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確率過程論 I 1 2005/07/04, 西岡 國雄 2 1 フィルター付き確率空間 確率論とは偶然事象の法則を研究する学問である. “偶然事象”と“法則” は矛盾する言葉だが, “ 偶然事象 ”には, 何度も何度も繰り返すと何らか の法則を持つものが多い. つまり, この法則とそれが現れるための条件を 調べる学問が確率論である. 我々は時間発展する確率現象を取り扱うので, それに適した“ フィルター 付き確率空間 ”というものを用意する. フィルター付き確率空間とは, 4 つ組 ( Ω, F , F, P ) を言うが, それぞれの解説から始める. I. Ω 事象空間 sample space といい, ここでは有限個の要素 (1.1) Ω= {w 1 ,w 2 , ··· ,w L } からなる“ ある集合 ”であり, 取り上げる問題に適した集合をその都度 Ω として選ぶ. 加法族 M とは, Ω の部分集合 A Ω の集まり (= 部分集合の集合) ”で次の 条件を満たすものである; , Ω ∈M, (1.2a) A Ω A c Ω - A ∈M, (1.2b) A k ∈F ,k =1, ··· ,n n [ k=1 A k ∈M, n \ k=1 A k ∈M. (1.2c) 注意 1.1. とくに F Ω べき集合族 power sets とする. この F (1.2) の条件 をみたしている. 1 法政大学工学部経営工学 集中講義 2 中央大学商学部, 192-0393 八王子市東中野 742-1 [email protected] 1

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Page 1: 確率過程論 I1 - 中央大学c-faculty.chuo-u.ac.jp/~nishioka/resume1.pdf確率過程論I1 2005/07/04, 西岡國雄2 1 フィルター付き確率空間 確率論とは偶然事象の法則を研究する学問である.“偶然事象”と“法則”

確率過程論 I1

2005/07/04, 西岡 國雄2

1 フィルター付き確率空間

確率論とは偶然事象の法則を研究する学問である.“偶然事象”と“法則”は矛盾する言葉だが,“偶然事象”には, 何度も何度も繰り返すと何らかの法則を持つものが多い. つまり, この法則とそれが現れるための条件を調べる学問が確率論である.

我々は時間発展する確率現象を取り扱うので, それに適した“フィルター付き確率空間”というものを用意する. フィルター付き確率空間とは, 次の 4つ組 (

Ω,F ,F,P)

を言うが, それぞれの解説から始める.

I. Ω は事象空間 sample space といい, ここでは有限個の要素

(1.1) Ω = w1, w2, · · · , wL

からなる“ある集合”であり, 取り上げる問題に適した集合をその都度 Ω として選ぶ.加法族M とは,“ Ω の部分集合 A ⊂ Ω の集まり ( = 部分集合の集合)”で次の

条件を満たすものである;

∅,Ω ∈M,(1.2a)A ∈ Ω ⇒ Ac ≡ Ω−A ∈M,(1.2b)

Ak ∈ F , k = 1, · · · , n ⇒n⋃

k=1

Ak ∈M,n⋂

k=1

Ak ∈M. ♦(1.2c)

注意 1.1. とくに F を Ω のべき集合族 power sets とする. この F は (1.2) の条件をみたしている. ♦

1 法政大学工学部経営工学 集中講義2 中央大学商学部, 192-0393 八王子市東中野 [email protected]

1

Page 2: 確率過程論 I1 - 中央大学c-faculty.chuo-u.ac.jp/~nishioka/resume1.pdf確率過程論I1 2005/07/04, 西岡國雄2 1 フィルター付き確率空間 確率論とは偶然事象の法則を研究する学問である.“偶然事象”と“法則”

F に属する集合 A にたいして定義された集合関数 P[A] ∈ [0, 1] は, 次の条件を満たすとき確率測度 probability measure と呼ばれる:

P[Ω] = 1,(1.3a)すべての w ∈ Ω で P[w] ≥ 0,(1.3b)

Aj ∈ F , j = 1, · · · ,m; であり, もし i 6= j ならば, Ai ∩Aj = ∅

⇒ P[m⋃

j=1

Aj ] =m∑

j=1

P[Aj ](1.3c)

ここで今後の議論を簡潔にするため, (1.3b) よりさらに強い条件

(1.3d) すべての w ∈ Ω にたいし P(w) > 0

を仮定する.通常, 加法族M の要素は膨大な数になるので, それを全て書き下すのは困難であ

る. そこで, 適当な集合族 B ≡ B1, · · · , Bn を選べば, M を“ (1.2) をみたす集合族で B を含むもの”の中で“最小のもの”ととれる. さらに B をもっと上手く選べば,

∅ 6∈ B,(1.4a)A,B ∈ B, ⇒ A = B or A ∩B = ∅,(1.4b)

∀A ∈M, A 6= ∅ ⇒ ある B1′ , · · · , Bk′ ∈ B があり, A =k′⋃

j′=1′Bj′ .(1.4c)

という良い性質を備える. このことを一般化しよう.

定義 1.2. M を加法族とする. ある集合族

BM ≡ B1, · · · , Bn, Bj ∈M

があり, (1.4a) – (1.4c) をみたしているとき, BM を M の基底分割とよぶ. そして,M は基底分割 BM から生成されるという. ♦命題 1.3. すべての加法族M にたいし, 基底分割 B が唯一つ存在する. ♦

基底分割があれば, 確率 P もこのBM の要素にたいして与えれば十分である.

命題 1.4. 加法族M の基底分割が BM であるとき, 任意の A ∈M にたいし,

P[A] =∑

B⊂A,B∈BM

P[B]. ♦

II. 株価の時間変動などいろいろな確率事象を調べる上で, 事象がどの時刻に起こったかを特定することが大切になる.“時刻 n までに起こった事象の全体”を F(n)とし, n を 0 から N まで動かして得られた F(n) の集まり F を考える. つまり F は“加法族のある集まり”である.

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定義 1.5. (i) F ≡ F(n) : n = 0, 1, · · · , N が次の条件を満たしているとき, フィルター filter という:

各 n = 0, 1, · · · , N にたいし F(n) は加法族,,(1.5a)F(0) ≡ ∅,Ω, F(N) ≡ F ,(1.5b)F(n− 1) ⊂ F(n), n = 1, · · · , N.(1.5c)

(ii) フィルター F の定義された確率空間をフィルター付き確率空間 (Ω,F ,F,P) という. ♦

今後はとくに断らない限り, フィルター付き確率空間 (Ω,F ,F,P) を考えることにする.命題 1.3 より, 各々の F(n) にたいし, その基底分割 B(n) が存在するが, 二つの基底分割の間には, つぎの関係が成立している.

命題 1.6. F(m),F(n) ∈ F の基底分割をそれぞれ B(m),B(n) とする. 0 ≤ m ≤ n ≤N のとき, 任意の B′ ∈ B(m) にたいし,

B′ =⋃

k=1

Bk, Bk ∈ B(n), k = 1, · · · , `

となるものが存在する.

2 確率変数

定義 2.1. (i) 次のように表現できる関数 X : Ω → R1 を F(n)-可測な確率変数,F(n)-measurable random varibaleと呼ぶ.

(2.1) X(w) =∑

B∈B(n)

CB IB(w) : Ω → R1.

ただし, B(n) は F(n) の基底分割であり CB は各々の B ∈ B(n) ごとにきまる実定数である.(ii) F-可測な確率変数 X(w) は, 単に確率変数 random varibale とよぶ. ♦確率変数 X(w) が F(n)-可測という (2.1) の意味は,“時刻 nまでの情報を知ればX(w) の値が決まる”ことである.

つぎの独立という概念は, 確率論での大事な考え方の一つである.

定義 2.2. (i) 事象 A,B ∈ F が独立 independent とは,

(2.2) P[A ∩B] = P[A] P[B]

が成立することである.(ii) X(w), Y (w) を確率変数とする. X(w) と Y (w) が独立とは, 任意の a, b ∈ R1 にたいし, 事象 w : X(w) = a と w : Y (w) = b が独立なことである.(iii) n 個の事象 A1, · · · , An ∈ F が独立とは,

P[A1 ∩ · · · ∩An] = P[A1]× · · · ×P[An]

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が成立することである.同様に, n 個の確率変数 X1(w), · · · , Xn(w) が独立とは, 任意の a1, · · · , an ∈ R1 にたいし, 事象 w : X1(w) = a1, w : X2(w) = a2, · · · , w : Xn(w) = an が常に独立なことである. ♦

確率変数を特徴付ける量として分散がある.

定義 2.3. X(w) は F(n)-可測な確率変数で (2.1) と表されている.

(2.3) V [X] ≡ E[(X(w)−E[X(w)]

)2]

を X(w) の分散 variance という. また√

V [X] を標準偏差という. ♦大雑把に言うと, 分散の大小は確率変数のとる値の散らばり具合を表している.

命題 2.4. X(w), Y (w) を確率変数, a, b を実数とする.

(i) V [X] = E[X(w)2]− (E[X(w)]

)2.

(ii) V [aX + b] = a2 V [X].

(iii) 確率変数 X(w) と Y (w) が独立ならば

V [X + Y ] = V [X] + V [Y ]. ♦

3 “初歩的な条件付き確率”とパラドクス

確率空間 (Ω,F ,F,P) の事象 A,B ∈ F にたいし,

B 6= ∅ にたいし, B が起こったとして, A が起こる確率

を考えよう. この確率は, 条件付き確率 P[A/B] と呼ばれ,

(3.1) P[A/B] ≡ P[A ∩B]P[B]

(Bayes の公式)

で定義される3

実は, この条件付き確率 (3.1) は初歩的なものであり, 時間発展する確率現象を取り扱うには十分ではない. そこで, 我々は, 次節で (3.1) より複雑な“ (集合族で条件が付いた) 条件付き確率 (4.1)”を導入する.

I. しかし, 条件付き確率の概念は, それほど簡単なものではなく, 直感では把握するには多少の慣れを必要とする. 実際, この (初歩的な) 条件付き確率 (3.1) でさえも,いくつかのパラドクスが知られているので, それを紹介しよう.

問題 3.1.“王に姉妹はいるか?”先王には子供が二人おり, その内の一人が新たに王として即位した. 新王に姉妹がいる確率を求めよ. ただし,男女の比率は 1 : 1 とする.

3 我々は, (1.3d) を要請しているので, P[B] 6= 0 となる. P[B] = 0 も許す場合は, 状況が大変複雑になる.

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問題 3.1 の解答. “ B ≡ 子供が男, G ≡ 子供が女”という記号を使う. 左側は年長者を表すとして, 確率空間 (=起こりうる全ての事象)は

(3.2) Ω ≡ (B,B), (B,G), (G,B), (G,G)

となる.

U ≡子供の一人が男,

V ≡子供の一人が女

という記号を使う. (3.2) を考慮して

P[王に姉妹がいる] = P[V/U ] =P[V ∩ U ]

P[U ]=

2/43/4

=23. 2

II. Bayes の公式 (3.1) を別の形に変形しよう. (3.1) で A と B を入れ替えて,

(3.3) P[B ∩A] = P[B/A] P[A].

となる. ここで, A ∪Ac = Ω だから,

P[B] = P[B ∩ Ω] = P[B ∩A] + P[B ∩Ac].

となるので, (3.3) を使うと

(3.4) P[B] = P[B/A] P[A] + P[B/Ac] P[Ac]

が得られる. この 等式 (3.4) と (3.3) を Bayes の公式 (3.1) に代入すると,

(3.5) P[A/B] =P[B/A] P[A]

P[B/A] P[A] + P[B/Ac] P[Ac]

という Bayes の公式の別の表現が得られた. (3.5) を次の問題へ応用してみよう:

問題 3.2. HIV ヴィールスによる感染の有無を検査する. 市民全員への検査は有効か?

問題 3.2 の解答. Step 1. 医学の検査は完全では無く,

P[検査結果が黒 / 実際に感染している] = 0.95,

P[検査結果が白 / 実際に感染している] = 0.05,

P[検査結果が黒 / 実際には感染していない] = 0.05

の誤差が起こる. ここで 事象 A,B を

A ≡被験者が感染している, B ≡検査結果が黒

とおくと, 上記の誤差は

P[B/A] = 0.95, P[Bc/A] = 0.05, P[B/Ac] = 0.05

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である.Step 2. Bayesの公式を (3.5)の形で使う: 全市民の中での感染者の割合を P[A] = 0.01とすると,

検査の有効性 = P[被験者が感染している / 検査結果が黒]

= P[A/B] =0.95× 0.01

0.95× 0.01 + 0.05× 0.99∼ 0.161 · · ·(3.6)

なので, 市民全員への検査は有効ではない.Step 3. 実は, 検査の有効性は, 全市民の中での感染者の割合 P[A] ≡ x がどれくらいであるかに大きく依存している. 実際 (3.6) は

(3.7) 検査の有効性 =0.95 x

0.95 x + 0.05 (1− x)

となり, 感染者の割合が高い程市民全員への検査は有効となる.

感染者の割合 x 0.02 0.04 0.06 0.08 0.1 0.12検査の有効性 0.279 0.441 0.548 0.622 0.678 0.721

4 条件付き確率と条件付き平均

今後いろいろな計算をするとき,“時刻 n までの情報を知っているとして, n より未来に起こる事象の確率”を求めたいことがある. この確率も“ 条件付き確率”と呼ばれるが, 時刻 n までの情報F(n) ( 加法族をなす) で条件を付ける点が (3.1) と大きく異なる.命題 1.3 よりどの加法族 F(n) にも基底分割 B(n) が存在することを思い出そう:

定義 4.1. フィルター F があり, B(n) を F(n) ∈ F の基底分割とする. A ∈ F にたいし, その条件付き確率 conditional probability P[A /F(n)](w) を次で定義する:にたいし,

(4.1) P[A/F(n)](w) ≡∑

B∈B(n)

P[A ∩B]P[B]

IB(w). A ∈ F , w ∈ Ω. ♦

言葉の印象とは裏腹に, 条件付き確率は確率変数であり, さらに次に述べるような性質を備えている:

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命題 4.2. (i) A ∈ F を固定すれば, 条件付き確率 P[A/F(n)](w) は F(n)-可測な確率変数である.

(ii) w ∈ Ω を固定すれば, P[A/F(n)](w) はA ∈ F についての確率測度となる. つまり (1.3) を満たしている.

(iii) A ∈ F(n) ならば P[A/F(n)](w) = IA(w).

(iv) A ∈ F(n), A′ ∈ F にたいし,

P[A ∩A′] =∑

w∈A

P[A′/F(n)](w) P[w]. ♦

いま述べたように w を固定すれば, 条件付き確率 P[A/F(n)](w) は A については確率測度になるので, それによる平均を考えよう:

定義 4.3. F(n) ∈ Fとする. 確率変数X(w)にたいし,その条件付き平均 conditionalexpectation E[X/F(n)](w) を次で定義する.

E[X/F(n)](w) ≡∑

u∈Ω

X(u) P[u/F(n)](w). ♦

条件付き確率の場合と同様に, 条件付き平均も確率変数となるが, 次に述べる条件付き平均の性質は, 今後いろいろな計算を行う上で役立つ:

命題 4.4. (i) 確率変数 X(w) の条件付き平均 E[X/F(n)](w) は F(n)-可測な確率変数である.

(ii) 0 ≤ m ≤ n ≤ N にたいし, 確率変数 X(w) が F(m)-可測, Y (w) が F(n)-可測であるとき, 次が成立:

E[X Y/F(m)](w) = X(w)E[Y/F(m)](w).

(iii) E[E[X/F(n)](w)

]= E[X(w)].

(iv) 0 ≤ m ≤ n ≤ N とすると,

E[E[X/F(n)]/F(m)

](w) = E[X/F(m)](w). ♦

5 離散確率過程とマルチンゲール

我々は株価の時間変動に興味を持っているので“時刻とともに変化する確率変数”Xn(w) : 0, 1, · · · , N × Ω → R1 を扱わなければならない. さらに,“株価の上がる, もしくは下がる”という 情報がどの時点 n のものか特定する必要がある. そこで,フィルター付き確率空間 (Ω,F ,F,P) を固定する.時刻とともに変化する確率変数 Xn(w) : n = 0, 1, · · · , N は 離散確率過程 dis-

crete stochastic process 4 とよばる. ここで“時刻 n までの情報”(=フィルターF = F(n)) と離散確率過程を結びつけよう.

4今後は簡単のため, 単に“確率過程”という.

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定義 5.1. 離散確率過程 Xn(w) が各 n について F(n) -可測とする. このときXn(w) を F-適合 adapted とよぶ.

F-適合ということは,“時刻 n までに起こった事象を知っていれば, 時点 n で離散確率過程 Xn(w) がとる値が判る”ということである. これは次の条件で置き換えてもよい:

(5.1) w ∈ Ω : Xn(w) ∈ B ∈ F(n), n = 0, 1, · · · , N ; B ⊂ R1.

F-適合な離散確率過程のなかでも, 特別な性質をみたすものを導入しよう.

定義 5.2. F-適合な離散確率過程 Xn(w), n = 0, 1, · · · , N がマルチンゲール mar-tingale とは

(5.2) E[Xn+1/F(n)](w) = Xn(w), n = 0, 1, · · · , N, ∀w ∈ Ω

が成立することである. ♦注意 5.3. (i) マルチンゲールの定義 (5.2) では, 条件付き平均 E[ · /F(n)] をとることが重要である. そのため考えている確率空間を強調するときには,“ (Ω,F ,F,P) 上のマルチンゲール”ともいう.(ii) Xn がマルチンゲールなら (5.2) と命題 4.4 より任意の n にたいし,

E[Xn(w)] = X0, n = 0, 1, · · · , N,

となるので, どの時点でも平均が変わらない. これより,“マルチンゲールは公平なゲーム”という意味合いを持つ. ♦定義 5.4. 離散確率過程 Xn(w) が予測可能 predictable とは, 各 n = 1, · · · , N にたいし Xn(w) が F(n− 1)-可測なことである. ♦予測可能な離散確率過程であれば, 時刻 n− 1 までの情報を知れば次の時刻 n でとる値がわかる. また, フィルター F の性質 (1.5) より F(n− 1) ⊂ F(n) だから, 予測可能な離散確率過程は当然 F-適合である.

6 確率積分

1940年代に, 確率積分や確率微分方程式が 伊藤 清 によって定式化され, それ以降多くの研究者の努力により確率解析として確立された. Ito の公式や Girsanov の公式は, 数理ファイナンスでは必須の道具となっている.この節では, 時間が離散な場合の確率積分と確率差分方程式を解説するが, フィル

ター付き確率空間 (Ω,F ,F,P) が与えられている.

当然のことだが, 投資戦略は, 債権や株式の価格によって決まる. このように, 与えらた離散確率過程 (=債権や株式の価格と投資戦略)から新しい離散確率過程 (=資産の状況)を作ることが必要となる. その一つの方法として, 確率積分がある.

定義 6.1. Mn(w) をマルチンゲール, Yn(w) を予測可能な離散確率過程とする.

Xn(w) ≡ Y0 +n∑

k=1

Yk(w)∆Mk(w),

∆Mk(w) ≡ Mk(w)−Mk−1(w)

(6.1)

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を Yn(w) の Mn(w) による確率積分5という. ♦命題 6.2. (6.1) で与えられる確率積分 Xn(w) はマルチンゲールとなる. ♦

この命題の逆も成立し, (6.1) の平均を調べれば, Mn(w) がマルチンゲールかどうかの判定ができる.

命題 6.3. Mn(w) を F-適合な離散確率過程とする. 次の二つは同値.

(i) Mn(w) はマルチンゲール.

(ii) 任意の予測可能な離散確率過程 Yn(w) にたいし

(6.2) E[N∑

k=1

Yk(w)∆Mk(w)] = 0. ♦

同様に, (6.1) の平均を調べれば, Yn(w) が予測可能かどうかの判定もできる.

命題 6.4. Yn(w) : n = 0, 1, · · · , N を F- 適合な離散確率過程とする. 次の二つは同値.

(i) Yn(w) は予測可能な離散確率過程.

(ii) 任意のマルチンゲール Mn(w) にたいし (6.2) が成立. ♦

7 確率差分方程式

株価を記述するために必要になる確率差分方程式の解法を述べよう.

I. いま F-適合な離散確率過程 Mn(w) が与えられているとき, 各 w ∈ Ω 毎に次の線形な確率差分方程式 (7.1) をみたす離散確率過程 Xn(w) ( これが未知 ! ) をもとめよう:

∆Xk(w) = Xk−1(w)∆Mk(w),∆Xk(w) ≡ Xk(w)−Xk−1(w), ∆Mk(w) ≡ Mk(w)−Mk−1(w).

(7.1)

まず, 与えられた F-適合な離散確率過程 Mk(w) にたいし,

(7.2) Gn(w;M) ≡

1 n = 0,n∏

k=1

(1 + ∆Mk(w)) n = 1, · · · , N

とおく. この Gn(w;M) は今後の議論で重要な離散確率過程である.

実際この Gn(w;M) を使うと, (7.1) の解 Xn(w) が求められる.

命題 7.1. 初期条件 X0(w) = x0 をみたす (7.1) の解 Xn(w) は唯一つ存在し, 次式で与えられる:

(7.3) Xn(w) = x0 Gn(w;M), n ≥ 0. ♦5ここでのように, 離散確率過程の場合には屡々 マルチンゲール変換とも呼ばれる.

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系 7.2. Xn(w) を, 初期条件 X0(w) = x0 > 0 である (7.1) の解とする.

(i) Xn(w) は F-適合な離散確率過程.

(ii) すべての k = 1, · · · , N で ∆Mk(w) > −1 とする. このとき, すべての k =0, 1, · · · , N にたいし Xk(w) > 0. ♦

II. つぎに (7.1) よりも複雑な“非斉次な確率差分方程式”(7.4) を考えてみよう.いま F-適合な離散確率過程 Mk(w) と Nk(w) が与えられている.

∆Mk(w) ≡ Mk(w)−Mk−1(w),∆Nk(w) ≡ Nk(w)−Nk−1(w), ∆N0(w) ≡ 0,

∆Yk(w) ≡ Yk(w)− Yk−1(w)

とおいて, 非斉次な確率差分方程式

(7.4) ∆Yk(w) = ∆Nk(w) + Yk−1(w) ∆Mk(w), Y0(w) = N0(w)

を考える. (7.2) の離散確率過程 Gk(w;M) をつかうと, この非斉次な確率差分方程式も解くことができる.

命題 7.3. すべての k = 1, · · · , N で ∆Mk(w) > −1 とする. このとき, (7.4) の解は唯一つ存在し, 次式で与えられる:

(7.5) Yn(w) = Gn(w;M) N0(w) + Gn(w;M)n∑

k=0

∆Nk(w)Gk(w;M)

, n = 0, · · · , N. ♦

III. 離散確率過程 (7.2) を定義するためには, Mk(w) は F-適合な離散確率過程であれば何でも良かった. しかし, 今後の議論では, Mk(w) がマルチンゲールである場合がとくに重要となる.

命題 7.4. F-適合な離散確率過程 Mk(w) にたいし, 別の離散確率過程 Gn(w;M)を (7.2) で定義する. いま, すべての n = 0, 1, · · · , N で Gn(w;M) 6= 0 であるとき,つぎの二つは同値:

(i) Mn(w) がマルチンゲール.

(ii) Gn(w;M) がマルチンゲール. ♦

(7.2) の形をしたマルチンゲールには特別な呼び名が付けられている.

定義 7.5. Mk(w) がマルチンゲールの場合, (7.2) で定義された Gn(w;M) を指数関数マルチンゲール exponetial martingaleという. ♦

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8 証券市場

我々が扱う証券市場では,“危険の無い資産である債券”6と“危険な資産である株式”との 2種類が自由に売買されている. また, 最近いろいろと話題になる金融派生商品のなかでもオプションと呼ばれる商品もこの証券市場に存在する.そういう証券市場を理想化して,簡潔な数学モデルを構成する.

I. 領収証も証券であるが, 通常は有価証券を意味する. 証券市場で売買される有価証券として, 我々は次の 3種類を取り上げよう.

(i) 株式 stock : 株券や株主権とも言われる. 株式が証券市場で売買される際の価格を株価 stock price という.実際の株価は, 企業収益の見通しなどによって絶えず変動しているが, 今後は“確率法則に従って株価は変動する”と見なす.

(ii) 債券 bond : 国や地方公共団体などが発行する国公債と, 企業が発行する社債がある. さらに社債は, 金融債 ( 日本では7つの金融機関が発行できる )と, 事業債 ( こちらがいわゆる社債 )に分類できる. 債券の保有者は, 一定の所得(=配当)が満期まで見込めるが, 発行者の事業での議決権は持たない.

(iii) オプション option : 通常の証券の他にも, 通貨, 株式, 債券, 金利などの価格の関数として取引される金融派生商品 derivatives がある. 近年この金融派生商品の取引高は大幅に増加している. 我々は多くの金融派生商品の中で, コールオプションやプットオプションと呼ばれるものを扱う.

II. ます債券 bond の特徴を詳しく見てみよう. 債券は次の量で特徴付けられる:

償還 (=満期)の期間 expiration( ≡ N とおく

)(8.1a)

額面価格 face value( ≡ AF とおく

)(8.1b)

償還までの配当の支払い coupon( ≡年利 r とする

)(8.1c)

 債券を保有することによる価値は, 上の (8.1) から決まる収益率 rate of return γで決定される. 債券の現時点での売買価格を AP とすると,

(8.2) AP =AF

(1 + γ)N+

N∑

k=1

r ·AF

(1 + γ)k.

このように債券の将来価格は, 利率の変動が無い限りは購入の時点で決定論的に予測できる. 一方, 株式の価値の変動は予測不可能なので,“危険な資産”とみなされ,債券は株式との比較の意味で“危険のない資産”とみなされる.

III. 証券取引で重要な三つの概念を説明する.キャシュフロー cash flow ごく簡単に言えば, 資産や取引に関わる資金の流れをいう. 個人の貯蓄では, 配当が適宜払い込まれ元本がきちんと返還されれば, その正確な日時はあまり問題ではない. しかし証券取引ではキャシュフローを厳格にきめることが重要である.

6後で説明するように, 共通の尺度である“現在価値”への変換基準として債券の存在が必要になる.

11

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現在価値 discouted value7 キャシュフローのすべての資金を“取引する時点の価値”に計算しなおしたものを, 現在価値という.つまりある時点での価値は, 割引き率 γ で共通の尺度である 現在価値 に変換しな

ければならない.割引き率 discount rate いろいろな時点での取引が行われる証券市場では, 将来価値を“共通の尺度である現在価値”に変換することが必要となる. そのためには,“現在価値への割引き率”が重要であるが, 以下の (一物一価の原則) を公理として採用するので,“現在価値への割引き率”は“債券の受益率”として自動的に決まる.

公理 8.1 (一物一価の原則). 売買が自由な証券市場では, 同じ条件の債券の受益率は唯一つに決まる. ♦

9 オプション

株式や債券など本来の金融商品の価格変動を数値化して, それを取引の対象としたのもが金融派生商品 derivatives である. 1970年代に米国で開発されたが,最近では金融派生商品自体を主な投機対象とするヘッジファンドなどの取引が拡大しており, 本来の債券や株式の規模に以上にまで大きな取引高となることもある. 金融派生商品には, いろいろなタイプの商品があるが, ここでは次のオプション option に話を絞る.

(i) コールオプション call option :“ある会社の株式を ある決まった価格で買える”という権利をいう. 権利行使の日時が決まっているものをヨーロピアン・コールオプションEuropian call option という8.

(ii) プットオプション put option :“ある会社の株式を ある決まった価格で売れる”という権利をさす. 権利行使の日時が決まっているものをヨーロピアン・プットオプション Europian put option 9.

注意 9.1. オプションの性質で注意することは, その権利を“行使するかしないかは持ち主の自由”という点である. ♦

オプションの行使 “満期 N に 1 個の株式を価格 K で買う権利”というヨーロピアン・コールオプションをもっている. 時刻 n での株式の価格を Sn とし, 今を時点N とする. このときこのヨーロピアン・コールオプションの保有者は次のように行動する.

K ≥ SN =⇒ 権利を放棄する,K < SN =⇒ 権利を使って, K の価格で株式を買って,

即座に価格 SN で売る.

時点 N で, このヨーロピアン・コールオプションの価値は

maxSN −K, 0

7しばしば割引き価値とも呼ばれる8一方, ある決まった日時以前の好きなときに権利行使ができるものをアメリカン・コールオプション

American call option という.9コールオプションの場合と同様, ある決まった日時以前のどこでも権利行使ができるものをアメリカ

ン・プットオプション American put option と呼ぶ.

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となる. つまり株価が値上がりした場合には,

maxSN −K, 0−(このヨーロピアン・コールオプションの価格)

の利益10が得られる. 一方,“満期に 1 個の株式を価格 K で売る権利”というヨーロピアン・プットオプションをもっている. 前と同じ設定で, 今が時点 N とすると

K > SN =⇒ 権利を使って, SN の価格で株式を買い,即座に価格 K で売る,

K ≤ SN =⇒ 権利を放棄する.

時点 N でのこのヨーロピアン・プットオプションの価値は

maxK − SN , 0

となり, 株価が値下がりした場合に,

maxK − SN , 0−(このヨーロピアン・プットオプションの価格)

の利益が得られる.このようにオプションを上手く組み合わせることで, 株価の変動から利益が得ら

れる.  オプションの価格 今度はオプション自身を販売する場合を考えてみよう. オプションを売買する時刻 0 では株式の時刻 N での価格 SN は判っていない. そこでオプションを販売する上での問題点は次に要約できる:

(i) コールオプションを販売する人は,時刻 n = 0で“時刻 n = N に価値がmaxSN−K, 0 になるオプション”をどんな価格で売ればよいか? 

(ii) 彼は時刻 n = N で maxSN −K, 0 の資金を用意しなければならないが, そのとき損失を被る危険はどれぐらいか?

株価の変動が確率法則に基づいているとして,“オプションの価格付け”と“被るかもしれない損失の危険回避 risk hedging ”を決めることが, Black-Sholes の理論の重要な応用である.

10 投資戦略

以下, (1.1) – (1.3d) と (1.5) をみたしているフィルター付き 確率空間 (Ω,F ,F,P) が与えられている.我々の証券市場 Bn(w), Sn(w) は, 一種類の債券 Bn(w) と一種類の株式 Sn(w)

からなる. Bn(w) は時刻 n での債権一口の価格, Sn(w) は株式一株の価格をあらわし,それぞれ離散確率過程である. 我々が得る情報は, 時刻 n までの Bk(w), Sk(w) : k =0, · · · , n だから,

各 n ごとに Bn(w), Sn(w) は F(n)-適合な離散確率過程,(10.1a)すべての w ∈ Ω と n = 0, · · · , N にたいし Bn(w) > 0, Sn(w) > 0(10.1b)

とする.10ここ及び今後の議論では, 株式売買の手数料は考えない.

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定義 10.1. (i) 投資戦略 portfolio とは離散確率過程

X ≡ (XBn (w), XS

n (w))

: n = 0, 1, · · · , N

で,“XBn (w) は時刻 n での債券の保有量”,“XS

n (w) は時刻 n での株式の保有量”をあらわす.

(ii) 時刻 n+1での投資戦略(XB

n+1(w), XSn+1(w)

)は, 時刻 nまでの債券の価格と

株価の情報で決定されるから, 次の自然な条件をみたしている: X = XBn (w), XS

n (w)は予測可能な離散確率過程である. つまり,

XB0 (w) ∈ F(0), XS

0 (w) ∈ F(0),(10.2a)

XBn (w) ∈ F(n− 1), XS

n (w) ∈ F(n− 1) n = 1, 2, · · · , N. ♦(10.2b)

証券市場 (10.1) でわざわざ債権の価格の離散確率過程 Bn(w) を導入した意味を説明する. 時刻 n に投資戦略 (XB

n (w), XSn (w)) を実行する. するとその時刻 n での

資産 Vn(w;X) は

(10.3) Vn(w;X) ≡ XBn (w) Bn(w) + XS

n (w) Sn(w), n = 0, · · · , N

で与えられる. この Vn(w;X) は時刻 n での資産だから, これを共通の尺度である現在価値へ変換してみよう. 我々の証券市場では債券がただ一つ存在し, Bn(w) が時刻n でのその債券の価格だから, (10.3) の Vn(w;X) の現在価格 V d

n (w;X) は次のようになる:

V dn (w;X) ≡ Vn(w;X)

Bn(w)= XB

n (w) + XSn (w) Sd

n(w),(10.4a)

Sdn(w) ≡ Sn(w)

Bn(w), n = 0, · · · , N.(10.4b)

ここで, Sdn(w) は時刻 n の株価の現在価値である.

今後, 投資戦略 Xを次の性質のものに限り, 我々の証券市場モデルを簡単にしよう.

定義 10.2. 投資戦略 X が自己資金的 self-financing とは

Vn(w;X) = XBn+1(w) Bn(w) + XS

n+1(w) Sn(w),n = 0, · · · , N

(10.5)

が成立することである. ♦注意 10.3. 時刻 nでの投資戦略

(XB

n (w), XSn (w)

)を時刻 n+1では

(XB

n+1(w), XSn+1(w)

)に切り替える. その切り替え時に

時刻 n での資産を時刻 n + 1 にもすべてを再投資する. その再投資のとき他からの資金流入も, 他への資金流出も無い.

というのが, (10.5) の意味である. ♦命題 10.4. 証券市場 (10.1) では次の三つは同値.

(i) 投資戦略 X が自己資金的.

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(ii) すべての n = 1, · · · , N, で

Vn(w;X) = V0(X) +n∑

k=1

(XB

k (w)∆Bk(w) + XSk (w)∆Sk(w)

)

∆Bk ≡(Bk(w)−Bk−1(w)

), ∆Sk(w) ≡ (

Sk(w)− Sk−1(w))

(10.6)

(iii) すべての n = 1, · · · , N, で

V dn (w;X) = V d

0 (X) +n∑

k=1

XSk (w)∆Sd

k(w)

∆Sdk(w) ≡ Sk(w)

Bk(w)− Sk−1(w)

Bk−1(w), V d

0 (X) ≡ XB0 + XS

0

S0

B0♦

(10.7)

(10.7) から, 投資戦略が自己資金戦略ならば時刻 n での資産は“債券の価格と株価と株式への投資量”の三つだけで決まることが判った. 実は, 株式への投資量がどうであれ, 債券への投資量を適切に選びなおせば, 両方を併せた投資戦略を自己資金戦略とすることも出来る.

命題 10.5. 証券市場 (10.1) で, Yn(w) を任意の予測可能な確率過程, C0 を任意な定数 (負でもよい)とする. このとき, 次をみたす予測可能な離散確率過程 Y B

n (w) :n = 0, 1, · · · , N が存在する:

Y B0 (w) + Y0

S0

B0= C0,(10.8a)

Y = (Y Bn (w), Yn(w)) : n = 0, 1, . . . , N は自己資金戦略. ♦(10.8b)

11 数理ファイナンスの第一基本定理

証券市場 (10.1) でおこなわれる取引の方法と投資戦略を論ずる.“債権の空売り”とは, 実際には保有していない債券を売ることである. 実際の金

融市場では信用貸しや空売りが行われているので, 我々の証券市場でも“債券や株式の空売り”を許す. これらを投資戦略 X で表現すると, ある時点 n で

(11.1) XBn (w) < 0 もしくは XS

n (w) < 0

となることである. ただしここで,“自己資産で空売りを清算できる”ことは要請する. つまり資産 Vn(w;X) が負になる“破産”

ある n で Vn(w;X) < 0

は禁止する.

定義 11.1. 投資戦略 X が破綻しないとは, つぎが成立していることである:

(i) X が自己資金的,

(ii) どの時点でも破産していない, つまりすべての n = 0, 1, · · · , N で

Vn(w;X) ≥ 0. ♦

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今後はこの破綻しない投資戦略を扱うが, その中でも裁定機会という特別な投資戦略については, 厳密に定義する:

定義 11.2. つぎの条件がみたされるとき, 投資戦略 X を裁定機会 arbitrage oppor-tunity と呼ぶ.

(i) X は破綻しない投資戦略,

(ii) 元手 V0(X) = 0. しかも時刻 N での資産の平均値 E[VN (w;X)] > 0. ♦実際の金融市場では, 短期かつ小規模にはこの裁定機会は実在するが, 大規模や長

期には存在しない. 今後は“裁定機会が成立しない”として議論を展開するが, このことは我々の証券市場 (10.1) では次の必要十分条件で言い換えられる (これが, 数理ファイナンスの第一基本定理).

定理 11.3 (マルチンゲール測度の存在). 証券市場 (10.1) では, 次の二つは同値.

(i) 証券市場には裁定機会が存在しない.

(ii) 与えれられたフィルター付き確率空間 (Ω,F ,F,P) で, 確率測度 P の代わりに,次をみたす確率測度 Q が (Ω,F ,F) 上に存在する.

すべての w ∈ Ω にたいしQ[w] > 0.(11.2a)

(10.4b) で与えられる株価の現在価値 Sdn(w) が新しい

フィルター付き確率空間 (Ω,F ,F,Q) 上のマルチンゲール. ♦(11.2b)

12 数理ファイナンスの第二基本定理

以下の議論ではヨーロピアン・コールオプションで行うが, すべての結論は簡単にヨーロピアン・プットオプションの場合に置き換えられる.

定義 12.1. (i) 時刻 N でのヨーロピアン・コールオプションの価値 F (w) は

F (w) ≡ max(SN (w)−K, 0) ≥ 0

である. もしどの時点でも資産が負にならない portfolio11 X で

VN (w;X) = F (w) ≥ 0

となるものが存在するとき, このヨーロピアン・コールオプション F (w) を実行可能とよぶ.(ii) 証券市場 (10.1) で, どんなヨーロピアンコールオプション F (w) ≥ 0 も実行可能なとき, 完備 complete という. ♦いま我々の証券市場 (10.1)では裁定機会が存在しないする. 定理 11.3より (11.2a)

と (11.2b) をみたす確率測度 Q が存在するが, さらに証券市場が完備と仮定する. すると (11.2a) と (11.2b) をみたす確率測度は一つしかないことが判る (これが, 数理ファイナンスの第二基本定理).

定理 12.2 (マルチンゲール測度の一意性). 証券市場 (10.1)では裁定機会が存在しないとする. このとき, 次の二つは同値.

(i) 証券市場は完備.

(ii) (11.2a) と (11.2b) をみたす確率測度 Q は唯一つ存在する. ♦11この portfolio を破綻しない portfolio と呼ぶ.

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13 Cox-Ross-Rubinstein の 2項モデル

これまで証券市場には 1 種類の債券と 1 種類の株が存在し, 時刻 n での 1 口当のそれぞれの価格を

Bn(w), Sn(w)

とした. ここではこの Bn(w), Sn(w) をもっと具体的に与える.

条件 13.1. a, b, γ, p を

(13.1) −1 < a < γ < b, 0 < p < 1

である定数とする. 次に, 確率変数 Λn(w), n = 1, 2, · · · , N を互いに独立で同分布

(13.2) P[Λn(w) = a] = p, P[Λn(w) = b] = 1− p

とする. このとき証券市場 Bn(w), Sn(w) を次で定義する.

Bn(w) ≡ (1 + γ)n B0 (確率変数ではない!)Sn(w) ≡ (1 + Λ1(w)) (1 + Λ2(w))× · · · × (1 + Λn(w)) S0 ♦(13.3)

注意 13.2. この証券市場 (13.3) について説明する. まず第一式では,“債権の収益率はどの時刻でも γ と一定”を仮定したことになる.つぎに (13.1) の第一式があるので,“株価が債権の収益率 1 + γ より低い 1 + a

の割合の変動をする確率”が p,“株価が債権の収益率より高い 1 + b の割合の変動をする確率”が 1− p であり, しかもこのどちらか一方しか起こらない. ♦我々の証券市場 (13.3) は, これまでの数理ファイナンス理論で解析し易い性質を

備えている.

定理 13.3. 証券市場 (13.3) で条件 (13.1) を仮定すると, この証券市場には裁定機会が存在せず完備である. ♦この定理の証明を次の様に行う.

証明. Step 1. まず裁定機会が存在しないことを示す.新しく正の定数 q を

(13.4) q ≡ b− γ

b− a,

とおくと, (13.1) より 0 < q < 1 である. ここで事象空間 (Ω,F) 上に新しい確率測度 Q を

m 6= n なら確率変数 Λm(w) と Λn(w) は独立すべての n で Q[Λn(w) = a] = q, Q[Λn(w) = b] = 1− q

(13.5)

と定義する. すると簡単な計算で

(13.6) EQ[Λn(w)− γ] = a q + b (1− q)− γ =a(b− γ) + b(γ − a)

b− a− γ = 0

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となる. さて数理ファイナンスの第一基本定理 11.3 より, 現在価値に変換した株価

Sdn(w) =

Sn(w)Bn(w)

=1 + Λ1(w)

1 + γ× · · · × 1 + Λn(w)

1 + γ

S0

B0

がマルチンゲールになる確率測度の存在をいえばよい.(13.5) の確率測度 Q を使って

EQ[Sdn(w)/F(n− 1)] =

1 + Λ1(w)1 + γ

× · · · × 1 + Λn−1(w)1 + γ

S0

B0EQ[

1 + Λn(w)1 + γ

]

=1 + Λ1(w)

1 + γ× · · · × 1 + Λn−1(w)

1 + γ

S0

B0= Sd

n−1(w)

となるので, Sdn(w) は確かに Q マルチンゲールとなる. つまり, 数理ファイナンス

の第一基本定理 11.3 より, 証券市場 (13.3) には裁定機会は存在しない.

Step 2. 証券市場 (13.3) が完備な事をしめすが, その準備を行う.Mn(w), をフィルター付き確率空間 (

Ω,F ,F,Q)上のマルチンゲールとする. こ

こでフィルター F = (F(k))k だが, F(k) の基底分割 B(n) は次で与えられている:

(13.7) B(n) = A[Λk = a, Λk = b : k = 1, 2, · · · , n]

さらに F(n) = F(n− 1) の基底分割を B(n),B(n− 1) とすると

Mn−1(w) =∑

B∈B(n−1)

CB IB(w),(13.8a)

Mn(w) =∑

B′∈B(n)

C ′B′ IB′(w)(13.8b)

と表される.

補題 13.4. (13.8) で C ′B′ を適当に FB, GB と書き直すと

(13.9) Mn(w) =∑

B∈B(n−1)

IB(w)(FB Iw(n)=−1 + GB Iw(n)=+1

).

となる. ここで, 次式が成立している:(q FB + (1− q) GB

)= CB =

(q + (1− q)

)CB. ♦

補題 13.5. 次の二つは同値.(i) Mn(w) が Q-マルチンゲール.(ii) 予測可能な離散確率過程 Yk(w) があり

Mn(w) = M0 +n∑

k=1

Yk(w) (Λ∗k(w)− Λ∗k−1(w))

Λ∗k ≡ Λk(w)− γ

この二つの補題を使うと, 証券市場 (13.3) が完備なことが示される. ♦

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14 2項モデルでのオプションの価格

ヨーロピアン・コールオプション

F (w) ≡ maxSN (w)−K, 0 ≥ 0

を考える. 証券市場 (13.3) では

Bn(w) = (1 + γ)n B0,

Sn(w) = S0 (1 + Λk(w))

となっている. するとヨーロピアン・コールオプション F (w) の適正販売価格 CF は

CF =1

(1 + γ)NEQ[F (w)]

であり, これを実現する portfolio Z = (ZBn (w), ZS

n (w)) は

ZSn (w) =

1(1 + γ)N−n

EQ[F (w)/F(n)]

で与えられる. ここで

SN (w) = S0(1 + a)N−k (1 + b)k⇐⇒ Λ1(w), · · · ,ΛN (w)のなかで N − k 個が a の値, 残りの k 個が b の値

に注意する. 確率測度 Q は (13.5) で与えられているから

Q[SN (w) = S0(1 + a)N−k (1 + b)k] =(

Nk

)qN−k (1− q)k

となる. これを使うと

CF =1

(1 + γ)NEQ[F (w)]

=1

(1 + γ)N

N∑

k=0

(Nk

)qk (1− q)N−k maxS0 (1 + a)N−k (1 + b)k −K, 0

(14.1)

となる. これをもっと詳しく計算するために (14.1) の右辺が 0 でない k を決めよう.

(14.2) K∗ ≡ mink ≥ 0 : S0 (1 + a)N( 1 + b

1 + a

)k ≥ K

とおく. S0 > 0 で (1 + b)/(1 + a) > 1 だから (14.2) の K∗ は必ず存在する. すると(14.1) の計算が簡略になる.

定理 14.1. ヨーロピアン・コールオプション F (w) ≡ maxSN (w)−K, 0 の 証券市場 (13.3) での適正価格 CF はつぎで与えられる:

(i) K∗ > N のとき CF = 0.

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(ii) K∗ ≤ N のとき

CF = S0

N∑

k=K∗

(Nk

)qk (1− q)N−k

(1 + a

1 + γ

)N ( 1 + b

1 + a

)k

− K

(1 + γ)N

N∑

k=K∗

(Nk

)qk (1− q)N−k. ♦

(14.3)

注意 14.2. (14.3) が, 有名な Black-Scholes 式の離散版である. ♦

(∗) 本文中の定理/命題/補題等の証明については, 次の参考書をみること:

西岡 國雄, 数理ファイナンスの基礎, 東京都立大学出版会, 116頁, 2004年; ISBN4-925235-34-6.

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