ナーガールジュナ 中論と ú説...

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ナーガールジュナ 中論とΘmulamadhyamakakarika 18/NOV/2005 Feb Blanket

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      ナーガールジュナ 中論と 説         mulamadhyamakakarika      18/NOV/2005

Feb Blanket

はじめに

 個人的な目的でまとめた中論です。翻訳と意味のとりにくい 分での 釈については英

訳本に多くを頼っています(本文と注に記載)。また、 説においては自分が理 してい

る範囲内で同種のテーマについての西洋哲学の見方にも少し触れました。学問的な比 立

論をねらうものではなく、あくまでも自分が中論の内容を理 したくて行った仕事です。

ご意見等がございましたら下記までお い致します。

            [email protected]

 商業印刷物ではございませんが、ウェブ上や論文等に転載することはご遠慮ください。

           Copyright © 2005 by Feb Blanket            All rights reserved,           including the right of reproduction           in whole or in part in any form.

■献呈歌

   何であれ依存的に生じたもの dependently arisen は

   止むことなく、生ずることなく

   滅することなく、永続することなく

   来ることなく、去ることなく

   区別されることなく、独自の性 がなく without identity

   そして概念的構築 conseptual construction から 放されていることであると

   教えて下さった最善の師である

   完全なるブッダにひれ伏します

 献呈歌は中論全体を要約する である。ここには四行の否定形の表現が並んでいるが、

中観帰謬(きびゅう)派 1 によるとそれが表しているのは、事物には性 (本 )=

「実体性」が存在するということについての積極的な論証(自立論証)は不可能だ、存在

は否定形でしか主張できない、という意味だと考えられている。「実体」というのは、他

の何にも依存することのない独立した本 を持って、普遍的に常に存在しているもののこ

とである。つまり始まることなく永遠に存在し続けている絶対的なものである。

 しかしここで注意すべきことがある。「依存的に生じたもの」という 葉でナーガール

ジュナはまず、「生ずる arise」ということがあり得ることを前提にするのだが、次に

それを「生ずることなく unborn 」という具合に否定している。となると、生じ方に二通

りの仕方があることになる。実はここには仏教で一般的な二つの区分が存在しているので

1. プラーサンギカ。(Prasangika-Madhyamika) 帰謬論証派とも う。中観派の中では歴

史的には自立論証派(スヴァータントリカ Svatantrika-Madhyamika )と並ぶ派である

が、チベット仏教ではダライラマ属するゲールク派も採用する考え方であり、事実上中観

の代表的見 である。帰謬論法 L: reductio ad absurdum とは、誤った判断を立てると

いかに矛盾に陥るかを証明する、いわゆる背理法のことであるが、帰謬派の代表であるブ

ッダパーリタが、事物が本 をもって(自立的に)に存在しているということを否定した

のに対し、自立論証派の始祖バーヴァヴィエーカは本 を肯定し、否定(帰謬)論法だけ

では何も わないに等しいと ったのである。しかし西洋哲学においても本 は時代を下

るにつれて否定されてきており、現代人には自立派の論法は納得できないであろう。

                   1

はないかと考えられるのである。その区分とは:

(1)現象的真実 Skt: samvrti-satya, Tib: kun-rbzob bden-pa

 英 では conventional truth という で翻訳される考えである。漢 では「世俗諦

(せぞくたい)」と訳され、日本 では らく仏教用 としてそのまま用いられてきた

が、現代では「世俗的な真実」などと訳されることもある。しかし本訳ではわかりやすく

するために西洋哲学の訳 として一般的に知れわたっている「現象」という 葉を con-

ventional にあてて、「現象的--」などのように表現することにした。今後何度もこの

葉を用いることになるが、その意味は、「主体の認 作用とは切り離せないものとして

の、概念的理 による存在様態」ということになる。この意味では観念論的であって、主

体の内側に存在する世界であり、認 作用の外側に客観的に独立して成立するようなもの

ではない。しかし我々は常日頃そうした現象界というものを、人間の認 作用から独立し

て、その外側に実在しているもの(実体)だと想定して生きている。簡単に えば人間が

いなくても世界は存在すると考えているのである。その意味では実在論的である。そして

仏教の う「現象的真実」とは、この両方の意味を持った存在のあり方なのである。つま

り一 で表現すれば我々が日常で普通に考え、 葉で い表している事物の世俗的なあり

方のことなのであるが、それは「主観的現象でありながらも客観的実体のように見えてい

る」という二重の意味を持っているのである。説明が くなったが、この現象的真実がま

ず二区分のうちの一番目、いわゆる形而下のあり方である。

(2)究極的真実 Skt: paramartha-satya, Tib: dam-pa'i don gyi bdenpa

 これは the ultimate truth と英訳される。漢 では「勝義諦(しょうぎたい)」で、

現代日本 ではそのまま「究極的(な)真実」である。この「究極」という意味には大変

厄介な問題が含まれているが、それをこの後折々 説して行こうと思う。一般的には世俗

的ではない、悟りの境地における真実であり、 葉で い表せない、形而上の真実のあり

方のことだと仏教では考えられている。

 以上の二つである。

 さて、この献呈歌にはこうした二区分があると考えられるのだが、正確に指摘すると、

一つ目の「現象的真実」にあてはまるのが最初の行の「依存的に生じたもの」である。こ

れは仏教 では「空であるもの」のことで、後で説明するが、「 葉に依存して表された

もの」ということとまったく同じ意味である。

 そして二つ目の「究極的真実」にあてはまるのが二行目の「止むことなく」から「概念

                2

的構築から 放されていること」までである。概念的構築から 放されているということ

は 葉では い表せないものだということであり、途中に「区別されることがない」とい

う 句も含まれるのでこのことはいっそう明らかである。なぜなら 葉で表すということ

は区別するということだからである。繰り すと、この 分の意味は「 葉で い表せな

いもの」である。

 となると、「依存的に生じたもの」が「生ずることがない」と っているこの の意味

は、「 葉で表されたもの」(1)が「 葉では い表せないもの」(2)だとして等号

で結ばれているわけなので、それを矛盾なく考えようとすると、「 葉によって表された

ものは『本来は』 葉で表せないようなものである」と っていると考えるのがもっとも

自然であろう。(1)と(2)の関係は、両者は元々同じものだが、見方によって本来的

なものと本来的でないものに便宜的に分けることができる、そうやって分けた場合が「現

象的真実」と「究極的真実」である、ということになりそうである。この場合、究極の真

実とは(本来は) 葉で表せないもの、のことであり、形而上の概念である。

 ところがずっと先のところで出てくるのだが(第二十四章 10.)、ナーガールジュナは

概念的認 によらずしては究極的真実(空性)は説明できない、と っている。これは

「 葉でしか究極の真実は説明できない」である。となると、この(2)の究極的真実に

は、便宜的説明としての概念的認 --実は(1)と同じカテゴリーに属し、「依存的な

あり方」と説明される--と、本来の、 葉では表せない形而上のあり方の二つが想定さ

れているということにしなければならないのではないか。それが証拠にここで「概念的構

築から 放されている」と、第二十四章とは反対のことを っているわけである。概念的

構築から 放された世界がそのまま概念で い表せないことは当然であるはずだ。この矛

盾を突いて、ナーガールジュナが筋の通らないことを っていると直ちに批判することも

できるが、それはちょっと待ってみよう。重要な が含まれているからである。

 究極においては個々の事物は「何も生じず、何も滅しない」と っていることには、こ

のように仏教哲学を理 しようとするときに根本的に突き当たる難問がすでに含まれてい

る。そしてこのように「生じず、滅せず」というような い方で 的(形而上学的)な

ことを直接示唆している箇所は、この後中論全体を通してあまり多くない。散発的に第五

章の8.などのいくつかの で顔を出した後、第二十二章の如来の章で触れられ、第二十

五章の涅槃の章で本格的に取り上げられるまで基本的には目立ってこないのである。

 しかしこの献呈歌の い方に似たものは、実は般若心経にも出てくる。たとえば「この

                   3

諸法は空相であり、不生不滅、不垢不浄、不増不減である」という表現は、これとほとん

ど同じである。つまり、中論のこの初めの歌には般若心経などに代表されるような般若経

典群の表現がそのまま用いられているのである。それまでに著されていた代表的な空の経

典表現を最初に取り上げて、それからナーガールジュナは分析へと入って行っているわけ

である。

 ただそこで問題に感じるのは、先ほども指摘したように中観派の一般的な 釈では、こ

の の「依存的に生じたものは生じず」の 分を、「本来は」生じず、の意味ではなく、

「実体としては」生じず、の意味に考えているようだということなのである。中観派には

「空であるがゆえに事物は生じる」という決まり文句があるのだが、その意味は「依存的

であるがゆえに事物は生じる」ということである。したがって、「実体としては」生じな

いという説明をしてしまうのである。しかしこのようにこの献呈歌を 釈すると、「生ず

ることなく」以外に列挙されている表現をどう考えるかという別の問題が出てくる。普通

なら文脈からいって全 が同じことを っていると考えるのであるが、本当に同じ 釈で

行けるだろうか。まず、「永続することなく」と「来ることなく」は「生ずることなく」

と同じように扱えるので問題がないだろう。反対に、「止むことなく」、と「滅すること

なく」、および「去ることなく」はどうか。依存的に生じたものは実体として止むことが

ないという表現は意味が通るだろうか。依存的なものは実体ではないので、「実体なので

止むことがない」ではおかしいし、「実体でないので、実体のように止むことはない」も

おかしい。実体は止まないのである。次に、「区別されることなく」と「独自の性 がな

く」もいいだろう。個別的な実体として区別されることがなく、実体としての独自の性

がないのである。しかし「概念的構築から 放されている」はまた問題である。「依存的

なもの」という意味は、その依存する対象をとくに限定してはいないものの、中観派では

とりわけ「 葉」に依存するということが大きな意味を持っているのである。そうなる

と、「 葉に依存するものは 葉から 放されている」の意味になってしまって、またも

やおかしなことになってくる。こういう事情があるからか、それぞれの行の主 を個々別

々に 釈しようと みた例も存在する。たとえば「来ることなく、去ることなく」の行は

しばしば、前世から来世へと持続する自己はあり得ないという意味だと 釈されてきたよ

うである。しかしいずれにしてもこの方向はちょっと構文として苦しい感じがする。

 結論として うならば、意味としては確かに中観派の うように、「生じず、滅せず、

来ることなく、去ることなく」と続けている表現全体が、 葉によって実体的な本 を問

4

おうとする存在論の可能性を否定しているのだと理 するのがよいのだろう。ただ、「

葉で表現できないもの」と、それを「仮に 葉で表現しているもの」という、二つの次元

がどうしても必要になってくるということを見落としてはならない。

 そしてこれ以外にも形而上学的なものには多義性があり、「 葉で表現できないもの」

と同時に「実体」の意味があるとは前に述べたが、「 葉で表現できないもの(とそれを

仮に 葉で表現しているもの」を、A.文字通り論理を えていて 葉で説明できないも

のと、B. 葉で説明はできるが、それが実在するとか真実であるとかいうことは経験的

には証明できないもの、の二つに分けることもできるだろう。前者は悟りの体験そのもの

などであるが、例え話で説明したり、「涅槃」などという名前を仮につけて呼ぶことはで

きる。後者は「人間は輪廻転生している」などの考えで、説明はできるが、真偽を論証す

ることはできない。

 最初からわずらわしい 説になったが、こうした混乱の問題は今ここで投げかけておこ

うと思う。「生じず滅せず」には以上のような二重性があるのである。そしてこの形而上

学的な最初の献呈の歌はそのまま、中論の最後の で意味深く繰り されることになる。

 以下にこの を、さらに説明的に意訳しておこうと思う。今度は括弧に補った などに

注目して頂きたい。

   何であれ依存的に生じたすべての現象的な事象は

  「悟りの経験にあっては」終わることもなく、始まることもなく

   消滅することもなく、永続することもなく

   来ることもなく、去ることもなく

   概念として区別されることもない、本 を持たないものだと知ることができる

   そのように 葉による説明を え出た境地が存在するのだと

   我々のために 葉と行いによって導いて下さった最善の師である

   完全なるブッダに投地拝礼します

            5

■第一章 原因(conditions 条件/縁)の考察

 この最初の章と第四章とによって、因果関係という原理が検証されている。ナーガール

ジュナはその性 について、「実体性がない」という表現を用いるが、意味する内容は、

カントが「純粋理性批判」の最初の方でヒュームの懐疑論を受けて分析していることとほ

ぼ同じことになるものである。つまり、因果関係というものは我々人間の側の認 の枠組

みであって、世界の側に客観的に埋め込まれているものではないという考えである。しか

しこの点に関してはまた第二十四章で触れることになるので、ここでは深く踏み込まない

ことにする。

 さて、この章で問題になっていることを考えるときに重要なのは、仏教用 の「因」

causes, Skt: hetu (現代日本 では「原因」)と「縁」condition, Skt: pratyaya(現

代 では「条件」と訳されることがある)の違いを理 しておくことである。しかしこの

両者の違いについては学者の間でも意見が様々に分かれるようである。よく聞かれるのは

「主要な原因が因で、副次的な原因が縁だ」などというものである。しかしこの章では縁

が問題にされているのだから、その意味については一定の考えを持っていなければ混乱し

てしまうことになる。したがってここでは、J.L.ガーフィールドの見 を代表的なも

のとして紹介しておくことにする。それによると、因も縁も因果関係における「原因」を

表すという意味では同じなのだが、因の方は本 を持った実体としての原因であり、縁の

方はそうではないということである。したがって本 を否定するナーガールジュナとして

は「因」という 葉はそれ自体が間違ったものであり、原因という 葉にふさわしいのは

「縁」の方だということになる。1 この訳では因も縁も単に「原因」としておいた。縁を

「条件となる原因」などとしてもよいだろうが、すっきりしないからである。

1. ナーガールジュナが「因」Skt: cause, Tib: hetu, rgyu という を用いるときは、

そのものに結果をもたらすことのできる力 power, (Skt: kriya, Tib: bya-ba )を内

に含んだ出来事、ないし状態を念頭に置いている。そしてその力は、そのものの本

essence 、もしくは性 nature,(Skt: svabhava, Tib: rangbzhin)の一 である。そ

れとは別に、彼が「縁」Skt: pra-tyaya, Tib: rkyen という を用いるときは、説明す

るものとされるものとの間のいかなるオカルト的結合にも形而上学的信念にも頼らずに、

ある出来事、状態、もしくはプロセスを説明するに る、それとは別の出来事、状態、も

                   6

しくはプロセスを心に描いているのである。(中略)ナーガールジュナは、因の存在には

反対し、様々な種 の縁の存在は肯定する論をくり広げている。(中略)最初の で、ナ

ーガールジュナは効力というものの存在を明確に否定し、「因」という 葉を辛辣に用い

ている。彼はそんなものは存在しないと否定しているのである。縁の存在に関する同様の

否定は、第一章のどこをさがしても見当たらない。反対に第一章の2においては、縁の四

つの種 をはっきりと主張している。

Fandamental Wisdom of the Middle Way, Jay.L.Garfield, Oxford university press

1995, pp.101-102.

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1. それ自身からでなく、他のものからでもなく

   その両方からでもなく

   原因 cause(因)のないところからでもないのなら

   いったいどんなものが、どこに生ずるというのだろうか

1.意訳

(たとえば種が芽の原因だと うときに、芽はすでに種のなかに潜在的に含まれているの

でなければ生じてこない、とする考え方がある。これだと芽〔結果〕は種〔原因〕と同じ

ものであることになるわけで、)「それ自身から生じる」(という見 なわけである。ま

た、たとえば親から子が生まれると うときに、子〔結果〕は親〔原因〕の中から生じた

のではあるが本来別々のものである、と考える者もいる。これだと原因と結果は別々の原

理なのだが、原因は結果を引き こす力を持っているのであり、結果は)「他のものから

生じる」(という見 なわけである。さらに、たとえばまた種から芽が出ると うとき

に、種〔原因=因〕の中に芽〔結果〕が含まれていなければ芽は出ないが、かといって水

〔他の副次的な原因=縁〕をやらなければやはり芽は出ない、と主張する者もいる。これ

だと原因と結果は別々のものでありながら同じものであり、結果は)「それ自身と他のも

のの両方から生じる」(という見 になるだろう。そして、事物はなんら特別な原因を持

たずに生じてくる、という考え方もある。これは、結果は)「原因のないところから生じ

る」(という見 である。しかし)、もしこれらの四つの見 のどれもが信じられないな

らば、原因によって生じる、ということをいったいどう考えたらよいのだろうか。

                   7

 ナーガールジュナはここで、当時存在していた哲学学派の主張を検証しているのであ

る。第一の見 は自立因果関係説で、サーンキャ学派 Samkhya が代表である。二番目は

他律因果関係説で、当時の仏教界では一般的な考えであった。第三はその折衷であり、第

四はヒュームを彷彿とさせる(因果関係) 無主義である。これらは(現代の我々にとっ

てももちろん)ちょっと信じられない考え方であるが、かといってそのどれでもないなら

ば、いったい因果関係についてどう考えたらよいのか。それをナーガールジュナは次の

から 説するのである:

2. 四つの原因 condition(縁)がある: 有効な efficient 原因(縁);

  知 -対象の原因(縁); 直前の immediate 原因(縁);

   支配的な原因(縁)、それだけである

   第五の原因(縁)は存在しない

2.意訳

 原因には四つの種 がある。(たとえばテーブルが存在していることの原因を考える

と、第一に)「有効な原因」(がある。これは偶然見つけた主だった符合関係であり、例

としては「私がそのテーブルをそこに置いたから」というものである。第二に)「知 -

対象の原因」(がある。これは「知 の対象としてテーブルがそこに存在しているから」

というものである。第三に)「直前の原因」(がある。これは結果が生じる一瞬前に成立

していた原因という意味であるが、結果的には因果関係の分析から出てくる無数の媒介的

な原因であり、例としては「木材が製材され、職人が天板と脚とを組み立て、それに光が

当たり、その光が私の目に届いたから」というものである。第四に)「支配的な原因」

(がある。これは目的からの説明であり、例としては「私には書物を書くためのテーブル

が必要であり、欲しかったから」というものである。)原因の種 はこの四つだけであ

る。第五の原因などというものは存在しない。

 この分 はナーガールジュナの時代のインドで一般的だったものである。こうした分

が現在でも他に説明があり得ないほど普遍的なものであるかどうかといえば、恐らくそれ

は大いに疑問であろう。分 自体がナーガールジュナの時代とその後とでは変化してきて

いるし、意見も分かれているようである。知 -対象の原因というものを考えてみても、

                   8

対象物に対する知 のあり方は個々人でばらつきがあるはずだという議論も出てくるであ

ろう。同じ対象が存在しているかすらはっきりしないのである。いずれにしても、少なく

ともこうした分 のどれもが一定の原因を表してはいるのであり、同時にどれもがそれ一

つで根本的で究極的な原因だとは主張できないということである。個々の原因というもの

はそれを認 する者が捜し出すやり方に依存して成立するものなのである。ナーガールジ

ュナは、原因の中に事象が本 的に存在しているのではないということを いたいので、

当時一般的だったこの分 を持ち出したのであり、また、反論者たちが信じているものと

してここで明記しておき、後で彼らの論理矛盾を突く材料として用いるつもりなのであ

る。したがって分 そのものの真偽は深 いしない方がよいと思う。

3. 存在の本 the essence of entities は

  原因(縁)などの中には存在しない

   もし本 というものがないのなら

   他のものから来る-本 otherness-essence も存在しようがないだろう

3.意訳

 あるものを生じさせる特定の原因の中に、そのものの本 があらかじめ含まれていると

いうことはあり得ない。もし本 というもの自体が存在しないなら、「他のものに依存す

るという本 」も存在しようがないだろう。

 因果関係というものを成立させている「原因」にはいくつもの種 があるということを

前の でナーガールジュナは述べている。そしてそのうちのどの種 の原因一つをとって

みても、その原因自体の中に、その原因によって生じる事物の本 Tib: dngos-po rnams

kyi rang bzhin が含まれているということはないのである。目の前のテーブルについて

は、私がそこに置いたことも、製材された木材が存在したことも、家具職人がそれを作っ

たことも、どれもそれぞれがテーブルを存在させている原因ではあるが、たとえば材木の

中にテーブルがあらかじめ本 的に存在していたのだ、などとは えないであろう。最初

の二行はそのような意味である。

 次の二行に出てくる、他のものから来る-本 otherness-essence(Skt: parabhava,

Tib: gzhan dngos)という 葉は、「他のものに依存することで生じるという本 」とい

                   9

う意味である。本 というものは別名では実体のことであり、その定義からすると、「そ

のもの固有の性 で、かつ変わらず永続する性 」なのであるから、「他のものに依存す

る」と った段階ですでに本 を持っているとは えないはずなのであるが、こういう思

考法は我々の認 構造に根ざすものであるがゆえに、本気でそのように論じていた教派の

人々が当時いたのである。

 蛇 だが、次のようにも える。他のものが持つ原因の力によって生じるというなら

ば、その頼る先の「他のもの」は本 を持って確固として存在していなければならないよ

うな気がするが、事物というものはどんなものであれそのもの独自の本 を欠いていると

説明されるのであるから、他のものにもやはり本 はないことになる。本 のないものに

頼って本 を持ったものが生まれるのはおかしい--

 さらに、「他のものに依存する」という以上、「他のもの」が「このもの」と別個に存

在していることが前提である。しかし事物の存在に固有の本 がないのであれば、個別性

というものもあり得ないのであるから、他も自もないはずである--

 要するに、こうした問いはどれもみな自己否定であり内 矛盾であり、どうどうめぐり

になる運命なのである。結論を えば、原因の探究というものは一つの便利な説明に過ぎ

ない。事物の存在の側に、客観的に原因というものが初めから埋め込まれているのではな

く、我々が説明のために事象を 葉で切り分けているということである。ヒュームが因果

関係を疑ったことと、カントがこの問題を「ア・プリオリ」という概念で説明したことに

ついては、また第二十四章の 説で触れようと思う。

4. 行為を生み出す力 power to act は原因(縁)を持っていない

   原因(縁)なくしては行為を生み出す力は存在しない

   行為を生み出す力なくしては原因(縁)は存在しない

   それならどんなものも行為を生み出す力を持っていないのである

4.意訳

(原因が結果を引き こすのであるから、)原因そのものの中に結果を引き こす力--

原因の力--(が備わっているのだと考える者たちがいる。いわば原因の原因である。も

しそのような力)が原因そのものとは別に存在するのであれば、その力を生じさせている

原因というものも想定できるはずだが、そのような「原因の力の原因」、などということ

                   10

は われないのである。(彼らの論法からするならば、原因もないのに原因の力などとい

うものが生じてくるということはあり得ないのではないか。その一方で原因の力というも

のを想定する者たちは、)原因の力なくして原因が原因として働くことはできない(と主

張しているのである)。つまり原因なくして原因の力なく、原因の力なくして原因なし、

である。(原因も原因の力もどちらが先だとは えないのであり、)結局どんなものも原

因の力など持っていないのである。

 ナーガールジュナはここで、「原因の力」という考え方を批判している。 で表現され

ている「行為を生み出す力」 power to act とは、意訳で「原因の力」causal power と

したことと同じことである。行為 act という 葉はカルマ Skt: karma の訳 にもあ

てられるのであるが、悪いことをした罰、というような「出来事」であれ、あるいは 脱

できずに輪廻して生まれてきてしまった動物や人間、というような「事物そのもの」であ

れ、仏教においては「何かの結果として引き こされる事象全体」のことである。したが

って「行為を生み出す力」と えば要するに「結果を生み出す力」のことであり、つまり

「原因の力」という意味である。

原因の力という概念は、原因がその結果をどうやってもたらすのかを説明するために考

え出された理屈なのであるが、当時そのような力を想定する学派の者たちがいたわけであ

る。具体的にはどういうことかというと、因果関係においては原因が結果を引き こすと

説明されるわけであるが、それだけだとなぜ引き こすのかが説明できないように感じ

る。そこで原因そのものの中に、結果を引き こすような媒介力が内在しているのではな

いかと想定しようということである。つまり原因というものを自然界に客観的に存在する

「もの」のように考えているわけである。

 しかし原因の力が原因を働かせる、と うならば、その原因の力を有効に働かせている

ものは何か、とあらためて問うこともできるわけである。要するに原因の力は原因の原因

だと っているわけなのだから、原因の力の原因は何かと問い、またその原因の力の原因

の原因は何かと永遠に問い続けることができる。ナーガールジュナは常にこういう無限循

環に陥る論理矛盾を突く手に出るのである。結局「原因」と「原因の力」とは同じ土俵に

立った二つの概念であって、わざわざ二つにしても、ただ増やしただけで何の 決にもな

っていないということなのである。「もの」として因果関係をとらえると、こういう破綻

に陥ることになる。因果関係における原因というものは、結果を引き こものだと考えら

                   11

れているわけであるから、確かにその力を持っていると ってもいいかもしれない。しか

しその力は「もの」とてして存在するのではなく、認 においてそのように想定されてい

る原理だ、ということなのである。もし仮に、原因を働かせる原因は自然界に存在する原

因の力だが、その原因の力自体には原因がない、と考えるのなら、原因の力というものは

論理を えた説明不能な 自然の力である。しかも自然界に実在する 自然力だというこ

とになってしまう。

5. これらがそれらを引き こすがゆえ

   これらは原因(縁)と呼ばれている

   それらがこれらの中から出てくるのでないならば

   これらはなぜ、原因(縁)でないもの nonconditions ではないのか

5.意訳

(原因の力というものを想定する者たちの間では、)原因というものが結果を引き こす

ので、それが原因と呼ばれているようである。しかし(前述のように)結果が原因の中か

ら出てくるということが えないならば、(その場合彼らの い方で えば結果と原因が

別物になるわけであろうし、それぞれ「原因」と「結果」という名を持ってたまたま同時

に存在しているだけであろう。そうならば、そのように結果と別物である)原因は「原因

でないもの」と表現しても同じことではないか。

 最初の二行は反論者たちが提唱している前提である。原因というものが結果を引き こ

すのだ、というのである。しかし前の で述べられているように、ものとしての原因の力

などというものは成立しないのであるから、原因というもの自体が実在しないことになる

のだ、というのが後の二行の意味である。

 中観派では、原因というものは実在するものではなく、単なる説明の法則なのである。

具体的にこのことを う場合は、ある因果関係の原因は、その他の因果関係の原因によっ

てのみ説明される、という具合に表現される( 則は 則によって説明される)。これは

法則性のみが存在するのであって、法則性は法則性によってしか説明できない、というこ

とである。説明の法則は説明を可能にするものであって、説明対象ではない。カントは因

果関係というものは我々の認 の「原理」だということを述べたが、それと同じ意味であ

                   12

る。あるものを別のもので説明できるにしても、それは単なる説明であり、あるものと別

のものとが実体として別々に存在しているわけではない。世界は一つであるという一元論

を積極的に表現するかどうかは別としても、ここでは個別的な局所実在性は否定されてい

るとも えるだろう。

6. 実在しているもの an existentも、存在していないもの a nonexistent も

   原因(縁)を充たす appropriate ことはない

  もし事物が存在していないのなら、どうしてそれが原因(縁)を持つことなど

できるだろうか

   もし事物がすでに実在しているなら、原因(縁)がいまさら何をするというのか

6.意訳

 独立したものとして実在している実体も、その反対にまったく存在していないものも、

どちらも原因というものになることはない。まず、もし事物がまったく存在していないの

ならば、どうしてその存在しないはずの事物が、生じるための原因などというものを持つ

ことができるだろうか。(生じる根拠である原因を持つということは、そのものが生じる

ものであり、存在するものであることになるはずである。)また反対に、もし事物がすで

に実体として実在してしまっているというのならば、(独立して永遠に存在しているその

ものに対して、)原因がいまさらどう働きかけようがあるだろうか。(原因とは存在して

いなかったものが存在するための働きをするものだからである。実体は最初から存在して

いるので、原因など要らないはずである。)

ナーガールジュナは実体として原因というものをとらえることを否定しているのであ

る。実体とは、個別的に独立したものとして、本 を持ち、生じることなく消滅すること

なく永遠に存在し続けているものである。この では「実在しているもの existent

(Skt: sat, Tib: yod-pa) 2 」と表現されている。そして実体論者にとっては、存在して

2. この は、「実体として」存在するという意味に重点が置かれる場合と、単に現象と

して存在するという意味で用いられる場合がある。そこで原則として前者には「実在」、

後者には「存在」という を用いるようにした。

                   13

いないものは実体として存在していないのであり、永遠に本 的に存在していない--つ

まりまったく存在していないのである。ここでは「存在していないもの nonexistent

(Skt: asat, Tib: med-pa)」という 葉で表現されている。

7. もし実在しているもの existents も

   存在していないもの nonexistents も、存在している 実在 existent

      nonexistents も証明できないのなら

   どうして「生み出す力のある原因」 productive cause などということが

      えるだろうか

   もしそうしたものが存在するのなら、それは無意味なものに違いない

7.意訳

 もし実体としての実在も、その反対にまったく存在していないものも、(あるいは

「右」と「左」のように、概念としては存在しているが実体的には実在していないような

ものである)「存在しているまったく実在しないもの」も、それらが(生じるということ

について)一切証明できないのなら、「原因の力」として事物を生じさせる働きを持つよ

うな実体的な力などというものをどうして想定できるだろうか。もしそのような実体的な

「生み出す作用を持った力」のようなものが存在する(と実体論者が うの)なら、それ

は矛盾したものだということになるだろう。

8. 実在する実体 an existent entity が

   対象を持つことはない

   心の中の出来事 a mental episode が対象を持たないのなら

   どうして知 -(対象の)原因(縁)percept-condition が存在すると える

だろうか

8.意訳

 実体というものは、その成立において対象を必要とすることはない。(常に単独で実在

しているものなので、何か他のもの〔対象〕によって生じてくる必要がないのである。)

心の中の出来事が、もしこのように対象を必要とせずに成立するものだと うなら、対象

                   14

があって心がそれを知 することが原因で生じるような「知 -対象の原因」などという

原因のあり方は成立しないことになるのではないか。

 他の箇所の訳にならえば「実在する実在」となるところを、 の重複を避けて上記のよ

うに「実在する実体」と訳しておいた。意味からするとそうなるからである。ここで問題

にされている実体 Tib: yod pa'i chos というものは、実は心の中の出来事 mental epi-

sode としてのみ成立するのだとツォンカパは 明している。つまり8の の一行目と三

行目の主 が同じものだというわけである。こうした表現だと、「実体は主観の内 に存

在する」と っているようにも聞こえるが、むしろ、実体自体が想像の産物に過ぎず、成

立しないものであるという意味に すべきであろう。

 仮に心の中の対象が実体であり得るかどうか議論してみるとすると、「心の中の」と

った段階で、すでに心の持ち主と、そこに映じる対象とに分かれているのであり、そのよ

うに対象と主観に分かれることが前提で「知 -対象の原因」が成立するのだから、それ

が単独で存在できる実体であり得ないのは明らかである。

 ここからは話が複 になるのだが、中観派の論法として「知 の瞬間」という時間的観

点から相手を論破しようとするやり方があるので、参考までに少し触れてみたい。まず、

原因と結果について考えてみると、何かが何かを成立させるなら、成立させる方がさせら

れる方よりも時間的に前に存在しているか、あるいは少なくとも両者は同時に存在してい

なければならないと考えるのは当然であろう。結果の方が先に存在していて、原因が後か

ら こったのでは、それは結果を生み出す原因とは えない。そこで、「知 -対象の原

因」を主張する場合を考えてみると、それは知 が対象をとらえることが原因で対象が存

在するようになるということなのだから、知 が先にあって対象が後から生じるか、少な

くとも知 と対象は同時に生じなければならないだろう。しかし対象を知 するときは、

たとえば何かを見た場合は見た後それを認 するまでにいくらか時間がかかり(今日 に

うならば、光の到達時間や神経処理の時間がかかり)、対象の存在よりも知 の成立の

方が後に来るように見えるという観察事実がある。3 対象の存在と、その知 把握は同時

3. あくまでも観察事実としてそう確認される構造があるという意味であり、観察対象が

観察者よりも先に実在していることが証明されているという意味ではない。そう見えると

いうことである。仏教ではそのように見えることを「現象的真実」(世俗諦)と う。

                   15

ではなく、常に知 の方が時間的に後になるので、知 が対象を成立させるとは えない

のである。したがって知 は対象の本 的な成立原因ではなく、「知 -対象の原因」は

実体的(本 的)には成り立たない。中観派は唯心論(観念論--こころが先にあって事

象を成立させている)的な発想をこのようにして退ける手に出ることがあるようだ。

 しかもその上で、反対に対象が知 (観察者/主体)よりも先に存在しているというこ

とも えないのである。中観派はこういう に「観察者よりも先に」という い回しはし

ないのだが、「対象は実体的には存在しておらず、依存的にのみ存在している」と い、

「依存とは概念的把握に依存することである」と っているので、概念把握をする主体が

人間だと考えるならば、個物実在論(経験論)的発想--ものが先にあって人間がそれを

とらえる--を西洋の論者が主観に内在した原理という観点から退けているのと同じこと

をしていることになる。

 こう考えてくると、中観仏教の哲学は、観念論と実在論の両方を否定していることにな

るのである。私の考えではカント(1724- 1804)も内容的にそのような両面否定になり得

る考え方をしており、西洋の哲学史上では経験論(イギリス-/実在論)と合理論(大陸

-/観念論)を 停したと われているが、この両面否定の い回しでよく話題に上るの

は現象学のエドムント・フッサール(1859- 1938)、およびその論点を批判吟味したジャ

ック・デリダ(1930- 2004 彼の論点は再度後の章で簡単に触れることにする)あたりで

あろう。

 フッサールはデカルト同様、まず観察者の意 (主観)よりも先に事物が客観的に実在

しているということは えないと主張している。たとえば我々人間が も見ていなくても

コップは実在している、という主張はなるほど正しく思えるが、実は思い込みに過ぎない

と うのである。なぜなら、我々人間にとっては感 情報をもとにした(ものと考えられ

る)意 作用以外に事物を理 する術がないのであるが、我々の意 は対象物をとらえる

際に、その対象と完全に一致することはなく、 してしまっているからだという。この

「 」とは、「模写」というような意味である。どういうことかと うと、我々が外界

に存在する対象を知 するときは、あたかも連発 のように注意(志向性)を向けている

のであり、いわば点の連射で認 している。したがって対象の全体を正確に見ているわけ

ではないので、よく見間違いなどをするのである。あっ、向こうから友人が来る  と思

ってよく見ると、よく似た他人だったということがある。このように限られた一瞬の感

情報をもとに対象を見極めているだけであるから、知 と対象とが完全に一致する、など

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ということは絶対にあり得ないのである。したがってその不完全な感 情報に頼ることで

のみ事物の存在を認 できる人間にとっては、事物の実在ということもあやふやなものに

なる。そこで にとっても客観的に一つであるような事物がまず実在しているという思い

込みを「括弧にくくり」、いったん「判断中止」してかからねばならないというわけであ

る。このように、事物の客観的実在は証明できないということ、これがまず、ものがあっ

て知 がそれをとらえるという、実在論的な方向の否定である。

 次に、知 が先にあるから対象が生ずる、という発想(観念論/唯心論)も否定される

のである。どのようにかと うと、まず意 というものを考えてみると、常に何かの対象

をとらえている作用だということがわかる(瞑想によって対象把握を一切放棄する、とい

うような精神活動はこの場合通常の意 作用には含まれていない)。したがって心の中の

イメージにせよ、目の前に実在していると知 されている事物にせよ、「意 は常になに

ものかについての意 である」4 とフッサールは うのである。これで観念論的なベクト

ルも否定したことになる。心が先に存在していて世界を創造している、ということも え

ないということである。

理屈としては何ということのないように思えるこの両面否定ということが、形而上学と

認 の限界を示す一つの い回しとして、実は哲学的に大変重要なことなのである。そし

てブッダ、ナーガールジュナ、および中観派としてまとまってきた考え方は、 い方こそ

異なるが、この両方向否定をすでになし遂げているとも えるだろう。彼らの伝統では実

在論にも「 無論」にも陥らない中道(中観)、という表現の方が有名なのだが、意味を

って行くと実在論にも「観念論(唯心論)」にも陥っていないということがわかる。

9. 事物は生じたものではないので

   消滅も認めることができない

   したがって、直前の原因(縁)immediate condition は道理に合ったものではない

  もし何かの事物が存在を止めたら、どうしてそれが原因(縁)であり得るのか

4. デカルト的省察 第二省察 浜 辰二訳 岩波文庫 p.68. 一般にこの表現がフッサ

ール現象学のキーワードであるかのように われてきた。しかしこうした問題については

さらに厄介な論争もあるので、後の章で触れたい。

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9.意訳

(原因の力というような考えを想定する実体論者たちにとっては、実体としての)事物は

ある時点で生じたものではないので、また消滅するということも認めるわけにはいかない

はずである。したがって(結果の成立の一瞬前の原因を媒介にし、それに依存して生じる

というような)「直前の原因」immediate contition/ immediately preceding condition

という考え方は理屈に合わないことになるのである。(直前の原因とは因果的連鎖の瞬間

的な要素であり、その定義によれば、何かが原因となってある事物が生じるという場合、

原因となった何かは結果としての事物が生じた瞬間には消滅していなければならない。し

かし)原因である存在が消滅するのなら、それが(彼らが うような実体的なものとして

存在するような)原因(の力)であり得るだろうか。(実体は消滅しないはずである。)

 ここで実体論者を攻める論理は、瞬間的に生じて消滅するようなものは実体ではない、

ということである。彼らは「直前の原因」という種 の原因が存在することを認めている

ので、その種 の原因が結果の成立と同時に消滅することも認めていることになる。ナー

ガールジュナはここで、原因/因果関係というものには本 も力もないと いたいのであ

る。それが「現象的真実」としての存在のあり方である。

10. もし事物が

   本 抜きでは存在しないなら

  「これがそのように存在するので、これが存在する」という い回しは

   了承できないものとなるだろう

10.意訳

 もし事物が本 を持って実体的に存在しているのなら、「原因としてのあるものが存在

しているので、それによって、結果としての事物が存在する」という因果関係の表現自体

が理 不能なものとなるだろう。(原因と結果という二つのものが相互に関係しようがな

いからである。)

 10の はここでの議論のまとめである。しかしこの 分は、訳者によって正反対に翻訳

されることが多いようである。『事物は本 を持たずに存在しているので、「これが存在

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するとき、これが存在する」という主張は了承できないものである』と訳すのである。し

かしこれだと因果関係のあり方自体を否定する 無的な見 になる。現象界の認 の法則

である因果関係を人間が否定するということは、その否定する者が現象界/人間界を え

た形而上学的な世界に立っていることになり、空性を実体化するような考え方と同じ罠に

陥ることになる。そうした翻訳の例として、ガーフィールドは Inada(1970)版、Streng

(1967)版、Sprung(1979)版、Kalupahana(1986)版をあげている。Garfield p.119

11.  個別の原因(縁)の中にも、あるいは相互に結合された原因(縁)の中にも

   結果は見出されない

   それならば原因(縁)の中にないものが

   どうやって原因(縁)から出てくると えるのか

11. 意訳

(しかし因果関係が原因の力として実在すると考える者はこう反論するに違いない。)個

別的な原因の中にも、相互に依存し合った原因の中にも結果というものが見出されないと

いうのならば、原因の中にないものがどうして「原因によって生じる」と えるのか。

(何もないところから生じるのか、と。)

12.  いったいぜんたいどうして--もし存在していない結果が

   これらの原因(縁)から生じるのなら--

   どうしてそれが

   原因(縁)でないものから生じるということがないのだろうか

12. 意訳

 また、もし原因の中にまったく存在していない結果が、それでも原因から生じるという

のなら、どうして「原因でないものからも結果は生じる」と ってはいけないのか。(原

因から生じることも、偶然にでたらめに生じることも、なんら変わりがないことになるの

ではないか。)

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13.  もし原因(縁)がそれ自身の本 を持たないのに

   結果の本 が原因(縁)であるなら

   その本 が原因(縁)であるような結果が

   どうして本 を欠いたものから生まれてくるのか

13. 意訳

 さらに、もし原因というものがそれ独自の実体的本 を持っていないとして、それでも

「結果の本 は原因である」と表現するとするならば、どうして原因という本 を持った

結果が、本 を持っていない原因から生じてくるのだろうか。(結果として成立している

様々な事象は、そのもの自身の性 を持っているではないか--反論者はこう挑んでくる

に違いない。)

14.  したがって、そのものの本 としての原因(縁)によっても

   そのものの本 としての原因(縁)でないものによっても結果は存在しない

   そのような結果が存在しないなら

   どうして原因(縁)とか原因(縁)でないものとかが明白にあると えるのか

14. 意訳

 しかし(反論者の)こうした主張こそが自ら証明しているのである。(つまり、彼らが

反論するとおり、)本 を持った実体的な原因によって本 的な結果が生じることはない

のである。また、本 的に原因でないものから偶然に本 的な結果が生じてくることもま

さにあり得ない。(なぜなら本 的な結果というもの自体が存在していないからであ

る。)結果が実体として存在していないなら、本 的な原因とか、原因でない偶然とかい

うものが本 を持って実体的に存在しているなどということもあり得ないのである。

11~13の で われていることは反論者の見 であり、それによると、実体として存在

する「原因の力」がなく、原因そのものがまったくあり得ないなら(実体論で実体性を否

定されたものは「まったく存在しないもの」である)、「原因によって生じる」という思

考法である因果関係そのものが成り立たなくなるということである。しかし実体的原因か

ら実体的結果が生じると考える彼らの立場では、仏教の基本的な教えである「すべての事

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象は依存して生じる」という考え自体がまず矛盾していることになる。実体は依存的でな

いもののことなので、原因に依存して結果が生じるという い回し自体がすでに成立しな

いのである。反論者は、結果が原因の中に潜在的に存在することはないとするナーガール

ジュナの観点では、結果が原因にどのように依存するかということを説明できないと 難

するのだが、それは論理が反対であって、依存的なものである(つまり空である)という

表現自体が結果は原因に依存していると っていることなのであって、説明としての「依

存的に生じている」ということに、さらにその説明となるような原因を求めることが、原

因の二重 求になっているのである。

14. で反論者に対するナーガールジュナの答えが述べられているが、それは、結果とし

ての事象は--仮にそう見えるにせよ--そのもの独自の本 などはじめから持っていな

いということである。12. にあるような、「事象が固有のあり方を欠いているのなら必然

的に、そのものは何もないところから偶然に現れてくることになる」とするような反論者

の前提そのものが間違っているのであり、13. にあるような、「結果の本 は原因であ

る」という表現も間違っている。正しく うならば、「実体的本 を欠いた結果が、実体

的本 を欠いた原因に依存している」ということになる。

因果関係は空であり、空であるということは依存的に生じるということと同じである、

というのがナーガールジュナの結論である。しかし注意すべきことがある。それは後の章

でもくり し触れることになるが、次のようなことである:

 因果関係という、事象間の依存関係でものごとを説明するのが我々の認 の原理であ

り、他に理 の方法はない。したがって「因果関係に依存している」という説明自体が厳

密には二重表現であるが、それを承知で逆に「因果関係に依存してすべての事物の存在が

説明される」と うならば、事物の存在は再度「依存的なもの」になる。因果関係とは、

依存関係の別名であり、それはまた空の別名でもある。したがって「因果関係が空であ

る」という い方も、こうした二重表現による説明である。ややこしい話だが、要するに

「因果関係とは○○である」というような、「因果関係」が主 となるような論述は、そ

れ自体が論述の原理を論じていることになるので、常に循環的パラドクスに関わってくる

ということである。こうした空の問題が抱えるやっかいなパラドクスについては第二十四

章で詳しく論じられることになる。

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