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内外満 学 ・清史 研 究剳 記 中見 立夫 1.ハンガ リー 所在 モ ンゴル語 ・満洲 語鈔刊 本 目録 昨 年 度 本 誌 発 行 以 降 に知 りえ た 研 究 情 報 の な か で,ま ず 御 紹 介 す べ き は,ハ ンガ リー 科 学 ア カ デ ミー所蔵 モ ン ゴル語 ・満洲語鈔 刊本 目録 が, TheA40ngolandManchuManuscriptsandBiockiprintsintheLibra,yoftheHungarianAc Sciences,describedbyG.Kara(Budapest:Akad6miaiKiad6,2000),x+603p.+8figs.. して出版 され とで ある。本 目録 ドラ フ ト は,大 まえ に完成 してお り,編 のカ ラ教授 らブル ミン トンの研 室でみぜ ていただ いた ことが あ る が,無 事,刊 され たこ とを慶 びた い。 され たモ ゴル語鈔 刊本 は326items,満洲 語 鈔 刊 本 が35itemsであ る が,こ 冒録 の刊行 っ て,ほ ヨー ロッパ ・北 米 主要研 究機 関に保管 され る満 洲語古 典籍 の概 要が らかに った と推 され る。序 よれ ば,満 洲本の収集 は,B61aSz6chenyi伯 の東ア ジア探検 隊の メン っ た,Gabriel(Gabor)BalintofSzentkatolna〈1844-1913)が 将来 した木版本 には じま り,Louis Ligeti(1902-1987)に よる 内モ ゴル での調査 成果 が加 り,さ らに はカ ラ教 の岱父 も あ る, Y.Rinchen(1905-1977)か ら贈 られ たもの もふ くまれ ている とい う。 目録 に収録 され た満 洲語本 に つ い て,"ManchuTitles-ThematicalIndex"か ら内容 を追 ってみ ば,"Administration";3件,"ChineseClassics,':12件,"Dictionaries"二221牛,"Grammar"二 "Literature":11件 ,"Law":1件,"Newspapers":2件,"Religion":2件,"Textbooks";4件 らな る。 し た"35items"との 記 述 と件数が一致 し な い の は,モ ンゴル語 レクシ ョン として分 されて ものが あ る 一 方,1itemの かに数 件がふ くまれてい る場合 もあるこ とに よる。個 人的に興味 かれ たの は,"Man.19:Newsletters"と して あげ られ てい る,"Fifteenissuesofalithographed newspaperfromManchuria,1930-31"の 存在 であ り,タ トル は"leedonji-iboolabun"。 しか も,"Daur numeralsinMerse【 り郭 道 甫1'sLatinscriptrepeatthenumberoftheissueinthedateonther sideofthetitle"と しる され てい る。 この 「新 聞 」 は,前 リゲ ィが将 した もの。 ちなみ に,本 目録 編者 であ る,カ ラ教授 は, i)attricain(=γ,'iliicScript,(Deb重er:Materia}sf〈)rCen重ralAsiaticandAlta董cStud董esiO-ll), re-editedbyG.Kara(Budapest:K6pir6,1995),蓋8+42+96+67+47+64+159p. と い う資 料 集 も覆 印 され て い る。 つ い で な が ら,故JosephFletcher旧 蔵 本 と い う よ り は,FrancisW.Cleaves収 集本も加わったバー 一156一

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Page 1: à O w E ´ j ¤ L

内外満学 ・清史研究剳記

中見 立夫

1.ハ ンガ リー 所在 モ ンゴル語 ・満洲 語鈔刊 本 目録

昨年度本誌発行以降に知 りえた研究情報のなかで,ま ず御紹介すべきは,ハ ンガ リー科学アカ

デ ミー所蔵モンゴル語 ・満洲語鈔刊本 目録が,

TheA40ngolandManchuManuscriptsandBiockiprintsintheLibra,yoftheHungarianAcademyof

Sciences,describedbyG.Kara(Budapest:Akad6miaiKiad6,2000),x+603p.+8figs..

と し て 出 版 され た こ と で あ る 。 本 目 録 の ドラ フ トは,大 分 ま え に 完 成 し て お り,編 者 の カ ラ 教 授

か ら ブ ル ー ミ ン ト ン の 研 究 室 で み ぜ て い た だ い た こ と が あ る が,無 事,刊 行 さ れ た こ と を 慶 び た

い 。 著 録 さ れ た モ ン ゴ ル 語 鈔 刊 本 は326items,満 洲 語 鈔 刊 本 が35itemsで あ る が,こ の 冒録 の 刊 行

を も っ て,ほ ぼ ヨ ー ロ ッ パ ・北 米 主 要 研 究 機 関 に 保 管 さ れ る 満 洲 語 古 典 籍 の 概 要 が あ き ら か に な

っ た か と 推 察 さ れ る 。 序 に よ れ ば,満 洲 本 の 収 集 は,B61aSz6chenyi伯 爵 の 東 ア ジ ア 探 検 隊 の メ ン

バ ー だ っ た,Gabriel(Gabor)BalintofSzentkatolna〈1844-1913)が 将 来 し た 木 版 本 に は じ ま り,Louis

Ligeti(1902-1987)に よ る 内 モ ン ゴ ル で の 調 査 成 果 が 加 わ り,さ ら に は カ ラ 教 授 の 岱 父 で も あ る,

Y.Rinchen(1905-1977)か ら贈 られ た も の も ふ く ま れ て い る と い う。

上 記 目録 に 収 録 さ れ た 満 洲 語 本 に つ い て,"ManchuTitles-ThematicalIndex"か ら 内 容 を 追 っ て み

れ ば,"Administration";3件,"ChineseClassics,':12件,"Dictionaries"二221牛,"Grammar"二5件,

"Literature":11件,"Law":1件,"Newspapers":2件,"Religion":2件,"Textbooks";4件 か ら な る 。

前 記 し た"35items"と の 記 述 と 件 数 が 一 致 し な い の は,モ ン ゴ ル 語 コ レ ク シ ョ ン と し て 分 類 さ れ て

い る も の が あ る 一 方,1itemの な か に 数 件 が ふ く ま れ て い る 場 合 も あ る こ と に よ る 。 個 人 的 に 興 味

を ひ か れ た の は,"Man.19:Newsletters"と して あ げ られ て い る,"Fifteenissuesofalithographed

newspaperfromManchuria,1930-31"の 存 在 で あ り,タ イ トル は"leedonji-iboolabun"。 しか も,"Daur

numeralsinMerse【 つ ま り 郭 道 甫1'sLatinscriptrepeatthenumberoftheissueinthedateontheright

sideofthetitle"と し る さ れ て い る 。 こ の 「新 聞 」 は,前 記 リゲ テ ィ が 将 来 し た も の 。 ち な み に,本

目 録 編 者 で あ る,カ ラ 教 授 は,

i)attricain(=γ,'iliicScript,(Deb重er:Materia}sf〈)rCen重ralAsiaticandAlta董cStud董esiO-ll),

re-editedbyG.Kara(Budapest:K6pir6,1995),蓋8+42+96+67+47+64+159p.

と い う資 料 集 も覆 印 され て い る。

つ い で な が ら,故JosephFletcher旧 蔵 本 とい うよ りは,FrancisW.Cleaves収 集 本 も加 わ った バ ー

一156一

Page 2: à O w E ´ j ¤ L

ヴァー ド大学燕京研究所漢和図書館所蔵満洲語本 コレクシ ョンに関しては,近 く出版され る同図

書館記念誌に紹介され る旨,ご く最近,JamesBosson教 授か ら伺った。また,フ レッチャー一氏へ

譲 られた満洲語典籍な どをのぞく,没 年までクリーヴス教授が愛蔵 していた文献コレクションに

ついては,西 洋語古典図書の一部が売却されたほかは,依 然 として,同 氏が暮 らした農場近 くの

教会倉庫にあるよ うだ。

2.北 京で出版 された 「整理重印本満文大蔵経」

つぎに,一 昨(200!)EFだ ったか,本 会会員諸氏のもとへ,北 京からカラー一・q]刷の立派な,f満 文

大蔵経」の 「整理重印本」 に関する出版案内が届けられたかとお もう。 「満文大蔵経」とは,乾 隆

五十五(1790)年 に刻成 された,「 清代内務府満文原刻朱色初印本」で,わ ずかに12部 のみ刷 られた

とい う。かつて 日露戦争の際に,当 時の奉天 ・北塔法輪寺にあった,こ の 「満文大蔵経」,た だ完

本ではな くて 「残缺本」が,日 本へもたらされたものの,の ちの関東大震災のとき東京帝国大学

附属図書館で罹災した。 この顛末に関しては,以 前,

拙稿 「日本にあったチベ ット語 ・満洲語 ・モンゴル語大蔵経 をめぐって」,神 田信夫編 『日本

所在清代档案の諸相』(東 洋文庫清代史研究室,1993年3月),105-118頁 。

として書いたことがある。

この ジ満文大蔵経」 自体については,台 湾の荘吉発氏ぶ北京の故宮博物院所蔵分 をもふくめて

調査[参 照,同 氏 「《清文大蔵経》與満文研究」『清史随筆』(台北:博 揚文化事業有限公司,民 国85

年),181-192頁;「 国立故宮博物院典蔵 《大蔵経》満文訳本研 究」『清史論集(三)』(台 北=文 史

哲出版社,民 国87年),27-95頁]さ れているほか,関 連業績 としては,潘 淑碧女史の 「地蔵菩薩

本願経」研究[国 立故宮博物院編輯委員会 『満漢文地蔵菩薩本願経校註』(台北:国 立故宮博物院,

民国84年),15+292+69頁],林 士鉉氏による 「般若心経」に関する論文[「 清代満文訳本 《般若

波羅密多心経》初探」『大専学生佛学論文集』第十二輯(民 国91年),514-570頁]な どが あり,さ

らに本会会員,小 池隆氏も私家版論考,「満州語訳 『般若心経』(註 演 ・玄奘〉の成立史 とその試

訳」をまとめられている。

ちなみに上掲拙稿 は,タ イ トルからもおわか りいただけるとおもうが,「満文大蔵経」だけでは

な く,戦 前期 の 日本へ将来 された,チ ベ ッ ト語 ・モンゴル語大蔵経にっいても論及 しているが,

意外な反響(?)を うるに至った。内モンゴル社会科学院のシ ョンホル氏は,モ ンゴル語大蔵経

を専門とす る篤学な研究者だが,わ たくしの論文を読まれた結果,現 在は内モンゴル社会科学院

が所蔵する,モ ンゴル語の金字経について,日 露戦争のとき目本へ搬入 され,こ れ また関東大震

災の折に焼失 した,奉 天 ・黄寺に由来するモンゴル語大蔵経の残 りの部分 と推定されたのである。

っまり,一 部が 日本にもたらされ,残 余の部分が紆余曲折 をへて,戦 後,内 モンゴル 社会科学院

一157一

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の所有するところとなったとする。数年前,シ ョンホル氏が来 日され,東 洋文庫で報告をされた

とき,こ の説 をのべ られたが,わ たくしとしては賛同 しかねるものの,そ うい う見解があること

を御紹介 してお く。

さて問題の 「満文大蔵経」だが,全 部で108函(夾)699部,2466巻 か らなるが,76函 は北京の

故宮博物院に,32函 が台北の国立故宮博物院に保管されている。 日本にあった奉天 ・北塔法輪寺

本が焼亡 したことは前述 したが,戦 前は承徳の熱河離宮外八廟にもあり,い わゆる満洲事変のの

ち,日 本外務省文化事業部の水野梅暁師が保存に尽力されたが,戦 後の混乱で行方不明となって

いる。今回の 「出版」は,は じめ伝えられた時点では,北 京の故宮に保管 され る 「原刻梨木経版」

を使 い刷 り,夾 板なども原本のごとく覆製するとい うことであったが,ど うも 「原刻経版」はす

べて残 されている訳ではないようで,台 北故宮博物院所蔵分は写真複製 して補 う予定 と聞いた。

ともあれ予価 も驚 くべき値段であり,は た して刊行へと漕ぎ着け られ るかとお もっていた。

ところが,昨 年12月,台 北故宮が主催 した 「十八世紀的中国與世界学術研討会」に出席 した際,

台北故宮関係者および北京故宮か ら参加 された羅文華氏から,意 外なことの展開を伺った。っま

り,台 北故宮は北京故宮不足分を握供するに当た り,台 北の 「国立故宮博物院」所蔵であること

を明示するよう希望 した らしいが,「 国立」 とするのを北京故宮は受け入れず,妥 協に達 しなかっ

たとい う。北京故宮は国内で不足分を探 し,結 果的にラサでみつけ,刊 行へ至ったとい う。そ し

て,台 湾から帰国後ほどなく,羅 氏から最新案内が送 られてきた。最初 に送 られてきた案内と,

この度のものでは,掲 載情報に若干の相違があることも判明した。まず,最 初の案内では,

原書刻版48,025塊,共96,050頁 。全書宣紙朱印,三 層被褶。貝葉爽装。経書裏以紅色織錦経被,

外包明黄色倣宋錦面六面函套。成書尺寸710×245mm,依 故宮博物院蔵原刻版刷印、缺版照故

宮博物院原印本増補,共 存82050頁 。

とあ り,定 価は60万 人民元,20部 発行 とあった。 ところが,今 回の案内では,発 行部数,20部 に

関 しては変更ないが,

原=書刻版48,211塊,共 ・96,422頁 。全書宣紙朱印,三 層俵楷。貝葉夾装。経書裏以紅色織錦経

被,外 包明黄色倣宋錦面六面函套。成書尺寸73厘 米 ×24.5厘 米,依 故宮博物院蔵原刻版刷印。

缺版照故宮博物院及西蔵布達拉宮蔵原印本補全。

とす る。定価は80万 人民元,2003年 末まで有効。いずれにせよ,全 葉の約半分強が 「原刻経版」

か ら刷 られたよ うだ。

日本に是非 とも 「満文大蔵経」を将来 したいとい うのは,前 世紀はじめに高楠順次郎そして内

藤湖南がいだいた強い意志であり,そ のことにっいては前掲拙稿でふれた。 当時においては,一

種の"文 化的ナ ショナ リズム"の 発露であったかもしれないが,今 日的視点からみれば,"文 化的

帝国主義"な いしは"オ リエンタリズム"に もとつく行動 としてとらえられるかもしれない。今

回は 中国自身の発意による出版だが,日 本 には日本大学を筆頭に,早 稲 田大学,東 北大学,そ し

て筑 波大学 と,東 北アジア関係文献を精力的に収集 している財政優良な,有 力大学が存在する。

一158-一

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ドイツ国立図書館 も購入を検討 しているとの由だが,こ の種の資料は,日 本国内機関で重複 して2

セ ットも求める必要はない。是非どこかで入手 され,ひ ろく公開 していただきたい と期待するの

は,弱 小 ・貧窮国立研 究所に奉職するものの願いである。

3.北 京 ・首都 図書館 所蔵F百 二老人語録」鈔 本,お よび満 洲本 につ いて

昨 年 も,あ れ これ 清 史 ・ア ル タ イ 学 関 係 の 国 際 会議 が 多 く開 催 され た 年 で あ っ た。 ウラ ー ン バ

ー トル に お け る第 八 回 国 際 モ ン ゴル 学 者 大 会(TheEighthInternationalCongressofMongolists)の あ

と,北 京 へ 戻 っ た が,翌 々 日か ら,中 央 民 族 大 学 主催 の アル タ イ 語 学 に 関 す る 国 際 シ ン ポ ジ ウム

が 開 催 され る こ とを 知 っ た 。 実 は,当 該 会 議 の 招 待状 は 随 分 ま え に い た だ い て い た も の の,す っ

か り忘 れ て い た 。 折 角,北 京 に い る こ とで も あ り,す こ しで も の ぞ い てみ る こ と と した 。 そ して

会 場 にお い て,ウ ラ ー ンバ ー トル で はお 会 い で き な か っ た,成 百 仁,清 格 尓 泰,照 那 斯 図 な どの,

言 語 学 方 面 の 旧 友 諸 氏 とお 目に か か る こ とが で き た。

も と も と,社 会 科 学 院 民 族 研 究所 に 用 事 が あ っ て伺 い,こ の会 議 の こ とを お も い だ した の だ が,

用 件 とは,首 都 図 書 館 訪 問 の た め,紹 介 状 を書 い て も ら うこ とで あ っ た 。 本 誌 読 者 は 御 承 知 の こ

と く,わ た く しは,意 図 せ ず して 「百 二 老 人 語 録 」 の 諸 鈔 本 追 跡 に 関 わ る 次 第 と な っ た が,い ま

の と こ ろ存 在 が 知 られ て い る 各 種 鈔 本 の な か で,唯 一,首 都 図 書 館 所 蔵 本 は 実 見 して い な い 。 首

都 図 書館 に も,一 鈔 本 が あ る こ とを 教 え て くれ た の は,黄 潤 華,屈 六生 主 編 『全 国 満 文 図 書 資 料

聨 合 目録 』(北 京:書 目文 献 出 版 社,1991年)で あ る が,こ の 首 都 図 書 館 本 を 「六 巻 六 冊 」(同 書,10

頁)と して い る。 も し も完 本 で あ る とす れ ば,い ま だ 「百 二 老 人 語 録 」 諸 鈔 本 の な か に,「 六 巻 六

冊 」 と い う構 成 の も の は み た こ とが な い 。 お そ ら くは 誤 記 で あ ろ うと想 像 しな が ら も,是 非,調

べ て み た い と お もっ て い た が,折 か ら首 都 図書 館 が 国 子 監 の 場 所 か ら,か の 古 玩城 向 い に 巨 大 な

新 館 を建 造 して,移 転 中 で あ っ た こ と も あ り,機 会 を逃 して い た 。

さて 首 都 図 書 館 へ と赴 い た の だ が,正 確 に い え ば 同 図 書 館 は 新 装 移 転 して,開 館 し た も の の,

善本 室 は ま だ 開 い て お らず,「 善 本 ・古 籍 」 に分 類 され た 図 書 は,配 架 作 業 の 真 最 中 で あ っ た 。 し

か し応 対 い た だ い た 図 書 館 員 は,と て も親 切 な方 で あ り,め ざす 「百 二 老 人 語 録 」 鈔 本 を さ が し

だ して,み せ て い た だ い た 。 ま ず,'首 都 図 書 館 本 につ い て,そ の デ ー ター を しるす と,

満 漢 合 璧 鈔 本,八 巻 八 冊。 松 笏,富 倫 泰,富 俊 の序 をふ くむ 。 帙 に 貼 付 され た 題 箋 で は,満

洲 語 表 題 を"Emutanggaor孟nsakdaigisunsarkiyanibithe",漢 語表 題 を 「繙 譯 百 二 老 人 語 録 」

とす るが,各 冊 の 表 題 は,満 洲 語 で は"Emutanggaorinsakdaigisunsarkiyan",漢 語 は 「百 二

老 人 語 録 」 とす る。 各 巻 丁 数 と形 状 は,第 一 巻72丁;第 二 巻6藍丁;第 三 巻51丁;第 四 巻54丁

;第 五 巻,48葉;第 六 巻,50葉;第 七巻,61葉;第 八 巻,49葉 。満 漢 各8行,計16行 。25×17cm。

当 該 鈔 本 の 状 態,お よ び 満 洲 語 の字 体 もか な り良好 で は あ る が,つ め て 書 かれ,か な りあ た

一159一

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ら しい,

旧蔵 本 。

といっても清末ころに書写された鈔本ではないか と推定され る。北京の法文図書館

となる。

ともあれ,い ままでの 「百二老人語録」諸鈔本捜索のお さらいをす ると,現 在までに確認 され

ているf百 二老人語録」鈔本は,世 界10機 関に保管され,完 本にっいてみれば,満 漢合璧鈔本が,

モンゴル国立図書館,ロ シア科学アカデ ミー東洋学研究所サ ンク ト・ペテルブルグ支所,東 洋文

庫,遼 寧省図書館,そ して首都図書館 に各1本,計5種 。満文鈔本は,シ カゴ大学東アジア図書館,

大阪外国語大学附属図書館,モ ンゴル国立図書館,中 央民族大学図書館に各1本,計4種 。漢文鈔

本が中央研究院歴史語言研究所傅斯年図書館に1種,所 蔵 されてい る。不完本は,満 漢合璧鈔本が

中国国家図書館(北 京図書館)に2種,満 文鈔本はモンゴル国立図書館,ロ シア科学アカデ ミー東

洋学研究所サンク ト・ペテルブル グ支所に各1本,全 部で合計4種,存 在する。 さらに,い まのと

ころ原本 を特定できていない,不 完本満漢合壁鈔本の青焼き写真が1種,ロ シア科学アカデ ミー東

洋学研究所サンク ト・ペテルブル グ支所に保管 されている。

さて,首 都図書館訪閤の際,新 館開館を記念 して出版された,『 首都図書館館蔵珍品図録』(北

京 二学苑出版祉,2001年),158頁,と いうカラー版豪華図録 をお土産にいただいた。同書にもと

づ き,首 都図書館,お よびその収蔵す る図書の由来をしるす と,1913年 か ら17年 にかけて,北 洋

政府教育部は,京 師図書館,京 師通俗図書館,中 央公園図書閲覧所 を設立 したが,や がてゆるや

かに統合 されて北平市立図書館,っ いで 「北京解放」ののち北京市図書館とな り,そ して1956年10

月1旧 に,首 都 図書館 と改称 された。 この1913年 の開設から数 えて88年 目の2001年10月ll日 に,

新館が開館 したが,全 蔵書は270万 冊。そのなかで,線 装古籍は42万 冊(内,3万 冊が善本),外 国

語ない しは外国図書(っ ま り和刻本や韓籍 もふくめて)が30万 冊,中 文普通図書は200万 冊を数え

る。善本のなかには,宋 元珍本数十種,明 清善本五千種がふ くまれ るが,線 装古籍の来源で注 目

され るのは,孔 徳学校,法 文図書館,中 山図書館,財 政部実物庫などの旧機関からの接収図書,

そ して李宗仁,蕭 一山などの個人からの寄贈本が保管されていることである。

その所蔵する 「満文古籍」については,す でに漢語でタイ トルを拾った,古 籍部編 『首都図書

館館蔵満文古籍書 目』(2002年4月),11頁,が 作成 されてい る。この 目録に掲載 されている,同 館

満文文献は全136伶,内 訳は以下のとおり,

○ 「経部」/全78件/

「刻 本 」:

「石 印 本 」:

r影 印 本j:

満文

満漢二体

満蒙漢三体

満蒙蔵漢四体

満蒙漢三体

1

57

6

3

1

一i60-一

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「抄 本 」 ・

○ 「史 部 」/全14件/

「刻 本 」=

「油 印 本 」;

「影 印 本 」・

「抄 本 」:

○ 「子 部 」/全34件/

「刻 本 」1

「鉛 印 本 」:

「石 印 本 」:

「抄 本 」:

満文

満漢二体

満文

満漢二体

満蒙漢三体

満蒙漢三体

満文

満漢档案

満文

満漢二体

満蒙漢三体

【記述不備】

満漢二体

満漢二体

満蒙漢三体

○ 「集部」/全9件/

「刻 本」.満 文

満漢二体

「抄 本」:満 蒙二体

○ 「叢 部 」/全1件/

「刻 本 」: 満漢二体

1

6

3

4

2

1

2

1

1

5

18

2

1

2

5

3

4

2

1

総 じて,「 経部」の辞書類が多いのは,ほ かのコレクションともおな じであるが,成 百仁教授 に

よれば,同 館の満文辞書類は貴重なものが多いという。なお,上 記 目録に,す べての満洲語文献

が著録 されてい る訳ではない,こ れとは別に古籍部で教えていただいたデーターによると,同 館

には,満 文20種,満 漢合璧122種,蒙 文10種,蒙 漢合璧4種,満 蒙漢合璧32種,蔵 文4種,蔵 漢合璧2

種,満 蒙漢蔵合璧3種,の 古籍があるとい う。

さて首都図書館で,わ たくしへの応対をしてくださった女性館員にっいて,実 の ところ,い ま

まで 月本 をふ くめ各地の図書館で,こ れほど御親切に対応いただいた図書館員には会った ことが

ない,と い うほどの好印象をもった。 しかも彼女いわく,今 日ほど不思議な一 日はない。そこで,

その理由を伺 うと,午 前中に韓国か ら学者がきて満洲語の本を調べ,午 後には,わ た くしが現れ

一161一

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た。首都図書館へ満洲語の本 をみにくるひ となど,ま ず滅多にいない,こ んな一 日なんて,は じ

めてだ,と のたまわれ る。そこで,韓 国人学者とは,成 百仁先生かと問えば,そ うだといわれた。

なんの ことはない,め ざす ところは,お なじであった。翌日,成 先生 とお会い したときにも,こ

の女性 のことが話題になった。成先生 も,彼 女のことを絶賛され,韓 国に も,あ れほど親切な図

書館員はいない,と おっ しゃられた。成先生 ともども,こ ころか らの御礼を しるす次第である。

4.ニ ュー ヨー ク公 共図書館 の満 洲本

本(2003)年3月,米 国各地をまわった。米本土は,5・6年 ぶ りだが,こ と清史 ・満学方面では,

とりたてておおきな変化はどこにもみ られない。もっとも,た とえばスタンフォー ド大学フー ヴ

ァー研究所図書館は,フ ー ヴァー研究所から離れ,大 学附属図書館に移管 されていた(文 書館は,

研 究所 に依然 として所属 している)し,議 会図書館東洋部のあた らしいオ フィス,閲 覧室をみた

のは,今 回がは じめてであった。ニューヨークでは,公 共図書館(TheNewYorkPublicLibrary)を

訪問 したが,主 たる目的は,ス ラブ部門の資料をみることにあったものの,以 前お世話になった,

ア ジア ・中東部門の責任者,Dr.JohnM.Lundquistも 御健在で暖かく迎えてくださった。同図書館

は,SpencerCollectionを もふ くむ 日本古典籍コレクションなどでも知 られる。もっとも,一 般に米

国の学術図書館では,東 アジア関係資料については,収 集の重点が新刊本 にあり,し か も予算の

関係 もあって,っ ま り日本,韓 国,そ して中国 ・台湾からの新刊書の単価が,か ってとは比較に

な らぬほ ど高くなっているがゆえに,十 分に収集ができない とい う共通 した問題がある。 当然の

ことなが ら,寄 贈は別 として,古 典籍の類を集めることは,予 算の うえでも,そ して図書館スタ

ッフの知識の面からもむずかしい状況にある。

このニューヨー ク公共図書館には,数 十件の満洲語文献コレクションがあるものの,あ ま り重

要な ものはふくまれていないことについて,60年 代は じめに同館を訪ね られた神 田信夫先生が,

「"満漢同文分類全書"が やや 目につく外は特にいふ度のものはない」[同 氏 「欧米現存の満洲語

文献」『東洋学報』第48巻 第2号(1965年9月),77頁]と 看破 されたとお りである。なお,同 館満

洲語古典籍 の概要に関 しては,ふ るく

"TheManchus,alistofrefcrencesintheNewYQrkPublicLibrary",compiledbyJohnLMish,

、BulletineftheNewYerkPtiblicLibraノ アofNovember,1947,P・ ト5・

が あ り,つ い で 近 年 に 至 り,TatjanaA.Pang女 史 が ニ ュ ー ヨー ク滞 在 中,目 録 稿 を 作 成 され て,同

館 へ 提 出 され た もの の,い ま だ に刊 行 は され て い な い 。 む しろ,わ た く しが 関 心 を も っ た の は,

そ の 後 に,な に か 古 典 籍 の類 で 追 加 収 集 は な い か との 点 で あ り,ル ン ドク イ ス ト博 士 に お 尋 ね し

た と こ ろ,さ っ そ く書 庫 に 案 内 され,新 コ レク シ ョン を拝 見 す る こ とが で き た。

新 収 コ レ ク シ ョン は,同 治,嘉 慶の 誥命3件,殿 版 の 「御 製 勧 善 要 言 」 な ど で あ っ た が,い ず れ

一162一

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も英 国 の 古 書 肆 か ら1998年 に 入 手 され た との 由 で あ り,お 教 え い た だ い た 購 入 価 格 も ほ ぼ 適 正 と

お も わ れ る。 誥 命 は,ほ か に も1件 あ り,博 士 が 承 徳旅 行 中 に 求 め られ た と の こ とで あ るが,ま っ

か な 偽 物 。 こ の 偽 誥 命 は,パ ン女 史 も御 覧 に な っ た よ うで,す で に 指 摘 が あ っ た とい う。 ル ン ド

クイ ス ト博 士 は,シ カ ゴ大 学 にお い て 古 代 中近 東 研 究 で 学 位 を取 得 し,ブ リガ ム ・ヤ ン グ大 学 教

授 を へ て,ニ ュ ー ヨー ク公 共 図 書 館 の"ChlefLibrarianoftheAsianandMiddleEastemDivision"に 転

じ られ た 方 で あ る 。 責 任 者 が熱 心 で あれ ば,古 典 籍 の収 集 も継 続 され うる とい う実 例 か 。

5.厂 満 洲 実 録」 余 話

ニューヨー ク公共図書館では,中 国書店か ら買ったという,遼 寧通志館版 「満洲実録」影印本

も,新 収コレクションのひ とつ としてでてきたが,こ となる"edition"としてもって こられた,1948

年に同館が入手 した満洲国国務院版 「満洲実録1影 印本の方へ気をひかれた。い うまでもないが,

満 ・蒙 ・漢字三体そろった,完 全な 「満洲実録」の影印本は,1936年 の満洲国国務院発行,東 京

・大蔵出版株式会社印刷による 「大清歴朝実録」影印本のなかで刊行 された。正確にいえば,「 大

清歴朝実録ゴ第一帙は,第 】~8冊 「満洲実録」と,第9~10冊 「大清太祖高皇帝実録」か らなる。

この満洲国国務院版 「大清歴朝実録」は,全 部で300部 作成 されたが,高 級和紙を用いた"上 製本"100

部と普通紙 による"並 製本"200部 があ り,し かも"上 製本"の うちで,と くに3部 は,「 綾子jで

「封面」や 「套子」をつ くり,満 洲国皇帝,日 本天皇,お よび 日満文化協会名誉総裁で あ り,溥

儀の実父,醇 親王へ献上された。この次第は,拙 稿 「艮本人与 《実録》」,中 国第一歴史档案館編

『明清档案与歴史研究論文集一慶祝中国第一歴史档案館成立70周 年一』(北京:中 国友誼出版公 司,

2000年),305-321頁,で ふれ ておいた。

のちに言及す る,い わゆる 「李朝実録」,正確には 「朝鮮王朝実録」は,影 印本として最初 に1932

年,京 城帝国大学から,わ ずか30部,出 版 されたにすぎない。のみならず,こ の京城帝 国大学版

は,お もに 日本内地の帝国大学附属図書館などに送られたため,今 日,韓 国および 日本 以外の諸

国で所蔵す る機関は非常にす くない。 しか も京城帝国大学版 「李朝実録」は,定 価をつ けて,い

わば予約販売のよ うな形式で頒布された可能性があることにっいて,以 前,指 摘 した ことが ある。

[拙稿 「稲葉岩吉の旧蔵=書を追って」『平成12年 科学研究費補助金研究成果中間報告書:台 湾 ・朝

鮮 ・満州に設立された 日本植民地期各種図書館所蔵 日本古典籍の書誌的研究』(平 成13年),30-33

頁を参照されたい]こ の点に関して,最 近,朝 鮮総督府中枢院編 『李朝法典考』(昭 和11年)を み

ていたところ,「 李朝実録は,昭 和七年印景本二十部の予約を募 り大学 ・図書館及重要官庁 に頒つ

た」(同 書,4頁)と の記述にであった。 「印景本二十部」 は上述 したように,30部 の誤 りではある

が,あ るいは10部 は寄贈用,20部 が頒布用であったかもしれない。

このような形での京城帝大版 「李朝実録」出版に対 して,満 洲国国務院版 「大清歴朝実録 」は,

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刊行 当時の満洲国の方針 もあって,か な り広範に諸外国図書館 ・研究機関に寄贈 されてお り,西

ヨーロッパ ・北米の主要東洋学研究図書館には所蔵されている。 しかも戦前の"在 満"日 本古書

店 のカタログをみると,商 品として販売されており,発 行部数 も多 く,安 価ではないが,入 手は

比較的容易であった と推測 される。さらに,日 本の敗戦後も,奉 天国立図書館を受け継いだ東北

図書館 には,こ の満洲国国務院版 「大清歴朝実録」の余部がス トックされていたようであ り,ソ

連の レーニン図書館へ寄贈 されたとい う記事を,中 国の雑誌で読んだことがある。また,中 国国

内図書館 ・学術機関へも,配 布がおこなわれたようであり,た とえば,内 モンゴル 自治区フフ ・

ホ トでも内モンゴル大学図書館,内 モンゴル 自治区図書館にあり,そ のほか,中 国の主要大学図

書館にあるところをお もえば,か なりゆきわたっているといえる。 したがって,「 短命に終った満

洲国の最大の文化事業の一一っ」[和 田清 「批評と紹介:普 及版f李 朝実録」の刊行」『史学雑誌』

第63編 第2号 く1954年2月),82頁]と の指摘は的をえている。

当然のことながら,日 本ででている多くの清史資料解題などには,完 全な 「満洲実録」の影印

本が,1936年 の満洲国版 「大清歴朝実録」のなかで出版 された としてお り,そ のような記述は間

違いではない。 ところが,こ の とき同時に,お なじ体裁で,「 満洲実録」全8冊 一帙 も,満 洲国国

務院発行,大 蔵出版株式会社印刷で,刊 行されていた。大分まえのことだが,た またま某古書店

のカタログで,満 洲国版 「満洲実録」なるものがでているのを知ったが,日 ごろ吉書などを求め

ることがほとん どな く,古 書店ともおつきあいの乏 しい,わ たくしのよ うな身分のものの手に入

ることな どあ りえない。そ して数年まえに,東 洋文庫が満洲国版 「満洲実録」を購入 して,は じ

めて 「満洲実録」だけの覆製版 を目に した。ニュー ヨーク公共図書館が所蔵するのも同一版 で,

おそ らく,戦 後の東京か北京から購得されたものであろ う。

いったい,「満洲実録」のみの満洲国版影印本が,ど れだけの数だされたかはわか らないが,需

要か らみて,さ したる部数とはおもわれない。もともと,f満 洲実録」はほかの 「大清歴朝実録」

所 収各朝実録 とは,や や異質なものであったが,こ れを冒頭 に加えたのは,満 洲国版 「大清歴朝

実録」刊行事業の提起者であった,羽 田亨そして内藤湖南あた りの発意か とおもわれ る。内藤,

羽 田は1912年 に当時の奉天へ赴 き,「満文老档」,「五体清文鑑」そ して 「満洲実録」の写真撮影 を

めざ した。おおむね 目的は達 したものの,「満洲実録」だけは不首尾に終わった。 このときの交渉

経緯は,中 国 と日本の外務省記録にも残されている。匚拙稿 「日本の東洋史学黎明期における史料

への探求」,神 田信夫先生古稀記念論集編纂委員会編 『神田信夫先生古稀記念論集:清 朝と東アジ

ア』(山 川出版社,1992年3月),97-126頁 を参照されたい]と もあれ,ほ ぼ四半世紀ののちに,

ふた りの宿願は果たされたといえよう。

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6.「 李朝実録」拾 遺

さて,京 城帝国大学版 「李朝実録」の刊行後,戦 後の韓国においては,三946年 から京城帝大版

を半分に縮小 した線装本版がでたが,朝 鮮戦争でII冊 まででた ところで頓挫 したと,末 松保和氏

の記述にもとづき,さ きにあげた拙稿 「日本人与 《実録》」で しる した。 この戦後韓国版 を,す く

なくともわたくしは実見 したことがなかったが,こ の度,ス タンフォー ド大学図書館東アジア部

(かつてのフーヴァー研究所東アジア部コレクション)で 目にすることができた。それは,表 題

を 「朝鮮実録」とし,第1冊 「太祖康献大王実録」は1946年4月 に刊行 され,ス タンフォー ドには

第12冊(1947年2月)ま で所蔵されている。出版社は朝鮮正音社,刊 行委員の名があげられてお り,

崔嘆海,韓 吉洙,洪 以燮,李 泰永の4氏。

この ように,戦 後まもなく刊行 された韓国版は12冊 まででてお り,1947年 の12冊 で出版 中止に

至った とすれば,朝 鮮戦争は50年 に勃発 したので,事 業中断の原因を朝鮮戦争とす ることはでき

ない。なおカ リフォルニア大学バークレー校東アジア図書館には,戦 後,三 井文庫か ら売却 され

た京城帝国大学版 「李朝実録」1揃 があるが,和 田清氏は,「 聞くところによれば,今 度米軍が京

城を占領すると,忽 ち 【京城帝国大学版 「李朝実録」】一.-s部を手に入れて,ワ シン トンの議院図書

館に送ったといふ」[前 掲,和 田清;批 評 と紹介:普 及版 「李朝実録」の刊行」,84頁)と 書かれ

ている。

そこで,今 回,米 国議会図書館に,は た して京城帝国大学版 「李朝実録」が保管されているか,

確認することとした。同館では,現 在,東 アジア関係文献も完全にオンライン 目録化がお こなわ

れている。 ところが,こ のよ うな場合,検 索がむずか しいことが判明 した,っ ま り,日 本植 民地

下の朝鮮において,京 城帝国大学が発行所 とな り,し か も内容は漢文である訳で,は た してデー

ターが どのように入力 されているかとい う問題である。結局,わ たくしの帰国後にKoreanSection

から調査結果 をいただいたが,該 当する文献は所蔵 されていないとのことである。 ともあれ,京

城帝国大学版 「李朝実録」30部の うち,ほ とんどは日本国内と朝鮮半島にあり,ほ かに台湾 に2部,

中国に2~3部 程度が保管 され,そ れ以外の地域では,カ リフォルニア大学バークレー校に1部,と

い うことになろ う。[前 掲拙稿,「稲葉岩吉の旧蔵書を追 って」を参照されたい]

さて,朝 鮮王朝最後の二代の国王 というか,皇 帝とい うべきか,そ の実録,「 高宗実録」お よび

厂純宗実録」は,京 城帝大版 「李朝実録」にはもちろんふ くまれず ,い ずれ も日本 による朝鮮 統

治のもとで,李 王職長官であづた篠田治策を責任者・として,1930年4月 か ら編纂が開始 され,35年3

月に終了 した。末松保和氏は,

【当該両実録は】昭和十年の頃に編纂印刷 を終えていたが,編 纂主脳部の人々に各一部 を頒

つたのみで,他 はみな李王職の蔵書閣に秘蔵され,一 切,外 部には公布 されなかつた。わ た

くしども,当 時の京城帝国大学関係者 といえども,お おやけにこれをみることは出来 なか つ

た[末 松保和 「書評:(李 朝)高 宗実録 ・純宗実録」『朝鮮学報』第17輯(昭 和35年10月) ,192

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頁]。

と回顧 してお られるが,李 王職長官から京城帝国大学総長を歴任 したのち 日本へ戻 り,戦 後まも

な く亡くなった篠 田のもとに残 された,「高宗実録」と 「純宗実録」各一揃が,ほ かの篠田蔵書お

よび文書とともに,ス タンフォー ド大学フーヴァー研究所によって取得 された。

戦後,末 松氏は学習院大学に奉職 して,東 洋文化研究所を主宰 し,京 城帝国大学版 「李朝実録」

をもとに,洋 装復刻版 を刊行 されていたが,1955年,フ ー ヴァー研究所よ り前記二朝実録のマイ

クロ ・フィルムを入手 した と書かれているので,こ の時点では,日 本国内の図書館 ・研究機関等

には,実 物が保管 されていなかったようだ。もっとも,戦 前の在東京 ・李王家,あ るいは宮内省

などへは,当 然の ことながら送られていたと推測される。

さて,朝 鮮戦争の勃発 によ り,ソ ウルに侵攻 した北朝鮮軍は,「 高宗実録」,「純宗実録」各1種

と,お そ らくは,李 王職蔵書閣に保管 されていた,赤 裳山本 「李朝実録」を捕獲 したとお もわれ

る。ただ し高宗と純宗の実録にっいては不完本であったが,こ れをもとに,1960年,北 京 ・科学

出版社か ら朝鮮科学院 ・中国科学院合作によって 「高宗実録 ・純宗実録」影印本,全10冊 が,ほ

ぼ学習院版 「李朝実録」 とおな じ体裁で出版 された。一方,学 習院大学東洋文化研究所は,や が

て 「純宗実録」を入手 した。そ して,フ ー ヴァー研究所所蔵 「高宗実録」のマイ クロ,学 習院所

蔵 「純宗実録」原本,8冊 をもとに,学=習 院版 「李朝実録」シ リーズの第53~56冊 として影印がお

こなわれ,1967年 に完成 した。[『学習院東洋文化研究所朝鮮史関係所蔵図書 目録』(1975年),15

頁,お よび同 目録所載,末 松保和 「学習院東洋文化研究所 と普及版李朝実録と学東叢書と」,74頁,

を参照コもっとも,学 習院版 「李朝実録」末尾の末松氏解題では,「 学習院版李朝実録の第五十三

~五十六冊の両実録は,ア メリカのスタンフォー ド大学のフー ヴァー研究所所蔵景印本のマイク

ロフィルムに據 り」[『李朝実録』第五十六冊(学 習院大学東洋文化研究所,昭 和42年),2頁]と

あ り,末 松氏 自身の記述が混乱 している。

ともあれ,さ きに引用 した,末 松保和氏の一文のなかに,高 宗 ・純宗両実録が 「編纂主脳部の

人々に各一部を頒 ったのみで」 とあることに注 目しなければな らない。学習院大学東洋文化研究

所が購入 したのは 「純宗実録」だけであったが,当 然に原所蔵者のもとには 「高宗実録」もあっ

た と想像 される。 さて昨年秋,機 会があって天理図書館を訪問 した。 目的のひとつは,同 館にお

ける朝鮮史料類の分類方針を見学するためであった。とい うのも,ゆ えあって,勤 務先の研究所

が朝鮮王朝時代の古文書 を収集 しはじめていて,整 理をおこな うにあたって,参 考とさせていた

だ こうとお もったか らである。残念ながら,天 理図書館では,朝 鮮史料類は十分に整理 されてい

なかったが,ふ と目録をめくると,「高宗太皇帝実録 第9-48巻 」 とあり,請 求 してみると,ま

こうことなき,フ ー ヴァー研究所蔵本 とおな じ 「高宗実録」の一部であり,40冊5帙 あ り,昭 和33

年12月 に当時の天理教真柱であった中山正善氏から寄贈され,翌 年5月 に登録 されている。のみな

らず天理図書館は 「高宗実録」の欠けている部分,お よび 「純宗実録」をマイクロ ・フィルムか

ら焼きつけ,製 本 して所蔵 していることも判明 した。ただし,天 理図書館所蔵不完本 塙 宗実録」

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と学習院大学東洋文化研究所保管 「純宗実録」が,同 一の原所蔵者の もとか ら,そ れぞれ流出し

たのかは,い まとなってはあきらかではない。

ちなみに天理図書館 では,当 該 「高宗実録 第9・48巻」 について 「影印本」としていること,

また末松氏 も上掲のよ うに 「フーヴァー研究所所蔵景印本」と書いてお られ ることについては,

若干の追記が必要である。そもそも高宗以前の歴代朝鮮王朝国王の実録は,金 属活字 ・木活字併

用で印刷 され たが,さ きにふれたように,お もに太白山史庫本をもとに,1932年,京 城帝国大学

は"影 印本"を 刊行 した。一方,高 宗 ・純宗両実録に関 しては,末 松氏は,「 両実録は,本 文の決

定するに従って浄書 して正本 とした。正本の縮刷景印本を作成公布 しようとした。景印はすでに

完了 したが,公 布 にはいた らなかった」(前掲 『李朝実録』第五十六冊,2頁)と しるす。た しか

に,"影 印本"と い う点では,京 城帝大版 「李朝実録」も,ス タンフォー ド大学,天 理大学,学 習

院大学な どに所蔵 され る高宗 ・純宗両実録 もおな じである。 しかし,お のず と,そ の意味はこと

なる。ちなみに,韓 国での高宗 ・純宗両実録の影印本に解題を寄せた,国 史編纂委員会の窪永禧

氏によると,「 正副本 と影写本四十部」が李王職図書館に保管 されたとする。[『高宗 ・純宗実録

上』(ソ ウル=探 求堂,1970年),3頁]し かも,こ の戦後韓国影印版の底本は,韓 国教会史研究所

とい う,す くな くとも朝鮮史研究者ではない筆者にとっては聞きなれない機関が所蔵する 「影写

本」である。では,か つて李王職蔵書閣に保管されていた 「正副浄書本」,そ して 「編纂主脳部の

人々に各一部を頒つた」あ との残 りの 「影印本」,す なわち 「影写本」は,現 在,韓 国内で どの程

度,保 存されているのだろうか。

7.フ ィラデル フィア に残 る清朝 王府 と清朝 関係展 覧会 につ い て

さて,ニ ュ ー ヨー ク の公 共 図 書 館 で 目賭 した 「満 洲実 録 」 影 印 本 か ら,朝 鮮 王 朝 の 「高 宗 ・純

宗 実 録 」 へ と,お 話 しが す っ か り逸 れ て しま っ た 。 今回 の 訪 米 で は,い ま だ訪 れ た こ と が な い と

こ ろ に,一 箇 所 く らい は 寄 ろ うとお もい た ち,ニ ュ ー ヨ ー クか ら ワ シ ン トンへ は 鉄 道 で 行 き,道

中,フ ィラ デ ル フ ィア で 下 車 した。 同 地 の 美 術館(PhiiadelphiaMuseumofArt)は,全 米 五 大 美 術 館

の ひ とつ に あ げ られ る ほ どの 規模 と収 蔵 品 を誇 る。 東洋 部 に つ い て 驚 くべ き は,日 本,中 国,イ

ン ドと,現 地 か ら建 築 遺 構 を そ の ま ま 運 び,室 内 に 復 元 して い る こ とで あ る 。 そ の 第226室 は,

"ReceptionHallfromthePalaccofDukeZhao(塑)"と あ る が,銅 板 プ レー トに は,"Chlnese

PalaceHallfromChaoKungFu:Peiping-ReignofT'ienCh'i-1621・1627-giventothePhilade童phia

MuseumofArtbyEdwardRobinette"と し る され て い た。 詳 しい説 明 に よ る と,1600年 代 は じめ に

建 て られ,宦 官WangCheng-enの 所 有 とな り,清 代 にDukeZhaoの 屋 敷 と な っ た と あ る 。

日本 に お い て は,い ま で も根 津 美 術 館 や 大 倉 集 古 館,東 大 東 洋 文 化 研 究 所 な ど で は,清 朝府 第

か らも た ら され た の で あ ろ う,石 製 獅 子 が 飾 られ て お り,あ る い は 写 真 で み る と,昔 日 の 内藤 湖

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南 ・恭 仁 山 荘 に も置 か れ て い た。 現 在 で は多 少,高 級 な 中 華 料 理 店 の入 口 に は,必 ず とい っ て い

い ほ ど,イ ミテ ー シ ョ ン の 獅 子 が 鎮座 して い る。 た だ 日本 人 の 収 集 活 動 は,せ いぜ い,石 の 唐 獅

子 を も っ て く る の が 限 界 で あ っ て,ま さか 王 府 一 棟 を運 ぼ うな ど と い う発 想 自体 が な か っ た 。 米

国 人 の 気 宇 壮 大 な る こ と,か く の ご と し。 つ い で な が ら,同 室 内 に 展 示 され て い る 清 朝 ガ ラ ス器

は,MajorGeneralWilliamCrozierが,1944年 に 寄 贈 した もの だ が,ImperialCollectionに 由 来 す る

とい う。

と こ ろ で,台 北 故 宮 が 主 催 した 「十 八 世紀 的 中 国 與 世 界 学 術 研 討 会 」 に 参 加 した こ とは 前 述 し

た が,こ れ は,《 乾 隆 皇 帝 の 文 化 大業 》 と い う特 別 展 覧 会 に ち なむ もの で あ り,け だ し一 見 の価 値

が あ っ た。 そ の 図 録,『 乾 隆 皇 帝 的文 化 大 業 』(台 北:国 立 故 宮 博 物 院,民 国91年),303頁 は,わ

れ ら が 友 人,馮 明 珠 女 史 が 主 編 をつ と め られ た も の で,き わ め て 見 事 な も の で あ る 。 この シ ン ポ

ジ ウ ム の 折,FrecrGalleryofArtandAnherM.Sack!erGalleryで,AssociateCuratorofChineseArtの

任 に あ る,JanStuart女 史 とお 会 い した 。 ス チ ュア ー ト女 史 は,プ リン ス トン大 学院 出 身 で,し た

が っ て シ ン ポ ジ ウム に お な じ く参 加 され て い た 傅 申教 授 の 弟 子 で あ る 。 そ して,ワ シ ン トンへ 至

り,サ ック ラー 美 術 館 に同 女 史 をお 訪 ね した。

ス チ ュア ー ト女 史 は,前 記 会 議 で は,"lnformaiMusingsonaPortraitofCh'ien-lungintheFreer

GaSleryofArt"な る報 告 を され た が,こ れ は2000年 に,ブ リア ー 美 術 館 が ロ ン ドンの 古 美 術 商 か ら

購 入 した,"thcCh'ieng-lungEmperorasaManifestationofManjuSrT,theBQdhisattvaofWisdom"と 英

訳 され る画 像,っ ま り乾 隆 帝 を文 殊 菩 薩 の 化 身 と して え が く,タ ン カ 様 式 の 絵 画 を 考 察 した 研 究

で あ る。 さ っそ く,プ リア ー 美 術 館 の 収蔵 庫 に御 案 内 くだ さ り,当 該 タ ン カ をみ せ て い た だ い た。

"EmperorasaBodhisattva"と は,そ の 昔 し,UCLAに お られ た 故DavidFarquhar博 士 が,Harvard

JournaiofAsiaticStudies誌 上 で と りあ げた テ ー マ で,論 文 が で て ほ どな く,フ ァー ク ゥアー 先 生

か ら抜 刷 が 届 き,興 味 ふ か く読 んだ 記 憶 が あ る。 の み な らず,ご く最 近,米 国 人研 究 者 那,こ の

テ ー マ で 単 著 を だ され て い る こ とも,旅 行 中,立 ち 寄 っ た 本 屋 で 発 見 した 。 わ た く し 自身 も,本

の 挿 絵 と して,も と も と承 徳 避 暑 山荘 外 八 廟 のひ とつ,普 寧 寺 に 由 来 し,現 在 は 北 京 の 故 宮 博 物

院 に 所 蔵 され る,同 一 モ チ ー フ の画 像 を使 用 した こ とが あ る。そ の 意 味 で は,非 常 に個 人 的 に も,

関 心 を もっ 絵 で あ る。

こ の よ うな,い うなれ ば 「乾 隆帝 文 殊 菩 薩 化 身 像 」 や,「 紫 光 閣 功 臣 像 」 な どに つ い て,そ の 表

情 の ヨ ー ロ ッパ 型 写 実 風 筆 致 か ら,顔 の 部 分 は ジ ェ ス イ ッ ト系 ヨ ー ロ ッパ 人 画 家 が え が い た との

解 釈 が あ る よ うだ が,当 時 に お いて は,い ず れ の 場 合 で も"工 房"で つ く られ て い た ゆ え,ヨ ー

ロ ッパ 人 画 家 の 指 導 が あ っ た と して も,あ え て,か れ らの 手 に な る と断 定 す る根 拠 は な い こ と,

さ ら に 乾 隆 帝 にっ い て は,お そ らく は本 人 の 実 像 に ちか く え が か れ て い る とお もわ れ る が,「 紫 光

閣 功 臣 像 」 の場 合 は,容 貌 が 一 定の パ ター ン 化 され て い る 可 能 性 も あ り,し た が っ て 当該 人 物,

そ の ま ま の,あ る い は雰 囲 気 を伝 え る 肖像 画 とは 即 断 で き な い,と ド素 人 の 勝 手 な 見 解 を,ス チ

ュ ア ー ト女 史 に 披 瀝 し,わ が満 族史 研 究 会 の"学 威(?)"を しめ して き た。

な お ス チ ュ ア ー ト女 史 は,EvelynS,Rawski博 士 と と もに,

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MorshipingtheAncestor'ChineseCo〃zmemorativePortraits(WashingtonD.C.:theFreerGalleryof

ArtandtheArtherM.SacklerGallery,2001),216p.

を 出 版 され て い る が,こ れ は 同 名 の 特 別 展 覧 会 の カ タ ロ グ で,こ の 展 覧 を み の が した こ と は,ま

さ に 慙 愧 の 念 に た え な い と こ ろ で あ っ たが,ち か くほ ぼ 同 規 模 で 巡 回 す る との こ と。 サ ッ ク ラー

美 術 館 の ミュ ー ゼ ァ ム ・シ ョ ップ で は,上 記 展 覧 会 に 際 して 作 製 され た記 念 グ ッズ が 販 売 され て

い た。 この 種 の もの に 対 す る,米 国 人 の嗜 好 が 反 映 され て い て 面 白か っ た。

8.「 塔青阿本蒙古源流 」 の再 出現

訪問の順序は前後するが,ニ ューヨークへ赴 くまえ,ボ ス トンに短時間ではあったが滞在 して,

ハー ヴァー ド大学へ立 ち寄 った。ハー ヴァー ド大学東アジア言語文明学科の内陸アジア担当教員

ポス トには,フ レッチャー教授が亡くなって以降,"tenure"ラ ンクの教員がおらず,わ たくしが訪

れた ときは,ボ ッソン博士が教えていた。大分まえから教員人事選考がおこなわれていたが,紆

余曲折ののち,結 果的には,本 会 とも関わりのある,NicoladiCosmo氏 はプ リンス トン大学高等

研究所 を選び,MarkEIIiott氏 がハーヴァー ドにおける内陸アジア研究のポス トを,本 年秋か ら担

当することとなった。 この ことが,ひ としきり台北の学会では話題 となっていた。 ともあれ,本

会 とも御縁 のある人物によって,ア メ リカで満洲語 を解 し,満 洲語資料をも利用す る清 史研究が

さらに発展することは喜ば しい。もっとも,東 京発のウィルスが,米 国清史学界に蔓延 しつつあ

るとの感(?)を な しとしない。

さて,数 年まえに,江 夏由樹氏主宰の科研報告書へ,

「盛京宮殿 旧蔵 「漢文旧档」と 「喀喇沁本蒙古源流」一史料の再検証一」『平成9年 度~平成H

年度科学研究費補助金研究成果報告書:近 代中国東北における社会経済構造の変容一一 経済

統計資料,並 びに,歴 史文書史料からの分析一 』(平 成12年3月),92-110頁 。

なる一文 を寄せた。これは,1905年 に内藤湖南が奉天(盛 京)の 宮殿で発見 して,青 焼 き写真に

とり日本へ将来 した,清 朝初期の漢文史料である 「漢文 旧档」と,藤 岡勝二の研究で知 られ る,

特異なモンゴル年代記,「 喀喇沁本蒙古源流」を中心として,戦 前期中国東北における,史 料をめ

ぐる諸相を考察 したものである。実は,中 国で,こ れらの史料 をめぐるインフォーメー シ ョンと

解釈がきわめて正確 さを欠 くこともあり,漢 語で内容を紹介す る必要性を感 じていた。 丁度,陳

捷先教授の古稀記念論文集への寄稿を依頼 されたので,改 訂 ・加筆 してお送 りした。それ が,こ

の度,

「《盛京宮殿舊藏漢文旧档》和所謂 「喀喇沁本蒙古源流」」,馮 明珠主編 『文獻與史學:恭 賀陳

捷i先教授七十崎壽論文集』(台 北:遠 流出版事業股价有限公司,2002年7月),414-432頁 。

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と して刊行された。なお,上 記論文集へは,饅 本か らは細谷 良夫,赤 嶺守 ・張維真夫妻,上 里賢

一一の諸氏,「台湾 ・大陸」の清朝史関係者としては,荘 吉発,陳 龍貴,馮 明珠,馮 爾康,葉 高樹,

頼恵敏,そ して韓国より黄元九氏などが論考を寄せている。

ところで,当 該論文の後半部分で考察した,「喀喇沁本蒙古源流丿 に関 しては.藤 岡が研究の対

象としたのは,正 確にいえば,「喀喇沁右旗王府本"蒙 古源流"類 本の汪国鈞再書写 ・漢語対訳本」

とで もい うべきものであり,そ の原本はモンゴル語のみで書かれてお り,ま た原形 とい うか原鈔

本の内容について も,汪 国鈞以外 の人物が記述 を残 していないこともあって,な んともいえない

ことを指摘 した。そ して,も うひ とつの 「喀喇沁本蒙古源流」 といわれ る,戦 前の東京にあった

善隣協会蒙古研究所所蔵 の,服 部四郎が 「塔青阿本蒙古源流」 と呼ぶ鈔本について,「ハ ラチン中

旗王府にあったものではな く,原 本は包維翰の蔵書で,友 人である小林 【高四郎】の要請によ り,

ハ ラチン中旗の北京王府に勤務す るタチンガが,北 京において書写 したもの」で,「包維翰所蔵塔

青阿書写蒙古源流」と名づけるべ き,と 書いた(拙 稿,日 本語版,107頁;漢 語版,431頁)。

拙稿当該項目の末尾では,

ともあれ正体はわか らないが,「喀喇沁本蒙古源流」の原本や包維翰が所蔵 していた 「蒙古源

流jが,い っか中国の学者により再発見されることを期待 したい。また戦前は東京にあった

「塔青阿書写蒙古源流」もどうなったか,だ れ も知らない。 ときとして蒙古研究所の蔵書印

を押 した文献を9に することがある。いつか邂逅することを夢みている(同 上,日 本語版,107

頁;漢 語版,432頁)。

とむ す ん だ 。 こ の よ うに 書 い た の も,頭 の 片 隅 に,ど こか で 「塔 青 阿 本 蒙 古 源 流 」 と い っ た 内 容

の も の をみ た 気 が す る と い う,お ぼ ろげ な 記 憶 が あ った か らで あ る。

そ し て,こ の 度,ハ ー ヴ ァー ド大 学 燕京 研 究所 漢 和 図 書 館 で,f塔 青 阿 本 蒙 古 源 流 」 と再 会 し,

わ た く しの か す か な 記 噫 が,間 違 い で な か っ た こ と を確 認 した。 同 鈔 本 は,漢 語 で 帙 の 背 に 「蒙

文 蒙 古源 流,喀 喇 沁 本,塔 青 阿 寫本 」と書 き,帙 お よび 題 箋 に は,モ ン ゴル 語 で,"Mongγoluγsuγatan-u

船 γur-unbieig"と 書 名 を あ げ る。 第一 葉 冒 頭 に は,"Mongγoluγsuγatan-uuγ 奪aγur",とタ イ トル を し

るす が,「 財 団 法 人 善 隣 協 会 蔵 書 之印」 とい う朱 の蔵 書 印 が 押 され て い る。 文 末 に は,抄 者 名 を,

"QaraCindumdaduqusiγ 軽n。ujasaγwang-unneyislel。dUsaγuqufU-d加 §abita6ingγayosulabai"と しる し,

抄 写 完 了 の 日付 を"Dumdatuaradulus-unqorinyurbaduyaron-uk6kenoqaiji団nqaburunterigUn

sarayinarbantabm-abi萌ategUskebe"と す るが,こ こに}ま 「塔 青 阿 印 」 と い う朱 印 が 押 され て い る。 形

状 は29×16cm.1帙 上 ・下2冊 に分 かれ,上 冊 は1~73葉 ま で,下 冊 は74~163葉 ま で,ボ ー ル ペ ン

で 葉 数 が 書 き込 まれ て い る 。 各 半葉9行 。

か くて,ま こ う こ とな く,ハ ー ヴァ ー ド大 学 燕京 研 究 所 漢 和 図 書 館 が 所 蔵 す る 「塔 青 阿 本 蒙 古

源 流 」 は,か っ て 善 隣 協 会 蒙 古 研 究 所 に あ っ た鈔 本 で あ り,同 図 書 館 へ は,1951年10月4日 に 受入

れ られ て い る 。 た だ,こ の 「塔 青阿 本 蒙 古 源 流 」 は,民 国 二 十 三 年 正 月 十 五 日 に,写 し終 わ っ た

訳 で あ り,こ の 種 の 「蒙 古 源 流 」鈔 本 の な か で は,ま った くの 新 鈔 本 とい え る 。 む しろ 包 維 翰 が

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所蔵 していた原本が,い ま,ど こにあるかに興味をひかれる。 ともあれマイクロ ・フィルムの作

成 を頼み,届 いたところなので,い ずれ機会があったならば調べてみたい。余談だが,民 国23年,

っまり1934年 の時点でも,「 中華民国」のモンゴル語表記を,"Dumdatu鯉ulus"と していること

へも注 目した。

もともと汪国鈞の 「内蒙古紀聞」を再発見 したことか ら,「喀喇沁本蒙古源流」へ と辿 りついた

のであった。しかも 「塔青阿本蒙古源流」の作成には,小 林高四郎先生もふか く関与されている。

生前,交 流は短い年月ではあったが,色 々と励ま しのお言葉をかけて くだ さった,小 林先生のお

導きかともおもわれた。なお,燕 京研究所では,「正紅満奏本」と題 された,3帙119件 か らなる,

正紅旗文書を主体 とした,満 文を中心とする档案もみた。犬も歩けば棒にあたる,中 見も彷徨え

ば史料にであ うとい うところか。

(東京外国語大学アジア ・アフリカ言語文化研究所)

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