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Kobe University Repository : Kernel タイトル Title 民間学童保育所における子どもとおとなの学び : 関与観察に基づくケ ーススタディ(Informal Learning of Children and Adults in After School Care Program in Private Sector : A Case Study Based on Episode Description) 著者 Author(s) 津田, 英二 掲載誌・巻号・ページ Citation 神戸大学大学院人間発達環境学研究科研究紀要,7(2):113-124 刊行日 Issue date 2014-03 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 版区分 Resource Version publisher 権利 Rights DOI JaLCDOI 10.24546/81006273 URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81006273 PDF issue: 2021-08-30

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Kobe University Repository : Kernel

タイトルTit le

民間学童保育所における子どもとおとなの学び : 関与観察に基づくケーススタディ(Informal Learning of Children and Adults in After SchoolCare Program in Private Sector : A Case Study Based on EpisodeDescript ion)

著者Author(s) 津田, 英二

掲載誌・巻号・ページCitat ion 神戸大学大学院人間発達環境学研究科研究紀要,7(2):113-124

刊行日Issue date 2014-03

資源タイプResource Type Departmental Bullet in Paper / 紀要論文

版区分Resource Version publisher

権利Rights

DOI

JaLCDOI 10.24546/81006273

URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81006273

PDF issue: 2021-08-30

* 神戸大学大学院人間発達環境学研究科准教授2013 年 10 月 1 日 受付 (2013 年 11 月1日 受理) 

Ⅰ 本論の目的と方法

1 研究の背景と目的

1)学童保育への社会的要請

 ある学童保育指導員が、子どもの放課後について次のように述

べている。

 今の社会状況のままでは、「子どもの願いや気持ちは横に置き、

勉強や課題ができるまでがんばらせる(それでもわからない子、

できない子は置いていかれる)」「効率的にうまく、無駄なく物事

をこなす」といったことが子ども時代から求められ、ますます放

課後の時間が短くなり、生活内容が貧しくなる可能性が高いので

はないでしょうか。

 私たちが楽しくすごしたゆとりのある小学校教育と、陽が落ち

るまで仲間と遊んだ放課後の生活で、体や心をゆっくりと休ませ、

心ゆくまで群れて遊び、遊びを通しての学び・解放感を存分に体

験し、人と人の関係を豊かに育んだり、折り合いをつけ調整をし

ていく術を学んできたことを思い出し、いま一度子どもたちに取

り戻してやることが必要だと考えています。(葉杖 , 2011, 32)

 学童保育に関与するおとなの心象には、この文に表れるような

子どもの現状への憂いが含まれていることが多いように思われ

る。すなわち、かつて子どもたちは、学童保育のような特別な制

度がなくとも、十分に豊かな生活を享受していた。しかし、現代

の子どもたちは特別な制度によって放課後の時間と空間を保障し

なければ、生活の貧困化に歯止めがかからなくなっている、とい

う認識である。

 筆者自身も小学生の時分には、学校の校庭はもとより、広瀬川

の河川敷や東北大学の構内などで来る日も来る日も暗くなるまで

遊んでいた記憶がある。筆者にとっては、公園ですら子どもにとっ

ては魅力のない管理された場であった。そうした思い出を参照枠

組みとすれば、なぜ学童保育のような制度が必要なのかという疑

いが生まれてくる。子どもの世界を管理社会から守らなければな

らないと言いつつも、わざわざ新しい管理のための制度をつくっ

ているようにさえ感じられるのである。

 しかし、現実の変化の下では、そうした感覚は単なるノスタル

ジーとさえ言えるかもしれない。子どもをも巻き込んだグローバ

リゼーションの深化、都市化の進展による環境悪化、治安悪化と

いった社会環境の変化は、子どもを管理社会の下にどんどん囲い

(113)

- 113 -

神戸大学大学院人間発達環境学研究科 研究紀要 第 7 巻 第2号 2014

Bulletin of Graduate School of Human Development and Environment, Kobe University, Vol.7 No.2 2014研究報告

民間学童保育所における子どもとおとなの学び-関与観察に基づくケーススタディ-

Informal Learning of Children and Adults in After School Care Program in Private Sector: A Case Study Based on Episode Description

津田 英二*

Eiji TSUDA*

要約:子どもたちの豊かな生活を守るという視点から、学童保育における日々の活動の意味を包括的に捉え、成員たちがいか

なるインフォーマルな学びの実践を進めているのかということを明らかにすることを本論の目的とした。筆者は学童保育の日

常に迫るため、筆者自身が学童保育の一員として日々の活動に参加し、筆者の視点から見えた実践である点に注意しながら、

学童保育で筆者が経験したできごとや、そのできごとに立ち会って筆者が感じたことなどをエピソードとして記述したものを

データとして分析を行った。分析はデータを分節化して各々にラベルを付与し、そのラベルからカテゴリーを生成し、カテゴ

リーの関係を示すモデル図を作成することによって省察を深めるという過程によって行った。その結果、学童保育の日常を、

「子どものコミュニティ」「子どもとおとなとの関係」「おとなのコミュニティ」という3つの領域に分けて把握することができ、

領域間の相関の中で子どもは子どもの間の排除-包摂の力動を媒介にして自律性を獲得し、おとなは共に子どもたちを見守り

育てているという感覚から生じる共同性を獲得するという図式を得た。こうした図式化によって、学童保育での日常の個人的

な経験に新たな意味づけがなされると同時に、実践現場に内在する価値からインフォーマルな学びを説明する枠組みを提示し

えた。

- 114 -

(114)

込んできた。教育産業をはじめとしたサービス産業への生活依存

の深化、男女共同参画の進展は、子どもの置かれた社会的位置を

変容させてきた。子どもの豊かな生活を守る新たな実践を生み出

さなければ、子どもの生活の貧困は高まるばかりだとも言えるの

である。

 こうした現実の変化を背景にした学童保育は、この 20 年で大

きく発展した。1993 年から 2012 までの間に、全国の学童保育緒

数は 7,516 箇所から 20,843 箇所に増加し、利用児童も 231,500 名

から 846,919 名に激増した(全国学童保育連絡協議会「学童保育

実施状況調査結果の概要」2012 年 5 月)。けれども、依然として

量的・質的な学童保育の未整備も指摘される。公立、公立民営、

民営といった運営形態、学校施設、公共施設、民家等実施場所、

利用児童の人数、指導員の人数、理念に至るまで、一口に学童保

育といっても幅広い多様性がある。多様な学童保育の展開の中で、

質を保障するのが学童保育指導員の専門性だと認識される傾向が

あり、指導員の専門性に関する先行研究も多い(学童保育指導員

専門性研究会 , 2012)。

 増山均は“わが国における「子どもの放課後対策」を振りかえっ

た場合、「放課後の子ども」に対する行政的施策の歴史は浅く、

長い間放置されていた”と述べている(増山 , 2012, 85)。日本の

学童保育は現在、制度的保障によって量的拡大を図り、指導員の

専門性向上によって質的保障を図っているという過程にあると言

えよう。量的拡大は財政的な問題から飛躍的に進展する見通しは

立たず、それどころか、新自由主義を背景にした政策転換によっ

て、子どもたちの放課後が市場社会に取り込まれてしまう傾向も

看過できない(二宮 , 2012)。また指導員の専門性も、雇用形態

や賃金から役割や立場に至るまで前提条件の多様性があり、一律

に考えることは難しい。“民営化が進行するなか、学童保育指導

員の専門性を論じるにあたって、求められる力量や技能のみでは

なく、学童保育の社会的機能を明確にして、それに基づいた学

童保育指導員の価値と働く姿勢を明らかにすることが必要”(李 ,

2012, 155)とされる状況がある。

 しかし、多様に展開している過程にあるからこそ生じている、

日本の学童保育の特殊な発展形態を捉えることもできるのではな

いか。制度的脆弱性ゆえに、子どもとおとなとの多様な関係に開

かれ、インフォーマルな学びの宝庫である可能性もあるのではな

いか。本論では、こうした視点から、日本の学童保育における実

践の意味を論じたい。

2)研究目的

 二宮厚美は、学童保育を「遊びと生活」を通じた子ども発達の

場として特徴づけた上で、指導員の専門的ケア労働によって、学

童保育が適切な居場所となり、固有の集団性を生かして子どもの

発達に貢献するという指針を提示する。(二宮 , 2012, 27-55)。

先行研究の多くは、学童保育における子どもの集団遊びをテーマ

とすることで、子どもの生活の質の保障を語ってきた。

 例えば、詳細な保育記録とそれに基づくヒアリングや討議をも

とに、ルールのある遊びを通した子どもの発達と、それに対する

指導員の働きかけを追究した研究(代田 , 2011)や、参与観察と

インタビューを通して、ルールのつくり変えの視点から学童保育

の遊びの内実に迫った研究(古城・川内 , 2008)など、内在的に

学童保育の子どもたちの遊びの世界に分け入ろうとする研究が見

られるようになってきている。 

 社会化していく子どもの発達過程で遊びが重要な役割を担って

いることは論を待たない。G.H. ミードの概念を借りれば、子ど

もたちは遊びを通して、意味ある他者を内面に取り込み、それに

よって社会的役割を学び遂行することができるようになっていく

(ミード , G.H., 1934; 1973)。ことさら集団遊びを通して、子ども

たちは他者の存在を認識し、他者と共にあることを学び、相互の

役割やルールを知っていくのだと言える。

 もとより、学童保育は子どもの豊かな生活を守るという観点か

ら実践されるのであり、その存立基盤として子どもの集団を中心

にした遊びが展開し、それを指導員がサポートするという基本的

な構図がある。日々の学童保育実践を構成している子ども、保護

者、指導員は、概ねこうした図式を前提としていると考えてよい

だろう。

 しかし他方で、学童保育は“コミュニティにおけるさまざまな

縁を紡ぎだす可能性とエネルギーを持っている”といった言説も

ある(増山 , 2012, 90)。子どものためにのみ学童保育があるので

はないという捉え方である。こうした見方に対応して、学童保育

指導員の専門性についても、“学童保育生活を通した子どもの発

達と生活を保障するだけでなく、家族に対する支援も必要になっ

てきた”とされる狭義の専門性だけでなく、“地域における福祉・

教育のネットワークづくりの担い手”としての広義の専門性の存

在が指摘される(奥野・中山 , 2012, 100-206)。

 宮崎隆志もこれに関わって、地域住民が「子どもの言葉」を聴

き取る場としても学童保育を意味づけている。住民参加による子

育て支援が盛んになってきているが、“子どもについて語っても、

子どもの実際の生活を理解する機会がなければ、子ども観のずれ

が埋まらないままに(たとえば、「子どものしつけが何よりも優

先される」という理解と主体としての子ども理解の対立など)、

取り組みが形式化・形骸化することも危惧される”という(宮崎 ,

2012, 106)。

 すなわち、学童保育はまずは集団遊びなどを介して子どもの発

達を支援する場として理解されるが、それだけでなくおとなと子

どもとが相互作用することによって地域社会の発展に寄与する場

としても理解されえるのである。

 とはいえ、後者の学童保育の機能は、現実の学童保育にとって

はいまだに抽象的な議論にとどまっているといえよう。指導員が

記述する学童保育の日常は、ほぼ子どもや保護者との関係によっ

て彩られているといってよい。学童保育の現実的なありさまから、

地域づくりに貢献する方向へ向かっていく契機がどこにあるのか

を探る必要があるのではないか。

 こうした問題意識に基づき、本論では、学童保育における日々

の活動の意味を包括的に捉え、子どもたちだけでなく、地域住民

としてのおとなもにとっても、いかなるインフォーマルな学びの

実践であるのかということを明らかにすることを目的とすること

にした。

(114) (115)

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2 研究の方法

 学童保育実践を包括的に捉えるために筆者が行っているのは関

与観察である。学童保育に関与すれば、子どもたちや指導員と観

察者との関係形成は避けられない。そうすると、観察者が場に巻

き込まれ、場に影響を与えてしまうことになる。子どもとの情緒

的な関係、発達への関与にとどまらず、学童保育が小規模であれ

ばなおさら、学童保育の運営にまで関与してしまうことになる。

学童保育における質的研究は、必然的に実践者と研究者との境界

が曖昧な実践的研究の色彩をもつのである。

 筆者はこうした学童保育の質的研究の特質を前提として関与観

察を行っているのであるが、その意味には次のような点を挙げる

ことができる。第一に、学童保育の生活世界を内在的に捉えるこ

とができるという点である。第二に、子どもとおとなとの関係を

相互主体的に捉えることができるという点である。第三に、子ど

もやおとなのインフォーマルな学びを、観察者自身が共同主観的

に捉えることができるという点である。

 関与観察によって学童保育の日常を対象化した先行研究もあ

る。(山崎 , 2010; 駒屋 , 2010)いずれも子どもの遊びを理解する

方法論として関与観察を採用していて、学童保育のリアリティの

一面を描いているもので、学童保育の総合的意味づけを指導する

本論とは性格を異にしている。

 関与観察に基づくデータは、筆者自身が学童保育の一員として

日々の活動に参加し、筆者の視点から見えた実践である点に注意

しながら、学童保育で筆者が経験したできごとや、そのできごと

に立ち会って筆者が感じたことなどをエピソードとして記述した

ものである。観察者の主観に依存した記述によって、録音や録画

による記録などの客観性の高いデータでは抜け落ちてしまう相互

主観的な世界を描き出そうとする。その分、記述が主観に縛られ

ていることを意識し、深い考察によってデータの前提を疑ってい

くことが求められる(鯨岡 , 2005)。

 本論では、2010 年 4 月 1 日~ 2011 年 4 月 6 日の間に行った計

20 日分の関与観察に基づくエピソード記述をデータとして用い

た。このデータを意味ごとのまとまりに分節化し、それぞれの分

節に適切なラベル(224 個)を付与していった。それらのラベル

を概観し、ラベル間の関係を省察していき、58 個のカテゴリー

とその関係図を構築した。最後に、この関係図を説明するモデル

図を作成し、この作業全体を振り返った。

 この方法で描かれるのは、優れた実践事例でもなければ、典型

的な事例でもない。というよりも、優れているとか、典型的であ

るとかいった基準を予め措定しない。現場から立ち起こってくる

できごとと筆者とのコミュニケーションから、実践の意味を考え

ていこうとする立場である。つまり、あくまでも対象化する現場

の固有性、及び筆者の主観に拘束された研究方法であることを

断っておきたい。

 実践の現場で起こるできごとを記述し、まずは、なるほどその

ようなできごとが起こりえるということ、またその場に臨場した

人(筆者)であればそのように感じるであろうということが説明

できればよいと考える。したがって、最終的に提示されるモデル

図も、いきなり客観性、普遍性をめざすものではない。なるほど

そのようなモデル図もありえるという説明ができればよしとす

る。

 この研究方法の先に見通したいのは、このモデル図を他者が批

判的に検証したり、別の学童保育実践を観察し、同様の分析過程

を辿ることによって、モデル図間の比較が可能となり、客観的・

普遍的な知に近づいていくという構想である。

Ⅱ 関与観察の概要

1 ケーススタディの概要

1)「宝島」(仮称)の概要

 本論で取り上げる事例は、2008 年度にボランティアたちが立

ち上げた民間学童保育所「宝島」(仮名)である。「宝島」スタッ

フ、地域団体の代表者等によって運営委員会を組織し、自治体か

らの補助金を得て運営している。WEBページの「宝島」紹介文

には次のように書かれている。

 “学童の放課後を充実させるということはもちろんですが、そ

れをきっかけにしてみんなが楽しく関わり合える地域社会をつ

くっていきたいという思いを込めて発足させました。ですから、

たくさんの方たちの関わりを積極的に求め、おとなも子どもも

いっしょになって楽しみ、悩み、成長していく場づくりをしてい

ます。”

 このように「宝島」は地域の中で子どもたちを育てようという

理念で創設されているため、常勤スタッフ2名(観察時)の他に

多数の地域住民や学生がスタッフとして子どもたちに関わってい

る。また、一般的に学童保育スタッフは「指導員」と呼ばれてい

るが、「宝島」ではおとなと子どもの関係を指導する-指導され

る関係に固定化させないようにとの意図から、「指導員」「先生」

といった言葉はおとなも子どもも使っていない。本論でも、子ど

もと関わるおとなたちを「スタッフ」と表記する。

 「宝島」は市街地にある小学校区に位置する学童保育であり、

特別支援学校を含む3つの学校から 25 名程度(観察時)の小学

1年生から6年生の子どもたちが通ってきている。活動の本拠と

して、線路沿いに 60㎡の1階建の民家を賃借しているが、利用

する子どもの人数に比して手狭であることが、長く「宝島」の課

題のひとつである。100 m程離れた場所に公園があり、子どもた

ちはほぼ毎日スタッフと共にここへ遊びに行く。また、子どもた

ちの多くは、高学年に進むほど習い事にも通うようになる。通常

保育は 17 時半まで、延長保育は 19 時半までであり、延長保育利

用時には軽食を提供している。

 保護者会は組織しておらず、保護者との意思疎通は、子どもを

迎えに来る保護者と立ち話をする他は、毎日の連絡帳、年に2~

3回の説明会、夏季キャンプ時に保護者の参加を呼びかけること

などによって図っている。

2)観察者(筆者)の立ち位置と観察の様子

 筆者は、創設メンバーの一人として「宝島」の運営に関わって

きている。創設に関わったボランティアは、筆者の本務先である

神戸大学人間発達環境学研究科のサテライト施設である「のびや

かスペースあーち」で、障害児を中心とした居場所づくりの試み

をしていた。その多くが、筆者の研究室の学生や卒業生などの関

係者であり、社会的実践に主眼を置きながら研究も志す人たちで

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(116)

あった。

 創設メンバーは、2名が常勤スタッフとしても働いた以外は、

筆者も含めて無償のボランティアとして「宝島」の運営に関わっ

てきている。「宝島」立ち上げ当初は運営が落ち着かず、筆者自

身も子どもたちとのインテンシヴな関わりも含め現場から実務ま

で全面的に関わったが、次第に運営が軌道に乗ると筆者は助成金

申請などの実務を担当する裏方に回り、現場は有給のスタッフに

任せるようになっていった。

 本論のデータとなる観察を行っていた頃は、創設3年目を迎え

運営も比較的落ち着いており、筆者は実践現場に週1回程度の

ペースで訪問し、子どもたちの様子や、スタッフワークを含めた

「宝島」全体の把握に努めていた。

 子どもたちにとっては、筆者もその他のスタッフの一人と理解

されていると思う。創設の頃に深く関わった子どもたちとは、情

緒的に強い関係を感じているが、総体的に言えば、常に子どもた

ちを見守っている常勤スタッフらが、子どもたちにとってはより

重要な存在であり、筆者は「たまに来る仲のよいおじさん」といっ

たところだと思われる。

 筆者が「宝島」に赴くときは、たいてい子どもたちと身体を激

しく使う遊びをする。筆者だけでなく男性スタッフとみるや、子

どもたちは身体にまとわりつき、激しい遊びに持ち込もうとする。

筆者もたいていは子どもたちの要求に従い、子どもたちの笑顔を

存分に引き出そうと働きかける。こうして筆者が「宝島」を後に

する頃には、筆者はへとへとに疲れ、また多くの場合子どもたち

のかわいらしさを強く印象づけて帰途につく。

 エピソードは、そうした関わりをした帰宅後なるべくすぐに思

い出しながら記述していった。記述時に留意したのは、子どもた

ちの生き生きとした様子をできる限り表現しようとしたことと、

子どもたちと関わっているときの筆者の心の動きを思い起こした

こと、子どもたちの相互行為、子どもたちとスタッフとの相互関

係に焦点化しようとしたこと、そして「分厚い記述」であること

である。

2 エピソード記述の例

 以下に、こうして記述したエピソードの中から3つを例示する。

それぞれ1回分のエピソードから一部分を切り取ったものであ

る。プライバシーの観点から、登場人物はすべて仮名であり、実

際のエピソード記述から状況を書き換えてある部分もある。また、

適宜登場人物や状況の説明等を( )書きで付した。各エピソー

ドのテーマも、本論執筆時に便宜的に付したものである。

1)障害児を巻き込んだ生き生きとした遊びの場面

 「宝島」に2時すぎに到着。新しく購入したコンピュータの設

置をしていると、健二(知的障害のある高学年児童)がべったり

と寄ってくる。ほとんどの子が公園に出かけてしまう。健二は行

かないことに決めていたよう。私が健二に公園に行きたいかと尋

ねてみると、行きたいと言う。3時~4時の1時間だけだが、2

人で出かけることにする。太田さん(健二の母親で「宝島」スタッ

フ)も承認。健二は縄を持っていきたいというので、長縄用の縄

を持ち出す。

 健二と私が縄を四分の一にした両端を持って歩く。大通りに出

たあたりで両端を結び、電車ごっこの形になる。健二が先頭でそ

のまま機嫌良く公園に到着。ジャングルジムの方で宝島の子の多

くが遊んでいて、私がそちらの方に健二を向けようとしたが、気

乗りしない様子。そこにいたのは、香織、圭子、理恵、絵美、洋

司(低学年児童から高学年児童までの男女混合グループ)。線路

沿いの方に由香と瑞穂が2人でいて、私たちを見つけて「健二く

んだ。おいで」と招いてくれる。健二は招かれるままに2人のほ

うに行く。「乗せて」「これで来たの?恥ずかしくないの?」と言

いながら、2人とも電車ごっこの仲間入り。健二が先頭。瑞穂と

由香が続き、私が最後。由香はさかんに「怖い話」をしてくれる。

創作話らしい。合間に結いもお話ししようとしてくれる。ちっと

も怖くない話で、オチがある。「のっぺらぼうかと思ったら、パッ

クしたおばちゃんだった」といったオチ。その間に、小さい男の

子がやってきて電車ごっこに加わったりしながら、グデグデと進

む。そのうち、健二は電車ごっこに飽きて池をボンヤリ眺める。

由香と瑞穂に絵美も加わって、縄で身体を柵につなげたりしなが

らお話を続ける。そのうち私が縄で子どもたちを引っぱるゲーム

に変化する。香織や洋司も加わり、大騒ぎになったところで、宝

島に戻らなければならない時間になる。(2010 年 4 月 8 日抜粋)

2)子どもとおとなのかけひきが表れている場面

 広志、省吾、洋司(いずれも低学年児童)が、基地を作る遊び

を始めている。沙希もそれに加わることで、健二(知的障害のあ

る高学年児童)と私が残される。基地の前には、特定の子どもた

ち以外立ち入り禁止の表示がある。洋司と広志が、「入れないよ」

と主張する。私が「入れてよ」とお願いすると、「パスワードを

言わないと入れないよ」と言う。いくつか適当な数や言葉を言う

が、もちろん「ブブー」。どうやらポケモンに関連する言葉らしい。

 洋司がやってきて、耳元でそっと「イシズマイ」と教えてくれる。

私が、「イシズマイ」と言うと、広志が明らかに不機嫌そうな顔

をして、「違うよ」と言う。洋司が広志に「イシズマイじゃないの?」

と気まずそうに言うと、広志が洋司に何か耳打ちして、洋司も納

得した表情になる。

 そのうち、西側の廊下が牢屋になったようで、子どもたちが私

と健二を逮捕しにくる。田淵さん、中田さん、鈴木さん(いずれ

も宝島スタッフの女性)もターゲットになって、牢屋に押し込め

られる。そのたびに脱走を試みるが、洋司、広志、沙希は必死に

それを止めようとする。

 そのうち、陽子(低学年児童)も逮捕される標的になる。陽子

は楽しそうな表情をしていない。私は、さっき陽子が宿題をしな

がら「宿題が終わったら、一緒に遊ぼう」と言っていたときに、「誰

も一緒に遊んでくれない」とつぶやいていたのを思い出した。陽

子は、こういう遊びを嫌がっているのではないかと心配になった。

特に健二以外では子どもで1人だけ仲間外れのように捕まる側な

ので、いっそうそう思った。私は田淵さん(常勤スタッフ)に「陽

子、嫌がっていない?」と尋ねると、田淵さんは「そうですか?」

と気にしていない様子。私は省吾に、「嫌がっている子がいたら、

しつこくやらないんだよ」と言うと、省吾は面倒くさそうに「う

ん」とうなずいた。

(116) (117)

- 117 -

 私と健二も何度か脱走を試みて、沙希を捕まえようとしている

洋司や広志にコチョコチョ攻撃をするなど抵抗した。

 奥の部屋では、智美や香織が勉強をしていて、由香が一人で読

書をしている(いずれも高学年児童)。私は健二と、「由香の隣に

座ろう」と言って腰を下ろすと、由香は「来ないで」と言って少

し遠くに移動してしまう。そこに、絵美が本を2冊もってやって

きて、机の上に本を置き、その上に座って私のほうを見てニヤリ

とする。私は「こら」と言うと、絵美は「ヘヘ」と笑い、本をお

いたまま隣の部屋に行ってしまう。(2011 年 2 月 14 日抜粋)

3)緊迫した状況が焦点になる場面

 私が公園の入り口付近に行くと、真っ先に広志が私に肩車をし

ろとねだってくる。肩車をすると、誠一がよその子どもたちと公

園に残っているというので、「誠一、気を付けて帰れよ」と声を

かけて、みんなと合流する。沙希の母親も来ていて、私も挨拶を

する。沙希は直接公園から家に帰るのだという。山口さんと川崎

さん(宝島スタッフ)が、公園入り口付近の茂みで何やらしてい

る洋司と省吾に早く出てくるように促す声を出している。私も彼

らが何をしているのだろうと不思議に思っていると、それぞれ1

本ずつの竹の棒を手に茂みから出てくる。私が「そんなもん、宝

島にもって帰れないよ。置いてきなさい」と強く指示すると、突

如洋司は竹の棒を茂みに向かって投げようとする。私は「あっ」

と思って阻止しようとしたが、肩車している広志の安全も気に

なって、物理的に洋司を止めることができなかった。「やめなさ

い」と叫んだときには、洋司は棒を投げた後だった。それと同時

に、洋司の右隣にいた省吾が泣き始める。私は、洋司を捕まえて、

「こら!洋司!そんなことをしたらどれだけ危ないか分からない

のか!」と怒鳴る。沙希の母親と川崎さんが、省吾の心配をして

様子を見てくれる。私の角度からはよく分からなかったが、棒を

投げようとした洋司の右手が省吾の頭に当たったらしい。当たっ

たとしても激しく当たったとは思われなかったが、省吾は激しく

泣いた。ともかく宝島に早く帰ろうということになり、歩き始め

る。私は広志を肩に乗せながら、洋司の手をとって歩く。山口さ

んが省吾を慰めながら私たちの後ろを歩いてくれた。洋司はおと

なしく私と手をつないで歩いた。事態が起こってから、「しまった、

悪いことをした」と感じているらしく、とてもしおらしく声も出

ない。途中、私が洋司に「投げようとした手が省吾に当たったの?」

と尋ねると、洋司は無言でうなずいてくれた。宝島まで洋司はそ

のまま無言で歩いた。

 宝島に到着すると、私は省吾を一番奥の部屋に連れて行き、頭

の様子を見る。すると、腫れがあり若干血がにじんでいた。鈴木

さんに治療の道具を持ってきてもらう。鈴木さんは「腫れていた

らとりあえず冷やした方がいい」と氷嚢を出してくれる。私の膝

に頭を乗せて泣きながら氷嚢を患部に当てる。私は「ズキズキす

るの?ヒリヒリするの?」と尋ねると、「ズキズキする」と答える。

心配だったので、病院に連れて行く段取りをしてもらうように鈴

木さん(常勤スタッフ)にお願いする。すると、以前由香が運び

込まれた外科は定休日とのこと。近くにあった病院も遠くに移転

したとのこと。とりあえず、もうすぐ母親が迎えに来るはずなの

でそれを待とうということになる。私は省吾を看病していると、

広志、香織、由香、遥香らが、心配そうにのぞき込み、側に座っ

てくれる。美里(高学年児童)は、この部屋から出ていけと主張

する。クリスマス会のための体操の練習を続けたいらしい。しか

し、一番奥の部屋しか落ち着けないと私も譲らない。美里がそれ

でも主張するので、由香(高学年女子)が「怪我をしているのに

出ていけって言われたら辛いよ」と助け船を出してくれる。美里

はそれでも不満らしくふくれたまま別の部屋に行ってしまう。由

香は、以前に省吾と同様の経験をしているので、そのときの事態

などを話してくれる。広志も、宝島で怪我をしたことについて話

してくれる。遥香も、広志が宝島だけでなく、家の階段でも落下

して頭を5針も縫ったと教えてくれる。眉間を4針、前頭部5針

も縫っているというので、私がびっくりすると、広志は「そう」

とあっけんからんと笑ってくれる。みんな、省吾を心配しながら

集まってきてくれているのが明白だったので、私は「みんな心配

してくれて、省吾は幸せだな」と省吾に言い聞かせる。その端か

ら香織は私の上に覆い被さってきてもろとも後ろにひっくり返

る。私のめがねが瞼を強くこすり、するどい痛みを感じる。それ

を皮切りに、私と子どもたちのじゃれあいになり、省吾はそれを

隣で見て笑い始める。泣きやんでいたので一安心。鈴木さんが、

洋司と隣室でしっかり話をしてくれたようで、しばらくすると、

他の子どもたちに省吾から離れるように指示を出す。子どもたち

は「なんで~」と不満そうにするが、鈴木さんは「洋司が省吾に

謝るんだけど、他の子がいると恥ずかしいんだって」と説明する

と、部屋から出ていってくれる。洋司は省吾の側にやってきて、

神妙な顔で「ごめんなさい」と言う。省吾も「いいよ」とお決ま

りの台詞。それ以上のやりとりは見られそうになかったので、私

は「二人ともいい子」と頭を撫でてその場を離れる。

 省吾の母親が迎えに来たので、私も玄関先に出ていき、「申し

訳ありませんでした」と挨拶をする。事態は鈴木さんが伝えてく

れていた。母親は、省吾が泣いてばかりいたことを気にしている

発言をして、「大丈夫です」と答える。私は帰り際に、通院して

お金がかかるようなら言ってくださいと伝える。

 洋司は遅いお迎えだったので、6時くらいから私は洋司と一対

一で遊ぶことになる。「つだっち、帰らないで」と懇願され、ジャ

ンプジャンプやお馬さんごっこ、ぬいぐるみどうしの闘いごっこ

など。洋司は、今日起こった嫌なことを忘れて、いい笑顔を見せ

ながらはじけて遊んでいた。

 洋司の母親が迎えに来ると、私もあいさつに玄関先に出て、状

況を説明する。棒を投げて省吾の頭に当たり、省吾が怪我をした

こと、洋司は悪いことをしたということをよく認識していて、帰っ

てからちゃんと謝ったことを伝える。洋司の母親さんはさかんに

申し訳なさそうにしていた。

 翌朝、洋司の母親からメールをいただいた。省吾の母親に連絡

をしたこと、省吾の怪我がたいしたことないそうで安心したこと、

申し訳ない気持ちが書かれていた。(2010 年 12 月 15 日抜粋)

Ⅲ データの分析

1 分析のプロセス

1)エピソード記述からカテゴリーへ

 例示したようなエピソード記述1年分の分析を行った。まずそ

- 118 -

(118)

れらを分節化し、それぞれに適切なラベルを付していった。ラベ

ルのフレーズは、具体性を残しつつ一目でエッセンスが了解でき

る程度の短さであることを意識した。その結果、224 個のラベル

が抽出された。次にこれらのラベルをカード化した。カードには

ラベル名と、元の文脈を確認しながら進むことができるように本

文の該当箇所と対応した番号を振った。これらのカードを一覧で

きるように並べ、カードの位置を入れ替えながら、ラベル間の関

係を検討することで個々のラベルを意味づけていった。カード全

体を見渡して一貫したストーリーが描ける見込みをもてたところ

で、大まかなラベルのカテゴライズを行い、カテゴリー化された

カード群にカテゴリー名を付していった。その結果 58 個のカテ

ゴリーが抽出された。

 ここまでの過程の結果の一例を表1に示した。

2)カテゴリーによるモデリング

 図1は、カテゴリー間の関係をストーリー化する過程で得られ

た関係図である。この図によって、関与観察で得られたデータの

全体像を一定の把握することができる。エピソード記述によって

描かれた学童保育の様子の全体を、この関係図による理解に基づ

いて文章化してみる。

表1 エピソード記述、ラベル、カテゴリーの対応例エピソード記述 ラベル カテゴリー

宝島は、にぎやかだが落ち着いた雰囲気で、帰り支度をしている人たちが玄関に集まっていた。「こんにちは」と言いながら奥に進む、スタッフは川崎さんが帰ろうとしているところで、台所に田淵さんと鈴木さんがいて、それぞれ仕事をしている。私はかばんなどを置くため、奥の部屋に進むと、まずは典子と広志が飛びついてくる。身体を高く持ち上げろとか振り回せとかお願いしてくる。「手を洗ってからね」と言い聞かせて、かばんとコートを置き、手を洗って真ん中の部屋に戻ってくると、1年生たちにまとわりつかれる。広志が「典子、つだっちを大好きだからね」と言う。(筆者は子どもたちから「つだっち」と呼ばれている。)典子、そんなことにお構いなしで、私に高い高いをねだる。典子、沙希、広志、洋司をそれぞれ持ち上げ、急降下させると、みんな大喜び。あおともえがたまに、自分たちもやってもらいたそうな顔をしながら近くを行ったり来たりする。一通り終わると、今度はお馬さんごっこ。私が馬になり、子どもたちを振り落とす。洋司と広志が独占しようとする。典子が不満そうにしている。少しすると、奥の部屋から、「つだっち、来て」という香織の叫び声が聞こえる。何回か聞こえないふりをしていると、アコーディオンカーテンが開き、「来てって言っているだろ」と顔を出す。私は、「学習支援までは小さい子たちと遊ぶ」と言うと、香織は「私たちも遊んでもらってないもん」と不平そうな声を出す。「じゃ、あと3分この子たちと遊んだら、そっちに行くから」と言い、収めてもらう。アコーディオンカーテンの向こうから、「つだっちが言うこと聞いてくれへんかったから、私たちもつだっちの言うこと聞かへんから」という由香の憎まれ口が聞こえてくる。

86身体を使った遊びをしてほしがる子どもたちに応える私

子どもの要求に応えようとするおとな

86

私に遊んでもらっている下級生に焼きもちを焼いて憎まれ口をたたく上級生

子どもからおとなへの挑発

約束の3分は、典子や沙希を背中に乗せるなどして暴れていたら、あっと言う間に過ぎてしまう。アコーディオンカーテンの向こうから「3分たったよー」という声が聞こえる。

87

私は、「わかったわかった」と言って、4人の子どもたちを振り切って、奥の部屋に入っていく。広志と洋司が、私にコブのように張り付いたまま、上級生の女の子たちのやっている作業に入っていく。香織、由香、遥香は、折り紙を使って、マクドナルドの商品をていねいに作っている。ハンバーガーやポテトなど、とてもいい出来でびっくり。どうやら私に作るのを手伝えということらしい。しかも、今日中に一通りの品ぞろえを作ろうと急いでいるらしい。

88上級生の作業の手伝いを要求される私

子どもからおとなへの要求

由香を中心に、私にぶら下がっている洋司と広志を、「あっちへ行って」ときつい目で追い払おうとする。特に由香の怖い目が印象的。私は「一緒に作ってもらったらいいじゃない」と抵抗してみるが、由香の気迫に押されてしまう。広志と洋司もしばらく抵抗して私にぶらさったままだったが、やはり女の子たちの勢いに負けて、隣の部屋に行ってしまう。

89上級生の指示に気押されて従順になる下級生

子どもの間の上下関係

女の子たちに教えてもらいながら、私も2つだけ作ってみる。特に遥香が親切丁寧に教えてくれる。

90私に作業の仕方をていねいに教えてくれる上級生

子どもからおとなへの教示

そうしていると、隣の部屋から「香織、学習支援の時間だよ」という田淵さんの声が聞こえる。私も香織に「準備しよう」と声をかけるが、香織は「え?もう?」と言いながら、急ぐ手をゆるめない。何度も田淵さんや私が、「香織!」「いい加減にしなさい!」とせかす。

91時間になっても遊びをやめられない上級生と説得するスタッフ

おとなによる子どもに対する説得

(118) (119)

- 119 -

そのスキに私は、田淵さんが準備してくれたお茶を飲みに台所の隣の部屋に行く。お茶と皿に乗ったお菓子が置かれている。広志がさかんにお菓子をつつく。「食べてもいい?舐めるよ」と私に尋ねてくるが、私は「広志だけが食べたら、みんなと不公平でしょう。食べちゃだめ」と制止する。最後の一線で踏みとどまって言うことを聞いてくれる。カステラを口に放り込み、お茶を飲んで、奥の部屋に戻る。

92おやつを食べたい子どもに、公平性を根拠にして我慢するよう説得する私

おとなによる子どもに対する説得

香織たちが遊んでいた同じ部屋の廊下側の机を学習支援の机と定め、やっとのことで、香織を座らせる。山側の机では、あいかわらず由香と遥香がマクドナルドの商品製作を続けている。香織や教材を机に乗せ、問題を広げると、すぐに消しゴムがないと部屋を出ていき、戻ってこない。お茶を飲んでいるらしい。私は大声で「香織!香織!」と呼ぶ。由香と遥香にはおかしかったようで、大笑いしながら「つだっち、もう1回、香織、香織って言って」としつこい。

93

遊びの連続でなかなか勉強に身を入れない子どもと、集中するように働きかける私

おとなによる子どもに対する見守り

93子どもに勉強させようと必死な私を茶化す他の子どもたち

子どもからおとなへの挑発

香織が戻ってくると、ようやく算数の問題からスタート。 94香織が勉強を始めても、由香と遥香ははしゃいでいる。鈴木さんがやってきて、「静かに遊ぶっていうから、ここで遊んでいいっていう約束でしょう。静かにできないならあっちに行こう」と2人を静めてくれる。しばらくして、遥香にお迎えが来て帰っていく。由香が、一人で片づけることになったことを心配して、「香織、学習支援が終わったら一緒に片づけよう」と話しかけるので、私は「香織に話しかけないで」と制する。田淵さんが「手伝ってあげるから」と言って、一緒に片づけ始める。

95遊んだ後のかたづけを手伝うスタッフ

おとなによる子どもの世話

香織は、わり算の後、漢字、かけ算、読解と4枚分のドリルをこなす。割る数が二桁のわり算など、習っていない問題もあるが、教えてあげると、ふうんと言って進めていく。雑な書き方が原因で間違える問題が多く、ていねいに書きなさいと指導するが、「面倒くさい」と言って聞かない。漢字の問題は、野球に関する熟語で、「野球嫌いだから分からない」と言いながら進める。本当に知らない言葉が多いよう。かけ算は、最初はどうやって解いたらいいのか覚えていないようだったが、やりかたを教えてあげてリズムが出てくると、間違えずにすらすら解ける。読解は、自分から音読をして、理解して進めている様子。途中「眠い」と言い、だんだん姿勢も悪くなり、しまいには寝そべるような格好になったが、何とか最後まで完成。終わったのは7時 15 分頃だった。終わり頃に圭子が私の背中に乗ってきて何かを話しかけてきたが、私は「学習支援の時間だから後にして」と突き放す。圭子は「そうか、しまった」という表情をした。ちょっとかわいそうだと感じて、「圭子、どうしたの?」と尋ねたが、「ううん、いいの」と言って隣の部屋に行ってしまった。学習支援は7時終了予定だったが、始まりが遅かったからと言うと、香織は素直に延長の指示に従った。

96何とか終わりまで勉強をがんばる子どもと、それに付き合う私

おとなによる子どもに対する勇気づけ

96

話しかけてくる子どもに「後にして」とお願いをして、後ろめたさを感じる私

おとなの失敗と反省

鈴木さんからは、「香織はすぐに答えを教えろと言ってくるので、気をつけて」と言われていたが、素直にしっかり取り組み、理解も一定以上できているようだった。1年生の頃からの様子を考えると、ものすごくいい子になったという印象。

97昔に比べてずいぶん成長した子どもの姿を喜ぶ私

子どもの成長を喜ぶおとな

学習支援が終了した後、香織は、しばらく田淵さんとホワイトボードを使って遊ぶ。文字にならないぐるぐるの絵を描いて、田淵さんに何と書いたか当ててもらう、というゲームらしい。田淵さんが「香織のお迎え遅いですね」と言っている。

98

7時半を少し回ってようやく香織の母親が迎えにくる。香織はいつものようにぐずぐずと遊びを続けようとする。田淵さんが香織の帰る準備を急かしている間、私が上畑さんにあいさつをする。「寒いですね」といった何でもないあいさつの後、学習支援についての話に。私は、「香織はテンションが高かったけれども、ちゃんとやりましたよ。4枚しかできませんでしたけど」と報告をすると、香織の母親は「今日は朝からつだっちが学習支援をしてくれると喜んでいました」と報告してくれる。学習支援でやったことのチェックは上畑さんはしないとのことで、ドリル4枚がいつもよりも多かったのか、少なかったのか、確認できなかった。

99

子どもの母親に子どもの様子を報告し、母親から朝の子どもの様子を聞く私

保護者への報告

香織は相変わらずぐずぐずと準備。トイレに行き、ゆっくりと靴を履き、45 分頃になってようやく帰っていく。

100母親の迎えが来てもグズグズしてなかなか帰ろうとしない子ども

親子関係の見守り

- 120 -

(120)

図1 カテゴリー間の関係図

9子どをわおとなに対する関 心

" おとなに従順に従う子ども

... ヘ~,仲間 と一緒に

いたい陣警克

~,子どもどうしの包領的な関係

ー-・5子どもとおとなの共同作業 、

173ちとなの失敗と反省

1子どもとおとなの親密性

" 子どをわ失敗と反省

223ちとなによる

子どもの行裁の

483ちとなどうしの開 系

lt?I 293ち聞こよる

子どもに対する心配

" おとなによる子どもの性信

11 2-i'-(:'{,(l) -%Ut1 I

"子どもによる立

場の弱い子ども"対する世路

出と竺

473ちとなのコミュ二ァイ

<c関取響YI.と均関わりを学。、おとな

,~親のホ込みの S目Z炎

" 親子関係の見

守")

戸竺156 i1~ I

"子どをめ成要を害。Jラとなの

ノ,⑥

(120) (121)

- 121 -

 まず、学童保育の日常を、「子どものコミュニティ」「子どもと

おとなとの関係」「おとなのコミュニティ」という3つの領域に

分けて把握することができる。

 「子どものコミュニティ」の領域には、子どもの間の上下関係

があり、子どもと子どもとの間に排除-包含の力動がある。子ど

も間に日常的な排除的関係がある一方、同時に周辺化された子ど

もが「子どものコミュニティ」に包摂される力も働いている。周

辺化された子どもは「子どものコミュニティ」への参加を熱望し、

「子どものコミュニティ」も世話、気遣い、指導、勇気づけ、役

割付与などによってそれに応えようとする。こうした力動は、子

どもたちの自律性の中味となっている(図1の②周辺を参照)。

 「子どもとおとなの関係」の領域では、子どもとおとなとのか

けひきと情緒的なやりとりが盛んに行われている。子どもたちに

とってみれば、「子どものコミュニティ」の外側に、おとなとの

関係の世界が広がっている。子どもたちは、学童保育を自分たち

にとって都合のよい場にするために、おとなたちに要求を出し、

かけひきをする。子どもたちはおとなに対してわがままを言い、

挑発し、甘える。おとなもそれに対応して、子どもたちに注意を

与え、説得し叱責する。(図1の①周辺を参照)

 こうした子どもとおとなの緊迫した対立関係の一方で、子ども

たちの要求がおとなの肯定的反応を生み出すこともある。子ども

の要求におとなが応えようとするとき、子どもはおとなの協力を

より積極的に引き出そう試み、子どもとおとなとの共同作業が成

り立つ。これによって子どもとおとなの親密性が高まり、おとな

の充実感にも結びついていく。(図1の③周辺を参照)

 子どもとおとなとのかけひきや情緒的関係は、子どもたちへの

おとなの介入を引き出す。おとなたちにとってみれば、かわいら

しくも、同時に憎たらしい子どもたちは、日常的な心配の種であ

り、配慮し、見守り、世話を焼き、勇気づける対象である。おと

なによる介入は子ども個々人を対象とするにとどまらず、「子ど

ものコミュニティ」全体にも向く。子どもの間の関係に介入し、

立場の弱い子どもを気遣い、寄り添い、代弁する。

 「おとなのコミュニティ」の領域の中核には、共に子どもたち

を見守り育てているという感覚から生じる共同性がある。子ども

たちとの間に交わされる情緒的な関係が、おとなの充実感や楽し

みにつながる一方で、同時に子どもとのかけひきはおとなの精神

的なストレスをも生み出す。子どもとの関わりにおける失敗と反

省は日常的に繰り返され、その経験の積み重ねがおとなの中に協

働的関係を形成させ、学習意欲を喚起する。そうした日常の中で、

時々垣間見える子どもの成長のエビデンスは、「おとなのコミュ

ニティ」で共有できる喜びをもたらす。(図1の④周辺を参照)

 図2は、こうしたストーリー立てをさらに抽象化したモデル図

である。

2 分析作業からみえてきたこと

 実践者は実践現場に埋没する。埋没することで対象者を本気で

思いやり、行動に移すことができる。埋没することによって生ま

れる本気さが、周囲を納得させ実践を実践たらしめる。しかし同

時に、実践に埋没することによって、実践者の視野は限定される。

 筆者の場合、子どもたちと一緒に遊びに夢中になり、子どもた

ちとの愛着関係が深まり、無理をしてでも子どもたちの要求に応

えようとし、子どもたちを心配し、子どもたちの世界に介入し、

また子どもたちのむき出しの激しい感情や言葉にストレスを感じ

るといった学童保育での経験は、個別の現場の論理に貫かれた個

人的な経験であった。つまり今回の分析を行うまでは、筆者は学

童保育での経験を、公共的な意味をもたない経験と感じ、例えば

研究の素材となりえるような経験だとは感じられなかった。実は

そうした感覚のために、筆者は記述されたエピソードを1年以上

放置することとなったのである。ある原稿を依頼されたことを

きっかけに偶然、半信半疑でエピソードを見返すことになったこ

とが、今回の分析につながったに過ぎない。

 実践現場に拘束された個別的かつ個人的な経験として感じられ

ていたものが、今回の分析によって学童保育の営み全体との関係

で新たに意味づけ直された。例えば、怒りや喜びといったまった

くの筆者の個人的な感情が、学童保育の成員たちにどのような影

響をもたらすのかという見通しを与えられ、学童保育全体の中で

一定の役割をもつものとして意味づけられた。こうしたことは実

践的研究においてはよく起こりえることであるが、本論で行った

分析が実践と研究との関係を省察する素材ともなりえることに気

づいたことを、敢えて書き留めておきたい。

 さて、学童保育における個別の経験がどのように全体との関係

で意味づけられたのかという内容をメタ的に考察してみる。

 学童保育に関するほとんどの先行研究は、子どもの発達との関

係で実践を意味づけ、おとなは子どもの発達を促進する役割を担

う存在として描かれている。研究の視点ばかりでなく、実践現場

の合理性も、学童保育をそのように捉えることが多いのではない

か。おとなは子どもの健全な発達という社会的に構築された物語

に拘束され、その存在を意味づけられている。筆者も実践現場で

は基本的に自らをそのような存在として理解し、行動を調整して

いる。その結果、個人的な経験として感じられる経験は無視され、

意味づけられていなかったように思う。例えば、子どもの発達に

中心を置く認識枠組みでは、「子どもが悪態をつく」→「私が子

どもを憎らしく思う」→「子どもの悪態の原因に思いを致す」→「子

どもの悪態に対する適切な態度を模索する」といった流れの中で、

「私が子どもを憎らしく思う」という過程が、おとなの個人的な

経験として無視される。

 しかし、今回の分析は、図らずもそのような子どもの発達を中

心に据えるような認識枠組みを結果しなかった。その代わりに描

かれたのは、子どもとおとなとのコミュニケーションによって、

子どもは子どもたちの自律性を獲得し、おとなは子どもを共同的

に育てているという実感から得られる充実感や喜びを獲得すると

いう枠組みであった。この枠組みは、これまですくい取られなかっ

た個人的な経験に新たな意味が付与される。先の例で言えば、「私

が子どもを憎らしく思う」という過程は、おとなの共同性やそれ

に続く子どもの成長を喜ぶための伏線として重要な意味をもちえ

るのである。

 また、子どもとおとなのやりとりが、かけひきと情緒的なやり

とりとして立ち現れたことによって、子どもとおとなとの関係性

を相互主体性として理解する枠組みに導かれた。日々の学童保育

実践の中では、おとなにとって子どもは一義的に保育の対象者で

- 122 -

(122)

ある。すなわち、子どもは働きかけられる対象者であり、おとな

は働きかける主体として位置づけられている。しかし、そのおと

なの視点で描かれたエピソードの中に、そうした一方的関係性で

は説明できない契機がたくさん含まれており、子どもの主体性が

主題化されたのだと言える。

 子どもとおとなの相互主体性という観点から学童保育実践を理

解しなおすと、おとなが描く子どもの発達過程とは異なる子ども

の世界が垣間見えてくる。それは子どもの間の上下関係であり、

排除と包摂の政治であり、またおとなに対する戦略的態度である。

そうした現象の捉え方自体が、おとなである筆者の認識枠組みに

拘束されていることには自覚的でなければならないが、子どもの

発達というストーリーとは異なる子どもの主体性が、エピソード

から立ち現れてきたという点に一定の価値があると思う。

 おとなもまた、子どもを指導しているという観念から離れる

と、子どもと共に学童保育の現場を生き生きと生きる主体として

立ちあがってくる。指導として考えていたことの中味は、子ども

への感情、心配、配慮、寄り添い、関係調整、勇気づけといった、

人間どうしの通常の関係の延長にあることに分節化することがで

き、主体としてのおとなが、主体としての子どもに向き合ってい

るという現象が記述されるのである。

Ⅳ 結論と課題

1 学童保育におけるインフォーマルな学び

 本論では、学童保育における日々の活動の意味を包括的に捉え、

子どもたちだけでなく、地域住民としてのおとなもにとっても、

いかなるインフォーマルな学びの実践であるのかということを明

らかにすることを研究目的とした。関与観察によって得られたエ

ピソード記述をデータとして分析することを通して検討した前章

の内容が、研究目的とどのように関連するかということを述べな

ければならない。

 まずインフォーマルな学びとは、日常の中に組み込まれた非意

図的な学びであることを確認しておきたい。すなわち、インフォー

マルな学びを明らかにするということの中には、当事者たちに意

識されていない学びを学びとして意味づけるという過程が介在す

ることになるのである。本論では、子どもたちの自律性獲得と、

おとなたちの共同性獲得に至るコミュニケーション過程をイン

フォーマルな学びとして意味づけることができるのではないかと

考える。

 もちろん本論のいうところの学びとは、価値から自由な学びを

想定しているわけではない。例えば子どもが盗みの技術を覚える

学びなどは、本論では想定していない。本論で明らかにしようと

したインフォーマルな学びの価値はどのように現れるのかという

ことを問題にしなければならない。自律性も共同性も、価値の枠

組みとするには足りない。悪人の自律性、悪人の共同性もありえ

るからだ。とはいえ、例えば子どもの発達を参照軸とした学びの

意味付与は、すでに参照枠組みの中に価値が含まれている。そう

した学びの意味付与だけでは、外在的な価値を実践現場に持ち込

むことで、外側から実践を一方的に判断することになってしまう。

本論では、実践現場の中から意味を発見しようとする方法論を採

用している。実践現場にとって外在的な価値を無批判に参照枠組

みとして判断するだけでは、本論で採用した方法論と矛盾する。

実践現場から立ち上がってくる価値とは何か、という問いが生ま

れる。

 筆者は、子どもの自律性、おとなの共同性が、豊かなコミュニ

図2 学童保育における子どもとおとなの関係のモデル図

(122) (123)

- 123 -

ケーションの過程を媒介にして成立しているところから、学びの

価値についての説明ができるのではないかと考える。例えば、子

どもの自律性獲得過程に、おとなの介入が組み込まれている。例

えば、おとなが立場の弱い子どもたちに向けたまなざしから、子

どもの自律性は影響を受けているはずである。子どもの間の包摂

過程にその兆しを読み取るのは困難なことではない。おとなの共

同性もまた、子どもとのかけひきや情緒的やりとりを介在して成

り立っている。次世代を育てるおとなの責任を媒介して、自ら社

会を構成する主体として生き生きとした生を実現しようとしてい

る。子どもの自律性獲得、おとなの共同性獲得がそれぞれ別々に

なされているのではない。相互に関連しながら全体として学童保

育実践におけるインフォーマルな学びが実現しているという点に

こそ、着目されなければならないのである。

 さて、「宝島」は発足当初から地域づくりに貢献することを理

念のひとつにしていた。“学童の放課後を充実させるということ

はもちろんですが、それをきっかけにしてみんなが楽しく関わり

合える地域社会をつくっていきたいという思いを込めて発足させ

ました。”(「宝島」ウェブページより) 筆者自身もその理念を形

成する過程に携り、地域づくりを強く意識していたはずであった。

しかし、子どもたちとの関わりをめぐって次々と起こるできごと

は、地域社会を意識する余裕を奪ってきた。とはいえ、限られた

資源の中で子どもと関わる事業であるという民間学童保育の性質

上、子どもたちとの関係に振り回されるのは当然であるとも言え

る。すなわち、そうした子どもたちとの関係に焦点化された日常

でありながらも、その営みが結果的に地域づくりに貢献している

という可能性を探るべきなのではないだろうか。

 その視点から言えることは、まず、学童保育の日常が「子ども

中心主義」に彩られているわけではないということである。本論

で「子ども中心主義」とは、子どもの幸せや発達に焦点化し、子

どもの福祉や教育に特化した機能を社会の一部に偏在させること

で、結果的に子どもたちを囲い込み、社会総体の力を弱体化させ

ていくような発想を指している。小玉重夫が、「子ども中心主義」

という語を用いて、“子どもへの関心の肥大化によって、教育に

おける権威が喪失し、公的世界が解体していく”危惧について述

べている(小玉 , 2013, 70)。

 「宝島」に関わるおとなたちの意識は、当然ながら「子どもた

ちのために」というところに中心がある。しかしながら、実際の

コミュニケーション過程は、おとなが子どもたちに一方的に貢

献しているというようなものではなかった。「子どもたちのため

に」という思いは、子どもたちの拒絶に遭い、子どもたちによか

れと思った行動が子どもたちを傷つけるといったことも多々ある

中で、子どもたちのコミュニティもまたおとなたちを巻き込もう

としていた。コミュニケーションは本質的に双方向的であったの

だ。すなわち、学童保育の現実的な一面は、子どもとおとなが共

に生活をしていく場なのだということである。学童保育は、地域

社会において、日常的に分断されているおとなと子どもとが出会

い、共に生きていく場なのである。

 だとすれば、学童保育におけるおとなのコミュニティの充実が、

学童保育の地域社会への貢献と直結するのではないか。子ども中

心主義的な視点では、おとなは指導員であり、その専門性の向上

が、実践の充実の鍵を握る。しかし他方で、学童保育に関わるお

となは、ただの地域住民として子どもたちと出会っていくことに

も価値を置くべきなのではないだろうか。「指導員の専門性」追

求と地域住民の参加とが混在しているところにこそ、学童保育の

可能性が見出せるのではないだろうか。

2 研究方法論上の課題

 最後に、研究方法論上の課題に言及しておきたい。本論の研究

方法論は、さまざまな既成の研究方法論(エピソード分析、グラ

ウンデッドセオリーアプローチ、KJ法、エスノメソドロジー)

を参照しているが、どれかに依拠するということはしなかった。

筆者の問題関心に近い方法論は鯨岡峻が提示するエピソード分析

である。しかし、エピソード記述と考察、メタ考察といったエピ

ソード分析の流れに適したデータや研究目的と、そうではないも

のとがある。今回の研究では、エピソードを記述してしまった後

に、細部にこだわって分析していくよりも、全体の中に個々の経

験を位置付けるということに焦点を合わせる必要を感じた。エピ

ソードを記述している間は、鯨岡のエピソード分析を行う計画で

あった。しかし、先述したように実際に書きためたエピソードを

前に、細部を掘り下げても生産性がないように感じた。最初にエ

ピソード記述データの分析に取り組もうとしたとき、まだ筆者は

実践家としての視点に拘束されており、個人的な経験の記述から

何かが生まれるような気がしなかったのである。改めて1年以上

放置したデータを見直したとき、筆者は個々のできごとと実践全

体との関係に焦点を当てて分析してみたらよいのではないかと感

じた。そうした研究の方向性に適するのはグラウンデッドセオ

リーアプローチやKJ法であった。したがって本論は、エピソー

ド分析、グラウンデッドセオリーアプローチ、KJ法の混合のよ

うな方法論となっている。

 方法の厳密性は必要であるが、あくまでも研究目的に即した形

で研究方法は自由であるべきだと理解している。固有の方法論を

追究している研究者からみるといい加減な方法論と感じられるだ

ろうが、今回の研究の流れの中で、本論がこのような研究方法論

を採用したことには必然性があったと感じている。

 とはいえ、今回採用した研究方法の問題点を自覚していないわ

けではない。

 第一に、観察者の立ち位置や主観に依存した研究方法論となっ

ているが、本論の観察者である筆者の立ち位置が特殊であり、一

般化が難しいという問題である。筆者は学童保育の実践現場に責

任をもつ主体として深くかかわっているが、いわゆる学童保育指

導員とは言えない部分をもっている。そうした立場に立つことが

できる観察者は一般的ではない。

 一般性のない筆者の立場が分析にいかんともし難いバイアスを

設けてしまっているかもしれない。例えば、図1カテゴリー間の

関係図の①周辺の解釈について、筆者はこれを「子どもとおとな

とのかけひき」として読み解いたが、より子どもの日常に責任を

もたなければならない立場にいる常勤スタッフからみると、「子

どものしつけ」に関わるカテゴリー群と捉えられるかもしれない。

 第二に、個々のデータの深い考察と概念抽出によるモデリング

との両立に不全感がある。本論においては、概念抽出によるモデ

- 124 -

(124)

リングに力点を置き、個々のエピソードについての深い考察は限

られた範囲でしか行わなかった。個々のエピソードの深い考察と

モデリングとは相補的な関係で深められていくべきなのだろうと

思う。本研究でも、個々のエピソードについてのより深い考察を

行えば、まったく別のモデル図を描けたかもしれない。

 とはいえ、これらの問題が、時間や紙幅の制約によって制約さ

れるのは当然である。本論の制約の下では、本論で行ったところ

までで一定の価値があるとみなすべきだとも思う。

 今後、特に複数の視点や意見によってデータを多角的に検討す

る方法論を積極的に採用していくべきだと考えている。複数の異

なる立場の人たちが同じデータを読み、意見を出し合って分析を

進めていくことで、分析の極端な偏りを避けることができ、同時

に個々のエピソードについての考察とモデリングとの間のより高

度なバランスを実現できるのではないかと考えている。研究法の

次のステップはまた別の機会に試みることにしている。

〈引用文献〉

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