親鸞聖人 - buddhism...生死の一大の解決をしたいと親鸞聖人は、...
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親鸞聖人
仏教の生きる意味を現代へ
通信コース[初級]23
この通信コースは、2600年前、仏教に解き明かされた本当の生きる意味を、半年で
体系的に理解するための講座です。このコースを終了した時、あなたは現代の誰より
も深い人生観が身についたことに気づくでしょう。
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通信コース 23
親鸞聖人
前回は、
「どうすれば生きる目的が果たせるのか」
という内容でした。
「では、生きる目的を果たした人はいるの?」
という多くの人から寄せられる疑問に
今回と次回は、お答えしていきたと思います。
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生きる目的を果たした人は?
私たちが生まれてきた目的、苦しくても生きねばならない
目的は何でしょうか。
それは、お金でもなければ財でもありません。
名誉でもなければ地位でもありません。
人生苦悩の根元を断ち切られ
「よくぞ人間に生まれたものぞ」
と生命の歓喜をえて、未来永遠の幸福に生きることです。
では、その本当の生きる目的を達成した人はいるのでしょうか。
それは一人挙げるとすれば、まず親鸞聖人が、生きる目的を達成された方
です。
親鸞聖人29歳の時だったといわれます。
その時の喜びの叫びが、主著・教行信証の最初に記されています。
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ではなぜ、親鸞聖人は29歳で
生きる目的を果たすことができたのでしょうか。
それはまず、なぜ親鸞聖人が仏門に入られたのかを
知らなければ分かりません。
親鸞聖人は、平安時代の末期に、京都にお生まれになっておられます。
お父様は藤原有範といい、お母様は吉光御前といわれました。
ところが、4つの時にお父さんが、
8つの時にお母さんが亡くなりました。
「次に死ぬのはオレの番だ。死んだらどうなるのだろうか」
真剣に考え込まれた親鸞聖人は、
ああ…なんたる不思議か、親鸞は今、多生億劫の永い間、
求め続けてきた歓喜の生命を得ることができた。
これは全く、仏法力不思議によってであった。深く感謝せずにおれない。
もし今生も、人生の目的果たせぬままで終わっていたら、
未来永遠浮かぶことはなかったであろう。なんとか早くこの真実、
みんなに伝えねばならぬ、知らせねばならぬ。
こんな広大無辺な世界のあることを。(教行信証)
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真っ暗な我が身の後生に驚かれました。
何とかこの後生一つ明るくなりたいと、
9歳で出家されて20年間、比叡の山で
法華経の修行に打ち込まれました。
この
「死んだらどうなるのだろう」
これがまず問題になってこなければ
本当の仏教にも入れないし
本当の人間にもなれないのです。
なぜなら、人間は100%死ぬからです。
私たち全員が必ずぶち当たらねばならないのが死の問題です。
この生死の一大事の解決が、人生の目的なのです。
本当に、楽しい生き方をするには、
この死の解決ができなければ
明るく楽しい生を送ることはできないのです。
「今さえ楽しければいい」
と言っている人がありますが
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その「今」を楽しくすることができないのです。
なぜなら、生と死は
「生死一如」
という関係にあるからです。
生死一如
「生」と「死」は普通反対のことのように思われていますが、
「生」と「死」は、反対ではない。
二つであって一つ、
一つであって二つ、
紙の表と裏のような、切っても切れない関係にあるのだ
とお釈迦様は教えられています。
これを「生死一如」といいます。
分かりにくければ、
「生」は「台所」にたとえられます。
「死」は「便所」にたとえられます。
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「台所」というと、明るく楽しいイメージで、一家が団らんする楽しいところ。
小さい頃、家に帰るとまず台所へいって冷蔵庫をあけたという人
もあるかもしれません。
逆に「便所」は暗くて苦しくて、一人で行くつまらない所。
いいイメージがありません。
ところが、「台所」で食べたものは100%「便所」で出さねばなりません。
だからどんな小さな家でも「台所」と「便所」が、両方あります。
「台所」があって「便所」がないという家はありません。
「便所」がなければ「台所」で思う存分食べられないからです。
「便所」があってはじめて「台所」で一家の団らんが楽しめます。
例えば、小学校の遠足のバスもそうでした。
高速道路で、そう簡単にトイレに行けないときに、
「先生、トイレ」
となったら大変です。
そういう時に限って渋滞して、のろのろ運転しているものです。
もしそうなったら、遠足が少しも楽しくなくなってしまいます。
歌を歌ったり、友達と遊んだりする他のすべてが
頭から消えて、
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「どうしたら我慢できるか」
「パーキングエリアまであと何分でつくのか」
そんなことばかり考えるようになって、
遠足が、嫌な思い出になってしまいます。
もうおやつも食べられないし
飲み物も飲めないし、バスは楽しくなくなります。
便所があってはじめて食べたり飲んだりが楽しめるということです。
同じように、
私たちは生まれたら100%死ななければなりません。
「生死一如」とは、
死の問題を解決をしなければ、本当に明るく楽しく生きることはできない。
死を見つめることが生を見つめることになる。
死の解決が生の解決になる。生死一如の関係にあるのだ。
ということです。
老後の心配は多くの人がしますが死ぬ心配は誰もしません。
老後がない人はあっても死なない人はありません。
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100%確実なのに、心配しない。
ここがおかしな所なのです。
親鸞聖人は、わずか9つにして、この死の問題に、驚かれたのです。
そして、親鸞聖人の求道は、ここから出発しているからすごいのです。
仏教を聞いたら、金が儲かるとか、病気が治るとかではありません。
生死の一大事の解決をしたいと親鸞聖人は、
仏教を求められたんですね。
完全に焦点が定まっています。
9歳で出家得度
「死の問題を解決をするには、仏教を聞くしかない」
親鸞聖人は、9つで出家をされました。
「出家」とは家を出るとありますが、家出とは違います。
「家」とは、煩悩の象徴です。
やはり家にいる、欲や怒り、愚痴の心が出てきます。
家には、夫もいれば、妻もいる、子供もいる。
隣には隣の人もいる。
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色々な欲や怒りや愚痴が出てきてしまいます。
だから、そんな煩悩の起きやすい家を離れて、
山へ入るのです。
山なら周りは石や木ばっかりなので、
欲や怒りを起こす縁が少ないのです。
煩悩に煩わされることなく修行ができるように、
家を出て山に入るのです。
親鸞聖人は、仏門に入る最初の儀式である
「得度」の式をあげてもらうために
当時、比叡山のトップであった慈鎮和尚のもとへ行かれた。
慈鎮和尚から許しをえて、
「よいよい。明日、得度の式をあげよう」
と言われると、
親鸞聖人は、すっと立ち上がり、書記の席へ行って、歌を詠まれました。
明日ありと 思う心の仇桜
夜半に嵐の 吹かぬものかわ
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という有名な歌です。
「明日あり」とは、
明日がある、明日も生きていられる、ということです。
「明日も生きていられると思っていますが、それは本当ですか?
明日必ず生きていられると保証できるんですか?」
ということです。
私たちは、手帳に色々予定を書き込んだり、
色々な将来の予定をたてて生きています。
そうやって「明日がある」と思って生きていますが、それは本当でしょうか?
明日死んだら、明日から後生
今晩死んだら、今晩から後生です。
明日がある保証はありません。
午前中までは、普段と変わらず生きていたのに
午後、急に地震がくると、あっという間に津波が来て、
明日がなくなってしまった人もありました。
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毎日交通事故で、沢山の人が死んでいます。
みんな「明日がある」と思っていたのに、
明日がなくなってしまった人たちです。
こうやって、「明日あり」と思っていますが、それは本当ですか?
その「明日ある」と思う心が仇となるのではないですか?
それは迷信ではないですか?
「今を盛りと咲く桜の花も、夜半に吹く一陣の嵐で散ってしまいます。
人の命は、その桜の花よりも、はかなきものと聞いております。
どうか明日と言わず、今日、得度の式をあげていただけないでしょうか」
親鸞聖人は、お願いされたのです。
すると慈鎮和尚は、
「わずか9歳にして、そこまで、そなたは無常を観じておられるのか。
分かった。じゃあ、早速、得度の式をあげよう」
すぐ得度の式をあげられたといわれます。
仏教を求める時大切な心構えとは?
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「無常を観ずる」とは、
「無常」とは死のことですから、
死を見つめるということです。
これを「無常観」といって非常に大事な心構えなのです。
私たちが仏教を求める上でも、無常観が非常に非常に大切です。
そういうことを親鸞聖人は、ここで教えられているのです。
明日あると思っているのは本当か。
明日がないという人がある。
そしてその時が必ず来るのだということです。
もし、明日あるという心が正しければ、
この世で死ぬ人は誰もいなくなってしまいます。
なぜなら
「明日も生きていられる」という心は、
明日になればまた、
「明日も生きていられる」という心ですから
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ちょうど、後ろから光をあてると前に影ができますが
その影を踏もうとしてどんどん歩いて行くようなもので、
どこまでいっても影は踏めないのです。
ですから明日あるという心が正しければ、
この世で死ぬ人は誰もなくなるのです。
実際には全員死にますから、
明日あるというのは正しくないということです。
明日あると思っているのに
明日なくなるという時がやってきます。
お釈迦様は、
と経典に説かれています。
「出る息は、入る息を待たずして、命終わる」
出息入息 不待命終
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と読みます。
「出る息」とは、吐く息です。
「入る息」とは、吸う息です。
吐いた息が吸えなければ、その時から後生です。
吸った息が吐き出さなければ、その時から後生です。
後生は吸う息吐く息にふれあっている問題なんだ。
そんな遠い先ではありませんよ。
今にふれあう問題なんですよ。
出息入息不待命終ですよ。
仏法に明日はない。
無常を見つめることが非常に大事なのです。
仏教の目的は後生の一大事の解決ですが
親鸞聖人は、9つにして照準がぴたっとあっていたのです。
そして、親鸞聖人が比叡山で20年間修行された目的は
この生死の一大事の解決一つだったのです。
お金が儲かるとか、
病気が治るとか、
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成績が上がるとか、
出世できるとか、
実生活に仏教を役立てたいというのは、
仏教を求める目的ではないんです。
何のために生きているのか分からずに苦しんでいる私たちに、
本当の生きる目的を教えられたのが仏教です。
本当の生きる目的を果たすためにお金や健康が大事なのですから
お金や病気治し、実生活のために仏教を生かしたいと考えている人は、
目的と手段の関係が分かっていないのです。
仏教の目的は、ただ一つ、生死の一大事を解決して、本当の幸せになるこ
とです。
20年の煩悩との戦いで知らされたことは?
それで、親鸞聖人は、9歳から29歳まで
20年間、比叡山で仏道修行をなされました。
何をなされたかというと、「煩悩との格闘」です。
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格闘とは戦うということです。
煩悩と戦っておられた
「煩悩」は、一人が108ありますが、
最も私たちを苦しめるものに、
貪欲、瞋恚、愚痴の3つがあります。
「貪欲」とは、欲の心、
「瞋恚」とは、怒りの心
「愚痴」とは、ねたみ、そねみ、うらみの心です。
欲の心によって私たちは
限りなくものを求めて、手に入らずに苦しみます。
それで、これらの心と戦って、
何とか抑えて抑えて、できればなくそうという修行です。
しかも、私たちはこの煩悩によって悪を造ります。
食欲によって、生き物を殺して食べるとか
怒りによって殺したり、
ねたみやそねみ、うらみの心で殺したりする。
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煩悩によって悪を造ったら、
死んでいいところへはいけないとハッキリしていますので、
親鸞聖人は、死ねばどこへ行くのか
後生が苦になって仏道を求めておられたので、
悪いことを何とかやめよう、
悪を造らないようにしよう。
煩悩を抑えようと格闘されたのです。
「あれがしたい」
「だめだ」
「これがしたい」
「だめだ」
と戦って、20年間、命懸けでご修行なされた。
大曼の難行という大変な難しい修行までなされた。
何とか悪を造らないようにと
煩悩との格闘を20年間されました。
ところが、欲の心を抑えようとすればするほど噴き上がってくる。
どうしてもなくすことができない
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その難行苦行の末、知らされられたことは、こう記されています。
「定水を凝すと雖も」とは、
「定水」とは、波一つない静かな水面のような心です。
比叡山は、京都と滋賀県の間にある滋賀県の山なので、
琵琶湖が見えます。
親鸞聖人が、比叡山から、琵琶湖を見られると、
その琵琶湖の湖水は鏡のように静まっています。
「ああ、あの湖水のように、私の心は、なぜ静まらないのか。
静めようとすればするほど、散り乱れる。」
「識浪頻りに動き」とは、
「識浪」とは心の波です。
静めようとすればするほど心の浪が頻りに動く。
定水を凝すと雖も識浪頻に動き、心月を観ずと雖も妄雲猶覆う、
而るに一息追がざれば千載に長く往く、何ぞ浮生の交衆を貪って
徒に仮名の修学に疲れん、須らく勢利を抛って直に出離を悕うべし。
(歎徳文)
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「心月を観ずと雖も妄雲なお覆う」とは
「心月」とは、さとりの月ということです。
まっ暗な心の中に、あの明るい月のようなさとりの月を拝みたい。
明るい心になりたいと思うけれど、
「妄雲なお覆う」とは、
みだらな雲がわきおこり、さとりの月を隠してしまう。
欲や怒りや愚痴の煩悩の群雲が、さとりの月を覆い隠してしまうのだ。
「どうして親鸞の心はどうにもならないのか……」
これは「煩悩具足」だからです。
「煩悩具足」とは、
「煩悩」とは、欲や怒りや愚痴の私たちを煩わせ、悩ませるものです。
「具足」とは、それでできているということで、これ以外に何もない、
煩悩100%なのが私たちだということです。
欲の心100%なら、欲をなくしたら私がなくなってしまいます。
だから、抑えようとすればするほど噴き上がって、
とてもなくすことはできなかったと
親鸞聖人は、煩悩に泣かれたのです。
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そして、こんな心のまま、
「一息追がざれば千載に長く往く」
死ねば永遠に苦しみ続けなければならない。
「何ぞ浮生の交衆を貪って」
「浮生の交衆」とは、世間のつきあいです。
どうして世間のつきあいなんかをむさぼって
「徒に仮名の修学に疲れん」
「仮名の修学」とは、はかない修行や学問です。
そんなことをやっている場合ではないんだ、
なぜこんなことに無駄に疲れなければならないのか。
「須らく勢利を抛って」とは、
「勢利」とは、権勢や利益、世間事ということです
世間事をなげうって
「直に出離を悕うべし」
「出離」とは、苦しみの世界から離れることです。
今、一息切れたら永遠に苦しみ続けなければならない。
こんな世間事などやっている場合ではない。
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一切を投げ捨てて、ここ一つ、生死の一大事の解決を求めねば。
「直に」とは真っ先に、
今すぐ生死の一大事の解決がつく所まで求めなさい、
ということです。
29歳で山を下り、救われた親鸞聖人
このように親鸞聖人は、煩悩に泣かれ、
とてもこのお山の仏教で救われるような者ではなかったと、
泣く泣く比叡山をおりられたのは29歳の時でした。
そして
「どこかにこんな親鸞でも救われる教えはないか、
こんな親鸞を導きたもう大徳がおられないか」
京都の町を夢遊病者のようにさまよっておられた時、
四条の大橋で、かつての比叡山でのお友達であった、
聖覚法印とばったり出会われたのです。
その聖覚法印の紹介で、
吉水の法然上人という方にあわれ、
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真実の仏教を聞かれるようになりました。
そして29歳の時、
無明の闇が破られ、未来永遠の幸福に生かされたと言われています。
「愚禿釈の鸞」とは、親鸞聖人のことです。
「この親鸞は」ということです。
「建仁辛酉の暦」とは、
「建仁」とは年号です。
令和とか平成とか昭和のようなもので、「建仁」という時代です。
「辛酉の暦」というのは、建仁元年にあたります。
これはちょうど親鸞聖人29歳の時でした。
親鸞聖人は、29歳の時、無明の闇が破られ、
永遠の幸福に救われた
と記されています。
その喜びを教行信証の最後に、こう記されています。
愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて、本願に帰す。
(教行信証)
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そして最後の最後に、教行信証を書かれた目的をこう記されています。
この本を読む人の中には、
信ずる人もあるだろう、
謗る人もあるだろう、
しかし、いずれも、真実の仏教によって
永遠の幸福に救われてもらいたい。
そう念ずるばかりである。
ですから、どんな人でも、真実の仏教を聞けば
未来永遠の幸福になれるのです。
親鸞聖人は、比叡山で煩悩に泣かれたんですが、
よろこばしきかな。心を不倒の仏地に樹て、不思議の世界に
生かされた親鸞は、 なんと幸せ者なのか。ますます如来の慈愛の
深きを知らされ、 師教の高恩を仰がずにおれない。
限りなきよろこびは、返し切れない報恩に親鸞を泣かす。
この弥陀の大恩を念う時、世間の恥辱など、ものの数では
ありえない。 (教行信証後序)
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私たちは、聞法の座でなくのです。
修行はしませんが、仏教は聴聞に極まる。
「今日こそは真剣に聞いてくるぞ」
「ここ一つ聞き抜かずばおくまい」
「今日こそは、今日こそは」
と聞くのです。
この心がないと、仏教は聞けないということです。
そうやって何とか何とかと真剣に聞くんですが、
心があっち飛び、こっち飛びして定まらない。
それでも何とか生死の一大事の解決をしたいと、
真剣に聞くのですが、
煩悩に邪魔されてなかなか仏法が聞けない。
だから私たちは泣くのです。
無明の闇が破られ、人間に生まれてよかったという喜びの身になるのは、
仏教は聴聞に極まるの一本道です。
このコースを受講された皆さんには、ぜひそこまで
聞き抜いて頂きたいと思います。
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まとめ
親鸞聖人は、4歳でお父さんを、8歳でお母さんを亡くされ、
「次に死んで行くのはおれの番だ、死ねばどうなるのだろう」と
9歳で仏門に入られました。
その時にこう歌われています。
明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは
「今を盛りと咲く花も夜半に吹く一陣の嵐で散ってしまいます。
人の命は、その桜の花よりもはかないものと聞いております。
明日と言わずどうか今日、出家得度の式をあげて頂けないでしょうか」
「明日あり」と思う心、明日も生きていられるという心が間違いなんですよ。
「仏法に明日はない」
我が身の後生を今にとりつめなければならない。
「無常観」を教えられています。
私たちが仏教を求める上でも、とても大切です。
そして20年間、欲や怒りや愚痴の煩悩と格闘され、
仏教という法の鏡で本当の自分のすがたを照らし出され、
煩悩に泣かれたのです。これは「罪悪観」を教えられています。
そして29歳の時、泣く泣く山を下りられた親鸞聖人は、
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吉水の法然上人から真実の仏教を聞かれ、
未来永遠の幸福に救われたと言われています。
このように、親鸞聖人は、比叡山で泣かれたんですが、
私たちは、聞法会場で、
何とかここ一つと、聞かせて頂かなければならない
ということです。
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覚えましょう
定水じょうすい
を凝こ ら
すと雖いえど
も識浪頻しきろうしきり
に動う ご
き、心月しんがつ
を観かん
ずと雖いえど
も妄雲も う うん
猶覆なおおお
う、
而しか
るに一息ひといき
追つ
がざれば千載せんざい
に長なが
く往ゆ
く、何なん
ぞ浮生ふしょ う
の交衆こうしゅう
を貪むさぼ
って
徒いたずら
に仮名けみょう
の修学しゅうがく
に疲つか
れん、須すべか
らく勢利せ い り
を抛なげう
って直ただち
に出離しゅっり
を悕ねが
うべ
し。
(歎徳文たんどくもん
)
愚禿釈ぐ と く し ゃ く
の鸞らん
、建仁けんにん
辛酉かのとのとり
の暦れき
、雑行ぞうぎょう
を棄す
てて、本願ほんがん
に帰き
す。
(教行信証きょうぎょうしんしょう
)
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