」「曲中」から、その背景にあるのは晋の石

であろう。前者は

崇の「王明君詞」、音の孔桁の

『丈選」巻二十七・「梁府」に「王明君

詞」として、

『琴操』と考えるのは容易

『玉蓋新詠集』巻二及び

『梁府詩集』巻二十

九・相和歌辞には「王明君」の題により載せている。後者

の『琴操」は

『梁府詩集」巻五十九・琴曲歌辞、「昭君怨」

ともに「昭君

の「楽府解題」に見える。王昭君の経歴と服毒死の結末と

帝の始め遇せられざるを恨み、乃ち「怨思

の歌」を作る」と記す。「怨蹟思惟の歌」また「昭君怨」

106

る(『梁府詩集』王婚)といわれる次に奉げる四言の古詩であ

昭君怨

秋木萎萎

主ハ+世木英李首(

有烏庭山

集子萄桑

王婚

秋木

萎萎たり

立(廿莱

萎責す

鳥有り

山に慮る

直桑に集まる

Page 13: Title 社甫「詠懷古跡五首」之三 : 「王昭君」像の形成と白居 ......さらに七・八句の二句には最大の疑問が蔑されている。歌詞が「胡一立巴のように聞こえる「恐恨」の念いをこめた

養育毛羽

形容生光」

既得升雲

上遊曲房

離宮絶瞳

身瞳推戴

思念抑沈

不得額損」

難得委食

心有佃僅

我濁伊何

改往壁常

闘闘之燕

遠集西売」

高山峨峨

河水決決

父ぷ7

母ふ7

遁里悠長

毛羽仰を養育し

鳴呼哀哉

哀しいかな

鳴呼

牙5~

廿

光を生、ず

L一一

憂心側傷」

憂心

側傷す

L一一

既に雲に升るを得

二十四句の長篇詩だが、前宇十二句は漢宮にいた首時に

曲房に遊ぶ

宮を離るること絶蹟

帝に顧みられなかった時のこと、後半十二匂は胡の地旬奴

身瞳

擢戒し

にあって故郷の父母に封する望郷の悲傷の情を詠う内容で

思念

抑沈し

ある。

額頑するを得ず

この「怨思之歌」(「怨膿思惟の歌」)が王昭君の自作かど

L一一

委食するを得と難も

107

うか、また社甫が「詠懐古跡」の末句にいう「怨恨曲」は

心佃律する有り

この「恕思の歌」を指すのかどうかは疑問のあるところだ

我濁り伊れ何ぞ

が、必ずしも特定の曲(詩)を想定しなくともよいと考え

往を改め常と蟹わる

ることも可能であろう。ただ

『分門集註社工部集』、また

闘嗣たる燕

『杜少陵詳註』など、

遠く西売に集まる

L一一

ほとんどの注緯書はこの「怨思の

歌」(「怨蹟思惟の歌」「昭君怨」)を奉げている。筆者の疑問

は、二十四句の長篇詩ではあるが「古詩十九首」の詩の調

高山

決号峨J央号峨fこ Tこりり

べに類似するものを感知するからである。

河水

父よ母よ

遁里

悠長たり

杜甫「詠懐古跡五首」之三(西村)

Page 14: Title 社甫「詠懷古跡五首」之三 : 「王昭君」像の形成と白居 ......さらに七・八句の二句には最大の疑問が蔑されている。歌詞が「胡一立巴のように聞こえる「恐恨」の念いをこめた

中園文学報

第八十二一冊

社甫の「詠懐古跡五首」の詩は、「王昭君」にまつわる

事跡を題材に詠まれた詩であるが、後の「王昭君」閲連の

詩に輿えた影響の大きさは計り知れないものがある。前漢

の元帝の時代に起きた特殊な歴史的事件は賓際の史賓であ

ると同時にその特殊性ゆえに丈撃の世界の題材として護展

していき、時代を追うごとに「王昭君」像は膨張していっ

た。六朝時代には正史の記述をはるかに越えて多種多様の

「王昭君」像の掻張があったことが珠相心される。耳目の石崇

の「王明君詞」、孔桁の

『琴操』、葛洪の

『西京雑記』、宋

の劉義慶の

『世説新語』等の「王昭君」像を経て、唐代で

は初唐のころから「王昭君」を題材とする詩が詠まれて

いったが、それらの詩の中で社甫の「詠懐古跡」の「王昭

君」の詩は、これまでの「王昭君」詩の総括的な詩作で

あったように考えられる。律詩の詩型での「王昭君」詩が

特徴の一つである。二句ごとに四つの事項が詠みこまれて、

過去の「王昭君」像を簡潔明瞭に網羅した律詩である。そ

してこの「詠懐古跡」の詩によって形成された「王昭君」

像が継承されて題材提供の分野がさらに掻張されていった。

その最初の継承者は白居易ではないだろうかと考えている。

白居易の「誠誌」の詩が杜甫の一吐曾的世相を封象にした

詩の影響を受けている面についての論争は数多いが、「王

昭君」像の継承者であることも社甫の影響を受けた白居易

の一面であることを提起しておきたいのがこの小論の主旨

である。

註①底本は『分門集註杜工部詩』を用いた。一、二、三の詩は

本書では「懐古」(各十三)の門、四及び王の詩は「陵廟」

(巻六)の門に分けて牧める。仇兆楚の「詳註」には誤字が

かなりあるので、多少の誤字はあるがこれを底本とした。

②「昭君村」は「負薪行」の詩に、また「昭君宅」は「大暦

三年春:::」の詩に見えている。なお、「明君」は、耳目の司

馬昭の名を避けて「明君」と改められたものである。

③下工沫もこの詩を奉げる。

④李白の「陽春を愁うの賦」に「明妃玉塞、楚客楓林」o

うてん

た「子聞の採花」の詩に「子関採花の人、自ら一言、つ花相似た

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りと、明妃一一明曲して胡に入り、胡中の美女差多くして死す。

めレ】ゆ

乃ち知る漠地に名妹多く、胡中に花無し。方比す可き無し」

など。

⑤白出易の「昭君怨」の詩に「明妃の風貌最も鰐停たり、合

に板房に在りて四星に庭ずべし」o

また「春琵琶を聴き、品兼

ねて長孫司戸に筒す」の詩にも「四絃琵琶の啓に似ず、:

舌頭の胡語苦だ醒醒たり、:::、明妃の虜廷を厭うを訴うる

に似たり」とある。

⑥『漢書」虫色九・一冗帝紀に、「元帝の克寧元年春正月、呼韓邪

草子来朝す。披庭の王婚に詔して、悶氏と潟す」

0

『琴操』

(『楽府詩集』径五十九・琴曲歌辞)に「昭君怨」王婚。『漢

書』巻九十四・何奴停に「克寧元年、車子復入朝す。耀賜初

めの如し。衣服錦吊紫を加う。皆黄龍の時に倍す。草子自ら

言、っ、願わくは漠氏に靖たりて自ら親しむ。一冗帝、後宵の良

家の子王培、ハ子は昭君を以て草子に賜う」

0

『後漢童日』巻八十

九・南旬奴俸に「知牙師なる者は、王昭君の子なり。昭君、

字は婚、南郡の人なり。初め、元帝の時、良家の子を以て選

ばれて披庭に入る。時に時韓邪間早子来朝し、帝赦して宮女

五人を以て之を賜う。昭君宮に入りて数歳、御せらるるを得

ず、悲怨を積もらせ、乃ち披庭に請いて行くことを求めしむ。

呼韓邪草子大舎を辞するに臨み、帝五女を召して以て之を

一不す。昭君豊容観飾、漢宮を光明し、顧影斐回して、左右

を棟動す。帝見て大いに驚き、意之を留めんと欲す、而れ

杜甫「詠懐古跡五首」之三(西村)

ども信を失うに難し。遂に旬奴に奥う。二子を生む。呼韓邪

の死するに及び、其の前の悶氏の子代わりて立ち、之を妻に

せんと欲す。昭君上書して跨ることを求む。成帝勅して胡俗

に従わしむ。遂に復た後の草子の悶氏と矯る」

0

『西京雑記』

巻二、「書工棄市」に、「濁り王婚のみ白ら容貌を侍みて、奥

うるを肯んぜざれば、工人乃ち醜く之を書一き、遂に見ゆるを

得ず。後に旬奴入朝して、美人を求め悶氏と翁さんとす。是

こに於いて、上、闘を案じ、昭君を以て行かしめんとす」

0

『世説新語」賢媛篇に「王明君姿容甚だ麗わしく、志有も求

めず。工遂に段ちて其の肢を潟す。後旬奴来たり和し、美女

を漢帝に求む。帝、明君を以て行に充つ」。石崇「王明君詞」

(『文選』虫色二十七・築府上)

0

『楽府詩集』巻二十九・相和

歌辞、楽府題に「王明君詞」「主昭君」「明君詞」など。虫色五

十九・琴曲歌辞、印刷米府題に「昭君怨」「明妃怨」などがある。

⑦『分門集註社工部詩』には、「杜Hく、草子銑に死し、子達

立つ。昭君遣に謂いて

Hく、持に漠潟らんか、絡に胡矯らん

か。日く胡篇らん。是に於いて昭君服毒して死す。草子園を

挙げて之を葬る。胡中に白草多くして、此の家濁り青し。前

代の詞人震に歌詩を作りて以て之を弔うo」と杜氏の説を引

用している。

⑧『幾府詩集』巻二十九・相和歌辞にも牧める。

⑨王昌齢の「筆篠引」に、「一遷客有りて高楼に登る、言わ

ず{株ねず笠筏を弾く。弾きて前門桑葉の秋を作す、風沙淵州知明

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中園文学報第八十二一冊

たり青塚の頭。」(『幾府詩集』には未牧であり、制作時も不

詳o)

、また倦岐然の「王昭君」の詩にも「黄金買めず漢宮の

貌、青塚空しく埋む胡地の魂」と「青塚」の語が見える。

(『楽府詩集』巻二十九所取)。

⑬常建の「昭君墓」の詩に「漠宵量に死せずや、異域に濁り

浸するを傷むOi---共に恨む丹青の人、墳上に明月を突す」

とい、っ。

⑪注⑥の「西京雑記』、『世説新語』

0

⑬仇兆禁は庚信の詩題を「昭君詞」とする。

※「昭君村」及び「王昭君の墓」は現在も存在し、「昭君村」

は今の湖北省興山燃の東北、亙峡の東岸にあり観光の名所に

なっている。「王昭君」の幕は現在の内蒙古白治匝呼和浩特

市玉泉匡の南郊、黒河の南岸にある。一九七0年代に再改築

されたもので、王昭君及ぴ呼韓邪草子の馬上の青銅の塑像が

あり、陵墓公園になっている。