大正 12 年(1922 年)頃の明舞付近
地図で見る明舞の歴史
戦後すぐ(1947 年頃)の明舞付近 江戸時代まで、明石市、垂水区、西区は播磨国に属していた。朝霧から
垂水にかけての地勢は、朝霧川、山田川、福田川などの谷とその間に広が
る丘陵地からなっている。昭和初期まで各川の周囲に集落が散在する小村
だったが、昭和三十年頃から五十年代にかけて急速に開発が進み、谷筋か
ら丘陵地にかけて住宅地が形成された。
明舞付近を大正時代の二万五千分の一地形図で見ると、現在朝霧駅があ
るあたりから明舞センター付近にかけて谷になっており、人家が散在して
いることがわかる。その西側に丘陵があり、南多聞台付近から松が丘にか
けて付近が尾根状にのびている。朝霧駅付近から松が丘、神陵台を経由し
て長坂新田に至るまで尾根上に道はついているが、ほとんど林に覆われた
未開の地である。現在の西舞子小学校があるところは奥ノ池という池に
なっている。この状況は、戦後すぐまでほとんど変化していない。
23
4章
歴
史
が
あ
り
ま
す
明
舞
。
←明舞団地は完成当時、倍
率100倍以上の大人気
物件だったんだよ★
多聞台が完成。現在の姿に近づ
いた!2 年後の昭和44年つい
に入居スタートだ。
第2神明道路が開通し、大蔵谷
インターができた。東朝霧丘、
大蔵谷の開発が進んでいるよ。
↑噴水公園の時計塔は
1976 年緑化事業の記念と
して設置されたよ。下の写
真は昭和 52 年 5 月の神陵
台の地域交流の様子だ!
24
1995 年の明舞付近
伊川谷高校までの道路が開通。
1977 年の明舞付近 第2神明道路が開通し、大蔵谷インターができた。
明舞団地はほぼ現在の姿になっているが、北の道路がまだ
開通しておらず、細い道でつながっているだけである。
東朝霧丘、大蔵谷の開発が進んでいることがわかる。
1967 年頃の明舞付近 多聞台が完成し、明舞団地の造成が始まっている。
南多聞台はほぼ現在の姿に。
4章
歴
史
が
あ
り
ま
す
明
舞
。