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Meiji University Title �(�) Author(s) �,Citation �, 19(2): 104-131 URL http://hdl.handle.net/10291/12085 Rights Issue Date 1950-10-20 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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Page 1: 第二章自然ご人生 - Meiji Repository: ホーム · 反して精紳科學は直接経瞼の學にして経験内容を把握する主膣たる主槻を樹象とする。 註3又》」≦Φのω①憎は人自騰

Meiji University

 

Title 經濟哲學えの道(二部)

Author(s) 永田,正

Citation 政經論叢, 19(2): 104-131

URL http://hdl.handle.net/10291/12085

Rights

Issue Date 1950-10-20

Text version publisher

Type Departmental Bulletin Paper

DOI

                           https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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一〇四

         ノ

経濟哲學・えの道

(二部)

第二章自然ご人生

第一節 自

 如何なる科學の研究でも.入と自然との關係にあること忙異論はないであろう。この場合常に問題となることは、

人と自然とが樹立的に考えられて、或時は宅膿と客盤、又或時は認識するものと認識されるもの、即ち封象などの如

                                       ノ

く表言されていることである。ところで業騰でありそして認識するという人間自罷は、或る意味では自然の中にあつ

て一般に肉膿的のものとして萬物の中の一物であるということが出來るのである。一物である人そのものが自然の中

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にありながら、自己以外の萬物を樹象とレて部ち、人以外の萬物を静的に又は動的に最も撲い意味での自然又は自然

現象としてこれ等を研究していることからして、古來種々様々の思想や學読が生つるのであつて、又それ故に人間は

萬物の露長といわれ、又は帥の子という言葉も用いられてくるのである。この現實から人以外のものと、人との相違

は何であるかというと上が當然考えられねばならぬ。この意味で先づわれわれは自然ということを出來狂だけ深く考

えねばならぬ。しかも人は自然の中にあるという立場からして、人は紳の子で自然から超越していると考えられ、そ

れ故に肉膿的の人間は自然⑭中にありその人附の中に精神が宿つていて、即ち神の子として萬物を支配していると老

えられて居たのが、古代の思想であつたといえよう。又そのことが哲學的に色々の観念論が論じられ、今日までもそ

れが凡ゆる形で表言されていると考えられる。

 自然という語によつて表わされている概念は種々の意味をもつているが、先づ自然という概念は文化という概念に

勤立せしめちれる。從ってこれを文化という概念と比較しつΣ規定することが最も理解しやすいであろうと思う。自

然の生産物は自然的に、換」言すれば人の手を借りづに猫りでに成長していくのである。この意味で極めて雫易な表言

を用いると、自然とは静的には「,ありのま》のもの」をい製、動的には人の手を借りづに攣化していく現象をさして

                 らサ

いるということが出來る。山川草木の姿そのま』の如きを自然というのである似これに反して文化の生産物は人が土

地を耕したり種を蒔いたり騙虫、施肥等を行つたりすることによつて土地から生するものである。英語のO鐸岸霞①

はよくこれを表わしている。人間が自然を開拓することが其の意味であると思う。例えば田に作る稻や温室又は畑、に

栽培する葡萄の如きものである。文化は何等かの慣値ありと認められた目的に從つて行動する所の人の手によつて生

   経濟哲學えの道,                   一〇五’

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産されたものである。この場合静的には文化財とい鼓、動的に見て文化現象という言葉が用いられる。

 要するに自然は慣値に關係なしに廓ち渡慣値的に観察さる」ものであり、又かくの如く観察されねばならぬもので

ある。文化は必す債値が結び付いて・いる。而してわれわれはその慣価を文化慣値とい」、この慣値に充ちたものを文

化財と呼ぶのである。自然は慣値と結合していないものであつて、もしわれわれが或る文化財から凡ての慣値を除き’

                   ノ

去るならば、その封象は軍なる自然となるであろう。例えば野原の】本松を縮に書けばその縮は文化慣値を存し、又

その松自身も之を美的自然として観る場合には美的 慣値の搬有者となるのである。又薪屋がこれに岬労働を加えて運搬

して薪割で薪にすれば経濟財として維濟債値あるものとなる。この松から美的慣値声繧濟慣値を除き去るならば、そ

                                 ノ

れは軍なる一個の自然物に過ぎなくなる。つまり文化慣値に關係せしめてわれわれが槻るか否かによつて、同一封象.

                         7

を二つの異れるものとして帥ち文化及び自然として匿別することが出來るのである。

 われわれが大自然の中にあρながら、われわれ以外の凡てを封象としてのわれわれの観黙によつて目然ど文化とい

                                        ノ

う二種の封象の匿別が認められている限り、この…封立が、科學分類の基礎となつているということは容易に理解され

る。道徳、宗敏、法律,國家、科哩、風習、言語、藝術は何れも文化財であり、之等に關する研究は即ち文化科學で

ある。何となれば之等のものに附着している慣値が肚會の各方面から妥當なるものとして認められているからであり

又之等のものは夫々自身の便値の是認を肚會に封して要求しているからである。而して文化便値耽關係なき樹象、帥

ち没慣値的封象に關する科學は自然科學ということになる。物理的現象.化離的現象等の如きは、それ自身としては

何等の文化慣値をも撚有せざるものであり、物理學や化學は自然科學の最も代表的なものである。然し科學と呼ばる

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㌧ものの申には自然科學と文化科學の何れに屡するか容易に制明しない様に思われるものが少くない。例えば地理學

や人類學の如きは之である。かΣる問題は之等の科離がその婁象を如何なる観黙から考察するかによつて決定され

る。註-

 勿論科學の分類といケことについては學者に依つて多種多様の分類法が行われている。例えば議゜乏⊆β象の如

きは、純粋数學は只抽象的なる純粋形式のみを樹象とする形式的科學として實質的科學から冨別され、實質科學は明

確に自然科學と精瀞科學とに分けられるとしている。註2而して自然科學は間接経瞼の學にして経験のも膿たる屯槻

から隔難せしめられたる被経験的客鴨帥ち経験内容として與えられたる客観を封象として研究するものである。之に

反して精紳科學は直接経瞼の學にして経験内容を把握する主膣たる主槻を樹象とする。註3又》」≦Φのω①憎は人自騰

                            L

の頭中にある観念そのものを研究せんとする學と、人以外σものとを大別して實在科學と観念科學の二部門に匠別し

て,

「る。註・然るに゜網≦§き民及び顕菊莫・二は≦°壽呉の研究裂の差異にょつて自然科學と

、精神科學とに分類することに反封して、科學の分類は各科學がそれぞれ口標とするところの認識目的の形式上の特質

に礎つて生つる研究方法の相異を以てその旺分原理とした。 知圃o閃①洋 の「文化科學と自然科學」に於いて述ぶると

ころを見ると、自然科學をぱ一、般科學O①コ①慈凱蛤臼嶺O①.≦『ω①口ωoぽ£o坤部ち一般化を手績とする科畢、現實的感

官世界の認識に關して更に他の一つの手績による科學の成立が可能である。註5

 このように學者の読にも多種多様に各々の見解からして,自然と人どの間の遜別が論じられているのであるが、結局

Eは自然というのはわれわれが、われわれ歯身の意圖又は意欲を出來るだけ除いて、た璽在りのま㌧の姿や動きを観察

    纒濟哲學えの道    

、        

、      一〇七

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によつて見る場合の諸封象を表わす言葉である。このようなわれわれの状態を指して知の世界としているのである。、

われわれは此の知の世界の代表的なものを物理學者の研究態度に見出すことが出來る。特に物理學なるものもわれわ

れが一般に物理學と呼んでいる所の實鹸物理學をいうのではない。電子に基く自然現象の物理的解明は.われわれの

實際的経験に依らざる假設的要素を以て構成した数學的理論に基くものであつて、之は経験に訴える所の實験物理學

に依つて行わる」ものでなくして理論物理學と呼ばる\ものを以て行われるのである。帥ち現在ノーベル賞を戴いた

湯川博士を生み出した原子物理畢(》仲9β勺び同ω陣oω)である。こ』で最も注意すべきは現代の諸科學のみならす凡ゆ

る學問研究の封象が、すべて「動的」に行われて來た事である。わ、れわれが日常経験するこの現象世界の事物帥ち森

羅萬象は、無限にして複雑多様常に攣化し絶えす生滅流轄して停止する所を知らざる有様である。之を時間的に見る

に吾人はその始めを知らす又絡りを知らす、室間的に見る何れの方向にも無限の延長を有するもの」如く,其の極ま

る所を知る,よしもない。かくて経瞼科學の封象たるこの現實の世界はわれわれに,とつて無限の償りを有する一膿とも

解することも出來る。われわれが簡軍に同一物と呼びなれているものも決して常に正確に同}の状態を羅 綾するもの

ではなく、時々刻々間断なく攣化し推移するものである。或は一見して同一又は不攣の事象と見ゆるものも之を精細

に黙検し観察する時は、そこに必す差別と相異と攣化が窺われる。又不確實なるわれわれの感官には一様等慣と見ゆ

る事物も、精密なる機械力に依る時は驚くべき多様と異質を呈する研究に於いて一切を動的に認識し・て行かなければ

ならないということである。即ち絶封永久不攣の眞理などは求められるものではないということである。いまこの事’

について構威ある自然科學者の著書により自然の動的な研究を観ることにする。現今これ等動的の物理學の研究は極,

                                \

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度に磯達して途には自然科學と文化科學の旺別をも否定する所まで進み新しい唯物史観の見解が唱えられるまでに至

つたのである。

 石原純先生は「自然科學の諸部門に於いて現象間の關係を最も深く論理的に分析することのできたのは物理學であ

ることは.周知の通りである。之は物理學で取扱う物質現象がその他のものに比して最も簡箪であるの.によるが。とも

かくもわれわれはそこで自然のなかから精密な数量的關係を抽象し且つ之等を論理的に整序することに或.る程度まで

成功したのであつて、之が前述の如き意味での自然科摩世界像の可能性をわれわれに啓示し友のである。從つてこの

事から物理學的世界像が一般の自然科學的世界像の花型であり得ることは確かである」。 と理論物理學の重要さを読

いておられる。樹又「物質の要素的粒子がすべて帯電盟であることが磯見されたときに、すべて物質硯象は電磁氣的

                                              も ヘ へ り

に解繹すべきであるとせられ,・こ」に電磁氣自然槻が稻えられた。(中略)電磁氣力は箪に物鷺に所屡する一種の力に

                         サ          ノ

.外ならないのであり、電磁的質量と力學的質量とを旺別することはもはや無意味と見られるに至つた。」註6と述べ

られておられる。即ち自然科學的世界像帥ち電磁的世界像而してそれは力學的世界像であつて大自然の動的認識を思

       ・-                                    ’

わすものである。

 然し森羅萬象複雑な現象に封して完全なる力學的論明だけで漏足出來るものではない。そこで石原先生は次の如く

読かれる。 「かような場合には何等かの力學的類推をもつて瀧足するより外はなかつた。光に封して弾性媒質として

エーテルを假定し、又熱や電氣を}種の流盟として論じようとしたのは何れも此の類である。」省又「物質原子間の

                    辱

    ぬ  も  う

物化學的親和力の如きは、最初は力學的類推に於て一種の力として考えられたのであるが。この力の本質的訟明はな

    輕濟哲學、兄の道                     

一〇九噸

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ほ不可能であったのに反して、エネルギー論に於ては之を全く熱力學的に考察してその数量的記述を可能ならしめた

ことなどその、一つの功績をものがたるものである。L註7

 かくの如くわれわれが常識的に感官のみで一見して無数の姿をして存在していると見る諸物も、何か唯一の原質を

求めんとする墓的要請からして研究に研究して行く自然科薯達の努力の結果は、分子が唱えられ原子菱見され

電子に深く進み、今日ではエーテルとかエネルギーの一種の動的因となる力というところまで進んで來たのでめる。

 素朴的唯物論からその静的理論の鮎黙を見出し今口の唯物史観をマルクスと此甚強張しているエンゲルスは自然科

學に於ける.叢展の経路を明かにし次の如くのべている。

 「カントの星雲読はすでに太陽系の搬生を.また彼の地球廻韓の海潮による妨害の叢見にま允太陽系の渡落を必宣

言した。……(しかもその後の自然科學の進歩は)蕎來の固定した甥立、越えがたい境界線をだんノ\と泊して行

く。最後の氣騰さえも液騰化され、一個の物醒が液盤的ともガス膿的とも匪別のつかない状態におかれらるζとが誰

明されて以來,凝集状艦はその再來の絶封的特性の最後の淺津をも失つてしまつた。完全なガスにおいては個々のガ、

券子の蓮動する連度の皐は、同一鰹の下では分子の重量と琵例するというガ券鑑動理論の命讐よつて

熱もまた直接然るものとして繁募る蓮動形態の列笑る。+年前に新握見された蕩の大原則はま奎ネルギ

                  ヒ

ー保存に關する箪なる法則として、蓮動の不減性と創造不可鮨性との軍なる表現としで、即ち軍にその量的方面から

把握さ弟たとすれば「、このせまい溝極的表現はエネルギーの攣化という積極的な表現によつて・ますます駆途され、と

」にはじめて過程の質的内容はその所を得、またこ~に世界の外にある創造者に封する最後の記憶が浩滅するのであ

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る。蓮動(いわゆるエネルギー)の量は,それが揮動のエネルギー(いわゆる力學的力)から電氣、熱、位置の潜在

的エネルギー等に聴換するときにも、またその反封の場合にも攣化はしないということは、今ではもにや、 新らし

いこ老として詮かれる必要はない。、……そして生物學が進化論の光によつて研究さ処るようになつて以來、有機的自

然の領域においては分類の固定的境界線はつぎつぎに解消した。今では卵を産む哺乳動物もおれば、,四足で歩く鳥も

いる。すでに数年前ヴイルヨウが細胞叢見の結果、動物的個盟という軍位を細胞國家の連合にまで解消することを鯨

儀なくされたとすれば」、動物的(したがつてまた人間的)個性の概念もアミーバのように高等勤物の騰内をはいまわ

っている白血球の叢見にょつてなおはるかに模雑化する、すべての封立と麗分とは箪に相甥的な袋當性をもつもので

あるにすぎす、固定性と絶樹侵當性との観念は我々の反省によつて自然の中にもちξまれたものであるにすぎない。

,ーーこの認識ζそ自然の辮讃法的把握の核心を形づくるものである。人は自然科學の集積されゆく事實に張制される

ことによつてこの認識に達することができる。」註8

 武谷三男先生は其の著書開,科學、哲學、藝術」の申で、「原子物理學への期待」の見出レσもとに「人類は逡に原予

そのものの中にぴそむエネルギーをと妙出し、これを自由にすることに成功した。帥ち原子力の解放である……今か

ら五十年程前に電子という原子よりももっと小さい軍位が護見された。それと共にギリシヤ以來考え.られていた原子

が物質をつくい上げている窮極の軍位であるという考えはこわれてしまつた。そして原子は電子からつくられている

事になつた。しかしそれで十分でなかつた。一九一一年原予は翼中に重い原子核があり、周P忙輕い電子がとびまわ

つていることが分つつだ。そしてそれ以前に叢見されていたあのキユウリー夫人のラジゥムの放射能は原子核の現象

   輕濟哲學えの道                     一一一

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                                        一一ご

                                            ノ

であり、.原子核は大きなエネルギーをたくわえている事が老えられた。(中略)一九三一年中性子が叢見された……こ

うして原子核は陽子と中性子とから出來上つていることがわかつた。……一九三五年湯川博士はこの原子核の中で申

      ヨ つ ぬ も ゐ ゐ

性子と陽子とむすびつける力として中間子を導入した。」註9             、

、エ

塔Qルスはこの自然や・物質というζとに就いて彼のフオイエルバツハ論で哲學的思考により衣の如く論じてい

る。「すべての哲學、殊に近代0哲學の大なる根本問題は、思性と實有との關係の問題である。……精神と自然といつ

れが本源的かというこの問題に…封する答え方について哲學者は二大陣螢[に分裂した。自然に…封する精神の本源を主張

し、したがって結局において何らかの、種類の宇宙創造を認容した人々は観念論の陣菅に構成した。それ牝反して自然

を本源的なものと見た人々は唯物の種々の流派に厨している。」と前提し、彼はフォイエルバッハの唯物論の立場を明

らか忙して、

 「フオィエルベツハの焚展道程は↓人のへーゲル主義者の唯物論に至るまでの磯展道程である。帥ちこの磯展は一

定の段階に達するとへーゲルの観念論的謄…系と全然絶縁するこどを必然とするものである。っいにフォイエルバッハ

は抵抗すべからざる力にせまられて反懸なしに次の見解をとるに至つた。いわく、へーゲルのいわゆる「絶封観念の

先世界的存在、卸ち階、論理的範疇の先在』なるものは、超世界的創造主に封する信仰の室想的蓮物に外ならぬ。吾々

自身が屡しているところの實廃的な.感官によつて知畳することの出來る世界が唯一の實在であつて、吾々の意識と

思性とはいかに超感畳的なものに見えようと一つ實在的、肉謄的器官たる頭脳の所産にすぎぬ。物質が精瀞の所産で

なく,椿紳そのものが物質の最高所産にほかならぬ。」註10 これがフォイエルパッハの唯物論であ歓が、マルクス、

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エンゲルスは、フオイエルバッハが唯物論をAーゲルを通して胆懲自然を物質現象どし七見るばかりでなく、人聞の

歴史的現象をも同様に唯物論的に見たのを土壷として更に炭的唯物論として具髄化するに至つた。邸ち…、一切の人聞

歴畷の最初の前提はいうまでもなく生きた人間的個人の生存である。これらの個人のよつてもって動物から匠別され

る所以の最初の歴史的行動は、彼らが思性するということではなく、却つて彼らが彼らの生活資料を生産しはじめる

ということである。それ故にたしかめらるべき最初の事態はこれらの個人の肉膿的組織と、これらの自然的諸基礎、

及び歴史の過程における人間の行動によるそれらの諸基礎の塗化から出磯しなければならぬ。L註11

 十七世紀末ニユートンの物理學が最高であるとされ、ラメトリーが「人間機械論」を書いた時代までは地球の磯展

ロ史を明かにする地質學も起らす、科墨性をもつた生物進化の槻念もない時代の唯物論が、攣化あり、進化あP、濫歩

する世界を無目的機械的の唯物論となつて、親念論者に反撃されたのも無理のないことであつた。彼らはこの自然に

おける個々の物についてはた愛これ等を静的に弧立したもの、機械の諸部分の如きものとしてのみ把握し、したがっ

て浬動をぱ各々の物質的存在そのものに内在ずるみめとしてみとめることができなかった。     ,

          ,

 森羅萬象一切を何か個立的のもの,一元論といわれる静的個物としての原質のみとらわれている古い唯物論と現代

の唯物史観を混同している場合が相當の學識ある人々にも多いようである。この事は特に武谷氏などが注意してい

る。馬場恒吾氏が昭和二十五年の一月一日の護費新聞「年頭展望」に一、原子爆弾は廣島と長崎を爆破すると同時に、

今までの世界観をも爆磯しだ。原子理論の蛮展は物質は固定しているということを前提とず獄二’ユートンの因果律と

それと同時代に生れた唯物史観に修正を彊要する。」云々の記事に樹して張く反ばくして居る。帥ち、「唯物史観が辮

   輕濟哲學.えの道                     

一=二

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                 『                      一一四

誰法によつていることを知らないのであろうか。

 辮讃法は機械的揮命観を批制するものであることも周知である。唯物史観こそ流動する世界,原子の分裂,物質の

流動を主張しているのである。(中略)馬場氏は原子爆弾が如何なる物質の法則にょつているか御存じであろうか。そ

れは辮讃法的因果性を根本とする量子力學によつているのだL・

 以上は一般にいわれているザインとしての自然並びに自然現象とか侮宇宙とか世界像的の意味で老えて來たのであ

                      、  ‘

るが、併しこの自然とわれわれ人間との關係を含めて考える場合に從來學者はザインとして自然に封してゾルレンの

                                             ●

ヘ へ

世界という表言をとって來ているように思われる。分り易くいうならば世界というのは人間が人間自身を主盤として

外界を意味づけて見た場合の自然を世界といつていると理解される。このようにして見る場合に自然科翠とは別に世

                   鳳

界観とか人生観という言葉が表われ、而して世界像とか人間學というものと直別されることになるのである。哲學は

入問観であグ又世界槻である。自然科學は人間とか自然を渡慣値的のザインとしての學とされている9である。けれ

どもこ瓦の自然科學と精紳科學(又は丈化科學)という從來の笹別に封して、唯物史観の立場からしてその必要がな

                                           、

いとされて來・ていることにわれわれは注意し、このことについては大いに研究する必要があると思う。武谷氏は原子

力の思想的意義と題して「原子力が思想的に何を齎らしたかという問題に就いて考えてみると、それはザインと..ソル

レンの分離に封して一つの決定的なピリオドを照ハえたということだ」とい」、その最後の吉ころに「眞實のマルキシ

ズムはザインとゾルレンの分離というのでなしにいちおろザインとゾルレンをヵント的に批剰し、然るのちにもつと

                                           1

完全な形でザインとゾルレンを統一した立場に立つている。ザィ望ゾルレンを分離して別の世界、二つの世界とい

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うふうに扱うのではなくして、ザインの地盤からゾ、ルレ「ンがザインの自己磯展として繊てくる。そういうのがマルギ

シズムの観方である」註12と論じている。たしかにレーニンは「唯物論が観念論哲畢と根本的に異る黙は唯物論者が

感畳、知畳、表象!一般に人闇の意識を客槻的實在の模爲と認める鮎にある。世界はこれ等客観的實在の蓮動であ

って、これがわれわれの意識に反映する。-表象。知髭の蓮動はわれわれの外界にある物質の蓮動に封鷹する。物質と

いう概念はわれわれの感畳に與えられたる客観的實在以外の何ものをも表わすものではな層い」註13と述べているので

あるが、現今ソ聯の百科僻典になつて來ると物質の概念が大いに違つて來た「哲學上の物質の概念は自然科撃上の概

念とは切つても切れない關係を有する。それは現代自然科卑の物質観を普遍化したものである。……およそ唯物論は

物質を客観的實在として認めて來た。しかし物質の多種多檬な蓮動形態の研究に立脚して物質の物理學的規定の訣陥u

を明らかにし、哲學上の物質概念にまで到達したのはひとり辮讃法的唯物論のみであつた。哲畢上の物質概念は、個

別科學の研究封象たる客観的實在のあらゆる其髄的形態の概念を含んでいる。雄大な天文學的艦系も、徴粒子も原子

も電子もそのすべてが客観的實在である謁生産力、生産關係,階級というよ」な就會的存在形式もまた同様に客観的

實在である。個々の物質を離れて具膿的な物質構成の他になほ『物質そのもの』、『第一物質』があると老えるのは誤

っているLと載せている。註14,

 自然科學者でない、叉…籔學者でも理論物理學者でもない私が、物質とか自然とかいうことについてこれ以上述べゐ

こ乏は蝕りにも危瞼のことである。只私は學周といおうと、科學であろうと、人間と自然との關係からして生つるも

の又は現象を研究するのであるから、何よりも先づ自然と人間という言葉の概念を完全とまではいかないにしても理

                                   〆     ‘

   纏濟哲學幽、κの道                    

一}五

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                                        一一六

    ヘ                                                                                 ノ

解しなければならないと思うが敬に特ば罐威ある自然科學者である石原先生と最近廣く唯物史観を理論物理學に結び

つけ、唱辮讃法による自然科學の研究を實行していられる武谷先生との著書を葬護することにしたのである。私が學生

時代かも教えられたこと又其後研究した範園に於いては、やはり研窺の便宜上からして自然科學と精淋科學との匿別

                                 め

は必要であると思う。然しそれはあくをでも便宜上のことであつて、爾科學には其の實匿を追求する時に必す統】さ

れるかさもなければ何物かによつて關係づけられるべきであると思われる。何故かなれば、それは爾科攣共に大自然

の中にあり而も人闇を通して見られているからである。

        第二節人   生

 すべての問題の出獲黙は人問は何であるか? である。人闇こそ複難極まりなきものである。それは萬物の簸長と・

いわれる程に古來非常に多くの解輝がなされているのである。若しも自然科學的にグーウヰンの進化論的解輝をした

としても人間は幾憶年の時間を経て進化し最高度の磯達をした有機膿である。凡ゆる植物、多種多様の動物、且今日「

では鑛物性のものをも飲食して生活して來た限珍なき槻念を生み出す頭隅の所有者が人間である。しかも人間を只生

物學的に動物的に見るなあば、それは最高度に進化磯達した有機盟というより外はない。之を其の起源の問題を別に

して現實の他動植物と匿別される斬謂精紳飽存在と七てみるならば、入格と表言されて他動物とは全く異るものであ

る。暫學蹴典をみると「X間の本質に就いては古來思想家の間に種々の見解がある。アリストテレスは人間を政治的

帥ち肚會的存在と考え、ユダヤ教キリスト教は紳の似姿となし、スコラ哲學に於ては人閥の本質を理性に求めた。又

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人間を宇宙の要素と力の聚積、宇宙の模型となし、小宇宙と呼んだ哲畢者も少くない。ヵントは現象としての人閥と

本艦としての人間とを匠別した。又個々の人闇を超えた人間性そのもの、或は総髄としての人類の内に人聞の本質慣

値を見んとするものにブイヒテ、ゲーテ等あり、純粋人問性の理念を道徳的肚會的規範と読くものにコゥェン.ナト

ルプ、ヴント、ジンメル等がある。更に近峙人間の生存(U勉ω⑦言)忌を他の存在(qり①矧口),に樹して存在論的優先を有

・すると峯て其現象學的分析を試みるものにハイデツゲルがあり、又諸々の文化現象を人間の本質的構造から理解せ

んとして哲學的人間學(勺ロ出OωO℃琶ωoぴΦ》暮げ巴oO20ぴq冨)を建設せんとした者シエーレルがある。L如何に人間

観の多種多檬であるかも明かである。倫門シエラーの有名な論文「人間と歴史」を開いてみよう。彼は歴史鮒背景を持

ち、史観と結び付けて五つの類型を輿えている。

 第一は有紳論的人間観である。こ,れは哲學や科學が未だ論じられない時代の人間観である。このような人間観は一

種の沸話で現代の哲學や科學に封しては無意義であるといえる。併し文學とか哲學の地盤として大いに有意義である

といえよう。

 第ニホモ・サピエンス(70ヨOω9ユづ一〇μω)叡智人の人問観である。これば哲學の磯生地である「ギリシヤ人が唱えた

ものであつて、哲學的に人間を解繹したものといえる。 「人間は理性的動物なり」とか叉は「,人間は哲學的動物なり

という古典的定義はこの人間観を表わしているものといえる。

 第三ホモ・フアーベル(70議o富σΦ同)工作人の人間観である。.ホモ・サピエンスの理論は人間と他動物と諮根本

的に匪別したが、ホモ・フアーベ甚のそれは人間と動物とに本質的匠別がなく程度の差にすぎないと老える。人間は,

    縄.叢哲學えの潜…                     一一,七

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                                         一一八

類人猿に見られる心理的能力が一層畿達したものに過ぎない。神的とか先天的の趣性の如きものを否定.只麟髄の如

き多量のエネルギーを有している衝動的存在で、工作力によつて道具をもつ動物であると解繹されるのである。近頃

の衝動心理學者達がこの理念を支持している。ホツブスやマキアベリの如し。

 第四、前述の三理論は各々異つていながら何れも人間を調和的、建設的.創造的の意味で見ているのであるが、第

四の人間観は不調和的.破壊的、退化的の本質及び根源を有するものとみた人間観である。東洋哲學でいう性悪読の

゜如きものであろう。この人間観によれば、人間とは第一に生命一般の袋小路であり、第二に一般的に精聯病であると

いうのである。憐み、°不幸の人生をみているのであろう。「知多ければ悩み多し。」ということになるか。

 第五は超人の人間観である。これはニーチエの超人の思想に見出される。人間の猫立と自由の高昇を叫び「神は死

せり」それは「超人が生きている・。」とのニーチエの言葉の中に表わされている。註15

        第三節自然と人生との關係

 (一)に於いて感官的、ザインとしての自然という言葉に就いて述べ、(二)に於いては人間と他動物とを逼別して人

間観を論じて來たのであるが、、ザインとしての自然科學の封象としての鄙ち波債値的の意味での自然を人間観を通し

ての見方郎ち世界観について考えて見たいと思う。何故なればこの事は政治.経濟は勿論の事、藝術、宗敷等の學の

                                              0

みならす就魯において勢働している凡ての階級の人々が自らの職域を削ち義務を果すには必・ず世界親を有していると、

信ずるからである。自由主義にしても、枇會主義にしても、そして又共産主義にしても何れのイズムを守るとしても

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それは一の世界観があるにちがいない。イズムに捕われるのではない。國民多数の與論に從つて政治を.行うという民

主主義であっても、その與論を形威する各人提は各.々の世界観があればこそ政治略行われるのである。例え畠ヒリスト

             ノ

にしても、アナーキストにしても、それはそれとしてのやはり世界観ということが出來るのである。世界観という言

葉をしらべてみよう。岩波の哲學蹴典によると「一般には世界を一つの統一的全髄として見てその意義や慣値に關す

る見解。その意義や慣値が特に善美.°害悪、合規範反規範といヶ見地から問題とされること多く此倫理的意味かち云

えば厭世観、樂天観、改善観の三様がある。入生にっいての統一的観方なる人生観を密接な關係がある。」註17 と述

べられている。われわれは厭世観としてなショー」ペンハ、ウエル、樂天観としてはシャフツベリやラ「イプユツツを、そ

して改善観としてジエイムスを思い出すことができる。又われわれは日常生活に於ける各々の行き方からして次の三

                                        隙

つの人生観が生れるともいえる、

 第一に自然主義である。人間は自然によつて規定’されている。そして人は自然に隷屡している。ζのような考え方

は宗教家や文學家に現われるが.哲學に於いて現れるときに自然主義と稽している。遠くはデモクリトスやプロタゴ

                                                 ’

ラスから、近くはヒニ!ムやフオイエルバツハ等の思想などをあげることが出來る。 一般に唯物論者に多い。 、

 第二は自由の観念論である。これは人間意思の自山より出磯し、自然に封する精紳の濁立尊嚴を主張する。自然主

義に於いては精紳も物理的に説明されるのであるが,伯由の観念論に於いては精融は自己が物理的因果から濁立であ

るこ乏を意識しているのである。古くはアナクサゴラス、ソクラテス,プラトンにみられ、新しくはベルグソンやカ

ーライルそして英米の思想家に多く現われる思想であると思う。

   纒濟一哲墨一えの道                    

一一九

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                                         一二〇

 第三、客観的観念論は實在を内的情意。生命の表現とみる思想である。これは前二類型とは異抄哲學史の全盤に亘

つて存している。これは瞑想的・静観的・藝術的な思想であるということが出來る。われわれの感情が横大されて世

界全膿と共感し、生の力が高められる。部分は全禮と結合し、美しく統一される。この思想というか氣分はゲーテに

於いて最もよく現れているo         ・     ・

            ー  x × × み ー

 これまで私は人間自身の動き、働き、知識そのものを深く論研することなしに只現在まで諸學者の動き、働き.而

して知識によつて一般に常識的の直槻にょる人開とそれ以外の自然という事にっいての理解や解繹又は論明を私が知

                                    モセ

つている範園で紹介し、少し許りの私見を述べて來たに過ぎない。併し是等の研究を專門とする諸學者の諸思想と、

現に生琶て働いている一般大衆の日常生活を静かに封照してみる時、爲政者、高位高官吏、・並びに文學者、教育者の

如き所謂インテリゼンチャーはと昏かくとして、全世界の幾十億の農村、漁村.鑛山勢働者、下級サラリーマン、産業

豫備軍.一般小工商業者.老幼男女の無教育者、未開拓地の土人蕃人等々が果して政治撃、経濟理、法律は勿論のこ

と、物理.化學、数學や又は心理學、論理學省哲學の如きの知識をもって生活しているであろうか。又知識をもつて

いるとしても毎日の生活にそれを常に意識し考慮して生活しているであろうかっ人間自、身を考えるとか、自分の職業

 ヘ ヘ                                      ノ

の立場を認識しているであろうか。肚會を考え、國家を思い、世界をどのように考えているであろうか。二十絵年の

永きにわたり教育にたつさわつて來た私が、最も恐れ且不安に思つたととは、中等學校程度まではまがしも、大學生

の中でさへも、或る科目に優秀の成績を黙数の上で競今ていながら、その科目の人間生活に於ける立場を知ることな

                  “                ’

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しでた璽機械的に有名學者の論をオームの如く暗記暗諦しているにすぎない状態である。併しそれでも彼等は生活し

ている。嬉びつ、悲しみつ、協力しつ..相争いつ生活している。而も彼等は只衣食住するだけでなく映書に美術に、

音樂に七たしみ、スポーツ、ダンス其の他の競技耽夢中に、それこ亮狂人的(幡90昌圃慧o)である。

 ラフカーデイォ・ハーンは彼の「文學論」の一頁に「此の世の一切の悪は、無知なるところに生つる。」と論する。

罪悪、迷信、利己主義而して不道徳等々は肚會性なき帥敏養なき人々の故に起るものであると彼は叫ぶのである。然

らば知とは如何なることか、私は人間の知.それは人間の動きから出磯して、働きとなり、知となり、超えては良心

となり、悟性も、制断力も推理力もそして理性も、この人間の動き、働きが向上したものであると信つる。次章螢働

論に於いてこのことを論つることにする。

 (・1莚43/25

「自然科學概論」櫻田総子著.この書は第一編本質論第二編方怯論に分ち、第一編の科學と哲學との關係、知識の段階、

科學の分類、自然と文化の各節が良ぐ述べられてゐるQ

前書ωO℃1ωμで層

同ω9。でー。。書゜

菊凶。冨登Z暮霞鼠・。.■窪ω。9#冒山困葺窪三¢ωヨω。冨評(自然科學と文化科學)邦鐸に依る。この書は科學の分類並びに

 ゆ                                    

膿系について私がもつとも得るところがあつた書であるQ「

「自然科學的世界像」石原純著》Φ9ー⑩“O° この書は現在の自然科學の研究が特に物理學が如何なる黙まで畿達してゐ

るかを知るのに役立つたo     ・                              ’

                                                          ロ

脛濟一哲學えの道                     一二一

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一二二

5前書り㊤喝1μOε゜

7 「反デユーリソグ論」岡村繁謬第二版                             -

8 「科學・哲學・藝術」武谷三男著、昌書嵩℃日9°この書は、現代最も世界の注目の的になつてゐる理論物理學の原子論

  についてのその研究が如何なる方法でなされたかにρいて.武谷氏が唯物更観的辮護法の下に湯川、坂田爾氏と共に研究」

  した結果であると述べているので非常に興味を引かれる書である。併し武谷氏が自分の學説に確心を持つことは大いに奪

  敬すべきことであるが、他の學者の思想の批到する場合の言語に何かしら禮儀を失してゐるように感じられたα日本共産

  窯員によくみられることであるQ

9、「ラオイエルバツハ論…」エソゲルス薯….岩波文庫OOO

10

@「ドイッチエ・イデオロギー」マルクスーエソゲルス著、岩波文庫癖①唱ー酒刈や゜

        {

11@「哲學・科學・藝術」武谷三男著、繕習1おや゜

12

@ 「唯物論と纒瞼批判論」レーニソ著、佐籔文夫謬(岩波文庫)

13

@「共琵主義批判全書」共涯主義批判研究會編に依る、本書は我が國に於ける最あ認められる共産主義批判書であると思う。

14@「入間講座」第四巻鬼頭英一「現代の人聞観」卜。おつ,以下参照り

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第二章 勢、.

第一節 動

 私は前號一部に於いて「一切は動である。」 ということを力読しだ。大宇宙に何一つとして動かざるものは絶樹に

ありえない。それは今日の理論物理擦の磯蓬によって釜々實誰されて行くよヶに信じられる。私は敢て信つるという

言葉を用いる。何故かなれば、私は物理學者でもなければ、化學者でもなければ又償く自然科學者℃もなく、た穿淺

學なる一経濟學者であるからである。・併し私には例え微弱な頭脳の持主であるとはいえ、人闇であればこその高度の

哲學的意味での制断力、推理力がある。このことは私のみならす偉大なる肝然科學者といえども、その畢読の大部分

は哲學的思考の結果からして生れて來るのだと信つる。「一切は動いている、欝止とは動中の相封的なる一時的の錯

畳に過ぎない。肉膿的の感覧による人間自身の生活のために要請される結果見られる歌態が静止である。」 これが私

の根本思想となつているのである。併し其虞には多くの私にとっての未知のものがある。それは一切は動であるとい

うのであるが、動くものは何であるか、自ら動くのであるか、動かされているのか、動きがあればこそ攣化もあり、

攣化があればこそ進化もあり進歩もある。それが因となり差別も生つるのではあるまいか。差別があるからこそ種類

も生つるのではないか、而して是等の自然的の動きからこそ時間も考えられ、それが進化獲展することにょり、無機

   纏濟哲墨りえの助迫                   

、 一ご三

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                         、 ° °          =西

物は量から質へと攣化し、且途には有機物となり、術其の有機物中かち植物ともなれば又は動物に進化するものもあ

る懇いうダLウヰンの進化論が表われることとなり.而して最高度に進化した人間が生じたのであると考えることが

                                                  ’

幽來る。而して動くことから時間の親念が起り、又進化より差別が生つることにより数や形の観念が生つるようにな

つたと考えられる。時間という流れの中に進化しつ」、差別される諸物が生つるということの中にわれわれは個物が

考えられ、やがてはそこに個性とか特種の観念が生じて歴史の過程に入るのであると考えられるのである。それにし

ても禾だ私に分らないことは、動くもの又は動かさ鵬る、もの帥物質が何であるかということである。このように考え

ていくと。何か存在するもの即ち現代の誓學的の語でいえばザインとされているものがあると考えられる。故に結局

は現代の理論物理が哲學的辮誰法による考えからして前逃の如く「存在するもの(脚ちザイン).一母は物質である」

という・とが出來・のである。晃であろうと二元であろうと又多兀であろうとその重は今蓄自然科學蓬の努

力、研究の課題と薯のである。このような事こそ私が蔀において引用した自然科學者石原先生の研究態度である

と思う。重復するようであるが大切なるが故に今一度先生の言葉を引用すれば「,究極なるものを求かてゆくとき、私

たちは先づ自分等の生命の棲息する現實の宇宙の大きさと深さとその内容の細かさ之に眼を惹かれすにはいられませ

ん。あの燦然とした多くの思を包容する天室.はどこまで大き風廣いのでありませうか、顯微鏡下に錯雑するいろぐ

                                             

な物質の組織はどごまで細密なのでありませうかゼ私たちは次いで現象の諸相をながめ計す。そうしてそのあらゆる

                 ロ                                                              

攣轄を現前する時相は果して何れの巌きに始まりていつまで績いてゆくのであろうか思い究めますと、そ黛うに神秘

の世界を導かれすにはいられません。」 私は此の自然科學者の人間らしき敬」慶の態度に頭の下るのを禁じ得ない。二

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ユートンは「、余に榊秘の扉を開かせ給え。」と毎朝の所藩.を捧げてあのような科學の研究を績けた乏聞く雨現代の我が

國に於て一部の科墨者たちか、徒らに自己の科學的知識を信頼することも」慮は分るか、むしろ迷信に近い言語を用

いて競孚とか討論とかならばまだしも常に岡争心をもって相手學者を罵署罵倒するが如き論文をみることがある。例

えその學者の學識そのものには成程と感心するのであるが、何かしら人格的の意味での不快の念が起る。   -

 われわれ経濟學を研究するものは窮極の元素とか原子とか或は電子の如き物質のことに就いては今後の自然科學者

の研究にまつことにすろ。樹併し動きということに關してもより深いことについては理論物理學に於ける現在最も高

度に磯達しつつあるのであるかあるから常に將來の彼等の研究磯表を期待することにする。只われわれは前述の如く

森羅萬象一切の自然は動いているということは認めなければ液らぬと考えることが出來る。私はこの動きが働きに進

化し、…劣働という現在の複難なる概念にまで磯達して來たものであると信つるものである。しかも現在の私の頭には

人間の知はこの勢働の最蔚度の叢達をしたものだという思想が生じて來ている。いまこのことに゜ついて、動屯蓮動↓

                                                 一

勢働↓知ヵという順で自分の老えを論じてみる。

第ご節運

佛人フーリエ(団篤oO坤ω】≦2。甑ΦOぴ帥二〇°o閃O⊆ユΦき嵩O甲-同QQωN)は「四蓬動および一般蓮命の理論」の中に揮動

9を次の類別している。註15

 宇宙には四つの運動がある。第一は物質的浬動、第一

   纏濟哲學えの道   

一け有機的逗動、第三は動物的運動、第四は勅^曾的蓮動であ

                一二五

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                    職                    r二六

る。.これらの四蓬動をみるに、唯物論者の考えからすれば根本に於いて只物質的逮動にすぎないということになるで

                                      ノ      ヘ             ノ

あろう、何故なれば彼等は入間鵠も肉饗間に於ける旙随の細胞の翫によるとされているからである。併し託

らの四蓮動を一歩進んだ唯物史観の辮讃法的の見方からすれば噂第一の蓮動から第四の蓮動えと辮讃法的に進化した

のであるということを主張することになるのであろう、唯物論的の解繹は今口においては恐らく誰れも肯定するもの

はないであろう。けれども唯物史観的の見方は多くの學者が認めることになると思われる。」蓬動という語も一般的に

物龍の室間的位置の攣化をいうことを表わし、静止の封象語とされているのであるが、今日ではその意義も鑛充して

           っ                                                         う

精神活動にも用いられる.例えば思考の蓮動というが如し。又精神的に帥ち或る主義の下に多数の人が歩調を一にし

て協力的に活動をなす場合にも蓮動といつている、例えば倫理蓮動、瀧會蓮動、政治蓮動等というが如し。又艦操、

スポーツ等身騰の健康のために四肢,の或る部分、或は全騰を動かすのを蓮動という。それ故廣く蓮動を解する時は室

                               げ

間上に限ら・ず、或は一定のものに封して其の位置關係の攣化を意蝋するもめといえよう。フーリエの第一の物質的の

運動とは、.自然現象特に物理化學的現象の中て見られ,第二の有機的蓮動は生物學の研究する射象に見られ、第三は

動物學又は人間學等の研究封象の中に認められるものであり、第匹の耽愈的蓮動は帥ち耐會現象の中に認められるも

のといえよう。各々の浬動が無關係に起るとは絶封に考えられない。第四の枇會的運動がもともと第一の物質的還動

から進化したものであるとしても、然しそうだからといって一切の肚會的蓮動が物質的蓮動によつて定められるとい

うことは云えな払であろう。甲と乙とは關係があるとか.又は甲は乙から進化したものであるということは必すしも

甲は乙に支配されるということにはならない。人間は猿から進化したといつて、故に人間の運動は猿の蓮動を主とし

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て,考えられねばならぬということはない。侃物質的浬動から人聞の意志的蓮動が進化して來たのであるから,人間の意

        

志は物質的運動によつて支配されるとは限らない。衣食住の物質のお蔭で人間は生きているからして人間の意志は衣

食佳に支配されるとは必づしもい㌧勢ることは出來ない。物質的エネルギーが幾億皐を経て進化して人間の蓮動帥勢

働にまで達したのだといえよう。義理、人情とか、良心、悟性、理性とか、時間、室間、因果とかのヵテゴリーに至

るま℃、すべて是等のものを観念とし、而してそれらの観念も永年の艦験や経験を経て物質的エネルギーの…進化した

のであるといえるかもしれぬ。然し進化とは何を意味するか.進化したものが指導してこそ家のものえと進化するも

のである。大人は青年より、青年は少年より、少年は幼兇より進化磯達してきたものである。幼児が種子であり土豪

である。それなくして大人、はあり得ない。併し進化磯達した成人が指導してこそ、砒會の進渉もあるのである。叉そ

                                                   O

れにょつて幼見も襲達するのである。物質が種子であつで精紳が生れたも一鷹唯物論並びに唯物史観の主張を認めよ

う。併しだからといつて人間という最高のエネルギー的存在物に進化したものが、物質に支配洛唄れるといつことは必

・ずしもいえまい。私は敢えていう「必しも」と。何故なれば支配されることもあり得るからである。併し其の場合は

人間の退化である、從ヶて肚會の退化であり、破壌であり、文明の波落である。           、 〉

 心理學者は物理學上の蓮動と恒別して心を有する人間の肚^曾的揮動を心理銀上から衝動運動、反射運動、本能蓮動

有意淑動とをあげている。衝動蓮動は刺戟に鷹じて一定の運動動観念を思い浮べ直に蓮動を存すのをいう。獣類に近

い。知識の足らざる意志の弱い人聞の蓮動によく見られ乃ことである。われわれは是の如き自毘なきものを行動とい

             、     巴

つている。反射揮動とは刺戟に封し何等の感畳又は揮動の観念を俘わすして起るものをいう。畷埃が眼に入りそうに

   輕濟哲學えの道    ,                

一二七

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                                          二一入

なつたとき瞼を閉じるとか、生れてすぐの嬰児が母の乳房を吸うが如きことをいう。本能澱動は豫め揮動の目的を考

えるようなことなく實行し,しかも複雑な一定の目的をもつというようなものをいう。反射蓮動と比較して有意識的

である。註16有意的運動は設明するまでもない。註 われわれ人間の蓮動はかくの如く複雑したものとなつているの

「である。この運動が勢働という語で表言するようになると益々複雑麟ものとなる。この呼労働の研究こそ最も今日に必

     づ                                  ノ

要なことである9これについては特に深く考えて見たいと思う。   「           ・

        第=節.艸労 

働                、

 勢働はたしか網人閥の運動より進化したものと云えよう。しかし蓮動邸勢働ではない。マーシヤル(》賦貝①α鼠£Ω嘱1

ωげ鋤嵩)は彼の経濟學入門(田①ヨΦ暑のO幡国oOロO導汀ωO鴎ぎ創ロ゜。窪同びOぎ騎昏Φ曹ω叶くOぎB①O幡国Φ白①昌↓ωO臨

国oo、oヨぎω)で、勢働に就いて次の様に述べている。「凡そ勢働ぼ全て、或結果を生ぜん爲に行はれる。蓋し例えば、

                                                    ノ

娯樂の爲にする競技の如く、人の活動にしてたぼ其の自鰹の爲に行わる」ものもあるけれど脇、しかしこれらのもの

は、勢働の中には入らないのであるρジエヴオンスはよく勢働を定義して曰く、凡そ精紳または身膿の活動にして、

これから直接生する快樂以外の或職利をば、幾分または專ら目當となして行わる製ものであると。今若しわれλ\に

して、新たに出直して定義をすべしとするならば、全ての岬労働を以て生産的のもの (昌Φ四ユ団£Ω目冨σoq触δ貯

ωOヨΦω①口oΦわ同O賃自qo鉱くΦ)と見るのが最上であらうLど註17 等しく人間の動き又は運動゜(鑓O餓O口)であるけれ

ど。勢働は、競技、遊戯等の如唐蓮動其のものを樂しむものと匹別遷れなければならない事を云つているのである。

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 今日、マルクスの経濟思想が横く而も強く傅播されるようになつてから、學者、政治家、學生は勿論のこと、 一般

・インテリゼンチヤーといわれるものはすべて、口を開けば、勢働問題とか螢働慣値とか又は勢働者の立場等を論じて

ゐるが、彼等募働とは如何なる意味を表はしてゐるか、螢働者とは如何なる範圏のものを云うのであるか・.筆を

深く考慮してゐるのであらうか。前述の如く、勢働どいつても,それは人間自膿の、物質的蓮動を指してゐるのでは

ない。又は獣類の箪なる生物的の蓮動を意味する慰のでもあるまい。等しく運動の中にあつても、競技や遊戯とは匝、

別しなければならない。けれども、最高動物であり良心あり理性あるわれく人間にしても、唯物論者や唯物史観論

者の主張の如く、猿を先祀としてゐるダーウヰン的の動物である爲であらう.多数の人間の中には、所謂心理學者の

云う、衡動的蓮動、反射的運動又は本能的蓮動のみに行動してゐる占しか思えない徒輩がある。無學無知なるが故に「

禽獣に等しき行ぴをしてゐるなら・まだしも、中には、相當の學識を否、凡人以上の學者の立場にありながら、科學的

知識の行き過ぎからというか又は錯墨を生じたというのか、自然科學的の帥ち、考古學一地質學や理論物理學の農達

により、人間の歴史を深く研究し,自然を微細に分析して、人間も猿であり、アミー.、ハであり、結局物質の塊である

かの如く考へ、幾億年をも経て進化せる、人間の意思力、理性、判噺力等を箪なる物質の模篇にすぎないとして、一

切の観念基想的なる夢にすぎないかの如く輕硯してゐるとしか・心えな嬢者が居る・彼等自身の生要は主讐矛

盾のあることを知らないであらうか。何故なれば、百年前にマ曽ルクスが、、「必然的に崩潰引る」と叫んだ高度の資本

義のアメリ、ヵ.英國叉は其の他の璽に於いて、未だに績いてゐる資本主義、而も其の幾に生れ、生活していな

がら、彼は共産主義を意識して、現在の資本主義を蓼墜な手段によつて破壊せ臥と努力してゐるのではない有

    輕濟哲學え輝の道               、                コ一九

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                                        ;一〇,   ・

例へ身は牢獄にしばられようと、雨の日も、風の日も、騒頭に赤旗を振る學生.これこそ或る意味での人間の意思が

歴史を環境を改革せ、んとする努力ではないか。彼等は人間的の理性、良心、李等の観念を抱くが故に、それが主膿と

なって、蓮動してゐるのではあるまいか。運動してゐるのではなからうか。自然的の流れには、偶然性を伴ふ、差

別、不準等は必すあるものだリグザウヰンの自然陶汰はそれを示してゐるではないか。か製る自然的必然的の流れか

ら生する差別,不李等の中にあり、ながら、公雫とか雫等化せんとする蓮動こそは、人間の良心、理性、制断力等の如

象所謂精神力でなければならぬ。又私はその意味に於て、その檬な蓮動には賛意を有するものである。徒らに唯物史

観の辮讃法を絶封覗するなかれ。私見をもつて云えぱ唯物史槻そのものも矢張り人間の生んだ観念論の一である。だ

からこそその槻念論も現實に適用する時の手段如何によつては、成功もすれば失敗もする。マルクス業義者よ1 只

信ぜよ。「勢働は慣値を産む1 勢働せざるものは食うべからす!」 というマ夷クスの金言を,唯物史槻、辮諮法は

一種のマルキシズ広の形容詞が副詞の役目をそれも時と場合にょつて役にも立てば損にもなる哲畢的の観念にすぎな

い。人聞は知、情、意の必然的進化による天性によつて毎日々々を行えばそれで慣値を産むものだ。行えぱ必す通

す。螢働すれば必す慣値は生れる。’それであればこそ私は特に勢働についての研究が必要であるという◎である。「}め

見勢働は如何なることかは誰でも分つているようであるけれども、しかしこれは最も複雑な概念を包んでいると思う

                ’                                                                                                                      戯

何故なれば、人間の知識の叢達によつて勢働そのものが…進化したからである。物質的エネルギーの意昧での蓮・動であ

るならば、一時間の浬動は藪量的に確實に計ることも出來よう。そしてマルグスの勢働便値も、肚・曾的の卒均勢働で

解決出來よう。しかし無知のものと、有知のものとの】時間の蓮動の結果が等慣でないことは誰でも分るであらう。

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これは何故か、螢働が物質的湿動ではないからである。このこ.とは今日までの経濟墨で筋肉勢働と精紳螢働とに分け

て読明していることでも分る。いま経濟史曲に勢働を考えてみても螢働という語は二字で何等攣りはないとしてもそ

の概念を老えて・見ると時と場所によつて大いに墾つている。原始時代には人間の動き帥蓮動であり螢働であつたとめ

える。一否動物的の動きにすぎす勢働という概念も生じていなかつたであらう。人口が増加し人知が嚢達し分業が起る

ことによつて、必然的に動きと、蓮動、英語で.よくいう需O就O口と竃O〈①ヨ①暮、の匝別も生じて來たのである。

又もつと人間祉會が進化磯達した所謂文明勉會になると,釜々分業が起り】≦o口o口が竃o〈①日①韓乏なりゃがては

                           ヘ     サ

     ノ                                                                                                                                            サ

冨ぴo鍾騰で表言せざるをえなぐなりω覧o簿ω゜O鱒導①゜などと匠別をしなければならなくなつたといえよう。それば

かりではない。高度に科學が磯逮してくると、印ち、人知が蛮達して箪なる器具が複雑精巧なる機械が毅明されて、

                                         

                  も                      ロ

自然力帥ち引力、風力、電力、水力等が鷹用されるとなると、勢働はこれ.らの知力のお蔭でスヰツチを押せばあとは手

を動かしさえすれば(殆〃ど蓮動又は動きといつてもよいほど簡軍である)知力の産物である機械が人間の筋肉勢働

              6

に代つて生産してくれることになるのである。この様に㌧て極度に叢達して・機械が機械を生産するとなれば、呼労働は

殆んど精神榮働即知力だけだともいえるのではないだろうか。

                ノ

      ,   °Vーー入

 第四節精紳跨働」知力の節は本…號の頁微の關係で、中途で甚だ意に満たないが、此所でヵットして次號に載せ

ることにした。從つて(註)も第四節の絡りに付けることにした。・

糎潜一哲學えの道,

=二一